山鹿素行
「國體」といふ概念の萌芽は「國學」に由來する。この國學とは、江戸時代前期の國學の祖とされる下河邊長流や契沖が、儒學、蘭學、佛教などに囚はれない『萬葉集』の學問的解釋研究に始まり、國學の四大人(しうし。荷田春滿、賀茂眞淵、本居宣長、平田篤胤)によつてさらに展開された學問體系である。そして、ここにおける中心概念である國體とは、言語的には、「國の體質」に由來し、「國幹(國柄)」(くにから)と同義である。それは、萬世一系の皇統と「やまとことのは」の言語體系を核として構成された我が國固有の惟神の道、古代精神と歴史、傳統から抽出される祭祀、政治、産業、經濟、宗教、道德、規範、武道、學問、藝術、技術、民俗、生活樣式などのこれまで歴史的事實として累積されてきた文化の總體(これを「文化國體」といふ。)を意味することになる。
そして、後述するとほり、國體といふ概念の中には、この文化國體の中で、とりわけ規範性を有するものを「規範國體」と名付けるとすれば、文化國體と規範國體とは、存在と當爲の關係にある。すなはち、「事實」の領域に屬する「文化」といふ存在(Sein)の側面(文化國體)と、「規範」の領域に屬する「古道(ふるみち)」といふ當爲(Sollen)の側面(規範國體)とがあつて、兩者は、等價値的な對極事象にあるのである。
この區別の意義と詳細については後に述べるとして、平易に云へば、文化國體とは、それを失へば日本が日本ではなくなるもの、何があつても守り通さねばならないもの、つまり、皇室、言語、祭祀、歴史、傳統、傳承、道德、氣質、民俗などで織りなされた時空間の廣がりを持つ文化總體のことである。水平の同心圓の中心を上下垂直に貫かれた一本の基軸がある構造を想念したとき、その水平の同心圓は現世空間であり、上下は過去から現在、未來へと續く時間であり、當今(今上天皇)はその同心圓の中心と基軸との交點にあり、基軸とは萬世一系の皇統を意味することになる。
しかし、これらの有樣を學問として詳細に究明したところで、これらを護持する方途を講じなければ全く畫餠に歸する。これを護持するには、平和裡に祭祀、行事や儀式などが不斷に續けられることは勿論である。しかし、それだけで實現できることが望ましいものの、歴史的に見れば決してさうではなく、樣々な紆餘曲折があり、ときには謀略や武力を行使してでも不斷の努力を積み上げなければ實現しえないのである。
國體は學者だけでは守れない。國體護持の志を持つた者の血と汗によつて守られるのである。吉田松陰、西郷隆盛、松平容保は言ふに及ばず、「今上樣の御心をやすめたてまつらんとの事、御案内の通り朝廷というものハ國よりも父母よりも大事にせんならんというハきまりものなり。」(文獻286)といふ手紙の主である坂本龍馬も、坂本龍馬と共に受難し「大君の大御心をやすめんと思ふ心は神ぞ知るらむ」との辭世を遺した中岡愼太郎もまた然りである。いづれも「大義、親を滅す」(左傳)と悟つて國體護持に身命を賭した先哲である。
これは、いふまでもなく「尊皇の志」であつて、連合國軍最高司令官總司令部(General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers 以下「GHQ/SCAP」又は單に「GHQ」といふ。)の軍事占領統治下で『大日本帝國憲法』(以下「帝國憲法」といふ。資料十二)を改正して成立したとする『日本國憲法』(以下「占領憲法」といふ。資料三十二)での象徴天皇制(傀儡天皇制)が豫定する名門家系への「敬愛の念」とは全く異なる。この相違は、身命を賭して國體と皇統を護持奉ることができるか否かにある。
この國體護持運動は、江戸期以降における國學などの隆盛もさることながら、山鹿素行の『中朝事實』(文獻3)に始まると云つても過言ではない。山鹿素行は、儒學者であり、かつ、山鹿流軍學の創始者として有名ではあるが、古學(原典主義)の開祖として、『聖教要録』を著して朱子學批判をしたことから幕府の怒りを買つて播州赤穗藩へ配流され、その謫居中に著したのが寛文九年(1669+660)に完成した『中朝事實』である。これは、我が國の古代史を論じたもので、神道と皇統の正統性、普遍性及び世界性が力強く説かれたものである。これは、契沖の『萬葉代匠記』が著された約二十年前のことであり、これが國學發祥の契機となつたと云つても過言でない(文獻3、14、85、245)。
赤穗事件の概要
この山鹿素行と赤穗事件とは切つても切れないものがある(文獻237、238、239、245、246)。元祿十四年(1701+660)三月十四日、敕使、院使の江戸下向の折、その饗應役の赤穗藩主・淺野内匠頭長矩が江戸城松之廊下(實際は表白書院大廊下)において高家筆頭(肝煎)吉良上野介義央(よしなか)に對し刃傷に及び、その結果、淺野内匠頭は即日切腹、赤穗淺野家斷絶となるも、吉良上野介には一切お咎めなしとの將軍德川綱吉の裁斷が下つた。その後、赤穗淺野家城代家老大石内蔵助良雄(よしたか)ら赤穗淺野家舊臣ら(以下「赤穗舊臣」といふ。)は、赤穗城を無血開城し、赤穗淺野家の再興に盡力するも叶はず、遂に、元祿十五年(1702+660)十二月十四日、吉良邸に討入つて吉良上野介を討ち果たし、亡君淺野内匠頭の遺恨を晴らした。これが、世に云ふ「赤穗事件」である。
赤穗舊臣が吉良邸討入りの際に掲げた『淺野内匠頭家來口上』によれば、淺野内匠頭の刃傷を「喧嘩」と斷定し、ものゝふのみち(士道)と喧嘩兩成敗の在り方を滿天下に問ひつゝも、幕府の政道及び幕藩體制そのものをあからさまに批判しなかつた。しかし、幕府は、庶民の喝采と幕閣の嘆願に驚愕して、赤穗舊臣を罪人として打ち首とはせずに、からうじて武士として處遇し切腹をさせたものの、よすがの人々を罪人として扱ひ、その遺族や末裔に對しても慘い仕打ちを與へた。
ところが、この、亡君の仇討ちに似せた巧妙でしたゝかな口上による義擧は、幕府はおろか、江戸のみならず全國の士農工商あらゆる階層に大きな衝撃を與へ、この事件は、歌舞伎の假名手本忠臣蔵など、演劇、文藝、繪畫など樣々な分野にわたり、今もなほあらゆる方面において長く語りつがれてゐる。
王覇の辨へ
では、なぜ、それほどまでにこの事件は日本人の心を捉へて離さず、我々の魂をゆさぶつて心身を熱くさせるのか。從來、これについて多くの檢討と解説が試みられたが、いづれも納得がいくものはなかつた。そこで、ここでは、今まであまり語られてゐなかつた視點から、この事件の實像に迫つてみたい。
それは、先づ、「皇道」と「士道」といふ視點である。そこで、その手掛かりを見出すために、「楠木正成」と「眞田幸村」とを比較してみる。兩者とも、その忠義の有り樣が至純である點で同じであるが、忠義の對象を異にする。これを水戸の國學で云ふ「王覇の辨へ(わうはのわきまへ)」により區分すると、各々の忠義の道は、王者(天皇)への忠義と覇者(武家)への忠義に分類される。ここにいふ「王覇の辨へ」とは、皇室の傳統的な統治理念であつて、この原型は、『古事記』(文獻32)、『日本書紀』(文獻45、51)にある寶鏡奉齋の御神敕に見られる。『古事記』上卷によれば、「詔者、此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉。次思金神者、取持前事爲政。(みことのりたまひしく、「これのかがみは、もはらわがみたまとして、わがまへをいつくがごといつきまつれ。つぎにおもひかねのかみは、まえのことをとりみもちて、まつりごとせよ」とのりたまひき。)」とあり、天照大神の御靈代(みたましろ)、依代(よりしろ)である三種の神器の一つである「寶鏡」の「奉齋」と、これに基づく思金神(おもひかねのかみ)の「爲政」、つまり、「齋」(王道)と「政」(覇道)との辨別がある。つまり、天皇(總命、スメラミコト、オホキミ)の「王者」としての「權威」(大御稜威)に基づく「覇者」への委任により、覇者がその「權力」によつて統治する王覇辨立の原則である。これは、天皇の親裁による政治(親政)ではない「天皇不親政の原則」でもあるが、あくまでも原則であつて、國家の變局時には例外的に「天皇親政(天皇親裁)」に復歸する點において、「統治すれども親裁せず」の原則であつて、「君臨すれども統治せず」といふものとは本質的に異なる。
我が國の立憲君主制の理解についても、「君臨すれども統治せず」の原則であるとする見解が多いが、これは歴史を知らない者の謬説であり、我が國は「統治すれども親裁せず」の原則によるものなのである。
そもそも、「君臨すれども統治せず」といふのは、英國の王室と議會との確執から生まれた制度であり、ジェームズ二世の末娘であつた英國女王アンの死亡に起因したものである。女王アンには直系の子がなく、弟はカトリックであることから、議會はプロテスタントの親戚を捜し、イギリス王ジェームズ一世の孫であるドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージ一世を英國王室の後繼者としてイギリス國王に迎へた。しかし、ジョージ一世は、ドイツ生まれのドイツ育ちの五十五歳であつたことから英語が殆ど解らず、國民には沈黙によつて威嚴を示して接したものの、英語を勉強する氣もなく、議會に出席しても審議内容が全く理解できず、そのうち議會に出席することもなくなつたことから、君臨すれども統治せずといふ慣行が確立したのである。つまり、これによつて「傀儡王政」が確立したことを示す言葉として、この「君臨すれども統治せず」が生まれたのである。
しかし、これは我が國とは全く異なる。帝國憲法第四條には、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ」とあり、同第五十五條第一項に、「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ」とあることから、「天皇は、統治權を總攬せらるるも、各般の政務を一々親裁せらるるものに非ず。」(清水澄)と解される。これは、親裁されないものの、總攬の態樣として拒否權の行使が憲法上も認められるといふことである。天皇は元首として君臨されてゐることは勿論のこと、内閣のなす政務に對して拒否權を行使され、あるいは不行使の御聖斷を以て「總攬」され、一旦緩急有れば、親裁(親政)が復活するといふ性質のものである。いふならば、この「王覇の辨へ」とは、君臨かつ統治するものの特段の事情がない限り一々個別に親裁されない、つまり「統治すれども親裁せず」の原則であると換言できる。
しかして、「統治すれども親裁せず」の原則は、帝國憲法の本質であつて、天皇には拒否權があり、緊急時には例外的に親裁されるといふ立憲主義に基づくものであるのに對して、「君臨すれども統治せず」の原則といふのは、拒否権も例外的な親裁權も全てが否定される英國流の傀儡主義であり、帝國憲法には適用のないものとして明確に區別されることになる。
皇道と士道
ともあれ、權威と權力、王者と覇者、王道(皇道)と覇道とを區分し、天皇を前者、武家を後者とする天皇不親政の原理である王覇の辨へ(二重皇權)の論理で捉へれば、楠木正成は、尊皇の道、すなはち「皇道」であり、眞田幸村は、武士の道、すなはち「士道(武士道)」である。この分類であれば、赤穗舊臣は、眞田幸村と同じ士道であり、決して、楠木正成の皇道と同じではない。
思ふに、「皇道は公道なり。士道は私道なり。」とは至言である。したがつて、士道は、國家變革を起すだけの起爆劑とはなりえず、皇道のみがその役割を果たすことは、明治維新などを見ても明らかである。それゆゑ、この二つの道は全く異なる。皇道に反する士道もありうるからである。しかし、ともに「死ぬことと見つけたり」(山本常朝)とする身の處し方と至誠において一致するので、士道は、皇道の相似象、つまり「雛形」(ひひなから)としての性質と役割を果たしてきたのである。
ところが、眞田幸村と赤穗舊臣とは、ともに士道でありながら、その評價が著しく異なるのはどうしてなのか。さらに言ふならば、眞田幸村は、豐臣家の家臣であり、豐臣家の家臣として戰ひ、そして散つていつたのに對し、赤穗舊臣は、あくまで赤穗淺野家の舊臣であつて、舊臣として義擧し、舊臣として果てた。眞田幸村とは異なり、赤穗舊臣の場合は、「主君なき士道」であつて、士道の本道とはいへない。
また、吉良上野介を打ち果たせなかつたといふ亡君の無念を赤穗舊臣の立場で晴らしたまでであつて、いはゆる仇討ちとか、意趣返しといふものでもない。斬りつけられたのは吉良上野介の方だからである。淺野内匠頭が切腹となり、赤穗淺野家が取り潰され、その赤穗舊臣が流浪に身を置かざるを得なくなつたのは、幕府の裁斷によるものであり、吉良上野介の仕業ではない。その意味では、赤穗舊臣全員を切腹させるべきであるとした荻生徂徠の見識のとほりである。
この裁斷に異議を唱へるならば、大鹽平八郎のやうに、幕府に弓を引かなければならなくなる。亡君が仕へた武家の宗家(棟梁)に弓を引くことは、幕藩體制における武士としての大義名分が成り立たない。幕府の政道を糺すための義擧といふのは、士道からは導けない。士道の自己矛盾となるからである。しかし、赤穗舊臣の身となつたとはいへども亡君への忠義と節操を貫き、何としてでも亡君の無念を晴らしたい。このやうに、二律背反の相克に陷つた場合、士道は武士に何を求めるか。それは諫死である。士道は、公憤の義擧を否定し、私憤の領域である諫死によつて公憤を示すことを求める。つまり、赤穗城明け渡しに際して、亡君の後を追つて一同切腹して果てることが本來の武士の姿である。このことは、後世になつて、長州藩の山鹿流軍學を引き繼いだ吉田松陰も、鍋島藩に傳はる『葉隱(聞書)』(文獻294)を著した山本常朝もこれを指摘するところではあるが、赤穗舊臣は、それをせずに、吉良上野介に矛先を變へた。かといつて、これは義擧ではあるが、幕府の政道を直接的に糺すといふ公憤の名目ではなく、仇討ちに似た私憤の名目を掲げてゐる。これは、どうも、本來の士道ではない。したがつて、純粹に士道の觀點だけからすれば、眞田幸村の方が赤穗舊臣よりも高い評價が與へられて然るべきである。
しかし、赤穗舊臣の示した忠義の方が眞田幸村の忠義よりも、どういふわけか現代に至るまで根強く我々に感動を與へ續けるのは、この赤穗事件には、士道だけでは説明のつかない何かがあるからである。おそらく、赤穗事件の深層に、士道を超えた、日本人の思考と行動における本質的な何かが宿つてゐるためであらう。
それは、赤穗舊臣は、「士道」の名の下に、隱された「皇道」に殉じた側面が存在したからに他ならない。そして、我々は、無意識のうちに、あるいは民族本能的に、この事件の背後に隱されてゐる皇道の實踐を感得して熱狂し續けるのであらう。
では、一體、その皇道とは、どのやうなものであらうか。何があつたといふのであらうか。
赤穗事件の背景
吉良家は高家の肝煎(筆頭)であり、その高家の役割とは、表向きは有職故實に精通して皇室と德川宗家(幕府)との橋渡しを司ることにあつたが、その實は、幕府の使者として、皇室・皇族を監視し、幕府の意のままに皇室を支配することにあつた。
すなはち、幕府による皇室不敬の所業は嚴酷を極め、元和元年(1615+660)、『禁中竝公家諸法度』により、行幸禁止、拜謁禁止を斷行した。つまり、世俗な表現を用ゐるならば、幕府は、天皇を京都御所から一歩も出させず、公家以外は誰にも會はせないといふ軟禁状態に置いたといふことである。これは、たとへば、諸大名が參勤交代の途中に、京都の天皇に拜謁する慣例を認めるとなれば、それがいづれは討幕の火種となることを幕府は恐れたからに他ならない。
現に、寛政六年(1794+660)、光格天皇により、尊皇討幕の綸旨が、四民平等、天朝御直の民に下されるまで約百八十年の歳月を要し、文久三年(1863+660)に孝明天皇による攘夷祈願行幸がなされて行幸が復活するまで、約二百五十年の長きにわたつて幕府の皇室輕視は續いたのである。
ところで、後水尾天皇(慶長十六年1611+660~寛永六年1629+660)は、幕府が言ひ掛かりとして仕掛けた、德川秀忠の子和子の入内問題、宮廷風紀問題、紫衣事件などに抵抗され、中宮和子による家光の乳母・齋藤福に「春日局」の局號を與へたことに抗議して退位された。
そして、明正天皇(和子の子、興子内親王、七歳)が即位されることになるが、その陰には吉良家などの高家の暗躍があり、その他の女官の皇子(親王)は悉く堕胎や殺害されたと傳へられてゐる。以後は、後水尾上皇が院政を行はれて幕府と對峙され、その後の後光明天皇、後西天皇、靈元天皇はいづれも後水尾上皇の皇子(親王)であつた。
承應三年(1654+660)には、後西天皇が即位されたが、それと前後して、國内では、突風、豪雪、大火、凶作、飢饉、大地震、暴風雨、津波、火山噴火、堤防決壞など異常氣象による自然災害や、何者かの放火とみられる伊勢神宮内宮の火災、京都御所の火災(萬治四年1661+660)などの大きな人爲災害が次々と起こつた。そこで、幕府(四代將軍家綱)は、これに藉口し、これらの凶變の原因は後西天皇の不行跡、帝德の不足にあるとして退位を迫つたのである。その手順と隱謀を仕組んだのは、高家筆頭の吉良若狹守義冬、吉良上野介義央の父子である。
そして、これらの凶變のうち、少なくとも京都御所の火災は、幕府側(高家側)の放火によるとの説が有力である。
一方、赤穗淺野家は尊皇篤志が極めて深い家柄であり、吉良家などの高家とは完全に對極の立場にあつた。幕府は、討幕の火種となりうる尊皇派勢力を排除することが政權安泰の要諦であることを歴史から學んでゐる。そこで、製鹽事業で藩財政が豐かである赤穗淺野家などの尊皇派大名の財力を削ぐことを目的として、京都御所の放火を企て、あるいはその火災を奇貨として、禁裏造營の助役(資金と人夫の供出)に淺野内匠頭長直(長矩の祖父)を任じたのである。これにより、赤穗淺野家は、その後莫大な資金投入を餘儀なくされるが、これを尊皇實踐の名譽と受け止め、赤穗城の天守閣を建てられないほど藩財政が著しく逼迫することも厭はず、見事なまでに禁裏造營の大任を果たすのである。
しかし、御所落成を機に、寛文三年(1663+660)、後西天皇は遂に退位され、靈元天皇が即位された。幕府は、その際、『禁裏御所御定八箇條』を定め、皇室に對し、見ざる言はざる聞かざるの政策をさらに徹底することになる。そして、この『禁裏御所御定八箇條』の發案は、まさに吉良上野介によるものであつた。
赤穗事件の眞相
淺野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ原因は、いろいろと取り沙汰されてゐるが、淺野内匠頭は、「この間の遺恨、覺えたるか」と告げて吉良上野介に刃傷に及んでゐることから、遺恨説が有力とされてゐる。
この遺恨については、赤穗の製鹽販賣事業と競爭關係にある吉良家から鹽の販賣に關して妨害行爲を受けてゐたといふ事業對立を理由とする説もあるが、もし、單なる事業の損得勘定からくるものであれば、元も子も失ふやうな刃傷に及ぶはずがない。それゆゑ、この遺恨は、私憤ではなく公憤である。前に述べたやうな、尊皇派の赤穗淺野家と高家筆頭の吉良家との積年の確執が存在し、これがこの事件の遠因となつてゐることは否定できない。
山鹿素行の薫陶を受け、尊皇の志篤い淺野内匠頭長矩が、劇作で語られるやうな、子供のイジメにも似た他愛もない吉良上野介の仕打ちに、家名斷絶を覺悟してまで逆上して刃傷に及ぶといふ亂心説や事業對立説などで説明できるものではない。
また、吉良上野介も、赤穗淺野家の背後に朝廷の存在を意識したことは確實である。敕使、院使も、尊皇篤志の淺野内匠頭が饗應役を務めることだけで安堵され滿足されたことであらう。それを吉良上野介は手に取るやうに感じてゐた。まさに、この刃傷事件が、敕使、院使の江戸下向の際に起こつたことを考へ併せれば、淺野内匠頭が隱忍しえない將軍家竝びに吉良上野介の皇室に對する度重なる不敬の所業があつたはずである。それゆゑ、この刃傷事件は、「朝敵」吉良上野介に「天誅」を加へて成敗するための義擧であり、淺野内匠頭は、その本意が漏れてこれにより朝廷へ禍ひが及ぶことを避け、刃傷に及んだ原因を一言も語らず、しかもきつぱりと「亂心にあらず」とし、宿意と遺恨をもつて刃傷に及んだと辯明をするのみで、その内容を申し開きせず黙つて切腹した淺野内匠頭長矩は、まことにあつぱれな天朝御直の民であり、皇道の實踐者であつた。しかし、その死は、朝敵吉良上野介を討ち果たせなかつた無念の死であり、その辭世の句として傳はる「かぜさそふ はなよりもなほ われはまた はるのなごりを いかにとやせん」は、信念を背負つて黙つて散つた男の凄さを物語つてゐる。
駄洒落を云ふつもりではないが、假名手本忠臣蔵などの演劇や映畫などをこのやうな思ひで見てゐると、淺野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ場面で、梶川與惣兵衞が「殿中でござる」と制止する言葉は、「天誅でござる」との淺野内匠頭の心の叫びに聞こえてならないのである。
いづれにせよ、この刃傷が公憤によるものであつたことを裏付ける理由として、先づ第一に擧げられるのは、前掲の『淺野内匠頭家來口上』には、「高家御歴々へ對し家來ども鬱憤をはさみ候段」(原文は漢文調)とあるからである。吉良家は高家肝煎(筆頭)であり、他にも高家はある。淺野内匠頭の吉良上野介に對する私憤を晴らすのであれば、「吉良上野介殿へ對し」とすればよい。吉良上野介個人に對する私憤は、家門としての吉良家に對する私憤とはならない。ましてや、吉良家以外の高家とは何の私憤もないはずである。にもかかはらず、「高家御歴々へ對」する「鬱憤」とすることは、高家御歴々への公憤であることを示してゐるからである。『淺野内匠頭家來口上』は、四十七士の血判署名のある、いはば、義士たちの命の叫びであり、これに嘘僞りがあるはずはない。
第二に、刃傷事件から間もない三月十九日、京都御所の東山天皇の下に、刃傷事件の第一報が屆けられたが、この時點では吉良上野介の生死については不明であるにもかかはらず、關白近衞基熈によれば、東山天皇は「御喜悦の旨仰せ下し了んぬ」(『基熈公記』)といふご樣子であり、その後、公家の東園基量は、「吉良死門に赴かず、淺野内匠頭存念を達せず、不便々々」と語つてゐることから、皇室の高家に對する評價がどのやうなものであつたかがうかがはれる。
また、第三に、これらのことが皇室で長く語り繼がれ、明治天皇は、明治元年(1868+660)十一月五日、「朕深ク嘉賞ス」との御敕書を泉岳寺に命達されてゐる。したがつて、この刃傷事件やその後の討入り事件が單なる私憤によるものではありえないことを意味してゐる。
ところで、大石内蔵助は、討入りの準備において、わざわざ京都山科に家屋敷を取得するのであるが、これについては、なぜ京都山科の地が選ばれたのかについて納得のいく説明に未だかつて接しない。しかし、これには深い意味がある。この家屋敷の取得については、大石内蔵助の親族である進藤源四郎の世話によることは明らかであつて、この進藤源四郎とは、近衞家諸大夫の進藤筑後守のことであり、大石内蔵助は、この進藤源四郎を通じて、關白・近衞基熈との接觸してゐたはずである。また、山科は、朝廷の御料であり、大石内蔵助は、山科の御民となつて朝廷にお仕へし、皇道を貫く決意の現はれであつたとみるべきである。
大石家やその他赤穗淺野家の主だつた家臣もまた、尊皇の家柄であり、山鹿素行が淺野長直の招聘で祿千石の客分として赤穗藩江戸屋敷で十年間にわたり藩士に講義を行ひ、堀部彌兵衞、吉田忠三衞門などが門人となつたことは有名な話である。前にも述べたが、山鹿素行は、『聖教要録』において官學朱子學を否定し、それが反幕府思想であるとされた筆禍により、寛文六年(1666+660)に赤穗へ配流の處分を受けた。江戸幕府が、朱子學以外の學問を講義することを禁止した寛政異學の禁(1790+660)を斷行した時よりも百二十四年前の事件である。しかし、赤穗藩は、これを天惠として素行を受入れ、大石内蔵助も八歳から十六歳までの間、素行の薫陶を受けてゐる。
そのやうな大石内蔵助が、山科を據點として關白・近衞基熈とその側近に接觸し、幕府や吉良家などに關する情報を收集して、江戸での情報收集人脈を密かに築いて行つたことは想像に難くない。現に、元祿十五年(1702+660)十二月十四日、討入決行の契機となつた吉良邸で茶會が行はれるといふ情報は、吉良邸に出入りしてゐる茶人の山田宗徧の弟子である中島五郎作からもたらされたが、この中島五郎作と京都伏見稻荷神社の神職である羽倉齋(後の荷田春滿)とはいづれも知己であり、吉良家家老の松原多仲は羽倉齋の國學の弟子といふ關係であつた。
このやうな人脈から、用意周到に情報を收集して討入りを決行したのであつて、決して芝居や映畫のやうに、江戸に入つてから泥繩式で偶然に得られた情報ではありえない。吉良邸の茶會は、討入りを成功させるために、むしろこれらの人々の協力によつて催されたものと推測できる餘地もある。このやうに、討入りの計畫は、現代でも通じるやうな綿密な情報收集と巧妙な情報操作による情報戰爭の樣相を呈してゐたのである。
皇道忠臣蔵
以上は、史料を基礎として若干の論理的推測を加へて構成したものであるが、當たらずといへども遠からずであらう。
さうであれば、幕府が、刃傷事件により赤穗淺野家を斷絶させたうへ、吉良家をお咎めなしとし、その後、赤穗淺野家の度重なるお家再興の願ひも聞き屆けなかつたのは、單なる幕府の片手落ちではなく、尊皇派の排除を實現し、かつその復興を阻止するとともに、佐幕派の保護といふ一石三鳥の深謀と受け止めることもできる。そして、幕府が赤穗舊臣の討入りを眞劍に阻止せず放任し、むしろこれを暗に奬勵したのは、赤穗舊臣の義擧が皇道を旗印にすることなく、士道を名目とする以上、幕藩體制を支へる士道倫理の強化をもたらすと考へたとしても不思議ではない。喧嘩兩成敗を事後に實現して公正さを維持するためには、吉良家を斷絶させることになるが、高家は吉良家だけではなく、皇室に餘りにも憎まれ續けた吉良家はその役割を既に果たしてゐるから無用の存在となつてゐた。幕府は、唐突に起こつた刃傷事件と討ち入り事件を巧みに利用して、尊皇派を封じ込め、返す刀で幕藩體制を強固にしたといふこともできる。
このやうに、この事件とその背景には、樣々な權謀術數が渦卷いてゐる事情があるとしても、赤穗尊皇派からみれば、「消えざるものはただ誠」(三上卓作詞「青年日本の歌(昭和維新の歌)」の一節。文獻324)で貫かれてゐる。
それゆゑ、この事件を、淺野内匠頭の刃傷から大石内蔵助ら赤穗舊臣が吉良邸討入りまでの一年八箇月だけの「元祿赤穗事件」として限定的に捉へてはならない。そのやうに捉へてしまふと、討入りによつて變則的な士道を實踐しただけの矮小化した物語になつてしまふ。したがつて、少なくとも、この事件は、萬治四年の京都御所の火災から元祿十五年の吉良邸討入りまでの約四十年の間、赤穗淺野家とその家臣らが代々一丸となって皇道を貫き、身を殺して仁を成したといふ一連の長い物語として新たな解釋がなされるべきである。
そして、士道が皇道の雛形であり、この事件には、士道の名の下に皇道を實踐したといふ側面があることを認識すれば、この事件を、「皇道忠臣蔵」と言つても過言ではない。「忠臣蔵」の「蔵」は、内蔵助の蔵を意味するので、これをもつと廣く赤穗藩全體の皇道を指し示す意味の言葉を用ゐるのであれば、これを「赤穗藩の尊皇運動」と呼んでも差し支へない。
また、明智光秀が主君織田信長を討つたのは士道に悖るものである。しかし、織田信長は、正親町天皇に蘭麝待の切り取りを奏請したり、讓位を奏上したりして朝廷を輕視し、早晩朝廷の廢止を目論んでゐた形跡があり、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によれば、本能寺の變(天正十年六月二日)の直近において、織田信長が自己の生誕日である五月十八日を「天主節」とし總見寺に信長の化身とする石塊を御神體として祀り、萬人に禮拜させたといふ傲慢不遜の國體破壊者であつたことは明らかである。もし、光秀がこれを誅伐し、その企てを阻止するために謀反を起こしたとすれば、それも皇道の實踐であつたことになるのであつて、その意味でも本能寺の變を再評價しなければならないのである。
「歴史とは、文字によつて描かれた物語なのであり、文字によつて掬ひ取ることができた限りにおいて歴史であり、人間の思想なのである。」(村上兵衞)とすれば、私は、この赤穗事件などを尊皇物語として改めて捉へ直してみてもよいのではないかと考へてゐる(文獻246)。
中朝事實
ともあれ、この赤穗事件により山鹿素行の『中朝事實』は、國體護持の實踐力が付與され、以後、これが伏流水となり、幕末へ向かつて、さらに、昭和へ向かつて流れ出る。
まづ最初に流れ出たのが、寶暦八、九年(1758+660、1759+660)の寶暦事件とそれに引き續く明和三年(1766+660)の明和事件である。山崎闇齋の垂加神道の系譜に連なる竹内式部、山縣大弐、それに赤穗藩の遺臣の子であつた藤井右門らは、皇權の回復を幕府に迫つた。しかし、幕府は、この二つの事件を通じて、尊皇論者の大彈壓を行ひ、藤井右門ら三十餘名を處刑したのである。これは、後に尊皇攘夷派を彈壓した安政五年(1858+660)の「安政の大獄」に勝るとも劣らない大彈壓事件であつた。また、この安政の大獄で處刑された吉田松陰は、長州藩の山鹿流軍學師範であり、その志と思想は『中朝事實』によつて培はれたものである。
ともかく、安政の大獄では、多くの尊皇攘夷派が彈壓されたが、中でも最大の打撃を受けたのは水戸藩である。しかも、その人的損失もさることながら、最も大きな精神的痛手を受けたのは水戸學であつた。水戸學は、尊皇思想による大義名分論に基づいて、それまでは尊皇攘夷運動の指導的役割を果たしたものの、水戸藩が德川御三家でありながら安政の大獄で處分されたことから御三家の「名分」を損ねる結果となつたため、水戸藩としてはこれまで通りの尊皇攘夷運動はできなくなつた。そこで、「大義」と「名分」とを兩立させるためには、水戸藩の藩士によることなく、脱藩浪士による運動しかない。そして、櫻田門外の變、東禪寺事件、坂下門外の變を起こし、遂には、隱忍自重の藩士の憤懣が爆發して藩内が分裂し、天狗黨の亂(筑波山事件)が起きた。しかし、もし、水戸藩が御三家といふ「名分」を捨てれば、尊皇攘夷運動は、尊皇倒幕運動へと容易に轉換できたのであるが、やはり大義名分論の水戸學では限界があり、天狗黨の亂は、その最後の暴發であり、天狗黨を率ゐた藤田小四郎は、「かねてより思ひ初めにし眞心をけふ大君に告げて嬉しき」といふ壮絶な尊皇の辭世を遺した。しかし、結果的には、櫻田門外の變と坂下門外の變といふ二つの政治テロを實質的には御三家の水戸藩が行つたことから幕府の權威は完全に失墜し、「攘夷」が「倒幕」へと結果的には時代の大轉換がなされたのである。
『中朝事實』は、明治維新を經て明治期までは伏流水となつてゐたが、これが大正期に再び地表へ現れる。それは、乃木希典によつてである。乃木希典は、吉田松陰亡き後の松下村塾最後の塾生であり、皇道の實踐者として明治天皇に殉死された。その殉死の直前、學習院長の立場として昭和天皇(當時は皇太子)に『中朝事實』を贈られたのである。乃木希典は、昭和天皇がその後に大きく歐米への憧憬へと傾斜されて行くことを豫期して強く懸念し、この傾向を食ひ止めるための箴言が『中朝事實』であつた。
大正元年九月十六日の「萬朝報」には、乃木希典が裕仁親王殿下に『中朝事實』を獻上された折の消息を次のとほり傳へてゐる。
「去る十日東宮裕仁親王殿下陸海軍少尉に御任官あられられたる時なりき。故乃木大將は午前十時頃東宮御所に參候し(略)大將は親しく拜謁し先づ御任官の御祝ひを言上して後深く思ひ入つたる樣子にて『今日は御任官のお喜びを言上する爲のみならず、小官の微意をも少し申上げ度くて參上せり。特に小官は今回コンノート殿下の御接伴を命ぜられて當分御殿にまゐる事もなかるべければ猶更此際殿下の御將來につきて申上げたし』とて懷中より『中朝事實』と云ふ一書を出して恭しく殿下に獻上し極めて低き音調にて『他日殿下が一天萬乘の尊貴に立たせ給ふべき時の御參考ともなるべきもの、此書中に多きを信じて要所要所には小官自ら朱點を加へてあれば呉れ呉れも御精讀御玩味を請ひまゐらすなり。殿下今は御幼少にておはせば、文中或は御難解の所もあらせらるべきも、其折は近侍の人々に御下問を賜り、御説明仰せつけらるゝも宜しかるべし。殿下は陸海軍の將校として今後實地の御學問もあらせらるべきも、其他にも皇太子として更に必要の御學問もあり』との旨を言上し、語々沈痛を極めて次第に情の迫れるが如く(下略)」(文獻3)
といふ樣相にて暇乞ひがなされた。そして、その三日後の九月十三日、明治天皇大葬の夕に、「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり」との辭世を詠んで、乃木夫妻は、明治天皇に殉死する形で、昭和天皇に向けて諫死された。つまり、『中朝事實』は、乃木希典の諫死上奏文であつた。これが乃木希典殉死の隱された眞相である。
いづれにせよ、『中朝事實』は、尊皇運動において重要な歴史的意義を有するが、これだけで尊皇運動の系譜を語ることが亂暴な議論であることは承知してゐる。しかし、尊皇思想とその實踐は、國學だけから導かれるものではなく、山鹿素行のみならず古學へと傾倒した儒學者である伊藤仁齋、荻生徂徠らの思想、垂加神道を創始した山崎闇齋らの思想などからも同時多發的に出たものであつて、さながら「一口に出づるが如し」であつた。しかし、中でも山鹿素行の『中朝事實』がこれらの魁としてその象徴的な歴史的意義と思想を有してゐたことだけは確かであつた。
クーデター
これまで述べてきたとほり、國體と皇統の護持については、平和裡に實現できることが望ましいものの、古くは和氣清麻呂や楠木正成などの例にあるやうに、緊急時においては謀略や實力を行使してでも實現しなければならないことがある。
歴史的に見て、謀略又は實力の行使がなされた政治の刷新又はその企ては、必ずしも國體護持の方向でなされる場合に限らない。皇位簒奪など國體破壞の方向でなされることもあつた。
特に、政治中樞における謀略又は實力の行使による政治の刷新は、我が國において、大化の改新(乙巳の變)、壬申の亂、建武の中興、本能寺の變、明治維新、明治六年の政變、明治十四年の政變といふ成功例以外は全て失敗例である。磐井の亂、長屋王の變、橘奈良麻呂の變、藤原仲麻呂の亂、承平・天慶の亂、保元・平治の亂、承久の變、正中の變、元弘の亂、應永の亂、永享の亂、嘉吉の亂、慶安の變(由井正雪の亂)、大鹽平八郎の亂、大和五條の變・十津川の變(天誅組の變)、生野の變、禁門の變(蛤御門の變)、脱走奇兵諸隊の叛亂、二卿事件、佐賀の亂、敬神黨の亂(神風連の亂)、秋月の亂、萩の亂、西南戰爭、秋田事件、福島事件、高田事件、群馬事件、名古屋事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、靜岡事件、三・一獨立運動、霧社事件、三月事件、十月事件、五・一五事件、神兵隊事件、十一月事件(士官學校事件)、二・二六事件、八・一四事件(宮城事件)、三無事件、三島事件など、最後まで目的を遂げられなかつた失敗例は枚擧に遑がない。
これら政治の刷新とその企てについては、クーデター、維新、政變、事件、戰爭、亂、變、革命など樣々な名稱や概念が用ゐられる。この中で、革命といふ用語は、支那(支那領域及びその領域で盛衰する國家を總稱)において統治者の姓が易はること、すなはち新たに王朝が興ることを「易姓革命」としたことに由來するとすれば、それ以外の概念は、これとは異なるものとして、これらを「クーデター」と總稱することができる。
ただし、この中で、特に、我が國において、政治の刷新の方向が國體に回歸する方向である場合を「維新」と定義すると、これまでに擧げたものの多くが「維新」であつたことが解る。維新とは、神敕成就の一點にあり、萬古萬民が天皇に歸一する天業を意味した。
ともあれ、これらのクーデターとして總稱されたものについて、支配階級の一部がすでに握つてゐるその權力をさらに強化するために、あるいは新たに政權を得るために、同一階級内の他の部分に向かつて、非合法的、武力手段によつて奇襲すること、すなはち、同一階級内の權力移動(急襲的權力把握)であると定義すると、一階級から他階級への權力移動である「革命」と區別することができるが、クーデターを廣義の革命ととらへたり、クーデターを上(權力者)からの變革、革命を下(人民)からの變革ととらへたりする考へもある。奇襲とか急襲といふ概念もまた相對的なものであり、瞬時になされるものから、通常の豫想される變革からして比較的短期間でなされるものをも含むことになるので、その變革の所要時間を絶對的基準で限定できるものでもない。
また、クーデターの進むべき方向についても、新たに權力を創設(奪取)するもの(創設的クーデター)と、既に奪はれた權力を復元(回復)するもの(復元的クーデター)とがあり、これは、革命の進むべき方向における「正革命」と「反革命」に對應することになる。
このやうに、クーデターの概念は、それ自體が明確に定まらない上に、急襲的に把握した權力の内容とその歸趨は、その時代と法體系などの要素などにより千差萬別であるから、これをクーデターといふ一つの概念として嚴密に定義付けることの實益は乏しい。ただし、江戸時代における百姓一揆と呼ばれる農民闘爭、打ち壞しや幕末のええぢやないか運動などの大衆的狂亂については、その多くが政治體制の轉覆などの政治目的を有してゐないことが多いと思はれるので、革命とかクーデターの分類からは除外することになる。
敬神黨の亂
ともあれ、維新運動には樣々な特徴があるが、中でも特に注目すべきものとしては、敬神黨の亂(神風連の亂)と二・二六事件、それに三島事件がある。
二・二六事件は、帝都で起こつた最大のクーデターであり、「功業」すなはち國家改造の可能性を祕めながら、それを追ひ求め續けた點において明治維新と比肩され、三島事件は、國家改造に捧げる「忠義」の實踐として諫死したといふ點に敬神黨の亂に似たおもむきがある。そして、三島由紀夫と森田必勝は、この敬神黨の亂を戰後の昭和に蘇らせて市ヶ谷に散つた。「七生報国 天皇陛下万才」と房壁に記して自決した山口二矢などもその系譜にある。悠久の大義に生きたのである。
吉田松陰は、「其の分かれる所は、僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積もり」(文獻9)として弟子たちと義絶したが、これが「功業」と「忠義」の違ひである。松陰が太陰太陽暦で安政六年十月二十七日に處刑された祥月命日の昭和四十五年十月二十七日(太陽暦の十一月二十五日)に三島由起夫らが自決の日として選んだのは、その搖るぎない信念を示してゐる。
では、三島事件の源流とも云へる敬神黨の亂、俗に神風連の亂と呼ばれる事件はどのやうなものであつたか、その概要を以下に述べてみたい(文獻63、95、115、299)。
本居宣長、高本紫溟(しめい)、長瀬眞幸(まさき)の國學を受け繼ぐ林櫻園の薫陶を受けた太田黑伴雄(おほたぐろともを)、加屋霽堅(かやはるかた)が率ゐる敬神黨は、敬神、尊皇、攘夷を基軸とし、帶刀總髪を固守してきた。しかし、明治九年三月二十八日に廢刀令、同年六月二十六日に熊本縣に斷髪令が出たことから、それまでの盟約に基づき、太田黑が宇氣比(うけひ)を行つて神慮を受け、その決起の時は十月二十四日の月の入りを合圖にすることとなり、同日の月の入りに擧兵した。政府は、明治維新後急速に歐米化を推進する。そのため、憂國の至情から、日本古來の傳統や文化の崩壞を憂慮して、攘夷論者を取り締まるために置かれた鎭臺の一つである熊本鎭臺などの官軍の據點を敬神黨百七十名が攻撃したが、多くの戰死者、自刃者を出して一夜にして滅んだ。しかし、豫め盟約してゐた宮崎車之助と前原一誠とが、これに呼應して秋月の亂、萩の亂を決起することになる。これが敬神黨の亂であり、これを揶揄して世にいふ神風連の亂である。
慶應三年十月十四日の大政奉還、そして、神武創業の理念を掲げて祭政一致を目指した同年十二月九日の王政復古の大號令、慶應四年三月二十八日の神佛分離令(神佛判然令)、さらに、明治二年七月八日の神祇官の設置、明治三年一月三日の大教宣布の詔までのころは、確かに敬神黨が望む方向であつたに違ひない。
そのころ、敬神黨が師事する林櫻園は、藩主を通じて朝廷の招聘により熊本を出發して東上する。明治二年七月のことである。これに敬神黨の太田黑伴雄、井戸勘兵衞等が随伴した。この林櫻園の東上は、敬神黨の絶頂期であり、確かに榮譽には違ひないが、これには開國派の深謀遠慮があつたと疑はざるをえない。といふよりも、既にその時點で時代は大きく水面下で動いてゐたのである。
明治三年正月七日に林櫻園は有栖川宮に拜謁が叶ひ、有栖川宮も林櫻園を大いに嘉賞された。その後、同年四月二十四日に林櫻園は東京を出發し、後事之儀を井戸勘兵衞と太田黑伴雄(大野鐵兵衞)に寄託するとの書状を青木彦兵衞を通じて岩倉具視に屆けて、一行は歸途に着き、途中、伊勢參拜を經て同年六月四日に熊本に歸着した。すると、敬神黨は「浦島太郎」になつてゐた。熊本藩政は、富國強兵、殖産興業による「文明開化」といふ傳統文化の破壞をもたらす歐米化を推進する橫井小楠が率ゐる實學黨が實權を掌握し、敬神黨にはその身の置き所がなかつた。直ちに、敬神黨は擧兵を計畫し、佐久間象山を暗殺した河上彦齋も參加して井戸勘兵衞(その後年月日不詳に自殺)が藤崎宮で神慮の宇氣比(うけひ)を行つたが、擧兵不可と出たためやむなく中止することになつた。林櫻園と敬神黨は、「攘夷か開國か」の二者擇一から、幕府のなした開國を明治政府が受け繼いだとしても、それは「將來の攘夷のための開國」へと方針轉換しただけにすぎなかつたはずが、次第に「攘夷の心を捨てた開國」へと變節し、開國を積極的に受け入れて傳統が壞されて行く流れに忸怩たる思ひを抱いてゐたのである。林櫻園は、東上の際にも、このまま開國を續ければ尊皇敬神の傳統は朽ち果てることを強調し、今からでも直ちに斷交し、それによつて諸外國が攻めて來ても、我が國は敵を内部に引き入れてゲリラ戰で對抗すれば、必ずや勝利し獨立を保持できる旨を説いてゐたのである。つまり、これは、當時の自給自足體制による國力の強みがあり、侵略軍には海上經由による兵站の限界があることから、侵略軍が持久戦に耐えることができないために我が國が必ず勝利できると説いたのである。これは、元寇のときも同じ状況であり、まことに卓越した見解であつた。しかし、この卓見を政府は理解し得なかつたのである。
ところで、宇氣比が不可と出たこの時以降、さらに敬神黨の望まない方向へと一氣呵成に動き出す。まづ、その心柱とした林櫻園が、長い旅であつたためか、歸熊後に衰弱が著しく、遂に同年閏十月十二日に死去し、翌十一月には、河上彦齋の投獄に始まつて、加屋榮太(霽堅)、富永守國、鬼丸競、吉海良作、荘野彦七、福岡應彦ら敬神黨の主だつた面々が次々と投獄された。河上彦齋は、明治四年十二月に斬首され、「君がため死ぬるむくろに草むせば赤きこころの花や咲くらん」の辭世を遺した。その間、明治四年七月には廢藩置縣が斷行され、同年八月八日には神祇官を廢止し神祇省を設置された。實質上の神祇の格下げである。同年八月九日には「散髪脱刀勝手たるべし」の布達、同年九月一日には熊本藩校として熊本洋學校が開校し、米軍人ジェーンズ教官となりキリスト教主義による教育が開始され、明治五年三月十四日には、ついに神祇省を廢止し、式部寮、教部省を設置してその事務を移管し、その教部省を同年十月二十五日に文部省に合併してしまふ。明治五年十一月九日には、太陰太陽暦の明治五年十二月三日を新暦(太陽暦)の明治六年一月一日(元旦)とすることが發表された。
だが、その年の五月三十日に白川縣(後の熊本縣)の縣令に安岡良亮を任命され、安岡縣令は、實學黨を政權から放逐した。そして、その他の學校黨、勤王黨、敬神黨に縣政協力を要請するが、敬神黨は、文明開化の流れは變はらずとしてこれを拒絶した。安岡縣令は、おそらく、急進的な改革による敬神黨との大きな軋轢を回避して、漸進的な改革により敬神黨を懷柔する方針であつたものと思はれる。敬神黨は、それを見拔いたのである。
すると、同年十月二十四日に、いはゆる明治六年の政變が起こり、西郷隆盛が辭職し、翌二十五日には副島種臣、後藤象二郎、板垣退助、江藤新平らが次々と辭職し、明治七年二月一日には大久保利通の策略に嵌められて佐賀の亂(江藤新平、島義勇らの擧兵)が起こる。そこで、學校黨と敬神黨の主な人々は、長老住江甚兵衞の下で決起の可否を論じたが、住江は名分を説いてこれを鎭め、新開大神宮の神旨も不可と出たため、またもや擧兵を中止し、學校黨と民權黨も擧兵を中止した。同年七月になると、安岡縣令の薦めもあつて、敬神黨の多くが神職となり、縣内主要二十三社に五十六名が神官として奉仕することになるが、神職は祭祀のみを行ふものとされ、獨自の布教活動を禁じられた。敬神黨の神職封じ込めである。そのやうな情況の中で、明治八年二月、太田黑伴雄は、主な同志を新開大神宮に集め、大勢挽回の計策を議し、三策を立てて神慮を伺ふ。その一は政府要路への建白、その二は奸臣の暗殺、その三は挽回のための擧兵であつた。太田黑の精誠をこめた宇氣比の乞ひに對しする神慮は三策とも不許と出たためこれに從ひ、その場で同士たちが誓書を認め盟約を固め生死を共にすることを誓つた。
明治八年になると、神道布教の中央機關として明治五年に設置されてゐた大教院が廢止されることになつた。それは、神主佛從に對する不平と祭政一致などを批判する島地黙雷(眞宗本願寺派僧侶)らが猛反對し續けた活動が實つたといふことである。眞宗本願寺派(西本願寺)は、歴史的に見て反德川幕府の傳統があり、長州藩の庇護のもとで倒幕勢力の一翼を擔つたことから、この活動には長州閥の後押しがあつた。そして、明治九年一月三十日には、熊本洋學校生徒(橫井時雄、海老名彈正、德富蘇峰ら)が花岡山で祈祷會を開き、全員が信教を盟約し、キリスト教奉教趣意書に署名してキリスト教結社・熊本バンドを密かに結成するといふ事實が安岡縣令側に發覺し、これを契機に熊本洋學校は廢校となるが、明治九年三月二十八日には、武士の魂を捨てろとする廢刀令が出るのである。加屋は、廢刀すべかざるの論を草して安岡縣令に呈し政府への傳達を願つたが、安岡縣令がこれを拒絶したため、加屋は錦山神社祠官を直ちに辭したものの、他の同志がこれに續くのを押しとどめた。加屋は、他に考へるところがあり辭したが、皆が辭めたら神明に奉仕し神慮を安んずる者がなくなる、との理由から他の者の辭職に反對したのであつた。すると、今度は、同年五月に、安岡縣令は、學校の教員、生徒に對する散髪令を發し、同年六月二十六日には熊本縣に斷髪令が出され、ここに至つて、帶刀總髪を固守してきた敬神黨の生き樣すら許されないといふ事態に至るのである。
そして、加屋は「廢刀奏議」を草して元老院に上書諫奏する準備をなし、太田黑は一黨の首腦に擧兵の決意を打ち明け、齋戒沐浴してを伺ふと、ついに結果は可と出た。そして、來熊の宮崎車之助と會盟し、富永守國、阿部景器が宮崎車之助の先導で秋月に赴いて同志と會ひ、さらに萩に赴いて前原一誠と盟約を結ぶなど、柳川、久留米、福岡、鶴崎、島原、佐賀、豐津などの同志と連契をとつた。太田黑により宇氣比がなされ、十月二十四日の月の入りを合圖に擧兵と決まつたのである。そして、加屋が錦山神社の祠掌浦楯記に神意を伺はせると、ここでも決起を可とする神示があり、「廢刀奏議」を認めて勤王黨の長老魚住源次兵衞に託すことになる。そして、最後の軍議において、上野堅吾が近代火器を用ゐるやう主張したが、大勢は「神兵に洋風兵器は不用」と決し、古來の刀槍のみで戰ふことになる。ただし、燒打用の燒玉と石油入りの竹筒は使用し、糧食や負傷者の看護などについては、一氣に敵營を乘取つて全てを調達することに一決した。義擧においても武士としての作法を重んじたのである。
この敬神黨の亂において特徴的なことは、宇氣比(誓約、うけひ)である。林櫻園は、前に述べたとほり、東京を去るについて、青木彦兵衞を通じて岩倉具視に屆けた書状に、後事之儀を井戸勘兵衞と太田黑伴雄(大野鐵兵衞)に寄託したとされるが、この「後事之儀」とは、敬神黨においては「宇氣比」のことである。この後事において最も信賴されてゐた井戸勘兵衞がその後自殺した原因は定かではないが、この宇氣比の嚴しさと關係がないとは云へない。この宇氣比(うけひ)とは、天照大御神と速須佐之男命の、いはゆる瑞珠盟約の章に、「於是速須佐之男命答白、各宇氣比而生子。(ここにおいてはやすさのをのみことこたへまをししく、おのおのうけひてこうまむとまをしき。)」(古事記上卷)とあり、また、『日本書紀』にも、これと同じ場面において「誓約(うけひ)」(日本書紀卷第一神代上第六段)とあり、さらには、「卜問(うらとひ)」(日本書紀卷第五の崇神天皇七年の條)といふのも同義であつて、たとへば、太田黑の行つた宇氣比のやうに、擧兵の許しを庶幾ふ心を強く抱き、それを期して神前で眞摯に命がけで祈つて神示を得るための卜占を含んだ祕事のことである。
このやうに、敬神黨の擧兵には、およそ「功業」の計畫がない。いくらでもそれまでに政治的な工作や驅け引きができたのに、それを拒絶して至純無雜に貫いた。すべては神のはからひといふことである。何度か擧兵を決意したが、その都度の宇氣比による神意は否と出た。この義擧に至るまで、宇氣比による何度も擧兵を思ひとどまり、敬神黨は幾とせも耐へてきた。「益荒男が手挾む太刀の鞘鳴りに幾年耐へて今日の初霜」といふ三島由紀夫の辭世の句は、そのまま敬神黨の思ひでもあつた。
ともあれ、通常、維新とかクーデターには、吉田松陰の説いた「忠義」と「功業」の雙方を備へるものである。しかし、敬神黨の亂と三島事件などは、至純無雜な國家改造の「忠義」の實踐としての「諫死」であり、國家改造の功業といふ展望が少しもなかつたといふ意味で「義擧」といふのである。
二・二六事件
ところで、クーデターと聞けば、昭和十一年二月二十六日に起こつた二・二六事件を多くの人が想起するやうに、昭和史において、その規模と現代に至る影響力において二・二六事件は最大の事件であつた。ところが、この二・二六事件については、今まで史學の側面から、史實の探求と考察はそれなりになされてきたが、戰前においても戰後においても、二・二六事件を鎭壓するための緊急敕令の渙發と先帝陛下の御叡慮の表明が、憲法學的、國法學的に如何なる意味を有するのかといふ法律的な考察は充分になされなかつたので、以下これに言及したい。
二・二六事件の思想的支柱となつた北一輝(北輝次郎)の『國家改造案原理大綱』(大正八年八月)及び『日本改造法案大綱』(大正十二年五月)によれば(文獻33)、「天皇ハ全日本國民ト共ニ國家改造ノ根基ヲ定メンガ爲メニ天皇大權ノ發動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ兩院ヲ解散シ全國ニ戒嚴令ヲ布ク。」とあるやうに、國家改造の根據を帝國憲法が定める天皇大權に求めてゐるのである。謂はば、天皇親政のためのクーデター(立憲的政治變革)を指向するものであつて、國法學的分類に從へば、「委任的獨裁」の範疇に屬する。
この委任的獨裁といふ概念は、カール・シュミットの『獨裁論』(大正十二年)などが詳しい。これを要約すれば、「獨裁」の態樣は、獨裁權の由來に關する國法學的分類として、「委任的獨裁」と「主權的獨裁」とに區分される。「委任的獨裁」とは、國家社會主義ドイツ勞働者黨(ナチス)がドイツ・ワイマール憲法第四十八條に基づき、合法的かつ民主的に全權委任法を成立させ、一黨獨裁政權を樹立したやうに、國家緊急時において國家の本質的な現存憲法體制を擁護するため、一時的にその憲法條項を停止する獨裁形態であり、現存憲法自體の委任による、いはば「現存憲法に基づく獨裁」である。これに對し、「主權的獨裁」とは、たとへば、ソ連共産黨がプロレタリアート獨裁の前衞黨と位置づけて一黨獨裁政權を打ち立てたやうに、將來の理想的憲法を實現するために、現在の憲法秩序を制定した權力とは異なる新たな憲法制定權力を前提とする、いはば先取り的な「將來憲法に基づく獨裁」である。
このことは、政治學的分類としての、「秩序獨裁(反革命獨裁)」と「革命獨裁」との區分に概ね對應する。「秩序獨裁(反革命獨裁)」とは、現存國家體制秩序を擁護するために、主として革命運動の彈壓を目的とする獨裁であるのに對し、「革命獨裁」とは、その逆の方向として、革命運動の目的推進のための獨裁と云へる。
しかし、いづれにせよ、帝國憲法は、國家緊急時の場合にのみ天皇に委任的獨裁權としての戒嚴大權などを與へてゐるが、その緊急時といへども、憲法改正手續によらず、戒嚴大權や非常大權により憲法事項まで改正することはできないのである。また、講和大權の行使による場合以外には、憲法の停止をすることは不可能なのである。つまり、帝國憲法下では、委任的獨裁は「天皇親政」とされてゐることから、首相を指導者とした一國一黨組織は國體に反するとする見解が根強く、難産の末に成立した『國家總動員法』(昭和十三年法律第五十五號)は、ドイツの委任的獨裁でもソ連の主權的獨裁でもない、單なる戰時立法の域を出なかつた。また、この國家總動員法と連動した「大政翼贊會」構想についても、帝國憲法において帝國議會に保障された立法協贊權を剥奪するものとして、帝國憲法違反であるとの意見が強く、完全な獨裁體制にまでには至らなかつたのである。
つまり、帝國憲法は、ドイツの委任的獨裁やソ連の主權的獨裁による「全體主義法制」を立憲的に阻止しえた法制として、世界的にみても畫期的なものである。
從つて、この北一輝の國家改造思想には、帝國憲法の無理解による謬論であり、立憲的見地からして根本的な矛盾がある。それは、立憲的に認められた天皇大權に基づいて非立憲的な改造を斷行しようとした點である。形式的には委任的獨裁(秩序獨裁)であるが、實質的には主權的獨裁(革命獨裁)を斷行しようとするものなのである。しかも、憲法護持と憲法破壞(憲法否定)、絶對君主と立憲君主、革命と反革命といふ、いづれも二律背反の事項を混在させようとした思想的矛盾がみられる。このやうに、北一輝の思想は、國内社會改造案に關しては、その方法論において「天皇の意志によらない天皇親政」と「憲法の規定によらない憲法改正」を指向した大いなる自家撞着に滿ちたものであつた。北一輝は、銃殺刑執行の直前に、西田税が「天皇陛下萬歳を三唱しませうか。」と問ふたことに對して、「俺は死ぬ前には冗談は言はないよ。」と答へたといふ。北一輝の「尊皇」的言説は、所詮「冗談」であつたのである。
ともあれ、二・二六事件は、この北一輝の思想に基づき、「元老、重臣、軍閥、官僚、政黨等は此の國體破壞の元凶なり」とした『蹶起趣意書』を以て斷行されたクーデター未遂事件であると認識しうる。
ところで、二・二六事件の結末は、次の經過を辿る。
翌二月二十七日午前二時四十分、皇居にて樞密院會議が戒嚴令の施行を決定。同日午前三時五十分、「朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ樞密顧問ノ諮問ヲ經テ帝國憲法第八條第一項ニ依リ一定ノ地域ニ戒嚴令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム」との緊急敕令により、同日から叛亂軍將校が處刑された後の同年七月十八日まで帝都(東京全市)に戒嚴令が施行。同日午前八時二十分、天皇は、「戒嚴司令官ハ三宅坂付近ヲ占據シアル將校以下ヲシテ速カニ現姿勢ヲ撤シ各所屬師團長ノ隷下ニ復歸セシムヘシ」との奉敕命令を親裁された。そして、同年三月四日には、同じく緊急敕令により東京陸軍軍法會議が設置されて、この事件は封印されることとなつた。
何故さうなつたのか。
このことについての手懸かりは、本庄繁侍從武官長の日記にある(文獻48)。この日記よれば、以下のやうな同年二月二十七日の陛下に拜謁の折りの陛下と本庄との會話がある。
本庄 「彼らの行爲は陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、もとより許すべからざるものなるも、その精神に至りては君國を思ふに出でたるものにして必ずしも咎むべきにあらず」
天皇 「朕が股肱の老臣を殺戮すかくのごとき凶暴の將校等その精神においても何の恕すべきものありや」「朕が最も信賴せる老臣をことごとく倒すは眞綿にて朕が首を絞むるに等しき行爲なり」
本庄 「彼ら將校としてはかくすることが國家のためなりとの考へに發する次第なり」
天皇 「それはただ私利私欲のためにせんとするものにあらずと言ひうるのみ」
との會話がなされ、
「此の日陛下には鎭壓の手段實施の進捗せざるに焦慮あられられ『朕自ら近衞師團を率ひ、これが鎭定に當らん』と仰せられ眞に恐懼に耐へざるものあり」
とある。
そして、陛下は、「自分としては、最も信賴せる股肱たる重臣及び大將を殺害し、自分を眞綿にて首を絞むるがごとく苦惱せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。而してその行爲たるや憲法に違ひ、明治天皇の御敕諭にも悖り、國體を汚しその明徴を傷つくるものにして深くこれを憂慮す。この際十分に肅軍の實を擧げ再び失態なき樣にせざるべからず。」との御叡慮を示され、叛亂軍は、宸襟を惱まし、『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』(軍人敕諭 資料十)に背き、國體明徴を汚す者となつたのである。
輔弼と輔翼
しかし、この點について、陛下自らが御叡慮を示されることは、立憲君主制度としての帝國憲法の運營上は問題であるとする指摘がある。また、これと同樣の理由で、昭和二十年八月十四日に『ポツダム宣言』を受諾するに際しての「御聖斷」についても同樣の指摘がある。
そこで、二・二六事件においてなされた緊急敕令による戒嚴令のみならず、ポツダム宣言受諾時における「御聖斷」とその際における御叡慮の表明をも含めて、これらが國體と皇統の護持についていかなる意味を有してゐたか、その國法學的意義と帝國憲法上の位置づけを考察してみたい。
それは、陛下御自身が、二・二六事件における討伐命令と終戰の御聖斷との「二回だけは積極的に自分の考へを實行させた」(文獻177)とあることによるものである。
確かに、帝國憲法が純粹に立憲君主制の憲法であるならば、この「二回」がいづれも違憲の措置であつたとの批判は正鵠を射たものと云へる。ところが、帝國憲法には、一方においては、立憲君主制の根據となるべき規定(第四條、第五十五條、第五十六條など)が存在するものの、他方において、第五條以下に數多くの天皇大權條項を有し、專制君主制の色彩の濃いものになつてゐるのであるから、帝國憲法の本質を把握しなければ、この批判の當否を判斷できないことになる。
帝國憲法は、その規定から明らかなやうに、立憲君主制的要素と專制君主制的要素との雙方が混合されたものであるが、實際には、天皇大權に屬する事項、就中、統帥大權について、明治期までは專制君主的に、大正期以降からは、專制君主制的側面を極力制限して、立憲君主制的に運用されてきた。しかも、慣例的には、天皇不親政として、天皇は拒否權(ヴェトー)を行使できず、上奏された事項について疑問や不審の點があれば御下問を繰り返して暗に御内意を傳へることしか許されないとされ、これが天皇大權が行使されてきた實態であつて天皇大權の運用上の限界であつた。
そもそも、國務各大臣(内閣)の輔弼の制度は、本來は天皇に拒否權を認める「統治すれども親裁せず」といふ態樣の立憲君主制の意味であつたが、これを英國流の「君臨すれども統治せず」といふ、天皇に拒否權と例外的な親裁權を認めない傀儡王政態樣の立憲君主制として運用されてきた。これまでの憲法學は、天皇の親政(親裁)を認めるか否かで專制君主制と立憲君主制とを原則的に區別しても、立憲君主制には、さらに、天皇の拒否權を認めない「君臨すれども統治せず」といふ制度と、天皇に拒否權を認める「統治すれども親裁せず」かといふ制度との區別があることが認識されてゐなかつたのである。
これは、統帥權についても例外ではない。肇國以來、天皇は、躬ら大伴物部の兵(つはもの)どもを率ゐた大元帥であり、明治政府においても、明治十一年に參謀本部が設置され(『參謀本部條例』)、翌明治十二年に「天皇自ら大元帥の地位に立ち給ひ、兵馬の大權を親裁し給ふ。」との布告が出され、明治十五年一月四日には「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」との『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』(軍人敕諭 資料十)が完成してゐる。つまり、「統帥」は、主に「國務」を規律した明治二十二年の帝國憲法よりも早く完成してをり、これが統帥權の獨立といふ過度の政治的主張の根據ともなるのであるが、これにより、統帥權は、帝國憲法制定前において既に國務各大臣の「輔弼」外とされ、大元帥直屬の大本營の幕僚長である陸軍參謀本部の長官である參謀總長(陸軍)と軍令部總長(海軍、昭和八年に海軍軍令部長と改稱)が「輔翼」(帷幄上奏)することになつたゐた。そして、これは帝國憲法制定後も踏襲され、統帥權の獨立といふ憲法慣習が存在してゐたからである。
本來であれば、「統帥」は廣義の「國務」に含まれるが、この統帥權の獨立とは、「國務」から「統帥」が分離して獨立して運營されるといふ意味での「統帥の獨立」のことであつたが、それがいつの間にか、天皇による統帥の親裁を否定して統帥部が專制できるといふ「統帥部の獨立」へと變質して行つた。輔弼は、天皇大權たる統帥權を陛下親らが行使(親裁)されるための助言に過ぎず、沿革的には、あくまでも專制君主的要素を有してゐたはずである。ところが、大本營は、天皇大權である統帥權を陛下から簒奪し、「大元帥にあれども統帥せず」として、國務に關する國務大臣(内閣)の地位と同等の地位を獲得してしまつたのである。
そもそも、「君臨すれども統治せず」とか「大元帥にあれども統帥せず」とかは、論理學における排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)などからして、明らかに虚僞である。「君臨」と「統治」、「大元帥」と「統帥」とは本來は同義語であつて、その差異はない。それゆゑ、これは「統治すれど統治せず」、「統帥すれど統帥せず」といふ矛盾を述べてゐるだけで、これは大權を侵奪するためのトリックに用ゐたトートロジーの標語にすぎない。
本來は、國務(政務)と統帥のいづれについても、「統治すれども親裁せず」といふ統治原理によるものである。これは、内閣から奏上された國務について天皇が裁可するか否かといふ拒否權(裁可權)を有するといふことである。ところが、平時においては「親裁」されないことから、「君臨すれども統治せず」と同樣の運用、すなはち、天皇の拒否權と例外的親裁權が慣例的に停止されてきた。しかし、これは前述したとほり、「君臨すれども統治せず」ではなく、あくまでも「統治すれども親裁せず」といふ統治原理の運用なのである。
統帥を除く狹義の國務(政務)に關しては内閣(國務大臣)が統帥權以外の大權の委任を受け、また、統帥權に關しても、大本營といふ、統帥權の委任を受けた、いはば「統帥内閣」が大正期以後に出現した。これによつて、廣義の國務が狹義の國務である政務と統帥に分離し、その大權を委任行使する「政務内閣」と「統帥内閣」の二つの内閣が竝立することになる。これは、元老會議の終焉と時期を同じくするものであつた。そして、昭和天皇も、この「政務内閣」と「統帥内閣」の二つの内閣を承認し、政務と統帥のそれぞれの大權を實質的には機關委任されることとなつた。これは、歴史的な沿革を辿れば、鎌倉時代における政所(まんどころ)と侍所(さむらいどころ)の分離にも似てゐる。そのため、「二回だけは積極的に自分の考へを實行させた」といふ御認識になるのである。畏れ多くも先帝陛下の御叡慮を忖度いたせば、もし、明治期における帝國憲法の解釋運用のままであれば、これに加へて、「大元帥ではあつたが一度も親ら統帥しなかつた」とされたことであらう。
しかし、帝國憲法の統治原理は、天皇に拒否權のある「統治すれども親裁せず」といふ原則であるから、國家緊急時における陛下の御親裁は憲法の容認するところであり、しかも、それについては政治的無答責(第三條)が貫かれてゐるのである。
天皇機關説論爭
このやうに憲法の解釋と運用において、まづ、統帥權の憲法的な位置付けについて問題が提起されたのは、昭和五年に起こつた統帥權干犯問題であるが、この問題については後で述べるとして、その前に、その五年後の昭和十年に起こつた天皇機關説論爭について説明する。
この論爭の歴史は長く、古くは明治二十二年の穗積八束(天皇主體説)と有賀長雄(天皇機關説)の論爭に始まり、それが穗積八束と美濃部達吉、上杉愼吉と美濃部達吉の論爭へと引き繼がれた。穗積、上杉の天皇主體説(天皇主權説)は、ルイ十四世の「朕は國家なり」といふ天皇即國家の認識と同樣に、天皇の超憲法的權威を主張するものであつた。この考へであれば、本來なら帝國憲法の基本構造を絶對君主制であると主張するのが自然であるのに、さうではなかつた。あくまでも運用上は原則として立憲君主制憲法と理解し、しかもさらに進んで天皇不親政と解釋運用することを肯定するのである。
これに對し、有賀、美濃部の天皇機關説(創始者は一木喜德郎)は、天皇を國家機關であるとの主張であり、これは、ドイツの國家法人説をそのまま翻譯した何ら新味性のない、ありふれた學説であつた。
つまり、「天皇機關説」とは、ドイツの國家法人説を日本國家にそのまま適用し、國家を法人とし、天皇をその機關とする學説であり、天皇に主權があるとする穗積八束及び上杉愼吉らの「天皇主體説(天皇主權説)」と對立した。前者は、國體と政體の區分を否定した區分否定説であつたのに對し、後者は、この區分を肯定した二重區分説であつた。
ところで、天皇主體説(天皇主權説)については、「主體」と「主權」といふ概念の相違も明確に區別できないものであり、そもそも、帝國憲法のどこにも「天皇主權」なる概念はなく、フランス流の主權概念の無批判な追随理論である。帝國憲法は、第一條で「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」との統治原則を定め、それを第四條の「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」として、その統治權行使の態樣を規定する。從つて、第一條からも第四條からも、天皇主權なるものが出てくる餘地はない。
「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」(第四條)とあることから、天皇は「元首」であり「統治權の總覽者」であつて、主權者ではない。「天皇大權」と「天皇主權」とは全く異なる。祭祀大権以外の統治の「大權」は憲法によつて規律されるが、「主權」は憲法を規律するものであるからである。もし、天皇が絶對かつ無制約の主權者であれば、統治權を總攬するについて「此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」といふ制約があることも、天皇の命令大權に基づく命令は、その「命令ヲ以テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス」(第九條但書)といふ制約があつて法律の下位となつてゐることや、「凡テ法律敕令其ノ他國務ニ關ル詔敕ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス」(第五十五條第二項)として副署を法令の成立要件とする制約があることなども完全に矛盾する。ましてや、帝國議會に豫算と法律の審議權があることなどは、天皇主權を否定するものといふことになるはずである。
先帝陛下もまた「天皇主權」を否定してをられた。當時の侍從武官長であつた本庄繁陸軍大將の日記(文獻48)によれば、先帝陛下は、天皇機關説を否定することになれば憲法を改正しなければならなくなり、このやうな議論をすることこそが皇室の尊嚴を冒涜するものとあると仰せられたとある。天皇主權説は、帝國憲法を否定する學説であり、皇室の尊嚴を冒涜するものであつたのである。
昭和十二年五月に文部省が刊行した『國體の本義』(文獻8)にも、「天皇は、外國の君主と異なり、國家統治の必要上立てられた主權者でもなく、智力・德望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。」とあり、當然のことながら帝國憲法の告文にも「皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示」とあり、「祖法の確認」をしたのが帝國憲法である。これを「欽定憲法」と呼ぶが、「欽定」とは、天皇が憲法制定權力者(主權者)として創設したといふ意味ではない。「欽」とは、「つつしみかしこまる」といふ意味であり、皇祖皇宗の皇裔である明治天皇が皇祖皇宗に對して、つつしみかしこまつて遺訓を明徴して定められたといふ意味である。
ところが、穗積八束及び上杉愼吉らは、愚かにも、自らが唱へた天皇主權説により占領憲法が唱へる國民主權論の道案内をした結果を招き、後で述べるとほり、ホッブズの役割を果たしてしまつた。しかも、この天皇主權を否定してきた天皇機關説論者である美濃部達吉や宮澤俊義らは、占領憲法においては、逆に、帝國憲法が天皇主權であるとして、それが占領憲法の制定により「主權委讓」があつたとまで詭辯を弄したのである。
いづれにせよ、この天皇主權説と天皇機關説の對立は、學理的に見ても意義深いものではなかつた。天皇機關説が依據した國家法人説とは、國民主權主義と君主主權主義との對立の矛盾を契機として唱へられた折衷的な學説であり、戰後の尾高・宮澤論爭のやうな主權概念論爭に至る過渡的な見解であつた。この論爭は、學問的にも稚拙である上に、政治的には、蓑田胸喜による天皇機關説批判を嚆矢としてその運動が展開され、昭和十年二月十八日、菊地武夫が貴族院において、これを「不敬なる學説」として指彈したことから、政治的に帝國議會、軍部と内務省による自由主義者の彈壓の口實とされたため、天皇機關説の政治的完敗に終はつたのである。
法律學的見地からは、天皇主權説は帝國憲法第一條の「統治權」を「主權」とすり替へて權力的に解釋した學説であり、天皇機關説は同法第四條の「元首」の解釋から當然に導かれる學説にすぎない。この論爭は、帝國憲法が絶對君主制的色彩を殘した立憲君主制の憲法であることに起因するものであり、ある意味では宿命的論爭でもあつたが、天皇主權説が誤りであることは學理上は明確であつた。帝國憲法には、多くの天皇大權を規定してゐることからして絶對君主制的傾向が強いものとされるが、それはドイツ・プロシア憲法の立憲君主制を範としたことから、比較憲法學的に考察された憲法體系上の特徴に過ぎず、あくまでも帝國憲法が立憲君主制の憲法であることは紛れもないことであつた。
しかし、憲法學的には立憲君主制であつても、政治學的には絶對君主制に近いものと理解されたのは、明治政府の誕生の經緯からして無理からぬところがあつた。それゆゑ、この論爭に明確な決着をつけるには、帝國憲法は天皇主權を定めたものではないといふ解釋規定を追加的に改正をする必要があつたのであるが、そのやうな立法的明記を行ふことの論爭へと發展しなかつたのは、無能力な憲法學者による議論の未熟さとそれに追随する政治的環境によるものであつた。
しかも、美濃部は、「天皇超政論」を展開し、「君臨すれども統治せず」として、いづれも天皇が統治し或いは統治權の總攬者であるとする帝國憲法第一條と第四條を實質的に死文化させて解釋するのである。立憲君主制といふのは、專制君主の權限を議會がこれを制限し、あるいはその一部を委讓させてきた歐洲の歴史に由來するものであつて、その究極の形態が「君臨すれども統治せず」といふ「絶對不親政」の態樣に過ぎないものである。つまり、立憲君主制とは、「絶対君主制(專制君主制)」とは異なり、立憲的に君主の權限を制限するといふ樣々な態樣の「制限君主制」を一括りにした概念なのであつて一義的な概念ではない。從つて、專制君主的要素の強い帝國憲法を立憲君主的に解釋するとしても、「(形式的に)君臨すれども(實質的に)統治せず」といふやうや天皇不親政の意味に理解することは論理の飛躍も甚だしく、こんな強引な法解釋は學問として成り立つものではなかつた。
つまり、帝國憲法は、統治大權を規定してゐるがゆゑに、その帝國憲法の立憲的構造からすると、天皇大權の存在を否定するに等しい「君臨すれども統治せず」ではなく、せめて「統治すれども親裁せず」でなければ論理矛盾となる。帝國憲法第一條と第四條に「統治ス」とか「統治權ヲ總攬」と明記されてゐるにもかかはらず「統治セズ」とすることは帝國憲法を否定する見解に他ならないのである。占領憲法の場合であれば、第四條第一項に、「天皇は、この憲法の定める國事に關する行爲のみを行ひ、國政に關する權能を有しない。」とあることから、占領憲法の立憲的構造が「君臨すれども統治せず」といふ制度であるとするのであれば理解できるとしても、帝國憲法の立憲的構造が「君臨すれども統治せず」といふ立憲君主制であるとすることは到底認められない解釋である。
ところが、天皇主權説と天皇機關説は、兩説とも帝國憲法が「君臨すれども統治せず」の意味での天皇不親政であるといふ點において、結論的には一致してゐたのである。つまり、この論爭當事者たちの最大の矛盾は、天皇の主體性や機關性を主張しながら、實質上はその主體性や機關性を完全に否定した點にある。ただ、後に述べるとほり、兩説は、統帥權の獨立といふ點に關しては異なる見解であつたが、それ以外では、兩説とも、帝國憲法の立憲君主的運用と天皇不親政に異論はなく、天皇の地位を機關と呼ぶか否か、つまり天皇を公務員(官吏)の地位と同じ意味を有する「機關」といふ呼稱を用ひてもよいのか否かといふ心情的な皮相の對立が底流にある極めて幼稚な論爭であり、學理的には不毛の議論であつた。
本來であれば、帝國憲法において、天皇大權を定めた規定のやうに專制君主的色彩の濃い規定と、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三條)や「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(第五十五條第一項)などの立憲君主制的色彩の濃い規定とがあり、明治期においては、專制君主的な運用がなされてきたのに、その後は立憲君主的に運用し、しかも、さらに「君臨すれども統治せず」的な天皇不親政といふ解釋運用がなされて、天皇大權を實質的に剥奪してきた歴史的經緯を問題として論爭すべきものであつた。天皇が專制君主なのか立憲君主なのかといふ點だけでも極めて重大な問題であるのに、そして、假に、立憲君主であるとしても、それは内閣と議會などによつて大權行使が制限されるといふことに過ぎないのに、それを一足飛びに「君臨すれども統治せず」的な天皇不親政として拒否權(ヴェトー)も剥奪することは、帝位の簒奪にも等しい大逆であるとの認識は全くなかつたのである。まさに「天皇大權の干犯」といふ解釋改憲を共謀して行つたことになる。それゆゑ、この天皇機關説論爭なるものは、「目糞と鼻糞の論爭」とも云ふべき無學識な似非學者の奸臣どもによる單なるお遊戲であり、結果的にはこの「天皇大權の干犯」といふ解釋改憲の運用事實を隱蔽してきたことになる。
ただ、この論爭は、確かに學問的には不毛かつ有害の議論であつたが、これが政治の舞臺に登場して政治状況を一變させる。美濃部の天皇機關説が國體に反するといふ政治批判が起こり、美濃部は貴族院議員を辭し訴追を免れ、天皇機關説の政治的敗北に終つたのだが、これは、その五年前に起こつた統帥權干犯問題と密接に關係してゐた。美濃部は、統帥權について、第十一條の統帥權(作戰、用兵)については内閣の關與を否定し(帷幄上奏)、第十二條の軍の編制權については内閣の權限に入ると解釋してゐた。つまり、狹義の統帥權(第十一條)と軍の編制權(第十二條)を含んだ廣義の統帥權とを區別し、統帥權の獨立は狹義の統帥權に限るとしてゐたのである。後に述べるが、これが一知半解の美濃部の學才的限界でもあつたが、いづれにしてもこの解釋が軍首腦の怨嗟の的となつた。また、美濃部は、各政黨の頭領、軍部の首腦者、實業界の代表者、勤勞階級の代表者らを集めた「圓卓巨頭會議」で國家の根本方針を議定するといふ國家機關構想を發表したことによつて(美濃部『議會政治の檢討』)、當時の多數黨であつた政友會らが目指す「立憲主義の常道」すなはち政黨内閣制を公然と否定したことから、議會までも敵に回した。まさに「前門の虎、後門の狼」であつた。
つまり、美濃部のこれらの見解は、天皇機關説と一體化して捉へられ、天皇主體説の論者と軍、議會、それに觸發された民間人との共同戰線により攻撃されて失脚したといふのが實相であらう。
顯教と密教
昭和期においては、司法界と高等教育機關(大學)では天皇機關説が支配的な見解であつたのに對し、初等教育と軍部においては天皇主體説(天皇主權説)が支配的な見解であつた。このことから、天皇機關説は「顯教」、天皇主體説(天皇主權説)は「密教」と揶揄された(文獻214)。
この顯教と密教との對立といふのは、まづは、これまで述べた天皇機關説論爭の延長線上のものではあつたが、より具體的には、統帥權(統帥大權)の獨立が認められる「權限領域」の廣狹に關する論爭でもあつた。
昭和初期になつて、「顰みに倣ふ」が如き西洋かぶれの者どもによつて、我が國と英國とはその歴史も國體も異なるにもかかはらず、帝國憲法を大英帝國における立憲君主制の趣旨と同じであるとする強引な解釋が學者と司法の世界で主流となつてゐた。そして、統帥權についても、これが天皇が總覽される統治權(帝國憲法第四條)に含まれ、しかも國務大臣の輔弼事項(同第五十五條)に含まれるとして、統帥權の獨立を實質的に完全否定する見解(否定説)が登場したり、統帥權を狹義の統帥權(第十一條)と軍の編制權(第十二條)を含んだ廣義の統帥權とに區別し、統帥權の獨立は狹義の統帥權に限るとする見解(狹義説)や、廣義の統帥權の全部について獨立が認められるとする見解(廣義説)などが對立する圖式が生まれてゐた。ただし、前に述べたとほり、これらの見解は、「輔弼」や「輔翼」の實質が、天皇の拒否權(ヴェトー)を否定する天皇不親政といふ運用がなされることについては何ら對立するところがなく、「君臨すれども統治せず」と解釋することにおいては異論がなかつた。つまり、「顯教」とは、否定説や狹義説のやうに統帥權の獨立を否定ないしは制限して權限領域を縮小する方向の見解であり、「密教」とは、廣義説のやうにその權限領域を擴大する方向の見解であるといふことであつて、これは、いづれも天皇を差し置いて、司法界と高等教育機關を味方に付けた内閣と、初等教育機關と軍隊を味方に付けた軍首腦とが、統帥權の實質的な歸属を爭ふ争奪論爭の綱引きに過ぎなかつたのである。
そして、この「顯教」と「密教」の對立による帝國憲法の本質論と運用論については、むしろ、皮肉なことに、學者からの指摘ではなく、國際政治を卷き込んで問題提起がなされる。それは、内閣が帝國憲法第十三條の天皇大權(條約大權)を輔弼して昭和五年四月二十二日、『ロンドン海軍軍縮條約』に調印したことについて、同月二十五日の衆議院本會議で、政友會總務鳩山一郎が政府(濱口雄幸首相)を攻撃する演説をしたことに始まり、同日、軍部が、これを統帥權の干犯であるとして政府を攻撃し、濱口雄幸首相が、同年十一月十四日、東京驛で佐郷屋留雄(愛國社)に狙撃され重傷を負ひ、翌年死亡するといふ事件にまで發展した、いはゆる「統帥權干犯問題」の議論の中にこそ、その根本的課題が含まれてゐたのである。
理論的に考察すると、濱口首相には、軍部や政友會らの指摘した意味での統帥權干犯の行爲はなかつた。しかし、濱口首相には、別の意味で統帥權干犯をしてゐたのである。そのことは、當時の樞密院議長であつた倉富勇三郎の日記(文獻343)から讀み取れるのである。倉富樞密院議長は、ロンドン海軍軍縮條約案の諮詢に際して、濱口首相に對し、條約案の審議をするために必要なものとして、これに先だつてなされた軍事參議院の諮詢の結論である奉答書の提出と、海軍軍令部長加藤寛治の出頭を求めてゐた。しかし、濱口首相は、これを頑なに拒否して、樞密院での充分な審議を妨げた。加藤軍令部長はこの條約に反對であり、奉答書にはこの條約のもつ重大な問題點を指摘したゐたからである。軍事參議院は、明治三十六年の『軍事參議院條例』によつて、天皇の統帥及び編制等の重要軍務に關する諮問機關として帝國憲法下の軍務法制に基づくものであり、樞密院は、帝國憲法第五十六條によつて天皇の諮詢に應へ重要の國務を審議する機關である。それゆゑ、濱口首相は、ロンドン海軍軍縮條約を締結したこと自體をもつて廣義の統帥大權(編制大權)を干犯したといふことはできないが、その條約が編制大權を制約する結果となる性質であることから、樞密院による愼重な諮詢を必要とするにもかかはらず、樞密院を輕視して手續規定を形骸化し、その實質審議を妨害した點において、廣義の統帥大權(編制大權)干犯といふ憲法違反を犯したことの責を免れないのである。
そして、この統帥權干犯問題は、その後に天皇機關説論爭(昭和十年)へと飛び火し、遂に「密教」による「顯教」への逆襲は完成する。美濃部はこのとき、「統帥大權の作用が國務大臣の責任の外におかれることは・・・不當にその範圍を擴張すれば、法令二途に出でて二重政府の姿をなし、軍隊の力を以て國政を左右し、軍國主義の弊極まるところなし」と主張したが、後の祭りであつた。
そもそも、この統帥權干犯といふ議論は、大正元年八月、大正二年四月、大正十四年五月と、三度に亘る陸軍軍縮や、大正十年のワシントン會議の海軍軍縮會議においては全くなされず、このロンドン海軍軍縮條約だけが議論されるといふ一貫性のないものである。しかも、これは、統帥權の問題ではなく、軍の編制權の問題であり、しかも、この編制大權を干犯したとするのであれば、その干犯の張本人は、同じく天皇大權であるところの條約大權(第十三條)であるといふ視點が誰にもなかつたのである。
附言するに、天皇機關説は天皇機關説論爭といふ茶番の政爭によつて政治的に敗北したが、このことは反射的に天皇主權説の勝利を意味することにはならなかつた。それは、既述の『國體の本義』によつても明らかである。これは、昭和十二年五月に文部省が刊行したものであり、正式な政府見解であつて、天皇機關説論爭の終結から約二年後、二・二六事件發生から約一年後のことである。それゆゑ、もし、天皇主權説が政治的に勝利したのであれば、『國體の本義』の記述は天皇主權説に基づくものでなければならないが、『國體の本義』はこれを明確に否定した。すなはち、「天皇は、外國の君主と異なり、國家統治の必要上立てられた主權者でもなく、智力・德望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。」として、天皇は「主權者でもなく」とするのである。主權論が合理主義(理性論)の産物であることを認識して主權論を明確に否定し、それが政府の正式見解(有權解釋)となつたのである。つまり、天皇機關説は政治的には敗北したが、憲法學的には勝利したのである。
鈴木マジック
ここで、これまでのことを整理すると、統帥權(統帥大權)の獨立といふ問題には二面性があり、一つは、統帥權が議院内閣制による國務事項(統治權)に含まれるか否かといふ點であり、もう一つは、統帥權が天皇自らが行使しうる大權事項(親裁事項)として認められるものか否かといふことである。そして、この統帥權(統帥大權)の實質的歸屬が、天皇、内閣、そして統帥部(大本營)のいづれであるのかといふ三つ巴の樣相となるが、昭和期において、このうち、まづいち早く天皇が埋没し、後は内閣と統帥部との確執が戰後まで續けられることになつたのである。
かくして、統帥權は、明治維新を成し遂げた元老による政治が衰退して行くことと呼應して、天皇の專制君主的權限も収縮するに至り、實質的には「君臨すれども統治せず」的な天皇不親政の運用がなされることによつて「權力の空白」が生まれた。つまり、この「統帥權干犯問題」の背後にある「統帥權の獨立」といふ軍部の主張は、天皇の超憲法的權威(天皇主體説又は天皇主權説)や天皇超政論(天皇機關説)といふ見解に基づき、「統治すれども親裁せず」といふ帝國憲法の立憲主義的な本來の運用を否定して、「君臨すれども統治せず」といふ非立憲的な運用によつて、政府の干渉を受けずして軍部が獨斷專行する契機を與へたものであり、これが張作霖爆殺事件に始まり柳條溝事件、滿洲國建國に至るまでの軍部の獨斷先行と、それを統帥部及び内閣が追認することによる統帥と國務(政務)の不一致、陸軍と海軍の非提携、軍令と軍政の不一致などの矛盾に滿ちた複合構造を生んだのである。
ところが、そのままの状態で敗戰へと向かふことになつたものの、帝國憲法に基づき、その第十三條の講和大權に基づいて、ポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印したことによつて、我が國は有條件降伏の内容として、我が軍の無條件降伏と完全武裝解除を約した。そして、この講和大權の行使の結果、統帥大權(第十一條)及び陸海軍編制大權(第十二條)の行使は停止されることになつた。その意味では、講和大權は、統帥大權及び編制大權よりも上位に位置する天皇大權であるといふことであり、このことは、大東亞戰爭の終局段階において證明されたのである。
そもそも、統帥權干犯問題においては、廣義の統帥大權(第十一條、第十二條)と條約大權(第十三條)のいづれが優先するのかといふ議論は全くなされなかつた。もし、條約大權が統帥大權及び編制大權よりも優先するとの解釋が學問上確立してゐれば、そもそも統帥權干犯問題が起こりうる餘地は全く無かつたはずである。
しかし、ポツダム宣言の受諾に際して、この多くの天皇大權が單に竝列的に存在するのか、あるいは序列的、段階的、體系的に存在するのかといふ、大權相互間の優先關係について、緊急に決着をつけなければならない事態に直面した。この事態は、「鈴木マジック」とでも呼ぶべき卓見によつて乘り越えられた。その事實經過はかうである。
昭和二十年四月に成立した鈴木貫太郎内閣は、同年六月八日の御前會議において、「聖戰完遂」、「國體護持」、「皇土保護」の三つの國策決定を行ふ。このうち、「聖戰完遂」については、本土決戰に至る統帥大權に關する問題であつて、これまで通り統帥權の獨立が認められてゐるため、内閣の輔弼が及ぶ事項ではない。しかし、戰局はさらに惡化し、ポツダム宣言受諾の方向へと動く。ポツダム宣言を受諾するについては、一般條約及び講和條約の締結といふ帝國憲法第十三條を根據とする外交問題であるから、立憲君主的に、内閣の輔弼による運用がなされてゐた事項であつた。そこで、鈴木首相は、統帥大權の歸屬者である大元帥の地位と帝國憲法上の天皇の地位とを理念上區別し、大元帥は天皇が兼務するだけで、大元帥も天皇の「家臣」であるとの見解を打ち立て、同年六月八日になされた統帥大權による「聖戰完遂」の國策決定と、講和大權によるポツダム宣言の受諾とは、何ら矛盾しないと結論付けた上で、ポツダム宣言受諾に至つたのであつた。
このやうな解釋が統帥權干犯問題の際に認知されてゐたならば、「統帥大權(編制大權)を干犯したのは條約大權である。」といふ逆説的な説得によつて、そもそもこのやうな問題が起こらなかつたか、あるいは少なくとも冷靜な對應がなされたはずである。このときにも、憲法學者の誰一人としてこの鈴木マジックの論理に氣付いた者は居なかつた。そして、その後も帝國憲法を改正して占領憲法が制定されようとする際に、占領憲法無效論を體系的に唱へた學者は一人も居なかつた。これは國賊にも等しい知的怠慢であつた。いつの時代でも、憲法學者とは、肝心なときには何の役にも立たない種族のことであり、今後も自己保身のために占領憲法無效論を必死になつて拒み續ける抵抗勢力となることであらう。
ともあれ、「統治すれども親裁せず」といふ天皇不親裁の原則といふのは、あくまでも原則であつて、國家緊急時においては例外として親裁(敕裁)がなされることを含んだ法制である。これが専制君主的色彩を含んだ立憲君主的憲法である帝國憲法の本來的な解釋であつて、この鈴木マジックにより、その本來的な解釋運用が復活して「御聖斷」がなされたといふことである。結果的には、臣民の生命と財産に對するこれ以上の慘禍が及ばないこととなり、同年六月八日の御前會議における國策決定のうち、「國體護持」と「皇土保護」は實現した。
天皇の側からのクーデター
ところで、帝國憲法の上諭に「朕カ子孫及ヒ臣民ハ敢ヘテ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とある點について、これを「天皇の側からのクーデターの禁止宣言なり」とする天皇機關説からの見解(美濃部達吉)があつた。
專制君主的色彩のある帝國憲法と雖も、それが立憲的(合憲的)に運用されることは當然のことであつて、ここでいふ「クーデター」が非立憲的軍事行動(違憲的軍事行動)を意味するとすれば、これは自明のことを述べたものに過ぎない。しかし、このことに關し、二・二六事件の收拾處理と大東亞戰爭の敗戰處理について、これらを「天皇側からのクーデター」の見地から國法學的に考察することは決して無意味なことではない。
二・二六事件の收拾處理
まづ、二・二六事件の收拾處理について、その叛亂鎭壓を口實としてもう一つのクーデター、すなはち、緊急敕令による戒嚴令の渙發下での新たなクーデターの可能性があつたのではないかといふ點を檢討したい。
そもそも、二・二六事件の鎭壓のために戒嚴令が必要不可缺か否かについては、政府、軍部内にも意見の對立があつた。しかし、この問題については、史實はともかく、クーデター(未遂)といふ緊急事態に對して、帝國憲法はどのやうに運用されるべきかといふ國法學的課題として捉へる必要がある。
前に述べたとほり、陛下が「朕自ら近衞師團を率ひ、これが鎭定に當らん」と仰せられたことから緊急敕令(第八條)によつて戒嚴令(第十四條)が施行されるに至つた一連の事態は、極めて專制君主的であり、かつ天皇親政による運用がなされたことになる。確かに、緊急敕令による戒嚴令は、形式上はあくまでも帝國憲法に基づいて立憲的に渙發されたことになるが、そのことから直ちに、これら措置が「天皇の側からのクーデター」のやうな非立憲的措置ではなく、反立憲的、憲法破壞的な二・二六事件の鎭壓を立憲的に行つたことになると斷言できるのであらうか。
なぜなら、陛下は、『昭和天皇獨白録』(文獻177)にもあるやうに、樣々な時期においてクーデターを懸念されてゐた。そして、その最大のものが二・二六事件であり、專制君主的措置がなされたのもこのときが初めてである。さらに、二・二六事件の蹶起將校である安藤輝三大尉か誰かが處刑のとき、「天皇陛下萬歳」ではなく、「秩父宮殿下萬歳」と唱へたことや、その後の統帥人事においても、二・二六事件に心情的理解を示した軍人を疎まれたことなどから、この機に乘じて陛下を排除しようとする勢力に對抗するための防御的な「天皇の側からのクーデター」として、緊急敕令や討伐命令が渙發されたと推測することも不可能ではない。
そもそも、過去におけるクーデターの成功例は、壬申の亂のやうな特殊な事例を除いて、全て「玉」を擁した錦旗行動であつた。幕末のとき、薩長の藩士たちは天皇を將棋の「玉」に喩へてこの「玉」の爭奪を畫策し、それを成功させたのである。このことからして、二・二六事件が失敗した最大の原因はこの「玉」の問題であつた。つまり、叛亂軍は、中橋基明中尉による近歩三(近衞歩兵第三連隊)の部隊をして、これを赴援隊と詐稱して皇居(宮城)に入れ、守備隊本部を占領し、坂下門を閉鎖して重臣や要人の參内を拒んで天皇を擁し、もし、そのクーデター目的を達成するための敕令が渙發されないときは天皇を弑逆することもやむを得ないといふ計畫を立ててみたものの、その重要性を全く認識せず呆氣なく失敗に終はつてゐる。これではクーデターが成功するはずはなかつた。そして、この計畫とその失敗についても、幻の『陸軍大臣告示』のやうに、「蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ」であらうから、これが叛亂軍による秩父宮擁立の噂と重なることもあり得たからである。
帝國憲法には、專制君主的な色彩のある規定と立憲君主的な色彩のある規定とが併存してをり、制定當初からの解釋運用が變遷してきたことは前述のとほりである。しかし、帝國憲法が立憲君主的な憲法であつたことは、帝國憲法の制定過程からして明らかであつた。すなはち、『帝國憲法草案』が立案された際、この草案第四條(帝國憲法第四條と同じ。)の審議において、絶對君主制を強調し天皇大權は憲法以前の存在であるとする立場から、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」との規定のうち、「此ノ憲法ノ條規ニ依リ」との部分の削除を求める主張がなされたのに對し、伊藤博文は、この規定を立憲君主制移行への根據規定として説明し、この削除の主張を退けた經緯があつた。このことは、法形式の靜的觀點から帝國憲法を判斷した場合、二つの異なる理念を持つ矛盾した規範といふことになるが、「規範は自らが豫定してゐる方法で進展する」との「動的規範」の觀點からすれば、帝國憲法は、絶對君主(專制君主)から立憲君主へと進展するための規範であつたことになるからである。
それゆゑ、それぞれの天皇大權がどのやうな状況においてどのやうな要件に基づいて行使されるかは、時代の變遷とともに流動的であるとしても、國家緊急權の發動における緊急性の要件を以て制約されてきたことは確かであつた。
それは、平時における法體系と非常時(戰爭、内亂、大災害など)における法體系といふ適用事象の守備範圍を區分する法體系二元論の芽生えであつた。そもそも、平時と非常時(有事)とでは、價値體系、價値の優先順位を異にする。平時では言論により「話せば解る」と信じて説得できたものが、非常時(有事)には「問答無用」として命を奪はれる結果にもなる。戰爭や内亂や大災害は、「民主的」に起こるものではなく、言論の自由、表現の自由などは、平時においては最大の尊重を必要とするのは當然のことであるが、多くの命が奪はれるか否かの國家的な緊急事態のときに、これらの自由の主張は虚しく無力であり、内亂勢力の集會結社の自由の保障は、國民の生命、財産の喪失と直結するものであるから、價値體系が平時の場合と非常時の場合とでは全く異なる。
法體系といふものは、法的保護に値する價値の體系に基づいて構築されるものであつて、平時における價値體系と非常時における價値體系がそれぞれ異なるのであれば、自づとそれぞれの法體系の守備範圍を異にするのは當然のことである。また、非常時においては、民主制の原理で愼重な審議を經て決議するといふ手法では時機を逸する事態となり得るのであつて、決議とその實施には迅速性と機動性が要求される。
ここに、民主制、立憲制の根本體制を維持・擁護するためのものとして、その權限の範圍及び事項竝びに期間等を限定した「委任的獨裁」が、その必要性の所産として登場するのである。つまり、たとへば占領憲法のやうに、國家緊急事態に對應する規定を全く持たないものの規範領域は、平時に限定され、非常時に關しては規範領域外となり、超法規的措置がとられる領域となる。そして、人權條項を含む全ての條項には、明文規定はないものの、「ただし、戰時(非常事態時)の場合を除く。」といふ但書があることになる。
以上の樣々な考察からずれば、二・二六事件の收拾處理における戒嚴令の發令は、それが明らかに戒嚴大權(第八條、第十四條)の行使における緊急性を滿たすと判斷される場合であるから、その措置は帝國憲法に適合し合憲であると判斷されることになる。すなはち、戒嚴令の根據となる帝國憲法の規定は、國家緊急時における暫定的な委任的獨裁を定めたものであり、未曾有のクーデター未遂事件である二・二六事件の終息處理のためになされたものであることから、まづ、形式的には何ら問題はない。また、實質的にも、戒嚴令發令前においては二・二六事件の全容が解明できてゐない状況であり、この發令を必要とする目的が、事件背後にゐる首謀者、加擔者、協力者などの有無とその探索、追随勢力の動向を阻止するなどの豫防的かつ保全的なものであり、かつ、緊急を要するものであつたこと、また、天皇の側近である本庄繁侍從武官長までもが叛亂軍に共感を示すなどして危機意識に對する緩慢な認識が政府首腦に蔓延してゐることなどから當然に必要な措置であつたことになる。そして、事件の處理後には速やかに解除され、戒嚴令解除後の政府行爲や民生の状態は、戒嚴令發令前の状態に復歸してゐることからして、この戒嚴令は、緊急性の要件を滿たし、かつ、必要性、相當性においても正當であることは明らかなのである。
大東亞戰爭の敗戰處理
では、次に、大東亞戰爭の敗戰處理についてはどうか。
つまり、ポツダム宣言受諾の際の陛下の「御聖斷」(親裁、敕裁)についても、「天皇の側からのクーデター」ではないかとの同樣の指摘があり、これが帝國憲法において許容されるのか否か、そして、その後になされた帝國憲法の改正法とされた占領憲法の制定手續、就中、その中心的な部分となる天皇による占領憲法の「公布」は、帝國憲法に適合するのか否かといふ點である。
まづ、「御聖斷」とは、ポツダム宣言受諾といふ講和大權の親裁行使であつて、この時點ではその行使についての要件である緊急性は紛れもなく存在した。それゆゑに帝國憲法に適合して合憲である。
しかし、その後、帝國憲法の改正法とされる占領憲法の制定、つまり、帝國憲法第七十三條に基づく敕命による發議と公布についてはどうか。結論を先述すれば、この憲法改正大權の行使は、後で詳しく説明するとほり、帝國憲法第七十五條に違反し、かつ、緊急性の要件を滿たさないのであつて、帝國憲法に違反して違憲無效であるといふことになる。「天皇と雖も國體と帝國憲法の下にある」ことは、第四條の「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」とすることからも當然のことなのである。
そして、その改正手續の違憲に加へて、占領憲法の内容は、明らかに國體破壞の内容であるから、これもまた違憲無效である。占領憲法の制定により國體の變更があつたか否かについて、八月革命とか、八月クーデターとかの議論は、今では淘汰された噴飯ものの理論であることについては後で述べるとして、GHQによる直接全面占領が國内的には緊急敕令(ポツダム敕令)に基づてなされ、その占領下で占領憲法が制定かつ施行されたといふ點については、帝國憲法に基づく立憲的措置とはほど遠いものであつたことは確かである。その意味からして、占領憲法制定に至る經過は、まさに反立憲的なものであり、また、その内容において反國體的なものであることは多言を要しない。つまり、占領憲法には、手續的正義(合法性)も實體的正義(正統性)もない。それゆゑ、これは「GHQによる天皇の名を借りたクーデター」といふべく、この帝國憲法の改正としての占領憲法制定手續とその内容は絶對に帝國憲法が容認するものではないのであるから、占領憲法は帝國憲法の改正法としては絶對に無效である。いはば、占領憲法の制定は、帝國憲法の改正の名による反立憲的(反國體的)行爲であり、承詔必謹論を以てこれを容認することは反國體的言説に外ならない。そして、結論的には、後に述べるとほり、國體護持のために、『帝國憲法』と『皇室典範(明治典範)』を復元させる一切の措置がとられるべきであるといふことである。
ここで『皇室典範』といふのは、明治二十二年二月十一日制定の『皇室典範』(資料十一)を意味する。これを以下においては、「明治典範」と呼稱し、成文法であるこの「明治典範」と、三種の神器、宮中祭祀、男系男子の皇位繼承など、古來よりの皇室の家法である不文法としての皇室慣習法及び宮務法體系に屬する規範の總體を「正統典範」と呼稱して、非獨立時代のGHQ軍事占領統治下の昭和二十二年一月十六日公布、同年五月三日施行された同名の『皇室典範』(以下「占領典範」といふ。資料三十三)とは峻別されるものである。占領憲法と占領典範(皇室彈壓法)を排除して帝國憲法と正統典範を復元し、正統秩序を回復することは、帝國憲法によつて立憲的に容認されてゐるのである。
附言するに、天皇が任命大權を直接行使したとされる例として、張作霖爆殺事件(滿洲某重大事件)の處分問題に關して、天皇が田中義一首相に辭表提出要請をしたことから總辭職となつた例がある。昭和天皇は、田中義一首相が、事件首謀者である河本大作大佐の處罰と支那に對する遺憾の意の表明をするとしてゐたのに、この事件をうやむやの中に葬りたいとの思ひで前言を翻したことから、前掲獨白録(文獻177)にも、「・・・それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は、田中に對し、それでは前と話が違ふではないか、辭表を出してはどうかと強い語氣で云つた。こんな言い方をしたのは、私の若氣の至りであると今は考へてゐる。」とある。まさに「綸言汗の如し」であるが、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(帝國憲法第三條)との無答責の規定によつて、如何なる天皇の行爲も法的かつ政治的な責任がないことはもとよりである。
また、ポツダム宣言の受諾と玉音放送の實施を阻止し、聖戰完遂のために、昭和二十年八月十四日深夜から翌十五日にかけて、陸軍省の一部の幕僚と近衞師團參謀らによるクーデター未遂事件(八・一四事件、宮城事件)では、近衞第一師團長森赳中將を殺害して師團長命令を僞造し、近衞歩兵第二連隊により皇居(宮城)を占據したが、師團長命令の僞造が發覺し、ポツダム宣言受諾自體を阻止し得なかつたことから自滅的に未遂に終はつたのであつて、「玉」を擁した錦旗行動ではなかつたし、陛下の堅い御叡意を覆すことはできなかつたのである。
維新
これまでクーデターに關する樣々な樣相を述べてきたが、我が國における政治的動亂は、その目的が成就したか否かを問はず、その高い精神性に特徴がある。特に、國體を護持し、國體に回歸するといふ傳統保守の復古的方向を持つたものについては顯著である。
國體の破壞ないしは變更を伴はず、むしろ、國體護持のための政治刷新がなされる場合、たとへそれが暴力を伴ふものであつても、それを「維新(非革命)」と定義すれば、維新は、單なる自己の利益獲得のためのクーデターとは異なり、國體と一體融合した精神性を持ち、その義擧をなす使命感とこれに殉ずることが崇高な名譽であるとの確信に支へられたものである。
一般に、法律學においては、所有權が侵害されたとき、それが侵奪以外の方法で妨害されたときは、その保持を全うするために妨害の排除を求め(妨害排除請求權)、妨害されたり侵奪されたりする恐れ(危險)が差し迫つてゐるときはその保全のための豫防措置を求め(妨害豫防請求權)、さらに、それが妨害の程度を越えて占有を侵奪されてしまつたときは占有を回收して返還を求めること(返還請求權)ができる。この保持(妨害排除請求權)、保全(妨害豫防請求權)及び回收(返還請求權)の三態樣は、その所有權から湧出する物權的請求權として所有權と一體のものとして認められてゐる。
このことからすれば、我々が祖先から受け繼いだ國體は、いはば、個々の所有權を遙かに超えた祖先の全財産であるから、それが妨害されたり侵奪された事實があり、またはその行爲が行はれようとするときは、國體から湧出する權利として、これを保持し保全し回收して國體を防衞する權利(祖國防衞權、國體防衞權)が認められることになる。これは、後に述べるフラクタル理論(雛形理論)によつても裏付けられるもので、これが維新の原動となる核心である。
ちなみに、本書では、「先祖」と「祖先」とを同義とし、統一して「祖先」と表記する。先祖(とほつおや)、上祖(かみつおや)の表記が本來であり、祖先は、明治になつて英語の「ancestor」の譯語として使用されたことに由來するものであるが、祖先崇拝などの用語例と統一するために、ここでは便宜的に「祖先」として表記することとした。
閑話休題。人には、決して他人の所有權を侵害したり、奪つたりする權利はない。それゆゑ、人の權利を奪ふことを正當化するかの如き「革命權」なるものは到底認められない。これは裸の暴力であり犯罪であつて「權利」ではない。むしろ、それを行つてはならない「義務」がある。それゆゑ、革命といふ非權利の犯罪から國體を防衞する權利(反革命權)であるところの祖國防衞權(國體防衞權)とは雲泥の差がある。
そして、祖國防衞權(國體防衞權)は、個々の臣民にそれぞれ歸屬してゐるものであるが、決して私的な權利ではなく、公的なものである。祖國とその構成員である臣民全體が享有する權利であると同時に、祖先から繼承された國體を護持してさらに子孫へと世襲させなければならない義務を伴ふものである。これは崇高なる權利であると同時に、名譽ある義務なのである。これは、「高い身分に伴ふ義務」(ノブレス・オブリージュ noblesse oblige)といふやうな身分特權ではなく、臣民固有の普遍的な權利であり義務であり名譽である。これら點については後に再び觸れるが、この祖國防衞權こそがこれまで脈々として受け繼がれてきた尊皇運動の法的根據なのである。
