文化國體と規範國體
我が國の國體とは、前に述べたとほり、萬世一系の皇統と「やまとことのは」の言語體系を核として構成された我が國固有の惟神の古代精神と歴史、傳統から抽出される祭祀、政治、産業、經濟、宗教、道德、規範、武道、學問、藝術、技術、民俗、生活樣式などの文化の總體を意味する。
そして、この國體には、「事實」の領域に屬する「文化」といふ存在(Sein)の側面(文化國體)と、「規範」の領域に屬する「古道(ふるみち)」といふ當爲(Sollen)の側面(規範國體)とがあつて、兩者は、等價値的な對極事象にある。振動的平衡を保つ關係にある。即ち、「かくある文化」と「かくあるべき古道」との兩面があり、このうち、國法學、國體學で取り扱ふ領域としては、規範的側面である「古道」であり、これを「規範國體」と呼稱することとし、その規範性の源泉となる文化事實の側面である「文化國體」とに區別し、以下においては、特に、斷りがない限り、國體とはこの「規範國體」を意味するものとする。
しかし、文化國體と規範國體とを、法實證主義、とりわけ純粹法學のやうに分離して認識するものではなく、兩者を、前に述べた振動的平衡の關係にあるものとして認識することは當然である。
ところで、國體は、日本だけに限らず、「傳統」を持つ全ての國家に存在し、概ね、理念的要素によつて形成されてゐるが、これに權力的要素を含むか否かは、その國の傳統によつて決されるのである。
英國における國體論と主權論
この國體についてさらに考察するに際しては、その前提として、どうしても避けて通ることができない問題がある。それは、英國において、世界を二分する思想的潮流があり、その後の世界に思想的にも政治的にも激變をもたらした對立、すなはち、傳統國家である英國の君主制を支へてきたヘンリー・ブラクトン、エドワード・コーク、エドマンド・バークに代表されるコモン・ロー(common law)の思想に基づく「國體論」を主張する人々(國體派)と、これを根底から否定するトーマス・ホッブズやジョン・ロックに代表される、法典として紙に書かれた實定法のみを法とする實證法主義(法實證主義positive law)の思想に基づく「主權論」を主張する人々(主權派)との對立についてである。
英國の立憲政治の歴史は、マグナ・カルタ(1215+660)、權利請願(1628+660)、權利章典(1689+660)などを通じて、國王の不法な政治を抑制して人民の自由と議會の權利を擁護した歴史であるとされる。しかし、これは一面において眞實であるが、他面においては、「主權」思想の攻勢から英國の「國體」(コモン・ローの支配)を守つた歴史であるとも云へる。
そもそも、英國では、カントに始まる「ドイツ觀念論」といふ理性論(合理主義)に拮抗する「イギリス經驗論」が支配してゐた。前にも述べたとほり、このイギリス經驗論は、法律學においても、現存する經驗的事實のみならず、むしろ傳統的な歴史的事實を經驗的事實として重視することにより必然的にコモン・ローの法理を確立させてきたである。しかし、このイギリス經驗論の土壤で育つたはずのホッブズは、これとは異質である大陸の唯物論に傾倒して社會契約説といふ見解に到達し、それがロックに引き繼がれた。
イギリス經驗論といふのは、過去から現在までの經驗的事實を基礎に眞理を探究するものであるから科學主義であり、本來は「實證主義」と同じものではあつたが、慣習法、判例法を含む實定法(positive law)は、過去の經驗的事實から演繹されるべきコモン・ロー(國體)としての「自然法」を認識できるはずであつた。しかし、對立の圖式といふのは單純化、先鋭化するものである。イギリス經驗論から自然法を認識しうる可能性はあつたものの、法實證主義と自然法主義との對立を緩和し融合させるまでには至らなかつた。そして、自然法の概念を超經驗的性格の普遍法とし、實定法の上位に位置するものであるとの自然法思想に對抗して、法實證主義は、この自然法概念を否定し、さらに自然法思想がその存在根據とする慣習法をも、紙に書かれたものではないとして否定する傾向が生まれる。そして、この自然法主義と實定法主義(法實證主義)との相克が、英國において社會契約説のホッブズとロックを生んだ土壤となつた。
社會契約説でいふ自然法とは、國家の存在を前提とせず、その非國家社會において個人の自己保存の權利が保障されるべきとの規範を意味するが、これには前に述べたとほり大きな矛盾がある。人は生まれてから死ぬまでの間、個人一人ひとりで誰に賴らずして自立して生活できる時期は皆無であるか、あつたとしても極めて短い。この社會契約説から派生した現代人權論といふ欺瞞に滿ちた見解が想定するやうな、完全な人權を保有する「全人」なるものは存在しえない。もし、それが存在するとしても、生まれながらに富裕であり、高度な教育を受けた者が成人に達して自立した状況になつて「全人」が初めて誕生するのであつて、それも、老病によつて介護を受けることになつて死亡するに至るまでは「全人」ではなくなる。つまり、ほんの一時期しか「全人」では居られない。しかも、それは全人になるための教育と環境に惠まれた富裕者かつ健常者に限られるのであつて、貧困者又は障害者には法律的、政治的にその機會が與へられない。從つて、現代人權論とは、全人でない者も全人であると看做して形式的平等だけを主張する僞善の思想であり、究極の差別容認論なのである。
ともあれ、個人は、あくまでも家族の一員として、共同生活による協同扶助關係によつて維持されるのであるから、ひとりの個人が初めに接する規範は、家族内の規範である。決して、家族から離れた個人がいきなり野に放たれて流浪し、そこで出會つた見知らぬ人々との間で對等に合意(社會契約)された規範なるものがあるとするのは噴飯ものの幻想にすぎない。家族といふ統一された組織秩序から一歩出れば、そこは意思の疎通が期待できない他人としか遭遇せず、その他人と共通する規範は當初から存在するはずがない。しかして、人は家族の中で生まれ、家族に育まれて成人し、老病者を介護し死者を見送り、新たな子孫を産み育てて家族を連綿と維持し續ける。それが世界的に共通した人の營みである。そして、他の家族との關係は主として婚姻によつて連結し、家族連結社會が生まれ、そこに規範が成立する。それがさらに相似的に擴大集合して、最終的には國家となる。家族を離れて一人ひとりの個人の集合體である非國家社會なるものは、やはり幻想なのである。それゆゑ、自然法とは、家族、家族連結社會、國家といふ國家生成過程を無視して認識することはできないのである。このやうな雛形構造(フラクタル構造、入れ子構造)の認識をするのが國體論であり、家族から國家に至る各規範構造もまた雛形構造であり、それが本能論に基づいて規範國體となると認識されるのである。これが社會契約説及び天賦人權論との根本的な相違であり、社會契約説及び天賦人權論の誤謬と矛盾は明らかになつてゐるのである。
ともあれ、この社會契約説と天賦人權論とは、イギリス經驗論とは全く無縁のものである。むしろ、この契約によつて形成される規範があるとすれば、それは、實定法を超える「自然法」として超經驗的に生み出されたもののはずある。さうであれば、社會契約説は、自然法論との親和性が生まれてくるのであつて、このやうな捻れ現象が英國における國體論と主權論の論爭をより複雜にし、それが異路同歸の如くルソーの主權論と合流するに至るのである。
國民主權の道案内としての國王主權
では、その經緯を詳しく見ていくこととする(文獻86、267)。
まづは、國體派のブラクトンの見解についてである。ブラクトンは、「國王はいかなる人の下にも立つてはならないが、神と法の下に立つべきである。」とし、いはゆる英國における「法の支配」の原則を確立したとされるが、ここでいふ「法」とは、コモン・ローのことである。そして、このコモン・ローとは、國の共通的一般慣習法であり、世襲の法理などに支へられた「永遠の眞理」として、人間の意志を超越した神の啓示であるとするのである。換言すれば、「創造された法」ではなく「發見(確認)された法」であつて、傳統的な慣習は法たる效力のある慣習(慣習法)であるとする。これは、まさに英國における最高規範たる「國體」のことである。 そして、この「法の支配」といふ國體思想を引き繼いだコークは、英王立醫師會に無許可で營業した醫師ボナムに對し國會の法律(制定法)に基づき罰金を科して拘禁したことを不服としてボナムが訴へた「醫師ボナム事件」の裁判官として、「コモン・ローは國會の法律(制定法)よりも優位にあり」として、その法律を無效であると判決し(1610+660)、さらに、翌年(1611+660)の「布告事件」において、「國王は布告などによつてコモン・ローのいかなる部分も變更できない」と判決した。ソクラテスの言葉とされる「惡法もまた法なり」とする實證法主義を眞つ向から否定し、「惡法は無效なり」とする「法の支配」を餘す所なく宣言した判決である。
この考へは、我が國においては、「天皇と雖も國體の下にある」として、國體に變更を加へようとした(破壞しようとした)占領憲法を先帝陛下が公布された行爲を無效とする論理と共通するものがある。
とまれ、この國體派の見解に對し、英國の傳統を破壞するホッブズやロック、さらに、海を渡つて、その思想的系譜に屬する革命國家フランスのジャン・ジャック・ルソーなどの主權派は、一片の文書(實定法)のみを「法」とし、慣習法や道德規範などや自然法を完全には否定しないものの、その法規範性を否定する實證法主義(法實證主義)を主張し、その中心思想としての「主權論」を展開するのである。
まづ、ホッブズは、「わが國王は、制定法とコモン・ローの雙方の立法者である。」「國王は唯一の立法者である。唯一の至高の裁判官である。」として、國王にコモン・ロー(國體)をも否定できる最高かつ絶對無制限な生殺與奪の獨立した權限である「主權」を與へようとした。これは、戰前の穗積八束や上杉愼吉らが天皇主權説(天皇主體説)を唱へたことと似てゐるので、ややもすればこのやうな主張は國體強化か國體護持の目的であるかのやうな錯覺を覺える。確かに、これは誰でもが陷りやすい、まさしく錯覺であり、これこそ國體破壞の元凶なのである。國體護持のためには、主權論は絶對に否定しなければならない。國民主權は云ふに及ばず、天皇主權もまた國體護持の敵である。絶對君主制へ回歸しようとする主張は、君主主權への道を切り開く。ホッブズの狙ひは、「主權」概念を認めさせることにあり、その「主權」を一旦は「國王」に與へ、やがてその失政や混亂に乘じて、この主權を國王から「人民」が奪ひ取るための深謀があつたからである。それは、本人の自覺において明確なものではなかつたかも知れないが、少なくとも「無自覺な國體破壞者」であつたことに變はりはない。その思想は、本人の意志と感情を超えて一人歩きするのである。少なくともホッブズは、「イギリス法は、代々の國王が、自らの理性のみで、あるいは貴族院や庶民院に謀つて、つくつたのである。それ故、國王の理性こそ、コーク卿のいふ、生ける法であり、普遍の法である。裁判官の理性、學識、智惠によるのではない。」として、國王に對して齒の浮くやうな煽てをしてまで主權概念を認めさせようと畫策した。その證左として、ホッブズは、「神は人民のために王をつくつた。王のために人民をつくつたのではない。」といふ國王輕視、人民重視の本音をさらしてゐるからである。まさに「褒め殺し」の手法による國王と國體への破壞攻撃であつた。
しかし、この謀略をコークとその後繼者は見拔いた。そして、「國王大權は、法(コモン・ロー)の一部であつて、主權ではない。」「主權は、マグナ・カルタやその他のすべての制定法を弱める。」「マグナ・カルタに、主權者は居ない。」「法(コモン・ロー)を超越する主權を國王に附與すれば、法による權力(power in law)は、實力による權力(power in force)にとつて代はられる。」「自由は權力を制限することによつて體現できるものだから、主權を附與された權力に對してこれを制限することは不可能となるので、自由への侵害が生じる。」と反論し、ついにこのやうなコークらの努力により、「權利請願」(1628+660)から、「主權」の文言は削られて「國體(コモン・ロー)の支配」は守られたのである。
ところがである。英國では、權利請願における國體派と主權派との攻防において、國體派の勝利で決着がついてから十四年後(1642+660)に、國王チャールズ一世がその專制に抵抗した議會に對して武力干渉をしたことから清教徒革命につながる内亂が起こり、結果的にはクロムウェル率ゐる議會軍が勝つて國王は逮捕されて處刑され、共和制が宣言された(1649+660)。その後、クロムウェルはなんと議會を解散して軍事獨裁を樹立したが、クロムウェルの死により王政が復古(1660+660)したものの、英國では、この十一年間は共和制であり君主制ではなかつたのである。
ホッブズは、この清教徒革命のさなかにフランスに亡命し、そこで『リバイアサン』(1651+660)を著した。リバイアサンとは、舊約聖書のヨブ記に出てくる鯨のお化けのやうな怪獣の名前であり、ホッブズは、巨大な力を持つ國家をこの怪獣に見立て、その中で、人は自然状態のままであれば萬人の萬人に對する闘爭の世界となるため互ひに契約を結んで主權者としての國家を作つて秩序維持をその國家に委ねるのだとする社會契約説を展開する。清教徒革命による國王の處刑と共和制宣言がなされたことの衝撃もあつて、新興ブルジョアジーの立場にあるホッブズとしては強い中央集權的な絶對王政(リバイアサン)の復活を説くものの、君主は單に利害調整のために必要とするに過ぎないのであつて、社會契約の主體(主權者)はあくまでも人民であるとする人民主權論への道を切り開いたのである。
ともあれ、王政復古の後も國王の專制政治に苦しんだ議會は、結束して議會にとつて望ましい王位繼承として、メアリ二世とウィリアム三世を王位につけることに成功した(1689+660)。流血を伴つた清教徒革命とは異なり、無血の政變を實現させたといふ意味で、これは「名譽革命」と呼ばれてゐるが、實はこれは後述する定義からすれば「革命」ではなく、いふならば「名譽政變(維新)」とでも命名すべきものである。
そして、この名譽革命によつて、王位繼承者が議會に對して發した宣言(權利宣言)に基づき議會が制定した法律が「權利章典」(正式名稱は「臣民の權利及び自由を宣言し、王位繼承を定める法律」)であり、これによつて國體の支配による立憲政治の基礎が確立したのである(1689+660)。
ところが、さらに主權派の攻撃は續く。今度はホッブズの思想を引き繼いだロックの登場である。ロックの主權論は、國王に主權があるとする國王主權論を飛び越えて、一氣に國民に主權があるとする國民主權論へと突き進む。曰く「國王の地位は國民の信託と同意に基づく」と。しかも、これを權利章典の規定をねじ曲げて解釋して展開したのである。そして、この思想がフランス革命に影響を與へ、さらに、そのまま占領憲法に引き繼がれ、第一條の「この地位(天皇の地位)は、主權の存する日本國民の總意に基く。」とか第二條の「皇位は・・・國會の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承する。」といふ規定になつたことは周知の事實である。
しかし、ロックの國民主權論は英國では決して定着することはなかつた。それは、この權利章典と王位繼承法(正式名稱は「王位をさらに限定し、臣民の權利と自由をよりよく保障するための法律」1701+660)によつて、國民が國王を選ぶといふことが永遠に禁止されることになつたからであり、國民が、王位の繼承についての「世襲の義務」、つまり王位の世襲を維持し擁護しなければならない義務を負擔することと引換へに、國民は、自己の自由と權利、財産の相續を保障されるといふ權利、つまり「世襲の權利」を享有できると確認されたのである。すなはち、國王の地位の世襲及びその分限と國民の地位の世襲及びその分限とは、いづれも祖先から子孫へと代々世襲(相續)された自由と權利と義務であるとする「世襲の法理」による國體護持の理念が定着し、かくして英國は「主權」概念を退けて今日に至つてゐるのである。
イエス殺しの思想
主權論が英國で敗北した理由は、いくつか考へられるが、論理的理由としてはその理論構成そのものに問題があり、論理破綻を來してゐたためである。それは、前述のとほり、コークの「自由は權力を制限することによつて體現できるものだから、主權を附與された權力に對してこれを制限することは不可能となるので、自由への侵害が生じる。」との言葉によつてその矛盾が端的に示されてゐる。君主に主權を認めた場合、君主の暴政によつて國民の自由が侵害される可能性があることは誰でも解るだらう。しかし、ほとんどの人は、國民(または人民)に主權を與へた場合、國民(人民)が自分で自分の首を絞めるやうなことをすることは考へられないと思ふだらう。ところが、これが主權論の幻想的トリックであつて、英國においては多くの賢者によりそれが見破られたのであるが、英國以外の君主國においては、國體論が確固たる理論として定着してゐなかつたために、怪しげな新興宗教にも似た主權論に取り憑かれた學者や識者のアナウンス效果によつて、まんまと騙されて行くのである。
ともあれ、この思想が、キリスト教の國から生まれたのは餘りにも皮肉なことであるといふべきである。ローマ帝國の版圖となつてゐたユダヤの地で活動してゐたイエスは、ユダヤ教の祭司や官憲らにゲッセマネで捕らへられて最高法院に連れて行かれて死刑判決を受け、ローマ總督であつたピラトの前に引き出された。ユダヤでは大幅な自治が認められてゐたが、あくまでもローマの屬領であつたことから、死刑執行にはローマから派遣された提督の許可が要るからである。
「最後の晩餐」での出來事よりも、誰がイエスを賣つたのかといふことよりも、もつと大事なことがある。ピラトは、イエスに何らの罪も見出せなかつたし、そもそも死刑にできなかつたにもかかはらず、ユダヤ人の群衆に煽られてその壓力に屈し、イエスを十字架刑といふ極刑に處した。イエスが安息日に病人を癒すことは安息日に働くことであり、これが極刑に値する律法違反であるとして死刑になるのであれば、ユダヤ式の死刑は石で打たれて殺される方法となつたはずである。しかし、イエスには、ローマに對する反逆者としての死刑の方法、つまり十字架刑の許可が出された。これは、ピラトが法を曲げてでも大衆の喝采こそ正義であると判斷したのであり、これこそが、國民主權主義の源流である。ゴルゴダの丘で磔にした「イエス殺しの思想」、それが國民主權の正體である。
本を正せば、主權論は、「理神論(自然神論)」といふ思想的基盤から生まれた。これは、世界を創造したのは創造主である神(God)であるが、創造された後の世界は、神の創造した自然法則に從つて營まれるもので、そこには神は居ないし、神が干渉することはないとする合理主義(自然主義的有神論)であり、これは實質的な無神論である。それゆゑ、イエスは神に代はる主權者によつて磔になつたのであつて、その處刑は合理的かつ正當であるとするのである。
國民主權と立憲主義の相剋
いづれにせよ、主權論は論理破綻を來してゐるが、さらに、その理由について説明する。それは、具體的な事例で考へればすぐに解る。
ここに百人の國民による國家があり、主權が國民にあつて民主主義による議會もあつたとしよう。しかし、國民の間で鋭い思想的對立があり、多數派は九十人、少數派は十人である。そして、選擧により大統領を決めたが、當然に多數派に屬する者が大統領となり、この國の政治を行ふこととなつた。ここまではよい。しかし、大統領となつた者は、少數派の者とその思想を蛇蝎のごとく嫌ひ、當然多數派の者もさうである。そこで大統領は露骨に少數派を彈壓しようとして、少數派のみにその選擧權その他の權利や自由を剥奪する法律を議會で作つて早速に彈壓した。はたしてこれが主權論において許されるのか。答へは、「當然許される」のである。なぜかと言へば、主權とは、最高で獨立した絶對無制限の生殺與奪の權限であつて、それが國民にあるのであるから、國民の意志を反映した議會で民主制のルールに基づいて決めた法律は法實證主義と主權論の立場からして絶對に有效だからである。三權分立制の下で平等原則に違反するとして裁判所に訴へたとしても、多數派の意見を持つ裁判官を合法的に選任すれば結論は搖るがない。どうしても不都合ならば憲法も變へればよい。贊成者は九十人も居るのであるから簡單である。「立憲主義」に反すると少數者が叫んでも、國民主權を制約するだけの力はない。國民主權とはさういふものである。かくして少數派は國民主權の名の下に彈壓される。これも「イエス殺しの思想」によるものである。
そもそも、「立憲主義」の思想とは、フランス革命の際の『人および市民の權利宣言』(フランス人權宣言)第十六條に、「權利の保障が確保されず、權力の分立が規定されないすべての社會は、憲法をもつものではない。」とする規定に依據したもので、ここから、「憲法は國家權力を縛るためのもの」、「憲法とは、國家に對する命令である。」とか、「憲法とは、國家權力から國民を守るためのものである。」とか、「憲法は、國家を縛る箍である。」などと説いて、人權保障と權力分立を否定する方向の憲法改正ができないとする解釋が登場する。これは、「憲法」を科學的に定義したのではなく、特定の思想によつて定義したものであつて、憲法一般の通有性がない定義である。
そして、ある者は、立憲主義とは、民主主義の制約原理であつて、比較不能な對立する價値觀が公正に共存するために、これを政治決定の對象外として民主主義の枠組みで決定してはならないことである(長谷部恭男)とし、また、ある者は、立憲主義とは主權者が爲政者に對して政治を執り行ふための命令であるとする。しかし、立憲主義の合法性と正統性は、國民主權に基づくものであるはずなのに、その立憲主義が國民主權を制約できるとするのは法段階説からしても矛盾したものであるが、いづれにせよ、ここで云ふ立憲主義は改正限界説の一つとして分類できる。
そして、改正限界説としての立憲主義の見解では、どの點が改正不能であるかは個々の論者に委ねられることとなり、一律ではない。ところが、立憲主義といふものを、民主主義、多數決原理によつても侵害されない「最高價値」の存在を認めた思想の一つであるとすれば、この思想と國體論とは同樣の方向性を持つことになる。そして、立憲主義は、對外的には國家毎にそれぞれの獨自の立憲主義を認めることになるため、國境や國籍による國家間の棲み分けを肯定する點においても國體論と共通するところがある。
これに對し、主權論と一體となる立憲主義であれば、主權者が主權者を制限するといふ「自重思想」に陷り、制限されない主權が制限されるといふ矛盾から脱却できない。ともあれ、こんな偏頗な理論ではあつても、これが改正限界説の一つであることは間違ひないことになる。
そして、憲法改正に限界があるとすることは、國民主權を制約することになり、立憲主義と國民主權主義とは矛盾對立する關係になる。一方において、最高權力の源泉が「國民」にあり、それが「絶對かつ無制限」であるとする「信賴と自信」を謳歌しながら、他方において、その權力によつて生まれた國家機關が「國民」の權利を侵害する危險があるとして「不信と不安」を抱くのは明らかな矛盾である。そのため、この國民主權主義の根本的矛盾を隱蔽するために、立憲主義をも竝列的に主張し、それらがまるで矛盾しないものと詭辯を弄する占領憲法有效論者の見解が生まれる。ロシアのプーチン政權における「主權民主主義」、つまり、國家主權を侵害しない限度で民主主義を認めるといふ思想も、むやみやたらに難解な特殊專門用語(ジャーゴン)を發明して素人を煙に卷き、主權論の矛盾を隱蔽しようとする立憲主義から生まれてきたのである。
しかし、このやうな見解に對しては物の哀れとして心情的には理解できても、やはり論理的には完全に破綻してゐるのである。立憲主義を貫くのであれば、帝國憲法の解釋においてもこれを堅持しなければならないし、それによれば、占領下での帝國憲法の改正は無效であり、これによる占領憲法もそこで謳はれてゐる國民主權も否定されなければならない。帝國憲法の解釋では立憲主義を否定し、占領憲法の解釋では立憲主義を肯定するやうなご都合主義的な二重基準の論者は、もはや憲法を語る資格はない。立憲主義を語る者は、これと矛盾相克する主權論との關係を明確にしなければ、國家を極めて危ふい方向へと恣意的に陷れる危險がある。占領憲法について立憲主義の堅持を主張するのであれば、帝國憲法についても立憲主義を貫かねばならず、帝國憲法に違反して制定された占領憲法を無效であると結論付けなければならないのである。
子孫を不幸にする國民主權
また、さらに別の例を示す。それは、「國民主權主義では子孫は不幸になる。」といふことである。國民主權によれば、主權者である國民の意志は何者によつてもその行使を妨げられることはなく、如何なる事項についての制約も受けず、そしてその判斷に一切の誤りはないとする、最高性、絶對性、無謬性が本質であるから、次のやうなことを高らかに宣言できる。そして、これを否定したり制限したりすることは、國民主權を否定する危險思想として葬り去られることになるのである。
すなはち、「死んだ者やこれから生まれてくる者に對して、何ら遠慮することはない。我々は國民主權を何ものにも拘束されないものとして勝ち得たのである。神ですら排除したのである。國民主權は絶對である。だから、景氣浮上のため赤字國債を發行できる。借金を將來に累積させる。今さへよかつたらそれでよい。子孫が借金に喘ぐことも知つたことではない。子孫のために我慢して借金を減らしたり耐乏生活をすることを唱へると政治家は落選するし、そんな道德めいたことを言つて我々に贅澤をさせないこと求めるのは國民主權を否定し人權を侵害する危險思想である。娑婆にゐる者だけが仕合はせならよい。それが國民主權である。我々の時代で散財し、借金を子孫に負擔させることも産み育ててあげた親の權利として、主權者としては當然である。先祖を冒涜することも當然できる。死人に口なしである。」と。
主權は絶對であり、誰も侵すことはできない。神聖不可侵である。天皇であらうが、國民であらうが、これが誰かに一度認められると、その濫用を阻止することはできなくなる。生きてゐる者だけで、人々が過去から現在まで、そして將來へと營んできた暮らしと言葉と文化を獨斷で變更することも廢止することもできることになる。現在の選擧民團の意志だけで過去との斷絶も將來の子孫の生活のことまで一切を決定することが許される。子孫を生かすも殺すも勝手である。死んだ人や、選擧權を持たない子供や、これから生まれてくる子孫には一切發言する權限もない。文化も言語も、生きてゐる者の判斷で自由に取捨選擇できる。莫大な借金を作つて、それを子孫に全部負擔させることを決めても許される。地球の環境を壞し、自國・他國を崩壞させることも自由にできる。 はたして、これでよいのか。
先哲は云ふ。「主權がどこにあるのかと問はれるなら、どこにもないといふのがその答へである。立憲政治は制限された政治であるので、もし主權が無制限の權力と定義されるなら、そこに主權の入り込む餘地はありえない。・・・無制限の究極的な權力が常に存在するに違ひないといふ信念は、あらゆる法がある立法機關の計畫的な決定から生まれる、といふ誤つた信念に由來する迷信である。」(フリードリヒ・ハイエク)と。そして、さらに、「國民主權のなかでは、國民は滅亡する。國民は機械的量のなかに埋没し、自分の有機的、全體的、不可分的精神をそのなかで表現することができない。」「國民主權は、人間主權である。人間主權はその限度を知らない。そして、人間の自由と權利を侵犯する。」(ベルジャーエフ)。
つまり、國民主權の立場であれば、その好き嫌いは別として、これらをいづれも一切の制限なしに肯定する權限を國民に與へることになる。娑婆に居る者だけが國家の命運を決定できる生殺與奪の權を持ち、祖先を冒涜し子孫を虐げても當然の如く許される。このやうな傲慢不遜の考へを神聖不可侵(絶對性、無謬性)であるとする思想が國民主權主義といふものである。これは、心有る人々の健全な判斷からすれば、人非人(ひとでなし)の考へ方である。國民主權とは、人非人の法律思想であり、こんな考へ方に普遍性がないことは、早晩明らかになるはずである。
さらに、具體的に占領憲法の謳ふ國民主權の理不盡さについて指摘すると、この國民主權によれば、我が國の國語(やまとことのは)を英語に變へることができるといふことである。占領憲法は、正統假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)の國語(やまとことのは)で記載されてゐるので、これが國語としての規範性を持つとも解釋できるが、法實證主義の立場によると、「國語はやまとことのはである。」との規定がないので、國會は憲法改正をせずとも、多數決を以て法律で國語を變更することが簡單にできる。現に、このやうな國語論議は、明治維新の時と、大東亞戰爭の敗戰時にもあつたし、今も英語を第二公用語として認めてはどうかといふ議論もこの延長線上にある。
このやうなことは、國語だけでなく、前にも述べたとほり、國旗、國歌についても同樣である。國旗は日の丸(日章旗)で國歌が君が代であることは、いにしへからの傳統であり國體に屬するものであるが、占領憲法にはその規定がない。それゆゑ、『国旗及び国歌に関する法律』(平成十一年法律第百二十七號)といふ「法律」を作つたのであるが、法律で作つたものであれば法律で變更することもできるといふことである。現に、この法律の第一條第一項に「国旗は、日章旗とする。」とあり、同第二條第一項「国歌は、君が代とする。」とあるが、この表現は、「確認立法」ではなく「創設立法」の表現である。國旗は日の丸、國歌は君が代と古くから國體の内容として決まつてゐたのだから、この法律でそのことを確認すれば足りるのである。「・・・とする。」とは、「(この法律によつて)・・・とする。」といふ意味で、この法律によつて初めて決められた(創られた)ことになる。法律で規定するとしても、せめて、「・・・とする。」ではなく、「・・・である。」とすべきであつた。つまり、「(この法律で決める以前に)・・・である。」といふ確認的な意味とすべきであつた。このことからして、我が國は、國體に屬する君が代、日の丸の認識において、未だ實證法學的な國民主權主義から拔け出せてゐないと言へるのである。
民主主義と自由主義の相剋
どうして、このやうなことが起こりうるのか。理想と現實とが斯くも乖離するのはどうしてか。それは、マックス・ウェーバーが指摘するとほり、多數決原理と少數支配の原則による政治の現實があるからである。つまり、國民主權と言つても、それは女王蜂のやうに、絶對かつ巨大ではあるが極めて抽象的存在であつて、一人では何一つできず身動きもとれない。そこで、國民主權の「擬態」としての「議會」において國民の意志を抽出して議決する場合、全會一致で事を決めることは不可能だから、どうしても多數決原理が導入される。そして、議會の多數者によつて議決したことを具體的に決定し實現するために、その多數者のうちのさらに多數者、そのまた多數者といふふうに權力の階段を上り詰めて抽出していけば、そこには一人又は數人の者がその終局的な最高權力を手中にすることになる。つまり、民主制といふのは、獨裁政治を可能とする政治システムの一つなのであつて、カエサルやヒットラーなども民主的手續で誕生したのである。むしろ、ほとんどの者にそれが獨裁政治であるとは思はせない巧妙な民意操作を「選擧」といふ「國民の自慰」によつて實現できるシステムなのである。これが國民主權の幻想的トリックなのであつて、救濟されることを説いた宗教教團の教へを信じた者が、その教團によつて苦痛を味はひ命を落とす羽目になるといふ皮肉な現實があるのと同じである。自由と權利が保障されると信じて、法實證主義の國民主權を信じた者が、それによつて自由と權利が奪はれることになる。そもそも、民主主義とは、多數決原理により少數者の權利と自由を制限し否定することができる「少數者を彈壓するための制度」であり、これに過度の期待と理想を持つこともまた幻想なのである。
「憲法は、權力の橫暴から國民の自由と權利を守るためのものである。」との言説があるが、本當にさう思ふのであれば、憲法において何人に對しても主權を與へてはならない。國民の自由と權利を侵害する「權力」とは「主權に基づく權力」であつて、自分で自分の墓穴を掘らせることになるのが「主權」といふリバイアサンである。このリバイアサンは、「國民主權の名において國民の自由と權利を侵害する」怪獣なのである。
そもそも、民主主義と自由主義とは對立する概念である。民主主義とは、多數派が少數派を彈壓して少數派の自由と權利を奪ふことを容認する制度であり、自由主義とは、とりわけその少數派の自由と權利を保障する主張なのである。つまり、多數決で決められる事項と範圍を限りなく「擴大」させる方向が民主主義の勝利であり、その事項と範圍を限りなく「縮小」させる方向が自由主義の勝利なのである。「自由」と「民主」とはそのやうな關係にあり、その事項と範圍の線引きを誰が決めるのであらうか。もし、「國民主權」を肯定すれば、その主權を實質的には多數派が支配することになるので、「民主主義」の完全勝利となる。おとなしくしてゐたらある程度はその自由と權利を認めてやるといふお情けにすがつて少數派は生き續けなければならない。しかし、「主權」概念とオサラバすれば、少數派の自由と權利はコモン・ロー(國體)が多數派の橫暴から守つてくれる。「惡法もまた法である。」として死ななくて濟む。「惡法は無效なり。」と胸を張ることができる。にもかかはらず、「自稱人權派」はこの理屈が解らない。といふか、彼らは實質的には「反人權派」だからである。そして、このやうな輩の跋扈を許してしまつたのがこの「主權論」であることを肝に銘じなければならない。
附言すると、立憲君主制と民主主義との關係は、國體論と主権論とでは全く異なることに注意しなければならない。國體論の下での立憲君主制は、まさに「國王と雖も國體の下にある」ことから、立憲主義が堅持される。そして、國體論の下の民主主義は、まさに國體の下にあり、國家の基本秩序や人々の權利と自由を否定するなど國體の内容を形成するものを破壞することはできない。その限度で民主主義は制約され、自由主義は守られる。
これに對し、主權論の下での立憲君主制と民主主義の樣相は随分異なつてくる。そして、主權の所在が誰であるかによつても大きく異なる。君主主權(國王主權)であれば、君主(國王)の專横を許すのも立憲主義からは認められ、民主主義を否定し、自由主義を否定することも君主主權では認められることになる。なほ、立憲共和政體の大統領制の場合も、大統領に権限を極端に集中させると、それは「大統領主權」となつて君主主權と變はりはなくなる。また、大統領に限らず、議會に権限があまりにも集中しすぎると、これも「議會主權」となつて同じ弊害が出てくる。
次に、國民主權の場合はさらに深刻である。立憲君主制は傀儡君主となり、君主を廢止することも立憲主義として認められる。この場合、君主の地位は國民主權の下で認められるのであるから、國民はいつでもその君主を變へることも君主制を廢止して共和制にすることもできる。國民が主人で君主は家來となつてゐるからである。そして、國民主權の下の民主主義は、一切の事項について少數者を多數者の意見に從はせることができ、自由主義を完全に否定することもできるのである。そして、自分(國民多數派)が自分(國民少數派)の首を絞めることも國民主權は認めるのである。「それは自殺することに等しく、そんなことはおそらくないだらう。」と思ふのは多數派に屬してゐると信じてゐる者の樂觀である。自殺する自由も權利も認めるのが國民主權なのである。
いづれにせよ、このやうにして、このインチキ宗教の主權論教團は、英國では通用しなかつたが、これが海を渡り世界に害惡をまき散らすことになる。まづは、英國領のアメリカにおいて、國王からの干渉を排除して獨立し、共和制國家を樹立したアメリカ合衆國の獨立戰爭(1776+660)であり、さらに、國王を排除して共和制國家を樹立したフランス革命(1789+660)、ロシア革命(1917+660)、オーストリア革命(1918+660)、ドイツ十一月革命(1918+660)などが續く。フランス革命は、英國が國體の支配による立憲政治の基礎を確立して國體論の勝利を宣言した名譽革命の丁度百年後に、英國で破れた主權論が海外に渡つてフランスで勝利を宣言したといふ事件であつた。
ルソーの正體とその影響
この思想的政治的潮流の源泉となつたのが、前述したアダム・ヴァイスハウプトの合理主義であり、これらをホッブズやロックが受け繼き、さらにそれを徹底させたルソーの思想である。ルソーは、『社會契約論(民約論)』(1762+660)を書き、その理論の教育的展開として同年に『エミール』を著した。『エミール』が革命前に廣く讀まれたが、『社會契約論』は革命前にはほとんど讀まれなかつたものの、革命後にこれを忠實に實踐したのがロベスピエール率ゐるジャコバン黨であり、ロベスピエールは、最も急進的に獨裁的恐怖政治を暴力的に強行した。
そして、カール・マルクスとその共産主義思想もまたルソー思想の派生であり、その後のロシア革命を率ゐたレーニンとその後繼であるスターリンらもまたルソーの思想に染まつてゐるのである。
バークは、フランス革命を目の當たりにし、『フランス革命の省察』(1790+660)を著して、「御先祖を、畏れの心をもってひたすら愛していたならば、一七八九年からの野蠻な行動など及びもつかぬ水準の德と智惠を祖先の中に認識したことでしょう。」「あたかも列聖された祖先の眼前にでもいるかのように何時も行爲していれば、・・・無秩序と過度に導きがちな自由の精神といえども、畏怖すべき嚴肅さでもって中庸を得るようになります。」として、フランス革命が祖先と傳統との決別といふ野蠻行爲であることを痛烈に批判した。
そして、バークは、ルソーを「狂へるソクラテス」と呼び、人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へとする『エミール』のとほりに、ルソーが我が子五人全員を生まれてすぐに遺棄した事件に觸れて、「ルソーは自分とは最も遠い關係の無縁な衆生のためには思いやりの氣持ちで泣き崩れ、そして次の瞬間にはごく自然な心の咎めさえ感じずに、いわば一種の屑か排泄物であるかのように彼の胸糞惡い情事の落し子を投げ捨て、自分の子供を次々に孤兒院へ送り込む」とその惡德と狂氣を糾彈した。また、イボリット・テーヌは、「ルソーは、奇妙、風變りで、しかも竝すぐれた人間であったが、子供のときから狂氣の芽生えを心中に蔵し最後にはまったくの狂人となっている」「感覺、感情、幻想があまりにも強すぎ、見事ではあるが平衡を失した精神の所有者であった」と評價した。
このルソーの人格の著しい歪みと人格の二重性は、ルソーが重度の精神分裂症(統合失調症)と偏執病(パラノイア)であつたことによるものであり、犬猫の仔が親に棄てられても立派に育つので人間の子供も同じにするとのルソーの信念は、十一歳から十六歳にかけて親のない浮浪兒であつたために竊盜で生活してきたことの經驗からくる怨念による「轉嫁報復」の實行であつたらう。このやうな反吐の出る人でなしの思想が人類の未來を切り開く正しい考へであるとする妄信が現代人權論であり、おぞましい悪魔の囁きに他ならないのである。
いづれにせよ、ルソーの歪んだ人格から生まれた思想は、ホッブズの考へを更に發展させた社會契約説である。ホッブズが社會契約の對象を私的な權利(自益權)のみとしたのに對し、ルソーはこれに公的な權利(公益權)をも含めたことにより、社會契約なるものが難解で複雜怪奇なものと化したのである。つまり、私的な利害を持つ個々の人民の意志の總和(全體意志)ではなく、個々の人民の私的な利害を超えた公的な利益を目指す意志(一般意志)に基づく一體としての人民がなした社會契約に基づくものとし、一般意志の行使が主權であり、一般意志を主權の作用の基礎とするのである。そして、「政治體または主權者は、その存在を社會契約の神聖さからのみ引き出す」として、社會契約は「神聖」なものとするのであるが、ここにそもそも論理破綻がある。まづ、私的利害の總體である全體意志から抽出されるはずの一般意志がなにゆゑに「公的」な性質に轉化するのか、ましてや、それがなにゆゑに「神聖」なのかといふ素朴な疑問について何も説明されてゐない。否、できないのである。
多數決原理は、「數の多さ」を以て「質の高さ」を推認させるとの假説によつて支へられてゐるものである。全體意志から抽出される一般意志であつても、その數の多さは共通した私欲の數の指標でもあり、決して質の高さの指標ではない。前述の「百人國家」の例のやうに、十人と九十人とのそれぞれの人格を比較したとき、數の力で十人を抹殺しようとする九十人の「野蠻」な意志のどこに「神聖」なものがあるといふのか。假に、數の多さが質の高さを推定する場合があるとしても、それが最高の質を意味する「神聖」であると斷定することは論理の飛躍も甚だしい。つまり、ルソーは、その狂つた思考過程により、「一般意志」を「神の意志」とし、神の意志を體現した「主權」は、「絶對」、「最高」、「無制限」であるとする一神教を創り出し、その教祖におさまり、人民全體を有無を言はせずに強制的に信者とし、絶對服從を強要した。それゆゑ、ルソーの言ふ「市民的自由」とは、主權に基づいて付託された「統治者が市民に向かって『お前の死ぬことが國家に役立つのだ』というとき、市民は死ななければならぬ。」「市民の生命はたんに自然の惠みだけではもはやなく、國家からの條件つきの賜物なのだ。」と言ひ切るのであるから、「奴隷の自由」といふパラドックスにより、結果的には、自由はないとするのである。これがルソーの狂つた思想の正體なのであるが、このことを我が國で知る人は少ない。
このやうなおぞましいルソーの思想は、我が國以外では概ね否定され、その思想からの脱却がなされてゐる。ところが、我が國では、明治中期に中江兆民がルソーの『社會契約論(民約論)』を翻譯して解説を加へた『民約譯解』を著し、これが急進的な自由民權運動の理論的指導書となつたのである。中江兆民は、『一年有半』において、「我日本古より今に至る迄哲學無し」「總ての病根此に在り」と述べてゐるとほり、典型的な合理主義者である。哲學といふ合理主義の産物がないことと、その哲理そのもの(道)がないこととが同じであるとしたのである。「まことは道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり」といふ本居宣長の至言(『直毘靈』)や、「色も無く香も無く常に天地は書かざる經を繰り返しつつ」といふ二宮尊德の卓見を中江兆民は全く理解できなかつたのである。ところが、中江兆民は、晩年になつて、帝政ロシアとの開戰を主張する近衞篤麿が主唱する「國民同盟會」に參加して懺悔改心し、ルソー教から離脱しようとした。しかし、それは時すでに遲しの感があつた。しかし、戰後においても桑原武夫が『ルソー研究』などでルソーを好意的に評價したために、ルソー教の信者(患者)が再び多く出現した。その中で最も影響力のあつたのは、ルソー思想に基づいて造られた占領憲法を支持し、我が國の憲法學界を「ジャコバンの群れ」にした變節學者の宮澤俊義らである。そして、今もなほ、これと同じやうなルソー教の信者(患者)は法曹界に多く蔓延し、その影響を受けてゐる者は多い。
主權論爭
世界は、むき出しの法實證主義からも主權論からも脱却して、君主制國家も共和制國家も、それぞれの歴史傳統を重視しようとする傾向にある。そして、我が國においても、やうやく國家の中心を皇統に見出し、歴史傳統に回歸する兆しが徐々にではあるか出始めてゐるのである。
これまで見てきたやうに、國體論と主權論とは、まさに水と油の如くである。それは、バークの『フランス革命の省察』に反駁したものの結果的には敗北したトマス・ペイン(Thomas Paine)の『人間の權利』(Rights of Man)とを比較しても頷ける。しかし、これを融合させる試みが過去にあつた。それは、戰後における、いはゆる「尾高・宮澤論爭」における尾高朝雄博士の見識である。
これは、國體(規範國體)には理念的要素と權力的要素とがあることから、これと同樣のことを主權論にも導入しようとした試みである。確かに、主權の概念は、そもそも權力的要素を中心として生成されたものであるが、これにも理念的要素を重視しようとするものでつた。これは、尾高朝雄が、主權概念の理念的要素を強調して、主權とは正當な政治理念を表現する「正義の支配」であり、ノモス(法もしくは法の根本原理)にあるとした「ノモス主權論」を主張したのに對し、宮澤俊義が、主權概念の權力的要素を強調し、主權とは「政治のあり方を最終的に決定する意志」であると反論した論爭である。
これは、實のところ、主權の歸屬が國民であるとする占領憲法の解釋に關するものであつたために、現象面では尾高朝雄の不利に展開したものの、この論爭の今日的意義はもつと別のところにあつたのである。それは、このノモス主權論といふのは、假に、主權論の土俵に上がつて議論するとしても、その主權の歸屬が「ノモス」なのか「國民」なのか、といふ國法學的問題であつて、占領憲法の解釋學の範疇に留まるものではなかつたからである。つまり、ノモス主權論とは、占領憲法の上位規範として規範國體(ノモス)が存在し、この規範國體こそが最高、絶對かつ無謬の「主權」としての屬性を備へてゐるとする見解へと昇華される可能性を秘めたものであつた。從つて、「法の支配(國體の支配)」といふ用語に代置するものとして、假に、「主權」といふ血なまぐさい用語を用ゐるとすれば、主權は規範國體といふノモスにあるといふ意味で「國體主權論」といふことができるのである。
思ふに、權力的要素を中心に主權概念を組み立てることは、熾烈な權力闘爭や革命の歴史を持つ歐米や支那に妥當しても、そのやうなことがなかつた傳統と歴史を持つ我が國には妥當しない。國民主權といふ概念は、そもそも君主主權に對する「抗議的概念」(清宮四郎)として誕生したものであつて、我が國にはそのやうな歴史的背景が存在しなかつたからである。
また、主權の權力的要素といつても、現實に政治を動かす力から歸納して主權概念を構築することもできないのであり、主權概念は程度の差こそあれ、理念的要素に依存せざるをえない。ましてや、國民主權といへども、すべての國民の意志により政治が決定するといふことは幻想であつて現實にはありえず、また、君主主權といへども、實際のところ君主一人の力では政治を決定しえないのが現實である。そして、社會機能が複雜かつ多岐にわたつて分業化し、政治の統治機構もその影響を受けて複雜化した現代の大衆社會にあつては、權力的要素を中心に主權概念を構築することに何の説得力も持たない。國民主權であるとか、君主主權であるとかを論爭して、そのいづれかを唱へてみても、現實の政治が一部の者に支配されてゐる現實に目を瞑ることになる。そのやうな抽象的理念で捉へるだけでは、國民主權の場合では一部の國民(政治家、官僚)によつて、君主主權の場合では君主の側近である少數の者によつて支配されてゐる現状、即ち、マックス・ウェーバーのいふ「少數支配の法則」とその現實を是正することもできず、建て前論に終始してしまふ。このやうな現代政治の現實をふまへれば、主權概念を用ゐるとしても、その理念的要素を以て再構成し、「法(正義)の支配」つまり「國體の支配」の意味としての「國體主權」であるとすべきである。これによつて、權力闘爭や革命の歴史的遺物である「主權概念」を否定して決別することになるのである。
このやうに解釋すれば、少數支配の現實に對して、好ましからざる事態となつたときは、「國體の支配」の理念を以て對抗しうるのであり、政治的にもその方が極めて有益である。
例へば、「國體の支配」の概念を設定することの實益は次の事項が擧げられる。
第一に、全體の奉仕者(占領憲法第十五條第二項)としての資質をおよそ維持しえないやうな不道德行爲をした國會議員が、たまたま現行法によつては處罰されず、又は官憲による訴追を狡猾にも免れた場合であつても、次の總選擧(國政選擧)においても同人が當選したとき、主權概念の權力的要素を強調する見解であれば、同人に主權者の意志による「みそぎ」が成立し、以後は同人の政治責任を追求しえなくなる。何故ならば、占領憲法第十五條第一項は、公務員の選定罷免權、即ち、參政權といふ國民主權の權力的要素の根本を表明した規定であり、當該議員がどの選擧區から選出された者であつても、國民全體の代表と擬制されてゐるからである(同條第二項)。これが國民主權主義の權力的要素による理解である。主權者が「是」として同人を代表者として再び選出したのであれば、それがまさしく主權者の意志であつて、何ものにも勝る價値の創造的判斷である。從つて、これに異議を唱へる批判者は、主權者の意志を否定する反逆者にすぎず、言論の自由の限度でその異議と批判は保障されても、國會及び國政においては、同人の政治責任は追求しえず、追求しようとする意見を無視することができるのである。むしろ、國會で同人の政治責任を追及することは、主權者の意志に反する違憲行爲なのである。いはば、これが從來までの政治腐敗を促進してきた「數(多數決)の論理」といふ構造であつた。それでも尚、同人の政治責任を追求するための論理は「國體の支配」といふ理念的要素しかないのである。
第二に、國會が全會一致又はそれに近い絶對多數(多數決)で可決成立した法律の合憲性については、どうであらうか。
國民主權概念の權力的要素を強調する見解であれば、國民主權の「國民」の意志とは「選擧民團」の意志、即ち一般意志であり、「主權」とは「國家意志の最高ないし最終の決定權」といふことになる。そして、代表民主制(國民代表の原理)は、選擧制度や選擧區住民の意志とは無關係に自由委任の原則(命令的委任の禁止)が保障され、全國民の代表として獨立した法的地位(個別的・部分的利益ではない一般利益を追求する地位)であることを前提として、「國民全體から議會全體への自由委任」を擬制することによつて國民主權主義と代表(間接)民主制とが同等同價値であると擬制するのである。
さうであれば、國民代表が全會一致又はそれに近い絶對多數(多數決)で可決成立した法律は、一般意志と同視しうるものであり、それが根本規範に牴觸する事項でない限り、當該法律は當然に合憲であつて、違憲の主張を一切斟酌する必要がなくなるのである。從來の裁判所であらうが、新たに設けられた憲法裁判所において、この法律を違憲であると否定することは、國民主權の否定であつて許されないことになる。
しかし、戰前における『治安維持法』、占領期間中に制定された占領憲法、獨立後の『破壞活動防止法』、『暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴對法)』などのやうに、全會一致又はそれに近い絶對多數(多數決)により可決成立した法令の合憲性を判斷するについて、「數(多數決)の論理」による主權の權力的概念によれば、これらを違憲とすることができなくても、「國體の支配」の論理によれば、これを違憲と判斷しうる道を切り開くことができる。また、立法行爲の裁量の範圍、内容及び程度においても、それが全くの自由裁量か羈束裁量かについて、その限界を爭ふ餘地があることになるのである。
國體の規範的根據
ともあれ、これまでの論述からして、國家の性質が君主制か共和制かを問はず、それぞれの國家特有の國體の具體的内容がどのやうなものであつたとしても、その共通した規範的根據としては、國家の本能に根ざした「法の支配(國體の支配)の法理」及び「世襲(相續)の法理」が存在することになる。
このうち、法の支配(國體の支配)の法理については前に詳述したが、ここでは、「法の支配」と「法治主義」との相違について述べたい。「法の支配」の概念用語は英國から生まれたが、この法理は、言擧げしない我が國の古來から傳はる美意識の原理でもある。これに對し、ドイツで生まれた「法治主義」の概念は、法律によつて行政、司法の權力の行使を限定し支配する原理であつて、立法を制限し支配する原理でない點において「法の支配」と本質的に異なる。「法治主義」においては、「惡法もまた法なり。」であり、「法の支配」においては、「惡法は無效なり。」である。
次に、世襲(相續)の法理について少し敷衍すると、これは、およそ全世界のあらゆる地域において、歴史的にも確立された公理であることは誰も否定できないものである。
世界の一地方で、その限定された一時期だけ私有財産制を否定する手段として世襲(相續)を否定したり、私有財産制を長期に亘り否定し續けたりする事例は僅少あつて、しかも、それには全く普遍性がない。私有財産制を否定したロシア革命、中共革命なども然りである。これに普遍性がないのは、私有財産制の否定が輕薄な「合理主義」に基づくからである。文豪トルストイは、後にロシア革命で銃殺處刑されたロシア皇帝ニコライ二世に、土地所有制度の禁止を強く求めた。これは、トルストイの抱く宗教觀に基づくものとされるが、さらに彼は、自己の作品も含め世界の文學作品を全面的に否定して著作權の放棄を主張し、「私有財産こそこの世の最大の惡の源泉」とまで言ひ放つた。これにより妻ソフィアとの不仲が生まれて家庭が崩壞し、自らも家出して寒村で病死する。これは、富裕な貴族として生まれ、文學才能にも惠まれた者の持つ傲慢さの現れに他ならず、自己にできることは他人にもできるとする錯覺と、それを家族や他人に、社會や國家に強要することが當然であるとする傲慢さによるものである。これを受け繼いだのがロシア革命であり、世襲(相續)の法理を否定するこの合理主義の破綻は火を見るより明らかであつた。
そして、さらに、この世襲(相續)の法理に勝るとも劣らない國體の規範的根據がある。それは、「時效の法理」である。バークは言ふ。「英國憲法は時效の憲法である。その唯一の權威は、それが時代を超えて長年にわたって繼續してきた、という點に盡きる。」「英國の政府のような時效的存在は、絶對に、ある特定の立法者が制定したものでもないし、既成の理論に基づいてつくられたものでもない。」と。
この「時效の法理」といふのは、その具體的な内容については多樣性があるものの、ローマ法以來すべての成文立法例に認められてきたものである。一般的に「時效」とは、一定の事實状態が一定の期間繼續したことにより、法律上一定の效果、すなはち權利の取得、權利又は義務の消滅を生ぜしめる法律要件ないしは證據方法であるとされてゐる。ただし、時效によつて不利益を受ける者が、時效を中斷してその權利の回復を求めることを不可能ならしめるやうな天災その他避けることのできない事變などの障害があるときは、その障害が消滅した後から相當期間が經過するまでは時效は停止したままで完成しないのである(時效の停止。民法第百五十八条ないし第百六十一條參照)。
この時效制度の存在理由としては、社會秩序の維持、權利不行使の懲罰性、擧證の困難さの救濟、眞實合致性の推定など樣々なものが指摘されてゐるが、このやうに多彩な理由が擧げられるのも、この法理が歴史的、傳統的な公理であることの證左でもある。そして、この時效の規定の適用については、當事者の意思にかかはらず適用される強行法規とされてゐるのであつて、その制度は強固なものとなつてゐるのである。
なほ、本書では、「意思」と「意志」の雙方の用語が出てくるが、同じ意味に理解すればよい。「意思」の場合は私法的なもの、「意志」の場合は公法的なものや政治的なものを指す傾向はあるが、明確に區別して使ひ分けてはゐない。
閑話休題。この「時效の法理」が適用される範圍としては、公法關係から私法關係など全ての法領域に適用がある。そして、私法の領域においては、時效による法律効果を生じさせるために必要な期間(時效期間)は比較的短期でもよいのに對し、公法の領域における時效期間は長期でなければならない。たとへば、所有權などの私權の時效期間が二十年以下であるのは、私權の性質からして、人の一生の期間と比較してそれよりも短期でなければ、時效による効果を享受できないからである。これに對し、公法、特に國憲に關しては、人の一生と比較して、それよりも短期である必要はない。否、むしろ、この場合の時效といふのは歴史や傳統といふ言葉と同義であつて、歴史・傳統と看做されるために必要な時間は、百年單位で計算した期間が必要となつてくるのである。
そして、この時效の法理を國體に關して適用すれば、いにしへより歴史的、傳統的に運用されてきた諸制度は時效の法理によつて國體として確定されるために、その諸制度を事後的に改革又は廢止することは、この「時效」を理由に禁止されるといふことになる。このことが「時效の法理」の核心理論である。また、この「時效の法理」もまた歴史的、傳統的に確立して運用されてきた制度であるから、これもまた「時效」を理由に事後的改革又は廢止が禁止されるといふことである。
これにより、世襲(相續)の法理、法の支配(國體の支配)の法理、時效の法理は、それぞれが獨自に「公理」としての規範性を有するのみならず、これらすべてについて時效の法理によつてもさらに規範性は強化される。ここでいふ「公理」とは、數學、論理學、自然科學、社會科學などの科學分野において、證明不可能であるとしても、證明を必要とせず直接に自明の眞理として承認され、他の公式、原理、法理などの命題の前提となる根本命題とされてゐるものである。つまり、世襲(相續)の法理、法の支配(國體の支配)の法理、時效の法理がいづれも國家の本能に根ざした歸納的な「公理」であるといふことは、それぞれこれらが眞實であることの證明責任が免除され證明不要とされてをり、その意味からしても眞實であることが確定したことになる。まさに、これらは、國家本能の高次體系である規範國體に屬するといふことなのである。
