第五節:國體の本義

國體論爭

戰前から現在に至るまで、我が國においては、英國のやうな論爭と深い思考は全くなかつた。文化國體、規範國體についての國體學的な考察や、これが憲法に優先するといふ觀點がなかつたのである。憲法を凌駕する規範國體に思ひが及ばなかつたため、規範國體は、帝國憲法の根本規範(改正ができない規範)として改正限界説といふ見解の中でしか反映されなかつた。まさに學問不毛と云つても過言ではなかつた。

國體(規範國體)概念は、帝國憲法下における國法學及び憲法學の中心概念として登場したものの、「國體トハ統治權ノ所在ニ依リテ分ルル國家ノ特色ヲ謂ヒ政體トハ統治權行使ノ形式ニ依リテ分ルル統治ノ體樣ヲ謂フ」(文獻6)といふ説明に見られるやうに、一般には、國體は主權の所在によつて決定され、政體は主權の行使形態によつて區分された。昭和四年の大審院判決でも、「國體」とは「我帝國ハ萬世一系ノ天皇君臨シ統治權ヲ總攬シ給フコト」と定義してゐたのである。

このやうな、國體の國法學的な概念は、戰前の天皇機關説と天皇主權説とが對立した「天皇機關説論爭」の頃までに登場してきたのであるが、これまでの國體の概念に關しては次のやうな三つの問題點があつた。

先づ第一に、ここでの國體とは、前述の定義のとほり、「主權(統治權)の所在」によつて決定される法律的な概念である「主權國體」なるものを意味してゐる點である。ここで「主權國體」といふ便宜的な用語を用ゐたが、これは、統治權を主權と同視し、その主權がどこに歸屬するのかを究明することが國體の有り樣であるとする概念のためのものである。いはば「主權=國體」と理解した國體概念のことである。これは、國體論と主權論との比較のために、國體論をあへて「國體主權」とした概念と混同し誤用されてはならない。ともあれ、この主權國體といふ概念を設定したのは、このやうな國體概念で議論することの有用性に關する根本的な疑問があることを明らかにする必要があるためである。單なる主權概念にすぎないのに、これに文化國體を連想させる「國體」といふ用語を使用することは明らかな誤用であり、これに國體といふ用語を用ゐずとも、天皇に主權があるとする説であれば天皇主權説であり、國民に主權があるとする説は國民主權説であつて、「天皇機關説」は「國家(法人)主權説」と表示すれば足りるからである。單なる「主權の歸屬に關する論爭」に過ぎないものを「國體論爭」とすり替へることに學問的良心の缺片もないといふべきなのか、あるいは、學理の水準が餘りにも低かつたといふことである。それにしても、國體と主權といふ、水と油の關係のものを一括りにして同じものとする、あまりにも乱暴で無知な論爭であつたことだけは確かである。

次に、第二の問題點としては、法律論爭のあり方にあつた。主權國體では、歴史的文化的なものの總體である傳統性を捨象して、純粹に主權の現在性(主權の歸屬)のみに集約したにもかかはらず、國體に關する一連の法律論爭において、主權の現在性とは無關係に、主權國體の概念に含まれてゐない主權の傳統性を前提とした國體論爭がなされ、概念の混同といふ致命的矛盾を孕んだ情緒的論爭に脱したことである。たとへば、國體(主權國體)概念の有用性を否定する主張は、傳統を否定する主張と同視されて、政治的批判を浴びせられるのである。これは、國體とは「天皇制」を意味するとして攻撃しようとする政治思想の土壤と共通する。このやうな現象は、理念的な文化國體が權力的な主權國體と重なり合つてゐるのだとの大いなる錯覺が生んだ悲劇である。

附言するに、そもそも、この「天皇制」といふ用語は、大正八年(1919+660)、レーニンの指導により世界の共産主義化を目的として設立されたコミンテルン(Comintern、共産主義インターナショナルの略稱)の大正十一年(1922+660)十一月の第四回大會で、全世界の「君主制」を根絶するとの基本方針を決定されたものである。この用語は、それまでから既に用ゐられてはゐたが、右大會でコミンテルン日本支部として正式に承認された日本共産黨が、この方針に基づき『綱領草案』で「天皇制の廢止」(天皇の政府の轉覆及び君主制の廢止)を闘爭方針として宣言したことから周知されたものである。

そして、日本共産黨は、昭和二十年十二月一日に開催された第四回共産黨大會において、大東亞戰爭を「軍事的、警察的天皇制權力によつて強行された強盜侵略戰爭」として、日本共産黨行動綱領では最優先課題として「天皇制打倒」を掲げてきた。ところが平成十六年一月の第二三回共産黨大會では、共産黨は綱領を變更して天皇制を認めるとしたが、おばあさんの假面を被つた狼が赤ずきんちゃんを誑かすが如き幼稚な手法で未だに臣民を騙さうとしてゐるのである。

さらに、第三の問題點は、この國體論爭おいて、二重區分説(二元説)に對する疑問、即ち、主權の所在である「(主權)國體」と、主權(統治權)の態樣である「政體」とに區分することの必要性と有用性について疑問があることである。戰前においては、一般的には國體と政體とを區別して用ゐてゐた。それは、國家の形態(form of state)と、政府の形態(form of goverment)とを區別するドイツ國法學の影響を受けて、前者には國體と、後者には政體という譯語を付けたのである。その後、ドイツにおいては、この區別を放棄する區分否定説(一元説)が有力となり、我が國でも一部で唱へられた。しかし、本來の「國體」の概念は、ついに唱へられずに終はつたのである。我が國でも、國語辭典などを檢索すると、國體とはこの主權國體であることの説明しかなされてゐないのが現状である。

また、「主權(統治權)の行使態樣(統治態樣)」=「政體」といふのであれば、各種の統治態樣の統括概念として政體をとらへてゐるに過ぎない。政體を君主制、貴族制、民主制の三つに分類したアリストテレスの見解に始まり、專主制と民主制の二つに分類してゐる現在の學説においても、いづれも現存する國家の統治態樣については混合政體論を展開してゐることから、「政體」概念自體が重要な意義を失ひつつある。ましてや、この政體概念と國體概念とを對比させることに何らの論理性もない。戰前の天皇機關説論爭と、戰後の占領憲法をめぐる國體政體論爭(和辻・佐々木論爭)において、國體と政體とを區分することの要否に關する議論もなされたが、この二大論爭においても、あくまでも主權國體概念を前提として、政體概念の要否(二元説と一元説の對立)に終始してをり、さらに本源的に、主權國體の概念を設定することの有用性に關する議論まではなされなかつたのである。

ちなみに、戰後の國體政體論爭といふのは、戰後の國家状況について、和辻哲郎が、帝國憲法下の政體は日本の歴史からすれば例外に屬するものであつて、占領憲法は立憲君主制といふ傳統的國體に復歸したに過ぎず、占領憲法の制定は國體の變更ではなく政體の變更であると主張したのに對し、佐々木惣一が、占領憲法の制定は國體の變更であると主張した論爭である。これも、國體概念について、雙方が噛み合つてゐない論爭であつた。

戰前の軍部及び内務省は、自己の強大な權力を維持するための全體主義國家思想として、この主權國體の概念を利用し、本來の傳統事實に存在せず、傳統事實から演繹しえない思想的なものを新たに付加創作して、それを「國體」に仕立て上げたのである。文化國體でも、法律的な主權國體でもない、いはば「權力國體」ともいふべき「政治的概念」である。それは、日本の傳統事實とは異なる「天皇親政」といふ統治原理を國體に含ましめる思想であつた。「天皇親政」の事例は長い我が國の歴史において數例存在するにすぎず、これは傳統ではない。前述したとほり、「王覇の辨へ」といふ皇室の傳統に則つた王覇辨立の統治態樣による「天皇不親政の原則」、つまり「統治すれども親裁せず」の原則こそが日本の傳統である。にもかかはらず、天皇親政の名の下に、逆に、天皇を排除して自己の權力を恣に行使した藤原氏や平氏の攝關政治などの王權簒奪の例と同樣、軍部及び内務省は、「天皇親政の原則」といふ傳統にない事柄を創作概念である權力國體の概念に取り込んで、その實質は皇權を簒奪した全體主義國家思想によつて自己の權力の增殖を謀つたのである。

そのため、戰前においては、主權國體概念の無用性を學問的に主張することですら、「國體」(主權國體、權力國體)否定の危險思想であるとして彈壓を覺悟しなければならない政治的環境と、これに屈伏して迎合する學者や識者しか存在しなかつたといふ憲法學界や論壇等の亡國的實情により、國體を學問的に議論することがなされなかつた。

また、戰後においても、戰前の軍部及び内務省が行つたこととは比較にならないほどの嚴酷な言論・思想統制を行つたGHQにより、いかなる意味の概念であつても、「國體」を議論すること自體を實質的に禁止され、我が國の歴史や傳統は、歐米自由主義(資本主義)と共産主義に共通した歐米中心の單線的發展史觀を支へる「進歩至上主義」と「生産至上主義」の思想の前では、極東に存在する「邪魔物」の歴史と評價された。そして、歐米思想に迎合することが進歩的文化人として優遇されたため、現在に至るも學會や論壇の無明は續き、國體の論議は殆どなされてゐない。

資本主義と共産主義

ところで、戰前における治安維持法は、「私有財産制度」を國體の内容として明記した。これは、前述のコミンテルンの謀略に對抗するための自衞手段であり、私有財産制度の維持は、世襲の維持による國體護持のために必要なものではあつたが、そのことと資本主義の擁護とは明確に區別されなければならなかつた。

第六章で詳述するが、そもそも、歐米自由主義(資本主義)と共産主義とは、いづれも産業革命を肯定的に評價し、その前提の下に思想を構築していゐ點において共通してゐる。皇紀二十五世紀初頭(西紀十八世紀後半)にイギリスで始まつた産業革命は、「生産技術の革新」と「分業體制の進展」による産業生産量の爆發的增大を可能ならしめた。しかし、このやうな生産量の爆發的增大といふ生産者側の状況に對して、消費者側では、それまでの社會組織構造などの拘束や限界のため、消費量や購買量の著しい增大變化は生じ得なかつた。著しい變化を餘儀なくされたのは、生産樣式を中心とする全社會組織構造であり、消費樣式に關はるものではない。いはば、産業革命は、「生産革命」にとどまり、「消費革命」を伴はなかつたのである。そのため、餘剰生産物の販賣市場の擴大と生産資源の調達による再生産を確保することが産業革命を維持發展させることになつたのである。本來、過剰生産がなされることに對應して過剰消費を求めることは、奢侈の奬勵であり背德である。過剰消費は決して美德ではない。しかし、この過剰消費を美德であるとすり替へる背德の啓蒙が資本主義を支へる根幹となつた。そして、餘剰生産物の消費を擴大するためと、生産に必要な新たな資源を調達するために、國外に市場を求める自由貿易へと必然的に押し進んだ。

『書經』に「玩人失德、玩物喪志」といふ教へがある。これは「人ヲ玩(モテアソ)ベバ德ヲ失ヒ、物ヲ玩ベバ志ヲ喪フ」といふことであり、資本主義は、まさに失德喪志の經濟理論であり、人類をそれに導いたのが産業革命であつた。

この産業革命は、技術革新による生産樣式の變革及びこれに伴ふ生産社會體制の變革を意味するものであつて、人民の意志による新たな社會・政治變革を意味する「革命(revolution)」ではない。その實態は、人民の意志を全く介在しないところで行はれた、單なる産業の生産・流通・情報傳達などの「技術革新(technological innovation)」に過ぎないものを「産業革命(industrial revolution)」と命名しただけである。

それゆゑ、産業革命には當初は思想性がなかつたが、産業革命が求める「市場の擴大」と「資源の調達」の實踐を推進させるための思想が生まれるのである。それは、主として戰前に展開された「植民地主義」であり、また、戰後においても展開されてゐる「自由貿易主義」(世界主義、グローバリズム)である。

皇紀二十六世紀初頭(西紀十九世紀中頃)、恐慌の周期的發生や勞資の階級對立が激化するなど、産業革命思想の缺陷と矛盾が露呈した時期において、産業革命の推進は、歴史の進歩發展と歐米人民の福祉をもたらすものであり、産業革命の缺陷と矛盾は自然淘汰されるとする「歐米自由主義(資本主義)」に對して、マルクス(Karl Marx)は、産業革命思想の「修正主義」としての「共産主義」を主張した。

それは、産業革命の「生産技術の革新」と「分業體制の進展」がもたらした産業生産量の爆發的增大が社會全體の福祉總量を增大させ、それが歴史の進歩發展であるとする「進歩至上主義」と「生産至上主義」であり、歐米中心の單線的發展史觀である點において「歐米自由主義(資本主義)」の亞流である。修正された主な部分は、價値創造の源泉を「勞働」のみとし、獨自の生産物分配基準を設定した點(勞働價値説)と、資本主義社會が崩壞し共産主義社會が到來することは歴史の必然であるとする豫定説的宗教觀(預言)に基づいてゐる點(唯物史觀)である。マルクスは、資本主義(植民地主義、自由貿易主義)による世界市場の建設を、預言に向かふ歴史の進歩として肯定するのである。しかし、預言を導入した點で既に科學ではなく、その他の點についても、科學的破綻は否めない。

そもそも、勞働價値説は、勞働觀、宗教觀に基づくものである。舊約聖書では、勞働を神に背いた罰としての苦痛とするために、人が苦痛に耐えて生み出すものに對外的な交換價値を見出すのである。しかし、古事記では、勞働とは修理固成のための神の營みであり喜びである。働くとは、「はた(傍)をらく(樂)にさせる」喜びと捉へるのである。それゆゑ、勞働することは當然のことであり、その勞働によつて成し遂げられた成果に價値を見出す。つまり、勞働といふ行爲は生活の喜びであつて、それ自體に價値があるのではなく、勞働による成果(結果)に價値がある。ところが、マルクスの勞働價値説は、勞働行爲自體に價値を認める。どんなに鈍(なまくら)で怠惰な成果のない勞働であつても、それが苦痛であることに變はりはなく、その苦痛の代償として報酬を得るといふ意味で「行爲價値」があるといふのである。決して、勞働による有用かつ美的な成果を得たといふ「結果價値」を基準とはしないのである。そのために、この勞働價値説による共産主義社會は、勤勉を美德とせず、勤勉で有用な勞働と怠惰で無用な勞働とを同等に扱つた結果、怠惰が蔓延して國家が崩壞したのである。このことは、我が國も含め、官僚制國家に共通したものである。

ともあれ、後述するやうに、このやうな歐米自由主義(資本主義)や共産主義などの産業革命絶讃思想が、「生産」のみに着目し、生産物と資源の「消費」と「再生」を考慮に入れなかつたため、その思想的缺陷と矛盾が露呈し、地域紛爭の激化など世界の不安定要因や産業公害と環境破壞の原因が世界的規模で擴大擴散してゐるのである。ましてや、現在では生産活動によつて貨幣計算の富を增大させるのではなく、證券化された假想の金融商品などによる爲替取引といふ「賭博」が經濟を支配し、世界を不安定にしてゐる。それゆゑ、これらの思想や制度は、人類や民族の本能からして全く適合性はなく、いづれ世界の安定のために完全淘汰されるべき運命にあるものである。

國家の本能總體としての國體

動的平衡(dynamic equilibrium)を保つた宇宙の雛形(フラクタル)である生命は、宇宙意志としての本能を基軸として生存し、人の集合體における國家もまた、國家本能に基づいて高次に構築された國體に從つて維持される存在であるが、この國體は、決して硬直化した意味で萬古不易といふことではない。國家本能に基づいて國體が構築されるについて、外部環境や内部環境の變化に即應して、その生命體の動的平衡を維持發展させるについて最も適した統一的かつ合目的的な變革を試みて自己實現する。端的に言へば、國體とは「國家の本能總體」のことである。これは生理學におけるホメオスタシス(homeostasis 生體恆常性、生體の均衡)と同樣の機能であると云へる。

各國には、それぞれに對應する國體が存在し、これらの共通した世襲の法理などの點も存在するが、各國の歴史の長短、國家形成の經緯、動亂の態樣などによつて完全に一致するものはない。我が國では、その歴史の特殊性により、文化國體の内容は豐富であり、これに關する論述も多い。前述の昭和十二年五月に文部省が刊行した『國體の本義』では、法律學における主權國體の概念ではなく、なんと文化國體の樣相について詳しく體系的に論述されたものとして注目に値する。これは、文化的天皇論(三島由紀夫)や生物學的天皇論(松本道弘)に通ずるものがある。

ところで、「本能」と聞けば、剥き出しの欲望であると誤解して嫌惡し、「國體」と聞けば、軍國主義の源泉であると誤解して唾棄するのは、實のところ何も知らない單細胞人間の性癖である。この『國體の本義』は、GHQの占領初期に、同じく昭和十六年に刊行された『臣民の道』と共に發禁處分となり、今でもその餘波により非難攻撃の對象とする愚かな言説を反面教師として認識すれば、これが國體の本義を鋭く指摘してゐたことが浮き彫りとなつてくるのである。

これを讀めば、西洋近代思想、とりわけ合理主義と個人主義を痛烈に批判してゐるのであつて、まさしく本能適合性を滿すものであつて、國體の本義と題することの面目躍如たるものがあつたのである。

そして、このことを踏まへながら、國體、皇室典範、憲法のそれぞれの關係や體系的な理解をするについては、先づ、國體、政體、主權及び制憲權などの基本的な主要概念について檢討整理しなければならない。特に、國體(文化國體と規範國體)、皇室典範及び憲法の關係は、第三章に詳しく述べることとして、ここでは、これまでに付加して、國體の樣相についてさらに述べてみたい。

この國體の概念は、國法學及び憲法學の基本概念でありながら、その學問的な檢討が充分になされることなく、戰前戰後を通じて、「狂信的肯定論」から「憎惡的否定論」へとその評價が大きく振幅し、これが今なほ思想的概念と誤解されてタブー視されている有樣である。法的に意味を持つ特定の概念を思想的にタブー視して一切檢討しない姿勢は、學問ではなく、學説の自殺行爲であり、法の科學を放棄して邪教となるに等しい。

ところで、前に述べたとほり、文化國體には、「事實」の領域に屬する「傳統」といふ存在(Sein)の側面と、「規範」の領域に屬する「古道(ふるみち)」といふ當爲(Sollen)の側面とがあつて、兩者は、等價値的な對極事象として振動的平衡の關係にある。「かくある傳統」と「かくあるべき古道」とは、必要充分條件關係にあり、「かくあるゆゑにかくあるべし」と「かくあるべきゆゑにかくある」とが兩立するのである。決して、傳統から當然に演繹しえない「思想」を含むものではない。ところが、傳統としては存在しなかつた天皇親政の原則を肯定しようとした「天皇親政國體論」や、ダーウィンの進化論を方法的に採用した社會主義や共産主義の單線的發展史觀による「進化論的國體論」など、およそ傳統とかけ離れた視點からの「政治思想としての國體論」が展開され、これが正統な國學と混同されるに至つた。

ここで指摘した「天皇親政國體論」とは、天皇論を基調とする國體論の一つであり、天皇主權論者の穗積八束、浮田和民、上杉愼吉などの學者や軍部、内務省官僚によつて支持されたものである。また、ダーウィンの進化論を方法的に採用した單線的發展史觀による「進化論的國體論」とは、人權論を基調とする國體論の一つであり、加藤弘之によつて提唱され各界の支持を得たとされる。なほ、北輝次郎(北一輝)著『國體論及び純正社會主義』はこれらの折衷説であり、進化論を基礎とする點で後者の亞流であり、また、天皇主權説を批判して天皇機關説に準據する點で前者の傍流であつた。

このやうに、當時多方面に影響を與へた進化論は、「ウォーレス線」として名を殘したウォーレスが進化論に關する論物を『種の起源』を執筆中のダーウィンに送り、そのダーウィンによつて完成した假説であるが、ウォーレスとダーウィンの唱へた進化論(自然淘汰説、自然選擇説)もまた唯物論であり理性論であり、その論理破綻は明らかであるが、當時はこの理論の斬新さに幻惑されて世界に席卷した。もし、地球上で自然現象によつて初めて原生動物が誕生し、それが進化して人類に至つたするのであれば、その原生動物の遺傳子に、その後の生活學習と環境變化に伴つて繼起的に進化を遂げ、最終的にはその進化の連續の彼方に人類が誕生するといふ、ありとあらゆる事態に對應した膨大なプログラムが組み込まれてゐなければならない。假に、いづれか進化の過程において、そのやうなプログラムが成立したとすれば、そのプログラム自體の「進化」が何ゆゑに起こつたのかも説明できない。「念ずれば花ひらく」(坂村眞民)として、個體がその子孫を進化させたいとの願望を抱けば進化できるといふのか。原生動物とそれから連續して進化したとする動植物自身に、子孫を進化させたいとの意思が備はつてゐたのか。また、それが備はつてゐるとすれば、その「意思」を抱く能力は誰からどうして得られたのか。進化論は、これらの疑問に唯物論的に答へられないことから、現在では進化論の破綻は露呈してゐる。

また、當時流行してゐたダーウィンの進化論と原子物理學に觸發されて構築したマルクスの理論は、膨大な資料に基づいて資本主義の産業社會を分析しようとする學問態度によつてもたらされたが、その姿勢と情熱は評價しうるとしても、史實に基づかない原始共産制を肯定するにとどまらず、生産性が無限に擴大し共産主義社會が到來するとの預言を行つたことや、經濟差別による階級社會に取つて變はつて登場した官僚制による階級社會の出現、官僚統制國家への變貌について豫知しえなかつたことは、もはや學問ではなく單なる觀念の産物としての政治思想に等しいのと同樣、これらの國體論もまた、史實に基づかず預言的手法を用ゐた愚かな政治思想であつた。これらの政治思想は、帝國憲法制定の前後で盛んに議論されたが、特に、帝國憲法制定後では、帝國憲法の解釋をめぐって法律論に便乘して展開されていくのである。

そもそも、國體が「主權の所在」に過ぎないのであれば、それは主權概念に包攝すれば足り、敢てそれだけのために新たに法律的な主權國體の概念を設定する必要は全くない。これは、實證法學(法實證主義)の立場からは當然のことであり、自然法學の立場からも、「主權の所在」といふ内容の主權國體の概念は不要である。その意味では、主權國體概念不要説が妥當である。しかし、後に述べるやうに、自然法學の立場からは、文化的・歴史的意義に根差した文化國體の概念を基礎に、傳統事實の中から規範的に意味を持つ事柄を法的當爲(規範)に昇華させた自然法的な概念として再構築し、主權國體とは全く別個の法律的概念としての國體(規範國體)の概念を設定する必要があつた。なぜなら、國家と法との關はり合ひを究明することが國法學と憲法學の至上命題であり、そのためには、「國家の本質」ともいふべき新たな法律上の國體概念を設定して究明することが必須となるからであつた。

文化國體は、我が國だけに限らず、およそ「傳統」を持つ全ての國家に存在する。しかし、これに權力的要素を含むか否かは、その國の傳統によつて決されるのである。アメリカ、カナダ、オーストラリアなどワスプ(WASP White Anglo-Saxon Protestant)の新大陸への移民による獨立國家建設の經緯を「建國の精神」による「傳統」と評價するならば、これらの國の規範國體には、權力的要素を多分に含むことになる。いづれも、宗教的かつ階級的事情などによる移民建國であり、先住民(インディアン、アボリジニー、タスマニア人など)の生命、土地、財産を略奪することの「自由と平等」、そして、本國からの「獨立」といふ權力的要素が文化國體の内容を構成してゐる。これは、ワスプの優越性を前提とする差別と排除の思想であり、これは黑人奴隷制度、奴隷牧場の經營、黄禍論による移民制限と隔離などの公然とした差別と排除を必然的に生じさせた。現在のアメリカでは、ヒスパニック(Hispanic スペイン語系住民)などの後發移民の激增に關して、ワスプ社會には文化國體の因果應報的ジレンマが生じてゐる。

「不法移民が建國した國が不法移民で惱んでゐる。」

これは、アメリカに限らず、移民建國の國家に共通する惱みである。今後は、この文化國體の權力的要素(差別と排除)を除去しうるか否かである。ワスプのアメリカン・ドリームを文化國體の要素として完全に維持するのであれば、それは白人至上主義を唱えるKKK(Ku Klux Klan)の運動と同樣に、權力的要素(差別と排除)に從ふことになり、また、文化國體から權力的要素(差別と排除)を除去するのであれば、それは、移民の完全自由化運動となる。今後の移民政策はその中間を振幅するであろうが、理念的には二者擇一であり中間は存在しないのである。

國體の樣相

では、これからは原點に戻つて、我が國の歴史・文化と、今まで國家が法とどのやうに關はり合つてきたかなどを檢討することによつて、我が國の文化國體と規範國體との具體的な内容を以下において明らかにしたい。

我が國は、唯物史學的には、皇紀五世紀(西紀紀元前三世紀)ころ、インドのアッサムや、支那の雲南省の山岳地帶に始まつた稻作が、複數の經路で傳來種による稻作が傳搬し普及したことを契機に、各地に形成された稻作主體の無數の農耕共同社會(Gemeinschaft)を構成單位として多數の部族國家群が發生した。そして、後に、その部族國家が相互に血縁結合して比較的平和裡に統一された部族血縁連合の統一國家としての大和朝廷が成立した。大和朝廷は、稻作農耕中心經濟の多數の部族國家の連合體として成立し、その部族の首長間の血縁的結合によつて統一された部族血縁連合統一國家である。即ち、日向一族、出雲一族、大和一族などの樞軸部族の首長が混血糾合して皇統を形成したものであつて、この血統糾合による皇統連綿に本質がある。皇統連綿という國家統合の象徴は、「血統の純粹性」にあるのではなく、「混血の廣汎性」にある。

大和朝廷では、精靈崇拜(アニミズム)と憑靈呪術(シャーマニズム)の遺制である「随神(かむながら)の道(かみのみち、神道)」を主宰する「總命(すめらみこと、すめろき」(天皇)が、祖先崇拜(祖靈信仰)に基づき、皇祖皇宗を含む八百萬の神祇(天神=天津神、地祇=國津神)に仕へ神事を司り、「社稷」の「祭り事」(政)を行ふといふ祭政一致の神政政治(Theokratie)が行はれた。

ここで、「社」は、「示」=「神」と「土」=「土地」との合字であり、土地の神(守護神)を意味し、「稷」は、五穀の神を意味する。從つて、社稷とは、五穀豐穰を祈り土地の神を祭る聖域を意味し、いづれも支那傳來の用語ではあるが、佛教の「一切衆生悉有佛性」、「山川草木悉有佛性」と同樣、多神教(總神教)信仰の核となる理念であり、これが轉じて、「國家」そのものを意味することになつたものである。

ともあれ、世界史上最長の血統連綿王朝である皇室の傳統は、「最長」だけに價値があるのではなく、皇祖皇宗から當今(今上陛下)の現在に至るまで皇統が連綿として繼續してゐるといふ「萬世一系」の男系男子の傳統に最大の意義がある。これは、我が國の傳統の中核を形成してをり、民族の同質性の理念的象徴なのである。

ただし、ここでいふ「民族」とは、歴史的民族(ヘーゲル)といふ意味で用ゐてゐない。一般に、民族とは、歴史、傳統、文化、言語、民俗、祭祀、宗教、生活、血縁、同族意識、気候、風土などの複合的な形成要因をもつて分類する歴史的民族概念で説明されてゐる。このやうな概念によれば、人種や國民(nation)の範圍とは一致しないので、民俗集團(ethnic group)といふ意味で「民族」を定義することになる。

思ふに、「民族」の形成要因は、民族教育(歴史、傳統、祭祀、宗教、言語などの教育)によつて培はれる自民族の歸屬意識に基づくものであつて、その民族が迫害を受け、戰爭で離散した流浪の民である場合や、他地域からの侵略を受け續けるなどの場合は、迫害や戰爭や侵略に對抗するための自衞手段として歸屬意識が昂揚し、歴史、傳統、文化、言語、民俗、祭祀、宗教、生活、血縁などの共通事項を認識して民族が形成されるのである。傳承と學習によつて觀念的にも歸屬意識は形成されることもある。また、國家及び社會への歸屬意識も自民族の歸屬意識と同質のものであつて、運命共同體である國家・社會に所屬して運命を共にする歸屬意識や、一般共同社會に同化する意識も、廣い意味では民族意識なのである。

このやうにして、戰爭や迫害や侵略の事實によつて民族が自覺的に形成され、その形成された民族によつて再び戰爭や迫害や侵略が繰り返されてきたのである。一般には、戰爭、迫害、侵略などを多く受けた民族ほど歸屬意識の強固な民族であり、これが少ない民族ほど歸屬意識が希薄な民族といふことになる。前者の例がユダヤ人や韓國・朝鮮人であり、後者の例が日本人である。しかし、我が國は、歴史的民族としての歸屬意識は顯在的には希薄であるが、それは島國といふ風土によるものであつて、むしろ共同社會への歸屬意識は比較的強固である。その意味では、我が國は、歴史的民族の分類によれば複數民族國家であらうが、歸屬意識の分類によれば單一民族國家といへる。

そして、その單一性は、我が國における「すめらみこと」(總命)といふ大和言葉に集約された理念であつて、各人の「個體發生原理」に根ざした各家族、各部族の「系統發生原理」である祖先崇拜(祖靈信仰)と軌を一にするものである。

ところで、ダーウィンの進化論を支持して、生物發生の根本理論としての一元説を主張したヘッケル(Ernst heinrich haeckel)は、「個體發生は、系統發生を繰り返す。」として、個體が受精し成體として誕生するまでの形態變化・發達の發生過程は、個體が屬する生物が過去から現在まで系統的に進化してきた過程(系統發生)を短縮したものであるとした。これも、進化論を支持した假説であり、進化論自體には問題があるとしても、雛形理論に基づく技巧的な説明であると云へる。そして、この説明を借用するとすれば、個々の人間の人生を人類の歴史の經過に擬へることもできる。人は父母の慈愛で誕生し、その父母もまた祖先の慈愛で生をうけた。そして、自らも慈愛をもつて子孫をまうけ、これが連綿と營まれる。親が子を慈しみ、子が親を敬ふは、人の本能(本性)にして全人類の普遍の理である。ここに、己が祖先から命を授かり生かされてきたとする感謝と敬虔思慕の念が祖先崇拜(祖靈信仰)、敬神崇祖へと昇華するのである。これは、儒教その他の宗教の教義によらずとも當然の歸結として受け入れられる人類の本能に根ざした人倫である。

老人福祉と孝行

ところで、現代において、祖先崇拜が希薄となつた例は枚擧に暇がないが、これが希薄となつたために、分業化が高度に進んだ現代大衆國家の病める姿の典型例を次に指摘する。

それは、老人福祉問題である。老人福祉について、その福祉豫算を限りなく增大することが福祉の向上であり正義であることを受け入れる風潮がある。しかし、このことは、反面において、祖先崇拜の始源的形態であり本能の發露である「親孝行」を否定することを促進してゐるのである。老人福祉は、財政上の措置で賄へるものではない。一人一人がその親と同居して介護し、麗しい家族生活をすれば、基本的に老人福祉問題は解消する。老人ホームなどといふ現代の姥捨山に親を遺棄しても、當面の命の保障がなされてゐるとの安心感から子供たちは全く罪惡感を抱かない不道德社會であるため、このやうな制度が自己の生活にとつて快適(快樂)であるとして、その種の豫算の增大を切望する。そして、親孝行をしたいので、そのために親と同居できる住居の提供などの豫算措置をしてほしいとの要求には耳を貸さず、逆に、親不幸をしたいので、親を姥捨山に連れて行く道を整備し、姥捨山の造成をするための豫算措置を求める聲に耳を傾けてゐるのである。老人福祉に携はつてゐる公務員や介護專業者の親が老人ホームといふ姥捨山にゐたり、獨居老人として別居して生活してゐるといふ砂を噛むような分業體制が日本を蝕んでゐる。

親孝行は、決して「分業」に馴染むものではない。分業したときから親孝行ではなくなる性質のものである。我が國には、そもそも利己主義や個人主義の理念は存在せず、家族主義や共助主義の理念しかなかつた。利己主義と個人主義とは意味が違ふのだと瑣末な議論をする個人主義擁護者の言説は、目糞と鼻糞の違ひを説明するに等しい虚しさを感じる。

歐米の持ちこんだ個人主義の理念は、共同社會(Gemeinschaft ゲマインシャフト)と調和するとの幻想もあつたが、實際は共同社會を崩壞させ、利益社會(Gesellschaft ゲゼルシャフト)へと導いたため、利己主義と何ら異ならないものとなつた。さらに、共同社會の再構築としての「福祉社會」理念についても、福祉の意味を誤解し、自我の欲心を正當化するための標語と化し、現代のやうに精神文化生活が著しく混亂したのである。これを軌道修正して麗しい社會を實現しうるには、傳統に回歸して家族共同社會を再構築することしか道はありえない。そして、すべての人々の家族の祖先が萬世一系の天皇宗家に連なり、皇祖皇宗を始源とする共同社會であるとの深層民族意識に基づき、宗家である皇祖皇宗の神裔である總領を「すめらみこと」(總命)として尊崇するのである。このことについて、水戸學の理論的指導者であつた會澤正志齋(1782~1863)の『新論』では、「治むるところの蒼生は、すなわち依然として天祖の愛養したまひしところの裔孫なり」と説いたのである。

國體の形成過程

帝國憲法第一條の「萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」といふ表現にも見られるやうに、「萬世一系」とは、文化・歴史・傳統の樞軸として、規範國體の中核的要素を構成してゐる。天皇統治とは、ブルンチュリ(Johann Kaspar Bluntschli)の見解であれば、神政政治(Theokratie)であり「神の支配する政治」である。これは、ブラクトン(Henry de Bracton)の「國王といへども神と法の下にあり」との名言の意味する「法の支配(rule of law)」、つまり「國體の支配」と共通した統治理念のことである。つまり、第一條は、「國體による統治」を意味し、「權力のよる統治」を意味するものではない。

この「神(國體)の支配する政治」の理念は、支那の律令制度を修正して導入した際に顯著となつた。支那の律令制度は、中央集權國家を建設するため、官職制と律令格式の法體系を確立したものであつて、それを人的に支へるのは官吏登用のための科擧制度である。即ち、科擧制度あつての律令制度であつた。しかし、我が國は、科擧制度を導入せず、從來よりの部族血縁連合による統治の形態を維持したのである。官吏登用の科擧制度を導入しなかつたため、官吏の任用は各部族から均等に求められることになつたが、その後次第に律令組織機構の主要官職について、有力部族による寡占が進み「貴族制」へと發展した。この貴族制は、皇位を維持する機能を果たすとともに、その反面において閨閥による皇位簒奪の危險も孕んでゐたことから、それを防止するために男系男子の皇統が守り續けられてきたのである。

さらに、特徴的なものは、行政組織において、國政を統括する太政官とは別に、神祇官といふ朝廷の祭祀を司る官職を設けたことである。この神祇官は、支那には存在しない官職であり、これを太政官よりも上位の官制としたのである。これは、我が國古來の法(正義、國體)の支配の理念ともいふべき「神政政治」の顯現であると同時に、王覇辨立を意味する「王覇の辨へ」の實踐でもある。

この「王覇の辨へ」とは、既述のとほり、皇室の傳統的な統治理念であつて、天皇(スメラミコト、オホキミ)の「王者」としての「權威」(大御稜威)に基づく「覇者」への委任により、「覇者」がその「權力」によつて統治する王覇辨立の原則である。これは、有史以來、殆ど例外なく實踐されたが、大化の改新(645+660)、延喜・天暦の治(901+660~956+660)、建武の中興(1334+660)及び大政奉還(1867+660)が天皇親政(王政復古)となつた希少事例である。なほ、「王者」の用語は、支那の易姓革命思想である「王者易姓受命」(『史記』)の「王者」の意味であつて、同じく支那の用語である「封冊」、即ち「皇帝」から國王の官爵を授けられ所領を安堵される「王」の意味ではないことに注意されたい。

政治史的に見れば、天皇親政の時代は希少事例であり、いづれも政治の大きな變革期に登場するが、その時代は常に長くは續かなかつた。有事や變革黎明期においての天皇親政、平時においての天皇不親政といふ現象である。そのことからして、大政奉還後から元老政治が終焉を迎へる昭和初期までは、天皇親政の時代であつたとも言へるが、それ以後は、「覇者」は軍部と内務省であり、その二大覇者による統治であつた。これは武家の棟梁による「幕府政治」そのものであつた。公家政權は天皇から統治權を簒奪したが、武家政權(幕府)は統帥權のみならず統治權まで簒奪した政治制度であつた。これとの比較からすれば、軍部と内務省は、武家政權が一體的に有してゐた統帥權と統治權とを分離して棲み分け支配してきたといふことができる。それが、ポツダム宣言受諾をめぐる御前會議において天皇陛下の御聖斷が下り、瞬時的に天皇親政となつたが、ポツダム宣言受諾により、再びマッカーサーといふ覇者が現れ、征日大將軍となつて「東京幕府」を開いたことになる。その後の「東京幕府」は、將軍不在のため歴代の内閣總理大臣が「執權」として統治してきたのである。そして、再び國家大改造のため、倒幕の時期が到來してゐるのである。

いづれにせよ、日本の最高權威(大御稜威)は一貫して「皇統」にあり、我が國には覇者の交替(維新)はあつても革命が一度もなく、また、なかつたことによつて傳統を形成してきたといふ嚴肅な事實がある。

大化の改新以來、邪惡な權力の打倒を根據付けた「維新思想」や、承久の亂(1221+660)において鎌倉幕府側が依據した「君側の奸」を排除する思想は、皇統の權威(大御稜威)の普遍性を基礎として、權威に整合しない權力を打倒し、「覇者といへども王者の下にある」とする神政政治の理念であり、「國體の支配」の理念なのである。

承久の亂は、仲恭天皇が僅か四歳で踐祚された承久三年(1221+660)四月二十日の翌五月に勃發した。天皇が讓位後に上皇となつて「院政」を行ふやうになつたのは白河上皇の時代(1086+660)から始まり、この戰亂も後鳥羽上皇の建久九年(1198+660)正月から始まつた長期院政下に起こつた。院政は、天皇を讓位した上皇が「治天下の君」(治天の君)となつて、天皇に代はつて政務を執る政治形態であり、このことによつて、藤原氏が天皇の外戚として攝政や關白として政務を執る攝關政治を排除したことに意義があつたものの、天皇親政を認めないことにおいては、攝關政治と同樣でありその弊害もまた同じである。承久の亂は、上皇側も鎌倉側も、君側を清め奸臣を除くとの大義名分に基づく天皇不在の覇權爭奪戰爭であつたのである。

ともあれ、神政政治の理念は、我が國における「法の支配」の理念であり、それが王覇辨立の原則である「王覇の辨へ」をも演繹するものである。そして、これらの理念及び原則の源泉は、「和の精神」にある。聖德太子は、外交において、中華思想といふ排外差別思想の支那に從屬せず、かつ征服もしない對等の友好關係を形成しようとして、對外的に「和」の實踐を行はれた。『隋書』倭國傳によれば、遣隋使が隋の煬帝に宛てた國書(607+660)に「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや。云々」とあり、さらに、翌年の『國書』にも「東の天皇(すめらみこと)、敬しみて西の皇帝に白す」とあることから、このことが窺へる。そして、國内においても、『日本書紀』卷第二十二『豐御食炊屋姫天皇 推古天皇』(トヨミカケシキヤヒメノスメラミコトすゐこてんわう)の項に、『憲法十七條』(いつくしきのりとをあまりななをち 資料四)を制定され「和」の精神(以和爲貴)を國是とされた。それは、政治のみならず、産業、文化、藝術など全ての生活事象に普洽した。

そして、この「和」の精神は、平等公平の理念を演繹する。即ち、平等を手段とし、公平を目的とする理念は、和の精神に由來する統治の基本原則なのである。それは一視同仁の實踐である『萬葉集』に象徴される。古代國家において、文化、藝術に對する敬意の念は、現在では想像を絶するほど大きい。當時において最高級の文化・藝術は、國家の最高權威の象徴であつて、『萬葉集』はその頂點に存在する。古代「やまとことのは」(大和言葉)は、それまで宣命體(宣命書き)で表記されてゐたのであるが、『萬葉集』は、その表記に代へて、後世の「かな」の源流となつた「萬葉かな」による表記といふ畫期的な世界最古の國家編纂歌集である。『萬葉集』の意義は、單に、大和言葉を日本の統一言語としたことにとどまらない。萬葉歌人は天皇から防人、農民まで、その範圍は廣範であり、作品の評價は、作者の身分や地位で左右されるのではなく、作品自體の評價によるとの基準に基づいたことにある。これは、價値の創造は平等公平に能力に即應して實現するとの平等公平の理念を顯し、大化の改新、建武の中興や明治維新のやうな王政復古の時期において、公地公民制や四民平等制などを基本政策としたことは、この理念の發現である。

また、和魂漢才などの自決と進取の精神も、差別と偏見のない價値崇拜ともいふべき平等公平の理念に由來する。この自決と進取の精神は、初めて佛教が傳來したとき、特徴的に發揮された。即ち、當初は、傳來佛教と随神の道との相剋が生れたのであるが、共に多神教(總神教)であることを契機に兩者は止揚(Aufheben)され、『日本書紀』卷第二十一『橘豐日天皇 用明天皇』(タチバナノトヨヒノスメラミコトようめいてんわう)の項にあるやうに、「天皇信佛法尊神道」(スメラミコト、ホトケノミノリヲウケタマヒカミノミチヲタフトビタマフ)として、その後、いはば「日本教」として再生發達していつた。

ところで、前述したとほり、この佛教の受容について、このことを以て國體が變質したとする見解がある。その根據は、聖德太子の憲法十七條において、「二に曰はく、篤く三寶を敬へ。三寶とは佛・法・僧なり。」とあることから、これを以て我が國の眞柱が敬神から崇佛へと變化したとするのである。しかし、この見解はこれまでの俗説に過ぎない。この點は特に重要であることから、以下の理由により誤りであることの概要を再述するので、よく肝に銘じていただきたい。

聖德太子は、敬神崇祖と輪廻轉生による盂蘭盆會を實施され、憲法十七條發令の三年後には祭祀神祇についての『推古天皇の御詔敕』(資料五)が渙發され、聖德太子は群臣を率ゐて篤く天神地祇を祀られた。『憲法十七條』には、この祭祀神祇のことなどが書かれてゐないが、それは、いはば當然のことである。憲法十七條の性質は、特に注意すべき規範と新設の規範が集大成された付加的な規範であり、古來よりの規範國體を變更するものではない。國體規範の根幹の部分であつて當然のことである祭祀神祇、敬神崇祖と輪廻轉生、さらに、四劫(成劫、住劫、壞劫、空劫)の循環をわざわざ書く必要はなかつた。それゆゑ、佛教の受容によつて國體に變更や變質はない。敬神から崇佛ではなく、敬神と崇佛が兩立し、神佛混淆が進んで神道が強化され、我が國の信仰生活の原型として包攝的に形成されてきたのである。しかし、憲法十七條を以て敬神崇祖、祭祀神祇を疎かにするかの如き不心得が生ずることを懸念されて、推古天皇の御詔敕に至つたものである。

そもそも、我が國には、釋迦の説いた純粹佛教は傳來してゐない。稻作文化圈内の多神教(總神教)文化の交流として、支那の揚子江(長江)下流付近にあつた呉の國から我が國に「私傳(密傳)」された傳來佛教は、多神教文化圈を經由する特質として、既に儒教、道教や土着の民族宗教などが融合した解脱の教へとなつてゐた。「呉」の國とは、我が國と同樣、水稻作に最適な梅雨型氣候のある中國の揚子江(長江)下流付近に存在した國家であり、①周代及び春秋時代にかけて春秋五覇の一つである「呉」(660-1000頃~660-473)、②三國時代の一國として孫權が建てた六朝の初代王朝であり六朝文化の中心であつた「呉」(222+660~280+660)、及び、③五代十國の一國(902+660~937+660)の三國を總稱するが、稻作は、この「呉」から日本へ直接傳播されたものであり、それに伴つて、稻作に必要な農具の鐵器などの金屬器製法技術などの文化が流入した。稻作は、治水、灌漑、土木、耕作・栽培・保存・再生技術などの體系的技術と、栽培に適した氣候・風土に關する農學的知識を總合した農耕文化であつて、種苗だけを取得すれば簡易に傳播するやうなものではない。そして、これらの技術と知識を傳へ、これを取得するには、文字(漢字)が不可缺であつて、稻と文字とは一體として我が國に傳はつたはずである。呉の國があつた揚子江(長江)下流付近や韓半島南部、それに日本列島は、梅雨型氣象といふ稻作に適した氣候・風土であり、我が國で多く栽培されてきた稻が我が國の野生種ではなく傳來種と交雜した栽培種であることから、呉の國付近から傳播したものであることは確かである。また、氣候や地勢が類似する地域は生活樣式が近似してゐるため、他の地域への場合と比較して、外來文化の吸收度も格段大きくなる。漢字が表意文字であつたことも、異言語社會への技術傳播を促進した一因でもある。そして、文化傳達の媒介となる文字(漢字)は、農耕技術以外の豐富な技術と文化をも傳播させる。和服の反物を意味する「呉服」の語源が、「呉」の國の織物製法に由來することもその一例であるが、さらに、傳來佛教の思想についても例外ではない。

大乘經典は、釋迦入滅(660-483又は660-383)から三百年ないし四百年を經て成立したものであり、それが「呉」の國を經由して漢字と共に我が國に傳來した。富永仲基(1715+660~1746+660)が『出定後語』で指摘したやうに、大乘經典は釋迦の教へとは關係がないとまでは斷言しえないとしても、少なくとも釋迦の純粹な教へを傳へてゐるとは斷言できない。我が國に傳來した大乘經典その他の主要佛典や主な生活言語の漢字發音表記(數字、佛教熟語、戒名などの表記)は、いづれも呉音であり、以後に百濟から傳來した漢音(唐音)表記の漢字や佛典とは著しく異なる。これは、漢字や傳來佛教が、國家間で正式に公傳される遥か以前に、民間での私傳(密傳)が盛んに行はれてゐた例證である。佛教私傳は、繼體朝(507+660~531+660)の頃に韓半島からの渡來人によるとする見解があるが、それでは公傳の時期と殆ど同時といふことになる。しかし、韓半島からの渡來人が呉音で傳へることはありえず、「法華經」の音讀が漢音(ほうかけい)ではなく呉音(ほつけきやう)であり、「般若心經」の音讀が漢音(ばんじやくしんけい)ではなく呉音(はんにやしんきやう)であることなどからして、公傳時には既に呉音の漢字と傳來佛教が定着してゐたはずである。そのため、後世になつて百濟の聖明王から朝廷に、漢音の發音で佛典等が「公傳」された時(538+660又は552+660)には、呉の國から呉音の發音で私傳(密傳)された傳來佛教が既に日本に定着してゐたと思はれ、その後も、佛教論爭を經た後、宗教的混淆が一段と深化したものと推定される。

反本地垂迹説

ところで、キリスト教などは「救濟の教へ」であり、傳道者(宣教師)中心であるのに對し、佛教は「解脱の教へ」であり、求道者中心であつて布教に至上價値を見出してゐないものである。從つて、傳來佛教は、キリスト教傳來の場合とは異なり、布教と征服を目的として我が國に傳來したのではなく、文化の一翼として傳來したのである。また、揚子江(長江)下流付近は、六朝文化に象徴されるやうに、四書五經、老荘など諸子百家が爭鳴した地域であり、多神教文化(汎神文化、總神文化)の中心であつた。從つて、儒・釋・道の三教が合流する土壤から發進された傳來佛教であつたため、多神教(總神教)の我が國において「神佛習合」や「本地垂迹説」などを生み出す基礎があつたのである。

この「本地垂迹説」とは、世阿彌の『至花道』に云ふ「能に體、用(ゆう)の事を知るべし。體は花、用は匂ひの如し。」のやうに、物事の本質や本源を「體」とし、その作用や働きを「用(ゆう)」とする區別に從へば、佛や菩薩が「本地」すなはち「體」であり、神が「垂迹」すなはち「用」とするのであるが、「祭祀」が「體」であり、擬似祭祀である「宗教」が「用」であることからすれば、本地垂迹説は本末轉倒の謬説である。つまり、神が本地で佛が垂迹である(反本地垂迹説)。

稻作發祥の地とされる支那の雲南省や貴州省などの山岳地帶に暮らすハニ族、タイ族、ミャオ族などには、初穗に稻魂が宿り、それを祖靈と共に崇拜する「稻魂信仰」があり、佛教が伝來した後も、稻魂は釋迦よりも上座に位置するのである(欠端実)。まさに、反本地垂迹説なのである。このやうに、祭祀が主であり、宗教が從であるとすることに覺醒した世界の人々からすれば、人は、死して後、成佛して絶對神の御許に至つて後裔と無縁の存在となることを願ふ「自利」を求めるのではなく、後裔の繁榮を守護する祖靈となることを願ふ「利他」にこそに本能適合性(善)がある。「宗教」では、もし、死して成佛したといふのであれば、何ゆゑに供養や法事を續けるのか、その本質的な説明に虚偽と矛盾がある。これは、やはり擬似祭祀であり、教團の經營のための營業活動に他ならない。

今や佛教は堕落してゐる。明治五年四月二十五日に「今より僧侶の肉食妻帶蓄髪等は勝手たるべきこと(自今僧侶肉食妻帶蓄髪等可爲勝手事)」といふ太政官布告が出され、僧尼令が廃止されたことが堕落の始まりではない。肉食妻帶を公然と實踐した親鸞は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念佛申したること、いまだ候はず」(『歎異抄』第五條)とし、さらに、『顯淨土眞實敎行證文類(教行信證)』(文獻30)の「顯淨土方便化身文類六」の後半に、數々の經典等を引用しながら、「天を拜することをえざれ。鬼神をまつることをえざれ。吉良日をみることをえざれ。」、「天を拜し神を祠祀することをえざれ。」、「國王にむかひて禮拜せず。父母にむかひて禮拜せず。六親につかへず。鬼神を禮せず。」、「もろもろの外天神に歸依せざれ。」、「祭祀の法は、天竺には韋陀、支那祀典といへり。すでにいまだ世にのがれず、眞を論ずれば俗をこしらふる權方なり。」などと「神祇不拜、國王不禮」を説いた。つまり、祭祀と天皇の完全否定である。反天皇、反民族であり、本地垂迹説すらも否定した。これは、本地「非」垂迹説である。

法然(文獻225)のいふ「選擇(せんちゃく)」とは、諸々の雜行(ざふぎゃう)を投げ捨て専修念佛(せんじゅねんぶつ)することであり、稱名念佛を本と爲す(念佛爲本)であつて、親鸞は、さらに信心爲本としたが、いづれにせよこれらは民度を低下させる愚民化宗教である。戒律があつての僧侶であるのに、破戒を斷行し、神祇不拜、天皇否定、祭祀排除に進んだ。これが日本佛教の確信犯的な堕落と崩壞の始まりであり、これが徐々に他宗派にも浸透して行つた。そして、この肉食妻帶の破戒を實踐した「非僧非俗」を名乘る親鸞を宗祖とする「破戒僧侶」の教團が生まれるといふ、三寶(佛、法、僧)と戒律を核とした佛教からの決定的な乖離が生まれる。親鸞の末裔である蓮如と親交のあつた飮酒肉食女犯を常習とする禪宗の破戒坊主として有名な一休宗純が蓮如の居室に上がり込み、阿彌陀如來像を枕に昼寢をしてゐたところ、歸宅した蓮如がこれを見て、「俺の商賣道具に何をする」と言つて二人して大笑ひしたといふ逸話があるほど、僧侶の戒律は亂れに亂れて行く。一休宗純は「襟卷きの温かさうな黒坊主こやつが法(のり)は天下一なり」と親鸞のことを詠んだが、たとへその法が天下一であつたとしても、兩人とも破戒にかけてはそれこそ天下一であつた。

『寶暦現來集』によると、寛政八年(1797+660)八月、江戸町奉行坂部能登守の命で、遊郭の吉原や各地の岡場所から朝歸りする僧侶の一斉檢擧により、日蓮宗、浄土宗、眞言宗、天台宗、曹洞宗、臨濟宗など、ほぼ全ての宗派に屬する十七歳から六十歳までの六十七人の僧侶が女犯の罪で召し捕られ、同月十六日から三日間、日本橋のたもとに數珠繋ぎになつて晒された事件があつた。僧侶が女犯の罪で日本橋のたもとに晒されるのは決して珍しいことではなく、日常茶飯事のやうに頻繁に起こつてゐた。この事件が特筆されたのは、餘りにも多人數であつたためだけである。これ以外にも、文政七年(1824+660)八月には六人の女犯僧、天保十二年(1841+660)三月には四十八人の女犯僧が日本橋に晒されるなど、枚擧に暇がない。そして、これ以外にも、大田南畝の『一話一言』にあるやうに、江戸の谷中にあつた延命院といふ日蓮宗の寺で、住職の日動が寺社奉行に届け出することもなく内密に隱し部屋まで作つて、參詣に來た複數の女と常習的に淫欲に耽つてゐた事件などもあつた。享和三年(1803+660)の事件である。そして、前掲明治五年太政官布告は、このやうな僧侶の破戒と堕落に齒止めがかからないことから、現實との乖離を埋めるために發令されたものであつた。

江戸後期の農政家である二宮尊德の口述(『二宮翁夜話』日本経営合理化協会出版局)によれば、二宮翁は、親鸞の肉食妻帶は卓見ではないかとの意見に對し、「それはおそらく間違つてゐるぞ。」として、佛道を田んぼの用水堰に喩へ、「用水堰は、米をつくる大事な土地をつぶして水路としたものだ。佛道といふものは、人間の欲をおさへ釋迦の法の水路として世を救はうとする教へであることは明らかなことだ。人間には男女があつて結婚して相續していくものだから、男女の道は天然自然のものなんだが、この性欲といふ欲をつぶして佛法の水の堰としたんだよ。男女の性欲を捨てれば、それに伴ふ、おしい、欲しいの欲も、憎い可愛いといふ迷ひも自然に消えてなくなるんだ。・・・それなのに肉食妻帶をゆるしておいて仏法を實踐せよといふのは、ちょうど用水路をつぶして稻を植えよ、といふのと同じじゃないか、とワシはひそかに心配して爲るんだよ。」と答へてゐる。まさしく卓見である。

親鸞の教へを中心とした淨土門と、聖道門のうちの禪のみを肯定した鈴木大拙(文獻68)は、神道と國家神道とを混同し、神道と歌道を全否定した。親鸞の教へを踏襲すれば、このやうな愚かな結論に至るのである。また、淨土門と聖道門とを共に肯定する鈴木大拙の支離滅裂なる矛盾は、金剛般若波羅蜜經(文獻258)の解釋にも顕れる。「仏説般若波羅蜜多、即非般若波羅蜜多、是名般若波羅蜜多」の意味を、「Aは即非A是名A」、つまり、「Aは非AであるがゆゑにAである。」と恣意的に一般化し、肯定(即)と否定(非)とが自己同一であるとする「即非の論理」を編みだし、これが『善の研究』を著した西田幾多郎の「絶對矛盾的自己同一」といふ支離滅裂の言説へと連なる。この「即非の論理」といふのは、前述したとほり、論理學における排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)に明らかに反してゐるので、「論理」ではない。つまり、正確には「即非の非論理」とすべきところを、これまた「即非の論理」と命名するほどの「非論理」なのである。この非論理は、親鸞の前掲教行信證(文獻30)の「顯淨土眞實教文類一」の冒頭にも見られる。「つつしんで淨土眞宗を案ずるに、二種の廻向あり。一には往相、二には還相なり。往相の廻向について、眞實の教行信證あり。」として、佛に成るための精進をして(往相)、佛に成つて衆生を濟度する(還相)ことを説くが、これは自力の大乘佛教であつて、絶對他力でも專修念佛でもないのである。まさに非論理であり矛盾の極みである。

釋迦が成道して布教活動を始めたとき、佛教教團の維持のために僧侶と在家信者を區別する規範を必要とした。それが「戒律」である。「戒」とは、僧侶が自らを戒める内面的な規範であり、「律」とは、佛教教團内で守るべき集團規範である。それゆゑ、戒律の放棄は、佛教教團の解體であり釋迦の教へを否定することと同じである。その意味では、日本佛教の歴史は佛教からの離脱と棄教に至る過程を辿つてきたと云へる。戒律を破つた僧侶は、もはや僧侶ではなく、その集團は嚴密には「佛教教團」ではない。そして、ついに明治五年太政官布告を口實に僧侶が戒律を捨てた。「今より僧侶の肉食妻帶蓄髪等は勝手たるべきこと(自今僧侶肉食妻帶蓄髪等可爲勝手事)」といふのは、戒律を捨てることについての許可であつて、戒律を捨てろといふ命令ではない。にもかかはらず、國法に藉口して佛法を捨てたことになる。かくして佛教各宗派は、佛教を捨てたのである。

そればかりではない。多くの佛教宗派は、宗旨と儀式などの相違に心を碎く瑣末主義に陷るだけで、人の道において最も重要な「祭祀」をも捨ててしまつた。これによつて、日本佛教は、世界と宇宙の雛形構造から大きく外れたことから、いづれ滅びる運命にある。そして、同じく祭祀を捨てたキリスト教やイスラム教なども同じ運命をたどることになるのである。

そもそも、佛教は釋迦の教へではない。當時の釋迦の教團の性質と存在意義は、現在の營利集團としての「宗派教團」とは全く異なる。また、既述のとほり、大乘經典は、釋迦が入滅して約四百年後に成立したものであり、釋迦の純粹な教へを傳へたものとは云へない。

また、キリスト教もイエスの教へではない。新約聖書もイエスが死亡してから約四百年も經てから完成してゐるもので、イエスはキリスト教を開教するとは宣言してをらず、キリスト教開教の祖ではない。ペテロ+パウロ教と名乘るべきものである。同樣に、既述の浄土眞宗は親鸞の教へではない。親鸞の著作である『教行信證』は開宗の宣言をしたものではない。覺如+蓮如教なのである。これらは全て一神教である。そして、これらの一神教は、五感の作用による認識、論理と直観による認識によつて、その教義に對して懷疑することを信仰否定、信心放棄として攻撃する。しかし、これらは、「信じることによつて救はれるとする『教義』を信じろとする『教義』」であり、信じることによつて救はれることを保証した教義ではない。ましてや、キリスト教は、それを信じたとしても、自己が救はれるか否かは神のみぞ知るとする豫定説である。また、法然の「念佛爲本」と親鸞の「信心爲本」の相違についても瑣末なものである。具體的に云へば、念佛爲本では啞者は救はれず、信心爲本では信心の意味が理解できない知的障害者は救はれないといふことである。早世した者や多くの知的障害者、認知症患者らは救はれないのである。これらの教へは、世界宗教であると自惚れる多くの宗教に共通したもので、すべて差別思想の宗教であると斷定することができる。

ものごとに對する懷疑といふのは、本能の作用としての警戒心から生まれるものであり、懷疑を抱くことは健全な人の姿である。その懷疑の作用のうち、特に、教義に對する懷疑を惡として全否定する教義には本能適合性がない。世界宗教といふのは、人に備はつた本能に從つて生きることを否定し、人に備はつた眞の活力を奪つて思考停止させ愚民化させる。そして、信じる者と信じない者とを差別し、信じない者は地獄に落ちると脅迫して布教する。さらに、民族性を否定ないしは無力化して無政府主義に至る。神佛の前には、民族性などは不要かつ有害であるとされる。人々は、長い歴史的な洗腦によつて、民族性や地域的特性を否定する世界宗教といふ無政府主義思想を受け入れてきたが、昨今のグローバリズムといふ乱暴な無政府主義に抵抗を感じてゐるのは、この世界宗教からの呪縛から逃れやうとする本能の作用が回復基調にあることを示してをり、早晩世界宗教は滅びる運命にあると云へる。

人は「神の子」ではなく「祖先の子」である。もし、世界の宗教が祭祀の復活と戒律の嚴守を基軸として再構築できれば、滅びを免れることにならう。世界の宗教が祭祀の下で萬教歸一するためには、やはり、祭祀と宗教とは、前に述べた「體と用」の關係、つまり、本源(本地)が祭祀で、その作用(垂迹)が宗教といふ關係(反本地垂迹説)によつて再構築されなければならない。その意味で、本地垂迹説の逆説であつた、この「反本地垂迹説」は、世界人類統合の世界思想なのである。

歴史的にみれば、「倉廩實ちて禮節を知り、衣食足りて榮辱を知る」(『管子』)との格言のとほり、傳來佛教などの外來思想の受容は、その前提として稻作中心の農耕が定着した社會となつてゐたためである。稻作は、當時から、土木、治水を含めた統一的集團作業に支へられてをり、また、地勢や氣候など森羅萬象に依存し、その變化に多大の影響を受ける性質のものである。從つて、必然的に精靈崇拜(アニミズム)や憑靈呪術(シャーマニズム)を支へる土壤があり、祖先崇拜と自然崇拜、祖先祭祀と自然祭祀、民俗祭祀とが一體となつた。それゆゑ、これらを統合した「随神の道(神道)」は、單なる精靈崇拜や憑靈呪術の遺制ではなく、大嘗祭や新嘗祭など稻作農耕中心による建國統一の理念をも融合させてゐるのである。

稻作漁撈文化と國體

この稻作は農業の中心として、我が國の歴史、文化に深く溶けこんでゐるのみならず、漁撈と一体となつて食料自給の要諦となつたきた。この稻作漁撈文化は、多神教(總神教)文化を育む。このことが、麥作を中心とする畑作牧畜文化とそれが育んだ一神教文化との根本的な相違點である。

稲作の農用地は、森林と共に水源を涵養し治水を果たすなど、古來から現在に至るまで重要な地勢學的貢獻をなし、その經濟的效果は絶大なものがある。ところが、森林、河川、湖沼、農用地などを妄りに開發し、水源、水脈の破壞や汚染、自然生態系の破壞が今なほ繼續して行はれてゐる。特に、日本全土で二千箇所以上も存在するゴルフ場は、殊更に森林を伐採して水源と水脈を破壞し、農藥で水質を汚染する元凶である。一部の者の健康のためと稱するスポーツ施設のために、結果的には多くの人々の健康が害されていくのであり、いはば、「うたかたの幻の健康」のために、「とこしへの健康」が失はれていくゴルフ場の存在自體が我が國の將來にとつて全く有害であつて、新たなゴルフ場の建設反對どころか、日本列島から全てのゴルフ場を驅逐することが必要なのである。

我が國は、過去において、自決と進取の精神を發揚して、上質文化への憧憬により、遣隋使や遣唐使などによる支那との直接の文化交流を盛んに行つたが、物資交換を主眼とした經濟交流(交易)は行はず、採取・狩獵・漁獲を混合させた稻作中心の農耕による自給自足をさらに追求していつた。といふよりも、文化交流の目的は、自國の文化發展のために諸學を導入することにあり、當然に農耕技術その他の技術の向上による食料の國内安定供給と生活物資の國内確保に向けられてゐたのであつて、貿易依存体質への方向とは全く逆の方向であつた。つまり、自決と進取の精神といふ我が國の傳統は、食料、資源、動力(エネルギー)などの基幹物資を國外に依存せず、自給自足經濟(アウタルキー、Autarkie)を確立すること(自決)であり、そのための技術向上を目指して文化交流すること(進取)なのである。いはば、「自給自足經濟の確立のための文化交流」であり、近代以降現代に至るまでの、「自給自足經濟の放棄のための經濟交流(交易)」ではない。これらのことは第六章において詳述するが、現代の國際交流は、この我が國の傳統に基づく規範國體に反し、世界と日本の不安定化を促進してゐることになつてゐる。

戰前、我が國は、食料安全保障の見地から、主として米(コメ)の確保のために韓半島に近代的農業政策を推進したが、關東大震災、金融恐慌及び世界恐慌で疲弊した農民に追ひ討ちをかけるやうに、内地への米(コメ)の過剰流入などによる米價の下落を招くこととなり、その結果、内地と韓半島の共倒れ的な農民の疲弊と農村の崩壞を生んだ。そして、これが、二・二六事件から敗戰に至る遠因でもあつたのである。現在、これとは異なり、稻作中心の食料自給體制をめざす總合的農業政策を確立させずに、逆に無計畫な減反政策と補助金漬けの行政が繼續されたため、農民・農村の體力と活力が急速に減退している状況下で、米(コメ)の貿易自由化要求の外壓を受けてゐることは、「歴史は繰り返す」との格言のとほりである。基本的に、國家の苦難は、食料問題と資源(エネルギーを含む)などの基幹物資が確保しえない危機的状況に集約されるのであり、安定國家の指標は、その「自給率」の高さに比例すると言っても過言ではない。

過去の戰爭や内紛の多くは、究極的には食料や資源(エネルギーを含む)などの「基幹物資」の爭奪、特に、基幹物資の中核に位置するエネルギー(動力源)の確保を巡る戰爭、まさに「エネルギー戰爭」であつた。大東亞戰爭を含め、『日獨伊三國同盟』(昭和十五年九月)は「持たざる國」の連合として、この樞軸國による第二次世界大戰は、經濟面において世界史上最大の「エネルギー戰爭」であつたことは明らかである。連合國は、いまですら「自由貿易主義」で世界を席捲してゐるが、戰前には、英米は保護貿易主義に立つて、それぞれの經濟ブロック化を推進して「地域主義(Regionalism)」の實現を謀らうとしたため、我が國は、これによる經濟破綻を回避するために、獨自の地域主義である大東亞共榮圈の建設を推進したのであつた。大東亞共榮圈構想は、戰前からの連合國の世界戰略に對抗して、國家安全保障の見地から、危險を分散して基幹物資の安定供給を確保し、自給率を高めるための地域主義に立脚してゐたのである。しかし、止むを得ないことではあつたが、我が國もまた歐米列強と同樣の生産至上主義に脱した結果の戰爭であつた。そして、現在もその基盤に立つて未だに世界の先頭を走つてゐる。

 既に述べたやうに、この生産至上主義は、全世界を席捲し、ヤルタ・ポツダム體制及び國連體制と結びつき、經濟・金融面においては、昭和十九年七月の『ブレトンウッズ協定』による國際通貨基金(IMF)と國際復興開發銀行(IBRD、世銀)と、昭和二十二年の『關税貿易に關する一般協定』(GATT)による、いはゆる「GATT・IMF體制」による世界金融の統合と自由貿易の推進、世界貿易の擴大を圖り、軍事面においては、昭和四十三年の『核兵器の不擴散に關する條約』(NPT)などによる、いはゆる「NPT體制」による核保有國主導の核管理とによつて「世界主義(Globalism)」による世界支配を實現しようとした。その後、GATTは、平成六年に發展的に解消して、翌七年に新設された世界貿易機關(WTO)に吸收されたが、その基本的な體制は維持されてゐる。否、それどころか、金本位制の崩壞、變動相場制への移行、金融緩和政策の實施などにより、國境を越えて世界的に金融資本の過剰流動性が高くなつて實體經濟を壓迫し、いまや産業資本主義の時代から金融資本主義の時代へと變化してきてゐる。

それは、グローバル化といふワンワールド構想による世界の中央集權化であり、政治的、經濟的、軍事的に、世界各國の連合國への依存體質が強化されることを推進することにある。さうすれば、世界の全ての國が、自國に必要な食料、資源、エネルギーなどの基幹物資の自給率を低下させることとなり、その供給地に少しでも異變が起これば基幹物資の確保のための軍事的・經濟的などの措置をとらざるを得なくなる。それが一國で對應しうるものであれば別であるが、殆どの問題は一國で對應しきれない。そこで、當事國は國連(連合國)に救濟を求めざるを得ず、それによつて益々連合國主導の世界機構による覇權が實現するのである。連合國は、自國においても基幹物資の自給率を低下させることが安全保障上も問題があることを知悉してゐたので、世界各國、とりわけ我が國が連合國の指示通り年々自給率を低下させてゐることは逆に、連合國各國は年々自給率を高めてゐるのである。米(コメ)凶作となつた場合、これを米(コメ)の貿易自由化の必要性の根據として主張する見解は、あたかも發熱して惡寒の症状を呈する病人の體を冷氣に曝すが如き暴論である。

規範國體と成文法との關係

我が國は、歐米に比して歴史的に豐饒なる文化を保有してきたが、これとは對照的に整備された成文法が極端に少ない。これは、中央であると地方であるとの區別なく、歴史を通じての特徴である。法の名を冠するものは、「佛法」など少數であり、およそ人の行爲や結果の評價を規律するもの(規範)や人との約束事(契約)を文章化することは不信の顯れであるとする「文化」を形成していたのである。むしろ、文章化されるのは、治安が亂れてゐたり、人の信賴が保たれてゐない場合のやうに、その實效性に不安があるときに限られてゐた。從つて、我が國には、成文法による統治の傳統がなく、不文法の國であつたといふことである。成文法統治とされる律令制度は、皇紀十四世紀初頭(西紀七世紀後半)に成立したものの、部族連合による統治制と公地公民制といふ二律背反の制度が共存するなどの制度内矛盾により、その律令制度の確立と同時に崩壞し始めた。といふよりも、律令制度は、その當時、中國及び韓半島に存在する強大政權(唐、新羅)の脅威に對抗し、部族連合の統一國家を中央集權化するため、大化の改新に始まる一連の政治改革の手段の一つとして導入されたに過ぎない。そのため、對外的脅威が消滅し、中央集權化が實現すれば、律令制度それ自體にこだはる必要がなくなつた。このやうにして、律令制度は崩壞して、法體系である「律令格式」は形骸化し、形式上は「律令」の施行細則としての「式」に該當する鎌倉幕府の『御成敗式目』などの武家法も武家統治の基本を規律したものではなく、そのやうな状況のまま明治維新を迎へた。さらに、帝國憲法は、大政奉還から二十二年後に公布され、本質的には、それまでの統治態樣を追認し繼續する趣旨で制定された確認的規範であり、帝國憲法の制定を以て新たに統治態樣を定めて變更したといふやうな創設的規範ではない。しかし、その規律する内容は必ずしも一義的解釋に馴染まず、軍部及び内務省の權力肥大化をも黙認しうる程度に極めて柔軟なものでもあつた。また、そのやうな性格は、帝國憲法の改正法とされる占領憲法にも承繼され、第九條や自衞隊についても、文理解釋とは正反對の恣意的な解釋がまかり通るほどの柔軟性ある運用がなされてゐる。このやうな憲法の解釋と運用における柔軟性は、成文法統治の歴史と傳統が根付いてゐない我が國の特徴であつて、これは現代にまで引き繼がれてゐる。

我が國で明治維新政府の統治體制が一應固まつた後に、歐米流の憲法典を導入するに至つた背景事情は、過去に律令制度を導入しようとした状況と全く同樣である。我が國は、肇國時において部族連合の統一國家であつたが、その後、外壓によつて中央集權化をしなければ對抗しえないとの判斷から、國體(規範國體)を入れて置く「容器」としての法體系が必要となつた。しかし、それは誂へたものでないため、「容器」としては些か不釣り合ひであり、全部入り切らない不充分なものではあるが、支那の「律令制度」を借用した。これと同樣に、明治維新においても、國體(規範國體)を入れておく「容器」として、「立憲主義的意味の憲法」といふ制度を借用したのである。そして、共に、容器として不充分なものであつたために、國體(規範國體)の「復元力」によつて解釋・運用の「柔軟性」が發揮される。これが、成文法統治の歴史と傳統が完全には根付かなかつた我が國の國家體質(國體)なのである。

支那の律令制度の導入を中國式法典形式で完成させた『大寶律令』がさうであつたやうに、歐米流の立憲主義制度の導入を憲法典形式で完成させた『帝國憲法』もまた、當時の規範國體の全てを明徴してゐないし、またその必要性も認識しなかつた。歐米流の憲法典には、傳統と國體を明徴させる機能がなく、單に、統治權の歸屬、統治基本原理及び人權制限條項としての人權規定など、權力的事項を明示することに主たる制定理由があつたからである。ましてや、當時は、王朝と傳統にとつては逆風の時代であり、革命國家も傳統國家も、權力的事項中心の統治基本法の制定が最大の關心事であつたためでもあつた。

從つて、多くの國家の憲法典には、權力的要素に基づかない規範國體に關する事項が含まれてゐない。といふよりも、少なくとも革命國家には、王朝と傳統が存在せず、從つて、非權力的な規範國體なるものは殆ど存在しなかつたのである。

我が國では、帝國憲法制定に關して、イギリス流の政黨内閣制度を導入するについて、政府内部にも急進論(大隈重信ら)と漸進論(伊藤博文ら)との對立があつた。しかし、明治十四年の政變以降は漸進論が支配して、その下で『プロイセン憲法』(1850+660)などの影響を受けた『帝國憲法草案』が立案された。そして、元老等による審議の結果、『帝國憲法』として制定されたものであつて、制定過程からすれば「欽定憲法」ではなく、結果としての「欽定憲法」であつたのである。

ところで、成文憲法國家と不文憲法國家の區分に從つて、成文憲法の有無といふ「現在性」の指標のみで判斷し、「傳統性」を考慮に入れない分類方法によつて、「イギリスは世界で唯一の不文憲法國家である。」との結論を導き、我が國は成文憲法國家であるとする見解がある。しかし、このやうな分類と結論には、前述したところからも知りうるやうに、何らの有用性もない。ある國家が現時點において成文化した憲法(典)を持つか否かによつて分類してみたところで、その結果からは何ら國家の本質を決定しえない。これまで不文憲法の國家が、その内容を明確化するために成文の憲法典を作成しようとするとき、不文憲法の内容のすべてを網羅的に憲法典に組み入れて記述することは極めて困難である。成文化できないものや記述することに限界がある内容もあるので、成文の憲法典を持つからと云つて、その國家が成文憲法國家であり、それ以外の不文憲法がないとすることはできないのである。

そもそも、成文憲法國家と不文憲法國家といふ二分法による分類方法は、その前提として「不文憲法」の存在を認めてゐるのであるから、憲法の存在形式(法源)を成文法に限定してゐない立場であつて、既に自然法の存在を肯定してゐることになる。そして、その自然法は、傳統に依據するものであるから、やはり、成文憲法の有無にかかわらず、傳統性を考慮にいれなければならないのである。

これもまた、實證法學の隘路であり、自然法である規範國體を無視しては、國家の本質を解明しえない。統治權の行使態樣といふ帝國憲法の根本規範とされる事項についても、明治政府の沿革や制定過程などを斟酌しなければ解釋しえず、その制定過程などは、帝國憲法の告文に「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示」と表現されてゐるとほり、帝國憲法が自然法である規範國體に依據してゐることを明らかにしてゐる。しかも、帝國憲法が規範國體の「すべてを昭示」したとの限定はされてゐないため、それ以外にも昭示されてゐない規範國體に屬する事項が存在することは當然であつて、實質的意味の憲法の法源(法の存在形式)を成文憲法のみとすることはできない。規範國體の法源は、傳統の中の條理や自然法に求められるのであつて、帝國憲法及びその下位法令(受權規範)である占領憲法のみの實證法學的解釋だけに終始するだけでは、我が國の規範國體や根本規範などの本質を探索することは到底不可能なのである。

根本規範

次に、このやうに規範國體の概念を設定した場合、これと實證法學に由來する「根本規範」といふ概念との關係はどうなるのであらうか。

根本規範とは、近代國家の法秩序の始源的規範として、その實質的意味の憲法の内容を限定するものとされてゐるが、その實際的な效用は、特に、成文憲法の改廢を限界づけるものとして、成文憲法の全規範の中から改廢不能の條項及び制度などを抽出することにあつた。

ところで、成文憲法の全規範から根本規範を抽出して成文憲法規範の段階構造の存在を認めるためには、一定の價値基準のモノサシが必要となる。このモノサシが成文憲法内に明確な形で備はつてゐる場合は極めて少ない。これが備はつてゐる場合は、實證法學においても問題はない。しかし、成文憲法に特定の條項を改廢することを不許とする改廢制限條項がなく、また、各條項間の優劣を定める價値序列條項がない場合は、どのやうにして「根本規範」を抽出しうるのであらうか。

このやうな場合、純粹の實證法學の立場であれば、根本規範の抽出を斷念することになり、憲法改正無限界説に歸着することになるのであらうが、一般には、「何か」を手掛りに根本規範を抽出しようとする。その「何か」とは、成文憲法の上諭、告文、敕語、前文、さらに制定過程、立法者の意志など、成文憲法本文以外のものである。これは、結果的に、成文憲法以外の「規範」をもつて成文憲法の規範の序列を決定することになり、實定法の效力の優勢順位を客觀的に決定しようとした法段階説では説明しえない矛盾を引き起こす。つまり、これを許容するのならば、成文憲法よりも、その告文や前文などの方を上位規範(根本規範)とすることになるからである。成文憲法の全規範の内から、改廢制限條項や優先價値條項である根本規範を抽出することは、解釋法規や補充法規としての機能ではなく、規範定立の機能であるから、「法の創造」であつて「法の解釋」ではない。從つて、屋上屋を重ねるが如き、根本規範よりも上位規範の實定法を發見できなければ、實證法學による説明は不可能となる。

この實證法學は、ドイツにおいて發展成熟し、我が國においても戰前戰後を通じて、憲法典(近代憲法としての條文の體をなしたもの)である帝國憲法の制定を契機として展開され、我が國の國法學及び憲法學の主流を形成するに至つた。しかし、その政治思想的な意義としては、實證法學が國家法人説や國家主權説と連携して發展することによつて、自由主義思想が堕落し、法治國家の思想が形式化して、結果的にナチズムの臺頭を許すに至つたドイツにおける場合と同樣、左右の全體主義が釀成する温床となつたことを直視しなければならない。

さらに、根本規範をめぐる實證法學の矛盾は、次の諸點にも存在する。

先づ第一に、ある法規が「實質的意味の憲法」であるか否かを決定するについては、その法規の内容が「國家の統治體制の基礎を定めてゐる根本法」(固有の意味の憲法)であるか否かによるものであつて、その法規名稱に「憲法」とか「根本法」とか「基礎法」などといふ名前が付されてゐるか否かによることなく判斷されるとする點である。さうであるならば、帝國憲法公布施行の前後において成文化された『船中八策』(資料六)、『五箇條ノ御誓文』(資料七)及び『教育ニ關スル敕語』(資料十三)なども實質的意味の憲法の存在形式として評價されるはずである。

ところが、いつの間にか何の根據も示さずに、憲法典である『帝國憲法』のみを實質的意味の憲法とするやうになつたのである。これは、成立に至る歴史的經緯と、國家統治の基礎を定めた内容からして、當然に實質的意味の憲法の一つに過ぎないとされるべきであるのに、その他のものをこれに含まないとして否定することは論理的整合性を缺いてゐる。さらに、聖德太子の『憲法十七條』については、官吏の執務心得を説いたものに過ぎないので「憲法」ではないとする。しかし、官吏の執務心得に關する規定も國家の統治體制の基礎を形成する重要規範の一つであり、現に、占領憲法には、その第十五條第二項、第六十六條第三項、第七十六條第三項及び第九十九條などの公務員に關する規定があり、今日においては、これらの規定の存在意義は益々重要となつてゐるものである。ところが、これが憲法であるとしたら、どうして憲法十七條は憲法でないのかについても論理的な説明がなされてゐないのである。

第二の矛盾は、實證法學によると、占領憲法が實質的意味の憲法であるか否か、また、そのうち根本規範は何であるかについての議論においても、占領憲法の敕語が帝國憲法第七十三條による改正であると表示し、前文が國民主權を表明してゐることを根據として、占領憲法が實質的意味の憲法であり、「國民主權主義」が根本規範であることを肯定してゐるとする點である。そもそも「國家の統治體制の基礎を定めてゐる根本法」(固有の意味の憲法、實質的意味の憲法)とか、「法秩序の始源的規範」(根本規範)といふ概念の定義自體が抽象的であり、實定法だけを法と認める實證法學らしからぬ定義である。また、このやうな抽象的な定義から、具體的にどれが根本規範に該當するのかを一義的に判斷することは實證法學の立場からでは到底できない。しかも、前文に書かれてゐることが根本規範であるとすることは前文にも明記されてゐないので、根本規範が何であるかを斷定できる決め手がない。前文と本文とを形式的に比較すれば、本文の方が規範としては優先的かつ確定的な效力があるはずである。確かに、一般的には、前文には、制定の趣旨や基本原則を規定する場合も多く、占領憲法の前文もそのやうな性質であることは認められる。しかし、さうであるからと云つて、それでは、どの部分が基本原則であり、改正不許なのかは判別しえないのである。しかも、占領憲法は、GHQによる完全軍事占領下の非獨立時代に成立したものであり、GHQの強制的關與によつて占領憲法が成立したといふ政治的な時代背景と立法趣旨、そして立法事實を考慮しなければ、實質的な判斷はなしえない。立法事實とは、その立法行爲の正當性、必要性を支へる立法政策上の基礎的事實のことであるが、非獨立の被占領状態での立法事實と獨立状態での立法事實とが同じであるはずはないので、占領憲法の立法事實を獨立後のそれと同視することは到底できない。さうすると、占領憲法について云へば、これが「實質的意味の憲法」に該當するのか、その「根本規範」は何なのかといふ價値判斷は、實證法學が判斷の対象外とする國際政治的要素のある立法事實に左右されることになるために、實證法學では定義付けられないといふ根本矛盾が生じてしまふ。つまり、實證法學では、存在する「規範」のみを対象とし、占領憲法が占領統治下において制定されたといふ極めて政治的な要素を含む「立法趣旨」と「立法事實」を対象とはしないからである。經驗的な事實のみを法認識の対象とする實證法學では、政治的要素を考慮することを拒否するのであるから、「被占領状態」での立法であつたといふ、この極めて政治的要素の強い立法趣旨と立法事實を対象外とせざるをえなくなるのである。つまり、實證法學からすると、占領憲法がGHQの軍事占領下における非獨立時代の所産であるとする重大な政治的要素を捨象することになるので、占領もされず完全な獨立状態で制定された憲法と、被占領下の非獨立状態で制定された憲法とを同視することになる。そして、「占領憲法」は「自主憲法」であると認識し、占領憲法は憲法として有效であるとの結論に至る。占領憲法を憲法として始源的に有效であるとするすべての見解は、多かれ少なかれ、この實證法學の馬鹿げた論理に毒されてゐる點において共通してゐるのである。

以上からすると、自然法を否定して實定法のみを認識對象とし、法を形式論理的に考察する實證法學(法實證主義)の立場は、國家の本質を究明することに無力である。實證法學は、文化國體を經驗的な事實としては捉へず、經驗的な事實を超えた自然法の領域とするのである。そのために、國家の本質を否定又は無視し、あるいは國家の本質を究明することを放棄してゐる。しかし、文化國體とは、現存してゐる經驗的な事實なのであつて、決して超經驗的なものではない。反復繼續して現存してゐる經驗的な事實であるがゆゑに「文化國體」なのであつて、これが經驗的な事實として認識しえないといふことは大きな誤りである。しかし、いづれにせよ、このやうな體たらくの實證法學では、國家の本質を究明する能力が全くないので、この究明のためには、どうしても自然法學的視座が必要となつてくる。その場合、法段階説的見地は、實質的意味の憲法や根本規範の意義を明確にする意味において、實證法學よりも、むしろ自然法學において有用な見解となつてくるのである。

そして、實證法學と自然法學とがそれぞれ科學性をさらに追求して行けば、兩者は融合して最後には「國體論」へと収斂する。

そこで、後に詳述するとほり、ある法規の法規名稱が「憲法」その他最高規範を意味する名稱であることから直ちにそれが成文憲法(形式的意味の憲法)であるとするのではなく、また、そのやうな法規名稱でないものについても、名稱の如何を問はず、その實質的内容が規範國體を構成する國家統治の基本原理と制度等に關する始源的規範を含むものである限り、それを實質的意味の憲法の法源と評價すべきことになる。さうすると、『帝國憲法』(資料十二)及び『皇室典範(明治典範)』(資料十一)のみならず、『天津神の御神敕(修理固成)』(資料一)、『天照大神の三大御神敕(天壤無窮、寶鏡奉齋、齋庭稻穗)』(資料二1、2、3)、『神武天皇の御詔敕(八紘爲宇)』(資料三)、聖德太子の『憲法十七條』(資料四)、『推古天皇の御詔敕(祭祀神祇)』(資料五)、『船中八策』(資料六)、『五箇條ノ御誓文』(資料七)及び『教育ニ關スル敕語』(資料十三)なども實質的意味の憲法の存在形式(正統憲法法源)と認められるが、占領憲法は實質的意味の憲法ではあり得ないことになる。そして、これら實質的意味の憲法とは、文化國體(傳統總體)などから紡ぎ出された規範的側面の一部であつて、これらの規範の中から、さらに、國家、皇統及び臣民などに關して萬古不易なものとして抽出された規範事項が「規範國體」であつて、それがまさしく「根本規範」と呼ばれるものなのである。

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