第一節:大東亞戰爭の合法性

自存自衞

大東亞戰爭は、まさに「思想戰爭」である。我が國は『ポツダム宣言』(資料二十三)を受諾して停戰したものの、昭和二十年六月八日、御前會議においてなされた、「聖戰完遂」、「國體護持」、「皇土保衞」の國策決定は未だ取り消されてはゐない。大東亞戰爭は聖戰であり、その聖戰を完遂するについて、ひとまづは停戰したのである。そして、昭和二十六年九月八日にサン・フランシスコ(桑港)において調印し、同二十七年四月二十八日の發效によつて我が國が獨立を回復した最終の講和條約である「桑港條約」(『日本國との平和條約』資料三十六)によつて、「戰爭状態」を終結させたものの、聖戰完遂のための再戰を放棄したのではない。つまり、我々は、火器が使用されてはゐないが、捏造情報の喧傳などの手法による攻撃を受け續けてをり、情報戰爭の形態で未だに大東亞戰爭が繼續してゐるといふ認識に立たねばならない。

大東亞戰爭が侵略戰爭であつたとする謬説は、この情報戰爭において敵側の用ゐる情報戰術といふべきであつて、大東亞戰爭は、紛れもなく自衞と解放のための聖戰であり侵略戰爭ではない。その理由は多岐に亘るが、歴史的事實の檢證の詳細については多くの研究成果が發表されてゐるのでそれに讓る。本書では主に、これまでの戰爭の國際法的な觀點で述べてみることにする。

我が國は、明治三十四年九月、清との間で他の連合國とともに『義和團事變最終議定書』による條約に調印し、以後、この條約により諸外國とともに支那大陸に支那駐屯軍を置く「駐兵權」が承認された。昭和十二年七月、蘆溝橋で不法射撃を受けたのは、まさに我が國の支那駐屯軍だつた。この北支事變により、さらに戰火が擴大したのが支那事變である。戰略、戰術の巧拙は別としても、國際法上も違法な「侵略戰爭」ではありえないし、對米英戰爭は勿論のこと、全體としての大東亞戰爭は侵略戰爭ではない。

すなはち、我が國が昭和四年に締結した『戰爭抛棄ニ關スル條約』(パリ不戰條約)について、當時の國際法解釋によれば、戰爭は、「自衞戰爭」と「攻撃戰爭」(war of aggression)とに區分され、後者は、一般に、自國と平和状態にある國に向かつて、相手方の挑發的行爲を受けてゐないにもかかはらず先制的に武力攻撃を行ふことを意味し、それ以外は全て自衞戰爭としてゐたのである。そして、このwar of aggressionを、極東國際軍事裁判(以下「東京裁判」といふ。)において、連合國軍最高司令官總司令部(General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers 以下「GHQ/SCAP」又は單に「GHQ」といふ。)の指示によりこれを「侵略戰爭」と誤譯したことから、略取、掠奪の意味を含む一般的な「侵略」の概念との混同を生じたことが今日の混亂を招いてゐるが、いづれにせよ、自衞戰爭か侵略戰爭か、それがいづれの戰爭であるかの判斷については、各國に「自己解釋權」が與へられてをり、支那事變を含む大東亞戰爭は、まさに開戰詔書にもあるやうに「自存自衞」の戰爭であつた。

事變と戰爭

名稱についてであるが、支那事變は、なぜ「事變」と呼稱し、「戰爭」と呼ばないのか。この點を精緻に解明して行くと、國際法上の日米間の鬩ぎ合ひが浮かんでくるのである。

昭和十二年七月七日、北平(北京)西南方の盧溝橋で、我が支那駐屯軍に對して、國民黨軍の仕業に見せかけた共産軍(八路軍)の違法射撃がなされた盧溝橋事件が支那事變の發端となつた。これを一旦終息させたものの、同月二十九日に、北平の東方にあつた通州に居留する邦人らに對して支那人武裝部隊が襲撃し、約二百三十人の邦人を語るもおぞましきやうに虐殺した事件(通州事件)など、我が國が不擴大方針を貫かうとすることを嘲笑ふかのやうな謀略的で殘忍な戰術によつて戰禍が擴大し、その掃討行動を擴大展開することを餘儀なくされた。我が國がやむを得ず陸軍增派を決定するについては、國際法上の觀點から大きな逡巡があつた。

それは、まづ、我が國が主要な戰略物資である鐵鋼類、石油及び工作機械類などの七割以上をアメリカから輸入してゐたことから、支那事變において我が軍が增派することは、その戰略物資の供給確保が大前提となる。しかし、アメリカには、戰爭當事國への戰略物資の輸出を禁止したアメリカ中立法があり、我が國が正式に宣戰通告した戰爭に突入すれば、アメリカがこの法律を發動して、我が國向けのこれらの戰略物資の輸出を禁止することは必至であつた。

その一方で、清朝が崩壞した後の支那は、概ね軍閥が割據する状況であつて、國民黨軍が率ゐる中華民國といへども、その實態は有力な軍閥政權の一つに過ぎず、近代國家としての國家の實體をなしてゐるとは到底言へなかつた。そもそも、宣戰通告は、帝國憲法第十三條の天皇の宣戰大權に基づくものであるが、「宣戰トハ國家カ武力ヲ行使セントスル時對手國ニ對シテ之ヲ宣言スルコトヲ謂フ」(清水澄)のであつて、これは、戰爭終結後に同條の講和大權に基づき行はれる講和條約の當事國能力(獨立した國家として認められない場合であつても講和條約を締結すれば獨立國家としてその條約を履行しうる政府機關などが備はつた國家の實體を有してゐること)のある「國家」ないしは「準國家」に對してでなければならない。このやうな理由もあつて、對手(國)に對して「宣戰通告」し、中立國及び臣民に對して「宣戰布告」して「國際法上の戰爭」とする必要がなかつたといふ法律解釋上の理由もあつた。

『開戰に關する條約』(明治四十五年條約第三號)第一條には、「締約國は、理由を附したる開戰宣言の形式又は條件附開戰宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且事前の通告なくして、其の相互間に、戰爭を開始すべからざることを承認す。」とあり、第二條には、「戰爭状態は遲滯なく中立國に通告すべく、通告受領の後に非ざれば、該國に對し其の效果を生せざるものとす。該通告は、電報を以て之を爲すことを得。但し、中立國が實際戰爭状態を知りたること確實なるときは、該中立國は、通告の決缺を主張することを得ず。」と規定し、相手國に宣戰通告をせずに戰闘を開始することを原則として禁ずるのである。これは、不意打ち攻撃を禁止する趣旨であり、戰爭當事國が宣戰通告することなく戰爭状態であることを認識してゐる場合は、これを不要と解釋されてをり、それが國際慣習法として通用してゐたのである。

それゆゑ、支那側の不意打ち攻撃に對して皇軍が應射して火ぶたを切つた盧溝橋事件から、さらに戰禍が擴大した支那事變は、假に、對手(國)に當事國能力があつたとしても、不意打ち攻撃を食らつたのが我が國であつて、これに應戰して擴大したことについて宣戰通告をしなければならない義務は全くない。從つて、支那事變を「宣戰布告(通告)なき日中戰爭」といふ表現をするのは意圖的なものであり、明確な誤りである。

つまり、「宣戰布告(通告)なき」との點は、そのとほりではあるが、前述のとほり、當事國能力がないこと、さらに、不意打ち攻撃にはならないこと(むしろ、不意打ち攻撃を受けたこと)の二つの理由からして、支那事變は宣戰通告が不要なものであつて、それがなかつたことは何ら問題とはならない。

米英と中華民國政府(重慶政府)は、我が國が米英に對し大東亞戰爭の宣戰通告をした後に、我が國に對して宣戰通告してゐることからしても、不意打ち攻撃後の宣戰通告であつて、これこそが國際法上の違法行爲である。

また、支那事變については、大東亞戰爭の宣戰通告時に、支那事變も含めて大東亞戰爭と呼稱することを閣議決定して「戰爭」となつた。つまり、大東亞戰爭の廣範な戰場のうち、その戰場の特定のために、支那事變といふ名稱は有用である。それゆゑ、事後に戰爭となつた支那事變について、初めから戰爭であつたかのやうに「日中戰爭」といふのは正確ではなく、この呼稱は專ら政治的・思想的意圖によるものである。しかも、我が國は「日中戰爭」なる名稱を正式に使用したことは一度もないので、この呼稱を用ゐるべきではない。

このことは、滿洲事變についても同樣である。そして、滿洲事變と支那事變とは、時期も原因も全く異にし、關連性もないにもかかはらず、滿洲事變から支那事變を通して「日中戰爭」と呼稱することについても拒絶すべきである。

米英支蘇の條約違反

そして、さらに、東亞その他の地域における權益を窺ふアメリカは、その企圖を實現するために、我が國の最大の弱點を突き、昭和十六年七月二十八日、我が國が日佛協定により南部佛印に進駐したことなどを口實に、同年八月一日、突如として對日石油輸出禁止を敢行した。これにより、國内では「ジリ貧論」などが叫ばれて危機意識は頂點に達した。さらに、我が國は、同年十一月二十六日、アメリカ國務長官ハルから、從來までの日米交渉經緯から完全に斷絶した最後通牒ともいふべき對日強硬提案(ハル・ノート)を突きつけられ、これによつて一方的に實質的な宣戰通告を受けた。

しかも、アメリカは、蒋介石政權に對しては、食料や、ガソリン、鐵材、トラック、工作機械、戰闘機、戰闘機裝備、武器、彈藥、火藥などの軍事物資の物的援助のみならず、軍事顧問團を派遣して軍事指導を行ひ、空軍パイロットの派遣など二千名を越えるアメリカ正規軍も戰闘に參加させて人的支援をも行つてゐた。これは、アメリカが蒋介石政權との軍事同盟に基づいて「共同謀議」により支那事變に參戰してゐたことになる。つまり、アメリカは、このとき、「宣戰通告なき日米戰爭」を開始したのであつて、アメリカこそ開戰に關する條約違反の戰爭を行つたのである。それゆゑ、大東亞戰爭の宣戰通告が外務省官僚の背信と怠慢によつて眞珠灣攻撃直後になされたことをアメリカから批判される謂はれは全くない。

交戰國の一方に對する軍事援助は、國際法からすれば、中立國の立場を放棄し、戰爭當事國となつたものと看做される。要するに、宣戰通告なしに眞珠灣攻撃をすることも合法であつて、アメリカはその懸念があるために、蒋介石政權に對する軍事援助の事實とその内容を祕匿し密約としてきたのである。

つまり、アメリカからしても、支那事變が「國際法上の戰爭」となれば、アメリカ中立法によつて戰爭當事者である日支雙方に戰略物資の輸出ができなくなつてしまふ。だから、「死の商人」としては一日でも長く「事變」のままの方がよい。さうすれば、日支雙方から軍需利益をより多く得ることができるからである。我が國は「自存自衞」のために「事變」とし、アメリカは「戰爭ビジネス」のために「事變」としたといふ奇妙な一致を見たのである。

そして、さらに、ソ連について附言すれば、我が國が昭和十六年四月十三日にソ連と締結した『日ソ中立條約』では、相互不可侵と、いづれか一方が第三國の軍事行動の對象になつた場合の他方の中立などを定め、有效期間は五年とし、その滿了一年前までに兩國のいづれかから廢棄を通告しない場合には、さらに五年間の自動延長となるものとされてゐた。ソ連は、同條約が殘期一年餘となつた昭和二十年四月五日に延長拒否通告をしたことから、この有效期間は昭和二十一年四月十三日までとなつたが、突如として昭和二十年八月八日に日ソ中立條約の破棄通告をして宣戰通告し、ほぼ同時に攻撃を開始した。このことは、日ソ中立條約違反であることは勿論、開戰に關する條約にも違反する。つまり、一般には、宣戰通告と同時に攻撃すること(通告同時攻撃)については、それまで友好關係が繼續してゐた場合は不意打ち攻撃であり、パリ不戰條約の「攻撃戰爭(侵略戰爭)」(war of aggression)に該當するが、友好關係が破綻してゐる場合には、必ずしもこれに該當しない。從つて、眞珠灣攻撃は、それをなすについて宣戰通告が不要であることは前に述べとほりであつて、日米間では援蒋ルートによる軍事援助などの事實、石油輸出禁止措置やハル・ノートによる通告などからして、日米の友好關係は完全に破綻してゐたのであるから、不意打ち攻撃には該當せず國際法上當然に合法である。これとの比較からすれば、ソ連は、日ソ中立條約について、昭和二十年四月五日に不延長通告をしたことから、我が國としては、延長されないことを認識しつつも、むしろ、殘期一年の期間には同條約が遵守されるといふことについての信賴をすることになる。不延長通告といふのは、いはば殘期一年の效力期間を遵守することの通告でもあり、これによつて我が國が殘期一年の效力期間があるとする信賴は國際法上も保護に値する。不延長通告は決して宣戰通告ではなく、友好關係の決裂の通告でもない。にもかかはらず、その約四箇月後に突然破棄し、さらに宣戰通告をしてほぼ同時に攻撃したことなどを考慮すれば、開戰に關する條約が禁止した違法な不意打ち攻撃に該當することは明らかである。

かくして、ポツダム宣言を我が國に突き付けた米・英・支・蘇の四國は、いづれも無法國家であり、この四國の行動は、少なくとも開戰に關する條約に違反する國際法違反行爲であり、我が國の行つた一連の戰爭行動は、國際法上は全て合法であつたことになる。

このことは、東京裁判における東條英機閣下らの一致した認識であり、しかも、連合國軍最高司令官總司令部の最高司令官であつたダグラス・マッカーサー(以下「マッカーサー」といふ。)が、歸國後の昭和二十六年五月三日、アメリカ上院の軍事外交合同委員會で「日本が第二次世界大戰に突入した理由は、そのほとんどが日本の安全保障(Security)のためであつた。」と證言し、我が國が大東亞戰爭に至る一連の軍事行動が生存自衞のためであつたことを認めた。これにより、日米兩國の首腦の戰爭認識が結果的に一致し、我が國がパリ不戰條約の自己解釋權により自衞戰爭であるとしたことが補強されたのである。

このやうに、大東亞戰爭が「自存自衞」の戰爭であり、これまでの歩みが自衞のためであつたことを示す樣々な根據があるにもかかはらず、我が國は、これらの歴史的事實の法的評價を效率よく情報戰略として發信できないまま、未だに情報戰に敗北し續け、「戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス」(大東亞戰爭終結ノ証書、資料二十四)といふ状態に今もなほ置かれてゐる。

東亞百年戰爭

では、どうしてこれほどまでに我が國に對して現在もなほ執拗に情報戰を仕掛けてくるのであらうか。それは、大東亞戰爭が世界最大の思想戰爭、世界革命戰爭であつたことに原因があり、再び我が國が形を變へてでも再戰してくるのではないかとの危機感があるためである。後に詳述するとほり、敗戰後に著しく食料、エネルギーの自給率を低下させたことなども、我が國の交戰能力を剥奪しようとする連合國の戰略目的によるものである。だが、支那と韓半島などの政權は、連合國の意圖を見拔けず、嫉妬と怨嗟を倒錯させて連合國の戰略に便乘してゐるためである。

さて、このやうな大東亞戰爭に至つた遠因については、樣々な分析がなされてゐるが、一言で言へば、我が國が日清戰爭(明治二十七年~二十八年、1994+660~1995+660)、日露戰爭(明治三十七年~三十八年、1904+660~1905+660)に勝利したことにある。特に、日露戰爭に勝つたことによつて、日本脅威論が臺頭し、黄禍論などによる白人優越思想を浮かび上がらせたことが大東亞戰爭に至つた最大の遠因と云へる。。

つまり、歐米からすれば、世界の植民地化による完全支配に對し、我が國が解放戰爭を挑んだと判斷したことにある。確かに、我が國が開國してから日清、日露の各戰爭に勝利してきた歩みには、そのやうに判斷させるに充分な環境があつた。そして、大東亞共榮圈思想には、自衞戰爭といふ主たる目的に加へて、紛れもなく解放戰爭としての思想性があつたのである。

嘉永六年(1853+660)のペリー來航から昭和二十七年(1952+660)の大東亞戰爭の終結までの「東亞百年戰爭」の詳細な事實經過については歴史家の研究に委ねるが、第一章で述べた思想戰爭といふ觀點から大東亞戰爭に至る經緯の概要を述べてみたい。

まづ、江戸(德川)幕府は、アメリカの黑船に恐れをなして、國家百年の大計を定めずして、行き當たりばつたりに、安政元年(1854+660)三月三日の『日米和親條約』(神奈川條約)及び安政五年(1858+660)六月十九日の『日米修好通商條約』を締結した。彌縫策として行つた條約の締結は、「武力による威嚇」を受けて實質的には戰はずして敗れたことを意味する。これが第一次日米戰爭の敗戰である。

このことを痛烈に思ひ知らされたのが、昭和二十年九月二日、大東亞戰爭停戰に關する『降伏文書』(資料二十五)の調印のときであつた。それは、東京灣の戰艦ミズーリ艦上でなされた降伏文書の署名式典に、嘉永六年にペリー提督の東インド艦隊が來航した際に、その旗艦に掲げた星條旗を米國アナポリスの海軍兵學校から空輸して式場に掲示した。德川幕府は、ペリー艦隊の四隻の黑船(軍艦)によつて武力行使も辭さないとの威嚇を受け、戰はずして屈服し開港を受け入れた。だが、ペリーには日本完全征服の夢があつた。その果たされなかつた日本完全征服の夢が、その九十二年後に、やうやく實現したことを降伏文書の調印式で祝ふためであつた。ともあれ、德川幕府は、アメリカに屈服し、これに便乘したその他の歐米列強とも同樣の不平等條約を順次締結した。そのため、以後、明治政府は、この劣勢を挽回するためにも日清・日露の戰爭を戰ひ拔き、日露戰爭に勝利した實績を踏まへて、明治四十四年(1911+660)二月二十一日、アメリカとの間で、『修正日米通商航海條約』を調印し、五十七年ぶりに初めて日本の關税自主權を獲得して不平等を解消した。そして、その他の歐米各國とも同樣の對等條約の調印を實現したのであつた。

約二百年前から歐米列強は、西洋文化の優越性の思想に基づき、東洋全域を侵略・收奪して植民地化し、西高東低(西力東漸)の世界地圖の作成に懸命であつた。その頃の東洋、とりわけ「東亞」の各國及び各地域においては、獨自の文化・傳統等に基づく社會を形成してゐたが、歐米の毒牙に對しては極めて無自覺かつ無防備であつた。それに乘じて、インドから支那大陸に至るまで蠶食し續けた歐米列強は、ついに我が國にまで迫つた。しかし、我が國では、當初、攘夷か開國かといふ現實論を拔きにした皮相な情緒的對立があつたものの、歐米列強の東亞侵略の現實を直視した上、獨立を維持するために、やむを得ずその恫喝に屈して開國に踏み切つた。舊習へのこだはりを捨てて文明開化による富國強兵政策を推進し、歐米の侵略に對抗して我が國の傳統と獨立を堅持しようとする「開明思想」が基軸となつた。そして、大政奉還、江戸城無血開城、戊辰戰爭、版籍奉還及び廢藩置縣を經て、明治維新政府といふ開明政權への交替が比較的迅速になされ、歐米列強に付け入る隙を與へなかつた。以後、獨立を堅持して歐米列強に對抗するために、自力によつて富國強兵・殖産興業政策を斷行したのである。

今日の世界とは異なり、世界貿易經濟のルールが未發達な時代であり、國際連盟などの國際政治組織も未だ存在しなかつた不安定な國際情勢下にあつて、産軍協同の國策推進政策は獨立を維持するための必要な自衞手段でもあつた。また、その過程において、我が國では、東亞各地に存在する開明思想勢力(開明派、開化派)と連携して、東亞全域を歐米列強による植民地支配から守り、東亞の危機を乘り越えようとする思想が芽生えたのである。東亞の開明派は、「和魂洋才」(日本)、「東道西器」(支那大陸の清、韓半島の李氏朝鮮)などのスローガンを掲げて人民を啓蒙し、富國強兵・殖産興業政策によつて獨立を堅持するため、從來の政策を大義名分として踏襲した事大主義や、中華思想に毒された極端な排外主義として鎖國を堅持するなどのやうな、いづれも舊習に強くこだはつて世界情勢の急激な變化に有效かつ迅速に對應しえない勢力(舊習派、守舊派)と對決した。「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや。云々」との對隋國書の表現で集約される聖德太子の外交姿勢は、中華思想の支那に對して我が國の獨自性を堅持して、他國と對等な立場で協調和諧を實現するとの「和」の精神に由來するものであつて、そこに「和魂漢才」といふ精神の源流があつた。また、「和魂洋才」といふ言葉は、明治以降、これをもぢつてできた言葉であるが、我が國は傳統を維持しつつ修理固成の開明思想が根付いてゐたといへる。

防衞論

このやうに、中華思想の支那、事大主義の韓半島などの陋習により、不運にも、我が國以外の東亞の各國及び各地域では、いづれも舊習派勢力に押されて、開明派による國論統一と政權奪取による獨立の維持は必ずしも成功を納められなかつた。そのため、我が國内では、東亞における歐米列強の植民地支配に對して、あくまでも東亞全域の連帶によつて對抗すべきか、我が國が單獨あるいは盟主となつて對抗して東亞全域の解放を行ふべきか、などの國防上の思想的葛藤が當初から生じてゐたのである。

歐米列強の侵略から我が國の獨立を守るため、我が國において觀念的に存在した防衞に關する理念としては、①「受動防衞論」、②「能動防衞論」、③「領土擴張論」、④「東亞解放論」の四つが考へられた。

先づ、①の「受動防衞論」とは、我が國一國だけで富國強兵政策を推進し、歐米列強による植民地化を防ぎ軍事的に防衞して獨立を堅持しようとする考へ方である。これは、過去の「攘夷論」の延長線上にはあるが、薩英戰爭(文久三年1863+660)と翌年の馬關戰爭(下關戰爭)などで得た教訓により、當時の世界情勢では、鎖國をして攘夷を行ふといふ鎖國攘夷論では實現困難であるとして、開國をして防衞力を增強した上で攘夷を行ふといふ開國攘夷論へと應變した。しかし、前章で述べたとほり、林櫻園は、明治新政府に對し、このまま開國を續けば尊皇敬神の傳統は朽ち果てることを強調して、直ちに歐米と國交を斷交し、それによつて諸外國が攻めて來ても、我が國は敵を内部に引き入れてゲリラ戰で對抗すれば、必ずや勝利し獨立を保持できる旨を説いてゐた。つまり、我が國には、當時の自給自足體制による國力の強みがあり、侵略軍には海上經由による兵站の限界があることから、侵略軍が持久戦に耐えることができないために我が國が必ず勝利できると説いたのである。これは、元寇のときも同じ状況であり、まことに卓越した見解であつたが、新政府の理解を得られなかつたのである。これは、當時としては可能であつても、自給自足體制が崩壞した我が國の現状においては全く不可能なこととなつてしまつた。いづれにせよ、現代においてもこの受動防衞論の系譜に屬するものとしては、「專守防衞論」、「非同盟中立論」及び「食料安全保障論」などがある。

また、②の「能動防衞論」とは、未だ歐米列強の植民地となつてゐない韓半島や支那大陸などの隣國地域の政治的・軍事的安定が我が國の防衞と獨立に重大な影響を及ぼすとの認識から、同地域との經濟的・軍事的連帶を強固にして自國及び同地域の獨立を堅持しようとする考へ方である(勝海舟)。これは現代で言へば地域的集團安全保障の方向である。しかし、當時、理念としては存在しえても實際はこれが實現しうる環境にはなく、滿洲國との同盟關係が現實の限界點であつた。これら①と②の防衞論は、いづれも自國防衞のライフライン(生命線、松岡洋右の言葉)がどこの領域にあるのかの視點が相違してゐた。

次に、③の「領土擴張論」とは、日本の國益推進(食料、資源、エネルギーの確保)のためには自國に隣接した地域を固有の領土として擴張し人民を同化して一體とすべしとする考へ方である(佐藤信淵、吉田松陰)。當時は「大アジア主義」とも呼ばれた。しかし、これはあくまでも「領土主義」であつて歐米の「植民地主義」とは異なる。前者は、廣域の多民族國家を前提として領土の本國化と人民の同化を推進して投資と改革を行ふのに對し、後者は、植民地を本國化させず、收奪のみを目的とするからである。殊にそれは、教育政策について顯著である。前者は、「一般教育」を徹底し、教育の機會均等を實現するのに對し、後者は、本國に協力する者のみを養成するための「差別教育」を實施したからである。これらの相違を無視して全てを「植民地主義」ないしは「植民地」と表現するのは用語上も正確ではない。我が國の臺灣と韓半島に對する統治方針は、前者に屬するものであり、廣域他民族國家を前提として、それを段階的に廣域單一民族國家へと移行させるものであつた。「日韓併合」といふ領土擴張論は、右の理念に加へて、「日韓同祖論」といふ思想によつても補強されてゐた。當時、伊藤博文は、これに反對し、韓半島の獨立による能動防衞論を主張してゐた。しかし、同じく日韓併合に反對してゐた獨立原理主義者で著しい政治オンチである「安重根」が伊藤博文を暗殺(未遂)したことにより、皮肉にも、能動防衞論は急速に退潮し、領土擴張論による日韓併合へと加速したのである。また、日露戰爭は、假にその目的が領土擴張論に基づくものであつたとしても、その效果は、歐米列強の一員である帝政ロシアといふ大國に勝つたことにより、「白人不敗神話」を崩壞させ、東亞解放論への序曲となつた畫期的な戰爭であつた。

最後に、④の「東亞解放論」とは、第一章でも述べたやうに、アジア解放のための解放戰爭權の行使(思想戰爭)を肯定する考へ方である。③の「領土擴張論」には軍事費的にも限界があることから、②の「能動防衞論」によるとしても、アジア地域の殆どが歐米列強の植民地となつてをり、防衞的見地から連携しうる地域が獨立してゐなければならず、そのためには、まづはアジア全域を解放獨立させることが防衞上の先決課題であるとの認識によるものである。これは、我が國の國力の增強に伴つて登場してきた考へ方である。

ともあれ、當時の我が國において、現實の國際情勢からすれば、地理的・軍事的に韓半島の政治的安定が我が國の獨立維持にとつて重大な影響を及ぼすとの認識から、積極的な防衞論が主流を占め、結果的には、日清戰爭、日露戰爭を通じて、我が國は、獨立を維持するため、韓半島及び支那大陸に堡塁を築くに至つた。

振り返れば、我が國と韓半島及び支那の三地域間は、歴史の總體としては、平和な文化交流が行はれてきた關係であつたといへるが、斷續的には、この三地域間で相互に侵攻しあつたといふ歴史的事實がある。支那と韓半島との相互侵略については、現在の國境を基準とすれば、兩地域の地理的・政治的要因から、相互に、とりわけ支那から韓半島に對して頻繁に侵略が行はれた。また、我が國の韓半島への侵攻は、豐臣秀吉の文祿・慶長の役(1592+660~1598+660)がある。文祿の役では約十五萬人、慶長の役では約十四萬人といふ規模の戰爭であつた。さらに、我が國の韓半島及び支那に對する侵攻は、明治維新以後にも行はれた。しかし、これに先立つて、韓半島及び支那による日本への侵攻があつたことも忘れてはならない。即ち、支那の元(フビライ・ハン)及び韓半島の高麗(元宗及び忠烈王)との連合軍が行つた我が國に對する侵攻は、文永の役(1274+660)と弘安の役(1281+660)の二回である。文永の役では、蒙漢軍一萬五千人、高麗軍一萬四千七百人(梢工水手を含む)であり、弘安の役では、蒙漢軍一萬五千人、高麗軍二萬七千人(梢工水手を含む)、南宋軍十萬人であつた。

文祿・慶長の役や文永・弘安の役といふやうに、この「役」の意味は、爲政者が人民に對して兵役・苦役を課して徴發するといふことであり、それは、侵攻する側も侵攻される側も、常に苦役を負ふのは雙方の人民であるからである。

相互侵攻の歴史の評價に必要なことは、進攻の先後、回數、軍隊の規模、被害の程度などの各事實ごとに微視的かつ詳細な檢討もさることながら、日支韓の三地域の地理的、政治的情勢とそれを取り卷く世界政治情勢を總合して巨視的な「世界史」の視點からの檢討が重要である。一般的に、他地域間の交流は、正常時は文化を育み、異常時には破壞をもたらす。日支韓の三地域も例外ではなく、文化的に密接な關係があつたことと相互侵攻とは無關係ではなく、表裏の關係である。

近年における我が國の韓半島と支那への侵攻は、結果的には歐米列強の東亞支配に對する大東亞戰爭への布石ではあつたが、必ずしもその目的は明確ではなかつた。その原因は、前に述べたやうな防衞理念の區別が完全になされず、第一章で引用した北一輝の『日本改造法案大綱』の拔粹部分の第二文、すなはち「國家ハ又國家自身ノ發達ノ結果他ニ不法ノ大領土ヲ獨占シテ人類共存ノ天道ヲ無視スル者ニ對シテ戰爭ヲ開始スルノ權利ヲ有ス(即チ當面ノ現實問題トシテ豪洲又ハ極東西比利亞ヲ取得センガタメニ其ノ領有者ニ向テ開戰スル如キハ國家ノ權利ナリ)」の意味が、領土擴大、併合同化による自存のための自衞戰爭として肯定したものか、あるいは解放戰爭を根據付けたものかが思想的にも不明確であつたことなど、當時は國防の基本方針が確立してゐなかつたことによる。そのため、我が國の支那大陸への侵攻が、現實には、歐米のやうな植民地支配目的の侵略戰爭ではなく自衞戰爭であつたことは前述のとほりであつたとしても、東亞解放の目的による思想戰爭であると明確に位置付けられなかつた曖昧さは殘つた。それは、英米に對して窮鼠猫を噛むが如き自衞戰爭に、身を殺して仁を成すとの解放戰爭の大義を抱き合はせたことによるものである。しかし、その大義の存在こそがまさに「聖戰」であることの所以である。

韓半島の宿痾

李氏朝鮮末期に掲げられた「内修外攘」、「斥邪衞正」及び「親清守舊」や、明治三十三年(1900+660)の北清事變において義和團の掲げた「扶清滅洋」とか「興清滅洋」のスローガンは、我が國の幕末における「尊皇攘夷」や二・二六事件における「尊皇討奸」、「昭和維新」と同樣、政策論のない情緒的な事大主義や大義名分論に基づくものであり、必ずしも開明思想に基づくものではなかつた。この事大主義とは、本來は「以小事大」(孟子)、即ち、小國が大國に事(つか)へてその國を保んずることを言ふが、轉じて、主體性なく勢力のある者に從ふことを意味するのであつて、韓半島では、今もなほこの事大主義による「屬國病」に犯されてゐる(崔基鎬)。

ところで、「東亞(大東亞)」とは、日本、韓半島(朝鮮半島、以下「韓半島」といふ。)、支那、インドなど廣汎な東アジア及び西太平洋の全域を總稱するが、ここで、「韓半島」といふ名稱を用ゐたのは、現在、大韓民國が用ゐてゐる呼稱に從つたといふ單純な動機からではない。我が國と「大韓帝國」との明治四十三年(1910+660)八月二十二日の『日韓併合條約』の調印に遡ること十三年前の明治三十年(1897+660)に、韓半島に存在した中國清王朝の從屬國(宗屬關係)であつた李氏朝鮮(李朝)が、「稱帝建元」運動を結實させて、有史以來初めて支那からの完全獨立を宣言し、第二十六代高宗王が中華圈における皇帝の臣下を意味する朝鮮國王の稱號を廢して、はじめて自ら大韓帝國皇帝を稱し、迎恩門を破壞した跡地に獨立を記念する西洋式の獨立門(史蹟三十二號)が建立された。迎恩門とは、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の敕使が漢城(ソウル)を訪れたときに、朝鮮國王が同所まで迎へ出て、敕使に對して九回叩頭する禮を行なふ場所であつた。

迎恩門を破壞した跡地に獨立門を建立することができたのは、日清戰爭で清王朝が敗北し、その權威が失墜したといふ周辺の國際環境が他律的に變化したことを契機とするものであつた。これは、韓半島の政權にとつて畫期的な事態であり、それゆゑに、その後になされた大韓帝國との併合は、「日朝併合」ではなく「日韓併合」であつた。しかし、我が國が、日韓併合後において、韓民族の自決と獨立心の象徴である「大韓」又は「韓」を用ゐずに、敢へて、宗主國であつた明國皇帝から下賜された國名である「朝鮮」名(朝鮮人、朝鮮半島、朝鮮總督府などの名稱使用)を復活させたのは、韓民族に再び非獨立時代の屈辱を與へるための差別意識に基づくものであると判斷しうるので、たとへ、「朝鮮」と自稱する韓民族が多數ゐたとしても、固有名稱や慣用語は別として、我が國が自覺的に用ゐる場合には「韓」の名稱を使用すべきものと考へるからである。それでも今なほ韓半島に根強く巣くふ「屬國病」といふのはかうである。

無賴漢が他民族(唐)の勢ひを借りて自分たちの民族國家(百濟)を打倒して唐の屬國に成り下がつた「統一新羅」。そして、民族國家の高麗の臣下であつた李成桂が主殺しの下克上により高麗を滅ぼして明の屬國と成り下がつた「李氏朝鮮」。この統一新羅の二百五十九年間と、李氏朝鮮の五百十八年間の、通算七百七十七年の屬國時代によつて韓民族の民族性は歪められた。なほ、高句麗は、建國の始祖である朱蒙がツングース系(滿洲族)であり、韓民族を被支配者とした滿洲族による征服王朝であつて、韓民族の民族國家ではない。

李氏朝鮮は、寛永十四年(1637+660)一月三十日に清の屬國となつたのであるが、このとき、朝鮮王の仁祖は、命乞ひをし、それまで輕蔑してゐた胡服を着て、現在のソウル特別市松坡區石村洞三田渡の地に設けられた「受降壇」(降伏を受け入れる拜禮壇)において、清の太宗に向かつて、九回地面に頭をつけて叩頭する拜禮を行ひ、その後に清からの一方的な講和を結ばされた。その屈辱的な記念碑である「大清皇帝功德碑」(大韓民國史蹟第百一號指定)が同所に殘されてゐるが、これを三田渡碑とか恥辱碑と呼ぶものの、同じく李氏朝鮮が宗主國である清(大清帝國)の從屬國(屬國)であることの證しとして清から下賜された「太極旗」を原型とする旗を、「屬國旗」とか「恥辱旗」とせずに、未だに大韓民國の獨立國旗として用ゐてゐることも、屬國病の重篤な症状の一つに他ならない。太極旗の意味するものは、宗主國の命ずるままに國家教學とされた朱子學の學祖である朱熹の理氣説を易學的に顯したもので、韓民族の獨自性などはどこにもない。そして、韓國が支那の屬國旗を使用し續けることは、政治的に見ても、現在の中共が推し進める領土擴張政策に絶好の口實を與へることにもなる。にもかかはらず、韓國が新たに獨立國の國旗を求めることをせずに、屬國病からくる習性として太極旗を今でも國旗として掲げ續けることに、韓民族に染みついた慕華と受降によつて恥辱を名譽に倒錯してしまつた「刷り込み」の悲哀を感じざるを得ない。恥辱を名譽に倒錯させることによる怨恨の鬱積は、ニーチェのいふ「ルサンチマン」であり、これが韓國の「恨(ハン)」の正體なのである。

我が國は、東亞百年戰爭開戰から今日に至るまで、理想に燃えて自己犧牲を強ひながらも、人智の及ばざるところで幾つかの過ちと行き過ぎを國の内外で犯してきた。しかし、だからと言つて、決して東亞百年戰爭の終着點である大東亞戰爭が誤りであつたことにはならない。我が國は、東亞を歐米の植民地支配から解放し、東亞の一部地域に對して近代化のための投資と改革を行つた。これは、歐米のやうな侵略と收奪のみの植民地支配とは全く異質のものである。

我が國は、人道上も許しがたいイギリスのアヘン戰爭(1840+660)後の臺灣人民が阿片漬けにさせられてゐたのを阿片漸禁方式で阿片から解放した。アヘン戰爭がもたらした慘禍は、人民のアヘン中毒による社會の荒廢であり、これから解放されるまではアヘン戰爭の「戰後」は終はつてゐなかつたのである。我が國が、臺灣におけるアヘン戰爭の戰後處理と復興に努力し、産業の振興のための指導と投資をしたことが今日の臺灣發展の基礎となつた。また、韓半島においては、獨立運動などを制壓し、特に、戰時體制の強化が必要となつた昭和十年代になつてから、日韓同祖論を強調し、内鮮一體の皇民化政策による日本語常用の強制、創氏の強制と改名の許容及び徴用などが行はれるやうになつたが、これらは日韓併合政策の促進による韓半島の近代化を目的とするものであつた。つまり、李氏朝鮮時代末期における韓民族間の虐待・差別の温床であつた兩班制度を廢止し、教育の機會均等を實現するため韓半島全域に學校その他の公共施設の建設や發電所、各種産業の生産工場施設等の建設など、社會資本充實と社會制度改革のために人的・物的・技術的投資と援助を日韓併合前から毎年繼續して行つてきたのである。

その物的援助面での豫算規模は、當時日本の毎年の一般會計歳入豫算の四パーセント強(平均値)であつた。これら一連の「同化政策」は、その内容と方法の當否や功罪について議論のあるところであるが、「植民地政策」とは隔絶され、これと一線を畫する性質のものであつた。

當時の國際社會において、文明國の列強が文明未開地域を植民地化することは國際法上も合法とされてゐた。文明を世界に廣げることは正義であり、その手段としての植民地化は是認されるといふものであつた。それゆゑ、我が國が文明國の仲間入りをして未開の韓半島などを植民地化することも、他の列強は認めてゐたのである。

しかし、列強のいふ植民地化といふのは、實際には、決して植民地の文明化ではなく、むしろ、植民地の收奪であり、未開状態を固定化することであり、それが今日の南北問題の遠因になつてゐるものである。

そこで、我が國は世界の文明化を忠實に進展させるためには、收奪目的の植民地化ではなく、廣域多民族國家の建設による併合同化こそが未開地域の文明化を推進することであると考へた。植民地にするのであれば歐米の植民地のやうに地球の裏側の海の彼方でもよいが、併合同化なら近隣地域、隣接地域でなければ、新國家の建設はできない。そのために、臺灣であり韓半島であつた。

また、國防意識が全く缺如した屬國病の未開地域が隣接するといふことは、我が國の國防にとつて重大な危機である。韓半島は支那の屬國ではあるが、支那もまた國防意識が缺如し、帝政ロシアの南下政策の標的となつてゐたからである。從つて、韓半島の政治に關與することは我が國の自衞のために必要不可缺なことであり、韓半島の保護下に置き、併合するに至つたのは、國際法上も容認される行爲である。そもそも、國際法による保護を受けられるのは文明國( Civilized Country )に限るとするのが國際法であり、日韓併合時の韓半島の李氏朝鮮は文明國でないことは國際的常識でもあつた。

袁世凱は、韓半島は萬國の中で最貧弱國の状態であつたと言ひ、しかも、支那の清ですら文明國ではなかつたのであるから、清の屬國である李氏朝鮮は尚更のことである。

宗主國の清王朝ですら、アヘン戰爭(1840+660~1842+660)、そして、第二次アヘン戰爭ともいふべきアロー戰爭(1856+660~1860+660)により、英國に香港島、九龍半島を奪はれ、さらに、南下政策の帝政ロシアに旅順や大連などがある遼東半島を支配され、義和團事件を口實に帝政ロシア軍に全滿洲を占領され、その後も、廣州、上海、青島、漢口、天津などの各都市に治外法權の租界を設定され續け、およそ獨立國とは言ひ難い状態になつてゐた。

ところが、韓半島では、獨立を保障すべき宗主國がそのやうな状態であることに危機感すら抱かずに、いつまでも事大主義に固執して唱へ續け、小中華思想が染み付いたままであつたため、帝政ロシアが、次は韓半島、そして日本列島を侵略する意圖があることすら充分に認識できてゐない有樣であつた。まさに韓半島は政治的には完全に死に體であつた。

つまり、李氏朝鮮では、鐵道施設權、鑛山採掘權までも外國に賣り飛ばし、裁判の結果も賄賂で左右される腐敗堕落の兩班政治が行はれてゐた。貴族の子弟を對象とした塾はあつても、庶民のための學校教育の制度などは存在せず、産業についてもマッチを一箱作る産業すらなく、すべて輸入に賴らなければならない民度の低い國情のままであつた。

もし、このままであれば、我が國の獨立を脅かすことから、自衞のために韓半島の秩序の回復と支配の確立を目指して、最後には併合するに至つたのである。大韓帝國の元首である初代皇帝高宗は日韓保護條約に贊成してをり、第二代皇帝純宗は日韓併合に贊成し全権委員として内閣總總理大臣李完用を任命する。純宗の署名と國璽のある正規の委任状を作成した上で日韓併合條約は締結されたのである。日韓併合條約は李完用が獨斷で行つたものであるとか、大韓帝國皇帝は日韓併合條約に署名も国璽の捺印も直接してゐないとか、あるいは、署名も國璽も偽造であるから無效であるなどの樣々な反論がなさてゐるが、そのやうな言説は史實と法的評價に照らして無意味であり、まさに噴飯ものである。勿論、併合による國家間の軍事的衝突も起こらず、帝政ロシアも含めて世界の國々からの反對もなく併合は認められたのである。第一章で行為規範と評價規範について述べたが、百歩讓つて、日韓併合條約の締結に不備があり、行為規範としては無效であると假に判斷されるとしても、その後の実效支配の繼續などからして、評價規範としては國際法上は當然に有效であることは多言を要しないところである。

このやうな歴史の眞實を自覺することこそが韓半島が屬國病から解放されるための第一歩となるはずであるが、未だに現在も拔け切れてゐない。次に述べることは、その宿痾を端的に示す一例といへる。

それは、日韓併合が合法か不法かといふ歴史學界における「日韓併合合法不法論爭」がなされた平成十三年十一月十六日、十七日の兩日に亘り、アメリカのハーバード大學のアジアセンター主催で開催された國際學術會議のことについてである(文獻303)。

これは、この論爭をめぐつて岩波の『世界』誌上で日韓の學者がかつて爭つたことがあつたが決着がつかず、これまでハワイと東京で二回の討論會を開き、今回は日米韓のほか英獨の學者も加へて結論を出すための總合學術會議だつたのである。しかも、韓國政府傘下の國際交流財團の財政支援のもとに韓國の學者らの主導で準備されたものであつた。韓國側は、この國際舞臺で不法論を確定しようと企圖してこの國際學術會議を開催し、それを謝罪と補償の要求の根據とする政治的狙ひがあつた。そして、日米英韓の學者が集まつて、これについての論爭がなされた。

この樣子を報道したのは、同月二十七日付の産經新聞だけで、一般の目にはほとんど觸れなかつたが、極めて重大な會議であつた。

韓國側は、冒頭において、如何に我が國が不法に韓半島(大韓帝國)を併合したかといふことを主張したが、國際法の專門家でケンブリッジ大學のJ・クロフォード教授が強い合法の主張を行なつた。古田博司の著作(文獻303)や産經新聞の記事などによると、クロフォード教授は、「そもそも當時の國際社會では、國際法は文明國相互の間にのみ適用される。この國際法を適用するまでの文明の成熟度を有さない國家には適用されない。言ひ換へるなら、文明國と非文明國の關係は、文明國相互においてと同樣に國際法において規定されない。それ故、前者(文明國と非文明國の關係)においては後者(文明國相互の關係)で必要とされる手續きは必ずしも必要でない。極論すれば、文明國と非文明國との關係の一類型として登場する、植民地化する國と植民地化される國の最終段階では、必ず條約の形式を必要とするとさへ言へない。當時において重要だつたのは、特定の文明國と非文明國の關係が、他の文明國にどのやうに受け止められてゐたか、である。單純化して言へば、植民地化において法が存在してゐたのは、その部分(他の文明國が受容したか否か)のみである。この意味において、韓國併合は、それが米英を初めとする列強に認められてゐる。假にどのやうな大きな手續き的瑕疵があり、非文明國の意志に反してゐたとしても、當時の國際法慣行からすれば無效とは言へない。」とし、「自分で生きていけない國について周邊の國が國際秩序の觀點からその國を當時取り込むといふことは當時よくあつたことであつて、日韓併合條約は國際法上は不法なものではなかつた。」と結論付けた。當然、韓國側はこれに猛反發し、自説を再度主張したが、同教授は、「強制されたから不法といふ議論は第一次大戰以降のもので、當時としては問題になるものではない。」と、一喝した。

韓國側は「條約に國王の署名がない」ことなどを理由に不法論を補強しようとしたが、日本側からも、併合條約に先立ち我が國が外交權を掌握し韓國を保護國にした日韓保護條約について、皇帝(國王)の日記など、韓國側資料の「日省録」や「承政院日記」などを分析し、高宗皇帝は條約に贊成し、批判的だつた大臣たちの意見を却下してゐた事實を紹介して、この會議で注目された。そして、併合條約に國王の署名や批准がなかつたことについても、國際法上必ずしも必要なものではないとする見解が英國の學者らから出されたといふ。

その會議に參加した學者によると、この結果、韓國側は悄然と肩を落として去つて行つたといふ。かくして、韓國側の目論みは失敗に終はつたが、この學術的にも政治的にも重大な會議の内容は、我が國ではほとんど報道されることがなかつたのである。

支那の宿痾

日清戰爭(明治二十七年)及び日露戰爭(明治三十七年)は、中華思想といふ他民族蔑視と侵略思想の清と、植民地支配を目的とする白人至上主義の帝政ロシアといふ二大勢力から韓半島を防衞して獨立に導き、これによつて我が國の國防を全ふならしめるための「自衞戰爭」であつて、これらも「侵略戰爭」ではありえない。

また、明治三十四年九月、我が國が清との間で締結した『義和團事變最終議定書』で認められた「駐兵權」に基づいて駐兵してゐた支那駐屯軍に對して、昭和十二年、蘆溝橋で支那側(八路軍)から不法射撃を受けたことを契機として戰火が擴大した支那事變もまた「侵略戰爭」ではありえない。

ところで、明治四十五年(1912+660)、支那最後の舊習派政權である清王朝が滅んだ後の支那は、いはば開明派勢力などの群雄割據の時代に突入したのであり、原則論、理想論としては、支那の自立を期待して、我が國の國是であつた中國内政の不干渉主義を貫くべきであつたが、これを傍觀することが不可能な國際情勢にあつた。大正十年(1921+660)十一月から、ワシントンで開かれた『海軍軍縮と太平洋・中國問題に關する國際會議』(ワシントン會議)に駐米全權大使として參加した幣原喜重郎が大正十三年(1924+660)六月十一日に加藤高明内閣の外務大臣に就任して以來、昭和六年(1931+660)十二月十一日に第二次若槻禮次郎内閣が總辭職して外務大臣を辭職するまでの七年六か月(實質は田中義一内閣時代を除く五年四ヵ月)にわたる協調外交政策路線(いはゆる幣原外交)は、まさに内政不干渉を基本方針としてゐたが、それは實現不可能な理想論であつた。

樣々な要因があつたにせよ、いづれの開明派政權によつて中國が統一されるかは、支那人民の固有の選擇に委ねるべきであり、むしろ、我が國がなすべきことは、過去に我が國が歩んだと同樣、いづれかの開明派政權によつて早期に統一されるやうな環境、即ち、歐米列強からの總ての干渉を排除する環境を實現して共存を圖ることが理想ではあつた。しかし、魑魅魍魎の國際政治の現實と權謀術數に操られる支那の民度の低さからして、到底實現できるものではなかつた。

支那の自立を妨げた樣々な要因の中には、主なものとして、支那大陸や韓半島におけるアメリカの諜報機關による排日情宣活動やコミンテルンによる戰爭(内亂)誘發の謀略などがあつた。アメリカは、ハリマン構想(明治三十八年)が挫折して自國の滿洲における支配權益が實現しえないと知るや、對日方針を一轉して、諜報機關の指示により支那や韓半島にゐるキリスト教宣教師らを總動員して、親支恐日段階(Sinophile-Japanophobe phase)と呼ばれる情宣活動と、國際世論形成のために世界のメディアを利用した反日宣傳を開始した。米中共同戰線によつて我が國の排除を實現した後、アメリカが滿洲その他の支那大陸支配の權益を確保しようとの戰略に出たのであつた。また、支那事變の發端となる蘆溝橋事件(昭和十二年七月七日)は、コミンテルンの指令により中國共産黨が内亂による漁夫の利を得るために仕組んだ戰爭誘發の謀略だつた。我が國は、これらの術數にはまり、支那事變の戰火を擴大させるに至つたのである。

このやうな事情に加へて、支那の自立を阻んだ最大の理由は、現在でも根強い排外差別思想、支那の中華思想である。中華思想とは、自らを世界の中央にある「中國」とし、世界の文化(華)の中心である「中華」とし、さらに、國土が大きく國力が盛んな世界の中央にある「中夏」と呼んだ漢民族の優越思想である。文化の遲れた東西南北の周邊民族をそれぞれ「東夷」「西戎」「南蠻」「北狄」と蔑稱し、支那周邊諸國、とりわけ韓半島や我が國に影響をもたらした。李氏朝鮮では自國を「小中華」と自稱して他を夷狄とし、我が國ではポルトガル・スペイン文化を「南蠻文化」と呼んだ。いづれも實力の伴はない中華思想の猿眞似であつたが、その殘滓が近代以降から現代までの日韓兩國の思考形態に少なからず影響したことは否めない。

いづれにせよ、清國(1616+660~1911+660)は云ふに及ばず、辛亥革命(1911+660)により清國を倒した中華民國もまた、その後に政權が軍閥として分裂し、さらに、國民黨軍と共産黨軍による内戰状態となつたので、支那は、歐米列強からは文明國とは全く見られなかつた。

そして、支那は、このやうにして當初は歐米の植民地による被害者でありながら、支那の政權が後に連合國の一員となり、國連での常任理事國の地位を占めるなど、最終的には歐米の加擔者となつて世界の覇權を分掌するに至つたのは、この中華思想と歐米の白人至上主義との混聲合唱により、抗日共同戰線が形成されて功を奏した結果である。支那は、滿洲、チベット、その他の周邊地域を侵略し、諸民族の宗教、文化、自治等は徹底して彈壓し續けてゐる。舊ソ連においてロシア民族による他民族支配がなされてゐたのと同樣、現在も、漢民族による他民族支配の構造に基本的な變化がないのは、この根深い中華思想に由來する。

歐米の宿痾

アメリカの建國は、英國をはじめ歐洲諸國がその西方に新天地を求める「領土擴大主義」に由來する。そして、アメリカは、さらにそれを「西部開拓」といふ理念なき征服欲、支配欲、所有欲を正當化した「西進主義」に脱皮させ、それをキリスト教に基づく「神から授けられた明白な使命」(マニフェスト・デスティニィ、Manifest Destiny)であるとして、西方にある野蠻な未開の地に文明の恩惠を施すことを正義とし、先住民の虐殺、土地の收奪に全く罪惡感を持たず、それを希望と快樂に倒錯する惡魔の所業を行つた。これがアメリカの植民地主義、侵略主義の原點であり、さらに、アメリカ大陸で虐殺と收奪をし盡くして太平洋岸まで辿り着くと、さらに、西方である極東、そして世界全域に進出したのがアメリカの歴史である(文獻97、134)。

英國その他歐洲諸國からアメリカに渡つた移民の抱いたアメリカン・ドリームとは、白人がインディアンから肥沃な土壤と金鑛のある土地を詐取又は強奪することの「機會均等」と、これに反抗する者を容赦なく虐殺する「權利」が與へられてゐることを意味する。

押し込み強盜の頭目(イギリス)とその手下(獨立前のアメリカ)がインディアンの土地や財寶を強奪し、その後の分け前の段階になると、手下がこれらを獨り占めしようとして頭目と決別したのが「アメリカ獨立戰爭」の動機である。頭目と決別した手下は、今度は頭目に遠慮することなく恣に強奪できることになり、「インディアンは嘘をつかない」ことを逆手に取つて、アメリカ合衆國や地方政府がインディアンと結んだ條約や協定を三百回以上も平然と破つて彼等の土地を收奪した。その上、第七代アンドリュー・ジャクソン大統領(1767+660~1845+660)は、インディアンを野蠻人と決めつけ、東部諸州から一掃するために強制移住法(1830+660)を制定し、全てのインディアンを、北米大陸を南北に流れ平野部を東西に分けるミシシッピー川よりも西側に立ち退かせてインディアンの全ての土地を手に入れた。軍によつて暴力的に追ひ立てられ、多くの者を病氣と飢ゑで死に至らしめられて、先祖傳來の土地を離れざるをえなかつた數萬人のインディアンが、強制移住のためにミシシッピー川の西側へと歩いた道は、「涙の道」と呼ばれた。ところが、このやうな多くの犧牲で移住したミシシッピー川の西側にも肥沃な土地や石油資源があることを合衆國政府が知るや、その四年後には、さらに西の西經九十五度に境界を移動させ、ミネソタが州に昇格するのに伴ひ(1858+660)、更に百マイル西方に境界を勝手に移動させた。

そして、その後も「ボナンザ(豐かな鑛脈)」を目當てに土地を奪ひ續け、多くのインディアンを虐殺し續けた。ついには全ての土地を奪つた擧げ句、人里離れた狹い地域に隔離し、その居留地に住むことを條件に食料を支給し、生活保護を與へたインディアン居留地(リザベーション)を設置し、この「インディアン・サファリ・パーク」に部外者との接觸を禁じて押し込めてゐる。

また、メキシコからもテキサスの土地を奪つたことからメキシコと戰爭となり、メキシコ大統領のサンタ・アナ將軍を捕虜にしてテキサスの獨立を承認させた上、講和條約を締結し(1848+660)、更にニューメキシコとカリフォルニアを買收することに同意させた。このメキシコとの戰爭の際、ザガリー・テイラー將軍率ゐる米軍がメキシコ領内に侵攻したのは、米國議會がメキシコに宣戰通告をする四十八時間も前であつた。我が國の眞珠灣攻撃を卑劣な攻撃(Sneaky Attack)とか騙し討ち(Traitorous Attack)などと批判する前に、己の頭の蠅を追ふべきであつて、この騙し討ちをした者を第十二代大統領に選んだアメリカは、本質的に野蠻人國家である。

そして、西部開拓が太平洋岸に達すると、さらに海を越えて武力でハワイの獨立を奪つて併合し、スペインの無敵艦隊(The Invincible Armada)が英國との海戰に敗北すると(1588+660)、キューバがスペインから獨立する機に乘じて米西戰爭(1899+660)を仕掛けて勝利し、スペインの植民地であつたフィリピン、グアム、ウエーク、サモア、プエルトリコをアメリカの領土とした。

次は我が國である。ペリーは、我が國と戰爭をして勝利し、我が國の領土を奪はうとする野望があつたが、德川幕府が戰はずして屈服したため、開港させることなどだけに甘んじた。さらにその次は支那である。歐洲と我が國が既に進出してゐたので後塵を拜すことになつたため、「門戸開放」、「機會均等」、「領土保全」を主張し、特に、日清戰爭と日露戰爭を經て、支那に對して先行的な特殊權益を持つ我が國と衝突した。

このやうに、西進主義のアメリカが太平洋を渡りきつてきたのを下支へしたのは、やはり黄禍論であつた。日清戰爭に勝利し、さらに日露戰爭に勝利した我が國を假想敵國として對日戰爭計畫( War Plan Orange オレンジ計畫)を策定し、兵器の發達進歩に伴つてその計畫は何度も内容が更新された。そして、昭和十六年九月二十七日、日・獨・伊の三國同盟が成立したことから、三國との戰爭を豫想して、その戰略を一國ごとの戰爭計畫を、それぞれ一色で表してゐたのを止めて、新たな戰爭計畫を「レインボー5」と名付けて策定することになつた。これによれば、日米開戰の場合に取るべき米國の作戰は、アメリカ艦隊により日本周邊の海上封鎖を行ひ、海外からの物資の輸入を絶ち、沖繩を占領し、空襲により日本國内の生産設備を破壞して繼戰能力を喪失させ、本土を孤立させて降伏させるといふものであつた。そのための布石として、ハワイとフィリピンのマニラ(スービック灣)に海軍基地を建設して海軍力の增強を圖つたのである。その後、まさにこの計畫のとほりに推移したことは多言を要しないところである。

この黄禍論は、つまるところ「日禍論」であつて、歐米では、我が國の大國化は歐米列強の白人至上主義に基づく東亞支配戰略に對する脅威であるとの認識がなされ、我が國の國力增強に比例して、東洋人(日本人)を蔑視・敵視する傾向は一段と加速した。アメリカでは、まづ『學童隔離令』が制定された。これは、明治三十九年(1906+660)十月十一日、サンフランシスコ市教育委員會が、公立學校に通ふ日系人(當時は韓民族を含む)學童全部を白色人種の學童が通ふ公立學校とは別の東洋人學校に通學させるとの人種民族差別議案を可決成立させたことをいふ。この東洋人學校は、市内の中國人街に設置されてをり、同委員會は、既に、中國人學童について、隔離通學を實施してゐたのである。

そして、次に『外國人土地法』(排日土地法)の制定がなされる。これは、大正二年(1913+660)五月十九日成立した『カリフォルニア外人土地法』のことである。「合衆國の法律により歸化しうる外國人」(同法第一條)に「該當しない外國人」(同法第二條)とは、その當時最も多い「日本人移民」のことであり、日本人差別立法であることは明らかであつた。さらに、アメリカの追ひ打ちは續く。それは、日本人の歸化權剥奪判決である。これは、大正十一年(1922+660)、カリフォルニア州での日本人移民の歸化權の存否をめぐる訴訟において、合衆國最高裁判所のなした判決であり、黄色人種(日本民族、韓民族)は歸化不能外國人であり歸化權はなく、その歸化權の剥奪の效力は移民開始時に遡及し、既に歸化した日系米國人の既得權をも剥奪するといふ内容の著しい差別判決がなされた。さうして、東洋人、とりわけ日本人を公然と露骨に差別する多くの排日法の制定と政策が次々と斷行されていつた。

さらに、アメリカは、『國際連盟規約』制定の審議過程において、我が國が提案した『人種平等案』を一方的に否決させるなど、歐米列強は、その絶對的優位を脅かす我が國を國際社會から孤立させて壞滅させる意圖を鮮明にしてきたのである。

つまり、大正七年(1918+660)十一月、第一次世界大戰が終結し、その翌大正八年(1919+660)に『ヴェルサイユ講和條約』が締結され、その規定に從つて、さらにその翌大正九年(1920+660)一月十日、初めての國際機關である國際連盟が成立した。その『國際連盟規約』の審議の際、我が國の牧野伸顯全權委員が「各國民均等ノ主義ハ國際聯盟ノ基本的綱領ナルニ依リ、締約國ハ成ルヘク速ニ聯盟員タル國家ニ於ケル一切ノ外國人ニ對シ如何ナル點ニ付テモ均等公正ノ待遇ヲ與ヘ、人種或ハ國籍如何ニ依リ法律上或ハ事實上何等差別ヲ設ケサルコトヲ約ス」といふ内容を國際連盟規約案第二十一條の「宗教の自由」の規定の後の一項として追加しようとの修正提案を行つた。しかし、アメリカは、國際連盟規約に、第五代大統領モンローが提唱した歐米兩大陸の相互不干渉の對歐洲孤立主義の外交政策方針、いはゆるモンロー主義を容認する旨の項目を要求して實現させたのに、アメリカ・イギリスなどは、我が國の右修正案(人種平等案)の要求のみを否決させたのである。人種差別を肯定することが、やはり歐米思想の正體であつた。しかし、このやうなアメリカの東洋人に對する露骨な差別と偏見と迫害の中でも、毅然としてこれに反對した東洋人差別反對運動家がゐたことを忘れてはならない。それは日本人藤井整である。彼は、カリフォルニア州で『加洲毎日』を主宰して活動したが、昭和七年十二月二十七日、反日勢力に銃撃されて殺害されたのである。

そもそも、非資源國である我が國は、經濟及び軍事を維持する石油を全て輸入に依存してをり、當時石油の大部分はアメリカから輸入してゐたのである。從つて、いくら我が國が軍事大國とならうとも「油上の樓閣」であることは日米共通の認識でもあつた。

アメリカの名目上の國是であつたモンロー主義の正體は、西洋諸國との共存のために、アメリカは歐洲問題には干渉しないとするに過ぎず、逆に、その見返りとして、南北アメリカ大陸におけるアメリカの優先的な權益を歐洲から保障された。また、アジアその他世界の地域については西洋列強と同樣に、西高東低の優越思想による植民地主義に依據するものであつた。現に、アメリカは、その建國の精神とされるものが原住民族の命と生活と土地を侵奪する「侵略思想」であり、ハワイのカメハメハ王朝を滅亡させ、皇紀二十六世紀(西紀十九世紀末)からフィリピンを植民地としてゐた自稱「自由の國」であつた。アメリカは、遥か太平洋の彼方の國ではなく、バシー海峡で我が國と隣接する超大國となつてゐたのである。

當時は、二・二六事件(昭和十一年)以降、軍部(統制派)と内務省の二大權力が政治の全權を掌握するに至つてゐた時期であつて、アメリカの行つた宣戰通告ともいへる經濟封鎖等の一連の措置は、我が國に宿命的な選擇をさせることになる。支那事變に引き摺り込まれて疲弊した我が國は、支那事變と對英米戰爭の「二正面作戰」を回避しなければならないが、このままでは「座して死を待つ」ことになる。さうであれば、「死中に活を求める」ことを選擇して開戰を餘儀なくされたことは、國家の自己保存本能による必然的な自衞行動であつた。

このやうな經過からすると、幕末から大東亞戰爭に至る「東亞百年戰爭」全體の巨視的な歴史評價としては、自衞戰爭と解放戰爭の性格を有する思想戰爭であると云へる。これは、歐米列強の植民地支配から東亞を解放し、大東亞新秩序の建設を目的とした擴大的自衞論ともいふべき思想戰爭であつて、その思想性、目的、戰闘手段、結果及びその波及效果などを總合すれば、昭和十六年十二月八日の『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』(『大東亞戰爭開戰詔書』)にあるとほり、大東亞の「自存自衞」のための戰爭であつたことは明らかである。

即ち、東亞全域を歐米列強の植民地支配から脱却させ、アメリカなどからの石油輸入に依存しない東亞獨自の貿易經濟圈を平和裡に建設することを目指す「大東亞共榮圈構想」は、大東亞戰爭遂行中の昭和十八年十一月、東京で、同盟國タイ、獨立フィリピン、ビルマ、中國南京政府(汪兆銘政權)、滿洲國の首腦が參加し、シンガポールで樹立した自由インド假政府(インド國民軍)もオブザーバーとして加はつた「大東亞會議」で象徴されるやうに、東亞全域に存在する開明派政權の大同團結による大東亞の新秩序をめざす思想的集大成であつて、基本的に、アメリカを含む歐米列強による全世界植民地支配構想と眞つ向から對立してゐたのである。

この「大東亞會議」とは、昭和十八年十一月五日、我が國が主宰し、東京で開催された『大東亞戰爭同盟國會議』(參加六箇國)であり、翌六日に、「正義の實現」、「相互の獨立」、「主權と傳統の尊重に基く共存共榮の新秩序」、「互惠の精神をもつての經濟開發」、「すべての人種差別の撤廢」を要求する『大東亞共同宣言』(資料二十)を滿場一致で採擇されたのである。

この會議は、開催時期が大東亞戰爭突入後であつたことから具體的な效果はなかつたとされてゐるが、大東亞戰爭が思想戰爭であつたことを證明して餘りあるものである。この大東亞會議に、臺灣と朝鮮の代表が出なかつたことを批判する當を得ない論評があるが、國内の地域代表を出すか否かは國内問題であり、各國の國際的連携を目的とする會議には相應しくはないからである。また、この會議にオブザーバーとして出席した自由インド假政府(インド國民軍)の代表者は、インド獨立運動家スバース・チャンドラ・ボースであつた。ボースは、マハトーマー・ガーンディーやジャワーハルラール・ネールらとともに、イギリスの植民地として收奪・搾取され極貧下にあるインドが獨立を勝ち取るための獨立運動の指導者の一人であり、昭和十三年(1938+660)、國民會議派議長に選出されるが、武裝蜂起による急進的立場を堅持したため、ガーンディーやネールの穩健派の反對で議長を辭任した。その後、昭和十六年(1941+660)にベルリンへ逃れて反英ラジオ放送を開始して活動を續けてゐたが、昭和十八年(1943+660)に來日し、我が皇軍と協力して、マレーで降伏した英印軍五萬人を基礎にインド國民軍(INA)を編成して、後の日印共同のインド解放戰爭(インパール作戰)のために大東亞會議に參加した。ボースは、ガーンディーやネールらの穩健派の説く「平和主義」がイギリスの非情な自己優越思想や植民地主義には無力無能であることを力説し、自由インドの人柱となることを決意する。そして、昭和十九年三月八日、皇軍とインド國民軍(ラーニー女性連隊を含む)の連合軍は、インド東北部のインパール(ビルマとの國境付近)まで進軍したが、戰線擴大による戰力低下と物資補給不足などが原因し、皇軍とインド國民軍は壞滅した。イギリスは、見せしめのため、インド國民軍の指導者(元英印軍將校)らを反逆罪として裁判にかけたため、インド人民はこれに抗議して全國的に暴動と反亂を繰り廣げた。それが契機となつて、ガーンディーやネールらの國民會議穩健派の手によつて、ボースやインド國民軍五萬人の悲願が達成する。かくしてインドは日印將兵の多くの屍を乘り越えてイギリスから獨立したのである。

ともあれ、アメリカは、イギリスと共に、當初から我が國及び皇軍の能力と意圖を見拔き、高い關税障壁をめぐらして種々の經濟封鎖を行つた。つまり、アメリカとイギリスは、昭和初期になつて、恐慌對策を理由に自由貿易を制限し、保護貿易主義や地域主義へと轉向して、我が國との貿易に高い關税障壁をめぐらしたのである。アメリカでは昭和五年(1930+660)の『ホーリー・スムート法』による保護貿易化が始まり、イギリス連邦諸國では昭和七年(1932+660)の『オタワ會議』による經濟ブロック化がなされる。これが世界恐慌などの引き金となり、歐米依存經濟であつた我が國は、大きな經濟的打撃を受けることになつた。

加へて、アメリカからの過度な政治的要求と背信行爲もあつた。具體的に云へば、日露戰爭終結の翌明治三十九年(1906+660)四月十八日、サンフランシスコ一帶が大地震に見舞はれた際、我が國は、日露戰爭後の苦しい財政事情にもかかはらず、世界各國から送られた義援金の半數以上に當たる總額金五十五萬圓(當時の國家總豫算約金五億圓)を見舞金として被災地に送つた。ところが、その六か月後の同年十月十一日、そのサンフランシスコで前に述べた『學童隔離令』などによる公然とした日本人差別がなされ、我が國では、このアメリカの措置が「恩知らず」の背信行爲であるとの批判が卷き起こつた。

このやうに、アメリカは徐々に我が國を窮地に追ひこみ、對日強硬路線に反對する國内勢力を一掃するために、我が軍の行動樣式を完全に讀み取り、敢へて眞珠灣奇襲攻撃を誘發させて對米英戰爭に早期突入させた。しかし、日本の國力では長期戰ができない。從つて、戰略としては、緒戰に勝利して早期停戰講和を實現しなければならない。ところが、アメリカは、これらの事情を知りぬいた上、その壓倒的軍事力をもつて我が國の完全壞滅を企て、「リメンバー・パール・ハーバー」のスローガンを掲げて、報復の思想に國論を統一し、早期講和實現を目論む我が國を泥沼の長期戰に引きずり込んだのである。

そして、我が國の敗色が濃厚となつた後も徹底交戰せざるをえなかつたのは、昭和一六年(1941+660)八月十四日發表の『英米共同宣言(大西洋憲章)』(資料十八)に「敗戰國の武裝解除」を要求してゐたことも原因してゐた。從來までの世界の戰爭處理は、戰勝國の敗戰國に對する賠償請求や領土の割讓の事例しかなく、敗戰國の武裝解除は前代未聞の要求になつてゐた。このことは、英米側からしても大東亞戰爭、即ち「太平洋戰爭」が思想戰爭であつたことを證明してゐる。そして、アメリカは、もはや制空權と制海權を完全に喪失して戰闘能力が壞滅してゐる我が國の皇土に對し、戰爭に名を借りた大規模な虐殺行爲による人體實驗として原子爆彈の投下まで行つて、ポツダム宣言を無條件で承諾させるといふ、實質的な無條件降伏による敗戰に追ひこんだ。これらの一連の事實經緯については、戰後五十年を經て順次公開されてきたアメリカ國防總省等の機密資料の中に讀み取ることができる。かくして、内外の多くの將兵・軍屬・民間人らの人命を奪ひ、各地を廢墟と化した大東亞戰爭は停戰した。我が國が理想とした大東亞共榮圈構想は現實との大きな乖離を生じたまま潰へ、我が國は國際舞臺から退いた。だが、これは、紛れもなく世界の植民地支配を終焉させた世界史上最大の結果を生んだ「聖戰」といへる。

ロシアの宿痾

ロシア(單に「ロシア」といふ場合は、「帝政ロシア」、「ソ連」、「共和制ロシア」を總稱)は、傳統的に南下政策による領土擴大の意圖がある。帝政ロシアがシベリア大陸を開發して東方に領土を廣げてオホーツク海に達すると、今度は宿願であつた不凍港(冬季でも凍結せずに使用できる港)を求めて南下政策に轉じた。そして、支那の清の領土である遼東半島を支配し、難攻不落といはれた旅順の軍港と要塞を築いた。さらに、文久元年(1861+660)には對馬に上陸してそこに海軍基地を建設しようとしたが、帝政ロシアの南下政策を警戒した英國が軍艦を派遣して帝政ロシア軍を對馬から排除した。また、明治三十二年(1899+660)に起きた義和團事件を契機に、ロシア軍は全滿洲を占領したまま、さらに韓半島への進出を狙つたのである。

そして、ロシアは、西方においては、ポーランド、バルト三國(エストニア、ラトビア、リトアニア共和國)、スロベニア、ウクライナ、さらにフィンランドの一部を次々と侵略し、ソ連に併合してきたことからして、アメリカと同樣に領土擴大に血道を上げた。

ところで、このアメリカと同樣に、極東における南下政策といふ領土擴大主義の背景にも黄禍論(日禍論)がある。眞つ先にこれを現實的に抱いたのは日露戰爭の當事國として、白人として初めて有色人種に破れた帝政ロシアであるが、帝政ロシアはロシア革命によつて滅亡したものの、黄禍論(日禍論)だけは革命國家にそのまま引き繼がれた。つまり、ソ連は、帝政ロシアを打倒した革命國家であり、帝政ロシアと隔絶した國家であつたものの、その對外政策においては、不凍港を求めて南下するといふ領土擴張論(南下政策)をそのまま承繼したといふことである。帝政ロシアの受けたロシア人の屈辱をソ連が報復戰爭をして勝利することこそが、帝政ロシアを打倒した革命國家としての矜恃なのであつた。

ウラジオストックは、ロシア語ではヴラジ・ヴォストークと發音し、ヴォストークとは「東方」、ヴラジは「支配(進撃、征服)する」を意味するので、「東方を征服せよ」といふ意味の軍港であり、帝政ロシアが清から沿岸州一帶を獲得して建設されたものである。ロシア人は、この名前を聞くたびに「東方を征服せよ」と自らを鼓舞して東方征服を誓ふのである。これがソ連にも共和制ロシアにも引き繼がれ、思想的にも軍事的にも我が國への侵略をあからさまに宣言する。

しかも、ソ連は、その建國思想が共産主義であり、これが我が國體を破壞する危險があつて、しかも、軍事的にも最大の脅威であつたことから、我が國が國體護持のため治安維持法その他樣々な防共政策と立法を行つたのは當然のことであつた。

つまり、我が國におけるソ連の脅威といふのは、思想と軍事との複合的なものであり、それが支那と韓半島を不安定にする大きな原因の一つであり、さらに、對米關係も注視しなければならないといふ三方向の對應を我が國は餘儀なくされたのである。

思想戰爭の結末

お互ひに不倶戴天の敵として世界的な思想戰爭を戰つた場合、その結末は嚴酷である。戰勝國としては、敗戰國の報復を恐れ、敗戰國が再び報復的に戰ひを挑むことができないやうに征服して壞滅させるか、あるいは徹底的に敗戰國を弱體化させることになる。そして、その口實として、戰勝國の思想の方が敗戰國のそれよりも絶對的に優越性があることを自畫自贊して宣言する。現に、連合國は、昭和十八年(1943+660)十一月二十七日の『カイロ宣言』(資料二十三)において、我が國が遂行した今次の戰爭の全てを侵略戰爭とし、その「侵略を制止し罰する」ことを連合國の戰爭目的であると位置づけて、連合國の思想戰爭の正當性を宣言した。ただし、このカイロ宣言は正式には成立してゐなかつたことが事後に明らかとなつてゐるが、力こそが正義であるとする連合國からすれば、そのやうな批判はどうでもよいのである。そして、我が國は、その敗戰の結果、東亞百年戰爭で獲得した全ての領土(臺灣、韓半島)を剥奪されるといふ制裁措置の外に、『日ソ中立條約』(昭和十六年四月十三日締結、有效期間五年)を無視したソ連の宣戰布告(昭和二十年八月八日)により領土(千島列島、南樺太など)を略奪され、さらに六十萬人を越える皇軍將兵がシベリアに抑留され、同地で開拓勞働の強制と虐待を受け、そのうち多くの者が不歸の客となつた。しかも、この條約無視によるソ連の參戰については、連合國が『テヘラン首腦會議』(昭和十八年十一月)で事前共謀し、昭和二十年二月十一日の『ヤルタ密約』(資料二十一)で密約してゐたことなのである。戰爭による相手國の領土割讓を全て否定するのであれば理論的一貫性があるが、その當時、未だに歐米の東洋侵略の象徴である香港などの植民地が世界に存在してゐたことや、我が國固有の領土を侵犯する行爲を黙認・許容している國連體制に世界的な正義などあらうはずもない。連合國は、『日ソ中立條約』を共謀して違法に破棄しておきながら、GHQの軍事占領下で成立したとする占領憲法第九十八條第二項で、「日本國が締結した條約・・・・は、これを誠實に遵守することを必要とする。」として片面的に押し付けるのは「確立された國際法規」に明らかに違反する思想的報復措置なのである。

白人神話崩壞の怨恨

大東亞戰爭は、結果的には歐米列強による世界の植民地支配構造の野望を打ち碎いた。歐米は、植民地支配の獨占をといふ當初の目論見が外れ、その植民地の大部分を失つた。東亞諸國では、日露戰爭から大東亞戰爭に至る過程で、我が國が「白人不敗神話」と刺し違へたことによつて、東亞諸民族に民族自決の自信と勇氣が蘇り、大東亞共榮圈建設のための第一次段階である、各民族の自決による獨立國家建設が實現した。さらに、それはアフリカや中南米諸國などにも波及して、多數の獨立國が誕生したのである。

それまで、白人は、神と人との中間に位置する「半神」と自負してゐた。たとへば、奴隷制のアメリカでは、白人の女は、白人の他人の男の前では羞恥のため決して裸になつて着替へをしたりしないが、奴隷の黑人の男の前では、平氣で裸になつて着替へをする。奴隷の黑人などは、家畜と同じであり、家畜に對して羞恥することはないからである。ところが、世界の人々は、日露戰爭で我が國が勝利したことによつて、白人不敗神話の崩壞を見た。そして、大東亞戰爭によつて、白人支配の崩壞が現實となつた。その當時、有色人種を支配し奴隷としてきた連合國がその後に作つた國際連合の事務總長に有色人種を就任させる時代になるといふことを、一體誰が想像しえたであらうか。

この想像を絶する現實を導いたのは、紛れもなく我が國が身命を賭した東亞百年戰爭なのである。その意味において、大東亞戰爭は、歴史上最大の聖戰である。アメリカの大統領などの要職や國連の事務總長に有色人種が就任する時代になつたのは、その證である。さうであるがゆゑに、連合國は、他の有色人種には寛容であつても、日本民族に對しては、白人神話を崩壞させた恐怖と怨恨を濳在的に抱き續けてゐる。「黄禍論」は薄らいだか、今は連合國とこれに便乘して虎の威を借りた支那と韓半島などによる「日禍論」が荒れ狂つてゐるのである。現在の國際社會における對日關係は、白人の「黄禍論」が「日禍論」に集約されてゐることを認識の基礎に置けば、概ねその全貌が見えてくるのである。

極東國際軍事裁判

これまでの國際慣習法によれば、國際的に法人格を認められた國家に關しては、他の同じ國家と國際社會において同格であるとする「主權平等の原則」がある。つまり、國家はそれぞれ對等の立場で外交をなすものであつて、武器を用ゐた外交である戰爭となつた場合でも、それが終了すれば再び外交によつて講和條約を締結するのであつて、戰勝國が敗戰國を裁くといふことはできない。身近な例で云へば、國家機關である裁判所(裁判官)が人を裁くことはあつても、裁判官でもない對等な私人同士で、一方が他方を「裁く」といふのは、私刑(リンチ)か裁判ゴッコでしかありえないのと同じである。

第一章で述べた國家連合ないしは連邦國家のやうに、連合體や連邦體に包攝される單位國家間に起こつた紛爭を、これらの單位國家を包攝し上位に位置する連合體政府ないし連邦政府が設置した裁判機關で審判することはありうる。『行政事件訴訟法』第六條に、「国又は公共団体の機関相互間における権限の存否又はその行使に関する紛争についての訴訟」(機關訴訟)の規定があるが、そのやうな制度が連合國家や連邦にあつても不思議ではない。つまり、複數の國家が連合關係ないしは連邦關係となつて統一組織の團體を結成し、その裁判機關が豫め設置されてゐる場合であれば、その團體を構成する單位國家間の紛爭を裁き、いづれかの國家の行動を正義であると判斷することはありうる。だが、現在の國連は、國家連合でも連邦でもなく、特定の國家自體を裁く制度は備へてゐないのである。國際連合の總會で行ふ非難決議などは「裁判」ではなく、政治的意思表明にすぎないのであつて、「國家は國家を裁けない」といふのが國際慣習法の鐵則なのである。戰勝國が敗戰國を「裁く」と云つても、それはそのやうな「儀式」を「講和條件」として受け入れさせたといふだけである。國際連合における國際司法裁判所といふのも、「裁判所」ではない。國際連合は連合國家でも連邦でもなく、國際司法裁判所といふのも、本來の意味での裁判所ではない。國際司法裁判所の「裁判」に委ねるといふのは、国際連合憲章といふ一般條約に加盟する條約(國連加盟條約)によつて、國際紛爭を解決する方法として、当事國の同意があれば「仲裁人」が「仲裁判斷」により解決することができるといふ「仲裁合意」に基づく制度なのである(『仲裁法』參照)。條約といふのは、國家間の合意であり、その法律的性質は「契約」であり、仲裁合意もまた契約である。つまり、國際司法裁判所といふのは「仲裁人の合議體組織」に過ぎないのである。

ましてや、東京裁判を行つた極東國際軍事裁判所なるものは、國際司法裁判所でもなければ、我が國がこの裁判(仲裁判斷)に服するとの合意もない。ポツダム宣言には、極東國際軍事裁判所といふ名の事後に設置される「仲裁人組織」によつて、これまでの國際法にはなく、新たに創設する手續によつて刑罰を課し、これを執行することができるといふやうな條項がない。從つて、そのやうな仲裁合意(講和條件の承諾)はなかつたのである。つまり、東京裁判は、大東亞戰爭といふ思想戰爭の報復措置としてなされた「國際政治ショー」であつて、外觀上は公正さを裝つて連合國に戰爭の大義があることを演出したものにすぎない。しかも、その演出の眞の目的は、「國家が國家を裁く」ことにあつた。形式は、わが國自體を被告人としたものではないし、そのやうなことは國際慣習法からして不可能であることを連合國も解つてゐた。しかし、國際世論を喚起するプロパガンダとしては、わが國の國家機關である國家首腦部に屬する個々の構成員を被告人として裁くことによつて、限りなく「國家」を裁くことに近づけたのが東京裁判であつた。それゆゑ、昨今巷において、「パール判決書」を引き合ひに出して「日本無罪論」とか「日本有罪論」などと、あたかも我が國自體が被告人の地位にあつたかのやうな喧しい論爭が繰り廣げられてゐるが、これは、國際慣習法と裁判制度の基本を知らない一知半解の者どもによる「猿の尻笑ひ」騷動に過ぎない。そもそも、國家法人説と代位責任説によれば、國家機關に屬する者の國家行爲は、國家自體の行爲であるから、その行爲責任は國家(法人)に歸屬するものであるが、これをあへて國家を被告人とすることなく、その國家機關に屬する者の個人責任(自己責任)として起訴したことに致命的な矛盾がある。國家首腦のなした國策遂行行爲に責任があるとすれば、それは國家自體に責任があるのであつて、個人としての自己責任はない。このことからだけでも、個人責任として起訴されたすべての被告人は無罪なのである。そして、我が國自體は、もちろん起訴されてゐないのであるから、「起訴なければ審判なし」といふ「不告不理の原則」からして、我が國自體に對して、有罪、無罪といふ實體判決をなすべき審理と審判を爲しえないのは自明のことである。つまり、「日本無罪」でも「日本有罪」でも、そのいづれでもなく、嚴密には「日本不起訴」なのであつて、起訴されない者(我が國)の有罪無罪を論ずることは、起訴され「たら」とか、起訴され「れば」といふ、「たられば」の假定の世界であつて全く無意味である。

ともあれ、このやうな裁判ショーを仕組んだのは、昭和二十年六月、米、英、佛、ソ連の四國によるロンドンでの會議においてである。ここにおいて、今後の戰爭裁判の方針(ロンドン協定)を決め、その戰犯裁判においては連合國の行爲は決して問題とされてはならず、あくまでも日獨伊の樞軸國の過去を裁くことにし、連合國の犯罪行爲を棚上げにして、正義と文明の名といふ名目により、思想戰爭の敗者に對する復讐心を滿足させるものであつた。

このやうな經緯により、東京裁判がドイツのニュルンベルグで設置された國際軍事裁判所の戰爭裁判と同じ手法と構造でなされたことはよく知られてゐるところである。東京裁判では、ナチスのホロコーストに對應するものとして、昭和十二年十二月十三日、我が皇軍が國民黨政府の首都南京を攻略した際に多數の支那人を虐殺したとされる、いはゆる「南京虐殺」なるものを對置させたが、これは、プロパガンダの産物であり、事實として存在せず全くの虚構であつたことが今日までの研究成果によつて完全に證明されてゐる。その意味では、東京裁判が假に有效に成立したとしても、有罪か無罪かの實體判決を爲すについて、南京虐殺の事實に關しては、事實の證明がないとして無罪となるものである。

そこで、南京虐殺の虚構性については、これまでの優れた研究に委ねて省略することとして、以下においては、專ら東京裁判の法的觀點からその不當性及び無效性の要點を述べることとする。

まづ、第一の無效理由としては、當時においても國際法で確立してゐた「罪刑法定主義」の派生原則である「遡及處罰の禁止」(當時は違法とされてゐない行爲を事後に制定した法を以て處罰することを禁止すること)に違反する點である。當時は、「平和に對する罪」とか「人道に對する罪」などはなかつたのに、これを昭和二十一年一月十九日に『極東國際軍事裁判所條例(憲章)』を制定して處罰した點であつて、これだけでも東京裁判の不當性は明らかである。連合軍は、これに先だつて、ナチス・ドイツに對し、昭和二十年八月八日、これと同じ内容の『國際軍事裁判所條例』を制定し、ドイツ・ニュルンベルグで世界史上初の戰爭犯罪裁判を行つたが、これも罪刑法定主義に反することは同樣の理由によるものである。これまでの戰時法規によつて處斷することは充分可能であつたのに、あへてこのやうな國際法違反の手法を用ゐたのである。

假に、マッカーサーが制定したこの裁判所條例が有效であるとしても、それは國際法規を越えたり、國際法規を排除できないので、これに牴觸しない限度でのみ有效となるにすぎない。マッカーサーには、國際法規を新たに作つたり、これを改廢できる權限は何もないのである。それゆゑ、この裁判所條例は、國際法規の下位に位置する規範であるから、やはり、これが國際法規に適合する限度でしか有效とはならない。それゆゑ、新たに作つた「平和に對する罪」、「人道に對する罪」は罪刑法定主義といふ國際法規に違反して無效であるといふことになる。

この罪刑法定主義の派生原則である「遡及處罰の禁止」といふのは、事前の法律の規定によらなければ、ある行爲が犯罪とされ、それに刑罰が科せられることはないとするイギリスの『マグナ・カルタ』(1215+660)をその思想的起源とする原則であり、フォイエルバッハ以來、一般には「法律なければ刑罰なし」とか「法律なければ犯罪なし」といふ表現で集約されてゐる普遍的な大原則であつた。この理念は、トマス・ジェファソンが起草し、十三州の代表者による會議で全會一致で可決した『アメリカ獨立宣言』(1776+660)やフランスの『人及び市民の權利の宣言』(1789+660)にも、そして、帝國憲法第二十三條にも規定されてゐたものであつた。

そして、なによりも、ポツダム宣言には、事後法適用の根據となる規定が存在してゐないことが『國際軍事裁判所條例』を無效とする理由になるのである。

第二の無效理由としては、第一の理由に派生して、連合國には、この裁判を行ふことのできる「裁判權」ないしは「裁判管轄權」がない點がある。

さらに、第三の無效理由としては、この裁判自體が「不公正な裁判」である點であり、その理由は多岐に亘るので、以下その主な點を列擧する。
① 裁判官の構成については、戰爭當事國を代表する裁判官などで裁判所が構成されてをり、スイスなどの中立國を代表する裁判官で構成されてゐなかつた點がある。
② 次に、除斥事由(缺格事由)のある裁判官が東京裁判に關與した點である。つまり、フィリピン代表のハラーニョ判事は、バターンの死の行進の生存者であり、ウエッブ裁判長は、それまではオーストラリアがニューギニアで開廷した軍事裁判で、皇軍將兵に對する戰爭犯罪の訴追業務(檢察)に關與してゐたのである。インチキ裁判のことを英語では、Kangaroo Court(カンガルー裁判)といふが、カンガルーの國であるオーストラリアのウエッブが裁判長として法廷を指揮した東京裁判は、やはりカンガルー裁判であつた。
③ さらに、戰勝國の犯罪が裁かれない點である。アメリカの原爆投下、都市空襲による一般人の大量虐殺、ポツダム宣言受諾後のソ連による皇軍將兵のシベリア強制連行などは訴追されなかつたからである。
④ また、僞證罪處罰の規定がない點がある。これによつて、證人の證言の信用性は制度的に否定されるのである。
⑤ そして、證據の採用基準、つまり採證法則が國際法に全く準據してゐない點である。その不當性は甚だしいものがあつた。反對尋問ができない傳聞證據を無條件に採用したり、嚴格な證明は不要で、宣誓なしの證言も採用され、原本が無い文書のコピーを無條件で採用したりしたのである。
⑥ 判決をなすについて、裁判官全員による合議をしたことが一度もなかつたといふ點もある。オランダ代表判事のレーリンクによれば、十一箇國の代表判事が全員集まつて判決について討議する機會は一度もなかつたといふことである。判決については七人の判事(米、英、中、ソ、ニュージーランド、フィリピン、カナダ)が内密に判決文を書き、それを既成事實として他の四人(フランス、オランダ、オーストラリア、インド)にその結果を渡した。フランス代表のベルナール判事によれば、裁判を構成する十一名の裁判官が、判決の一部または全部を口頭で討議するために、會合することを求められたことは一度もなかつたといふのである。ベルナールが多數判決の判決書に署名したのは、裁判所の評議の通例の形式を尊重することを承認したものであつて、判決自體を承認したものではないと述べてゐる。
⑦ 日本語での法廷通譯が恣意的に中斷され、裁判の公開原則が實質的には保障されなかつた點もある。被告人全員が日本人であり、その辯護人と傍聽人の多くが日本人であることから、東京裁判の法廷における全て發言は、すべて日本語に通譯されなければならないが、そのやうにはされなかつた。昭和二十一年五月十三日に辯護側が裁判管轄權を爭ふ動議を提出したが、その動議を巡る論爭の中で「原爆投下問題」に關するアメリカ人辯護人の發言内容が、突然日本語に通譯されなくなり、その後も、恣意的に通譯の中斷は繰り返され、通譯の要求や異議を全く受け付けなかつた。日本語の裁判速記録によれば、これらの部分は「以下通譯なし」と記録されたのである。

東京裁判は、このやうなものであつたが、その中で、インド代表のラダ・ビノード・パル判事だけは、判事團では唯一人、被告人全員を無罪とする膨大な字數の判決書を作成して少數意見を殘した。無罪であることの理由は、多岐に亘る。平和に對する罪は事後法であり罪刑法定主義に違反すること、國家の行爲について個人が責任を問はれることはないこと、共同謀議がなかつたこと、侵略戰爭の定義が曖昧であること、假に侵略戰爭であり違法であつたとしてもこれを裁く國際法上の根據がないことなどを理由とするものであり、その最後には後世おいて有名になつた次の言葉で締めくくられてゐた。

「時が、熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が虚僞からその假面を剥ぎ取った暁には、その時こそ、正義の女神は秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を變えることを要求するであろう。」

そして、その後、外交官の經歴を持ち英國法曹界の長老でもあつたハンキー卿やローマ法王も東京裁判の誤りを指摘し、昭和二十五年の朝鮮戰爭(韓國動亂)勃發後の同年十月十五日、ウエーキ島でトルーマン大統領(當時)と會談したマッカーサーもまた東京裁判の誤りを認めた。また、東京裁判においてオランダ代表判事として、今後の戰爭を抑止するといふ政策的意圖から有罪を認定したレーリンクも、東京裁判が戰勝國(連合國)の政治目的に利用され、これが戰爭再發の抑止力になるどころか、却つてその橫暴を容認する結果となつたことを示唆しつつ、その不公正さを認めたことなど、現在では、東京裁判の正當性を否定するのが世界と國内において大勢を占めてゐる。

しかし、このやうに東京裁判が不當なものであることは確かであつても、もつと根本的な問題が見落とされてゐるのではないだらうか。それは、このやうな東京裁判が、果たして「裁判」としての適格があるのか、といふ點である。裁判と名付けられたから裁判だと信じるのは世の人の陷穽である。これだけの理由があれば、これが裁判であると認めること自體を否定せねばならない。連合國によれば、東京裁判は、『ポツダム宣言』第十項中に「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戰爭犯罪人に對しては、嚴重なる處罰を加へらるべし。」とあることを根據としてゐるのであるが、これだけでは罪刑法定主義を無視した裁判をすることが可能であるとする法的な根據とはならない。これは從來までの戰時國際法に基づいて「處罰」を目的としたものに過ぎず、罪刑法定主義に違反した事後法での處罰を許容したものではない。しかし、あへてこれを行ひ、これを桑港條約第十一條において容認させたのも、これは、あくまで「講和の條件」として連合國が「戰爭犯罪人」であると認定する者を處罰できることを求めたものであつて、そのための手續である「裁判」までを保證したものではない。報復の目的を隱蔽し、公正さを裝ひながら、正義を實現するのは連合國であると世界を欺くための儀式として、「裁判もどき」を實施しただけである。このことは、後に述べるとほり、『日本國憲法』といふ名前であるから「憲法」であると誤解することと共通したものがある。つまり、名稱に引き摺られ、「東京裁判」を「裁判」と信じ、「日本國憲法」を「憲法」であると受け入れてしまつたのである。「憲法」ではない「占領憲法」と「裁判」ではない「東京裁判」の二つの刷り込みこそが占領政策の本質であることに一日も早く氣付かなければならないのである。

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