第二節:大東亞戰爭後の世界

ヤルタ・ポツダム體制

フランス、アメリカ、中共などの覇權主義と戰つて獨立と統一を勝ち得たベトナム戰爭が物語るやうに、その後の世界は、我が國を含めその殆どがヤルタ・ポツダム體制、連合國體制(國連體制)による支配を受け、米ソの東西冷戰構造の枠組みに組み込まれてしまつた。そのため、東亞諸國などは、獨自の文化圈や經濟共榮圈を形成できなかつた。

昭和二十年(1945+660)二月十一日の『ヤルタ密約』と同年七月二十六日の『ポツダム宣言』を踏まへ、『国際連合憲章』(資料二十二)によつて、第二次世界大戰終結後における戰勝國の世界支配基本體制が確立した。つまり、連合國だけが安全保障理事會の常任理事國として拒否權を持ち、加盟國は安全保障理事會の決議に服從させるといふ極めて非民主的な制度(國連憲章第二十五條)の國連體制を構築したのである。これを「ヤルタ・ポツダム體制」といふ。

大東亞戰爭後においても歐米の植民地支配は繼續し、各地で植民地解放戰爭は續く。四百年間に亘つて植民地支配を續けたオランダが、インドネシアの獨立を目指す人民軍と停戰協定を結んだのは、昭和二十四年のことであつた。フランスの植民地であつたベトナムでは、ホー・チ・ミン率ゐる民族解放軍との間で戰爭が繼續し、昭和二十九年の「ディエン・ビエン・フー」の大包圍作戰の結果フランスが大敗するまで、フランスはベトナムの「再侵略」を諦めなかつた。そして、フランスの後釜に座つて「ベトナム戰爭」(昭和三十五年~昭和五十年)を再開したのがアメリカであつた。

敗戰後の我が國は、アメリカの傘下で經濟發展を遂げたが、それは獨自性のないアメリカの追随經濟・寄生經濟であり、西側經濟圈の一員として、東亞諸國を初め世界各國を西側經濟圈へと組み入れるための先驅的役割を演じたにすぎず、著しい經濟格差の現状とそれに伴ふ諸問題、即ち、「南北問題」等を、より深刻化させる最大の國際貢獻を果してきた。

南北問題とは、主に北半球に存在する少數の經濟豐國(先進國)と、主に南半球に存在する多數の經濟貧國(發展途上國、開發途上國)との經濟格差の擴大等に關する地球規模の政治的經濟的諸問題をいふ。そもそも、「先進國」といふ確乎たる發展史觀を示す用語を用ゐる反面、これの反對語である「後進國」といふ用語を避けて「發展途上國」とか「開發途上國」といふ用語を用ゐて糊塗してゐること自體に根源的な差別觀念が存在してをり、この問題の根深さを象徴してゐる。それは、歴史觀において、共産主義思想の唯物史觀に代表されるやうに、人類の歴史は政治・經濟・文化・教育など總ての領域において限り無く進歩發展し後退することがないとの人類中心の「進歩思想」・「發展史觀」に由來するからである。何を以て「進歩」とか「發展」といふのか。進歩、發展ではなく、「後退」と「頽廢」ではないのかといふ素朴な疑問を全く受け付けない傲慢さがここにある。

歐洲での東西冷戰構造が崩壞する過程とその後にも、南北問題は解消されず、むしろ、國際金融資本主義といふグローバリズムが世界を席卷し、より深刻な事態となつてゐる。

さらに、これに加へて、民族間紛爭や宗教對立が激化し、灣岸戰爭などの思想戰爭も勃發した。

灣岸戰爭とアフガン戰爭

灣岸戰爭の思想的背景は複雜である。アラブ側の同意なしに連合軍主導による國連の『パレスチナ分割案』に基づき、昭和二十三年(1948+660)五月十四日、ユダヤ人はイスラエルの建國を宣言した。そのため、アラブとイスラエルとの間で幾度となく中東戰爭が起こつた。中東戰爭は、パレスチナはもとより、アラブ全域の歴史・宗教・思想などを全く無視した連合國(アメリカなど)主導の國連體制に挑戰する思想戰爭であり、灣岸戰爭は「第五次中東戰爭」又は「新十字軍戰爭」として位置づけられる。それは、戰中における「リンケージ論」や、戰後におけるパレスチナ民族問題などの各種民族問題やエルサレム首都問題などがさらに深刻化したことによつても明らかである。

平成二年(1990+660)八月二日のイラクのクウェート侵攻直後である同月五日に、我が國は、イラク及びクウェートに對して「經濟封鎖」といふ「宣戰布告」を行つて「參戰」し、翌平成三年(1991+660)一月十五日に「灣岸戰爭」が勃發するまでの經緯は、恰も、大東亞戰爭の勃發直前における状況と酷似してゐる。我が國は、軍隊を出して血を流すことはなかつたが、明らかに「灣岸戰爭」に「參戰」したのであり、これに對する日本人一般の認識は、第三次オイル・ショックといふ程度であつたとしても、參戰は嚴肅な歴史的事實であり、占領憲法が憲法であるとしたら、明らかに第九條に違反したことになる。

そして、この灣岸戰爭といふ思想戰爭の延長線上に、平成十三年九月十一日のアメリカにおける、いはゆる同時多發テロ事件(九・一一事件)が起こり、同年十月七日のアフガニスタン戰爭、さらに、平成十五年三月十九日にイラク戰爭といふ思想戰爭が續くのである。九・一一事件はイスラムによる思想戰爭の開戰である。テロ(テロル、テロリズム)を政治的目的を持つた非戰闘員の抹殺その他の暴力と定義すれば、アメリカによる廣島と長崎に對する原爆投下や都市空襲もテロであり、北朝鮮による邦人拉致事件もまたテロである。

アメリカは、江戸の仇を長崎で討つが如く論法で、アフガニスタンを侵略する(アフガン戰爭)。これは、九・一一事件の首謀者への報復として、その首謀者と名指しされた國際テロ組織アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン=ラーディンを支援するイスラム原理主義政權タリバンをアフガニスタンから驅逐するための自衞戰爭であるとして、アメリカとイギリスを中心とする連合國軍が九・一一事件から約一か月後の平成十三年十月七日に空爆を開始し、同年十一月十三日には、反タリバンの北部同盟軍が首都カブールを制壓した。他の國家も英米に追随し、わが國も早々とこれに贊同して、同年十一月から正式に參戰し、インド洋に海上自衞隊の艦艇を派遣した。ところが、初期の軍事作戰は約二か月程度の比較的短期に終息したものの、その後に展開された掃討戰が無差別的に擴大されたことから生ずる民衆の反感をタリバン勢力が吸ひ寄せて再び復活した。そのため、内戰状態のやうに治安などが惡化して泥沼化して行く過程で、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ米大統領(以下「ブッシュ」といふ。)は、その原因はテロ支援國家が背後にゐるためだとし、イラン、イラク、北朝鮮の三か國をテロ支援國家であるとする「惡の樞軸國」發言がなされ、それが平成十五年三月のイラク戰爭への道標となる。「惡の樞軸國」とは、英米などの「連合國」と日獨伊三國同盟による「樞軸國」との對立構造を模した表現であつた。

そして、英米を中心とした連合國軍の軍事支配下にあり、獨立國としての實體のない暫定政權である「アフガニスタン暫定行政機構」が平成十三年十二月二十二日に發足し、翌平成十四年六月十九日には、「アフガニスタン・イスラム移行政府」が成立するが、その實態は英米の傀儡政權であることに變はりはない。そして、平成十五年三月十九日にイラク戰爭が開戰となつて、駐留米軍の一部がイラク戰爭に轉戰した後の平成十六年一月には新憲法を公布する。そして、同年十月の大統領選擧を目前に、タリバン勢力が再結成して米軍に對して攻撃を始め、内戰状態化する最中の同月九日に、アフガニスタン初の國民投票による大統領選擧が實施されるが、投票所襲撃などのテロが多發した。それでも同年十二月七日にハーミド・カルザイが大統領就任し、新政府が發足したことになつてゐる。

ともあれ、ブッシュは、アフガニスタン侵略を對テロ戰爭として連合國軍を派兵した際に、連合國軍のことを「十字軍」と叫んだ。いみじくも自己の本心を表現したものであるが、このことこそ、これら一連の戰爭が思想戰爭であることを證明して餘りあるものである。

そもそも、十字軍の遠征は、政治手腕に長けたローマ教皇(法王)ウルバヌス二世(Urbanus the second 、1042+660~1099+660)が、クレルモン公會議において、その當時イスラム教徒に奪はれてゐたキリスト教の聖地エルサレムを武力で奪還するといふ大義名分を掲げたことを決定したことに由來する。ウルバヌス二世教皇は、「異教徒を聖地から根絶やしにすることが、神の意志に叶ふことであり、聖なる戰ひである。」 「神がそれを望んでをられる。」として神の榮光と祝福を與へて第一次十字軍の遠征は始まり、「十字」の印をつけた衣服を着て三年間(1096+660~1099+660)行はれた。それをブッシュは引き繼いだのである。それでも我が國は、ポツダム宣言と降伏文書を引き摺つて、對米「隷屬」(subject to)のまま、日露戰爭と大東亞戰爭によつて民族自決を覺醒した諸國に向けて、その解放戰爭の偉業をなした名譽を捨て去つて黙々と自衞隊を派兵して參戰し續けるのである。

國際連合の實態は、ヤルタ・ポツダム體制の固定化を謀つた國際組織であり、戰勝國(連合國)を常任理事國とする反民主的制度であつて、日獨伊などの敗戰國を敵國と規定する條項(『國際連合憲章』第五十三條、第百七條)を有する組織である。これまで用ゐられてゐる國連軍(United Nations Force)といふ表現は、國際連合憲章でいふ國連常備軍を意味せず、安全保障理事會の授權や當時國の同意に基づいて派遣されてゐた「連合軍」のことである。この連合軍は、實質的には國連體制を創設した「連合軍(Allied Force)」であつて、「多國籍軍(Multinational Force)」ではない。連合軍が、我が國のマスメディアなどを操つて、敢へて「多國籍軍」と表現させた眞意は、灣岸戰爭が第五次中東戰爭といふ「思想戰爭」ではなく、イラクのクウェートに對する單純な侵略戰爭への自衞戰爭であるとの國際世論形成を狙つてのことであつた。

このやうな情報操作やプロパガンダは枚擧に暇がない。例へば、米軍機がクウェートの油田を爆破して炎上させたのに、それをイラクの仕業として、全身油にまみれた水鳥の映像を繰り返し垂れ流し、環境問題も絡ませてイラク批判の國際世論形成を操作した。あるいは、クウェートに居なかつた駐米クウェート大使の娘をクウェート難民の少女に仕立て上げ、イラク兵による殘虐行爲があつたなどとして上院委員會で涙ながらの證言をさせる演出などで功を奏したが、これは全くの虚僞であつた。そして、後で述べるとほり、イラクが大量破壞兵器を所持し、それを放棄しないことを戰爭の大義としたが、これも事實ではなかつたのである。古くは、ベトナム戰爭の場合のトンキン灣事件の僞裝工作もあつた。アメリカがベトナム戰爭に全面介入するための口實としたのが昭和三十九年八月二日と四日に起きたとされたトンキン灣事件では、北ベトナムの魚雷艇がトンキン灣上の米驅逐艦マドックスに對して、最初に魚雷攻撃をしたとアメリカ軍が公式發表した。しかし、ベトナム戰爭終了後になつてから、實はこの攻撃は「まぼろし」の魚雷艇からの攻撃であつたことが公表され、米軍が參戰するための虚僞の口實だつたことが判明してゐる。

イラク戰爭

大東亞戰爭を總括するとき、アフガン戰爭及びイラク戰爭との類似性を指摘せねばならない。これは、偶然の一致ではなく、共に思想戰爭であることからくる必然である。アフガン戰爭については、前にその概要を述べたので、ここではイラク戰爭との比較をしてみることにする。

結論を述べれば、アメリカ軍を中心にイラクの國家體制を構築しようとする連合國暫定施政當局(CPA The Coalition Provisional Authority)の完全軍事占領下で、イラク暫定政權が發足し、さらに、移行政府が發足してその政權下で新憲法を制定させた經緯は、大東亞戰爭後のGHQの完全軍事占領下で、幣原喜重郎内閣(暫定政權)や吉田茂内閣(移行政府)が發足し、その政權下で占領憲法を制定させた消息と、まるで合はせ鏡のやうに一致して見えてくるのである。

そこで、大東亞戰爭とイラク戰爭との類似性、GHQとCPA、東京裁判と特別法廷、占領憲法とイラク憲法との相似性などについて、その必要な限度でイラク戰爭の經緯を見てみることにする。

まづ、このイラク戰爭の近因は、イスラム原理主義によつて達成したイラン革命にある。イランのパーレヴィ國王は、莫大な石油收入と米國の支持に賴つてゐた。しかし、そのパーレヴィ國王によるイランの獨裁體制は、昭和五十四年にパリに亡命してゐたホメイニ師の歸國によつて崩壞し、革命政府が樹立される。これが引き金となつて、經濟的には第二次石油ショックが發生し、中東においてイラン革命の波及によるイスラム世界における革命の連鎖(革命の輸出)を懸念したアメリカは、イラクのサダム・フセイン大統領(以下「フセイン」といふ。)が率ゐる親米政權を政治的・軍事的に全面支援し、アメリカの中東における堡塁をイラクに築いた。アメリカが批判するイラクの生物化學兵器は、まさにアメリカとドイツなどから資金と技術・材料を提供されたものであつた。そして、アメリカは、革命の據點であるイランに對し、イスラム革命に對する「干渉戰爭」をフセインに仕掛けさせた。それが、イランとイラクが國境をめぐつて行つたといふ名目でなされたイラン・イラク戰爭である。これは、昭和五十五年九月二十二日に始まり昭和六十三年八月二十日の國連安全保障理事會の決議を受け入れる形で停戰を迎へるまで約八年に亘つた。當然、イラクは經濟的に疲弊した。イラクは、國家歳入の九十五パーセントを石油收入が占めてゐたので、その戰後復興に必要な財源となる原油價格の下落は死活問題であつたのに、クウェートとサウジアラビアは、イラクと同じ親米政權でありながら、原油價格の安定と戰時融資の返濟猶豫に消極的であつた。これは、フセイン政權が強大化することに對するアメリカの牽制を受け入れて、イラク經濟を破綻させる狙ひであることは明らかであつた。しかも、クウェートがイラク側の埋蔵原油を盜んでゐることに對して、フセインは、平成二年七月、バアス黨革命二十二年記念に合はせて、最後通牒の警告を發し、推定三萬人のイラク軍部隊をクウェート國境地帶に集結させた。このことについて、アメリカは何ら非難聲明をしてゐない。むしろ、同月二十五日に、駐イラク米國大使エイプリル・グラスビーは、フセインの立場に理解を示し、アメリカがこれを黙認したことから、同年八月二日、イラクハクウェートに侵攻したのである。クウェートは、石油利權の確保のために意圖的に作られた國家である。オスマン・トルコの時代では、クウェートはイラクのバスラ洲政府の統治下にあつたが、英國が自己の石油利權を確立させるために強引に國境線が引かれて領土を奪はれたのであつて、イラクのクウェート併合にはそれなりの理由があつた。

ところが、アメリカは、その數時間後に明確に反イラク政策へと劇的に轉換させ、平成三年一月、米軍を中心とした連合軍がイラクを攻撃して灣岸戰爭が勃發した。イラクは敗戰し、連合國の報復措置によつて經濟制裁を受け續けた。そして、平成十三年九月十一日には、アメリカ同時多發テロが起こり、約三千人が死亡したとされる。しかし、この事件は、眞珠灣攻撃の「奇襲」といふ虚僞の幻想に勝るとも劣らないアメリカの自作自演の謀略であるとの大きな疑惑があり、今もなほその疑惑は一層增殖し續けてゐる。現在、九・一一事件の遺族の多數が集團訴訟を提起してをり、早晩その眞僞が白日に曝されることになるだらう。

ともあれ、九・一一事件があつたことから、テロへの報復との口實で、同年十月七日、アメリカがアフガニスタンを攻撃する(對テロ戰爭、アフガン戰爭)。そして、今度は、平成十四年一月二十九日に、ブッシュが一般教書演説でイラクを「惡の樞軸」として非難する發言を行ひ、同年十一月には、國連決議千四百四十一號により、イラクが四年ぶりに査察を受け入れることになつた。

その後になされた査察とこれによる報告の推移の中で、アメリカは、査察が不十分であるとして、戰爭をも辭さないとする新決議を提案したが、フランス等はこれに反對し、新決議案が反對多數で否決される見通しとなつた。このことから、國連安全保障理事會での裁決を避けて、單獨で開戰に踏み切ることを決定し、平成十五年三月十七日、ブッシュがイラクに對して、テレビ演説にて最後通告を發したが、フセインは徹底抗戰を宣言した。そして、同月十九日、米英軍による空爆「イラクの自由作戰」を開始して開戰となつた。

同年四月一日、ラムズフェルド米國防長官は、イラクとの和平交渉の可能性を否定し、無條件降伏を追求するとの方針を明らかにした。間もなく米軍は、バグダッドを制壓し、同月十日には、バグダッドのフセインの銅像が引き倒される光景が映し出される。

ブッシュは、同年五月一日、太平洋上を航行中の米空母エイブラハム・リンカーンの艦上で、「イラクにおける主要な戰闘作戰」終結宣言(大規模戰闘終結宣言)をなし、その演説の中には、新聞報道によると、かくのごとき表現があつた。
「(フセイン大統領の)銅像が倒される映像で、私は新しい時代の到來を目撃した。ナチズムのドイツ、日本帝國主義の敗北で、同盟軍は町を完全に破壞した一方、戰闘を始めた敵の指導者は最後の日まで生きてゐた。」と。己の殘虐さを棚に上げ、イラク、ドイツ、日本を一律に捉へ、第二次世界大戰を全體主義の日獨伊の「樞軸國」と民主主義の米英などの「連合國」との對立であるとし、「惡の樞軸」に對するアメリカの正義を高らかに歌ひ上げる單細胞動物の傲慢さを示すものとして興味深いものがある。

そして、同月二十二日には、國連安保理で米英によるイラクの統治權限の承認し、經濟制裁の解除など含む國連決議千四百八十三號が採擇され、この決議に基づき、CPAが發足して占領統治が始まり、同年七月十三日には、「イラク統治評議會」が發足した。このイラク統治評議會とは、イラク人による戰後初めての機關ではあるが、CPAの下部組織として、CPAの指示・指導に基づき立法と行政を行ひ、暫定統治や大臣・大使の任命、新憲法制定などを行なつた機關のことである。

フセインは、大規模戰闘終結宣言後も生死不明、行方不明であつたが、同年十二月十三日には、イラク中部ダウルで發見され、米軍に拘束された。そして、翌十六年七月一日には、フセインら政權幹部計十二人を裁く特別法廷がバグダッドの米軍基地内で開かれることとなり、訴追手續が開始され、平成十七年十月十九日に初公判が開かれた。フセインは、裁判そのものが違法であるとし終始一貫して拒絶した。辯護人もそれに從つたが、翌日に何者かによつて誘拐されて殺害され、その後も他の辯護人が殺傷されるなど辯護もまゝならぬ裁判であつた。そして、フセインは、平成十八年十一月、「人道に對する罪」で死刑判決を言渡されると、「イラク萬歳」と叫び、「裁判は戰勝國による茶番劇」だとして痛烈に非難した。その後、同年十二月二十六日、控訴審でも死刑判決が下り、同月二十九日には四十八時間以内に死刑執行が行はれることが決まり、翌三十日に絞首刑が執行され、フセインは、「神は偉大なり。この國家は勝利するだらう。パレスチナはアラブのものだ。」などと叫んで六十九歳の波亂に滿ちた人生を閉じた。

この一連の裁判が長期に亘つて審理されてゐる間にも、イラクの情勢は混亂を極めた。ブッシュが大規模戰闘終結宣言を行つた後も、戰闘は止むことがなく、民兵の自爆テロなどによる米軍などの占領軍に對する戰闘はさらに過激になつて行つた。

占領と戰闘が繼續してゐるにもかかはらず、平成十六年からは形式的に復興支援が開始され、同年二月からは、我が國の陸上自衞隊がイラクに派遣された。

そして、同年四月、CPAは、イラク保健省へ行政權限を移讓することを初めとして、以後、各省廳へ權限移讓が行はれ、同年五月二十八日には、イラク統治評議會が暫定政權を選出し、同年六月二日、イラク暫定政權が發足して、同月二十四日には、イラク各省廳への行政權限の移讓が完了し、そして、同月二十八日、CPAは暫定政權へ「主權移讓」することになる。これによりCPAは解散するが、依然として連合軍はイラクの占領とイラクでの戰闘を繼續して今日に至る。

同年七月二十八日には、中部バクバで警察署を狙つた大規模な爆彈テロが發生したことから、暫定政府は同月三十一日に豫定されてゐた國民會議を延期せざるをえなくなり、八月十五日にバグダッドで國民會議が開催された。そして、サドルの民兵に向けて、暫定政權や占領軍に對しての反抗中止を呼びかけ、同月二十日には、暫定政府がサドルに對して最後通牒をなした。しかし、同月末に、シーア派の指導者シースターニー師の停戰呼びかけに應じ、サドルが全國の武裝勢力に停戰を指示した。そして、翌九月から、スンニ三角地帶の武裝勢力に對し米軍による大規模な掃討作戰を開始したが、それでもその後の治安の混亂は續き、このころまでに米兵の戰死者は千人を超え、イラク人の死者は一萬四千人を超えたとされる。

ところが、イラクの大量破壞兵器は存在しなかつたとのアメリカ調査團の最終報告が同年十月に發表され、これによりアメリカは自らが主張したイラク戰爭の大義を失ふことになる。それでも、同年十一月三日にはブッシュは大統領に再選され、翌四日にブッシュは、「イラクを自由な國にするためには、選擧を阻止しようとする連中をやっつける必要がある」との見解を示し、暫定政權アラウィ首相も「國連決議の日程に從ふ選擧實施が使命である」としてブッシュに同調した。

すると、明けて平成十七年の初頭から、反選擧テロが相次いだことや、スンニ派勢力のボイコットのために實施が危ぶまれたが、同年一月三十日に、投票所が襲撃されて多くの死亡者が出るなど、恐怖と騷然の中で國民議會選擧が強行實施されたことから、その公正さには著しい疑問が殘つた。

そして、二月十七日、イラク選擧管理委員會は國民議會選擧の結果を公式に發した。投票率は五十八パーセントで、定數二百七十五議席のうち、第一黨はシーア派政黨連合の統一イラク連合の百四十議席、第二黨がクルド人政黨のクルド同盟の七十五議席などの結果となつた。多くの黨派が選擧をボイコットしたスンニ派の中にあつて、例外的に選擧に參加したムクタダー・サドル師派の國民獨立エリート集團は三議席に留まり、殆どのスンニ派が選擧をボイコットしたことが議席獲得數の上からも明らかであり、その後も選擧結果を不滿とするシーア派を狙つたテロが相次いだ。

このやうな事態の中で、三月十六日に選出議員による初の國民議會が開幕し、四月二十八日に移行政府が發足して、大統領にクルド人のジャラル・タラバニが選ばれて、暫定政權は解消した。

そして、八月には、新憲法草案の投票裁決がなされるが、クルド人議員とスンニ派議員の反對により否決された。一週間後に再度投票がなされ、このときもスンニ派が反對して全會一致とはならないものの、多數決により憲法草案は承認され、十月十五日には新憲法草案の採否を問ふ國民投票にかけられた。スンニ派が贊否を巡つて分裂する中、クルド人、シーア派らの支持を得て、七十八パーセントの贊成で承認されたと同月二十五日に發表された。

その後の十二月十四日に、ブッシュがイラク開戰の最大の理由とされた大量破壞兵器の情報に誤りがあつたことを認めたが、これは、前に述べたとほり、前年の平成十六年十月のアメリカ調査團の最終報告を追認することになつた。

ブッシュは、先に述べたとほり、平成十五年五月一日の大規模戰闘終結宣言の演説の中で、「テロリストはイラクの體制から大量破壞兵器を得ることはできない。その體制がすでに存在しないからだ。」、「大量破壞兵器を追求または所持する者は、文明世界への重大な脅威であり、(我々に)直面することとなる。」として、イラクが大量破壞兵器を所持してゐることを先制攻撃による制裁戰爭の大義としてきたが、その大義がなかつた戰爭であることを認めざるを得なかつた。

しかし、アメリカ調査團の最終報告から一年以上も先延ばししたのは、もし、早い段階でこれを認めると反米意識に油を注ぐことになり、イラクの選擧に影響して憲法制定が遲れ、さらに反米政權樹立の切つ掛けになることを強く懸念したことによるものである。

イラクには、百を超える新聞があると云はれるが、ブッシュが大量破壞兵器がなかつたことを認めた記事はどこも出なかつた。それは、米占領軍の檢閲がなされてゐたためであつたが、翌日の平成十七年十二月十五日、新憲法に基づき、新政府發足に向けた二度目の國民議會選擧が行はれ、シーア派勢力が壓勝することになる。

ところが、年が明けて平成十八年二月、正式政府發足に向けての首相選びが難航する。選擧によつてシーア派保守が臺頭したことにスンニ派各政黨が拒否感を顯はにしたためであり、その後は、多數をしめるシーア派、少數のスンニ派、占領軍とが三つ巴となつて報復の連鎖による武力闘爭が繰り廣げられ、まさしく「内戰状態」に突入したのである。

大東亞戰爭とイラク戰爭との比較

このやうに見てくると、大東亞戰爭とイラク戰爭とは共通した點が多いことが解る。共に思想戰爭であること、「GHQ」と「CPA」による占領統治権限とその統治態樣の類似性、「東京裁判」と「特別法廷」、「占領憲法」と「イラク憲法」、「衆議院選擧」と「國民議會選擧」の類似性、しかも、軍事裁判と憲法制定手續とが同時進行する點などが主な共通點である。しかし、決定的に異なる點もいくつかある。それは、我が國とイラクの國家としての相違に由來する。まづ、皇室の存在である。そして、國家がその後も存續した我が國と滅亡して再生したイラクとの相違もある。さらに、島國であり、これまで一度も征服された經驗のない我が國と、陸續きで民族紛爭、宗教紛爭で征服し、あるいは征服された經驗のあるイラクとの地政學的な相違も大きい。

そして、現象面においては、承詔必謹により矛を納めた我が國と、未だに内戰状態が繼續してゐるイラクとの相違がある。羊の群れと狼の群れとの相違でもある。つまり、イラクでは、ジハード(聖戰)に身命を賭するイスラム教の宗教的信念によつて、自爆テロなどが續いて内戰状態となつてゐるが、我が國では、ペリー來航による征服に對する恐怖の原體驗と、それが遂に實現してしまつた連合國による占領による脱力感に支配されてしまつた。

いはば我が國は「蚤の曲藝」における蚤の意識から脱却できないでゐる。この「蚤の曲藝」とは、尾崎一雄が昭和二十三年一月の『新潮』で發表した『蟲のいろいろ』の中で述べた次のやうな一節によるものである

「蚤の曲藝という見世物、あの大夫の仕込み方を、昔何かで讀んだことがある。蚤をつかまえて、小さな丸い硝子玉に入れる。彼は得意の脚で跳ね回る。だが、周圍は鐵壁だ。散々跳ねた末、若しかしたら跳ねるということは間違っていたのじゃないかと思いつく。試しにまた一つ跳ねて見る。やっぱり駄目だ、彼は諦めて音なしくなる。すると、仕込手である人間が、外から彼を脅かす。本能的に彼は跳ねる。駄目だ、逃げられない。人間がまた脅かす、跳ねる、無駄だという蚤の自覺。この繰り返しで、蚤は、どんなことがあっても跳躍をせぬようになるという。そこで初めて藝を習い、舞臺に立たされる。このことを、私は随分無慘な話と思ったので覺えている。持って生まれたものを、手輕に變えてしまう。蚤にしてみれば、意識以前の、したがって疑問以前の行動を、一朝にして、われ誤てり、と痛感しなくてはならぬ、これほど無慘な理不盡さは少なかろう、と思った。」(文獻240)。

ここで、藝を習つた蚤とは屬國意識、敗北意識に毒された日本人、硝子玉はマスメディアなどで喧傳される戰後體制、仕込手とは連合國主導の國連體制の喩へである。我々は、藝を習ふ蚤になつてはならない。たとへ仕込手に捻り潰されやうとも、それでも飛び跳ねる蚤にならなければ、思想戰爭に敗北し續けることになる。

我が國の課題

このやうに、これまでの思想戰爭は、共通した構造を持ち、しかも、それは敗戰によつて終了するものではなかつた。むしろ、敗戰後の占領統治によつて敗戰國が再び戰勝國に反抗しえないやうに仕上げることが思想戰爭の目的であり、占領統治こそが思想戰爭の本番なのである。

そして、大東亞戰爭は、世界最大の思想戰爭であつたために、その熾烈さは格別であり、今もなほ思想戰爭は續いてゐる。

そして、第六章で詳述するやうに、これらの歐米の思想戰爭で實現しようとした世界構造は、GATT(WTO)、IMFなどによるブレトン・ウッズ體制による自由貿易の推進、世界貿易の擴大及び世界金融の統合を理念とする「世界主義」(グローバリズム、Globalism)である。これらの歐米自由主義は、同じく歐米で誕生した共産主義と思想的源流を共通にしてゐる。いづれも、常に世界(歐米)の福利は生産の擴大がもたらすものであつて、その生産力と生産量は分業體制の深化に伴つて擴大するとの「生産至上主義」に支へられ、この「分業の深化」と「市場の擴大」による「生産と消費の擴大」が世界(歐米)の歴史の限りない進歩發展を約束するとの豫定説的な單線的發展史觀に基づいてゐる。兩者は、その後の歴史において、鋭い思想的對立と東西冷戰構造を生み出したが、兩者の違ひは、生産物の分配基準と方法の相違に過ぎない。單に、いづれの發展史觀思想が覇權を得るかを巡つて、近親憎惡にも似た對立を繰り廣げたに過ぎなかつた。世界全地域を世界經濟への完全依存體質として世界一體化を謀る「世界主義」によることは、食料・資源・エネルギーの自給率の低下を招く。安定國家を目指す我が國の國是とは正反對の方向へと向かふため、大東亞に地域的な經濟ブロックを建設して安定國家の實現を目的としたのが大東亞共榮圈思想である。これは、歐米思想とは全く異なる源流から發した我が國の獨自思想であり、「世界主義」に對抗する「地域主義」(リージョナリズム、Regionalism)であつた。しかし、その基本理念の歴史的意義は大きいが、具體的内容において未完成なものだつた。

いづれにせよ、我々は、歴史の光と陰を見つめ、過去の功罪を直視し、東亞とその他全世界の地域の同胞に對し、過去の歴史的事實の認識における相互の大きな歪みを誠實に是正しなければならない。そして、忌憚のない意見交流が可能な環境を形成し、眞摯な相互理解と協力の下に再び強い友好關係の絆を結び、「南北問題」の解消と世界各地域の平和共存の實現を目的として平和裡に安定した世界の建設に傾注することこそ眞の國際貢獻であり、さらに、地球と宇宙の慈悲に報いるため、危機的な地球環境の改善をはかることが、これからの我が國の理想と責務であることを自覺しなければならないのである。

日本を含め世界の諸民族の多くは、政治的には獨立を實現したものの、ヤルタ・ポツダム體制を承繼した國連體制、GATT(WTO)・IMF體制及びNPT體制による連合國の「世界主義」に組み込まれ、南北問題と地球規模の環境破壞による諸問題に喘いでゐる。この世界主義は、連合國以外の世界の多くの國家において、食料、資源、エネルギーなどの基幹物資の自給率を著しく低下させ、地球の壞滅的危險を孕んでゐる核兵器と原子力發電に世界の政治と經濟を依存させることにより、世界のどの地域に内亂や紛爭が起こつても、世界全體が一蓮托生の危機に直面することになる。これらの不安定要因は、産業革命に始まる「生産至上主義」と「自由貿易主義」に起因し、その世界的擴大によつて全ての問題は一層深刻化した。そして、國内においては「官僚統制國家」が出現し、世界においては「國際覇權主義」が臺頭し、國の内外におけるこの二つの「全體主義」が我が國と世界と地球を蠶食し始めてゐる。この原因は、生産至上主義と自由貿易主義に基づく世界主義と人間中心思想にあり、このまま突き進めば、政治的には全體主義が蔓延し、地球的規模の環境破壞がさらに進んで經濟的にも破綻が訪れる。まさに地球は「飽和絶滅」の危機にさらされてゐるのである。

第六章で述べるとほり、この壞滅的危機の状況から、我が祖國を救ひ、世界を救ふためには、大東亞戰爭の依據した大東亞共榮圈思想をさらに發展させ、我が國の國體から導かれた「自立再生論」の實踐によつて世界を救濟する以外にありえない。自立再生論は、發散指向の世界主義に對抗しうる唯一の體系的理論であつて、収束指向に基づく新しい世界思想である。それは、從來の生産至上主義の産業構造では無視されてきた産業廢棄物の再生過程に産業的主眼を置き、化石燃料やウランなどの再生不能資源に依存せず、單位共同社會において再生可能資源による基幹物資の完全自給を實現することにより、世界の安定と平和を達成しようとするものである。これによつてのみ全體主義政治は終焉し、自立再生經濟が確立する。そして、これを率先垂範して理想世界を實現するためには、先づ、我が國においてこれを實踐し、現代日本を覆つてゐる二つの醜雲を祓ひ除けて國體を明徴することから始めなければならない。

その旗印は「祓庭復憲」である。「バッテイフッケン(フッテイフッケン)」と音じても「にはをはらひのりにかへる」と訓じても可である。

「祓庭」とは、一義的には、東京裁判の「軍事法廷(庭)」が行つた誤謬と弊害による穢を除き祓ひ清めることを指す。東京裁判の強行が國際的犯罪であつたことを世界が認め、裁判主宰國である連合國の眞摯な謝罪によつて東京裁判の無效を宣言して禊を行ふことである。また、多義的には、東京裁判史觀とそれによつて穢された朝廷、議會、役所、法廷、企業、團體、家庭など日本の全ての「庭(社會)」を祓ひ清め、第六章で述べるとほり、自立再生論により日本と世界に正義と安定を實現することを意味する。

また、「復憲」とは、一義的には、占領典範と占領憲法の無效を確認的に宣言し帝國憲法その他の正統憲法を政治的に復元することを指す。これは、占領憲法の有效を前提とする「護憲」論や「改憲」論とは根本的に異なる。無效の占領憲法の下で從來まで制定運用されてきた法律制度は、帝國憲法との整合性が保たれ、これと矛盾牴觸しない限度において、その法的連續性と法的安定性が維持され、必要最小限度の改廢措置が行はれるのである。また、多義的には、萬世一系、王覇辨立、一視同仁、自立再生などを内容とする日本の國體を明徴し、その世界普遍的な「憲(のり、正義)」に基づいて、我が國及び世界を理想社會に回歸させることを意味するのである。

我々は、自立再生論の實踐によって諸民族が「共生」しうる輝かしい未來を實現するために、身を殺して仁を成した大東亞戰爭の「榮譽」が「恥辱」に塗り替えられるに至つた歴史的事實の歪みを「矯正」することから始めなければならない。ここに、我が國と全世界において、草莽崛起による祓庭復憲の廣汎な無限連鎖運動を展開すべき傳統的使命を自覺するものである。

繰り返し述べるが、大東亞戰爭は、歐米列強の植民地支配から大東亞を解放して、諸民族の自決獨立を實現し、その各傳統に基づく互惠と共存共榮の新秩序を建設しようとする「思想戰爭」であつた。我が國は、その世界革命思想の理想を武力で實現しようとした戰ひには敗れたが、我が國の決起が大東亞諸民族の自覺を育み、その結果、大東亞の解放と獨立を實現した。それゆゑに、戰勝國である連合國は、報復のため、我が國の「思想」と、それを育んだ「國體」を熾烈に斷罪し、その兩足に大きな足かせをはめた。思想への足かせは、「極東國際軍事裁判(東京裁判)の斷行」と「東京裁判史觀の洗腦」であり、國體への足かせは、「帝國憲法の否定」と「占領憲法の制定・施行」である。大東亞戰爭は惡であり、その根源が帝國憲法にあるとの誤つた觀念を植ゑつけ、反日主義者を量産して、我が國の解體を企てたのである。そして、この二つの亡國の足かせが、現代日本社會の政治、經濟、文化、教育を今なほ支配し續けてゐるのである。このまま、東京裁判と占領憲法といふ二つの醜雲を放置し續けるならば、我が國は、「武に敗れ文に滅ぶ」こと必至である。

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