第三節:占領統治の前提

帝國憲法の性質

帝國憲法は、君主制の政治制度を規定するものであるが、その性質は、「絶對君主制」の色彩の濃い「立憲君主制」の憲法體系であつた。

一般には、統治原理において、統治者と被統治者との間の自同性(identity)が認められる自律主義としての「民主制」と、この自同性が認められない他律主義としての「專主制」に分類し、後者の態樣の中に「絶對君主制」を含める。そして、「君主制」の態樣においても、原則的に「統治すれども親裁せず」とか、「君臨すれども統治せず」といふ態樣の「立憲君主制(議會君主制)」は、この「專主制」と「民主制」との混合形態であり、過去に主流であつた絶對君主制に對する民主化闘爭による妥協の所産とされてゐる。しかし、「どの實在國家も、嚴密にいふと、民主・專主兩制の混合形體を示してゐる」ために、民主制と專主制といふ分類はあまり實益がないものである。

つまり、帝國憲法には、一方では、絶對君主制的な特徴を持つ廣範な天皇大權が存在し、他方では、立憲君主制を基礎付ける議會制度及び内閣制度などが存在する。このうち、立憲君主制から導かれる議會制度や内閣制度の運用が未成熟であり、とりわけ占領憲法のやうな内閣の責任政治の原則を徹底しえない構造的宿命を持つてゐた。と言ふのも、「内閣」及び「内閣總理大臣」は、帝國憲法上の認められた正式な行政機關ではなく、國務大臣の集合體として憲法慣習上の地位が認められてゐたにすぎなかつたため、國務大臣の「輔弼」責任制度(第五十五條第一項)が、完全な内閣責任政治の原則(第三條)として解釋・運用がなされなかつたのである。しかし、歴史的にみても、我が國は傳統的に天皇が絶對君主であつた時代は少なく、絶對君主制としての完全運用にも無理があつた。しかし、帝國憲法に絶對君主制的傾向があると云つても、それは、天皇大權が存在するからであつて、この天皇大權も「統治權」に含まれるものであるから、「此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」ことになる。それゆゑ、帝國憲法は、嚴密に云へば、紛れもなく「立憲君主制」の憲法であつて、「絶對君主制」の憲法でないことは明らかである。また、ここでいふ帝國憲法に「絶對君主制」的傾向があるといふのは、決して帝國憲法が「天皇主權制」の憲法ではないことに留意しなければならない。典型的で完全なる絶對君主制といふのは、ルイ十四世の「朕は國家なり」といふものであるとすれば、これと「国王主權」とを區別することは極めて困難になる。しかし、「此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」とされる「天皇大權」(統治權)は、あくまでも憲法の枠内の権限であるのに對し、「天皇主權」は、憲法の枠外、つまり、憲法を超越した権限(憲法制定權力)であるので、兩者は全く異なるのである。

しかし、帝國憲法下の基本的政治形態は、天皇大權の行使態樣を絶對君主制的に單純に擴大することもできず、また、天皇大權を制約する方向で立憲君主制的傾向を單純に徹底することもできないといふ中間的・折衷的な君主制の政治形態であることから、いづれの方向にも振幅しうる可能性を秘めた法體系であつた。そこで、この絶對君主制的傾向に基づく權限領域でもなく、また、立憲君主制的傾向に基づく權限領域でもない、いはば、兩すくみとなつてできた空白の權限領域に國政擔當者が進出して、その空白となつた權限領域を取り込んで行くことはいはば當然の歸趨であつた。それは、直接には、官制大權と文武官の任免大權といふ天皇大權を定めた帝國憲法第十條の運用に由來する。この天皇大權は、理念として原則的に肯定しえても、實際上の運用には著しく限界があり、どうしても同條但書の「此ノ憲法又ハ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ條項ニ依ル」との規定によつて運用されることになる。人事については、帝國憲法第十條本文による原則的運用を停止して、例外である同條但書によつて運用する方がより立憲的であると解釋された。これは、原則と例外との逆轉運用である。そして、その逆轉運用による濫用の弊害を阻止しうる有效な手段と方法を帝國憲法が持ち合はせてゐなかつたことも最大の原因の一つであつた。

帝國憲法下の二大權力

そのやうな權限の空白領域に進出してきた執政機關は、次に説明するとほり、「内務省」と「陸海軍」である。その結果、各權力間の抑制と均衡を實現する「權力分立制度」が實現したのではなく、實際には、「權力分割構造」ないしは「多重權力構造」となつてしまつた。そのため、この二大權力機關は、自己保存本能と自己增殖本能により、他の國家機關の權限まで侵奪して國の内外に擴大したのである。

「内務省」は、明治六年十一月十日に設置され、同十八年には、官房、總務、縣治、警保、土木、衞生、地理、戸籍、社寺、會計の十局から構成され、國内の行政全般を行ふ我が國最大の官僚機構に成長した。この内務省は、行政全般に對して、天皇や内閣(國務大臣)からも實質的に獨立した官僚機構として出現し成長してきた。

そして、國民のありとあらゆる經濟活動その他の生活全般に干渉と監視を行ひ、複雜かつ多岐にわたる事項についての許認可權限を有し、國民生活の隅々まで權力の網をかぶせて行つた。

警察權力が思想彈壓に着手したときから「警察國家」へと轉ずることは歴史が證明してゐる。そして、これを援護射撃するやうに、「擧國一致」のスローガンによる官製の「國民精神總動員運動」がたどりついた『國家總動員法』(昭和十三年四月一日公布)の制定と大政翼贊會の結成、「隣組」による相互監視制度によつて、内政の雄である内務省の權力を不動のものとしたのである。

また、この「内務省」に勝るとも劣らない軍事の雄である「陸海軍」、とりわけ「陸軍」は、その建軍以來の「連戰連勝」を強調謳歌し、特に、昭和初期頃から「統帥權の獨立」といふスローガンによつて自己の權力增殖を謀らうとした。

この「統帥權の獨立」の意味と、「狹義の統帥權」と「廣義の統帥權」の區別については、第一章で述べたとほりであるが、軍部は、これらの規定が絶對君主制に由來する規定であるとして内閣(國務大臣)の干渉を排除しようとしたのである。天皇を大元帥陛下として、その廣義の統帥權は、國務大臣の「輔弼」なくして、軍の中央統帥機關(海軍では軍令部、陸軍では參謀本部)が天皇を「輔翼」して行使しうるとの解釋により、内閣(國務大臣)の權限外の事項とし、さらに、天皇自身からの指示をも排除したうへ、「軍部の獨立」を實現することを終局目的とするものであつた。「輔弼」といふ憲法上の用語の使用を避け、帝國憲法では用ゐられてゐない「輔翼」といふ用語を用ゐ續けたのも、内閣から分離獨立した獨自の權限として行使したいとする軍部の意圖の現れでもあつた。そして、内閣が、帝國憲法第十三條後段の天皇大權(條約大權)を輔弼して昭和五年四月二十二日、『ロンドン海軍軍縮條約』に調印したことについて、同月二十五日、軍部は、これを統帥權の干犯であるとして政府を攻撃したのが「統帥權干犯問題」である。軍備の削減を内容とする條約は廣義の統帥權にかかわるものであるから、これを政府が締結することは統帥權の干犯であるとする詭辯である。しかし、廣義の統帥權(第十一條ないし第十三條)も狹義の統帥權(第十一條)も、他の天皇大權と同樣、本來ならば帝國憲法第三條(天皇の政治的無答責の原則)及び同法第五十五條第一項(内閣責任政治の原則)に基づき内閣(國務大臣)の輔弼により行使されるものであつて、統帥權のみを慣習的に例外と解する根據は薄弱である。この軍縮條約の締結は、天皇の條約大權(第十三條後段)に基づき、天皇の編制大權(第十二條)を制約するものであるから、編制大權の干犯があるとすれば、編制大權は條約大權で制約されず、これよりも優越する權限であることを前提としなければならなくなる。

しかし、さうであれば、編制大權を干犯したのは、天皇が行ふ條約大權であつて、つまるところ天皇批判を行つてゐることに歸着する。現に、この統帥權干犯の主張の狙ひは、明らかに軍部へ天皇大權を委讓させ、「統帥部の獨立」を目的とするものであつた。そして、これらの目的を完全に實現することになつたのが「二・二六事件」以後である。

この二・二六事件が起こつた遠因は、昭和初期の金融恐慌、世界恐慌による國力の疲弊である。金融恐慌とは、昭和二年三月十四日、片岡直温大蔵大臣が衆議院で、東京渡邊銀行が破綻との失言から端を發し、取りつけ騷動が發生して多數の中小銀行が倒産に瀕した事態のことであつて、その背景には、四年前の大正十二年九月一日に起こつた關東大震災の打撃と第一次世界大戰以後の不況の長期化などがあつた。また、昭和四年十月二十四日、ニューヨーク株式市場の株價大暴落が發端となつた世界恐慌も起こり、都市勞働者、農民等は貧困に陷り、貧富の差を一層擴大し、農村、特に東北地方に目を覆ふやうな慘状をもたらした。我が國の農民の約七十パーセントが零細な自作農・小作農であつたため、その生活破綻の悲劇はさらに深刻となつた。その發生の病根と事態解決が遲延してゐる原因は、當時の政界・財界・官界(内務省)の癒着による官僚政治の構造的腐敗にあつた。これを變革するには、陸軍主導の國家改造しかないと判斷した陸軍皇道派(内治派)の青年將校が「昭和維新」を斷行しようとしたのが、この「二・二六事件」であつた。

そして、これに對抗する陸軍最大軍閥である統制派(外治派)は、この事件を皇道派追ひ落としの口實として利用し、この事件處理を通じて軍閥抗爭に終止符を打ち、陸軍を自派で統一することに成功し、廣義の統帥權を獨占的に手中に納めたのである。皇道派と統制派との對立は、情緒的かつ抽象的なものであり、軍内部といふ「コップの中」での覇權爭奪であつて、いづれも軍部肥大化による權力增大志向を阻止しうるものではなかつた。從來までは、軍内部の二大軍閥である統制派と皇道派との相剋が軍部の暴走を自肅的に抑制しうる可能性があつたが、「血盟團事件」(昭和七年)、「五・一五事件」(同年)及び「二・二六事件」を經て皇道派が壞滅した時點で、その相互抑制機能が完全に消滅した。

また、政府要人を殺害した二・二六事件までに至る一連の事件は、その後、政府要人の軍部に對する萎縮效果を生じさせるといふ後遺症を殘すこととなり、軍事政權強化に拍車をかけるに至るのである。

このやうに、二大權力は增殖し續け、國の内外においてこれ以上擴張しえないくらゐに肥大化し、「飽和絶滅」に至る自壞寸前の状態であつた。つまり、この飽和絶滅とは、たとへば、生體細胞とは異質であり獨立して增殖する癌細胞は、生體全體にまで增殖して飽和状態となれば、生體自體を滅亡させ、その結果自らも絶滅するといふやうに、增殖の限界點は飽和状態であり、それに達すれば絶滅することを意味するのである。これと同樣に、二大權力が限界點に達して全體主義的傾向へと進んで統治態樣が硬直化し、機能不全に陷つてゐた。

その原因としては、確かに、二大權力の增殖をもたらした帝國憲法の性質が内在的な要因であつたことは否めない。それは、前章で述べたとほり、平時において、原則として「統治すれども親裁せず」といふ帝國憲法の運用ではなく、實質的には英國流の「君臨すれども統治せず」といふ運用がなされ、しかも、政務と統帥とが一體としてなされるべき國務が分離し、「政務内閣」と「統帥内閣」といふ二つの内閣が出現したことが、二大権力の增殖する基礎にあつた。そして、それ以上に、我が國を取り卷く國際環境が二大権力の增殖を促進させた。明治維新以來、我が國は獨立を維持するため數々の戰爭や事變を餘儀なくされて東亞百年戰爭を戰ひ拔いたため、恆常的に戰時體制にあり、臣民もまた「常在戰場」の認識にあつたことが、全體主義的傾向を加速した最大の原因であつた。しかも、歐米の挑發と策謀によつて大東亞戰爭を仕掛けられた我が國としては、その最中に國内の政治改革を斷行しうるだけの餘力はなかつた。連合國がポツダム宣言で求めた「日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙」を除去することを戰前において實行することは、國論の分裂を招き、それがコミンテルンが策謀した内亂の危險を高めることになつたからである。

そして、敗戰を迎へ、GHQは、占領統治下において、陸海軍と共に、陸軍省、海軍省も廢止し、さらに、昭和二十年十月、治安維持法及び特高制度が廢止され、同二十二年十二月三十一日には内務省をも廢止されて、二大權力は解體された。しかし、このことは、あくまでもGHQの目的である「日本弱體化」のためであつて、非民主的かつ暴力的に推進された占領政策を、「日本民主化」といふ逆説的な美辭麗句を掲げて強行したのである。

いづれにせよ、停戰から、昭和二十六年九月八日にサン・フランシスコ(桑港)において調印された「桑港條約」が發效することによつて本土の獨立回復までの間になされたGHQの占領政策により、我が國の社會は、非獨立の異常な政治的・法律的状況に加へて、經濟・教育・文化・世相・社會心理などあらゆる側面において完全に混迷、停滯した。即ち、敗戰により、無秩序と混亂、貧困と不正が蔓延し、世相においては、焦燥感や厭世感による自暴自棄と怠惰に陷り、敗戰による劣等感や萎縮感に支配され、その反動として、拜金主義的傾向と政治的無關心へと追ひやられた。その状況下で、連合軍の徹底したナチ的な情報操作によつて、完璧なまでの衆愚政治が行はれたのである。我が國の社會は、過去の軍部・内務省(警察)による言論統制状況から脱却したものの、これに代はつて、これに勝るとも劣らない占領軍による想像を絶する異常な言論統制状況に變貌したのである。占領期のGHQの言論統制は、戰時期の内務省の言論統制と比較して、比べものにならないほど嚴酷なものである。ところが、前者を是とし、後者を非とする完全に倒錯した認識が今もなほ續いてゐるのは、GHQの洗腦が完璧なまでに成功したことを物語るものである。

このやうに、戰前の大正デモクラシーは流産し、また、戰前戰後を通じてなされた二種類の異質な言論統制により、我が國の社會では民主主義的素地がさらに脆弱となつた。その上、眞實を傳へるべきマスメディアは、戰前戰後を通じて、常に權力に迎合し續け、ついに國體護持と臣民の側に立つことなく、内務省權力とGHQ權力の言論統制に從つた報道しか行はなかつた。これが今もなほ續いてゐる。

このやうに、政治情報が與へられてゐない社會状況下での政治は衆愚政治の典型であつて、我が國の社會は、少なくとも占領憲法制定時において、本來的な政治的意志形成の前提を全く缺いてゐたことだけは明らかである。

帝國憲法に基づく宣戰と講和

 大東亞戰爭は、帝國憲法第十三條前段に基づく天皇の「宣戰大權」により、昭和十六年十二月八日に開戰となり、同二十年八月十四日、同じく同條前段に基づく天皇の「講和大權」の發動により、『ポツダム宣言』(資料二十三)を受諾して停戰し、同じくこの講和大權によつて締結された桑港條約が昭和二十七年四月二十八日に發效して獨立するまで、GHQによつて、我が國の國家主權、領土保全及び政治的獨立が武力の行使によつて奪はれ續けた。

昭和四十九年十二月十四日の第二十九回國連總會の『侵略の定義に關する決議』によれば、その第一條には、「侵略とは、一國による他國の主權、領土保全若しくは政治的獨立に對する、又は國際連合憲章と兩立しないその他の方法による武力の行使」とあることから、このGHQの行爲は侵略に該當するのである。そして、このGHQの侵略によつて軍事占領統治下に置かれ、我が國の獨立は完全に奪はれたことになる。

連合軍は、昭和十六年八月十四日の『英米共同宣言(大西洋憲章)』(資料十八)、昭和二十年二月十一日の『ヤルタ密約』(資料二十一)と同年七月二十六日の『ポツダム宣言』により、戰後の世界支配の枠組みを決定し、我が國に對し、軍隊の無條件降伏と完全武裝解除を求めた。その要求は、廣島と長崎に原子爆彈を投下しつつ「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみ」(ポツダム宣言第十三項)とするホロコースト豫告の恫喝であり、我が國にはこれを受諾するしか他に道はなかつたのである。

そのため、ポツダム宣言では、形式上、日本國軍隊の無條件降伏と完全武裝解除や民主主義的傾向の復活強化等の政治命題を我が國が自主的に實現するやう要求してゐたものが、昭和二十年九月二日、東京灣上にて署名した『降伏文書』では、「天皇及日本國政府の國家統治の權限は、本降伏條項を實施する爲適當と認むる措置を執る連合國最高司令官の制限の下に置かるるものとする」と明記されてゐた。

しかし、この「制限の下に置かるる」との點は、「subject to」の翻譯として表現されたが、これは「制限」ではなく「隷屬」である。連合國は、我が國の期待と甘えにも似た氣休めに等しい「誤譯」を當然のことながら無視し、我が國を軍事占領による絶對強制下に置き、その自由意志を奪つて占領政策を推進した。

從つて、ポツダム宣言では「一切の軍隊が無條件に降伏すべき」との文言であり、「日本軍の無條件降伏」であつたにもかかはらず、降伏文書では、實質的に「日本國政府の無條件降伏」にすり替へられることとなつたのである。それは、ポツダム宣言が引用する「カイロ宣言」に、「日本國の無條件降伏」とあつたことによるものであつた。これは、連合國からすれば、すり替へといふよりも、我が國がGHQの「subject to」(隷屬)を容認したことによる必然な流れといふことになる。つまり、我が政府の自主性は悉く否定されて獨立を完全に奪はれ、連合軍による軍事占領統治(侵略)が實施されたのである。

そして、昭和二十六年九月八日に調印された「桑港條約」による最終講和と、同日、日米間で締結された『日本國とアメリカ合衆國との間の安全保障條約』(以下「舊安保條約」といふ。資料三十七)の雙方が昭和二十七年四月二十八日に「戰爭状態」(桑港條約前文及び第一條)が終了し再び我が國本土だけではあるが獨立が回復された。

ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印とは、いづれも帝國憲法第十三條前段の講和大權に基づく講和條約である。この第十三條前段は、宣戰大權も規定してゐることからして、宣戰から講和に至るまで、國家が一連の權限として保有する「交戰權」(right of belligerency)の存在根據なのである。「交戰權」(right of belligerency)といふ用語は、占領憲法第九條第二項後段に見られるが、これは國際法上も初めて登場した「造語」であつて、戰爭を開始して軍隊を指揮し戰闘を繼續し、そして、戰闘を止めて停戰し、最終的に戰爭状態を終結させて講和を締結するといふ一連の行爲を意味する。占領憲法第九條第二項の前段(戰力の不保持)はポツダム宣言の「完全武裝解除」(第九項)を、占領憲法第九條第二項後段の「交戰權の否認」はポツダム宣言の「軍隊の無條件降伏」をそれぞれ規定したものである。帝國憲法の規定と對應させれば、これらは、宣戰大權(第十三條前段)、編制大權(第十二條)、統帥大權(第十一條)、講和大權(第十三條前段)の全てを否定することを意味する。

占領憲法では、この交戰權を明確に放棄してゐるため、講和大權に屬する國家行爲であるところの桑港條約の締結權限を占領憲法に求めることはできず、やはり帝國憲法にその權限を求めることになる。現に、桑港條約の前文と第一條では、この條約が發效するまでは「戰爭状態」であるとしてをり、これは、昭和二十年六月八日、御前會議においてなされた「聖戰完遂」、「國體護持」、「皇土保衞」の國策決定がポツダム宣言によつて停戰したものの、未だに取り消されてゐなかつたことからである。

戰爭状態を完全終結させるためには、帝國憲法第十一條の統帥大權と同第十三條前段の講和大權に基づくこととなる。勿論、それ以前に、戰闘行爲の停止については、ポツダム宣言の受諾後、降伏文書の調印前に統帥大權によりなされてゐたことを踏まへて、講和大權に基づき桑港條約が締結された。そして、桑港條約の發效により、本土だけの獨立を回復させて戰爭状態の終結を行つた。これら一連の國家行爲は決して占領憲法に基づくものではない。これは、まさに帝國憲法が今もなほ效力を有してゐることの現存證明なのである。

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