- 占領統治の經緯とその解説
- 幕末から明治、大正まで
- 昭和十六年
- 昭和十七年
- 昭和十八年
- 昭和十九年
- 昭和二十年一月から六月まで
- 昭和二十年七月
- 昭和二十年八月
- 昭和二十年九月
- 昭和二十年十月
- 昭和二十年十一月
- 昭和二十年十二月
- 昭和二十一年一月
- 昭和二十一年二月
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- 昭和二十一年四月
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- 昭和二十一年十月
- 昭和二十一年十一月
- 昭和二十一年十二月
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- 昭和二十四年二月
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- 昭和二十六年二月
- 昭和二十六年三月
- 昭和二十六年四月
- 昭和二十六年五月
- 昭和二十六年六月
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- 昭和二十六年八月
- 昭和二十六年九月
- 昭和二十六年十月
- 昭和二十六年十一月
- 昭和二十六年十二月
- 昭和二十七年一月
- 昭和二十七年二月
- 昭和二十七年三月
- 昭和二十七年四月
占領統治の經緯とその解説
以上のとほり、東京裁判の實施と占領憲法の制定とは、占領政策の要諦であつたことから、以下においては、占領政策の態樣、東京裁判、皇室典範、憲法、帝國議會、言論統制と檢閲など「占領統治」に關する主要な事實經過と、これと不可分の關係にある「領土問題」に關する事實關係などについて、時系列的に列擧しつつ、それぞれ必要な範圍で各事項の法的な解説などを加へてみることとする。これが次章以下の論旨の基礎となるものである(文獻19、34、37、40、41、153、171、172、183、184、191、205、248、276、298、332、354)。
幕末から明治、大正まで
安政元年十二月二十一日(1855+660年二月七日)、我が國(德川幕府)は、下田において、帝政ロシアと『日露和親條約』(正式には「日本國魯西亞國通好條約」)を締結。
これは、同年(嘉永七年、安政元年)三月三日(1854+660年三月三十一日)にアメリカと日米和親條約(正式には「日本國米利堅合衆國和親條約」)を締結したことから、なし崩し的に諸外國と締結することになつた不平等條約の一つである。この日露和親條約の中で、領土に關する内容としては、千島列島における我が國と帝政ロシアとの國境を擇捉島と得撫島との間とし、樺太では、大和民族とアイヌ人の居住地は日本領とするも、國境は不確定とした。
明治八年五月七日、我が國は、帝政ロシアとの間で『樺太・千島交換條約』を締結する。これは、境界不確定地であつた樺太における我が國の領有權と得撫島以北の千島列島における帝政ロシアの領有權とを交換し、相互の割讓により領土と國境を確定したものである。
明治二十八年一月十四日、尖閣諸島の領有を表示する國標杭の建設を閣議決定して實施する。
また、明治二十八年四月十七日、日清戰爭の講和條約である『日清兩國講和條約(下關條約)』(明治二十八年五月十三日敕令)が締結される。同條約第二條には、「清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス」として、その「左記ノ土地」には「臺灣全島及其ノ附屬島嶼」と表示し、臺灣と澎湖諸島の割讓を受けた。割讓を受けた附屬島嶼の中には、當然のことながら我が國の領土である尖閣諸島を含まないことは日清雙方の認識であつた。
明治三十八年九月五日、『日露講和條約』(ポーツマス條約)締結。これは、日露戰爭の講和條約であり、我が國は、帝政ロシアから南樺太(北緯五十度以南)の領土を永久に割讓を受けることになつた。
大正十四年一月、『日本國及「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦間ノ關係ヲ律スル基本的法則ニ關スル條約』(日ソ基本條約。大正十四年條約第五號)締結。これは、ロシア革命、シベリア出兵などで斷絶してゐたソ連との關係を修復するために北京で調印された條約であり、『日露講和條約』(ポーツマス條約)の效力を再確認するなどの内容であつた。
昭和十六年
四月十三日、我が國はソ連との間で、『大日本帝國及「ソヴイエト」社會主義共和國聯邦間中立條約』(日ソ中立條約。昭和十六年條約第六號)を締結。その内容の要旨は、①相互の領土の保全と不可侵、②第三國との戰爭における相互の中立義務、③有效期間は批准から五年、④期間滿了一年前に破棄通告がなければさらに五年間自働延長、といふものであつた。
四月十六日、日米諒解案(①全ての國家の領土保全と主權尊重、②他國に對する内政不干渉、③通商を含めた機會均等、④太平洋の現状維持の四項目からなるいはゆる「ハル四原則」を日本側が受け入れることを前提としたもの)を日米交渉の出發點とすることで合意。
八月十四日、『英米共同宣言』(大西洋憲章)發表。これは、英國首相のウィンストン・チャーチルとアメリカ合衆國大統領のフランクリン・ルーズベルトとの間で調印された憲章であり、美辭麗句の竝ぶ中で注目すべきは、「兩國ハ關係國民ノ自由ニ表明セル希望ト一致セザル領土的變更ノ行ハルルコトヲ欲セズ」とする第二項と、日獨伊の樞軸國に對する「武裝解除」を求める第八項である。
十一月二十六日、米、ハル・ノート通告。
十二月一日、ソ連、日ソ中立條約遵守を通告。
十二月八日、大東亞戰爭開戰。眞珠灣攻撃。
十二月九日、アメリカは、對日戰爭終結後の日本占領を想定して、その占領下における洗腦目的の徹底した檢閲を實施するために、J・エドガー・フーヴァーFBI長官を檢閲局長官臨時代理に任命する。
十二月二十日、合衆國檢閲局が正式に設置を定められ、AP通信社編集局長バイロン・プライスが檢閲局長官に任命される。
昭和十七年
二月十六日、東條首相が帝國議會において、「大東亞戰爭ノ目標トスル所ハ我肇國ノ理想ニ淵源シ大東亞ノ各國家、各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇國ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共榮ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と大東亞經綸に關する帝國の方針を闡明。
二月十八日、「帝國指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亞ノ地域」(大東亞共榮圈)を日本・滿洲・中國と東經九十度から百八十度まで、南緯十度以北の地域と決定。
二月二十二日、チャンドラ・ボースが日印提携によりインド獨立を聲明。
六月二日、アメリカ陸軍情報部心理戰爭課において、開戰直後にOSS(戰略情報局。CIAの前身)が作成した原案に基づき、占領後の「日本計畫」の最終稿を起案。その内容の骨子は、「傀儡天皇制」の構築にあり、天皇と日本民衆を軍事指導者の犧牲者と位置づけ、天皇を平和のシンボル(象徴)として利用することにより、アメリカ民衆と日本民衆の友好が實現しうるとのプロパガンダ戰略によつて占領政策を實施するといふものである。
六月五日、ミッドウェー海戰(敗戰への轉機)。
八月九日、インド政廳が國民會議派などを大彈壓(ガンジー、ネルーらを逮捕)。
昭和十八年
十月二日、「在學徴集延期臨時特例に關する敕令」により、文科系高等教育諸學校在學生の兵役徴集延期が廢止される(いはゆる學徒出陣)。
十月五日、ルーズベルトは、クルクスにおける對ソ戰車戰でのドイツ軍敗北、ガダルカナルにおける皇軍守備隊の玉碎といふ戰況を踏まへ、スターリンが千島列島の領有を希望してゐるとの極祕情報に基づいて、國務省スタッフとの會談で、千島列島はソ連に引き渡されるべきである、との見解を示した。
十月十九日、米英ソ三國外相會談(モスクワ會談)が始まる(同月三十日まで)。この席上、ハル米國務長官は、ソ連外相モロトフに對し、千島列島と南樺太をソ連領とする見返りに、日本との戰爭に參戰することを求める。モロトフは即答を保留したが、會談最終日の十月三十日の晩餐會の席上で、スターリンは、ハル米國務長官に、ドイツに勝利した後に日本との戰爭に參加することを傳へる。
十一月五日、東京で「大東亞戰爭同盟國會議」(大東亞會議)が開催される。これは、東亞全域を歐米列強の植民地支配から脱却させ、アメリカなどからの石油輸入に依存しない東亞獨自の貿易經濟圈を平和裡に建設することを目指す「大東亞共榮圈構想」に基づく。參加國は、我が國と、同盟國タイ、獨立フィリピン、ビルマ、中國南京政府(汪兆銘政權)、滿洲國。シンガポールで樹立した自由インド假政府(インド國民軍)もオブザーバーとして參加。
十一月六日、大東亞會議において、「正義の實現」、「相互の獨立」、「主權と傳統の尊重に基く共存共榮の新秩序」、「互惠の精神をもつての經濟開發」、「すべての人種差別の撤廢」を要求する『大東亞共同宣言』を滿場一致で採擇。
十一月二十二日、米(ルーズベルト)、英(チャーチル)、中(蒋介石)による「カイロ會談」が始まる(同月二十七日まで)。對日戰の軍事的協力と將來の領土について協議し、最終日の二十七日に『カイロ宣言』として發表される。
この内容には、領土に關しては、「同盟國は、自國のためには利得も求めず、また、領土擴張の念も有しない。」といふ部分、「同盟國の目的は、千九百十四年の第一次世界戰爭の開始以後に日本國が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本國から剥奪すること、竝びに滿洲、臺灣及び澎湖島のやうな日本國が清國人から盜取したすべての地域を中華民國に返還することにある。」との部分、「日本國は、また、暴力及び強慾により日本國が略取した他のすべての地域から驅逐される。」との部分及び「朝鮮を自由獨立のものにする」との部分があり、千島列島と南樺太については言及されてゐない。また、講和に關しては、歴史上初めての「日本國の無條件降伏」を求めてゐた。ただし、『カイロ宣言』は、各國代表の署名もなく、原本自體も存在しないので、外交文書としての有效性は認められない。それゆゑ、『ポツダム宣言』が『カイロ宣言』を引用したとしても、その引用の效力はない。特に、桑港條約第二條第二項に「日本國は、臺灣及び澎湖諸島に對するすべての權利、權原及び請求權を放棄する。」とあるが、『カイロ宣言』が無效であるから、滿洲、臺灣及び澎湖諸島は中華民國の領有に歸屬しないことになり、これらの領域は未だにいづれの國にも歸屬してゐないことになる(歸屬未定地)。この點が韓半島の場合と異なる點である。なぜなら、韓半島の場合は、無效な『カイロ宣言』においても「やがて朝鮮を自由獨立のものにする」とし、最終的には桑港條約第二條で「日本國は、朝鮮の獨立を承認して、濟州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に對するすべての權利、權原及び請求權を放棄する。」として、明確に民族自決權による獨立を承認してゐたからである。しかし、滿洲、臺灣及び澎湖諸島はその明記はないとしても、逆にこれを否定する規定もない。それゆゑ、歸屬未定地については、やはり民族自決權によつて決せられるべきであり、滿洲、臺灣及び澎湖諸島の獨立を阻止することは國際的に認められないことになる。
十一月二十八日、「カイロ會談」に引き續き「テヘラン會談」が始まる(十二月一日まで)。米(ルーズベルト)、英(チャーチル)、ソ(スターリン)が會談し、この中で、スターリンは、ルーズベルトの求めに應じて、ドイツ降伏後に日本との戰爭に參戰することを確約した。ルーズベルトが對日戰のソ連參戰を希望したのは、對獨戰との雙方向作戰による米軍の消耗を少しでも回避したいためであつた。
昭和十九年
一月七日、大本營は、自由インド假政府(チャンドラ・ボース)によるインド獨立運動支援のためインパール作成を認可。
三月八日、インパール作戰開始。
六月十六日、米軍B29爆撃機による北九州空爆。
六月十九日、マリアナ沖海戰。日本海軍敗北(制海權喪失)。
七月七日、サイパン島守備隊玉碎。
七月二十二日、小磯國昭内閣成立。
九月六日、第八十五回臨時帝國議會開會。
十月二十四日、レイテ沖海戰(連合艦隊消滅)。
十月二十五日、神風特別攻撃隊第一陣出撃。
十一月二十四日、マリアナ基地の米軍B29爆撃機による初めての東京空爆。
十二月二十六日、第八十六回帝國議會開會。
昭和二十年一月から六月まで
一月九日、米軍、ルソン島に上陸。
二月十一日、ソ連のクリミア半島のヤルタで米(ルーズベルト)、英(チャーチル)、ソ(スターリン)首腦による「ヤルタ會談」がなされる。ここでは、ドイツの敗戰後における分割占領統治とポーランドとの國境策定、バルト三國の處遇などの東歐諸國の戰後處理方針と、英、米、佛、ソ、中の五カ國(後の國際連合常任理事國)の拒否權制度を認めるなどの將來における國際組織結成の構想を合意し、「國際連合」の基本的枠組みを決定して發表された。
そして、このやうな發表以外に、米ソ間において、極東における領土分割と占領統治に關する祕密協定が交はされた。それが『ヤルタ密約』である。それは、ソ連がドイツ敗戰後の二、三か月後に日ソ中立條約を破棄して對日參戰をなせば、①ソ連に千島列島を引渡し南樺太を返還すること、②滿洲の港灣と鐵道におけるソ連の權益を確保すること、③カイロ會談で議題となつた臺灣の中華民國(蒋介石)への返還を再度確認すること、④韓半島を當面の間は連合國の信託統治とすることなどを合意した。しかし、これは密約であり、ポツダム宣言受諾と降伏文書調印による占領喪失條約(講和條約)の内容とはなつてゐない。このヤルタ密約は、丁度一年後の昭和二十一年二月十一日に發表された。
二月十九日、硫黄島守備隊全滅。
三月九日、B29が東京を夜間大空襲。死傷者十二萬人、二十三萬戸燒失。
三月十四日、大阪大空襲。十三萬戸燒失。
四月一日、米軍、沖繩本島に上陸。
四月五日、小磯國昭内閣總辭職。ソ連外相モロトフが日ソ中立條約不延長を通告。
四月七日、鈴木貫太郎内閣成立。戰艦大和沈没。
四月十二日、ルーズベルト大統領急死。副大統領トルーマンが大統領に就任。
四月二十日、アメリカは、「日本における民間檢閲基本計畫」(Basic Plan for Civil Censorship in Japan)を策定。
四月二十五日、サンフランシスコで連合國全體會議開催。國際連合憲章作成。
五月二日、ベルリン陷落(守備隊がソ連軍に降伏)。
五月七日、ドイツ無條件降伏(フランスのシャンパーニュ地方のランスでドイツ側代表ヨードル將軍が、連合軍に對する無條件降伏文書に署名し、翌八日、ベルリン郊外のカルルスホルストにてカイテル元帥も署名)。
五月八日、OWI(米戰時情報局)の日本向け短波ラジオ放送が開始される(米海軍諜報局に在職したエリス・ザカライアス海軍大佐が擔當したことから、通稱「ザカライアス放送」といふ。)。
六月八日、天皇御臨席の最高戰爭指導會議(御前會議)において、聖戰完遂、國體護持、皇土保護の國策決定を行ふ。
六月十三日、國民義勇隊結成のため大政翼贊會及び傘下諸團體が解散。
六月二十三日、義勇兵役法公布。
昭和二十年七月
十日、アメリカは、「日本における民間檢閲基本計畫」(Basic Plan for Civil Censorship in Japan)第一次改訂版を策定。
十六日、アメリカのトルーマン大統領は、ポツダム會談に臨む前日のこの日、ニューメキシコにおいてプルトニウム型の原爆實驗に成功したことの報告を受けた。それまで、ソ連の參戰がなければ、對日戰爭の早期完全勝利は望めないと考へてゐたルーズベルト大統領は、ソ連に日ソ中立條約を破棄させて對日參戰をさせるためにソ連とヤルタ密約を交はしてゐた。だが、ルーズベルト大統領急死をうけて、その後任となつたトルーマンは、原爆實驗の成功を踏まへて、原爆があれば、アメリカだけで對日戰爭の早期完全勝利ができるとの自信を深め、ソ連外しの占領政策に變更したのだつた。
二十五日、トルーマンは、日本への原爆投下を指令した。
二十六日、トルーマンは、ソ連を外して『ポツダム宣言』を發表した。このうち、占領統治に關連する點は後に觸れるが、領土問題に關しては、同第八項に、「カイロ宣言の條項は、履行せらるべく、又日本國の主權は、本州、北海道、九州及四國竝に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。」とあつた。ここには、千島列島と南樺太には言及がなく、無效であるカイロ宣言でも南樺太と千島列島には言及されてゐない。勿論、千島列島と南樺太をソ連に割讓するとされてゐるものでもなかつた。
二十八日、鈴木貫太郎首相は、「ポツダム宣言」について、「政府はこれを黙殺し、あくまで戰爭完遂に邁進する。」と聲明した。
本來ならば、これを「靜觀する」(no comment)とすべきところを、それが弱氣であると捉へられることを避けて「黙殺する」といふことに決定した。連合國は、この黙殺(ignore)を拒否(reject)と受け止め、九日後に原爆投下といふ「迅速且完全なる壞滅」行爲に着手する(文獻262)。
昭和二十年八月
八月六日、午前八時十五分に、アメリカは、廣島に原爆を投下した。死者約十五萬人。
八日、ソ連は、ヤルタ密約により日ソ中立條約を不當に破棄して對日宣戰を通告し、ポツダム宣言に參加することを表明した。ソ連は、當初、八月十五日に對日參戰をすることになつてゐたが、原爆投下により我が國の降伏が早まり、參戰による領土奪取の機會を失ふことから、早期參戰に踏み切つた。
九日、午前十一時二分に、アメリカは、ソ連の參戰(同日午前零時)が早まつたこともあつて、今度は長崎に原爆を投下した。
十日、午前二時二十分からの御前會議において、國體護持などを條件としてポツダム宣言の受諾を決定し、中立國スウェーデン、スイスを通じて連合國へポツダム宣言受諾を打診した。つまり、『ポツダム宣言受諾に關する八月十日附日本國政府申入』を行ひ、ポツダム宣言發表後に日ソ中立條約違反のソ連がその聲明に加はつたことの背信を指摘して異議を唱へつつ、「天皇ノ國家統治ノ大權ヲ變更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」ることを申し入れた。これらについて、NHKの海外放送を通じて、我が國政府がポツダム宣言の受諾を決めたことが發信され、海外で知られることになつた。
同日、下村宏情報局總裁は、「正しく國體を護持し、民族の名譽を保持せんとする最後の一線を守るため、政府はもとより最善の努力をなしつつあるが、一億國民にありても國體のためにあらゆる困難を克服して行くことを期待する」との談話を發表し、阿南惟幾陸相も「決戰覺悟」の談話として全將兵に向けて斷固抗戰の訓示を發表し、それが翌十一日の新聞各紙において下村、阿南の兩談話を同時に掲載された。
十一日、ソ連第二極東軍部隊は、國境を侵犯し南樺太を侵略。
十二日、政府は、ポツダム宣言受諾に對するバーンズ米國務長官から連合國を代表した回答としての、いはゆる『バーンズ回答』(前述)を受け取つた。
十三日、B29が東京一帶に我が國が無條件降伏した旨の宣傳ビラを散布する。
十四日、政府内が「subject to」問題などによつて混亂してゐることに對處するため、午前十時に御前會議が開かれた。鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言受諾の經緯を報告したが、全閣僚一致での受諾ではなく、阿南陸相、豐田軍令部總長、梅津參謀長は、天皇と國體護持の確約がないままの降伏に反對を主張して本土決戰を提唱する。このままで閣議の評決をすれば、贊成三、反對三の同票で、鈴木首相が贊成票を投じれば、これまで通りの贊成の評決となるところ、鈴木首相は、あへて天皇陛下に御聖斷を仰いだ。そして、午前十一時、陛下の文武叡聖なる御聖斷がなされ、ポツダム宣言を受諾することが再確認された。このときの大御歌(おほみうた)は、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」である。そして、政府は、中立國スウェーデン・スイスを通じて連合國へポツダム宣言受諾を正式に申入れ、『戰爭終結の詔書』が發布される。それを公布するため、翌十五日正午に、いはゆる玉音放送をすることとなり、ラジオ放送用の録音がなされた。また、「今や國民の齊しく嚮ふべき所は國體の護持にあり」とする内閣告諭がなされた。
同日、ソ華友好同盟條約締結。滿洲の關東軍は、蒋介石の國民黨軍ではなく、ソ連軍に對し降伏すると取り決められてゐた。
十五日、第一章で觸れたとほり、一部の陸軍將校などによるポツダム宣言受諾阻止、玉音放送阻止、聖戰完遂のためのクーデター未遂事件(宮城事件)が前日未明から起こり、宮城が占據されるに至るが、間もなく鎭壓され、正午には玉音放送がなされ、鈴木貫太郎内閣は總辭職となつた。
同日、樞密院御前會議が開かれ、東郷外相は、ポツダム宣言は我が國體を人民投票によつて決すべきことを求めてはゐないことを報告した。
同日、降伏について、支那派遣軍と南方軍はこれに抗議した。
同日、文部大臣訓令『終戰ニ關スル件』(訓令第五號)が發令され、「國體護持ノ一念ニ徹シ教育ニ從事スル者ヲシテ克ク學徒ヲ薫化啓動シ・・・國力ヲ焦土ノ上ニ復興シテ以テ深遠ナル聖慮ニ應ヘ奉ランコトヲ期スベシ」とされた。
十六日、昭和天皇は即時停戰を下命し、大本營は陸海軍に自衞の爲の戰闘行動を除き陸海軍全部隊の即時停戰を命ず(大陸命第千三百八十二號、大海令第四十八號)。
同日、ソ連軍がヤルタ密約に基づいて南樺太と滿洲へ侵略を開始し、皇軍が自衞抗戰。支那大陸では九月半ばまで自衞の爲の戰闘が繼續する。
同日、東久邇宮稔彦王に組閣の大命降下がなされる。
同日、トルーマンは聲明を出し、アメリカが單獨で占領統治を行ふことを言明した。
十七日、東久邇宮稔彦内閣が成立し、初閣議がなされる。「進駐軍特殊慰安施設(RAA)」の設置を決定。
同日、「光榮アル我國體護持ノ爲朕ハ爰ニ米英蘇竝ニ重慶ト和ヲ媾セントス」、「千辛萬苦ニ克チ忍ヒ難キヲ忍ヒテ國家永年ノ礎ヲ遺サムコトヲ期セヨ」とする「陸海軍人へ敕語」が渙發せられた。
同日、インドネシアがオランダから獨立することを宣言(獨立戰爭。昭和二十四年まで)。
十八日、ソ連第一極東軍部隊がカムチャッカ半島から南下して千島列島の侵略を開始し、三十一日までに得撫島以北の北千島を占領。占守島で皇軍が自衞交戰(二十一日に停戰命令が出る)。
同日、滿洲國皇帝が退位して滿洲國は消滅した。
十九日、關東軍とソ連極東軍が停戰交渉開始。フィリピンに停戰命令が屆く。河邊虎四郎參謀次長と米サザランド參謀長による降伏手續打合せの會合が翌二十日までマニラで行はれる(マニラ會談)。
二十二日、尊攘同志會の十二名が東京の愛宕山で集團自決。各地で自決が相次ぐ。
二十四日、皇國義勇軍四十八名が松江市で降伏反對を訴へて縣廳、新聞社を襲撃。
二十五日、ソ連第二極東軍部隊が南樺太を占領。
二十六日、敕令第四百九十六號(終戰連絡中央事務局官制)により、『終戰連絡事務局』が設置される。このころ、滿洲での戰闘は終了。
二十八日、連合國軍の一部(テンチ米陸軍大佐以下百五十名)が厚木飛行場に到着し、橫濱に連合軍本部を設置。その後、全國で人員と物資の上陸が相次ぎ、占領兵力は最大で四十三萬人となる。
同日、支那大陸で蒋介石らと毛澤東、周恩來が會談する(十月十日に雙十協定が成立)。
同日、ソ連が、擇捉、國後、色丹島の侵略を開始し、九月一日までに占領。
同日、東久邇内閣では、集會・結社の規制緩和を閣議決定し、結社については許可制を廢止し屆出制を復活させた。これは、降伏文書の調印前(獨立喪失前)に、ポツダム宣言第十項後段の「日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」との條項に基づいて、自主的にその先履行に着手したことを意味する。
同日、東久邇總理大臣の記者會見がなされ、「國體護持は皇國最後の一線であるが、現在において國體を護持する最上の道は連合國との全面的協調にあり、連合國側の提案を確實に履行することにある」、「國體護持といふことは理屈や感情を超越した固いわれわれの信仰である、祖先傳來われわれの血液に流れてゐる一種の信仰である。」とした上で、「この際私は軍官民、國民全體が徹底的に反省し、懺悔しなければならぬと思ふ、全國民總懺悔することがわが國再建の第一歩であり、わが國内團結の第一歩と信ずる。」と述べられた。これが同月三十日に新聞各紙が報道し、讀賣新聞は、これを「一億總懺悔」と表現した。
この「懺悔」といふ言葉の意味が、キリスト教用語の「ざんげ」なのか、佛教用語の「さんげ」なのかは不明であるが、本來であれば、「みそぎ」(禊ぎ)といふ言葉を用ゐるべきであつた。
三十日、マッカーサーが厚木飛行場に到着し、橫濱(横濱税關ビル)に入つてGHQ/USAFPACが設置される。
昭和二十年九月
一日、第八十八回臨時帝國議會が、同月四日開會、翌五日閉會の豫定で招集された。
同日、ソ連が千島列島全域を占領したと發表。
同日、米太平洋陸軍總司令部(GHQ/USAFPAC)の參謀第二部(G2)民間諜報局(CIS)に屬する民間檢閲支隊(CCD。Civil Censorship Detachment)の先遣隊の一部が橫濱に到着(横濱税關ビル)。
二日、政府代表として重光葵外相、軍部(大本營)代表として梅津美治郎參謀總長が、日本側全權大使として、戰艦ミズーリの艦上で『降伏文書』に調印して大東亞戰爭は正式に停戰となる。
この『降伏文書』調印にあたつての詔書は、「朕は昭和二十年七月二十六日米英支各國政府の首班がポツダムに於て發し後にソ連邦が參加したる宣言の掲ぐる諸條項を受諾し、帝國政府及び大本營に對し連合國最高司令官が提示したる降伏文言に朕に代り署名し且連合國最高司令官の指示に基き陸海軍に對する一般命令を發すベきことを命じたり、朕は朕が臣民に對し敵對行爲を直に止め武器を措き且降伏文書の一切の條項竝に帝國政府及び大本營の發する一般命令を誠實に履行せんことを命ず」といふものである。
そして、GHQは、軍隊の敵對行爲禁止、武裝解除、軍需生産全面停止などを内容とするGHQ指令第一號(一般命令第一號、資料二十六)を發令する。これによると、「支那(滿洲ヲ除ク)臺灣及北緯十六度以北ノ佛領印度支那二在ル日本國ノ先任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ蒋介石總帥ニ降伏スヘシ」とし、さらに、「滿洲、北緯三十八度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島二在ル日本國ノ先任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ『ソヴィエト』極東最高司令官二降伏スヘシ」とある。トルーマンの原案では、千島列島の皇軍がソ連に降伏することになつてゐなかつたため、スターリンは、ヤルタ密約に基づき、ソ連軍に對し降伏させるやうトルーマンに要求し、トルーマンはこの要求を受け入れた。さらに、スターリンは、北海道東北部の占領を要求したが、トルーマンは、ヤルタ密約にないことを理由にこれを拒否した。他方で、米國側は、千島列島中部の一島に米軍基地を設置させるやう要求したが、スターリンはこれを拒否した、といふ米ソの交渉經緯があつた。
同日、東南アジア植民地は歐米の宗主國が次々と復歸する中で、ベトナム(主席ホー・チ・ミン)がフランスから獨立を宣言し、反佛闘爭を開始。
三日、ソ連が齒舞群島を侵略(五日までに占領)。
同日、フィリピンの皇軍部隊降伏。
同日、重光・マッカーサー會談により間接統治の方向性を確認。
同日、民間檢閲支隊(CCD)の先遣隊主力が橫濱に到着。
四日、第八十八回臨時帝國議會が開會され、その開院式の敕語には、「朕ハ終戰ニ伴フ幾多ノ艱苦ヲ克服シ國體ノ精華ヲ發揮シテ信義ヲ世界ニ布キ・・・」とあり、同日になされた貴族院の『聖旨奉體ニ關スル決議』には、「内ハ萬古不易ノ國體ヲ護持シ・・・謹テ聖恩ノ萬一ニ報イ叡智ヲ安ンジ奉ラムコトヲ期ス」とされた。そして、帝國議會は翌五日に閉會するが、これまでの經緯を記載した政府作成の『帝國議會に對する終戰經緯報告書』が配布され、東久邇宮稔彦首相が帝國議會で施政方針演説がなされた程度で、實質的な審議はされなかつた。同報告書には、「勢の赴く所我民族の犧牲愈々甚しく・・・國體の維持も亦危殆に陷るべきを憂ひ」とあつた。
五日、第八十八回帝國議會臨時會議を召集。東久邇宮稔彦首相は衆貴兩院における「戰爭終結ニ至ル經緯竝ニ施政方針演説」を行ひ、「ポツダム宣言は原則として天皇の国家統治の大權を變更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に涙を呑んで之を受諾するに決し、茲に大東亜戰爭の終戰を見るに至つたのであります。」との認識を示した。これは、GHQによる憲法改正の強制がなされることを豫期してゐなかつたことを意味する。
同日、ソ連軍が齒舞諸島までを占領。
同日、瀬島龍三など關東軍首腦部がハバロフスクへ送られ、將兵約五十七萬人がシベリア抑留となる。
六日、トルーマンは、『降伏後における米國の初期對日方針』を承認し、マッカーサーに指令するが、これが發表されるのは同月二十二日である。
同日、帝國議會が、天皇と日本政府の統治の權限が連合國最高司令官の下に置かれるとする『連合國最高司令官の權限に關するマックアーサー元帥への通達』を出す。
同日、呂運亨が朝鮮人民共和國(臨時政府)の建國宣言。
遠藤柳作朝鮮總督府政務總監は、昭和二十年八月に、大東亞戰爭停戰に伴ふ韓半島の無政府状態化を防止するため、朝鮮人による獨立政府樹立を人望のあつた政治活動家呂運亨に要請してゐた。呂運亨は同月十五日に朝鮮建國準備委員會を設置して、朝鮮總督府から行政權の事實上の移讓を受け、この日に建國宣言を行つた。
八日、連合軍が東京を占領する。以後、都内の建物六百箇所以上を接收。
同日、米軍が韓半島に上陸。米軍は、呂運亨の臨時政府を認知せず、朝鮮總督府を接收してアメリカ軍政廳を設置した。
九日、マッカーサーは、日本の占領統治(占領管理)についての方針(日本管理方針)に關する聲明を出し、「間接統治方針」であることを發表する。
十日、GHQは、『言論および新聞の自由に關する覺書』(SCAPIN16)を我が政府に提示し、これ以後、我が政府に代はり、報道制限と檢閲が全面的に實施される。
同日、「在日朝鮮人連盟」中央準備會が設立される。
十一日、GHQは、東條英機元首相ら戰爭犯罪人三十九人の逮捕を指令し、東條元首相が逮捕直前に拳銃自決を圖つたが未遂に終はつた。
同日、呂運亨の臨時政府は名實共に消滅。米ソ冷戰の狹間で翻弄され、實質的な地域支配も外交樹立もない臨時政府は國際法上の國家とは云へずに「幻の共和國」に終はつた。
十三日、大本營が廢止される。
同日、國後島を侵略したソ連は、千島のソ連領編入を宣言する。
同日、近衛文麿(東久邇宮内閣の無任所大臣)がGHQ/USAFPAC(横濱税關ビル)を訪問。
十四日、東久邇宮稔彦首相がマッカーサーを訪問。
同日、GHQは、『言論および新聞の自由に關する覺書』違反で、同盟通信社の業務停止を指示し、翌十五日正午までの配信停止を命じた。
十五日、民間檢閲支隊長ドナルド・フーヴァー大佐が報道機關に對して、「連合國はいかなる點においても日本國と連合國を平等にみなさないことを日本が明確に理解するよう希望する。日本は文明諸國間に地位を占める權利を認められてゐない。敗北せる敵である。最高司令官は日本政府に對して命令する。交渉はしない。交渉は對等のものの間に行はれるものである。」といふマッカーサーの命令を發表。
これに對して、外務省の萩原徹條約局長は、「日本は國際法上、條件付終戰、せいぜい有條件降伏をしたのである。何でもかんでもマッカーサーのいふことを聞かねばならないといふ、さういふ國として無條件降伏をしたのではない。」と反論したが、GHQは、これに激怒して萩原條約局長の左遷を命じて強引に更迭した。
この更迭事件が政府首腦に及ぼした「萎縮效果」は計り知れないものがある。この更迭自體が直接統治形態であつたことから、占領統治における間接統治の原則は形式的な建前にすぎず、その實質は直接統治(デベラチオ)であるとの敗北的心理を根付かせ、GHQに逆らふことは身分保障を放棄することであり、保身のためには決して逆らつてはならないとする心理的な萎縮效果を生んだ。
同日、同盟通信社は事前檢閲の下で國内に限つて業務再開を許された。
同日、連合軍が東京・日比谷の第一生命相互ビルを接收。
同日、文部省の『新日本建設の教育方針』が發表され、それには「今後ノ教育ハ益々國體ノ護持ニ努ムルト共ニ軍國的思想及施策ヲ拂拭シ平和國家ノ建設ヲ目途トシテ」とあつた。
十六日、GHQ/USAFPACが橫濱から第一生命相互ビルに移轉。
十七日、マッカーサーは、東京(第一生命ビル)の本部に入り、日本占領が順調なことから「占領兵力は二十萬人に削減できる」と聲明。この發言が米國の許可を得てゐなかつたことから、トルーマン大統領が疑念を抱くことになる。
十八日、入江俊郎内閣法制局第一部長は、憲法改正檢討報告書の『終戰ト憲法』を法制局長官へ提出する。
同日、東久邇宮稔彦首相は、外國人記者團との初會見で、「憲法修正に關して、内政改革の時間的餘裕はない。」と發言する。
同日、GHQは、『言論および新聞の自由に關する覺書』違反により朝日新聞社の業務停止を指示し、朝日新聞は四十八時間(九月十九日~二十日)の休刊を命ぜられる(SCAPIN34)。
十九日、GHQは、檢閲、言論統制、洗腦を目的とする『プレス・コード(日本新聞規則に關する覺書)』(SCAPIN33)を指令する(報道・出版關係者への公表は同月二十一日)。
二十日、帝國憲法第八條に基づく緊急敕令として、『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件』(昭和二十年敕令第五百四十二號)が公布され、即日施行される。これが、いはゆる「ポツダム緊急敕令」である。同日、これに基づく『「ポツダム」宣言受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件施行ニ關スル件』といふ「敕令」(昭和二十年敕令第五百四十三號)の形式の「ポツダム命令」が發令され、以後、占領統治を受け入れた國内法的な整備調整がなされることになる。
二十二日、米國政府は、『降伏後におけるアメリカの初期對日方針』を發表。GHQは、これに基づいて、生活必需品の生産促進・輸出入活動の禁止・金融取引の統制などに關する指令第三號を發令する。
同日、GHQは、『ラジオ・コード(日本ラジオ規則に關する覺書)」(SCAPIN43)を指令する。
二十四日、GHQは、『プレス(報道)の政府からの分離に關する覺書』(SCAPIN51)を指令する。これにより、新聞、通信社に對する我が國政府の統制支配が廢止されたが、これは同時に「プレス(報道)」全般がGHQの「直接統治」による統制へと移行したことを意味し、これが同盟通信社解散の契機となる。
二十六日、民間檢閲支隊(CCD)第三地區(廣島~九州)本部(福岡)の業務が開始。
二十七日、昭和天皇がアメリカ大使館のマッカーサーを訪問される(第一回會見)。奧村勝藏元外務次官の談話記録によれば、昭和天皇は、「今回の戰爭の責任は全て自分にあるのであるから自分に対して、どのやうな處置をとられても異存はない。戰爭の結果、現在國民は飢餓に瀕してゐる。このままでは罪のない國民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米國に是非食糧援助をお願ひしたい。ここに皇室財産の有価證券類をまとめて持參したので費用の一部に充てて頂ければ仕合せである。」と仰せられ、大きな風呂敷包みを机の上に差し出されたとのことである。マッカーサーは、この陛下のお姿を見て、「私は初めて神の如き帝王を見た。」と述懷してゐる。
このとき撮影された直立不動の陛下と樂な姿勢のマッカーサーが竝んだ寫眞が新聞に公開され、國内に衝撃を與へる。
同日、我が國の漁獲水域を指定する、いはゆるマッカーサー・ラインが設定される。
二十八日、天皇とマッカーサーの寫眞が新聞に掲載される。
二十九日、東久邇宮稔彦首相がマッカーサーを訪問。
同日、内務省の檢閲により、天皇とマッカーサーの寫眞の掲載禁止がなされる(これが内務省の最後の檢閲)。
同日、GHQが、内務省による檢閲制度の廢止を指示する『プレス(報道)および言論の自由への追加措置に關する覺書』を公布。
三十日、GHQの檢閲により、天皇とマッカーサーの寫眞の掲載が復活する。
同日、「日本における民間檢閲基本計畫」(Basic Plan for Civil Censorship in Japan)第二次改訂版が策定される。
同日、GHQが『朝鮮人連盟發行の鐵道旅行乘車券禁止に關する覺書』を通達。
昭和二十年十月
一日、GHQは、『郵便檢閲に關する覺書』を公布して、郵便物の檢閲を命令し、『連合國、中立國、敵國の定義に關する覺書』を通達。GHQ/USAFPACが廢止される(翌二日、GHQ/SCAPが設置)。
同日、朝鮮、臺灣など舊併合地出身者が日本國籍から離脱。
同日、終戰連絡事務局官制が改正公布され、この改正により、外務大臣の所管下で各省の連絡緊密化をはかつた。
同日、フランス人ジャーナリストのロベール・ギラン、『ニューズウィーク』特派員のハロルド・アイザックら三人が米軍將校の制服を着て僞裝し、德田球一らが收容されてゐる府中刑務所内の豫防拘禁所を訪問して德田らと會見。そのときの樣子をギランは次のとほり書いてゐる。
「全部の人間が、十五人くらいもゐただらうか、悦びと感激の無我夢中の狂亂とでもいつたものにとりつかれて、私たちをめがけて飛びついてきた。英語で叫ぶ聲が聞こえた。『ぼくたちは共産黨員だ……ぼくは德田だ、ぼくは德田だ』。朝鮮人の顏をした二人の男が、ベンチの上に立ちあがつて、インターナショナルを歌つてゐた。痩せた顏つきをした一人の囚人が英語で話しかけてきた。『やつと來てくれましたねぇ。何週間も待つてゐました』。それが志賀だつた。德田は私に話かけて、本當とは思へないやうな次の言葉をいつた。『ぼくはこの刑務所の扉が開くのを十八年待つてゐた』。囚人のうち數人は顏を涙でぬらしてゐた。德田はアイザックの方にふりむいて、彼を腕のなかに抱きしめて、『これでぼくたちは安全です。救はれました』といつてゐた。共産主義者がアメリカ人を抱擁するのは、私がいままで見たことのない光景だつた。こうした興奮がやつとおさまり、囚人たちが跳ねたり、踊つたり、叫んだり、私たちの制服を撫でさすつたり、うれし涙を流したりするのがやつとすむと、わたしたちは一同を監房から出てこさせた。看取の群れをかきわけて、私たちは刑務所の事務所まで行列を作つて進み、早速『記者會見』をひらいた。」(文獻78)
二日、連合國軍最高司令官總本部(GHQ/SCAP)が設置される(東京・第一生命ビル)。
同日、日本側に祕匿して、一般命令第四號『ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム』を發する(その命令の存否については異論がある)。
四日、GHQは、『政治的・市民的及び宗教的自由制限の撤廢に關する覺書』(自由指令。SCAPIN93)、『政治警察廢止に關する覺書』を發令し、政治犯・思想犯の即時釋放(対象者約三千人)、治安維持法や國家保安法などの治安法規の廢止、特高警察など一切の秘密警察機關の廢止、檢閲などを營む關係機關の廢止、天皇制批判の自由を指示した上、絶對主義天皇制批判者への治安維持法適用と處罰を明言した内務大臣山崎巖、警保局長、警視總監、特高警察官などの罷免を要求(対象者約五千人)。東久邇宮内閣はこれを不信任と受け翌五日總辭職。
同日、近衞文麿副總理格國務相がマッカーサーと會談し、マッカーサーから憲法改正を命ぜられ、さらに會談に同席したGHQ政治顧問アチソン(國務省代表資格)との連絡を命ぜられる。
五日、前日四日の覺書の實行は不可能であるとして、東久邇宮稔彦内閣が總辭職する。豫防拘禁所に收容されてゐる政治犯の外出が自由となる。
六日、政府は、德田球一、志賀義雄ら日本共産黨黨員十六名の釋放許可する。
八日、近衞文麿國務大臣は、GHQ政治顧問アチソンと非公式に會談し、十二項目に亘る憲法改正の具體的指針を受けることになる。それは、①衆議院の權威、特に豫算に對する權威の增大、②貴族院の拒否權の撤回、③議會責任原理の確立、④貴族院の民主化、⑤天皇の拒否權廢止、⑥天皇の詔敕、命令による立法權の削減、⑦有效な權利章典の規定、⑧獨立な司法府の設置、⑨管理の彈劾ならびにリコールの規定、⑩軍の政治への影響抹殺、⑪樞密院の廢止、⑫國民發案および一般投票(リファレンダム)による修正の規定、の十二項目である。
同日、GHQは、東京五紙(朝日、毎日、讀賣、東京、日本産業)に新聞事前檢閲を開始する(大阪は同月二十九日)。
九日、幣原喜重郎内閣が成立。
十日、松本烝治國務相は、閣議で幣原喜重郎首相へ「憲法改正の必要性」について打診する。
同日、德田球一、志賀義雄ら日本共産黨員の政治犯十六名が府中刑務所内に豫防拘禁所から釋放される。釋放された政治犯は合計で約三千人。
十一日、マッカーサーは、幣原喜重郎首相に憲法改正を迫るとともに「五大改革」を口頭で指令する。五大改革指令とは、①女性の解放と參政權の授與、②勞働組合組織化の奬勵と兒童勞働の廢止、③學校教育の自由化、④祕密警察制度と思想統制の廢止(政治犯の釋放、特別高等警察廢止、治安維持法廢止、治安警察法廢止)、⑤經濟の集中排除と經濟制度の民主化(財閥解體、農地改革)の五つであつた。
同日、田付景一外務省條約局第二課長兼第一課長が「帝國憲法改正問題私案」を提出し、外務省は『憲法改正大綱案』をまとめる。
十二日、松本烝治國務相は、閣議で近衞文麿による憲法改正作業を批判する。
同日、幣原喜重郎首相は、マッカーサーと會談し、近衞文麿が内大臣府御用掛に就任する。
十三日、閣議において憲法改正のための研究開始を決定する。そのために憲法問題調査委員會(委員長・松本烝治國務大臣)の設置を決定。幣原喜重郎首相と松本烝治國務相は、近衞文麿内大臣府御用掛と會見し、内大臣府の憲法改正作業が、内閣權限に牴觸する越權行爲であると指摘する。
同日、佐々木惣一京大教授(憲法學)が内大臣府御用掛に就任。
同日、新聞各紙が憲法改正に關する記事を掲載。各紙記事の題目は、『朝日新聞』が「欽定憲法の民主化」、『毎日新聞』が「憲法改正の緊急性」、『讀賣新聞』が「憲法の自由主義化」であつた。
十五日、近衞文麿内大臣府御用掛は、外國マスメディアに對し、憲法改正構想について會見を開く。
同日、治安維持法の廢止。
同日、國内の皇軍の武裝解除を完了。
十六日、宮澤俊義東大教授(憲法學)が、『毎日新聞』上で内大臣府の憲法改正作業を批判。元東大教授の蝋山政道(行政學)が、『毎日新聞』上で憲法改正が時期尚早であると主張。
十七日、米國務省は、GHQ政治顧問アチソンに訓令を通知。この訓令により、憲法改正の基本的事項のアウトラインを示す。その要旨は、①代議制の充實と責任政治の確立、②天皇制を存置しない場合における豫防機構(constitutional safeguards)として、選擧制國會の完全支配、基本的な公民權の保障及び明示の委任權限に基づく國家元首の行動監視、③天皇制を存置する場合における豫防機構(constitutional safeguards)として、天皇に助言と補佐する内閣責任制度、代議制立法部による議院内閣制、貴族院及び樞密院による立法に對する再議權及び拒否權の否定、内閣による天皇の憲法改正權の制約、立法部の随時集會制の確立、將來復活しうる軍隊を所管する大臣の資格の文民制、統帥部の獨立の否定、といふものであつた。
十八日、松本烝治國務相が新設の「憲法問題調査委員會」の基本的性格を記者團に發表。
十九日、宮澤俊義が、『毎日新聞』上で憲法改正問題に再度論及する。
二十日、美濃部達吉東大名譽教授が、『朝日新聞』上で「憲法改正不急論」を主張。美濃部部達吉の論説は二十二日までの三日間連載され、この中で美濃部は、解釋と運用により帝國憲法の民主化は可能であることを力説し、徒に憲法改正を急ぐべきでないと主張した。 同日、日本共産黨が機關紙「赤旗」再刊。
二十一日、近衞文麿内大臣府御用掛が外國マスメディアと會見し、その會見の場で「天皇の退位問題」、「GHQへの新憲法の提出」に關する發言を行ふ。
同日、佐々木惣一内大臣府御用掛は、『毎日新聞』上で内大臣府憲法改正作業に對する批判に反論した。
二十二日、GHQは、軍國主義追放の教育制度政策として『日本教育制度ニ對スル管理政策』(資料二十七)といふ覺書を公布。
二十三日、幣原喜重郎首相は、近衞文麿内大臣府御用掛と會見し、二十一日の發言に抗議。
同日、讀賣新聞社從業員が社内民主化を決議。第一次讀賣爭議へ發展する。
二十四日、松本烝治國務相は、近衞文麿内大臣府御用掛と會見し、二十一日の發言に抗議。
同日、GHQは、『信教の自由に關する覺書』を公布。
同日、國連憲章が發效し國際連合が正式發足する。
二十五日、『憲法問題調査委員會』(通稱「松本委員會」、委員長・松本烝治)が設置される。
同日、近衞文麿内大臣府御用掛が新聞記者團と會見し、二十一日の發言意圖を再説明するとともに、佐々木惣一内大臣府御用掛の反論を擁護する。
同日、GHQ政治顧問アチソンが高木八尺東大教授(米國憲法學・外交史)と懇談し、八日の近衞文麿に對する十二項目示唆に關する補足説明を行ふ。
同日、GHQは、『日本の在外大使公使館の資産、文書の引き渡しならびに在外外交代表召還に關する覺書』を公布して、日本政府の外交權を停止する。
二十七日、米國政府は、極東委員會付託條項修正草案を英國、ソ連、中華民國へ通達。
同日、憲法問題調査委員會の第一回總會が開催され、委員會設置の趣旨説明が行はれ、松本委員長は、同委員會の使命について「憲法改正案を直ちに作成するといふことでは無く」と述べた。同委員會は、以後翌年二月二日まで七回開催された。
三十日、極東諮問委員會(FEAC)の第一回會合がソ連參加拒否のまま開催。以後、十二月二十一日までの間に十回開催される。
同日、GHQは、『教育及ビ教育關係官ノ調査、除外、認可ニ關スル件』(資料二十八)といふ覺書を公布し、軍國主義的教員の追放を指令する。
同日、同盟通信社が解散し、これにより、十一月一日に共同通信社と時事通信社が發足する。
三十一日、同月二十五日の覺書により、日本の在外公館による外交活動が全面停止される。
同日、GHQは、『若干の會社の證券の賣買・移轉に關する覺書』を公布し、三菱本社など十五會社の一切の證券凍結を指令する。
昭和二十年十一月
一日、GHQは、憲法改正作業に關し、近衞文麿内大臣府御用掛を支持しない旨の絶縁宣言を行ふ。
同日、GHQは、日本の警察官が進駐軍將校に敬禮を行ふやうに命令を出す。
同日、統合參謀本部(JCS)は、『日本占領および管理のための連合國最高司令官に對する降伏後における初期の基本的指令』を發令する。
同日、共同通信社と時事通信社が發足する。
二日、憲法問題調査委員會は、第二回調査會を開催し、改正論點の檢討作業に入る。
同日、日本社會黨結成(書記長・片山哲)。
四日、政府は、GHQの指示により、四大財閥(三井、安田、三菱、住友)に對し自發的に解體するやう壓力をかけ、その計畫をGHQへ提出する。
五日、閣議で『戰爭責任に關する件』を決定し、天皇の戰爭責任を否定することを確認。
六日、GHQは、三井、三菱、住友、安田の四大財閥を解體するといふ『四大財閥自發的解體計畫』の政府案を承認して『持株會社の解體に關する覺書』を提示し、持株會社整理委員會を設立して「財閥解體」を推進することを指令する(財閥解體指令)。
同日、日本自由黨結黨(舊政友會系)。
同日、日本共産黨「人民戰線綱領」發表。
七日、住友本社が解散の方針を發表。
八日、米國政府し、マッカーサーに『日本占領および管理のための連合國最高司令官に對する降伏後における初期の基本的指令』を通知する。
九日、松本烝治委員長は、憲法問題調査委員會の活動状況について記者團に説明。
同日、GHQは、映畫脚本などの事前檢閲撤廢を發表する。
同日、日本自由黨結成(總裁・鳩山一郎)。
十日、憲法問題調査委員會は、第二回總會を開催し、委員會の調査方針を確認する。
その中で、松本委員長は、「日本を廻る内外の情勢は誠に切實である。政治的に何事も無しには濟まし得ない樣に思はれる。」、「憲法改正問題が極めて近き將來に於て具體化せらるることも當然豫想しなければならぬ。」と述べ、同委員會は調査・研究機關から改正作業機關へと變質した。
同日、GHQ渉外局は、『日本の勞働統制法規の撤廢』を發表。これにより、國民動員令、工場法戰時特令、勞務調整令など八法令が廢止される。
同日、GHQは、文部省に對して全教科書の英譯版提出を命令する。
十一日、東久邇宮稔彦は、敗戰で皇族待遇を辭退すると表明。
十六日、日本進歩黨結成(總裁・町田忠治)
十八日、GHQは、『皇室財産を封鎖する覺書』を發表し、皇族資産凍結を命ずる。
二十日、昭和天皇が靖國神社を御親拜される。
同日、GHQは、『ラジオ通信統制に關する覺書(ラジオ・コード)』で、ラジオ放送に對する檢閲基準を指示する。
二十一日、治安警察法廢止。
二十二日、近衞文麿は、『帝國憲法改正要綱』を天皇に上奏。
同日、閣議で自作農創設の農地制度改革要綱を決定する。
同日、GHQは、『戰時利得の除去および國家財政の再編成に關する覺書』を公布。
同日、GHQ渉外局は、食糧、綿花、石油、鹽の輸入許可を發表。
同日、GHQは、戰犯者の恩給扶助停止を指令する。
二十三日、民間檢閲支隊(CCD)第二地區(四國、關西~愛知、富山)本部(大阪)の業務が開始。
二十四日、GHQが軍人恩給を停止する指令。
同日、佐々木惣一内大臣府御用掛は、『憲法改正案』(佐々木案)を天皇に進講。
同日、内大臣府廢止。
二十五日、GHQは、財政再編成の覺書を政府に手交する。
二十六日、第八十九回臨時帝國議會が、十一月二十七日開會、十二月十八日閉會の豫定で召集される。
三十日、陸軍省、海軍省を廢止。
昭和二十年十二月
一日、第一復員省(舊陸軍省)、第二復員省(舊海軍省)が發足。
同日、日本共産黨が第四回(再建)黨大會を開催し、GHQ占領軍を「解放軍」と規定。
二日、GHQは、戰犯容疑で平沼騏一郎、廣田弘毅ら五十九人の逮捕を命令する。
六日、GHQは、戰犯容疑で近衞文磨、木戸幸一ら九人の逮捕を命令する。
同日、ラウエルの『日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート』が發表される。
七日、GHQが、いはゆる農地解放を指示(農地の小作人への分配)。
同日、マニラの戰犯裁判で山下奉文大將に死刑判決。
八日、松本烝治憲法問題調査委員會委員長は、衆議院豫算委で『憲法改正四原則(松本四原則)』を發表する。
この松本四原則の内容は、①天皇が統治權を總覽するといふ基本原則は不變であること、②議會の議決決定權を擴充するために天皇大權事項をある程度削減すること、③國務大臣の責任を國務全般にわたるものとし、同時に議會に對して責任を負はせること、④臣民の自由および權利保護を擴大し、これらへの侵害に對する救濟を完全なものとすること、であつた。
同日、連合國軍總司令部(GHQ/SCAP)において、WGIP(戰爭罪惡感を日本人の心に植ゑつけるための宣傳計畫)の實施を擔當した部署である民間情報教育局(CI&EまたはCIEと略稱、Civil Information and Education Section)が作成した『太平洋戰爭史』の新聞連載が開始される。
九日、CI&Eは、前日の『太平洋戰爭史』の新聞連載と連動して、ラジオ番組『眞相はかうだ』の放送を開始させる(週一回、十週間放送)。同時に『質問箱』も始まる。これが昭和二十一年二月十日まで放送され、以降は『眞相箱』となり同年十二月四日まで放送される。
同日、GHQは、『農地改革に關する覺書』を提示し、いはゆる「農地改革」始まる。この覺書により、政府に對し、農地改革計畫を翌昭和二十一年三月十五日までに提出することを嚴命する。
十日、GHQは、捕虜虐待容疑で五十七名に逮捕命令。
十一日、GHQは、『日本放送協會の再組織に關する覺書』を公布。
十三日、GHQは、失業者援護計畫の立案を指令。
十五日、GHQは、『國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保證、支援、保全、監督竝ニ弘布ノ廢止ニ關スル件』といふ覺書(いはゆる「神道指令」)を發令。これにより、「大東亞戰爭」「八紘一宇」などの用語を公文書に使用することが禁止される。
十六日、近衞文磨が自宅で服毒自殺(享年五十五歳)。
同日、モスクワで米、英、ソ三か國の外相會談開催(同月二十六日まで)。ここで、占領統治、講和問題、極東問題を協議し、極東委員會(FEC)と對日理事會(ACJ)の設置を決定。
十七日、衆議院議員選擧法改正が公布され、婦人參政權が實現する。
同日、我が國では最初の戰犯裁判(BC級)が橫濱地方裁判所で開廷。BC級とは捕虜や住民を虐待したとされる容疑であり、昭和二十四年十月十九日の閉廷までに千三十七人が起訴され、五十一人が死刑となつた。
十八日、幣原内閣が衆議院を解散する。
同日、日本協同黨結成(委員長・山本實彦)。
十九日、閣議で、總選擧の施行日を翌昭和二十一年一月二十二日とする方針を決定したが、GHQは、この閣議決定の發表を差し止める命令を出し、同時に、釋放政治犯人に對する選擧權付與の覺書を交付する。
同日、内務省警保局内に「公安課」新設。
同日、マッカーサーは、管下部隊に出した『連合國の日本占領の基本的目的と連合國によるその達成の方法に關するマックアーサー元帥の管下部隊に對する訓令』を新聞發表させることにより、我が國政府に次のとほり命令した。
すなはち、連合國の政策に從ふべき日本の究極の目的が、「日本が再び世界の平和及び安全に對する脅威とならないことを確實」にするためにあるとし、「日本政府及び國民は、最高司令官の指令を強制されることなく實行するあらゆる機會を與へられるべきであるが、自發的な行動が執られない場合には、遵守を要求するために適當な管下部隊に命令があたへられるであらう。占領軍は、主として最高司令官の指令の遵守を監視する機關として又必要があれば最高司令官が遵守を確實にするために用ゐる機關として行動する。」として、占領政策は、我が政府の自發性を假裝した強制であることを明らかにした。
二十日、GHQは、我が政府へ總選擧期日の暫時延期を指令する。
同日、『國家總動員法・戰時緊急措置法各廢止の件』を公布(施行は翌昭和二十一年四月一日)。
二十一日、『毎日新聞』が近衞文麿の「憲法改正草案要綱」なるものを掲載。
二十二日、史上初となる昭和天皇の記者會見。
同日、『勞働組合法』を公布(施行は翌昭和二十一年三月一日)。これにより團結權と團體交渉權が保障される。
二十四日、憲法問題調査委員會の第一回小委員會が開催され、以後、この小委員會は昭和二十一年一月二十三日まで全八回開催された。
二十六日、憲法問題調査委員會の第六回總會が開催され、改正に向けての檢討を決定。
同日、GHQ、東京の全新聞社、通信社の事前檢閲を開始。
二十七日、米英ソ外相會議によるモスクワ宣言が發表。極東委員會(FEC)と對日理事會(ACJ)の設置で合意する。戰後の國際經濟秩序を支配するブレトン・ウッズ協定が發效し、國際通貨基金(IMF)と國際復興開發銀行(世界銀行・IBRD)の設置が決定される。
同日、帝國憲法改正私案としての『憲法研究會案』(憲法草案要綱)發表。憲法研究會の主要メンバーは、高野岩三郎、馬場恆吾、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵達雄、室伏高信、鈴木安蔵などであり、この草案による改正法の性質を暫定法とし、「この憲法公布後、遅くとも十年以内に國民投票による新憲法の制定を行はなければならない。」とするもの。
二十八日、帝國憲法改正私案としての『稲田正次案』、『清瀬一郎案』、『布施辰治案』發表。
二十九日、『農地調整法』改正法が公布(第一次農地改革はじまる)。
同日、『政治犯人等の資格回復に關する件』が公布。
三十一日、GHQ(CI&E)は、『修身、日本歴史及ビ地理停止ニ關スル件』といふ覺書(いはゆる「教育指令」)を提示。
昭和二十一年一月
一日(元旦)、昭和天皇の『新日本建設ニ關スル詔書』が發布。
この詔書には公用文としての「題名」はなく、「件名」としては、「新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」(官報目録)及び「新年ヲ迎フルニ際シ明治天皇ノ五箇條ノ御誓文ノ御趣旨ニ則リ官民擧ゲテ平和主義ニ徹シ、新日本ノ建設方」(法令全書)である。これを「人間宣言」、「天皇人間宣言」、「神格否定宣言」などと稱するのは、GHQのプロパガンダによるものである。
それは、この詔書の「朕ト爾等國民トノ間ノ紐帶ハ、終始相互ノ信賴ト敬愛トニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニモ非ズ。」を根據とするものであるが、ここには「人間」なる言葉は一切ない。大正十一年一月に内務省神社局が刊行した『國體論史』、文部省が昭和十二年五月に編纂發行した『國體の本義』、同じく昭和十六年七月に編纂した『臣民の道』と比較しても、この詔書は異質のものではない。つまり、『國體の本義』に、「臣民が天皇に仕へ奉るのは所謂義務ではなく、又力に服することでもなく、止み難き自然の心の現れであり、至尊に對し奉る自らなる渇仰隨順である。我等國民は、この皇統の彌々榮えます所以と、その外國に類例を見ない尊嚴とを、深く感銘し奉るのである。」とあるのと同樣に、君臣の紐帶が「自然の心の現れ」であつて單なる觀念に基づくものではないといふことを示されたことに他ならないのである。「單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」といふのは、神話と傳説を肯定した上で、これのみならず「自然の心の現れ」によるものであることを意味してゐるからであり、現御神(現人神)であるとすることに解釋上の異論があるとしても、天皇は「皇孫」(すめみま)であり「神孫(神胤、神裔)」であることに變はりはない。この詔書は、神胤、神裔であることを否定してゐない。それゆゑに、人間宣言ではない。この詔書の冒頭に、慶應四年の五箇條の御誓文があることは、明治天皇が神胤であり、昭和天皇もまた同樣であることを明確にした上で、我が國がポツダム宣言受諾の前後においても國體の變更がなかつたことを明らかにしたものなのである。
この國體不易は、おほみうた(大御歌)にも現れてゐる。ポツダム宣言受諾時の「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」と、昭和二十一年の歌會始に賜つた「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」とは、一揃ひの御製である。
二日、マッカーサーが前日の詔書を支持する声明を出す。
これは、詔書發布の強要をカモフラージュするためであり、GHQは、これ以外にも、御眞影と教育敕語の否定をも要求してゐた。
三日、米陸軍省は、マッカーサーの『日本管理に關する報告書』を發表。その内容は、日本の民主化と日本人再教育についてである。
四日、松本烝治が『憲法改正私案』(いはゆる甲案)を脱稿。
同日、GHQは、軍人、戰犯、軍國主義者、超國家主義者、同傾向政治家など極めて廣範圍に及ぶ「公職追放」を目的とする『好ましからざる人物の公職よりの除去に關する覺書』(公職追放指令)と、「超國家主義團體」の解體などを指令した『ある種の政黨、協會、結社、その他團體の廢止に關する覺書』を公布した。これにより、思想と職業等による差別的制限選擧によつて「日本國國民ノ自由ニ表明スル意思」を反映しない政府と議會が生まれることになる。
五日、朝日新聞は、前日の公職追放指令による國政への影響を報道した。それによると、衆議院は七、八割の更新が豫測され、貴族院については該當者が八十八人にのぼるとされた。
七日、松本烝治は、『憲法改正私案』を天皇に奏上。
同日、「國務・陸・海調整委員會」(SWNCC)は、『日本統治體制の改革』を決定。
同日、共産黨は、一月四日のマッカーサーの公職追放指令を全面的に支持する聲明を出してGHQ權力に迎合し、その中で「この際大元帥としての天皇が侵略戰爭の最高責任者として、その責任を問われるべきことを主張する。」と述べ、「日本國國民ノ自由ニ表明スル意思」を否定した差別的制限選擧の實施を全面的に支持した。
九日、GHQは「日本教育家ノ委員會ニ關スル件」を發令。これは、二十九名の委員を選任してGHQ主導の教育改革(教育解體)を斷行する目的で設置されたものであり、同年二月七日に、多くのキリスト者が委員として選任され、同年八月には「教育刷新委員會」と改稱されて、昭和二十三年六月十九日の衆參兩議院での教育敕語等の排除・失效決議の伏線となつたものである。
十日、國連第一回總會がロンドンで開催(二月十四日まで。五十一か國參加)。
同日、支那では、國民黨と共産黨が内戰停止に合意する。
十二日、GHQは、政府に對して總選擧の實施を許可し、その實施時期は三月十五日以降にすることを命令する。
同日、野坂參三が支那・新彊から歸國し、代々木の日本共産黨本部に入る。
中國共産黨やアメリカ共産黨などと連携してきた野坂が主張する「占領下平和革命論」がその後の「二・一ゼネスト」と日本共産黨の「五十年問題」の發端となる。
十三日、幣原喜重郎改造内閣が發足。これは、昭和二十年十月九日に成立した幣原内閣の閣僚中、五人が公職追放該當者となつたことから、總辭職か内閣改造かを迫られ、結局は内閣改造となつたものである。松本烝治國務大臣も、かつては滿鐵の監査役であつたとして公職追放該當者となつたが、同人が憲法改正について餘人を以て代へられないといふ理由で、GHQに暫定的特免の申請をなし、マッカーサーにより選擧後までの在職が許可されて留任したのである。
十六日、GHQは、警察官の拳銃携帶と射殺權を條件つきで許可する。
十九日、マッカーサーは、極東國際軍事裁判所條例を承認し公布する。
二十一日、GHQは、『公娼容認の法規撤廢の覺書』を提示。
同日、帝國憲法改正私案としての『大日本辯護士連合會案』發表。
二十三日、神社本廳が設立される(このとき神社數は全國で十一萬社)。
同日、幣原喜重郎は、記者會見で立憲君主制維持の必要性を強調する。
二十四日、GHQは、公娼を認めるすべての法規を撤廢する。
同日、幣原喜重郎は、マッカーサーと會談し、戰爭放棄條項について話し合ふ。マッカーサー戰爭回顧録などによると、戰爭放棄は幣原の發案であつたとするが、その眞意と具體的な内容は定かではなく信憑性は低い。假に、誰の發案であつたとしても、幣原がマッカーサーとの間で、軍事占領下での憲法改正に關する發案が改正大權を私議するといふ大罪であるにもかかはらず、これを共謀して犯したことに變はりはない。
二十五日、マッカーサーが天皇の戰犯除外に關してアイゼンハワー陸軍參謀總長宛に以下の次の書簡電報を送る。
「指令を受けて以來、天皇の犯罪行爲について祕密裏に可能なあらゆる調査をした。過去十年間日本の政治決定に天皇が參加したといふ特別かつ明白な證據は發見されなかつた。可能な限り完全な調査から、私は終戰までの天皇の國事關連行爲はほとんど大臣、および天皇側近者たちの進言に機械的に應じてなされたものであつたとの強い印象をうけた。もし天皇を戰犯として裁くなら占領計畫の重要な變更が必要となり、そのための準備が必要となる。天皇告發は日本人に大きな衝撃を與へ、その影響は計りしれないものがある。天皇は日本國民統合の象徴であり、彼を破壞すれば日本國は瓦解するであらう。事實すべての日本人は天皇を國家元首として崇拜してをり、正否は別としてポツダム宣言は天皇を存續させることを企圖してゐると信じてゐる。だからもし連合國が天皇を裁けば日本人はこの行爲を史上最大の裏切りと受けとり、長期間、連合國に對し怒りと憎惡を抱きつづけるだらう。その結果、數世紀にわたる相互復讐の連鎖反應が起こるであらう。私の意見では、すべての日本人が消極的ないし半ば積極的に抵抗し、行政活動のストップ、地下活動やゲリラ戰による混亂が引き起こされるであらう。近代的民主的方法の導入は消滅し、軍事的コントロールが最終的に停止されたとき共産主義的組織活動が、分斷された民衆の間から發生するだらう。このやうな状態に對處する占領問題は今までのそれとは全く異なるものである。これには少なくとも百萬人の軍隊と數十萬人の行政官と戰時補給體制の確立を必要とするであらう。もし天皇を戰犯裁判にかけるとすれば前記のやうな準備が不可缺であることを勸告する。」
二十六日、日本共産黨内で開催された野坂參三歡迎會において、野坂は「愛される共産黨にならなければならない」と主張し、その後、この「愛される共産黨」がキャッチフレーズとなる。
二十八日、GHQは、映畫檢閲に關する覺書を發令し檢閲を始める。
同日、帝國憲法改正私案としての『高野岩三郎案』、『里見岸雄案』發表。
二十九日、GHQは、連合軍最高司令官訓令(SCAPIN)第六百七十七號により、竹島、琉球、千島(國後、擇捉兩島を含む)、齒舞群島、色丹島、南樺太などの領域における我が國の行政權の行使を正式に中止する。
同日、閣議で松本案の審議開始を決定し(審議は二月四日まで)、總選擧を三月三十一日に實施し、特別議會を四月十日ころとすることに決定。
三十日、松本烝治は、閣議において、憲法問題調査委員會の審議經過とともに『憲法改正私案』(甲案)について説明し、必要に應じて乙案にも觸れながら、甲案(小改正案)と乙案(大改正案)の二案の逐條的説明を行ふ。いづれも「松本四原則」に基づく改正案であり、甲案は、乙案と比較して、より小範圍の改正案に留めたものである。
同日、政府は、一月四日の公職追放指令に基づく「ポツダム命令」として、來るべき選擧に備へて、『衆議院議員ノ議員候補者タルベキ者ノ資格確認ニ關スル件』(内務省令昭和二十一年第二號)を公布施行し、恣意的に特定の者の議員を剥奪して民意の反映を妨げた。
三十一日、GHQは、ソ連と中華民國は日本の占領統治には不參加であることを發表。
同日、GHQは、憲法改正問題に關する見解を發表。
同日、英連邦の日本占領に關する米豪政府間協定締結。
昭和二十一年二月
一日、第一次農地改革が實施される。
同日、軍人恩給が停止される(昭和二十八年に復活)。
同日、毎日新聞が「憲法問題調査委員會試案」であるとする改正案(毎日案)なるものをスクープ記事として掲載する(GHQの指示を受けて行つた政府内部通報者による陰謀説あり)。松本は、この日の閣議において、このスクープ記事に觸れ、「この案(毎日案)は、憲法改正問題調査委員會の甲案でも乙案でもなく、ただ研究の過程において作つた一つの案にすぎない。」とし、「これがスクープされたことについては、内閣側としては何ら責任はない。」と説明して閣議の了承を求めた。現に、この毎日案は、憲法問題調査委員會おける試案作成の初期段階(一月四日ころ)において、宮澤俊義委員がとりまとめた甲乙兩案のうちの「宮澤甲案」と殆ど一致するものであつた。宮澤俊義は、昭和二十年十月十六日と十九日の毎日新聞に、憲法改正問題に關する批判意見を掲載させるなど毎日新聞社と濃密な關係にあつたことからして、秘密漏洩疑惑がある宮澤俊義の試案文書の管理責任の有無が問はれるべきであつた。しかし、同日夜に、内閣書記官長楢橋渡は、毎日案は憲法問題調査委員會の草案ではないことを公式に否定する發表をした。そして、政府は、「憲法改正の要旨」を非公式にGHQに提示。これをうけて、GHQは政府に委員會案の正確な内容を知らせるやう通知した。また、ホイットニー民政局長がマッカーサーに、極東委員會(FEC)とGHQの憲法改正權限の關係についてのメモを提出した。
二日、英連邦軍が占領開始。
同日、ホイットニー民政局長がマッカーサーに『最高司令官のための覺書』を提出。その内容は、毎日新聞のスクープ記事に對する評價に關するものであり、マッカーサーは、松本試案を拒否する理由書の作成をホイットニー民政局長に命令する。
同日、憲法問題調査委員會の第七回總會(最終總會)。
同日、改正「宗教法人令」公布。
同日、ソ連は南樺太と千島を自國領に編入すると宣言。
三日、マッカーサーは、GHQ民政局(GS)へ『マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)』に沿つた『日本國憲法草案』(GHQ草案、マッカーサー草案。資料三十一)作成を指示する。
その後、『日本國憲法草案』に盛り込まれることになつた、この『マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)』の内容とは、①「The Emperor is at the head of the State.」(天皇は、國家の元首の地位にある。)、「His succession is dynastic.」(皇位の繼承は、世襲である。)、「His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsible to the basic will of the people as provided therein.」(天皇の義務および權能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、國民の基本的意思に對して責任を負ふ。)、②「War as a sovereign right of the nation is abolished.」(國家の主權的權利としての戰爭を放棄する。)、「Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.」(日本は、紛爭解決の手段としての戰爭、および自國の安全を保持するための手段としての戰爭をも放棄する。)、「It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.」(日本は、その防衞と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。)、「No Japanese army, navy, or air force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.」(いかなる日本陸海空軍も決して保有することは、將來ともに許可されることがなく、日本軍には、いかなる交戰者の權利(交戰權)も決して與へられない。)、③「The feudal system of Japan will cease.」(日本の封建制度は廢止される。)、「No rights of peerage except those of the Imperial Family will extend beyond the limits of those now existent.」(華族の權利は、皇族を除き、現在生存する一代以上に及ばない。)、「No patent of nobility will from this time forth embody within itself any national or civic power of government.」(華族の授與は、爾後どのやうな國民的または公民的な政治權力を含むものではない。)、「Pattern budget after British system.」(豫算の型は、英國制度に倣ふこと。)といふものであつた。
ここで留意されるべきは、これは占領憲法の骨格となつたもので、特に、占領憲法第九條第二項後段の「交戰權」の譯語である「rights of belligerency」といふ、これまで國際法になかつた概念が初めて登場したことである。
四日、GHQ民政局(GS)は、『日本國憲法草案(GHQ草案)』の起草作業を開始(十二日までに完成)。
八日、松本烝治は、『憲法改正要綱(松本試案)』と『説明書』の英譯をGHQに郵送して、速やかな會談を求めた。GHQは『憲法改正要綱』を一時的に受け取り、二月十三日に會議を持つことを約束する。
九日、閣議で、公職追放令該當者の範圍を發表。
十一日、米英ソは、ヤルタ祕密の全文を公表。政府は、このとき初めてその内容を知るに至つた。これが「ヤルタ密約」といふ日ソ中立條約違反の違法な合意であつた所以である。
十二日、マッカーサーは、『日本國憲法草案(GHQ草案、マッカーサー憲法草案)』を承認。
十三日、午前十時ころ、吉田茂外相と松本烝治國務大臣らは、麻布の外相官邸にGHQ民政局長ホイットニー准將とケーディス大佐らの訪問を受け、政府が送付した『憲法政正要綱(松本試案)』の受け取りを正式に拒否し、その代はりに英文の『日本國憲法草案(GHQ草案)』を手交して、「①日本政府から提示された憲法改正案は、司令部にとつて受諾できない(an-accepable)。②この司令部の提案は、司令部にも米本國にも、また連合國極東委員會にも何れにも承認せられるべきものである。③マッカーサー元帥はかねてから天皇の保持について深甚な考慮をめぐらしてゐたが、日本政府がこの提案の如き憲法改正を提示することはこの目的達成のために必要である。これなくしては天皇の身體(person of the Enperor)の保障をすることはできない。④われわれは日本政府に對しこの提案の如き改正案の提示を命ずるものではない。然も、この提案と基本原則(fundamental principles)及び根本形態(basic forms)を一にする改正案をすみやかに作成提示されることを切望する。」として實質的にこれに基づく憲法制定を嚴命した。これを受け入れれば、天皇を戰犯にしようとする他國の壓力から「天皇は安泰になる」(would render the Enperer practically unassailable)として、天皇を人質としてGHQ草案を強制した。そして、結果的には、占領憲法は、このGHQ草案と「基本原則(fundamental principles)及び根本形態(basic forms)を一にする」ものとなつたのである(文獻171)。
この點に關して、興味深い記事がある。それは、平成十九年七月一日付け産經新聞朝刊の「緯度経度」欄の「憲法の生い立ち想起」といふ、同社ワシントン支局の古森義久記者の署名記事である(文獻337)。これは、昭和五十六年四月に、占領憲法の草案を書いたチャールズ・L・ケーディスに古森記者がインタピューしたときのことを書いたものであり、それには、次のやうな記載がある。
「基本方針こそ米統合参謀本部やマッカーサー総司令官から与えられたものの、ケイディス氏はかなりの自由裁量権をも得て、二十数人のスタッフを率い、わずか十日足らずのうちに、一気に日本国憲法草案を書き上げた。とくに第九条(注・草案第八條に對應)は自分自身で書いたという。」「彼(ケイディス)は、憲法をどのように書いたかについての私(古森)の数え切れないほどの質問に、びっくりするほどの率直さで答えた。こちらの印象を総括すれば、日本の憲法はこれほどおおざっぱに、これほど一方的に、これほどあっさりと書かれたのか、というショックだった。」「神聖なはずの日本国憲法が実は若き米人幕僚たちによってあわただしく作られ、しかも日本人が作ったとして発表されていた、というのだ。だからそのへんのからくりを正直そうに話してくれたケイディスの言葉は、ことさら衝撃的だったのである。同氏(ケイディス)はまず憲法九条の核心ともされる『交戦権』の禁止について『日本側が削除を提案するように私はずっと望んでいたのです。なぜなら『交戦権』というのが一体何を意味するのか私には分からなかったからです』と述べて笑うのだった。彼は交戦権という概念が、単に戦争をする権利というよりも、交戦状態にあるときに生じるさまざまな権利ではないかといぶかっていたというのだ。第九条の目的についてはケイディス氏は『日本を永久に武装解除されたままにしておくことです』とあっさり答えた。ところが、上司から渡された黄色い用紙には憲法の簡単な基本点として『日本は自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する』と記されていた。だか、同氏は、『この点については私は道理に合わないと思い、あえて削除しました』と語った。すべての国は自己保存の固有の自衛権利を有しており、その権利を否定すれば、国家ではなくなると判断したからだという。ケイディス氏はその自主的な削除を上司のコートニー・ホイットニー民政局長からは当初、反対されたが、最終的には通してしまった。」「ケイディス氏はさらに米側が憲法案を日本側首脳に受け入れさせる際、ホイットニー准将が『われわれは原子力エネルギーの起こす暖を取っている』との、原爆を連想させる表現で圧力をかけたことにも触れた。そして、ちょうど頭上をB29爆撃機が飛んでいたため、その言が日本側への威嚇の効果を発揮したことも、淡々と認めたのだった。」とある。
なほ、宮澤俊義は、これまで昭和二十年十月十六日と十九日の毎日新聞などで、内大臣府が憲法改正作業をすること自體を批判してゐたのに、このGHQ草案を見るや否や、直ちに變節し、「このたびの憲法改正の理念は一言でいへば平和國家の建設といふことであらうとおもふ。・・・日本は永久に全く軍備をもたぬ國家ーそれのみが眞の平和國家であるーとして立つて行くのだといふ大方針を確立する覺悟が必要ではないかとおもふ。いちばんいけないことは、眞に平和國家を建設するといふ高い理想をもたず、ポツダム宣言履行のためやむなくある程度の憲法改正を行つてこの場を糊塗しようと考へることである。かういふ考へ方はしばしば『官僚的』と形容せられる。事實官僚はかういふ考へをとりやすい。しかし、それではいけない。日本は丸裸かになつて出直すべき秋である。」(「憲法改正について」、雜誌『改造』昭和二十一年三月號所収)として、GHQ草案の戰爭放棄を全面的に受け入れた憲法改正を積極的に支持したのである。これが變節學者の面目躍如たる由縁である。
十八日、松本烝治は、白洲次郎に『憲法改正案説明補充書』の英譯をGHQに提出させるも、GHQはこれの受け取りを拒否され、「松本案については考慮の餘地はない。司令部案を基礎として進行する意思があるかどうかを二十日中に回答せよ。それでなければ司令部案を發表する。」(文獻171)と恫喝された。
そもそも、GHQが司令部案を發表することは、憲法改正における國内的な獨自性を奪ふ壓力となり、それ自體が明確にヘーグ條約違反になるから、極東委員會もこのやうな行爲を許容することはなかつたはずである。「SCAPが憲法を起草したことに對する批判(日本の新憲法起草に當ってSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に當つてSCAPが果した役割に對する一切の批判。)」もプレスコードで禁止してゐたことからしても、これは單なる脅しであつたはずてあるが、當時の政府はそこまでの讀みできず、これが公表されることの恐怖によつて萎縮してしまつたのである。
十九日、昭和天皇が川崎、橫濱兩市を初めて巡幸される。これを皮切りに地方巡幸が開始される。
同日、GHQは、『刑事裁判權行使に關する覺書』を公布し、これにより、占領目的に有害な行爲に關して、連合國軍事裁判所が裁判權を行使することになる。
同日、閣議において、初めてこれまでの經緯と『GHQ草案』の大要を説明してその受入れについて檢討に入つた。勿論、このとき、松本國務大臣は、ホイットニーが二月十三日に述べた「エンペラーのパーソン」問題にも言及し、閣僚全員は愕然とし、恫喝に屈する方向へと流れる。その結果、幣原首相が直接にマッカーサーと會見して最終的意思を確認することになり、そのために回答期限を二十二日までに延期されることをGHQに求めた。 二十日、ソ連は、千島、南樺太の領土編入を宣言。
二十一日、幣原首相は、『GHQ草案』の意向を確認するため、マッカーサーと會見。マッカーサーは『GHQ草案』の受け入れを強く政府側に要求。主權在民と戰爭放棄の二つがGHQ案の眼目であることが強調された。
二十二日、幣原首相は、午前中に天皇に謁見し、GHQ草案を受け入れざるを得ない事情を奏上して承認を受けた。そして、閣議において幣原首相から前日の會見の報告があり、その結果、GHQ草案の翻譯文もなく、その詳細な内容も解らないまま、GHQ草案を受け入れることが決定される。これが「第二の無條件降伏」である。
その上で、「基本原則(fundamental principles)及び根本形態(basic forms)」のうち、「基本原則」は承認するとしても、「根本形態」とはどの範圍のものかといふことについて、松本大臣が司令部側と會見して、その趣旨を確認することになつた。そして、午後二時、松本大臣は、吉田外相と白洲次長とともに司令部へ行き「根本形態」について一時間四十分にわたり問答がなされた。その問答による結論は多岐に亘るが、その主な點を要約すると、
① 些末な點の變更は可能であること。
② 帝國憲法の各條項の改正と追加といふ改正形式は認められず、全面改訂に限ること。
③ 前文(日本國民ノ憲法制定、帝國憲法廢止ノ宣言)は憲法の一部を成すものであること。
④ 戰爭廢棄の規定は前文に移してはならず、條文中に置くこと。
⑤ 皇室典範は皇室の自治法であることを否定し、人民の主權的意思による法律によつて皇室を支配下に置くこと。
などであつた。つまり、變更を認めうる可能性があつたのは、GHQ草案で一院制としてゐたものを二院制にすることだけであり、このやうに殆ど讓歩しないGHQの姿勢に松本大臣は失望して辭去し、これを幣原首相に報告し、GHQ草案の翻案起草に着手することになる。
二十三日、政府は、『政黨・協會其ノ他ノ團體ノ結成ノ禁止等ニ關スル件』を公布施行する。
同日、十一か國で構成される對日政策の決定機關である極東委員會(FEC)が成立し、二月二十六日からワシントンで第一回會議が實施される。
二十四日、日本共産黨第五回黨大會開催。野坂參三は、その政治報告において、一番の中心問題は暴力革命を避けることであるとし、平和的・民主的な方法で民主主義革命を成し遂げ、さらに議會的な方法で政權を獲得するといふ二段階で社會主義革命を實現しうる可能性が生まれたと言明した(占領下平和革命論)。
二十五日、玄洋社など四十五團體に對し、軍國主義團體であるとして解散命令が出される。
同日、閣議において、やうやく閣僚全員にGHQ草案の翻譯版を配布し、さらに、總選擧を三月三十一日に實施するとした一月二十九日の閣議決定を取消し、四月十日に實施すると決定した。昭和二十年十二月十八に帝國議會が解散した後、これほどまでに總選擧が遲れた理由は、公職追放令關係の資格審査に手間取つたためであつた。
二十六日、極東委員會(FEC)が、第一回會議を開催。ソ、豪、英は、天皇制廢止を主張し、閣議において、『GHQ草案』を基本とする新憲法草案の起草を決定して開始する。
二十八日、政府は、『就職禁止、退官、退職等ニ關スル件』(公職追放令)を公布、同日施行した。
昭和二十一年三月
一日、『勞働組合法』が施行される。
二日、政府は、GHQ草案の翻譯を基礎として『帝國憲法改正草案要綱』(いはゆる「三月二日案」)を作成する。
三日、『物價統制令』が公布される(このときの消費者米價は、一石=二百五十圓)。
四日、松本大臣と佐藤達夫法制局部長は、午前十時、「三月二日案」をGHQに持參して提出し、外務省の翻譯擔當とGHQ側とで、これの英譯を始める。そして、午後四時ころまでに英譯が完成する。しかし、それまでの刻々と翻譯がなされてゐる間に、松本大臣とケーディスとの論爭が始まる。それは、「三月二日案」(マツモト・ドラフト)は前文がGHQ草案通りでないとする點や、第三條前段(天皇ノ國事ニ關スル一切ノ行爲ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス)の「輔弼」の言葉には「consent」(同意)に該當するものが缺落してゐるなどのGHQ側の不滿が出された。これに松本大臣が反論すると、ケーディスは興奮し議論が激化したことから、松本大臣は、他日の妥協の餘地を減殺してしまふことを恐れ、佐藤達夫に後事を託して、經濟閣僚懇談會に出席する豫定であるとの用務に藉口して、午後二時半ころに歸つた。午後六時すぎころ、GHQ側は、佐藤達夫に對し、突然、「今晩中に確定案を作ることになつた。ホイットニー准將は十二時まで待つ。もし、それまでにできなければ明朝六時まで待つ、と云つてゐる。」と申し入れてきた。そして、それから逐條審議に入り、それから約二十二時間後の翌五日午後四時ころに司令部での確定案の作成作業が完了した。
五日、司令部での前日から強行された確定案の作成作業で順次纏まつた案が送られてくるのを踏まへ、朝から閣議が開かれてゐた。このやうな強引な手法で確定案が作成されたことに、最早抗することができないとして、閣議で『GHQ修正草案』の採擇を決定した。これが政府の『確定草案』(三月五日案)となり、若干の字句の訂正を經て、『帝國憲法改正草案要綱』を作成し、マッカーサーの承認を得た。
同日、帝國憲法改正私案としての『憲法懇談會案』發表。
同日、チャーチル元イギリス首相は、アメリカのフルトンで「鐵のカーテン」演説を行ふ(冷戰の始まり)。
六日、幣原首相は、樞密院の諮詢を要する案件である改正草案について、その諮詢前に發表することは憲法慣例上の問題があつたため、司令部との關係で緊急に發表しなければならない事情を説明して樞密院の了解を求め、『帝國憲法改正草案要綱』を發表(いはゆる「三月六日案」)。そして、マッカーサーは、『帝國憲法改正草案要綱』を全面的に承認する旨の聲明を出し、統制下に置かれてゐるメディア各社は、これに呼應して擧つて『帝國憲法改正案要綱』に全面的に贊意を表明する。
同日、『憲法改正に關する敕語』が公布される。それは、「朕曩ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本國政治ノ最終ノ形態ハ日本國民ノ自由ニ表明シタル意思ニ依リ決定セラルベキモノナルニ顧ミ日本國民ガ正義ノ自覺ニ依リテ平和ノ生活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戰爭ヲ放棄シテ誼ヲ萬邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念ヒ乃チ國民ノ總意ヲ基調トシ人格ノ基本的權利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ國家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ政府當局其レ克ク朕ノ意ヲ體シ必ズ此ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ」といふものであつた。
十日、極東委員會(FEC)は、憲法草案の政策決定を行ふ。
十二日、ソ連軍は、蒋介石の駐留要請を斷つて、瀋陽から撤退を開始し、五月三日には旅順と大連に一部を殘し、滿洲から撤退した。
十三日、スターリンは、「鐵のカーテン」演説をしたチャーチル元英國首相を戰爭挑發者と非難する。
十四日、衆議院は、國政選擧で初めての「政見放送」を實施する。
十五日、GHQは、政府提出の農地改革計畫を不承認。
十六日、GHQは、『引き揚げに關する覺書』を公布し、在外邦人約八百萬人の引き揚げを指令する。
十八日、外務省は、『憲法草案要綱に關する内外の反響(その一)』を發表。
二十日、幣原首相は、樞密院會議において、帝國憲法改正草案要綱を發表するに至つたこれまでの經緯について、「極東委員會ト云フノハ極東問題處理ニ關シテハ其ノ方針政策ヲ決定スル一種ノ立法機關デアツテ、其第一回ノ會議ハ二月二十六日ワシントンニ開催サレ其ノ際日本憲法改正問題ニ關スル論議ガアリ、日本皇室ヲ護持セムトスルマ司令官ノ方針ニ對シ容喙ノ形勢ガ見エタノデハナイカト想像セラル。マ司令官ハ之ニ先ンジテ既成ノ事實ヲ作リ上ゲムガ爲ニ急ニ憲法草案ノ發表ヲ急グコトニナツタモノノ如ク、マ司令官ハ極メテ秘密裡ニ此ノ草案ノ取纏メガ進行シ全ク外部ニ洩レルコトナク成案ヲ發表シ得ルニ至ツタコトヲ非常ニ喜ンデ居ル旨ヲ聞イタ。此等ノ状勢ヲ考ヘルト今日此ノ如キ草案ガ成立ヲ見タコトハ日本ノ爲ニ喜ブベキコトデ、若シ時期ヲ失シタ場合ニハ我ガ皇室ノ御安泰ノ上カラモ極メテ懼ルベキモノガアツタヤウニ思ハレ危機一髪トモ云フベキモノデアツタト思フノデアル」と報告する。
これは、マッカーサーが天皇を人質にした強迫と詐術に幣原首相が屈服かつ信じて樞密院に報告し、樞密院もこの論法に騙されたといふことである。
同日、極東委員會(FEC)は、『日本憲法に關する政策』を採擇し、マッカーサーに通告。その骨子は、日本憲法問題に關して、①極東委員會は草案に對する最終的な審査權を持つてゐること、②最高司令官は草案の推移について絶へず極東委員會に報告すべきこと、③草案の内容はポツダム宣言に適合するものであるべきこと、④しかもそれは日本國民の自由な意思の表明の保障の下に採擇されるものであること、などである。
二十二日、日本政府の行政區域が對馬、種子島、伊豆諸島までに限られる(北緯三十度以南の南西諸島と小笠原諸島を分離して米軍統治下に置く)。
同日、米第八軍司令官は、米兵が日本女性に「公然と愛情表現」を行ふことを禁止する旨の指令を出す。
二十四日、初の「カリフォルニア米」輸入船が橫濱に入港。
二十五日、占領軍兵士からタバコなどを購入した四十一人が檢擧される。
二十六日、金森德次郎は、内閣囑託を受任する。
二十七日、GHQ覺書により對占領軍慰安所が閉鎖される。
昭和二十一年四月
一日、マッカーサーは、總選擧の結果の状況次第では再解散も考慮する旨を極東委員會(FEC)に回答。
三日、總選擧に小黨亂立。政黨數は二百五十六で、一人一黨が百八十四を數へると新聞が發表。
同日、ワシントンで開かれた極東委員會において、天皇の不訴追が決まつた。
五日、『指定金融機關および強制貸付制度の撤廢に關する覺書』を公布。これにより、自由で獨立した銀行制度の確立などを指示する。
同日、連合國對日理事會(ACJ)は、第一回會合を開催し、このときマッカーサーは、對日理事會の權限が「助言」に限定されるべきであることを強調する。
八日、極東國際軍事裁判の參與檢事會議が開催され、天皇不訴追を承認する。
九日、GHQは、總選擧の投票と開票は米軍の監視の元に實施されると發表。
十日、新選擧法による第二十二回(通算)衆議院議員選擧實施(自由141、進歩94、社會93、協同14、共産5、諸派38、無所屬81)。日本初の女性議員三十九人が誕生。
同日、極東委員會(FEC)は、日本憲法採擇について極東委員會(FEC)が關與することを希望するものであることを米國を含め全委員一致で決議する(いはゆる「四月十日決議」)。
十二日、閣議報告によると、總選擧の棄權率は「二十七・七%」。
十三日、マッカーサーは、極東委員會(FEC)の「四月十日決議」を拒否する旨米政府に通知。
十六日、政府は、發禁處分受けた圖書を解禁と通牒。
同日、幣原喜重郎首相は、「憲法改正は現内閣(幣原内閣)で」と記者會見でコメントする。
十七日、政府は、ひらがな口語體の『内閣憲法改正草案』を發表し、草案を樞密院に諮詢する。
同日、對日理事會(ACJ)米代表は、日本の民主化は順調で、選擧結果も滿足すべきものと發言する。
十八日、政府は、官廳の公用文に口語體を採用すると發表。
二十日、持株會社整理委員會令公布(八月二十二日發足)。財閥解體の開始。
二十二日、幣原喜重郎内閣が總辭職。これより一か月政治空白期となる。
同日、樞密院は、『内閣憲法改正草案』(諮詢案)に對する第一回審査委員會(委員長・潮惠之輔顧問官)を開いた。この審査委員會は、十一回の審査を行ひ、五月十五日の第八回會議まで、數日おきに連續して開催された。
二十三日、幣原喜重郎が進歩黨總裁に就任。
二十六日、人口調査による失業者數が發表される。完全失業者百五十九萬人、濳在失業者を含めると六百萬人を數へる。
二十九日、GHQは、東條英機元首相らA級戰犯二十八人の起訴状を發表。
三十日、マッカーサーの暗殺企圖容疑で、十八歳の少年が逮捕される。
昭和二十一年五月
一日、第十七回メーデー(十一年ぶりの戰後初のメーデー)。宮城前廣場が中央會場となり五十萬人が參加。全國で百二十五萬人が參加。
三日、極東國際軍事裁判(東京裁判)が開廷。東條英機元首相ら二十八名が、A級戰犯として起訴される。
同日、GHQは、鳩山一郎の公職追放を發表する。
四日、極東國際軍事裁判(東京裁判)の日本人辯護團長に鵜澤總明が就任する。
同日、外務省は、『憲法草案要綱に關する内外の反響(その二)』を發表。
同日、鳩山一郎が公職追放される。
七日、『教職員追放令』が施行され、四十萬人を再審査する。
十三日、GHQが中間賠償取立案を決定し、賠償取立の對象として十一財閥の施設を選定。
同日、極東委員會(FEC)は、『日本新憲法採擇に關する基準』を全會一致で決定。
すなはち、『日本新憲法採擇に關する基準』とは、
「新憲法の採擇に關する基準は、憲法が最終的に採擇されたときに、事實上、日本國民の意思の自由な表現であることを確保するやうなものでなければならない。この目的のためには、次のやうな原則が守られなければならない。
a 新憲法の條項を十分に論議し、考究するための、適當な時間と機會が與へられなければならない。
b 一八八九年の憲法から新憲法への完全な法的連續性が確保されなければならない。
c 新憲法は、それが日本國民の自由意思をaffirmativelyに表明するものであることを打ち出すdemonstrateやうな方法で採擇されなければならない。」
といふものであつた。
十五日、アチソンが對日理事會(ACJ)で「共産主義を歡迎せず」と言明。
十六日、「憲法議會」に似せた第九十回臨時帝國議會が四十日の會期で召集され、吉田茂に組閣命令が下る。
十七日、GHQは、食糧危機打開のため化學肥料の增産を指令。
十八日、極東國際軍事裁判(東京裁判)被告人の廣田弘毅の妻靜子が服毒自殺。
同日、GHQは、二百萬人の失業者救濟のため、昭和二十一年度豫算に公共事業費六十億圓を計上することを指令。
十九日、食糧メーデー(飯米獲得人民大會)開催。宮城前廣場に二十五萬人が參集。このとき、デモ隊は「朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね」のプラカードを使用(いはゆる「プラカード事件」)。
二十日、マッカーサーは、「暴民デモ許さず」と食糧メーデーに對する反對・禁止聲明を出す。この聲明で、食糧メーデーは「暴民デモ」として非難される。
二十一日、マッカーサーは、帝國憲法と新憲法の法的連續性の必要性などについて強調。
同日、『皇族の財産上の特權等廢止に關する覺書』を決定(發表は同月二十三日)し、さらに、皇族の財産上の免税特權などを剥奪する。
二十二日、第一次吉田茂(自由黨)内閣成立。
同日、政府は、新内閣が成立したことから、樞密院に諮詢中の『内閣憲法改正草案』を一時撤回した。
二十四日、停戰時以來二度目の天皇の「玉音放送」がなされ、食糧危機に家族國家の傳統で對處するやうにとの綸言を賜る。
二十七日、政府は、『内閣憲法改正草案』に若干の修正を加へ、再び樞密院の諮詢に付される。
二十八日、アチソンは、對日理事會(ACJ)で食糧メーデーに關して、「少數分子の扇動排除」を言明。
二十九日、樞密院は、『内閣憲法改正草案』の審議を再開。ここで吉田首相は、「自分としては、日本はなるべく早く主權を回復して速やかに占領軍に引き上げてもらふことが第一と思ふ。占領軍側の軍人やその家族にもかういつた聲は強い。G・H・Qは、Go Home Quicklyの略語だなどといふ者もゐる。」と述べ、獨立回復を促進するための講和の條件として占領憲法を制定するものであるといふ認識を示した。
三十一日、天皇、マッカーサーとの第二回會見。
昭和二十一年六月
一日、軍人、軍屬の恩給、年金、退職手當金等の支給停止の指令。
同日、民主主義科學者協會第二回總會開催され、憲法改正審議は帝國議會ではなく、特別の機關を設置して行ふべき旨を決議。
二日、極東委員會(FEC)は、天皇制維持案の確認(米主張の提案)を行ふ。
同日、イタリアでは、國民投票で王政の廢止を決定。
三日、樞密院は、天皇臨席の下で本會議を開催し、内閣憲法改正案の諮詢案を可決(美濃部達吉顧問官のみの反対)。
同日、十財閥の家族の個人的な金融活動の制限指令が發令。
四日、極東委員會(FEC)は、天皇制の存否に關して初めて討議に入る。
五日、日本ローマ字會は、漢字全廢推進を聲明。
八日、樞密院は、『内閣憲法改正草案』を無修正可決。
十二日、『占領軍の占領目的に有害な行爲に對する處罰等に關する件』公布。
同日、對日理事會(ACJ)が食料對策のため日本の漁區擴張を決定。
同日、極東委員會(FEC)は、「對日中間賠償計畫」を發表。
同日、英が對日理事會(ACJ)に農地改革案を提出。
十三日、イタリアが共和國宣言(王制廢止)。
十四日、GHQは、四月十三日付の「マッカーサー拒否通知」を極東委員會(FEC)に通告。
十五日、第一復員省と第二復員省が統合して復員廳となる。
十七日、對日理事會(ACJ)は、農地改革の徹底化を勸告。
十八日、キーナン極東國際軍事裁判所米國主席檢事は、ワシントンで「天皇を(戰爭犯罪人として)訴追しない」旨を言明。
同日、ソ連が極東委員會(FEC)に農地改革案を提出。
十九日、「憲法竝ニ諸法制ノ整備等ニ關シ輔弼ノ完璧ヲ期スタメ」として敕令の一部改正があり、閣僚の定員を一人增やして憲法問題專任國務大臣を置くこととなり、同國務大臣に金森德次郎が就任。
金森德次郎は、昭和九年の岡田啓介内閣における法制局長官であつたが、法制局參事官時代の著書『帝國憲法要綱』が天皇機關説によるものであるとの批判を受け、昭和十一年に辞任し、そのまま敗戰を迎へた人物である。辯舌に長け、比喩や機智を驅使し、巧みな云ひ廻しで論點をはぐらかして煙りに卷く詭辯の天才であり、その後の憲法審議における答辯回數は千三百六十五回を數へ、一回の最長答辯は一時間半に及んだほどの饒舌家であつた。
二十日、第九十回帝國議會開院。五月十六日に四十日の會期で召集されたが、政局の事情から大幅に遲れて、この日にやうやく開院式が行はれた。この開會院當日に、GHQ案をもとにした『内閣憲法改正草案』が衆議院に提出される。
二十一日、貴衆兩院で吉田首相の施政方針演説が行はれ、憲法改正に觸れた。そして、衆議院で最初の登壇者となつた社會黨の片山哲議員は、政府が相當廣範圍に修正に應ずる用意ありや、として具體的ないくつかの質問をしたが、この質疑は議場騷然たるうちに進行して大混亂となり、吉田首相の答辯が翌日に持ち越されて散會となつた。
同日、マッカーサーは、議會の憲法審議について極東委員會が三月二十日に示した『日本新憲法採擇に關する基準』の三原則を含む聲明を發表。その『議會における討議の三原則』の要點とは、①憲法各條の審議に關し充分な時間と機會が與へられるべきこと、②帝國憲法との法的連續性が保障されること、③かかる憲章の採擇が日本國民の自由に表明した意思であることを示すこと、が絶對に必要であるとするものであつた。
同日、バーンズが、日本の軍事力解體と非軍事化に關する四か國條約構想を提唱。
二十二日、午前において貴族院における施政方針演説に對する質疑があり、まづ、山田三良議員が憲法改正問題にふれた。天皇が元首であることを明記し、第九條第二項を削除せよなどの意見を述べて政府の所見を正した。また、佐々木惣一議員からは、天皇が君主たる地位にあり、それが萬世一系の特定の血統に由來することを變更する憲法改正はできるのか、と質疑した。吉田首相は、これに對し、帝國憲法は五箇條の御誓文に基づく原則が表現されたものであり、占領憲法の趣旨と相背馳しないものであると答へた。しかし、佐々木は、帝國憲法の條項と内容を改正するについて一切限界がないとする改正無限界説を唱へる「主權論者」であり、しかも、占領開始後いち早く内大臣府御用係に就任して改正作業に手を染めた者である。それゆゑ、この質問は、果たして要望意見なのか、反對意見なのか、あるいは學問的好奇心によるものかが形式上は不明であつた。
同日、午後から衆議院において、片山哲議員の質疑に對する政府答辯が行はれ、吉田首相は、「憲法改正案ニ對シマシテハ理論的ニハ廣ク議會ニ於テ修正權ヲ認メラレテ居ルコトハ勿論デアリマス」など答へた。
しかし、これは「理論的」に誤りである。「議會ハ憲法改正案ニ對シテハ可否ノ意見ノミヲ發表スヘク之ヲ修正シテ議決スルコトヲ得サルモノト爲ササルヘカラス」(清水澄)とするのが當時の通説であり、議會に修正權を與へることは第二の發議權を認めることとなり、天皇に專屬する憲法改正の發議權を侵害することになるからである。それゆゑ、議會で修正されて成立した占領憲法は、帝國憲法第七十三條に牴觸することになる。
同日、食糧メーデーのプラカードの製作者が不敬罪で起訴されるが(プラカード事件)、のちに名譽棄損罪に訴因變更され、最後は免訴となつた。
同日、GHQは、米國など戰勝國の漁業に惡影響を與へないやう制限をしてゐた日本の漁業水域を擴張。食料確保のため、『日本の漁業及び捕鯨業に認可された區域に關する覺書』により捕鯨操業區域の擴張を許可(第二次マッカーサー・ライン)。これでも、竹島周邊海域での漁業活動は制限させられてゐた。
二十三日、吉田首相は、憲法改正案の立案に關し、貴族院での施政方針演説への質問に對して、「唯茲ニ一言御注意ヲ喚起シタイト思ヒマスノハ、單ニ憲法國法ダケノ觀點カラ此ノ憲法改正案ナルモノヲ立案致シタ次第デハナクテ、敗戰ノ今日ニ於キマシテ、如何ニシテ國家ヲ救ヒ如何ニシテ皇室ノ御安泰ヲ圖ルカト言フ觀點ヲモ十分考慮致シマシテ立案シマシタ次第デアリマス。」と答辯した。
二十四日、衆議院において、德田球一議員が演説した。これは我が議會において共産黨議員による初めての演説であつた。その中に、「この憲法において、戰爭を放棄しようとしてゐるが、今後における民族の獨立及び安全の保障をどうするか。」といふ質問もあつた。鵺の如き共産黨の現状からすれば、今昔の感がある。また、これに對する金森德次郎國務大臣の答辯は、「國内ノ治安ノ維持ニ關スル問題ハ、自ラソレ以外ニ於テ方法ガアルモノト考へて居」ると答へたが、これも隔世の感がある。
二十五日、『内閣憲法改正草案』を衆議院本會議に上程(本會議は同月二十八日まで)。その開會の冒頭に志賀義雄議員(共産黨)から議事を延期すべしとの動議が提出される。理由は、德田議員の演説内容と同樣に、改正案が國民に周知徹底されてをらず改正の時期は熟してゐないことを理由とするものであつたが、この動議は起立少數で否決された。吉田茂首相は、憲法改正案の提案理由の演説を行ひ、憲法改正が、ポツダム宣言第十項後段の「日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」と、バーンズ回答の第五段落の「最終的ノ日本國政府ノ形態ハポツダム宣言ニ遵ヒ日本國國民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス」に基づく義務行爲であるとするのである。ただし、前記バーンズ回答の「最終的ノ日本國政府ノ形態」との部分については、前にも觸れたとほり、昭和二十年九月四日に第八十八回帝國議會で配布された『帝國議會に對する終戰經緯報告書』にも、この部分は、「最終的の日本國政府の形態」(平假名書き)として理解されてゐたが、昭和二十一年三月五日の『憲法改正案を指示された敕語』で「日本國政治ノ最終ノ形態」と曲筆されたことを踏まへて、「日本國ノ政治ノ最終ノ形態」として説明してゐる。
そして、この提案理由の説明後に直ちに質疑に入り、二十八日までの四日間、十一人の議員が本會議における質疑を行つた。各條項に關する各論にその多くの問答が費やされ、本質論であるところの憲法改正の根據と必要性等に關するものとしては、ポツダム宣言等の降伏條項に基づく「國際關係の整理」(吉田)とか「國際信義の實行」(金森)といふ程度の答辯で濟まされてしまつた。
二十六日、衆議院は、憲法改正第一讀會を實施。
吉田茂首相は、改正憲法九條は「自衞戰爭も放棄」と言明し、國體問題についても、北昤吉議員(自由黨)の質問に對し、「皇室ノ御存在ナルモノハ、是ハ日本國民、自然ニ發生シタ日本國體其ノモノデアルト思ヒマス、皇室ト國民トノ間ニ何等ノ區別モナク、所謂君民一如デアリマス、君民一家デアリマス・・・國體ハ新憲法ニ依ツテ毫モ變更セラレナイノデアリマス」と答辯した。さらに、金森德次郎憲法問題專任國務相は、主權在民と國體護持との關係において、「主權の所在については、主權は天皇を含んだ國民全體にある。」といふ詭辯により、この種の議論の回避に成功した。これを踏まへて質問に立つた北浦圭太郎議員(自由黨)は、憲法改正案の第一條から第八條までの八か條の天皇條項が全く形骸化してをり、天皇が元首であるための實が全くないものであることを、實のならない八重の山吹の花に喩へて、「山吹ノ花、實ハ一ツモナイ悲シキ憲法デアリマス」と嘆いた。この「山吹憲法」といふ言葉は、當時かなり有名になつた。
二十七日、衆議院では、森戸辰男議員が質疑に立つた。草案の前文には、「國會に於ける正當に選擧せられた代表者を通じて」とあるが、貴族院は明らかにこのやうな性格を持つてゐないのに新憲法を審議する適格者であるのか、といふ趣旨の質疑をした。これに對し、金森大臣は、「貴族院の適格性については、二つの角度から考へなければならない。政府は現在の憲法(帝國憲法)はそのまま嚴然と存在してゐると考へる。したがつて、現行憲法(帝國憲法)第七十三條によつてのみ改正は可能である。これは國内法の立場である。國際的の立場からいへば、ポツダム宣言によつて、國民の自由なる意思の表明に從つて、國の終局的政治形態をきめなければならないことになつてゐる。この二つが調和し得るならばよろしいことになる。ポツダム宣言の要請は、この草案の前文にあるとほり、國民の正當に選擧した代表者を通じて、自由なる議決をすることにあらうと思ふ。新しい衆議院總選擧の後においては、その要素は完全に包含されてゐる。發案權は天皇にあり、貴族院も關與するが、本體において國民の總意を適切に代表する機關が含まれてゐる限り、全體の手續が適當に運用せられますならば、ポツダム宣言と相反する結果を生ずることはないと思ひます。なほ、兩院の見解不一致の場合などについての質問については、我々は今左樣な場合を豫測してお答へをすることは適當でないと考へてをります。」と答辯した。
この問題は、占領憲法の效力論と關はりがある。占領憲法を有效とする前提に立てば、「非獨立」國家の「主權」といふ矛盾を認めることになること、貴族院には代表者としての適格性かないこと、占領憲法は帝國憲法と整合しないがポツダム宣言には適合することなるらしいといふ矛盾に遭遇することになるからである。
同日、A級戰犯として起訴されてゐた元外相松岡洋右が出廷中に肺結核が惡化して死去(享年六十六歳)。
二十八日、文部省は、號令・行進・體操などを非軍事的に行ふやうに通牒。
同日、衆議院では、最後の質疑として、野坂參三議員(共産黨)が登壇した。野坂議員の質疑の中で注目すべきは次の三點である。第一に、帝國憲法第七十三條の解釋の定説では、議會は可否を決するのみで修正權がないのにこれを認めるのであれば帝國憲法に牴觸し違法であり、法的連續性は認められなくなるとする主張である。これは、最初の登壇者であつた片山哲議員の質疑を受けてのものである。第二には、戰爭を侵略戰爭と自衞戰爭とに區別し、侵略戰爭だけを放棄し、自衞戰爭は放棄しないといふ主張である。そして、第三には、改正案前文にある「國民の總意が至高なるものである」との表現とその英文のそれ(Sovereignty of people’s will)とを比較して、これは「國民主權」(主權在民)を意味するものではないかとの指摘である。これに對し、吉田首相は、第一の點について、「私共ハ政府トシテ考フル所見ト議會ノ考ヘラレル解釋、此ノ兩方ニ依ツテ此ノ憲法改正ノ條項ノ根據ヲ確メタイト思ツテ居リマス」と答へるだけで回避した。次に、第二の點については、「國家正當防衞權ニ依ル戰爭ハ正當ナリトセラルルヤウデアルガ、私ハ斯クノ如キコトヲ認ムルコトガ有害デアルト思フノデアリマス。近年ノ戰爭ハ多クハ國家防衞權ノ名ニ於テ行ハレタルコトハ顯著ナル事實デアリマス。故ニ正當防衞權ヲ認ムルコトガ偶々戰爭ヲ誘發スル所以デアルト思フノデアリマス。又交戰權抛棄ニ關スル草案ノ條項ノ期スル所ハ、國際平和團體ノ樹立ニアルノデアリマス。國際平和團體ノ樹立ニ依ツテ、凡ユル侵略ヲ目的トスル戰爭ヲ防止シヤウトスルノデアリマス。併シナガラ正當防衞ニ依ル戰爭ガ若シアリトスルナラバ、其ノ前提ニ於テ侵略ヲ目的トスル戰爭ヲ目的トシタ國ガアルコトヲ前提トシナケレバナラヌノデアリマス。故ニ正當防衞、國家ノ防衞權ニ依ル戰爭ヲ認ムルト云フコトハ、偶々戰爭ヲ誘發スル有害ナ考へデアルノミナラズ、若シ平和團體ガ、國際團體ガ樹立サレタ場合ニ於キマシテハ、正當防衞權ヲ認ムルト云フコトソレ自身ガ有害デアルト思フノデアリマス。御意見ノ如キハ有害無益ノ議論ト私ハ考ヘマス。」として、自衞權及び自衞戰爭を完全に否定する見解を示した。そして、第三の點についてのまともな答辯はなく、金森德次郎も「日本國ノ憲法ハ日本國ノ文字ヲ以テ書カレ」たものが正文であると答辯するだけであつた。
同日、衆議院に帝國憲法改正案委員會(特別委員會)が設置され、『内閣憲法改正草案』は、議長指名による七十二名の委員(委員長には芦田均が互選)で審議することを付託した。
二十九日、GHQが、學校地理科目再開に關する覺書公布。これにより、地理の授業再開を許可。
昭和二十一年七月
一日、アメリカが舊南洋諸島ビキニ環礁で四基目の原子爆彈を實驗爆發。
同日、衆議院憲法改正特別委員會の審議が開始される。政府の細目説明と總括的質疑が七月十日まで行はれ、翌七月十一日から逐條審議となり、七月二十三日の第二十回委員會で質疑は終了した。その後、修正案懇談のための小委員會(祕密懇談會)が設置され、七月二十五日の第一回から八月二十日の最終回まで十四回の會合の後、八月二十一日に特別委員會が再開され採決がなされる。その詳細は、引用文獻等に委ねるが、つまるところ、これら一連の審議といふのは、いはば「翻譯委員會」にすぎなかつた。英文と邦文との對比表現、逐條解釋、字句の選定と訂正、各條項の意義と各條項間の整合性などの檢討といふ事務的作業が主な仕事であり、本質論に迫るものや本會議での質疑における爭點を越えるものは皆無であつた。また、本質的な部分、GHQの指示があることを仄めかしたと推測される部分については速記に留めず、あるいは速記録から削除されてゐる。
二日、GHQは、凍結中の國防獻金七億圓を社會救濟費に使用するやうに指令。
同日、極東委員會(FEC)特別總會が開催され、『新日本憲法の基本諸原則』を全會一致で採擇した。その主な内容としては、①主權は國民に存することを認めなければならないこと、②日本國民の自由に表明された意思をはたらかすやうな方法で憲法の改正を採擇すること、③日本國民は、天皇制を廢止すべく、もしくはそれをより民主的な線にそつて改革すべく、勸告されなければならないこと、もし、日本國民が天皇制を保持すべく決定するならば、天皇は新憲法で與へられる權能以外、いかなる權能も有せず、全ての場合について内閣の助言に從つて(in accordance with)行動すること、④天皇は帝國憲法第十一條、第十二條、第條十三條及び第十四條に規定された軍事上の權能をすべて剥奪されること、⑤すべての皇室財産は國の財産と宣言されること、⑥樞密院と貴族院を現在の形で保持することはできないこと、⑦内閣總理大臣その他の国務大臣は全て文民でなければならないこと(文民條項)、などである。
四日、フィリピンがアメリカから獨立(獨立宣言)。
同日、衆議院で衆議院憲法改正特別委員會の第五回目の審議がなされたが、GHQは、我が政府に對し、GHQの憲法審議において、これまで指示した修正不許の事項や制限事項について原則として變更がないことを傳へた。
六日、國名を「大日本帝國」から「日本國」へ改稱する。
同日、極東委員會(FEC)は、委員會決定をマッカーサーに履行するやう指令。
十日、ケーディスは、政府關係者から議會報告を受け、さらに改正點に關する樣々な指示を出した上、「主權在民」を明記することなどを命ずる。
十二日、衆議院帝國憲法改正案委員會(特別委員會)において、及川規委員(社會黨)は、國體とは「其ノ國家ノ最高ノ意思ヲ構成スル自然人ノ意思ガ誰ノ意思カ、國民全體ノ意思カ或ハ君主一人ノ意思カ」として、國體と主權とを混同した見解(主權國體)によつて質問したことに對する金森德次郎の答辯は、「我々ノ奥深ク根ヲ張ツテ居ル所ノ天皇トノ繋ガリト云フモノヲ基本トシテ、ソレガ存在シテ居ル、是ガ我々ノ信ズル國體デアル」「今仰セニナリマシタヤウナ國體ト云フ考ヘ方、少クトモ法律學者ノ相当ノ部分ニアツタコトハ明カニソレヲ認メマス、併シ日本ノ國民全體ガ法律ヲ知ツテ居ル譯デモナク法律學者ノ言葉ニ共鳴スル譯デモナク、必ズシモ斯樣ナ意味ニ於キマシテ、國體ヲ理解シテ居ツタカト云フコトハ頗ル疑ハシイ・・・ソコデ一番物ノ根本ニナルノハ私共ノ心デハアルマイカ」といふものであり、主權國體概念を否定して、それを政體とし、國體は心の問題であつて國體の變更はないといふ詭辯を通し續けるのである。
十五日、ケーディスは、憲法改正事項に關して、政府關係者と協議して指示を出す。
十七日、金森德次郎憲法問題專任國務相は、總理大臣官邸にてケーディスと會談。主權在民の明記など憲法の文言に對する具體的な指示を受ける(第一回目のケーディス・金森會談)。このとき、金森大臣は、憲法改正案の性質が帝國憲法との比較において次のとほりであると認識してゐることを説明した(金森六原則)。
この「金森六原則」とは、①從來の天皇中心の基本的政治機構は新憲法では根本的に變更されてゐる(從來の天皇中心の根本的政治機構を以て我が國の國體と考へる者があるが、之は政體であつて、國體ではないと信ずる)、②現行憲法(帝國憲法)に於て國民意思は天皇により具體的に表現されるが新憲法では然らず(新憲法では國民意思は主として國會を通じて具體的に表現される)、③天皇は新憲法に於ては象徴に止まる。象徴の本質は天皇を通じて日本の姿を見ることが出來ると云ふことに在るのであつて、國家意思又は國民意思を體現すると云ふやうな意味をもたない、④現行憲法(帝國憲法)では天皇は何事も爲し得る建前になつてゐるが、新憲法では、憲法に明記された事項以外は何事も爲し得ない(法律を以て其の權限を追加することも絶對に出來ない)、⑤現行憲法(帝國憲法)に於ける天皇の地位は天皇の意思又は皇室の世襲的意思に基くものと一般に考へられて居たが、新憲法に於いては、天皇の地位は全く國民主權に由來する、⑥政治機構とは別個の道德的、精神的國家組織に於ては天皇が國民のセンター・オブ・デヴォーション(center of devotion)であることは憲法改正の前後を通じて變りはない(國體が變らないと云ふのは此のことを云ふのである)、との六項目のことである。
二十二日、東京裁判で支那側の初證人として元北京市長が證言する。
二十三日、衆議院が、憲法改正小委員會を設置(審議は二十五日から八月二十日まで)。
同日、ケーディス・金森會談(第二回)。ケーディスは金森からの審議過程の報告を受け、條項に關する詳細な指示をする。「主權在民」の明記を再度指示する。
同日、GHQは、制限會社による他の會社の證券の保有制限・役員兼任禁止などを指令。
同日、GHQの言論統制と檢閲を容認することと引き換へに存續を許されたマスメディア各社によつてGHQ檢閲を下請けする傀儡團體「社團法人日本新聞協會」が設立(現在も存續)。
二十五日、衆議院憲法改正特別委員會の小委員會(委員長・芦田均)第一回會合が開かれる(祕密懇談會)。そして、八月二十日の最終回までの議事は原則として速記に付されたが、この速記録は、印刷されないまま衆議院事務局に保管され、五十年目の平成七年になつてやうやく公開された。國民主權の占領憲法であれば、むしろ當初から公開されて然るべきなのに、非公開とされたのは明らかに矛盾がある。
二十六日、東京裁判で、南京大虐殺事件(南京事件)の被害者が證言。
同日、衆議院憲法改正特別委員會の小委員會第二回會合。五十年後に公開されたこの委員會の會議録によれば、「此ノ小委員會ノ議事ヲ非公開トセシハ、議事ノ重要性ト『デリケート』ノコトニ鑑ミテ、或ル段階ニ達シテ外部ニ發表スルコトガ出來ルヤウニナルマデハオ互ヒニ愼重且ツ『デリケート』ニ取扱フト云フ爲デアツタト理解シテ居ルノデアリマス」(鈴木義男委員)といふ認識が支配してゐた。この「デリケート」といふのは、GHQからの要請とそれを拒否できないといふ事情のことである。さらに、「相當英文ト云フモノガ重要ナ部分トシテ殘ルト思ヒマス、『マッカーサー』ノ方デモ、此ノ前文ニハ相當筆ヲ下シテ居ルト云フコトヲ聞イテ居リマス」、「併シ事實ニ於テハ既ニ『マッカーサー』ノ方デ筆ヲ入レ、練ツタモノデスカラ、之ヲ無視スルコトハ出來ナイト云フコトガ最近段々分ツテ參リマシタ」(笠井重治委員)といふ認識からして、マッカーサー草案を忠實に翻譯することが小委員會に課せられた使命であつたことが明らかとなつてゐる。
二十九日、ケーディス・入江會談。ケーディスは、入江敏郎内閣法制局長官に對し、これまでのGHQの指示内容を確認した上で再度具體的な指示を出す。
同日、衆議院憲法改正特別委員會の小委員會において、國籍條項(第十條)が挿入される。
昭和二十一年八月
一日、右派勞働組織として總同盟が結成。
同日、内務省警保局公安課が公安第一課と公安第二課に分離。
二日、解散諸團體の財産に關する覺書公布。主な内容は、偕行社、水行社の資産處分の禁止など。
六日、ケーディス・入江會談、ホイットニー・入江會談。字句修正の協議と指示。
十一日、第二次農地改革案發表。
十三日、工作機械・發電所・造船など八部門五百五工場をGHQの管理下に置くことを指令。
十四日、吉田茂首相は、ラジオ放送で「十五日は再建出發の日」と演説する。
十五日、吉田茂首相は、NHKラジオで「戰爭を放棄する格好の機會」と發言。
十七日、國民學校の訓導に「ローマ字教へ方講習會」を實施。
十八日、吉田茂が自由黨總裁に決定。
十九日、左派勞働組織として産別會議が結成。勞働運動の分裂が固定化された。
二十一日、GHQは、「日本人の榮養状態は好轉」したと發表。
同日、衆議院憲法修正特別委員會が再開され、憲法共同修正案(小委員會の修正案及び附帶決議案)を承認して審議が終了し、衆議院本會議が開會されるが、草案第八十四條(皇室財産の國歸屬)の修正などに關する紛糾のため、樋貝衆議院議長の不信任決議案が提出されて議題となつた。贊成、反對の討論の末、翌二十二日夜、同不信任決議案は、贊成百七十九票對反對二百二十七票で否決された。
二十三日、樋貝衆議院議長辭任。後任に山崎猛議員が議長に就任。
二十四日、衆議院本會議が山崎新議長の下で開かれる。芦田委員長の報告演説の後、修正案の審議に入り、委員長報告に對する討論を經て、憲法共同改正案が可決。直ちに貴族院に送付。内閣は、直ちに終戰連絡事務局の協力を得て、衆議院の修正可決案の英譯文を作成してGHQに提出。
二十六日、極東委員會(FEC)は、日本の民事・刑事裁判權が連合國の軍人・民間人に及ばない旨決定。
同日、貴族院本會議に「修正内閣憲法改正草案」が上程(本會議は同月三十日まで)。吉田首相は、衆議院と同樣の提案理由の説明をなし、衆議院における修正を政府は同意すると付言した。
貴族院における質疑の主な論點は、改正手續の必要性と手續、國體と主權の所在、天皇の地位、戰爭放棄など、衆議院でのものと大差はなかつた。宮澤俊義議員は、國體に關しては二通りの意味があり、治安維持法に云ふ國體は變更されたが、文化總體としての國體は變更してゐないとする二分法で説明し、それを金森大臣が支持した。
三十日、貴族院は、帝國憲法改正案特別委員會を設置(審議は十月三日まで)。
昭和二十一年九月
一日、マッカーサーは、日本の炭鑛國有化問題の審議を提案。
十一日、GHQは、連合軍將兵が日本人の財産に與へた損害の賠償請求權を否定。
二十三日、復員廳などが、集計の結果として海外殘留者數を二百七萬人と發表。
二十四日、マッカーサーの命によりホイットニー民政局長とケーディスが吉田茂を訪問。成年者による普通選擧と國務大臣の文民規定について指示。文民規定については衆議院の審議において決着したはずのものが、極東委員會からの強い要請であるとされた。
これは、極東委員會において、政府案(衆議院可決案)の第九條が曖昧であるとの判斷から、武裝解除の實效性を高めるには、内堀(第九條)だけではなく外堀(文民條項)が必要であると判斷したためである。支那「事變」は「戰爭」でないとしたやうに、戰爭抛棄條項だけでは將來における軍事行動を阻止しえないとの懸念(中國代表)を踏まへてのものである。
同日、GHQは、財閥解體に關する具體的な方針を發表し、三大財閥所有の證券類を持株會社整理委員會に移管。
二十五日、極東委員會(FEC)は、憲法問題に關する追加決定を發表。「極東委員會は、新日本憲法の基本諸原則において定められた、すべて閣僚は文民であらねばならぬとの從前の決定を再確認し、更に政策の問題として、參議院は衆議院に對してなんらの優先性を持つてはならないと決定する。委員會は、このやうな優先性が定められないことを確保するために施行法をきわめて注意深く檢討する權利を引續き有することを重要と考へる。」とするものである。
同日、文民規定(占領憲法第六十六條第二項)に關して、政府は、貴族院に對し、衆議院での長い審議日數を要したことから早急に成案とするために、これを貴族院の特別委員會での修正とすることにし、衆議院の方は必ずその修正で成立させるとの方針により貴族院に指示した。
二十六日、貴族院では、特別委員會での質疑を終了。
二十七日、ケーディス・佐藤會談。ケーディスは、佐藤達夫に對し、二十四日での修正事項に關する具體的指示と協議を行ふ。
二十八日、貴族院の特別委員會で憲法改正小委員會(祕密懇談)を設置(二十八日から十月二日まで四回開催)。
三十日、三井・三菱・安田、正式解散を決定。
昭和二十一年十月
一日、米國務省は、『降伏後の日本の政治指導者の展望』發表。
同日、ニュルンベルク國際軍事裁判で判決(ゲーリングやリッベントロップら十二人が絞首刑。十六日に刑が執行された。)。
同日、東芝電氣全勞連(産別會議系)がゼネストに突入。これを契機として、日本新聞通信放送勞組放送支部、全炭勞、日本映畫演劇勞組、電産勞組、國鐵總連などの産別會議系勞組が續々と呼應してゼネスト體制を確立させ、いはゆる「十月闘爭」に突入。
同日、貴族院の帝國憲法改正案特別委員小委員會(第三回)において、宮澤俊義(貴族院議員)は、「・・・憲法全體ガ自發的ニ出來テ居ルモノデナイ、指令サレテ居ル事實ハヤガテ一般ニ知レルコトト思フ。重大ナコトヲ失ッタ後デ此處デ頑張ッタ所デサウ得ル所ハナク、多少トモ自主性ヲ以テヤッタト云フ自己僞瞞ニスギナイ・・・」と發言し、帝國憲法改正作業がGHQの指令に基づく「自主性の假裝(自己僞瞞)」であることを告白した。
三日、貴族院特別委員會が『修正内閣憲法改正草案』を修正可決。
五日、貴族院本會議開會。安倍委員長の報告、質疑、討論がなされる。佐々木惣一議員は、反對意見を述べ、①わが國の「政治的基本性格」(國體)は變更してはならないこと、②「天皇ヘノ協力機關ノ徹底的改革ヲ行フコトヲ越エテ定時的基本性格タル國體ノ變更ニ進ムコトハ不必要」であること、③改正案では、終戰の際の御聖斷のやうに國家緊急時において「天皇ニ特殊ノ重大天職ノアルコトヲ見落シテ」ゐること、④天皇に責任を負はしめないために、天皇を政治に關し無能力とする必要があるといふのは大きな誤解であり子供だましの説明にすぎないこと、⑤改正案では天皇無答責任の規定が忘れられてゐること、⑥改正案では「天皇ヲ媒介トスル三權分立ノ機關ノ心理的歸一ト云フコト」についての注意がなされてゐないこと、⑦ポツダム宣言は、民主主義的な政府體制を求めてゐるにすぎず、君主制から共和制へ轉ずることを求められてはゐないこと、⑧國體には二つの觀念があるが、萬世一系の天皇が統治權を總攬されるといふ國柄が變更すれば、精神的、倫理的方面から見た國柄もやはり變更せざるを得ないこと、を指摘し、改正案全面反對の意見があることを公に表明することの意義を力説した。
この佐々木惣一の行つた反對演説の評價について、現在の保守論壇には、これを絶贊する傾向があるが、全く別の評價もある。佐々木の學説は憲法改正無限界説であり、國體の變更も可能である。それゆゑに、ここでの佐々木演説は、「變更してはならぬ」といふ個人的な情念によるものであり、決して無限界説の學説を放棄したものではない。「國體を破壞することは許されるが、個人的にはそれを希望しない。」といふ見解に過ぎない。これは立法政策論であつて憲法論ではない。無限界説は、そもそも、主權論であり、國體論とは全く相容れないのである。そのため、むしろ、この演説は、佐々木の痛切な懺悔に基づくものと言ふべきであらう。前述したとほり、佐々木は、非獨立の占領下において、近衞文麿の要請に應じて内大臣御用掛に任命され、近衞とともに憲法改正案の起草にあたり、昭和二十年十一月二十四日、「帝國憲法改正ノ必要」といふ改正案を天皇に奉答し、貴族院議員として翌二十一年から「日本國憲法」の審議に參加したのである。非獨立の占領下において、憲法改正は許されないことを全く自覺せずして、眞つ先駈けて帝國憲法の改正を試みたのが佐々木であり、これは學者としても政治家としても萬死に値する誤りを犯したものと言へる。「改正が可能であるといふ論理」と「改正を不可とする情念」との矛盾に滿ちた葛藤を抱きながら、自らが占領下で改正を行ふ嚆矢となつた立場を恥じて、これまでの軌跡を痛切に懺悔する心で行つた演説であつたと受け止めなければ、このやるせない思ひを拭ひ切れないではないか。これは、まさに「狼少年の悲哀」であり、餘りにも時機を逸した自己顯示欲の發露にすぎなかつた。
六日、貴族院本會議は、送付憲法改正案を修正可決した。このとき、GHQは、貴族院での審議に時間をかけて審議未了により憲法改正案を廢案にしようとする動きを牽制するために、帝國議會の大時計が午後十一時五十五分を指したときに、この大時計を止めて、名目上は同日に可決させることを強要した。この事實を知つた貴族院では、審議未了による廢案に追ひ込むのは不可能であると斷念して審議を繼續し、實際に修正可決したのは、翌朝(夜明け)であつた。そして、直ちに衆議院に再び回付された。
七日、衆議院は、これを特別委員會に付託することもなく本會議に上程し直ちに起立方式で採決を行つた。「五名ヲ除キ、其ノ他ノ諸君ハ全員起立、仍テ三分ノ二以上ノ多數ヲ以テ貴族院ノ修正ニ同意スルコトニ決シマシタ。之ヲ以テ帝國憲法改正案ハ確定致シマシタ」との議長の宣告がなされ、最後に吉田首相の挨拶がなされた。ここで反對の五名とは、共産黨議員四名と細迫議員であつたと傳へられてゐる。
八日、文部省は、式日における教育敕語捧讀の廢止を通達。
九日、マッカーサーは、不敬罪訴追を牽制する聲明を出す。この牽制聲明は、『アカハタ』の天皇批判記事が契機となつたもの。
十一日、マッカーサーは、第二次農地改革二法案成立に際して聲明。
十二日、『帝國議會において修正を加へた帝國憲法改正案』を樞密院に諮詢。
同日、『日本史科目再開に關する覺書』公布。
十四日、このころ、外務省の終戰連絡事務局と法制局との協議によつて、成立した帝國憲法改正案の英譯文を作成する。GHQの指令により、昭和二十一年四月四日から昭和二十七年四月二十八日まで「英文官報」(英語版官報)が發行されてをり、それに掲載するためのものである。この「英文官報」に掲載された「英文占領憲法」が現在でも市販のいくつかの六法全書に掲載されてゐる。
同日、GHQは、『國民學校(小學校)の日本歴史の授業再開を許可する覺書』を提示。
十六日、天皇、マッカーサーとの第三回會見。
十七日、極東委員會(FEC)は、『日本の新憲法の再檢討に關する規定』といふ政策決定を行ふ。これは、三月二十日の極東委員會(FEC)のなした『日本憲法に關する政策』において、「極東委員會は草案に對する最終的な審査權を持つてゐること」を前提とすると、既に成立したとする新憲法について事前審査がなされてをらず、それが果たして七月二日の『新日本憲法の基本諸原則』における「日本國民の自由に表明された意思をはたらかすやうな方法で憲法の改正を採擇すること」の要件からして、帝國議會の承認がこれに該當するのかについて、極東委員會が最終審査權による新憲法の承認又は不承認を判斷するためにも、日本國民に對し、その再檢討の機會を與へるべきであるとの見解を示した。アメリカは、帝國議會の承認がポツダム宣言第十二項の「日本國國民の自由に表明せる意思」であるので、極東委員會において最終審査として承認されるべきとし、ソ連はこれに不承認として反對したことから、承認か不承認かを棚上げにする案として、占領憲法施行一年目から一年間(昭和二十三年五月三日から同二十四年五月二日までの間)に「再檢討」といふことになり、占領憲法は、極東委員會の最終審査を經ずに實施されることになつた。しかも、昭和二十一年十月七日に帝國議會で改正案が成立した十日後であり、公布前のこの時期になされた「再檢討」決定は、「憲法の權威を損なふ」との反對があり、マッカーサーも翌二十二年一月三日の書簡を以て吉田首相にも趣旨の異なる通知をしただけで、公表はされなかつた。ここでいふ「憲法の權威」とは、占領憲法が正統かつ正當な憲法であることを臣民に僞装することを維持することであり、「權威の假裝」の意味である。假裝が必要なのは、占領憲法が「日本國國民の自由に表明せる意思」に基づかないことが露見することを阻止しなければならないからである。この決定が公表されたのは、二・一ゼネストの中止命令がなされた萎縮效果も覺めやらぬ占領憲法施行直前の昭和二十二年三月二十日であつた(新聞報道は同月三十日)。
同日、宮城前廣場で「生活權確保・吉田内閣打倒國民大會」が開催され、五十萬人が參加。ここで德田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。勞働者はストライキを以て、農民や市民は大衆闘爭を以て、斷固、吉田亡國内閣を打倒しなければならない。」と檄を飛ばした。
十九日、樞密院の第一回審査委員會が開催。
二十一日、農地調整法改正。自作農創設特別措置法公布(第二次農地改革開始)。
二十二日、文部省は、ローマ字綴りに訓令式採用を決定。
二十三日、文部省は、京大や高等師範での英才教育を廢止。
二十九日、樞密院本會議で『修正憲法改正草案』を全會一致で可決(ただし缺席者二名)し、昭和天皇が憲法改正を裁可。公布の上諭文を閣議で決定。
三十一日、公布の上諭文の上奏、裁可。その後、ケーディスは、政府に對し、獨自の英文原稿による公布の上諭文を交付。政府側が説明と説得を盡くした結果、ケーディスはホイットニーと協議した上でこれを撤回。
昭和二十一年十一月
二日、「プラカード事件」の松島松太郎に名譽毀損で懲役八か月の判決。
三日、『日本國憲法』(占領憲法)公布(施行は翌二十二年五月三日)。『日本國憲法公布の敕語』は、「本日、日本國憲法を公布せしめた。この憲法は、帝國憲法を全面的に改正したものであつて、國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたものである。即ち、日本國民は、みづから進んで戰爭放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が實現することを念願し、常に基本的人權を尊重し、民主主義に基いて國政を運營することを、ここに、明らかに定めたものである。朕は、國民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化國家を建設するやうに努めたいと思ふ。」といふものであつた。この公布日の決定についても、GHQの承認を得たものである。
同日、對日理事會のアメリカ(ジョージ・アチソン)とイギリス(マクマホン・ボール)の新憲法發布を歡迎する聲明、吉田首相の放送、各政黨の聲明などがなされる。
四日、ウイリアムズ民政局國會課長が、國會法についての意見を發表。國政の中心機關性、國民による議會の監視などに言及。
六日、GHQは、『隣組による神道の保證、支援に關する覺書』公布。町會や隣組による神道の神社や祭典に對する後援・支持が禁止された。特に「隣組」を利用した神社の寄付金集めを嚴禁した。
八日、政府は、公職追放の範圍を地方にも擴大する。
十六日、對日賠償ポーレー最終報告發表。
同日、政府は、當用漢字千八百五十字と現代かなづかひ(占領假名遣ひ)を告示する。
同日、『警察官の武裝に關する覺書』が公布され、警察官の拳銃携帶が許可される。
二十二日、GHQは、學校給食用に日本陸軍貯蔵食肉五千トンを供給と發表。
二十五日、第九十一回(臨時)帝國議會召集(十一月二十六日開會、十二月二十五日閉會)。
二十六日、三井・岩崎など十大財閥の全資産を持株會社整理委員會に移管。これにより、十財閥の家族の資産凍結措置を指令。
昭和二十一年十二月
一日、帝國議會は、「憲法普及會」を組織する。
この憲法普及會は、衆貴兩院議員を評議員とし、評議員と院外者(學者、ジャーナリストなど)の中から理事を選任し、会長は芦田均(衆議院議員)、事務局長は永井浩(文部官僚)が就任。院外者の理事には、河村又介(九大・憲法)、末川博(立命館・民法)、田中二郎(東大・行政法)、宮澤俊義(東大・憲法)、横田喜三郎(東大・國際法)、鈴木安蔵(憲法)などの學者の他、ジャーナリスト、評論家では、岩淵辰雄、小汀利得、長谷部忠などが就任した。この中央組織の下に各都道府縣に支部が翌年一月から三月までにつくられ、京都支部以外の支部長は各都道府縣知事が就任し、その支部事務所は各都道府縣廳内に設置された。まさに、占領憲法による洗腦運動の「大政翼賛會」であり、その活動はGHQの指圖に基づいたものであつた。
六日、極東委員會(FEC)は、『日本の勞働組合に關する十六原則』を決定。
十一日、『臨時物資需給調整法に關する覺書』を公布。これにより、戰後經濟における物資統制の基本方針を提示。
十八日、極東委員會は、『日本の勞働組合奬勵に關する十六原則』を決定。占領目的を阻害する勞働運動の禁止など。
十九日、GHQとソ連が、在ソ邦人引揚げ協定を調印。
二十日、佛軍がベトナムのホー・チ・ミン政權との暫定協定を破棄してハノイを占領。ホー・チ・ミンは對佛徹底抗戰を宣言し、第一次インドシナ戰爭に突入する。
二十六日、GHQは、對日理事會(ACJ)ソ連代表と日本人の引き揚げについての協定に調印。この協定により、GHQはソ連抑留者歸國數を月五萬人と發表。
二十七日、閣議で、石炭・鐵鋼中心の「傾斜生産方式」(石炭・鐵鋼超重點增産計畫)に轉換を決定(傾斜生産方式の開始)。
同日、第九十二回帝國議會召集(十二月二十八日開會。翌昭和二十二年三月十日再開、三月三十一日解散)。
同日、吉田茂が、大逆罪・不敬罪の存置要求についてマッカーサー宛に書簡送付。
昭和二十二年一月
一日(元旦)、マッカーサーが、國民に試練突破を強調する聲明を出す。
同日、吉田茂首相は、年頭の辭をラジオで放送し、大規模なゼネストを指向する勞働運動の左派指導部に關して、「一般に勞働問題の根本も、生活不安、インフレが目下の問題であり、これが解決は生産の增強以外にないのであります。然るに、この時にあたり、勞働爭議、ストライキ、ゼネストを頻發せしめ、市中にデモを行ひ、人心を刺激し、社會不安を激發せしめ、敢へて顧みざるものあるは、私のまことに心外に耐えぬところであります。然れども、私はかかる不逞の輩が我が國民中に多數あるとは信じませぬ。」といふやうな發言をした。この「不逞の輩」發言が非難されて問題化し、來るべき二・一ゼネストへの發火點となる。
三日、マッカーサーが吉田茂宛に更なる憲法改正についての書簡を送る。
「施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本の人民ならびに國會の正式な審査に再度付されるべきであることを、連合國は決定した。もし、日本人民がその時點で憲法改正を必要と考へるならば、彼らはこの點に關する自らの意見を直接に確認するため、國民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであらう。」といふ内容のもの。
これは、極東委員會(FEC)が昭和二十一年三月二十日に採擇した『日本憲法に關する政策』において、マッカーサーによる憲法制定手續がポツダム宣言に定める「日本國國民の自由に表明せる意思」に反するとしてそれ以後はマッカーサーと對立してゐたことを反映するものであるが、マッカーサーは、この決定を極東委員會(FEC)の決定とせずに、連合國の決定と表記した。
四日、公職追放令を改正し、對象を三親等・言論界・地方公職などに擴大。(第二次公職追放)。
六日、産別會議と國鐵總連は、吉田首相の元旦における「不逞の輩」發言の取り消しと謝罪を求める抗議文を發表。
同日、日本共産黨第二回全國協議會において、德田球一は、「ゼネストを敢行せんとする全官公勞働大衆諸君の闘爭こそは、民族的危機をますます深めた吉田亡國内閣を打倒し、民主人民政權を樹立する全人民闘爭への口火である。」と吠えた。
七日、GHQは、支那からの百五十萬人の引揚げ計畫を完了と發表。
九日、全官公廳共闘の擴大闘爭委員會がスト戰術對策委員會を運輸省内で開催し、ゼネスト決行の期日を二月一日とすることを決定。
十一日、全官公廳勞組共闘委員會(組合員二百六十萬人)が「スト態勢確立大會」を宮城前廣場で開催し、委員長伊井彌四郎がゼネスト決行宣言を行ふ。その後、四萬人の參加者が宮城前から首相官邸に向けてデモ行進。
十五日、二・一ゼネスト計畫のために、産別會議、總同盟、全官公廳共闘など三十組合によつて全國勞働組合共同闘爭委員會が結成(四百萬人)。
十六日、GHQは、占領軍將兵の日本人家庭訪問時限を午後十一時までと指令。
同日、占領典範、皇室經濟法、内閣法が各公布。
十七日、憲法普及會の常任理事會が首相官邸で開催され、GHQ民政局員のハッシーとエラマンが出席。全國を十區域(東京、關東、北陸、關西、東海、中國、四國、九州、東北、北海道)に分け、各地區で四日ないし五日間の日程で講師による中堅公務員の研修を實施することを決定。
十八日、全官公廳勞組擴大共闘委員會委員長伊井彌四郎が、二月一日午前零時を以て無期限ゼネストに突入することを發表。
二十四日、東京裁判の檢事側立證が終了。
二十五日、中央勞働委員會が第一回政勞交渉の斡旋を實施するが、吉田首相は風邪を理由に缺席し、斡旋が實施されず。
二十八日、宮城前廣場で「吉田内閣打倒 危機突破國民大會」が開催。中勞委による政勞交渉の第二回斡旋が實施されるが、斡旋案を共闘側が拒否。共産黨と社會黨が祕密連絡會議を開催し、このとき、德田球一は、「たとへ米軍の機關銃の前に死のうとも斷じてゼネストを決行する」と強い決意表明をしたとされる。
二十九日、吉田首相は、社會黨に對し、連立政權を打診。社會黨はこれを拒否。
三十日、中勞委の仲介により、政府と共闘側との直接交渉がなされるが、交渉決裂。
三十一日、德田球一は、共産黨本部前で、「ゼネストを先頭とする、この大闘爭こそが生産增強のムチとなり、同時に反動勢力を一掃する強力な力を結集することになるのである。全人民が、この點を見失はざることを望むと同時に、この勞働者の一大闘爭に合流し、自己の一切の要求をかけて、闘爭されんことを望むものである。」との聲明を發表。
同日、午後四時、マッカーサーは、連合國最高司令官權限に基づき「二・一ゼネスト」の中止命令を發令。これを受けて、全官公廳勞組擴大共闘委員會伊井彌四郎議長は、GHQに出頭を命ぜられ、全組合員に對し、NHKラジオを通じてゼネスト中止を表明するやうに強制され、この命令を受け入れた。そして、「聲が涸れてゐてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですから、よく聞いてください。私は今、マッカーサー連合國最高司令官の命により、ラジオを以て親愛なる全國の官吏、公吏、教員の皆樣に、明日のゼネスト中止をお傳へいたしますが、實に、實に斷腸の思ひで組合員諸君に語ることを御諒解願ひます。敗戰後日本は連合國から多くの物質的援助を受けてゐますことは、日本の勞働者として感謝してゐます。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。一歩後退二歩前進。」と涙ながらにNHKラジオで中止の呼びかけを行ふ。この「一歩後退二歩前進」といふのは、レーニンの著作である「一歩前進二歩後退」を捩つた言葉である。この放送を行ふことを最後まで迷つた伊井は、NHKの放送室に向かふ狹い廊下で何故か德田球一と出會ふ。そして、この時、伊井は、德田球一から、「ストをやめると放送しなくてはダメですよ。」と説得されたといふ。そして、共闘委員會解散。後に、伊井は占領政策違反で逮捕され、懲役二年が言渡される。
このやうに、占領憲法の制定から施行に至るまでの經緯は、この二・一ゼネストの中止命令に至るまでの勞働運動の經過と、東京裁判の起訴から判決に至るまでの經過とが三つ巴となつて、これらを包攝した占領統治のうねりの中で同時進行的に推移したものと云へる。
昭和二十二年二月
二日、十八歳未滿の孤兒、全國で十二萬三千五百四人を數へると厚生省が發表する。
七日、マッカーサーは、吉田茂宛書簡で總選擧實施を指示。
十日、第九十二回帝國議會再開。國會法案などの憲法付屬法案の審議のため。
同日、イタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが連合國と講和。各國が領土割讓と賠償を認める。
十五日、家督相續税が廢止。贈與税が新設。
同日、憲法普及會が東大法學部三十一番教室で六百六十四名の公務員(各省廳及び警察廳から約五十名づつ)を集めて憲法研修會を實施(同月八日までの四日間)する。その演題は、「開講の辭」(会長・芦田均)、「新憲法と日本の政治」(会長・芦田均)、「近代政治思想」(東大講師・堀眞琴)、「新憲法大觀」(副会長・金森德次郎)、「戰爭放棄論」(東大教授・横田喜三郎)、「基本的人權」(理事・鈴木安蔵)、「國會・内閣」(東大教授・宮澤俊義)、「司法・地方自治」(東大教授・田中二郎)、「家族制度・婦人」(東大教授・我妻榮)、「新憲法と社會主義」(代議士・森戸辰男)、「閉講の辭」(事務局長・永井浩)といふものである。
二十日、GHQは、輸出品へ「Made in Occupied Japan(占領下の日本製)」の記載を指令する。
二十四日、參議院議員選擧法公布。
同日、東京裁判で辯護團反證に入り冒頭陳述を行ふ。
二十五日、マッカーサーは、吉田茂宛に大逆罪の廢止に關する書簡を送る。
二十六日、GHQは、狩獵期間を短縮し、かすみ網を禁止する。
昭和二十二年三月
三日、新憲法普及計畫發表。
四日、GHQは、南方軍事裁判で絞首刑が三十人と發表。
八日、請願法公布。
同日、國民協同黨結成(書記長・三木武夫)。
十二日、トルーマン米大統領は、ソ連封じこめと共産勢力擴大阻止をねらふ「トルーマン・ドクトリン」を發表。
十四日、GHQは、舊日本軍艦の半量を「屑鐵化」と發表。
十七日、『選擧運動の文書圖畫等の特例に關する法律』公布。
同日、改正參議院議員選擧法公布。
同日、マッカーサーは、「日本の軍事占領は速く終はらせ、對日講和を結んで總司令部を解消するべき。講和は一年以内が良い。」との早期對日講和の聲明を出す。
十八日、アジア極東經濟委員會設置。
二十日、極東委員會が昭和二十一年十月十七日になした占領憲法の「再檢討」決定が公表される(新聞報道は同月三十日)。
二十二日、米國で公務員の忠誠テストが實施される(「赤狩り」の開始)。
同日、マッカーサーは、吉田茂宛書簡で、食糧危機克服のための經濟安定本部による總合處理の必要性を勸告。
二十三日、四月の總選擧に占領軍が監視班を編成すると新聞で報道される。
二十四日、GHQは、養殖眞珠を戰後初めて米國に出荷する旨を發表。
二十七日、極東委員會(FEC)は、日本の新憲法再檢討に關する指令をマッカーサーに通知した旨を發表。マッカーサーは、吉田茂宛書簡で極東委員會(FEC)の憲法再審査條項の政策決定について通告。
二十九日、政府は、投票棄權防止に職場半休を全國に通達する。
三十日、極東委員會が昭和二十一年十月十七日になした占領憲法の「再檢討」決定が新聞報道される。
三十一日、改正衆議院議員選擧法公布され、衆議院解散。
同日、第一回農地買收が實施される。對象農地は、十一萬七千四百二十四ヘクタール。
同日、財政法、教育基本法、學校教育法が各公布。
同日、民主黨結成(總裁・芦田均)。
昭和二十二年四月
一日、町内會、部落會、隣組、國民學校を廢止。
同日、新小・中學校による六・三制發足。
二日、國連安全保障理事會は、舊日本委任統治領の南太平洋諸島をアメリカの信託統治領とする案を可決。
九日、東京裁判の被告人大川周明が精神鑑定で審理除外となる。
十一日、極東委員會(FEC)は、日本の教育制度の刷新に關する指令を出す。
十四日、獨占禁止法公布。
十六日、マッカーサーは、吉田茂宛書簡で最高裁判所判事の任命に關して示唆。
同日、裁判所法公布。
同日、マクマホン・ボール(對日理事會英連邦代表)は、本國のオーストラリア外相宛書簡(公電)で、日本の終戰連絡中央事務局總務部長(朝海浩一郎)から十萬人規模の再軍備の必要性に關する打診が非公式にあつたことについての報告を行ふ。
日本側は、來るべき講和條約の調印によつて連合軍が撤退することによつて生ずる軍事的空白を埋め、密入國、密貿易、ゼネスト危機などを回避するため、防衛と治安維持の觀點からの再軍備の必要性を説いてゐた。
十八日、『日本國憲法施行の際に現に效力を有する命令の規定の效力等に關する法律』公布。
十九日、民法、民事訴訟法、刑事訴訟法の應急的措置法が各公布される。
二十日、第一回參議院議員選擧實施(社會47、自由39、民主29、國民協同10、共産4、諸派13、無所屬108)。社會黨が第一黨になるも、過半數に屆かず。
二十一日、この日發表の『GHQ占領報告』によれば、一月の圓・ドル實勢レートは百對一。
二十五日、第二十三回衆議院總選擧實施(社會143、自由131、民主124、國民協同31、共産4、諸派20、無所屬13)。婦人議員が三十九人から十五人に減少する。
二十七日、マッカーサーは、總選擧結果について「國民は中庸を選んだ」との聲明を發表。
二十八日、極東委員會(FEC)は、憲法改正に關して新たな指令を出さないことを決定。
三十日、樞密院、皇族會議を廢止。
同日、都道府縣會、市區町村會議員選擧が實施される(第一回統一地方選擧)。
同日、國會法公布(議員法廢止)。
同日、ホイットニーが『内務省の分權化に關する覺書』を提示(これにより内務省の解體を決定付けた。)。
昭和二十二年五月
一日、『皇室典範及皇室典範增補廢止ノ件』。翌二日限り廢止。
同日、山形縣酒田市の東京裁判出張法廷で、石原莞爾が證言。石原莞爾はこの法廷で「自分が戰犯でないのは納得できない」と發言。
二日、『外國人登録令』(敕令)公布。
同日、マッカーサーは、吉田茂宛書簡で、國會などにおける國旗掲揚を許可。
同日、樞密院官制廢止の件、官吏服務規律改正、各公布。皇室祭祀令廃止。
三日、『日本國憲法』(占領憲法)、『皇室典範』(占領典範)施行。『憲法施行後に有效な政令に關する件』公布。
このときの昭和天皇の大御歌は、「うれしくも國の掟のさだまりてあけゆく空のごとくもあるかな」の一首であり、また、歳晩には「冬枯れのさびしき庭の松ひと木色かへぬをぞかがみとはせむ」、「潮風のあらきにたふる濱松のををしきさまにならへ人々」の二首がある。
六日、天皇、マッカーサーとの第四回會見。
八日、GHQは、食糧十五萬トンの放出を許可。これにより、五月は遲配なしの見込みがたつ。
十三日、東京裁判で「南京事件(南京大虐殺)」の審理が開始される。
十七日、參議院無所屬議員五十八人が「緑風會」を結成。
同日、石橋湛山蔵相ら三閣僚が公職追放になる。
二十日、第一次吉田茂内閣が總辭職し、特別國會召集。
同日、「緑風會」の構成議員數が九十二人に增大。參議院最大勢力となる。
二十一日、GHQは、日本の呼稱として「帝國」の使用を禁止する。
二十三日、衆參兩院は、社會黨委員長片山哲を首相に指名。
二十四日、マッカーサーは、社會黨書記長片山哲の訪問を受け、片山がキリスト教徒であること喜ぶ聲明を出す。また、片山に「日本は東洋のスイスとなるべきだ」と言ひ、「東洋のスイスたれ」が流行する。
昭和二十二年六月
一日、片山哲内閣成立。日本社會黨、民主黨、國民協同黨の連立で初の日本社會黨首班内閣が成立。内閣總理大臣片山哲(日本社會黨委員長)、内閣官房長官西尾末廣(日本社會黨幹事長)、外務大臣(副總理)芦田均(民主黨總裁)、文部大臣森戸辰男(日本社會黨)、農林大臣平野力三(日本社會黨)、商工大臣水谷長三郎(日本社會黨)、運輸大臣苫米地義三(民主黨)、逓信大臣三木武夫(國民協同黨)など。
三日、文部省は、學校における宮城遥拜、天皇陛下萬歳、天皇の神格化的表現の停止などを通達。
同日、GHQは、戰後初の乘用車生産を許可する。このときの生産許可臺數は三百五十臺。
五日、米政府は、歐洲復興の『ヨーロッパ危機に對するアメリカの行動(マーシャル・プラン)』を發表。
九日、閣議で、食糧確保・賃金や物價の全面改定など八項目の經濟危機突破緊急對策を決定。
十二日、GHQは、財閥の最高機構は完全に解體されたと發表。
昭和二十二年七月
一日、公正取引委員會發足(委員長・中山喜久松)。これにより、獨占禁止法(私的獨占の禁止及び公正取引の確保に關する法律)の一部を施行。
三日、國務相が、濳在合はせ失業者八百萬人と答辯。
同日、GHQは、三井物産と三菱商事の徹底的解體を指令。政府は、この指令をうけて兩社の所有株券を押收する。
四日、初の『經濟白書』發表。副題は「財政も企業も家計も赤字」。
十一日、マッカーサーの進言により、米國政府が連合國に對し、對日講和會議の開催を提案。
十二日、歐米十六か國のパリ會議開催(マーシャル・プラン受け入れ決定)。
十三日、マッカーサーは、米本國の歐洲重視に反發し、「日本處理の基本的な方針である軍の撤廢と非武裝化は完全に達成されてをり、向かふ百年間、日本は近代戰を行ふための再軍備はできないだらう。」との聲明を出す。
十五日、民間檢閲支隊(CCD)の第四地區(朝鮮半島)の本部(ソウル)の業務が第二十四軍團司令官に移管される。
二十日、獨占禁止法が全面施行。
二十一日、銅像追放第一號として、「軍神」廣瀬武夫像を撤去。
二十二日、ソ連が米國提案の對日講和會議に反對。
三十日、戰災復興院は、全國の家屋復興は二十六パーセントと發表。
三十一日、出版・新聞の公職追放が擴大され六十七社を追加。
昭和二十二年八月
二日、中學校用副讀本『あたらしい憲法のはなし』、高校用副讀本『民主主義の手引』を發行。
『あたらしい憲法のはなし』の「六 戰爭の放棄」には、「こんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。『放棄』とは、『すててしまう』ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度と起こらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。」と書かれてゐた。
同日、放送分野の事前檢閲が廢止。自主檢閲と事後檢閲に移行。
四日、最高裁判所發足(初代長官・三淵忠彦)。
十四日、パキスタンがイギリスから獨立(イギリス連邦内)。
十五日、インドがイギリスから獨立(イギリス連邦内)。
同日、GHQと政府の強力な監督下に民間貿易が再開。
二十一日、米領事館にGHQ將兵と日本人女性との結婚八百二十二組が屆け出る、と新聞で報道。
昭和二十二年九月
一日、GHQの指令で「ラジオ體操」が中止される。
十六日、マッカーサーが、片山哲首相に、警察組織の徹底した地方分權化を命ずる書簡を発する。
十八日、GHQは、給食用粉ミルク四百七十四トンを放出。
二十四日、GHQは、小型鐵鋼輸送船十五隻の建造を許可。
二十五日、公職追放された清水澄元樞密院議長が熱海の錦ヶ浦で投身自決される。美濃部達吉や宮澤俊義など變節學者が殆どであつた憲法學者の中にあつて、國體護持のため祖國再興の人柱となられた唯一の人士であつた。その遺書は次のとほりである。
「自決ノ辭
新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團體及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戰爭責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ擇ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ
元樞密院議長 八十翁 清 水 澄 法學博士
昭和二十二年五月 新憲法實施ノ日認ム
追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十數年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト從テ龍顏ヲ拜シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ從テ戰爭ヲ御贊成ナカリシコト明ナリ」
昭和二十二年十月
一日、第六回國勢調査實施。調査の結果、總人口七千八百十萬千四百七十三人。東京都五百萬七千七百七十一人。大阪府三百三十三萬四千六百五十九人。
同日、「帝國大學」の名稱が廢止される。
四日、自由黨の三代議士が、天皇の地方巡幸を椰楡した雜誌『眞相』を不敬罪で告發。
六日、文部省は、教育漢字八百八十一字を發表。
七日、政府は、財界・報道關係九百九十一人を公職追放。
九日、政府は、新警察制度を指示する「マッカーサー元帥書簡」を發表。内容は、自治體警察の獨立や公安委員會設置など。
十日、キーナン主席檢事が「天皇と實業界に戰爭責任はない」と表明。
十一日、ヤミ米を拒んで配給生活を守つた山口良忠東京地裁判事が極度の榮養失調のため死亡(享年三十三歳)。餓死により殉職された唯一の判事であり、その死は、我が國が連合國に軍事占領されて獨立を奪はれた「戰爭状態」下での戰死(殉國、公務死)と評價される。
十三日、初の皇室會議において、秩父宮、高松宮、三笠宮の三宮家を除く十一宮家五十一人の皇籍離脱を決定。
十五日、書籍の檢閲については、極右・極左出版物を專門とする十四社を除いて、事前檢閲から事後檢閲に移行する。
十六日、GHQは、NHKの公共化と民放開設を示唆。
十七日、GHQが、米航空會社に日米定期線の運營許可。
二十一日、國家公務員法公布。公務員を「公僕」と規定し、國家公務員の團體行動などを制約する。
二十六日、改正刑法公布により、不敬罪・姦通罪廢止となる。
昭和二十二年十一月
四日、片山哲首相が、初の罷免權を發動し、平野力三農相を罷免。
平野力三と片山哲の因縁は深い。平野力三は農民運動家として、片山哲らと共に日本農民組合を結成したが、昭和七年に平野力三が國家社會主義的運動方針を主張したことから片山哲らは分裂脱退して日本農民組合總同盟を結成した。その後、平野力三の日本農民組合は、在郷軍人と農民との提携をめざし皇道會を結成し、「一君萬民の國體原理」による日本主義農民運動を展開する。そして、敗戰後に再び日本社會黨、日本農民組合で片山哲と合流したが、昭和二十二年七月二十五日、今度は平野力三らが日本農民組合から分裂し、全國農民組合を結成したことから、片山哲は、平野力三の非協力を理由に農林大臣を罷免したといふのである。
また、GHQが平野力三を公職追放した理由は、戰前に皇道會の結成に關與したことを口實とするものであつた。しかし、罷免とその後の公職追放の背景には、GHQ内部の二大派閥の抗爭が原因してゐる。それは、プレスコードの實施などの情報の收集と操作を擔當する「參謀部」の「第2部」(G2)と、政治行政を擔當する「幕僚部」の「民政局(Government Section GS)である。G2は、諜報・保安・檢閲などを任務とし、占領統治中に起きた數々の怪事件や疑獄事件などは、その傘下の特務機關(キャノン機關など)が關與したとされる。そして、民政局(GS)は、我が國の非軍事化と民主化を假裝した弱體化の政策を主導する部署であり、ルーズベルト大統領のニューディール政策に關はつてきた者が多數存在した。路線的には、G2は、米ソ對立に備へて舊指導部と舊軍部の温存を受け入れる反共産・自由主義であり、GSは徹底した日本弱體化を圖る容共主義であつた。尤も、ルーズベルトとトルーマンが率ゐる民主黨政權が容共的體質であつたことから、その核心部分であつたニューディール政策關與者が多く存在するGSには容共分子が多かつた。
そして、G2では、部長であるウィロビー少將を中心とする職業軍人が中心となり、また、GSでは、次長のケーデイス大佐を中心としたニュー・デイーラーのグループが中心となつてゐた。このやうな勢力對立構造の中で、日本社會黨の委員長片山哲と幹事長西尾末廣とはケーディスと接近し、日本自由黨の吉田茂はウィロビーに接近するといふ枠組みができる。そこで、平野力三は、反共右派が主流となつて組閣した片山内閣において、同じく右派の吉田茂から平野に對し十月に「保守新黨」結成の呼びかけがあつたことも原因してか、ケーディスが擁護する政權基盤の弱い片山内閣の安定を脅かす發言を繰り返すなどしたこともあつて、GSの怒りを買つたことが排除の原因であると考へられてゐる。そもそも、占領憲法の公布に伴ふ昭和二十二年四月の總選擧の結果、與黨の日本自由黨は第二黨となり、日本社會黨が第一黨となつた。その際に、社會黨は政權には參加するが社會黨からは首相を出さず日本自由黨との連立により吉田茂の續投を企圖した反共主義の西尾末廣の提案に對し、「憲政の常道」を強調し、容共の社會黨左派の存在を批判して、あへて總辭職して野に下つた。このことも、GSとG2の對立が背景にあり、この平野力三の罷免と公職追放に連なつた遠因でもあつた。
十一日、米第八軍司令官が、「日本は米國の防壁」と演説。
十四日、天皇、マッカーサーとの第五回會見。
二十日、衆議院において、「臨時石炭鑛業管理法案(炭鑛國家管理法案)」で大混亂となる。
二十二日、衆議院において、「臨時石炭鑛業管理法案(炭鑛國家管理法案)」をめぐり亂闘。
二十六日、中ソが、對日理事會で教科書『くにのあゆみ』の中ソ關係記載の改訂を要望。
二十八日、民主黨分裂。
三十日、歌舞伎の上演禁止が解除され、「假名手本忠臣蔵」の通し狂言が東京劇場で興行される。
昭和二十二年十二月
七日、政府は、菊池寛ら百八十五人の公職追放を發表。
八日、『臨時石炭鑛業管理法(炭鑛國家管理法)』成立。
九日、GHQは、食糧管理法四法案を強行通過させるために、會期最終日のこの日、占領憲法制定時の場合と同樣に、國會本會議場内のすべての時計を止めて會期切れによる廢案の事態を防ぎ、翌十日未明に法案を強引に成立させた。
十五日、雜誌の檢閲について、要注意リスト所載の二十八誌を除いて、事前檢閲から事後檢閲に移行する。
十七日、舊『警察法』成立(中央集權的國家警察組織を否定した地方分權的自治體警察組織を内容とするもの)。
二十二日、改正民法公布(家制度の廢止)。
二十七日、GHQが、新年の日の丸掲揚を許可する。
三十日、東京裁判で東條英機元首相の尋問始まる。
三十一日、内務省を廢止。
昭和二十三年一月
一日(元旦)、宮城一般參賀が二十三年ぶりに復活。元日と二日の兩日で約十三萬人が參賀に參加した。
同日、改正民法施行。
四日、ビルマがイギリス連邦を離脱して獨立宣言。
六日、ロイヤル米陸軍長官が、日本を共産主義(全體主義)の防壁にすると演説(ロイヤル演説)。
七日、財閥同族支配力排除法公布。
十三日、前農相の平野力三が公職を追放される。
十九日、社會黨大會において、書記長に右派の淺沼稻次郎が選出。
十八日、米政府が、「干しあんず」一萬餘トンの對日輸出を命令。
二十一日、參議院副議長松本治一郎が、第二回國會開會式で天皇に對する「カニの橫ばい式」拜謁を拒否して缺席。
二十四日、文部省は、朝鮮人學校の設立を認めず、日本人の學校への就學義務を通達。
昭和二十三年二月
二日、平野力三が東京地方裁判所に對し、平野力三に對する公職追放指定の效力發生停止の假處分申請をなし、同地裁(民事十四部)の新村裁判長は、これを敢然と受け入れて申請を認容し、追放處分停止の假處分決定を發令する。これに對し、片山内閣は、この東京地裁の假處分決定が司法權による行政權の纂奪であつて違憲であると聲明を出した。GHQ(GSのホイットニー局長)も三淵忠彦最高裁判所長官(初代)を呼びつけ、この假處分命令を取り消させろと迫つたが、正規の訴訟手續によらずに取り消せないとしたものの、公職追放事件につき我が國の裁判所は管轄權を有せずとの談話を發表することを承諾して、その旨を發表した。
同日、GHQは、炭鑛勞働者と供出米完納農家に、米國製タバコを配給すると發表。
四日、GHQが、外國投資家の來日と恆久的居住を許可。
同日、セイロン(スリランカ)がイギリスから獨立。
五日、GHQ(ホイットニー)は、平野力三の假処分事件について、直接に東京地方裁判所の所長に命じて、二日の假處分決定を取消させ、假處分申請を却下する決定をなさしめた。つまり、この時點においても「司法の獨立」を含む占領憲法の實效性は全く否定されてゐたことになる。まさに、司法の獨立はおろか、司法を含め、他の全ての國家機關がGHQの隷屬下にあつたといふ嚴然たる事實があつたといふことである。
七日、新警察制度發足。
十日、片山哲内閣が、社會黨の左右兩派の對立により、九か月で總辭職。芦田均内閣成立(民主、社會、國民協同)。
十一日、地方自治體警察が発足。
十六日、内閣が、義務教育漢字八百八十一字を告示。
同日、米國は、岸信介らA級戰犯容疑者の裁判を放棄。
二十一日、衆議院が芦田均を、參議院が吉田茂を、それぞれ首相に指名。兩院協議會が開催される。
二十六日、韓半島北緯三十八度線以北に朝鮮民主主義人民共和國が成立(主席・金日成)。アメリカはこれを非難。
昭和二十三年三月
一日、東京都は、この日までに都内三百七十四か所の「八紘一宇」など戰意高揚碑銘の撤去を完了。
四日、GHQが祝祭日の日の丸掲揚を許可。
九日、米國は、第二次ストライク報告を發表。日本の對米賠償規模縮小を發表。日本の經濟復興支援へと方針轉換。
十日、芦田均内閣成立(民主、社會、國民協同三黨の連立内閣)。
十五日、自由黨に民主黨幣原派が合流して民主自由黨結成(總裁・吉田茂)。
十六日、日本新聞協會が、編集權は經營者が行使と聲明。
二十四日、ストライク報告の賠償撤去工場リスト發表。
昭和二十三年四月
一日、ベルリン封鎖が始まる。
三日、南朝鮮での單獨選擧に反對し、濟州島全域で武裝蜂起。完全鎭壓は八年後。
七日、世界保健機關(WHO)發足。
十七日、英占領軍が、松江市の神社から小銃六百丁、高射砲十一門など大量の武器を發見したと發表。
二十四日、在日朝鮮人數千人が朝鮮人學校閉鎖に抗議し兵庫縣廳を包圍。これにより、米兵庫軍政部は、初の「非常事態宣言」を神戸に發令。翌日、朝鮮人千七百三十二人を逮捕して取り調べを開始。
二十七日、海上保安廳設置法公布。同法公布につき、英、ソ、中は武裝軍復活のおそれありと批判を表明するも、アメリカが強行。
昭和二十三年五月
一日、海上保安廳設置。巡視艇二十八隻、職員一萬人が配備される。
三日、文部省と朝鮮人連盟との間で、「朝鮮人學校問題」が決着。在日朝鮮人連盟(朝連)が、閉鎖校をあらためて私立校として設立申請。
五日、文部省は、朝鮮人學校を私立學校として正式認可。
同日、ソ連から引揚げ再開、サハリンの千五百九十二人が函館港へ到着。
六日、天皇、マッカーサーとの第六回會見。
同日、シベリアからの引揚者二千一人が舞鶴港に到着。
十日、國連監視のもとで、南朝鮮で單獨總選擧が實施される。
十八日、ドレーパー賠償調査團が報告書發表(ドレーパー報告)。日本の賠償額は、ストライク報告のときよりも緩和され、約六億六千二百二十四萬圓。
二十七日、トルーマン米大統領が、「マッカーサー元帥のアメリカ歸國を希望」と表明。
昭和二十三年六月
十九日、衆參兩院において、教育敕語、軍人敕諭、戊申詔書などの失效・排除に關する決議案を可決。これは、米國防總省の強い意向と極東委員會の決定を踏まへたGHQ民政局(GS)の指令に基づくものである。
二十日、法務廳總裁(現在の法務大臣)鈴木義男は衆議院議長松岡駒吉に、極東委員會の決定に副つた憲法改正の要否についての審査を申入れる。
二十一日、極東委員會は、日本人技術者の海外渡航を許可。
二十四日、ソ連は、陸路を完全に遮斷し「ベルリン封鎖」(二十六日より米英など生活物資空輸を開始)。
二十六日、米英などは、封鎖された西ベルリンに對し、生活物資の空輸を開始。
昭和二十三年七月
一日、宮内府は、「宮城」の呼稱廢止し、「皇居」とする。
同日、GHQは、米軍票交換率を一ドル=五十圓から二百七十圓に改訂。即日實施。
同日、北朝鮮からの引揚げが終了。總計約三十二萬人。
九日、文部省教科書局長通達『學習指導要領社會科編取扱について』發出。これは、昭和二十年十二月十五日付のいはゆる神道指令に基づき、國公立の小中學校が主催して神社佛閣、教會を訪問することを全面的に禁止する内容のもの。
十日、「新刑事訴訟法」公布。
十三日、優生保護法公布。これにより、人工妊娠中絶などの條件が緩和される。
十五日、GHQは、全國の主要な新聞社・通信社に限つて事前檢閲を廢止して事後檢閲に移行し、經濟安定十原則を提示。
十七日、大韓民國憲法公布(二十日、初代大統領に李承晩を選出)。
二十五日、GHQは、日本の對英輸出は全額英貨建てにするやう指令。
三十一日、政令二百一號公布。これにより、公務員の團體交渉權・爭議權などが否認される。
昭和二十三年八月
十二日、埼玉縣軍政部が、「不正と暴力の一掃」を縣知事に指令。埼玉縣本庄町では暴力團、町議、官憲のなれあいが日常化してゐたとして、これを記事にした朝日新聞記者が暴行・脅迫を受けた事件(本庄町事件)が軍政部の知るところとなり、この事件に嫌惡の念を抱いた軍政部は、再發なきやうに嚴重指令を出したのである。
十三日、韓半島に大韓民國成立。支配地域は北緯三十八度線以南。
その『大韓民國憲法』(昭和二十三年七月十二日制定、同月十七日公布の制憲憲法)は、同年五月十日の總選擧後、同年六月一日の第一回國會で設置された「憲法起草委員會」が、憲法草案を國會に提案する形式で進めて制定された。その前文には、「悠久の歴史及び傳統に光輝く我が大韓國民は、己未三一運動で大韓民國を建立して世界に宣布した偉大な獨立精神を繼承し、これから民主獨立國家を再建するに際し、正義人道及び同胞愛により民族の團結を鞏固にし、すべての社會的弊習を打破し、民主主義諸制度を樹立して政治、經濟、社會、文化のすべての領域において各人の機會を均等にし、能力を最高度に發揮させて各人の責任と義務を完遂させ、内には國民生活の均等な向上を期し、外には、恆久的な國際平和の維持に努力して我々及び我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを決議し、我々の正當かつ自由に選擧された代表により構成された國會で檀紀四千二百八十一年七月十二日この憲法を制定する。」とあり、三・一獨立運動後の大正八年(1919+660)四月に上海で設立された大韓民國臨時政府(亡命政府)の「獨立精神を繼承」するとして、新國家としての獨立を宣言した。
同日、讀賣新聞が、昭和二十三年六月二十日に鈴木法務廳總裁が松岡衆議院議長に、極東委員會の決定に副つた憲法改正の要否についての審査を申入れたことに關する鈴木法務廳總裁の談話を掲載する。
これ以後、翌九月にかけて新聞各紙もこれに關連した報道を行ふ。再檢討事項として指摘されてゐたのは、天皇制の存廢、天皇の退位、大臣呼稱の廢止、私學助成の容認、國家公務員の團結權・團體交渉權の保障などである。
十五日 大韓民國の獨立式典。
十七日、GHQ、金融制度の全面改革に關する覺書交付。
十八日、GHQは、造船所での外國船の修理・改裝を許可。
二十二日、米空軍は、ジェット戰闘機の配備を開始。
昭和二十三年九月
二日、GHQは、石油管理權を我が政府に移讓すると發表。
三日、スト權否認のマッカーサー書簡は「要求」であり、立法權侵害はなく政令二百一號は合憲であるとの政府見解が示される。
九日、朝鮮民主主義人民共和國(北朝鮮)が樹立。首相には金日成が就任。
十日、GHQ民政局長は、全逓の傾斜闘爭方式に警告。
二十三日、GHQは、外國雜誌の配給自由化を許可。
昭和二十三年十月
七日、芦田内閣が、昭和電工事件の影響で總辭職。
十九日、第二次吉田茂内閣(民主自由黨)成立。
二十八日、GHQは、占領軍に關する流言で日本人六人に重勞働などの刑を科すと發表。
二十九日、A級戰犯・豐田副武らの軍事裁判開廷。
三十日、文部省は、高校國定教科書『民主主義』を刊行。
同日、札幌に民間檢閲支隊(CCD)の第四地區(北海道)本部が開設される。
昭和二十三年十一月
二日、米大統領選でトルーマン再選。
三日、國連總會で、對日獨講和條約作成の要請を決議。
四日、極東國際軍事裁判所で、判決の言渡開始(同月十二日まで)。
九日、GHQが、商用に限り日本人の海外渡航を許可。
十一日、GHQが、賃上げ抑制のため賃金三原則を發表。
十二日、極東國際軍事裁判所で、A級戰犯二十五名に有罪判決。(うち、東條英機元首相ら七被告に絞首刑判決)。すなはち、A級戰犯として起訴された二十八名のうち、絞首刑七名、終身禁固刑十六名、有期禁固刑二名、裁判中の病死等三名であつた。また、B級戰犯(戰爭犯罪命令者)及びC級戰犯(戰爭犯罪實行者)で起訴された五千四百十六名のうち、死刑九百三十七名、終身刑三百五十八名、有期刑三千七十五名であつた。
三十日、政令第二百一號を受け國家公務員法改正(公務員のストライキを禁止)。
昭和二十三年十二月
七日、芦田元首相を贈收賄容疑で逮捕。
八日、民政局次長チャールズ・ケーディス大佐が對日政策轉換を阻止するため歸國(昭電事件の餘波から逃れる爲と噂された)。
十日、國連總會で、『世界人權宣言』を採擇。
十一日、吉田首相が、非米活動委をまねた「非日活動委員會」の設置を研究中と答辯。
十八日、米政府が、GHQを通じて對日自立復興の「經濟安定九原則」を我が政府へ指示(對日政策轉換)。
十九日、マッカーサーが、我が政府に「經濟安定九原則」の實行を指示。
二十三日、衆議院で、内閣不信任案可決。衆議院解散(なれあひ解散)。
同日、巣鴨拘置所で東條英機元首相ら七被告に絞首刑執行。
二十四日、GHQは、岸信介、笹川良一、兒玉譽士夫ら未決のA級戰犯容疑者十九人を釋放。
昭和二十四年一月
一日(元旦)、GHQは、「日の丸」を自由に掲揚することを許可する。
同日、『年齡のとなえ方に關する法律』施行(數へ年から滿年齡へ)。
五日、米政府は、占領豫算の半額を我が國に割當てると言明。
六日、李承晩が、日本の朝鮮侵略に賠償請求すると言明。
十日、天皇、マッカーサーとの第七回會見。
十二日、東京軍政部が、公立學校は窓ガラスを購入し寒風から兒童を守るようにと警告。
十三日、政府は、「日の丸」の旗を希望配給すると決定。
十四日、GHQは、外國からの對日投資を制限つき許可。
二十一日、GHQは、東京にユネスコ事務所設置を許可。
二十二日、GHQは、我が國への遺骨小包輸送を許可。
同日、マッカーサーは、米陸軍省長官に對し、連合國は日本人民に憲法改正を強要する行爲をすべきでないと具申する。
二十三日、第二十四回衆議院議員選擧實施(民自264、民主69、社會48、共産35、國民協同14)。民主自由黨が過半數で壓勝。社會黨は慘敗。官僚出身者(民自)が多數當選。これにより、現在も續く政黨と官僚の提携による「保守安定政權」が誕生する。共産黨が四議席から三十五議席へと大躍進を遂げたのは、「愛される共産黨」の幻想が浸透したことと、二・一ゼネスト中止命令に對する不滿などを吸收した結果である。
二十四日、參院副議長の松本治一郎らが公職追放される。
二十七日、GHQは、生産の阻害許さずと勞使に言明。
昭和二十四年二月
一日、GHQ經濟顧問としてドッジが來日。
十三日、東京軍政部が、教員の共産黨選擧ビラ配布は違法で解雇の理由になると發表。
十六日、第三次吉田茂内閣成立。民主黨連立派から二名の入閣者を迎へて發足。大蔵大臣に池田勇人を任命し、「經濟安定九原則」の實施を強調する政策方針を發表する。
二十五日、米陸軍長官が、日本攻撃の際は米軍反撃と言明。
昭和二十四年三月
一日、マッカーサーが、日本は「太平洋のスイス」になり中立を維持するやう期待すると言明。
七日、GHQ經濟顧問のドッジ公使が、「經濟安定九原則の實施に關する聲明(ドッジ・ライン)」を發表。これにより、デフレ政策によりインフレは收束したが、企業金融の逼迫による倒産と失業者の增加などの安定恐慌に突入した。
十五日、極東委員會は、A級戰犯の裁判打ち切りを發表。
二十七日、GHQは、戰時中に剥奪した外國特許權の返還を發表。
昭和二十四年四月
四日、團體等規正令公布。左翼政治團體にも構成員の屆け出を義務づけるなどの取り締まりが強化される。
同日、ワシントンのアメリカ國務省講堂で西側十二か國が北大西洋條約に調印。これにより、八月二十四日に「NATO(北大西洋條約機構)」が發足。
二十三日、GHQは、『圓に對する公式爲替レート設定の覺書』を交付。これにより、一ドル=三百六十圓の「單一爲替レート」が設定された(同月二十五日實施)。
二十八日、極東委員會は、全體會で「日本の新憲法について新しい指令を出さない」旨を決定し、占領憲法の再檢討をしないことが確定した(同月三十日付け朝日新聞)。
昭和二十四年五月
三日、マッカーサーが占領憲法施行二周年における次のメッセージを發表。
「・・・この二年間の成果は誠に大きい。この間を通じ諸君は新しい憲法の定めるところをよく理解し、これを自分の生活にとり入れるようになった。・・・ポツダム宣言によって明らかにされた連合國の諸目的は既に多くの重要な面において達成されている。」(同日付け朝日新聞)
同日、ケーディスが米陸軍省に正式に辭表提出。
四日、GHQは、日本製DDTの配給統制を解除。
六日、ドイツ連邦共和國(西ドイツ)臨時政府が成立。ドイツの分斷決定。
十二日、極東委員會の米代表が、我が國に對する賠償取り立てを打ち切ると聲明。
十四日、東京證券取引所が再開する。GHQの證券取引許可を受けて、この日に東京證券取引所が開所式を實施。十六日から營業した。このときの東證上場は六百八十一銘柄。
二十日、ソ連は、日本人捕虜全員九萬五千人を年内送還と發表(我が國側の計算では四十萬餘人)。
二十三日、吉田茂首相が、衆議院で講和は意外に早そうと答辯する。
二十四日、ドイツ連邦共和國(西ドイツ)成立。
昭和二十四年六月
十日、京濱東北線・橫濱線で、勞働組合管理の「人民電車」が運轉される。東京驛の煙突上で學生が國電のスト中止を要求し、煙突の天邊から「學校に行けないので早く(ストを)やめて」と演説。スト自體は、GHQの命令で翌日の早朝に中止されるが、この學生は約十七時間も煙突上に居續けた。
十八日、吉田茂首相は、教育敕語に代はる「教育宣言」作成を文教審に諮問。
二十一日、GHQは、「軍政局・軍政部」を「民事局・民事部」に改稱と發表。
二十四日、優生保護法改正で經濟的理由での中絶合法化。
二十七日、ソ連シベリアからの引揚げ再開。引揚げ第一船の「高砂丸」が舞鶴に入港。歸國後に共産黨に集團入黨したことが話題となる。
昭和二十四年七月
一日、GHQは、大學教授五十人に米國奬學制度での一年間留學を許可。
四日、マッカーサーは、「日本は共産主義進出阻止の防壁」との共産主義批判の聲明を出し、共産黨の非合法化を示唆。
六日、下山事件(國鐵初代總裁下山定則怪死)。
八日、天皇、マッカーサーとの第八回會見。
十三日、ローマ法王は、共産主義者破門の教令を出す。
十五日、三鷹事件(國鐵無人電車暴走)。
二十二日、GHQは、東京中心に極東空軍演習實施を發表。
昭和二十四年八月
五日、米國務長官が、對極東外交政策五原則を發表。
十日、出入國管理令(ポツダム政令)公布。
十二日、マッカーサーは、米議會の一時歸國要請に拒否を表明。
十七日、松川事件(國鐵列車脱線轉覆)。
二十六日、アメリカのシャウプ税制使節團團長が、「第一次税制改革勸告文概要(シャウプ勸告)」をGHQへ提出。
二十九日、ソ連が、中央アジアのカザフスタン砂漠で原爆の實驗に成功。
昭和二十四年九月
九日、GHQは、昭和二十五年以降の芋類の統制撤廢を許可する。
十五日、シャウプ税制使節團が税制の拔本的改編を發表(シャウプ勸告)。全文が日本語で發表される。
二十一日、我が國の漁獲域を東へ擴張(北緯四十度東經百六十五度、北緯四十度東經百八十度、北緯二十四度東經百八十度、北緯二十四度東經百六十五度の線内)。
二十三日、米大統領は、ソ連の原爆實驗を公表。
二十五日、ソ連は、二年前から原爆を保有してゐたことを認める。
昭和二十四年十月
一日、毛澤東が中華人民共和國(以下「中共」といふ。)成立を宣言。後に蒋介石の國民政府は廣州から臺灣へ逃亡。
同日、琉球米軍政長官にシーツ少將が就任。
四日、プレスコード撤廢。
七日、ドイツ民主共和國(東ドイツ)成立。
十日、衆議院特別委員會で、引揚者の就職は半數と政府答辯。
十一日、GHQは、帝國石油が秋田縣八橋油田西方に石油含有の可能性ある岩層を發見と發表。
十三日、優生保護法で強制斷種は許容と法務府見解。
十八日、GHQが、昭和二十年九月以來の放送番組の檢閲を廢止。
十九日、GHQが、日本人戰犯の軍事裁判完了と發表。死刑七百人餘、終身刑二千五百人。
同日、政府は、全國五十八の朝鮮人學校の閉鎖指令。
二十四日、GHQが、新聞通信の事後檢閲を廢止。
二十五日、GHQが、自動車の生産販賣制限を全面解除。
同日、文部事務次官通達『社會科その他、初等および中等教育における宗教の取扱について』發出。これは、昭和二十三年七月九日發出の文部省教科書局長通達を受けて、「學校が主催して、靖國神社、護國神社(以前に護國神社あるいは招魂社であつたものを含む)および主として戰没者を祭つた神社を訪問してはならない。」と命ずるもの。
昭和二十四年十一月
一日、米國務省が、「對日講和條約について檢討中」と聲明。講和案に賠償、領土割讓がないことが報道される。
三日、湯川秀樹ノーベル物理學賞受賞。
四日、GHQが、各界代表百五十人の渡米計畫を發表。
九日、政府は、「憲法上は自衞戰爭も放棄」と答辯。
二十六日、天皇、マッカーサーとの第九回會見。
二十七日、米軍政府任命の沖繩議會が初會合を開く。
昭和二十四年十二月
六日、GHQが、本年度主食收穫高は玄米換算で戰後最高の千四百四十萬トンと發表。
七日、蒋介石の國民政府が臺北を首都とすると發表。
十日、蒋介石が臺北に到着。
十五日、占領軍要員と日本人との交歡禁止を緩和。物品の授受が原則自由となる。
二十五日、マッカーサーが、戰犯に特赦令を出す。これに基づき、四年以下の刑で服役中のBC級四十六人を二十八日に釋放。
昭和二十五年一月
一日(元旦)、マッカーサーは、年頭の辭で「日本國憲法は自衞權を否定しない」との聲明を出す。
三日、NHKのバラエティー番組『愉快な仲間』放送開始。
五日、トルーマン米大統領は、支那・臺灣問題に軍事介入せず、經濟援助にとどめるとの聲明を出す。
六日、英國は、中共を承認し、臺灣と斷交。
同日、スターリンの率ゐるコミンフォルム機關紙『恆久平和と人民民主主義のために』が「日本の情勢について」と題する論評を掲載し、野坂參三の「平和革命論」を批判する。これが日本共産黨の、いはゆる「五十年問題」の始まりである。その要旨は、「野坂の『理論』が、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないものであることは明らかである。本質上野坂の『理論』は、反民主的な反社會主義的な理論である。それは、日本の帝國主義的占領者と日本の獨立の敵にとつてのみ有利である。したがつて、野坂の『理論』は、また同時に、反愛國的な理論であり、反日本的な理論である。」といふものであつたが、このことが正式に明らかにされる前に、國内の商業新聞によつて、「日本共産黨指導者野坂氏はブルジョア的態度をとつており、帝國主義者の召使である。野坂氏日本共産黨中央委員會の報告で、日本が占領下にある間に人民民主主義政權を樹立することが可能であると述べているが、野坂氏の理論は日本人民を誤らせるものである。」(同月八日付朝日新聞)といふ内容が報じられた。
十一日、日本共産黨中央委員會は政治局會議を開催し、コミンフォルムの論評に反對する所感派(德田、伊藤律ら)と論評を無條件に受け入れて盲從する國際派(志賀義雄、宮本顯治)との激突の末、所感派が制して、伊藤律の手によつて「『日本の情勢について』に關する所感」を作成。同黨の統制委員會において、前日の記者會見で野坂理論を批判したコミンフォルムの論評を支持することを表明した中西功を黨攪亂者として除名する決定を行つた。
十二日、日本共産黨は、内外記者團三十餘名を前に伊藤律がこの「所感」を發表する。その内容は、「論者が指摘した同志野坂の諸論文は、不十分であり、克服されなければならない諸缺點を有することは明らかである。それらの諸點については、すでに實踐において同志野坂等と共に克服されている。そして、現在はその害を十分とりのぞき、わが黨は正しい發展をとげていると信ずる。」といふものであり、論評の是認と辯解に止まつた。
十七日、中國共産黨は『人民日報』の社説で「日本人民解放の道」を掲載し、「(『論評』に同意しないと『所感』で表明したことが)本當であるとすれば、日本共産黨政治局の見解ならびに態度が正しくないことは極めて明らかである。」として、所感を批判して論評の受け入れを強く迫つた。
十八日、日本共産黨第十八回擴大中央委員會が開催。激しく紛糾したが、結果において、コミンフォルムの論評による野坂批判を全面的に受け入れて所感の撤回する「コミンフォルム機關紙の論評に關する決議」を滿場一致で採擇。
十九日、野坂參三は、右翼日和見主義だつたと自己批判し、「今後こうした誤謬を犯さないように、そして國際プロレタリアートの期待に報いることに努力する。」と全面降伏した。これら「五十年問題」と呼ばれる一連の騷動は、コミンテルン日本支部として發足した日本共産黨が自立しようとする試みであつたが、その萌芽はコミンテルンの後身であるコミンフォルムによつて完全に否定されたことを示してゐる。そして、これによつて日本共産黨は、コミンフォルムの武裝革命方針に基づき、その後は軍事闘爭を開始し、火炎ビン、拳銃、日本刀、ダイナマイトなどを使用した武裝蜂起の事件を數年に亘つて繰り返すに至る。
二十一日、財閥商號使用禁止令、財閥標章使用禁止令公布。
三十一日、トルーマン米大統領が、水爆製造を正式に命令。
昭和二十五年二月
一日、ソ連が、天皇を戰犯として裁くやう要求。
九日、マッカーシー(共和黨)米國上院議員が、アメリカ國務省に五十七人の共産黨員がゐると演説。これにより「マッカーシー旋風(赤狩り)」が始まる。
十日、GHQは、沖繩に「恆久的な基地」を建設すると發表。
十四日、ソ連が中共と同盟條約を締結し、條文で我が國を假想敵國と名指しする。この頃、我が國との講和を推進する米國務省と、米軍の日本駐留を繼續するために日本再獨立に反對する米國防總省が對立。
十五日、GHQは、「ゼネスト」中止を勸告。
二十一日、參議院文部委が、元號廢止問題の正式議題化を決定。
昭和二十五年三月
一日、民自黨と民主黨連立派が合同して自由黨を結成(總裁・吉田茂)。
七日、GHQが、戰犯の假釋放制度を制定すると發表。
八日、吉田茂首相が、齒舞諸島は日本に歸屬と答辯。
十二日、昭和天皇が四國巡幸の旅に出發。
十三日、GHQは、沖繩の基地建設に入札する日本業者第一陣二十社が現地視察をすると發表。
昭和二十五年四月
六日、トルーマン米大統領は、J・F・ダレスを對日講和擔當の國務省顧問に任命。
十五日、公職選擧法公布。
十八日、天皇、マッカーサーとの第十回會見。
二十二日、ソ連タス通信が、舊日本軍捕虜の送還を完了したと發表。
二十五日、池田勇人蔵相が白洲次郎らと共に税法問題交渉のため渡米。ジョゼフ・ドッジと面談し、講和後の米軍駐留を日本から提案する旨を通達(池田ミッション)。
二十八日、國民民主黨結成(最高委員・苫米地義三ら)。
昭和二十五年五月
一日、公職選擧法施行。
二日、放送法、電波法、電波監理委員會設置法の「電波三法」公布。
三日、吉田茂首相は、自由黨の祕密議員總會で、東京大學總長南原繁の「全面講和論」を「曲學阿世の徒」と非難。
十二日、我が國の漁獲水域を南へ擴大(北緯二十四度東經百二十三度、赤道の東經百三十五度、赤道の東經百八十度、北緯二十四度東經百八十度を結ぶ線内)。
十八日、米當局者が、沖繩返還計畫は皆無と言明。
昭和二十五年六月
四日、第二回參議院議員選擧實施(自由52、社會36、緑風9、國民民主9、無所屬19)。
六日、マッカーサーは、吉田茂首相宛書簡で、占領憲法の擁護を大義名分として、共産黨中央委員二十四人の公職追放を指令。これにより、德田球一らが地下に濳航。共産黨中央委員會は分裂。
七日、マッカーサーは、日本共産黨の『アカハタ』幹部十七人に對しても追放を指令。日本共産黨は、椎野悦郎を議長とする臨時中央指導部を確立。
十六日、國家地方警察本部(後の警察廳)が、全國のデモ、集會禁止令を出す。
二十一日、ダレス米國務省顧問が、講和條約の構想などについてマッカーサーと會談。
二十二日、ダレス、吉田首相らと會談。
二十五日、北朝鮮の侵略によつて「朝鮮戰爭」勃發。國連安保理は、北朝鮮の先制攻撃を侵略と認め、敵對行爲の即時中止を要求する米提出決議案を採擇(ソ連は缺席)。
二十六日、マッカーサーは、朝鮮戰爭に關する虚僞報道を行つたことを理由として『アカハタ』の三十日間發行停止指令。
二十七日、米大統領が、韓國支援のため海空軍に出動命令。
二十八日、吉田茂内閣改造。
同日、北朝鮮軍が韓國の首都ソウルを占領。
二十九日、朝鮮戰爭で北九州に警戒警報が發令される。
同日、大韓青年團(韓國居留民團系)大阪支部が朝鮮戰爭義勇兵を募集。府下二十七支部から三千人が志願。元特攻兵を自稱する日本人も志願したが、拒否された。
昭和二十五年七月
三日、ベトナム人民軍が、サイゴンのフランス軍據點を占領。
四日、閣議で、朝鮮の米軍に對し、行政措置の範圍内で協力する方針を了承。
八日、トルーマン米大統領がマッカーサーを國連軍最高司令官に任命。
同日、マッカーサーは、吉田首相に對し、警察豫備隊七萬五千人の創設、海上保安廳保安員八千人の增員を指令する(當時の規模・警察十二萬五千人、海保一萬人)。
以後、自衛隊創設、レッドパージ、公職追放解除への方向轉換のことを「逆コース」と呼ばれることがあるが、歴史的に見れば、これは「復元コース」と呼ぶべきものである。
十五日、最高檢察廳は、その前日に法務府特審が日本共産黨の德田球一、野坂參三、伊藤律ら九人を團體等規正令第十條違反として告發を受けたことに基づき、同人ら九人に逮捕状請求。
十八日、マッカーサーが『アカハタ』の無期限發行停止指令。
二十三日、北朝鮮軍、光州占領。
二十四日、GHQは、新聞協會代表に共産黨員と同調者の追放を勸告。共産黨書記長德田球一が中國へ亡命。これにより、レッドパージはじまる。
二十五日、朝鮮戰爭の國連軍總司令部が東京に設置される。
二十八日、GHQ軍事法廷が、反米ビラ配布の在日朝鮮人に重勞働五年、刑期滿了後本國送還の判決。
同日、レッドパージにより報道八社で三百三十六人を解雇。
三十日、マッカーサー、臺灣を訪問し蒋介石總統と會談。
昭和二十五年八月
二日、米原子力委員會は、デュポン社と水爆製造工場の建設契約を締結と發表。
四日、GHQは、日本船のパナマ運河通行を許可。
八日、韓國避難民を密航者扱ひにすると海上保安廳に指令。
九日、レッドパージの被解雇者ら中心に、言論彈壓反對同盟を結成。
十日、警察豫備隊令公布・施行(二十三日に發足)。
十三日、警察豫備隊員の募集初日に三萬人が殺到。
十八日、韓國政府が大邱から撤退し釜山に移る。
二十三日、警察豫備隊が、第一次合格者約七千人の入隊をもつて發足する。
二十五日、GHQは、橫濱に在日兵站司令部を設置と發表。
三十日、GHQが全勞連の解散を指令。
三十一日、GHQが、海外二十七港への日本商船入港を許可。
同日、このころまでに、德田球一が支那へ密航。
昭和二十五年九月
一日、閣議で、公務員のレッドパージ方針を正式決定。
十三日、GHQが、體育への柔道復活を許可。
十四日、トルーマン大統領が、對日講和と安全保障條約交渉の開始を指令。
十五日、國連軍が、仁川に上陸しソウルへの反攻開始(仁川上陸作戰)。
十八日、警察豫備隊中堅幹部の募集締め切り。八百人の募集に一萬六百六十七人が應募。
十九日、國連總會は、中共代表出席の動議を否決。
二十一日、シャウプ使節團が、第二次税制勸告を發表(第二次シャウプ勸告)。
二十六日、國連軍がソウルを占據。北朝鮮軍が北へ撤退。
二十七日、「朝日新聞」が、濳行中だつた共産黨中央委員の伊藤律との單獨會見記を掲載するが、三十日に記者による「捏造」であることが判明し、全文を取り消すとともに謝罪した。
昭和二十五年十月
一日、第六回國勢調査(人口八千三百十九萬九千六百二十七人)。
同日、韓國軍が三十八度線を突破。
四日、GHQが、日本の外航船に旅客輸送を許可。
六日、國連軍は、過去三日間で北朝鮮軍捕虜一萬四千二十八人と發表。八日には總計五萬人と發表。
七日、元日本共産黨中央委員の春日正一を逮捕。法務府の出頭要請を拒否した容疑で指名手配されてをり、公職追放後、彈壓の強まる中、地下活動中であつた。同日付の非合法機關紙『平和と獨立』の無署名論文「共産主義者と愛國者の新しい任務ー力には力を以て闘え」が掲載され、武裝闘爭を呼びかけた。それは、「國内の支配階層が公然と武力によつて、民族を奴隷化し人民の生命までも奪つているのが現實であるにも關わらず、人民の武裝闘爭の問題を提起して、これを眞劍に準備せねばならぬことを、今なお人民に語られないとすれば、それは民族と革命への裏切りといわれても仕方がないであろう。」といふものであつた。
十三日、政府は、戰犯覺書該當者を除く解除訴願中の一萬九十人の公職追放解除を發表する。
十四日、トルーマン大統領とマッカーサーの會談(ウェーキ島)。
十七日、政府は、すでに極祕裡に、米海兵隊上陸のための機雷處分の掃海作戰に海上保安廳に命じて、戰闘地域である韓半島の鎭南浦、海州、仁川、群山、元山の各沖海域に延べ四十三隻の掃海艇で構成する特別掃海隊を派遣。我が國は、日米共同軍事作戰に參加して、朝鮮戰爭に極祕に參戰してゐた。ところが、そのうちの掃海艇「MSー十四號」一隻が水面下の機雷に接觸して爆發沈没し、隊員一名が戰死、二名が重體、五名が重傷、十一名が輕傷を負つた。
同日、文部省は、「祝日には學校で國旗を掲揚し、國歌を唱和することが望ましい」との天野貞祐文相談話を全國の教育委員會、大學に通達する。
十八日、GHQは、商社の在外支店開設制限を解除。
十九日、韓國軍が平壤へ侵攻し陷落。
二十日、國連軍が平壤を占領。
二十三日、私鐵三十六社、五百十六人をレッドパージ。
二十四日、米が對日講和七原則を公表。
二十五日、朝鮮戰爭に中共が參戰。人民義勇軍が鴨緑江を渡河。
二十七日、中共がチベットに侵略。十一月に、親中共傀儡政權が樹立。
二十九日、朝鮮戰爭の特需が累計で一億三千萬ドル。
三十日、舊軍人三千二百五十人の追放解除がなされる。
三十一日、占領目的阻害行爲處罰令(政令三百二十五號)公布。
同日、沖繩で社會大衆黨結成。
同日、このころまでに、野坂參三も支那へ密航。北京に「日本共産黨在外指導部(北京機關)」を結成。
昭和二十五年十一月
二日、農林省が、レッドパージで二百七人を解雇。
七日、天野貞祐文相が、修身科復活が必要と言明。
八日、GHQが、元外相重光葵に、A級戰犯で初めて假出所を認めると發表(二十一日に假出所)。
十四日、ホー・チ・ミン軍徴用の元日本兵ら七人送還。
十五日、最高裁は、勞組による生産管理は違法であると判決。
二十一日、元外相の重光葵が假出所となる。A級戰犯で禁固七年の刑に服してゐたが、刑期四年半で假出所を認められた。A級戰犯では初の假出所となる。
二十四日、米國政府が、「對日講和七原則」を發表。我が國への請求權放棄と、日本防衞を日米共同で行ふ旨を明記。
二十六日、北朝鮮軍、中共軍が總反撃を開始。
三十日、トルーマン米大統領は、朝鮮に原爆投下を考慮と言明。
昭和二十五年十二月
三日、韓國國防長官が、國連に對し原爆の使用を要請。
四日、英政府(アトリー首相)は、十一月三十日のトルーマン發言(朝鮮に原爆投下)に反對を表明。
五日、沖繩米軍政府を米民政府に改組。初代長官にマッカーサーが就任。
十日、この日までに民間二十四産業でのレッドパージは一萬九百七十二人となる。
十一日、外務省が、ソ連での未歸還者は三十七萬人と發表。
十三日、地方公務員法公布。爭議行爲を禁止。
十四日、國連總會が、朝鮮停戰三人委員會設置を決定。
十六日、米大統領が、國家非常事態宣言を發令。
十八日、NATO理事會開催。NATO軍六十個師團創設、西獨軍のNATO軍編入などを決定。
二十日、軍作戰關連の報道を事前檢閲すると總司令部が發表。
二十四日、國連軍は、中共軍が三十八度線を突破したと發表。
二十八日、日本輸出銀行設立。
三十一日、マッカーサーが日本の再軍備を示唆する。
マッカーサーは、米陸軍省が昭和二十三年三月に日本を反共の防壁とするための再軍備に關して「日本に對する限定的軍備」計畫を開始したことに強く反對をしてゐた。だが、昭和二十五年七月八日の警察豫備隊七萬五千人の創設、海上保安廳保安員八千人の增員を指令に引き續き、朝鮮戰爭を契機として再軍備への積極方針に轉換した。
昭和二十六年一月
一日(元旦)、北朝鮮軍、中共軍が反撃し三十八度線を超える。
四日、國連軍がソウルから撤退。北朝鮮軍、中共軍がソウルに入城。韓國政府は釜山へ移轉。
八日、前首相で國民民主黨最高委員の芦田均が、自衞の軍備は違憲ではないと講演。
十一日、中學校以上の随意科目に柔道を復活と決定。
十八日、警察豫備隊長官が、輕機關銃を裝備すると言明。
十九日、社會黨大會で、全面講和、中立堅持、軍事基地提供反對の平和三原則を決議(委員長・鈴木茂三郎)。
二十日、吉田茂首相が、再軍備は國民の自由と表明。
二十一日、社會黨第七回大會で、「再軍備反對」と「平和三原則」を決議し、鈴木茂三郎委員長を選出。
二十三日、法務府が、「アカハタ」の後繼誌「平和のこえ」を無期限發行停止處分。
二十四日、日教組が、「教え子を戰場に送るな」の運動方針を決定。
二十五日、アメリカ國務省顧問のダレスが、對日講和特使として來日(二月十一日まで)。
二十九日、吉田・ダレス會談始まる。この會談で、講和・安保の骨子が固まる。
昭和二十六年二月
二日、ダレス特使が集團安全保障、米軍駐留の對日講話方針を表明。
四日、最高檢が、發行禁止の共産黨機關誌「平和のこえ」販賣網を捜索、四百三十五人檢擧。
十日、社會民主黨結成(委員長・平野力三)。
十六日、警察豫備隊が、元軍人三百人の幹部採用を決定。
十八日、京都府網野町で漂着機雷爆發。三十戸に損害。
十九日、リッジウェイ米第八軍司令官が、國連軍は朝鮮中部戰線で主導權を奪回したと發表。
二十一日、ベルリンにて世界平和評議會第一回總會開催。朝鮮戰爭の終結、日獨の再軍備反對などを決議(ベルリン・アピール)。
二十三日、日本共産黨第四回全國協議會(四全協)開催。これまでの武裝革命方針を確認。
以後は、昭和三十年七月の日本共産黨第六回全國協議會(六全協)において、武裝革命方針を放棄して野坂理論を肯定し、山村工作隊や獨立遊撃隊などの活動が極左冒險主義として切り捨てるまで、武裝革命方針による暴力事件を繰り返す。
昭和二十六年三月
十日、總評第二回大會で平和四原則(再軍備反對、全面講和、中立堅持、軍事基地反對)を採擇。
二十四日、マーシャル米國防長官が、近く朝鮮に原子兵器などを送ると言明。マッカーサーは、支那本土攻撃も辭さずと表明。
二十六日、米國務省は、支那本土攻撃を示唆したマッカーサーに、重要聲明の事前連絡を要請。
二十九日、共産黨川上貫一議員が、全面講和と再軍備反對を主張し、議員除名の議決がなされる。
昭和二十六年四月
一日、沖繩に「琉球臨時中央政府(行政主席・比嘉秀平)」設立。
三日、宗教法人法公布。
六日、GHQが、ワシントンへの日本在外事務所開設を許可。
八日、韓國が、一月以來マッカーサー・ライン越境の日本漁船三十隻を捕獲、二隻を撃沈と發表。
十一日、トルーマン米國大統領は、國連軍最高司令官及び連合國軍最高司令官の地位から、マッカーサーを解任する旨を發表。後任にマシュー・リッジウェイ中將(就任後大將に昇格)を任命。
十五日、天皇、マッカーサーとの第十一回會見。
同日、北朝鮮が、朝鮮問題の平和的解決を國連に要望。
十六日、マッカーサーが羽田空港からアメリカへ歸國(マッカーサー離日)。增田甲子七(閣僚)らが「マッカーサー元帥、萬歳!」と萬歳三唱する。
同日、衆參兩議院が、マッカーサーへの感謝決議を議決。
同日、アメリカ國務省顧問・對日講和特使ダレスが再來日。
二十三日、第二回統一地方選擧實施。自由黨が壓倒的優位となる。
同日、GHQの『新聞用紙の統制廢止に關する覺書』。
二十五日、米國の國連代表部が、中共空軍が朝鮮で爆撃を行へば米は支那領土を爆撃すると言明。
昭和二十六年五月
一日、GHQ最高司令官リッジウェイが、我が政府へ占領下法規再檢討の權限を移讓すると聲明する。
三日、マッカーサー、米議會上院軍事外交合同委員會の秘密聽會に出頭(同月六日まで)。日本の爲した戰爭は自國の安全保障のため(自衞戰爭)であると陳述。
五日、マッカーサーは、同米上院聽聞會で「日本人の成熟度は十二歳、勝者にへつらふ傾向」と發言。
六日、リッジウェイの一日の權限移讓聲明に基づき政令諮問委員會設置。
十一日、外務省が、ソ連からの未歸還者三十二萬人と推計。
十二日、德田球一ら共産黨幹部濳入容疑で前進座捜索。
十四日、政令諮問委員會第一回會合。占領諸法令の再檢討のために開催。
同日、GHQが、對日ガリオア援助打ち切りの聲明を出す。
十六日、WHO(世界保健機構)が日本の加盟を承認。
二十二日、津輕海峡にソ連製浮遊機雷を發見したと海上保安部が發表。
二十四日、法務府は、共産黨の「アカハタ」同類紙四紙を發禁。千か所を捜索し三百人檢擧。
昭和二十六年六月
四日、舊『警察法』改正案可決成立。
八日、住民登録法公布。
十二日、GHQが、日本郵船など四社にニューヨーク航路開設を許可。
十四日、國際小麥理事會が我が國の協定參加を承認。
二十日、第一次追放解除(三木武吉、石橋湛山ら政財界の二千九百五十八人)。
二十三日、ソ連が、朝鮮停戰交渉を提案(三十日に國連軍も)。
二十五日、日産、トヨタ、いすゞが、外國製自動車要求の警察豫備隊に、國産自動車採用を陳情。
二十六日、シアトルで開催の日本貿易博で、十七日の開會以來一週間で受注高二十萬ドルを超過と發表。
昭和二十六年七月
一日、文部省が、「學習指導要領一般編(試案)」の改訂を發表。これにより、小學校の毛筆習字、中學校の日本歴史が復活する。
同日、北朝鮮と中共は、國連軍の休戰會談提案を承諾。
三日、李承晩韓國大統領が、三十八度線停戰を非難。
四日、吉田茂内閣が第二次内閣改造を實施。
六日、敗戰を信じず七年間もアナタハン島で過ごした日本人二十人が歸國。
七日、十大財閥の役員ら二千七百人の就職制限撤廢。
十日、朝鮮休戰會談が開城で開始(八月二十三日まで)。
十一日、米國務省顧問のダレスは、講和條約と同時に日米安全保障條約を結びたいと言明。
同日、GHQが持株會社整理委員會を解散させ、財閥解體が完了する。
十二日、左翼系ニュース紙「連合通信」を無期限停刊。
十四日、GHQが、日本・琉球の新通商計畫成立を發表。
十七日、フィリピン最高會議が、米の對日講和草案に對する反對方針を承認。
二十日、日本民間放送連盟結成。
二十三日、ビルマが、米の對日講和草案に對する反對を米國に通知。
昭和二十六年八月
四日、奄美大島の島民約八千人が名瀬小學校で二十四時間の斷食による本土復歸要求。
六日、第二次追放解除(鳩山一郎、緒方竹虎ら一萬三千九百四人)。
十六日、我が政府は、講和條約最終草案の前文を發表し、吉田首相は、臨時國會で、講和後の米軍駐留は我が國からの希望によると報告する。
十七日、GHQが、パスポートの自主發給を認める。
二十一日、中共政府は、米英の講和調印は中ソへの宣戰布告とみなすと日本に警告した、との北京放送がなされる。
二十三日、北朝鮮、中共軍は、國連軍の中立地帶爆撃を理由に停戰會談の中止を通告(十月二十五日再開)。
二十五日、インドは、外國軍の日本駐留や中共の講和除外に抗議し、對日講和會議不參加を通告。
昭和二十六年九月
二日、GHQは、「日本人使用禁止」などの標識撤去を指示。
四日、サンフランシスコ講和會議開催。
同日、共産黨臨時中央指導部らに團體等規正令違反容疑(反占領軍言動)で逮捕状。
八日、『日本國との平和條約』(桑港條約)がサンフランシスコで調印(ソ連、チェコ、ポーランドを除く四十九か國)。同時に、『日本國とアメリカ合衆國との間の安全保障條約』(舊安保條約)調印。
桑港條約第二條には、「日本國は、朝鮮の獨立を承認して、濟州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に對するすべての權利、權原及び請求權を放棄する。日本國は、臺灣及び澎湖諸島に對するすべての權利、權原及び請求權を放棄する。日本國は、千島列島竝びに日本國が千九百五年九月五日のポーツマス條約の結果として主權を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に對するすべての權利、權原及び請求權を放棄する。」とあり、千島列島及び南樺太を放棄するとしたが、その相手國であるソ連はこれに調印しなかつたので、桑港條約第二十五條により、放棄の效力は發生してゐない。すなはち、同條には、「この條約の適用上、連合國とは、日本國と戰爭していた國又は以前に第二十三條に列記する國の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に當該國がこの條約に署名し且つ之を批准したことを條件とする。・・・」とあるからである。
同日、舊特高・思想檢察關係三百三十六人を追放解除。
二十三日、吉田茂首相は、賠償要求國との交渉は誠實に始めるが、現物・現金賠償は行はない方針を決定。
昭和二十六年十月
一日、朝日新聞、毎日新聞、讀賣新聞などが夕刊の發行を再開する。これにより、朝夕刊セット販賣が復活。
四日、出入國管理令、入國管理廳設置令公布。
十日、米國で、「MSA(相互安全保障法)」が成立。
十一日、政府は、追放解除者の恩給復活を決定。
十六日、共産黨第五回全國協議會開催。「新綱領(五十一年テーゼ)」を採擇し、武裝闘爭方針を具體化。
十八日、吉田茂首相が、首相として六年ぶりに靖國神社を參拜。
二十四日、社會黨第八回臨時大會で、桑港條約・舊安保條約に對する態度をめぐり左右兩派に分裂。
二十六日、衆議院で、桑港條約(承認三百七票對、反對四十七票)、舊安保條約(承認二百八十九票對、反對七十一票)の兩條約を承認。
三十一日、海軍再建を目指す内閣直屬の祕密組織「Y委員會」が海上保安廳に設置される。
昭和二十六年十一月
一日、米が、ネバダ州で初の地上部隊五千人參加による核攻撃實驗。
實驗直後から體調不良を訴へる兵士が續出し、被曝後遺症が問題化した。この實驗は、原爆投下地域に對し、迅速に侵攻を展開するための實驗訓練だつた。
六日、政府は、GHQの反對で米(コメ)の統制撤廢を斷念。
十一日、昭和天皇が近畿四縣の巡幸に出發される(二十五日まで)。
十八日、參議院で、桑港條約(承認百七十四票、反對四十五票)、舊安保條約(承認百四十七票、反對七十六票)の兩條約を承認。
同日、FAO(國連食糧農業機關)が日本の加盟を承認。
二十三日、朝鮮休戰會談で非武裝地帶設定などを合意。
二十四日、ソ連が「プラウダ」で、日本共産黨の新綱領全文を掲載。
昭和二十六年十二月
五日、GHQは、鹿兒島南方海上の北緯二十九度以北にある七島を我が國へ返還することを通告。
九日、米國原爆傷害調査委員會(ABCC)が、被爆の母體への影響は永久的と初の中間報告。
二十四日、吉田茂首相は、ダレス宛書簡で國府(臺灣政府)との講和を確約。
二十六日、吉田茂内閣が第三次内閣改造を實施。
二十九日、米國が、實驗爐で初の原子力發電に成功と發表。
三十一日、GHQは、戰犯管理を我が國に移讓することを通告。
昭和二十七年一月
十二日、ルバング島で元日本兵四人が警官隊と交戰。
十七日、GHQは、防衞費が約二割の政府豫算案を了承。
十八日、韓國は、一方的に海洋主權宣言を發表して日本領土寄りに「李承晩ライン」を設定。
同日、我が政府は、インドネシア賠償中間協定に假調印。
二十八日、日比賠償會談がはじまる。
全權大使の津島壽一らがマニラを訪問して實現。フィリピン側が八十億ドルの賠償を要求したため、交渉は難航。四年後、約五億ドル相當の役務と生産財による賠償で合意に至る。
昭和二十七年二月
二日、GHQは、輸出管理權を我が政府に移讓すると發表。
十五日、第一次日韓會談開始。
二十日、東大ポポロ事件。
二十八日、舊安保條約第三條に基づき、治外法權その他の不平等事項を含む米軍駐留條件を規定する日米行政協定(日本國とアメリカ合衆國との間の安全保障條約第三條に基く行政協定)調印。
昭和二十七年三月
六日、吉田茂首相は、參議院豫算委員會で「自衞のための戰力は違憲ではない」と答辯。
八日、GHQは、兵器製造器禁止を解除(四月に權限移讓)。
十日、吉田茂首相は、野黨の猛反發で六日の發言(「自衞のための戰力は違憲ではない」發言)を撤回。
十七日、GHQは、輸出管理權を全面的に我が國に移讓。
十九日、琉球米民政府が、軍用地使用料の支拂を回答。坪一圓八錢の定額で以後七年間紛爭續く。
二十四日、我が政府は、重光葵ら千十一人の追放解除者發表。
二十七日、破壞活動防止法案(政府案)の發表。
二十九日、國家警察東京本部が、東京都小河内村の共産黨山村工作隊を一齊手入れ。前年來、ダム建設で沈む村に住み付いてゐた元早稻田大生ら二十三人を檢擧。彼らは、共産黨地下指導部の指示で工事反對を訴へ、共産黨の據點作りを行つてゐた。
三十一日、新入學兒童への國語・算數の教科書無償配付が、全額國庫負擔になる。
昭和二十七年四月
一日、GHQは、神宮外苑の各競技場、メモリアルホール(舊國技館)、帝國ホテルなどの接收を解除。
同日、GHQは砂糖の統制撤廢。
同日、琉球中央政府が發足する。初代任命主席に比嘉秀平。
二日、日華平和條約會談を再開(調印は二十八日)。
七日、國警が、ピストルを躊躇せず使用するやう指示。
九日、総理府の内閣總理大臣官房に内閣調査室開設。
十日、NHKラジオが、連續ドラマ「君の名は」の放送を開始。
十一日、ポツダム政令廢止の法律を公布。
十五日、警視庁の機構改革。
十六日、米の戰後初代駐日大使にR・マーフィー任命。
十七日、公安調査廳設置法案(政府案)を衆議院に提出。
二十一日、公職追放令廢止。岸信介ら追放解除にならなかつた五千七百人も自動的に解除(解除實施は二十八日)。
二十三日、米國は、ネバダ砂漠で大規模な原爆實驗演習。
二十五日、マッカーサーライン撤廢。遠洋漁業が本格化。
二十六日、海上保安廳に海上警備隊を設置。定員六千三十八人。
同日、GHQは、八幡製鐵など舊軍需工場八百五十箇所を返還。
同日、我が政府は、最後の追放解除二十九人を發表。
二十八日、午後十時三十分、『日本國との平和條約』(桑港條約)及び『日米安全保障條約』(舊安保條約)が發效。
これにより、GHQ、對日理事會、極東委員會が廢止され、極東委員會による我が臣民の自由意思の「再檢討」が實施されないまま本土だけで獨立するに至つた。
このときの大御歌は、「風さゆるみ冬は過ぎてまちまちし八重櫻咲く春となりけり」、「國の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに」、「いにしへの文まなびつつ新しきのりをしりてぞ國はやすからむ」である。
同日、『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件の廢止に關する法律』(昭和二十七年法律第八十一號)が施行され、昭和二十年九月二十日に公布(即日施行)された『「ポツダム」宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件』(昭和二十年敕令第五百四十二號)が廢止され、連合國占領軍の郵便物・電報・電話の檢閲に關する件など占領統治のために制定された法令は、時際法的に處理されて消滅する。
同日、桑港條約發效の七時間三十分前に、臺北で、國民政府の支配下にある臺灣を適用範圍とする『日本國と中華民國との間の平和條約』(以下「日華平和條約」といふ。)に調印する(同年八月五日發效)。
これは、桑港條約を基本に据ゑたもので、日本國と中華民國との「戰爭状態」は日華平和條約が效力を生ずる日に終了するとし(第一條)、臺灣における日本の領土權を放棄した(第二條)。そして、人的範圍に關して、中華民國の國民の範圍を原則として臺灣及び澎湖諸島に限定するものの、「今後施行する法令」によつて國籍を取得する者を含むとの表現を以て、將來において支那本土を奪還する場合にも對應できる含みをもたせてゐた(第十條)。
二十九日、沖繩のアメリカ民政府は、政治的意圖を持たない條件で日章旗の掲揚を認める。
