典憲の意義
ななそまり むをちのすめの いつくしき のりしろしめす とこしへのみよ
七十餘六條の皇國の 稜威奇しき 法(大日本帝國憲法)知ろし召す 永代の御代
典憲とは、「典」と「憲」のことである。
「典」とは、明治二十二年二月十一日制定の『皇室典範(明治典範)』(資料十一)の外に、『皇室祭祀令』(明治四十一年皇室令第一號)、『登極令』(明治四十二年皇室令第一號)、『皇族身位令』(明治四十三年皇室令第二號)、『皇室親族令』(明治四十三年皇室令第三號)、『皇室財産令』(明治四十三年皇室令第三十三號)、『皇統譜令』(大正十五年皇室令第六號)、『皇室儀制令』(大正十五年皇室令第七號)、『皇室裁判令』(大正十五年皇室令第十六號)などからなる「宮務法體系」である廣義の皇室典範(以下「正統典範」といふ。)のことである。典範といふ名稱が付いてゐるか否かではなく、これらは、その實質において「宮務法體系」の根本に屬するものであることから、「實質的意味の典範」といふ。
そして、「憲」とは、帝國憲法のみならず、後に述べる『古事記』、『日本書紀』、その中にある『天津神の御神敕(修理固成)』(資料一)、『天照大神の三大御神敕(天壤無窮、寶鏡奉齋、齋庭稻穗の各御神敕)』(資料二の1、2、3)、『神武天皇の御詔敕(八紘爲宇)』(資料三)、聖德太子の『憲法十七條』(資料四)、『推古天皇の御詔敕(祭祀神祇)』(資料五)、さらに、『萬葉集』(文獻254)、『船中八策』(資料六)、『五箇條ノ御誓文』(資料七)、『神器及ヒ皇靈遷座ノ詔』(資料八)、『勤儉ノ敕語』(資料九)、『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭(軍人敕諭)』(資料十)、『教育ニ關スル敕語(教育敕語)』(資料十三)、『義勇兵ヲ停メ給フ敕諭』(資料十四)、『戊申詔書』(資料十五)、『施療濟生ノ敕語』(資料十六)、『青少年學徒ニ下シ賜ハリタル敕語』(資料十七)などからなる「國務法體系」である憲法(以下「正統憲法」ないしは單に「憲法」といふ。)を意味する。憲法といふ名稱が付いてゐるか否かではなく、これらは、その實質において「國務法體系」の根本に屬するものであることから、「實質的意味の憲法」といふ。
典憲とは、立體的構造に比喩されるべき不文の祖法を文字を以て平面的に描寫したものであるから、誰が書寫したかは問題とはならない。描寫、書寫を正確に行へる語り部の能力とその内容こそが命なのである。
このうち、皇室の家法である典範については、明治典範などによつてある程度成文化されたものの、成文化による表現に馴染まず、あるいは、成文化することによつて誤解や誤用を生ずる虞がある事項、たとへば、「三種の神器」、「宮中祭祀」などの古來から皇統と不可分に受け繼がれた不文慣習法の總體であるころの「正統典範」は、天皇と皇族に適用されるものであつて、國家と國民の全體に適用される憲法とは、それぞれ法の守備範圍を異にする。しかし、憲法には、天皇及び攝政の規定があるために、典範と相互に關連し合ふことになる。これが、後に觸れる「特殊ノ畛域(シンイキ)」、つまり、平易に言へば憲法と典範とが一部において重なり合ふ「糊代」といふか、「あぜ」の部分がある。
しかし、その「畛域」の部分のみならず、その他の相互の部分についても、典範により憲法を改正變更できないし、その逆に、憲法によつて典範を改正變更できない。つまり、兩者は、消極的同等同位の關係にある。それは、帝國憲法第七十四條第一項に「皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ經ルヲ要セス」とあり、同條第二項に「皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ條規ヲ變更スルコトヲ得ス」とあることからも明らかである。
典憲は、「憲法の憲法」である立體構造の「規範國體」を文字で掬ひ取つて平面的に投影して書き寫したものである。「規範國體」が「本質」であり、「典憲」はその「屬性」としての影繪(かげゑ)である。規範國體が下方に「相轉移」したのが典憲である。それゆゑ、典憲の一字一句が規範國體の内容と同價値的に表現してゐるとは限らない。さらに、典憲は、規範國體の全部を投影せず、また、それ以外にも、その時々の時代の要請によつて樣々な機關の設置と運營などの技術的規定も備へてゐる。それゆゑ、典憲は、規範國體を代置した部分においては規範國體と同位であるが、技術的な規定などの部分は、國體よりも下位に位置する規範である。
ところで、「憲法」(いつくしきのり)といふ言葉は、古くは『日本書紀』に聖德太子の『憲法十七條』(いつくしきのりとをあまりななをち)として登場した。これは、あくまでも「憲法十七條」と表記されてゐるもので、これは、「憲法」を定め、それが十七條に亘るといふものであつて、憲法の第一條から第十七條のうち、第十七條を示す意味で「憲法(第)十七條」の意味とは異なる。その意味で、その誤解を避けるためにこれを轉倒させて「十七條憲法」といつた慣用表現が現在蔓延してゐるが、これは正確な表現ではない。
また、江戸時代や明治時代初期にも、人々に廣く知らしめるべき重要な法といふ意味で「憲法」の名稱が用ゐられてきた。そして、明治十四年の『訓條三十一項』(敕語)において、英語の「Constitution」を意味する言葉として使はれたことによつて、以後はその譯語としても定着した。
しかし、我が國は、國體の支配する國(くにからのしろしめすくに)であり、憲法(いつくしきのり)は、その國體といふ本質の作用を示すものとして書き置かれたものにすぎない。『論語』に云ふ「禮之用、和爲貴」(禮の用は和を貴しと爲す)や、前に述べたとほり、世阿彌の『至花道』に云ふ「能に體、用(ゆう)の事を知るべし。體は花、用は匂ひの如し。」のやうに、物事の本質や本源を「體」とし、その作用や働きを「用(ゆう)」として區別すれば、まさに國體とは「體」であり、憲法は「用」である。國體とは、第一章で述べたとほり、時效と世襲、相續の法理によつて祖先から受け繼いだ自然法である「祖法」であり、これは、いにしへ(往にし邊)より在つた法として「確認された法」なのである。それはまさに「不文法」であり、子孫後裔によつて「創設された法」や「形成された法」としての「成文法」ではない。
和漢折衷、音訓併用を驅使して大和言葉(やまとことのは)で撰述された『古事記』においても、「上古の時、言意(ことばこころ)竝びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字(じ)に於(お)きて即ち難(かた)し。已(すで)に訓に因(よ)りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音を以ちて連ねたるは、事の趣更に長し。」とあり、「ことば(詞)」で「こころ(心)」を捉へることの難しさを踏まへた上で、「臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮の誦む所の敕語の舊辭を撰録して獻上」せしめたとするやうに、祖法(こころ)を成文(ことば)にすることは困難さが伴ふといふことを自覺せねばならない。
祖法を精密に成文化しえない法文を金科玉條の如く解釋することは、本末轉倒であり、却つて祖法から遠ざかるのである。「毫釐(がうり)の差は千里の謬り」といふ格言がある。これは、『易經』の「之を毫釐に失すれば差(たが)ふに千里を以てす」から出たものであるが、初めは僅かな狂ひや違ひに過ぎなくても、それが增幅されて終りには大きな違ひを生じてしまふといふ意味であつて、我々は、土木や建築の設計施工など「建設工學」の分野をはじめ、あらゆる社會生活の場面において、そのことを常識として身に付けてゐるはずである。そのことは、祖法を成文化する「法律工學」においても同樣であつて、我々は、祖法を成文化する場合、初めの小さな誤差が先行きでの解釋・運用における大きな誤差として增幅することについて、もつと謙虚でなければならないはずである。ここに成文法絶對主義、法實證主義の傲慢さと社會科學上の致命的な誤りがある。
本質(體、こころ)と屬性(用、ことば)との關係を知れば、國體の精華から憲法の香氣がたなびくことが理解できるはずである。それゆゑ、國體から湧出した憲法といふものは一つだけとは限らない。單に憲法といふ名が付された推古天皇十二年(604+660)の『憲法十七條』や『帝國憲法』だけではなく、前述したとほり、『古事記』、『日本書紀』、その中にある『天津神の御神敕(修理固成)』、『天照大神の三大御神敕(天壤無窮、寶鏡奉齋、齋庭稻穗の各御神敕)』、『神武天皇の御詔敕(八紘爲宇)』、『聖德太子の憲法十七條』、『推古天皇の御詔敕(祭祀神祇)』さらに、『萬葉集』、『船中八策』、『五箇條ノ御誓文』、『神器及ヒ皇靈遷座ノ詔』、『勤儉ノ敕語』、『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭(軍人敕諭)』、『教育ニ關スル敕語(教育敕語)』、『義勇兵ヲ停メ給フ敕諭』、『戊申詔書』、『施療濟生ノ敕語』、『青少年學徒ニ下シ賜ハリタル敕語』なども憲法であり、いはゆるこれらが實質的意味の憲法である。「憲法」といふ名稱が付いてゐなくても、實質的には「憲法」であるといふことである。その逆もある。「憲法」といふ名稱が付いてゐても、實質的には「憲法」でないものもある。「憲法」と表記されたものの中に、非獨立時代のGHQ占領期に制定され施行されたとする『日本國憲法』(占領憲法)があるが、これは「憲法」には含まれない。「現行憲法」であるとされてゐる『日本國憲法』といふ名の法規は、マッカーサーノートとマッカーサー草案といふ「原稿」に基づくものであるといふ意味で「原稿憲法」と揶揄されるに相應しい代物であるが、本書においては、これまで通り、實質的な「憲法」ではないとしても、便宜上「占領憲法」といふ略稱を用ゐることにする。同樣に、占領下で制定された『皇室典範』といふ典範の名を騙つた皇室彈壓法(占領典範)も「典範」に含まれないことは當然のことであるが、これも便宜上「占領典範」といふ略稱を用ゐることとする。
ともあれ、占領憲法は、祖法を全く反映したものではなく、むしろ、祖法を否定したものであるから憲法に値しないのである。憲法とされるものは、天皇、攝政、要人など樣々な階層の手によるものであるが、いづれも「制定者」ではなく、國體を描寫した「記述者(編纂者)」である。これらは總て「いつくしきのり」として、總て規範國體の發現として理解されることになる。
そのことは、正統典範の一部を形成する明治典範についても同樣である。明治天皇は、祖法たる皇室の家法である不文法の正統典範のうち、帝國憲法と關連する事項である皇位繼承と攝政などに關する事項に限つて、新たに技術的規定を設けて整備されたものとして明治典範を定められた。そもそも、正統典範は、皇室の家法であるから、臣民に公布する必要はなく、現に公布はなされてゐない。明治典範は、明治天皇が「遺訓ヲ明徴ニシ皇家ノ成典ヲ制立シ以テ丕基ヲ永遠ニ鞏固ニスヘシ」として、「遺訓ヲ明徴」するために正統典範(不文法)の一部を書寫して成文法化されたものであつて、「明徴」とは、まさに「法の存在證明」であり、「法の確認」であつて「法の創造」ではない。そして、成文化することは、法の明徴の一方法ではあるが、不文法を完全同價値的に成文化できることはないので、不文法と成文法規との間に齟齬が生じてゐることが判明したときは、解釋ないしは改正作業によつてその誤差を修正し、あくまでも正統典範に近づけなければならない。ところが、法實證主義(成文法絶對主義)といふのは、逆に成文法規の條文に準據して、不文法を無視するといふ本末轉倒の見解であり、それ自體に論理矛盾があることは前に述べたとほりである。
いづれにせよ、正統典範は、成文法化された明治典範と、未だ成文法化されない不文法との二重構造となつてゐる。この明徴されない不文法のままの事項とは、三種の神器、宮中祭祀などに關する祕事である。
我が國は、最高規範たる規範國體の支配する國家であり、臣民は言ふに及ばず、「天皇と雖も國體の下ある」といふ一視同仁の國家である。典憲と、その下位法令である條約、法律、命令なども全て國體の下にある。
繰り返し述べるが、「明治典範」とは、明治二十二年二月十一日の「皇室典範」を意味し、同じく非獨立時代のGHQ占領期中の昭和二十二年一月十六日に公布され、同年五月三日に施行された同名の『皇室典範』(同年法律第三號)及び『皇室經濟法』(同年法律第四號)といふ「皇室彈壓法(皇室自治剥奪法)」を意味しない(これらを一括して「占領典範」といふ。)。なほ、昭和三十九年五月二十日公布かつ施行の『國事行爲の臨時代行に關する法律』(同年法律第八十三號)についても、皇室彈壓法(皇室自治剥奪法)である點においては「占領典範」と同樣の性質を有するものである。
ところで、規範國體とは「憲法の憲法」とでもいふべき神聖不可侵の最高規範であつて、皇祖皇宗のご叡慮と臣民の祖先の遺風で築かれた歴史と傳統で構成されるものであるから、いま生きてゐる者だけでこれらを自由に變更できるとする、外つ國の「主權」概念とその本質を根本的に異にするものの、その最高性、絶對性、無謬性などの屬性を共通してゐることから、もし、あへてこの用語を用ゐるとすれば、前に述べたとほり、これを「國體主權」と呼んでもよい。しかし、これは便宜的な呼稱であつて、「天皇主權」でも「國民主權」でもなく全く似て非なるものとして留意すべきものである。
帝國憲法の告文(つげぶみ、かうもん)には、「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト爲シ外ハ以テ臣民翼贊ノ道ヲ廣メ永遠ニ遵行セシメ益々國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ增進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス」とあり、典憲(明治典範と帝國憲法)は、皇祖皇宗の遺訓を明徴して成立したものであり、統治の洪範を紹述するものなのである。これは、初めて創造された創設的な典憲ではなく、古へより世襲された確認的な典憲であつて、皇祖皇宗の臣民の後裔は、この貽訓(遺訓)を遵守し、これを後世へと永遠に受け繼ぐ世襲の義務があることを明らかにしてゐる。
典憲は、「祖法の體系」として、その「不文法」をできる限り正確に「書寫」したものであつて、その源泉は國體(規範國體)である。すなはち、國體は、典憲より上位の規範(根本規範、最高規範)といふことである。第一章で述べた制憲權(憲法制定權力)なるものは存在せず、天皇にも制憲權はない。假に、國體主權といふ言葉に類して制憲權といふ言葉を用ゐるとし、制憲權が天皇にあるとしても、天皇と雖も國體を創造したり變更したりすることはできない。まさに、「天皇と雖も國體の下にある」といふことである。
つまり、「不文法」たる規範國體の「影繪」を出來る限り正確に書寫して規範國體の實像に迫つたものとして明治典範や帝國憲法などの「成文法」が作られたのであつて、もし、成文法のみが憲法であるとすれば、成文法形式である明治典範と帝國憲法が成立する以前の明治政府の我が國は、「無法國家」ないしは「無政府」の状態であつたことになつてしまふ。現に、「憲法があつて初めて國家がある。」(池上彰)といふ笑ひ話か冗談のやうな言説も存在するのである。
また、伊藤博文の『憲法義解』(文獻10)によれば、「天地剖判シテ神聖位ヲ正ス」「其天皇ハ天縦惟神至聖ニシテ臣民群類ノ表ニ在リ」「恭テ接スルニ神祖開國以來時ニ盛衰アリト雖、世ニ治亂アリト雖、皇統一系寶祚ノ隆ハ天地ト與ニ窮リナシ本條首メニ立國ノ大義ヲ掲ケ我カ日本帝國ハ一系ノ皇統ト相依テ終始シ古今永遠ニ亘リテ一アリテ二ナク常アリテ變ナキコトヲ示シ以テ君民ノ關係ヲ萬世ニ昭カニス」とあり、さらに、『皇室典範義解』によれば「祖宗國ヲ肇メ一系相承ケ天壤ト與ニ無窮ニ垂ル此レ言説ヲ假ラスシテ既ニ一定ノ模範アリ以テ不易ノ規準タルニ因ルニ非サルハナシ」「恭テ接スルニ皇位ノ繼承ハ祖宗以來明訓アリ。和氣清麻呂還奏ノ言ニ曰、我國家開闢以來、君臣分矣、以臣爲君未不有也天之日嗣必立皇緒ト」あることから、これらの國體が「不易ノ規準」であることは疑ひの餘地すらなく、前述の規範的根據により、尊皇と皇統護持を含めた國體護持には明らかに國家最高の法的根據を有することになる。
明治典範は、明治二十二年二月十一日、帝國憲法の公布と同日に制定され、その第六十二條には、「將來此ノ典範ノ條項ヲ改正シ又ハ增補スヘキノ必要アルニ當テハ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シテ之ヲ敕定スヘシ」とあり、さらに、帝國憲法第七十四條には、「皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ經ルヲ要セス 皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ條規ヲ變更スルコトヲ得ス」と定められてゐた。
そして、これらの意味について、帝國憲法に殉死された唯一の憲法學者であり最後の樞密院議長であつた清水澄博士が、「皇室典範ハ單純ナル皇室内部ノ家法ニ非ス統治權ノ主體タル天皇ヲ首長トスル皇室ト我國家トハ渾一融和シテ同化ノ状態ヲ形成ス是我カ君主國體ノ精華ナリ」、「皇室典範ト帝國憲法トハ共ニ相對立シ國家最高ノ根本法トシテ各特殊ノ畛域ヲ有シ互ニ相侵スヘカラス」(文獻6)と解説されてゐるとほり、帝國憲法と正統典範は、前に觸れたとほり、いはゆる消極的な二元性の關係(原則的に相互不干渉の對等關係)にある。
典範は、皇室の家法ではあるが、「單純ナル皇室内部ノ家法ニ非ス」とされるのは、憲法との關係で、天皇と攝政といふ機關の存在がこれらの「畛域」に跨つてゐるからである。本來、皇統事項に屬する國體の部分は、萬世一系の皇統と宮中祭祀などであり、皇位繼承順位の固定化や皇族會議といふ機關やその他運用上の技術的規定などは本質的な部分ではない。
國體と典憲の相互關係
このやうに國體と典憲とは、相互に一部が重なり合ふ畛域が存在する。その關係を模式圖的に圖解すれば、章末の別紙二「國體典憲關係圖」のとほりとなる。
これは、三つの重なつた正圓が、上から時計回りに「文化國體」、「正統典範」、「正統憲法」の領域を意味する。そして、それぞれの正圓を、「文化國體圓」、「正統典範圓」、「正統憲法圓」と名付けるとする。
第一章で述べたとほり、文化國體は、規範國體の源泉となる事實の領域であるが、正統典範と正統憲法といふ規範領域との關係では、同じく規範國體の位相を決定する必要があるために、その説明の必要上ここに登場させたものである。
ただし、「正統典範」や「正統憲法」は、成文化された部分が一部あるものの、その全部が成文化されてゐるものではなく、また、規範國體の源泉となる「文化國體」は殆ど成文化されてゐないことから、これらの圖は、それぞれの影繪として平面的に投影されたものと理解されたい。つまり、この圖は、あくまでも平面的な模式圖であつて、立體構造的に認識しうる「文化國體」、「正統典範」及び「正統憲法」の立體的な重なり具合ひを平面的に表現した影繪(平面圖)である。從つて、實像的には、「文化國體」、「正統典範」、「正統憲法」の三つの「球體」が重なり合つた姿を想像されたい。
そして、これら三つの正圓(球體)が全て重なつた積集合部分(共通部分)を①とし、文化國體圓と正統典範圓の積集合部分のうち①の部分を除いた部分を②、正統典範圓と正統憲法圓の積集合部分のうち①の部分を除いた部分を③、文化國體圓と正統憲法圓の積集合部分のうち①の部分を除いた部分を④とする。そして、この三つの正圓の積集合部分である①を圓心とし、①②③④を包攝する中央の點線の正圓(①②③④⑤⑥⑦で構成されるもの。以下「平衡圓」といふ。)を描き、その圓弧によつて區分される文化國體圓の⑤と⑧の部分、正統典範圓の⑥と⑨の部分、正統憲法圓の⑦と⑩の部分の、合計十の部分に分割して、以下にそれぞれの説明することにする。
まづ、平衡圓のイメージについてであるが、これは、第一章で詳しく述べたルドルフ・シェーンハイマーの「動的平衡」の生命觀と、ブノワ・マンデルブロの「フラクタル構造」の自然觀を組み合はせたものに由來する。
すなはち、國家とは、唯物的な屬性だけでは到底把握できない時空間の存在であり、決してその本質を五感の作用によつて認識できない有機的な生命體であつて、その核心に國體がある。國家は、唯物的には、その領域と國民、そして政府とその統治構造が刻々と變化するものの、その國家としては同一性を保つてゐる。
鴨長明が見た「川」、釋尊が聽いた「祇園精舍の鐘の聲」、そして、ルドルフ・シェーンハイマーが見た「ネズミ」など、自然界に生起する一切の森羅萬象には、共通したフラクタル構造(雛形構造)があり、自然界の一部である人間世界についても例外ではない。そして、その存在態樣においても、「動的平衡」といふ永遠の眞理に貫かれてゐる。人の個體の同一性、家族の同一性、國家の同一性など、これらは全體として雛形構造で貫かれ、動的平衡を保つ點において共通してゐるのである。
人の個體生命が動的平衡の存在であれば、人の集團である家族、社會、そして國家もまた、水を湛へて流れる川のやうに、あるいは、回轉する獨樂(こま)のやうに、靜と動の虚實による平衡の存在である。さうであれば、國家の核心部分である文化國體、正統典範、正統憲法もまた動的平衡の部分があるはずである。そして、文化國體、正統典範、正統憲法は、それぞれ守備範圍を異にしながらも、それぞれ畛域を共有してゐることから、各々の固有の領域において、動的平衡を保ち、平衡の破壞を許さざる「變更禁止部分」(動的平衡部分)と、全體としての平衡を破壞しない限度で時代と環境の變化に順應(適應)しうる「變更可能部分」(動的順應部分)とがあるはずである。
つまり、文化國體圓、正統典範圓、正統憲法圓の積集合部分を圓心とする平衡圓は、その圓内の①②③④⑤⑥⑦の部分が「動的平衡部分」の領域となり、ここに屬する事項については、その制度の根幹を變更することは不可能となる(變更禁止部分)。その意味において、この規範國體の部分(平衡圓)は「根本規範」としての「規範國體」であり、この點線圓(平衡圓)は「規範國體圓」である。そして、その圓外の⑧⑨⑩の部分については、平衡圓内(規範國體圓内)の事項に牴觸しない限度において變更が可能である(變更可能部分)。もし、不變かつ普遍であるものを國體と定義するのであれば、⑧は、規範國體には含まれないことになるが、規範國體を保護する「根冠」(植物の根の最先端にある冠状の柔組織)に似た文化國體の部分として理解されることになる。つまり、變更不可能といふ點においては、平衡圓はまさに規範國體の範圍(根本規範)と一致することになる。
では、このやうに區分した上で、それぞれに屬する主な事項を説明しながら具體的に列擧してみる。
まづ、三圓の積集合である①は、規範國體の最も中核に位置するところで、我が國においては最も重要である。ここは、國家の生命的基軸となる本能と家族と祭祀の部分であつて、その最も重要な機能は、保存と維持であり、そのためには、原子、細胞、蟻や蜂などの生態、宇宙などに見られるやうに、國家においても核は不可缺で、それが我が國の宗家である皇室であり、すめらみこと(總命)である。また、國家の營みの根幹となる理念も、この①に位置することになる。それゆゑ、萬世一系の皇統、天皇祭祀(宮中祭祀と神宮祭祀)、國體の支配(法の支配)、王覇辨立、修理固成、天壤無窮、八紘爲宇、惟神の道(神道)、敬神崇祖、家族制度(家父長、家督、家産、世襲、相續など)、民俗祭祀(祖先祭祀、自然祭祀など)、やまとことのは(大和言葉)などが①に位置する。また、教育敕語に示された多くの德目などの精神的所産や、ことのはのみち(歌道)、言靈、數靈の教へなどの文化的所産も含まれる。そして、第六章で述べる自立再生論は、これらを維持し、齋庭稻穗の御神敕による自給自足體制を實現するための具體的な制度であるから、ここに位置することになる。
次に、文化國體圓と正統典範圓の畛域である②は、宗家である皇室固有のものが位置する。文化國體の中心には、神聖であり高貴なるものを求める心、祈りの心があり、皇室祭祀がある。そして、そのための男系男子の皇統と、それを示す三種の神器、皇家の自治と自律などがある。
さらに、正統典範圓と正統憲法圓の畛域である③には、攝政制度、國家變局時での規範改正禁止などが含まれ、文化國體と正統憲法の畛域である④には、大權制度、神聖不可侵(無答責、補弼制)、萬機公論制などがある。
そして、文化國體のその他の動的平衡部分である⑤には、民俗の傳統と祭祀などがある。また、正統典範のその他の動的平衡部分である⑥には、皇族會議の制度あり、正統憲法のその他の動的平衡部分である⑦には、法治主義、權力分立制、臣民の權利義務などがある。
そして、動的順應部分として、文化國體の⑧には、民俗、風習、歌舞音曲などの文化諸相など、正統典範の⑨には、男系男子における皇位繼承順位の決定方法など、正統憲法の⑩には、統治機構の技術的規定、たとへば、二院制、衆議院の優越性などがそれぞれ含まれることになる。靈峰富士(不二)の山の荘嚴さは、その広くて長い裾野が支へるのと同じやうに、國體の動的平衡部分は、動的順應部分が支へてゐるのである。
かくして、文化國體、規範國體、正統典範、正統憲法との相互の關係が理解されたものと思ふ。
男系男子の皇統
國體における最重要の内容の一つに、前に述べた男系男子の皇統がある。 このことに關連して、近年、DNA論で皇統を語る言説が多くなつてゐることが問題である。しかも、男系男子の傳統を擁護する者の中には、神武天皇Y染色體論を持ち出す者も多く、また、女系を容認する者の中には、天照大御神が女性神であるから女系が許されるなどとする天照大御神X染色體論(女性神論)を持ち出す者も出てきてゐる。
男系男子の皇統の規範的根據として、『養老令』にある『繼嗣令』の「皇兄弟皇子。皆爲親王。女帝子亦同。」といふ規定がある。この解釋について、女系容認論(高森明勅)は、「女帝の子また同じ」とし、否定論(中川八洋)は「女(皇女)は帝(天皇)の子また同じ」と解するのであるが、後者が正しいことは多言を要しない。正確には、「女帝子」を「女帝の子」(女系容認論)と解するのではなく、「女の帝子」、つまり皇女(内親王)と解するのであつて、「女帝の子」論は爲にする國體破壞の言説である。
しかし、男系男子の皇統を護持しなければならないのは當然であつても、このやうに、皇統をDNA論で語ることが皇統を護持することについて如何に有害であるかについての警鐘を鳴らしたい。
まづ、はつきりさせておきたいことは、生物學や遺傳學において、このDNAの意味するものは、これが「死」と「性差」の起源であるといふことである。
性の區別(性差)があるものは、交合生殖によつて種族保存を實現するために、例外なくDNAを持ち、そして必ず個體は死に至るといふ宿命がある。DNAを持つことは死の宿命であることの十分條件(sufficient condition)であるといふことである。もし、神に性差があるとすれば、それはDNAを持つ存在となり、壽命の長短はあつても、いづれは死を迎へるのであつて、「神は死んだ」と叫んだニーチェの言葉が正しかつたことが證明されることになる。
はたして、神に死があることを認める信仰が世界にあるのか。古事記上卷と日本書紀卷第一神代上及び第二神代下を素直に讀めば、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)とはそれぞれ「男性神」と「女性神」であり、それゆゑにイザナミノミトコは死んで(神避りましき)黄泉國へ行つたとされてゐる。しかし、イザナギノミコトはどうして死なないのか、イザナギノミコトが禊祓して「左の御目を洗ひたまふ時に」、その男性神からどうして天照大御神が生まれるのか、どうして急にイザナギノミコトは女性神となつたのか、そのときの男性神は誰なのか、などといふ粗野ではあるが素朴な疑問に對峙するとき、このやうな解釋で果たしてよいのかと戸惑ふことになる。
つまり、この神話は何らかの寓意であつて、神の世界では、死といふものはなく、黄泉國も死後の世界を意味しない。また、性の區別もなく、その「作用」があるだけである。前に述べたとほり、「禮之用、和爲貴」(禮の用は和を貴しと爲す。論語)や、「能に體、用(ゆう)の事を知るべし。體は花、用は匂いの如し。」(至花道)といふやうに、物事の本質や本源を「體」とし、その作用や働きを「用(ゆう)」として區別すれば、神には、性別の「體」はなく「用」があるのみである。
つまり、イザナミノミコトや天照大御神は「女用神」であつて、「女體神」ではない。また、イザナギノミコトや建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)は、「男用神」であつて「男體神」ではない。神に性差を認めることは、そのDNAを認めて死を宿命付けることとなり、神道としては成り立たない。
それゆゑ、神武天皇Y染色體論から必然的に生まれるものは、その神武天皇のY染色體はどこから由來したのかといふ疑問であり、その探求をして行くと、ついにはイザナギノミコトY染色體論へと辿り着くことになる。そして、その過程で生まれるのが、天照大御神X染色體論である。ここまで來れば、神武天皇の神格どころか、天照大御神の神格を否定し、ついには神世七代と別天つ神五柱のうち「身を隱したまひき」とある神々について、これを「死」と解釋してこれらの神格をも否定するに至る必然性を持つてゐる。
そもそも、神武天皇Y染色體論とは、「男系男子の皇統」といふことを表現する手段として、未解明な遺傳學のDNA論の流行に便乘し、「男系男子の皇統」といふ傳統的な言葉を「神武天皇Y染色體の繼承」といふ新しい言葉に置き換へれば、解らない者も解つたやうな氣分に浸れるといふ外連味(けれんみ)の效果を狙つた小賢しい言説であつて、決して「男系男子の皇統」であるべき根據を示すものではなく、何ら深みのある見識ではない。それどころか、その説明の手段として用ゐたDNA論が却つて皇統を辱めることになるのである。
このやうに、ミトコンドリア・イヴやY染色體アダムなどの議論に振り回されるDNA論から派生して、神武天皇Y染色體とか、天照大御神X染色體(女性神)とかの議論を以て皇統を語ることが許し難い誤りであることの大きな理由が、まさにここにある。
そして、さらに、DNA論には、もう一つ大きな誤謬がある。
それは、DNA論は紛れもなく「唯物論」であるといふ點である。天皇の血統といふこと自體が唯物論であるが、皇統にとつて最も重要なものは、血統とともに、皇靈(すめらみたま)を繼承する靈統なのであり、その核心に宮中祭祀と神宮祭祀とによる天皇祭祀がある。
DNA論では、この皇靈を全く説明できないし、なによりも、これ自體を否定するものである。このことは、決してDNA論自體の學問的價値を否定してゐるのではない。DNA論といふ唯物論を振りかざして、皇統を語ることの危險を指摘してゐるのである。靈統を核とする皇統を唯物論であるDNA論で語ることの無理を指摘してゐるのである。ところが、專門バカか、バカ專門かは知らないが、皇統の何たるかを知らないDNA論者が未だに一知半解の議論を繰り返してゐるのは、反皇統の謀略としか考へられない。
思ふに、そもそも、男系男子の皇統が傳統として守られてきた根據は、主に次の三點である。①女人禁制の宮中祭祀が存在すること、②天皇は大元帥の地位にあること、③閨閥による皇位簒奪の危機を回避すること、である。
男系男子の皇統は國體を構成する傳統的要素であつて決して理屈ではない。これは最高規範たる規範國體そのものである。皇統は、皇祖皇宗の血統の器に皇祖皇宗の皇靈(すめらみたま)を受け繼ぐ靈統を意味するものであつて、その血統と靈統の證を核心付けるものが宮中祭祀であり、この宮中祭祀のうち、天皇御親ら行ふ祭典(大祭)には、春季皇靈祭や秋期皇靈祭などのやうに女人禁制の儀式がある。
また、肇國以來、天皇は躬ら大伴物部の兵(つはもの)どもを率ゐた大元帥であり、常在戰場の激務であることから、生理的、體力的な理由からして男子でなければならない。大化改新後の多難時に百濟救援の皇軍を統帥された斉明天皇の場合は例外であるが、これはあくまでも唯一の例外である。神功皇后の例は例外とは言へない。前に述べたとほり、明治政府においても、明治十一年に參謀本部が設置され(參謀本部條例)、翌十二年に「天皇自ら大元帥の地位に立ち給ひ、兵馬の大權を親裁し給ふ」との布告が出され、明治十五年には「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」との軍人敕諭が完成してゐる。つまり、「統帥」は、主に「國務」を規律した明治二十二年の帝國憲法よりも早く完成してをり、これが統帥權の獨立といふ過度な政治的主張の根據ともなるのであるが、いづれにせよ、ここにも、大元帥は男子天皇でなければならないとする傳統の明徴が見られる。
そして、蘇我氏、藤原氏、平氏などの君側が勢力を伸長するのは、常に天皇との外戚となつて閨閥を強化する過程を辿り、これにより閨閥政治が行はれて私物化されてきた歴史がある。中臣鎌足は、天智天皇から藤原の姓を賜つたとき、藤は自ら天を突く巨木にならないがその強靱な蔓によつて天皇といふ巨木に絡まつて生きるであらう、と賜姓の思惑を一族の者に語つたと傳へられてゐるやうに、環境によつては、蔓によつて巨木が逼塞することもあり、實際にも幾度となくその危險はあつた。もし、男系男子の皇統を護持しなかつたならば、閨閥による皇位の簒奪が繰り返されることになつたはずである。これは、閨閥が君側の奸となる可能性が一番大きいといふことを意味する。そもそも、君側の奸を除くといふことは、安祿山が、唐の玄宗皇帝の后となつた楊貴妃の又從兄弟として宰相李林甫を凌ぐ權力を握つた楊國忠を除くために擧兵した際に掲げた言葉であつた。それゆゑ、このやうな混亂と危險から皇統の安泰を圖り、閨閥や外戚による皇位簒奪の危機から皇統を護持し續けるための叡智として、閨閥と外戚などの相互牽制による動的平衡を保つて男系男子の皇統を守り續けたものであつて、これが規範國體となつたのである。
このやうに、この男系男子の皇統の根據は、これらの理由によつて續けられてきたその「傳統」といふ國體規範に求めるられるものであつて、決して神武天皇Y染色體論といふ輕薄なものを根據とするものではない。この神武天皇Y染色體論に與して男系男子の皇統護持を主張することは、皇統を唯物的、生物學的なものとして蔑む元凶となり、天照大御神X染色體論(女性神論)に對して全く反駁できずに完敗する。
警戒すべきことは、皇統を辱め、皇統斷絶をさせる明確な意圖を持つて、あへて神武天皇Y染色體論を唱へ、これが天照大御神X染色體論(女性神論)に敗北することを論理的、科學的に必然であることを明確に想定してゐる者の集團が居ることである。そして、その集團の言説に引き摺られ、多くの無明の者が騙されて、この神武天皇Y染色體論に同調してゐるのが現状である。まさに後に述べる「ハーメルンの笛吹き男」と、これに惑はされたネズミの大群と多くの子供たちである。
この天照大御神X染色體論(女性神論)に對する反駁は、DNA論ではその敗北は必至であり、今まで述べてきた「傳統論」、「國體論」でなければ不可能である。それは、これまでの理由に加へて、以下のやうに反駁すべきものである。
假に、天照大御神からの皇統の源流が、初めは女系から出發したものであるとしても、それは一回的な「先例」であつて反復繼續した「傳統」ではない。歴史的に見ても、一回的な「先例」は單なる例外であつて、今日まで反復繼續して守られてきた「傳統」といふ大原則を改變する力はない。女系容認は、「先例」と「傳統」とを完全に混同し、意圖的にすり替へるものである、と。
また、嚴密に云へば、假に、天照大御神を「女用神」ではなく「女性神」とし、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)とはそれぞれ「男性神」と「女性神」であるとして、あたかも神格に性差を認める暴論に立つたとしても、伊邪那岐命から神武天皇に至る神格の繼承は、建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)を經由した「男神系」で貫かれてをり、皇統は天照大御神を始源とするものではない。よつて、天照大御神X染色體論(女性神論)を根據とする女系容認論は完全に破綻してゐる。男系男子の皇統は、規範國體なのである。
