概念の整理
これまで、いくつかの基本概念を折に觸れて述べてきたが、これから占領典範と占領憲法の效力論を述べる前に、そこで登場する基礎的な概念をここで整理しておく必要がある。
法律學は、社會科學であり論理學に基づくものであるから、特定の概念を定義し、その概念が適用される事物のすべてに共通する性質の總體(内包)を確定させて、これに適用される事物(外延)を特定させる。
そして、法律學においては、權利と義務、物權と債權、債權と債務などのやうに、相容れない對立する概念を構築し、その概念には外延において重なるもの(共通するもの)がないとする「峻別の法理」を用ゐて、それをすべての法律事象に當てはめて分類し分析する論理的な學問である。もちろん、ここで議論される、「效力」の有無としての「有效」と「無效」といふ概念も法律學の中心的な概念の一つであることはいふまでもなく、前に述べた成立要件と效力要件(有效要件)との區別、行爲規範と評價規範の區別は、占領憲法の效力論を論ずるについては最も重要な概念である。
不成立、無效、取消
「無效」とは、一旦は外形的(外觀的)に認識し得た立法行爲が、その成立要件ないし效力要件(有效要件)を缺くために、當初に意圖された法的效果が發生しないことに確定することを言ふ。換言すれば、外形的にはその立法行爲(占領憲法)は存在するが、それが所與の内容と異なり、または所定の方式や制限に反し、あるいは内容において保護に値しないものであるが故に、初めからその效力が認められないことである。外形が整へば「存在」するが、その效力が認められないことから、外形すら整つてゐない「不存在」とは異なることは前に述べたとほりである。占領憲法が無效であるといふ意味は、帝國憲法第七十三條に定める形式的手續の「外觀」を整へて(裝つて)周知され認識できたとされてゐるものの、それが「無效」であるとするのであつて、決して「不存在」といふ意味で主張してゐるのではない。さらに、附言すると、成立要件を滿たさない意味での「無效」の場合と、效力要件を滿たさない意味での「無效」の場合の雙方があることも前述したとほりである。
ただし、嚴密には、成立してはゐるが、未だに效力を有しない状態(未發效状態)といふものがある。たとへば、法律として公布されたが、その施行前の状態の場合である。これは、状態的には、「成立有效」(成立し、かつ有效である)ではなく、「成立無效」(成立はしたが無效である)に屬するが、將來に有效化しうる可能性のある「不確定的無效」であり、中間形態としての「成立未發效」(成立はしたが未だ發效してゐない)といふものである。
また、無效といふのは、行爲の時から效力を有しないことであり、事後に無效であることが判明しても、そのときから效力がなくなるのではなく、初めから效力がなかつたとして處理されるのである。その意味では、行爲の當初に遡つて無效として處理されることになるが、それは、次の取消のやうに、取消す時まで有效で、取消してから當初に遡つて無效となること(遡及效)とは異なり、始源的に無效であり、無效であることに氣付くか否か、それによつて何らかの意思表明をしたか否かとは無關係に當初から效力は認められないといふことである。
それゆゑ、「不遡及無效」といふ概念、つまり、無效ではあるが、無效を主張したときに、將來に向かつてのみ無效となるやうな概念を認めることは、取消との區別が付かず、無效の概念を混亂させ破壞させるに至る。
ところで、民法第九十六條第一項には「詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる(詐欺又ハ強迫ニ因ル意思表示ハ之ヲ取消スコトヲ得)。」とあり、これは詐欺又は強迫による意思表示であつても一應は「有效(不確定的な有效)」であつて、それを「取消」の意思表示をなすことによつて、行爲時に遡つて確定的に無效とするのである。これが「取消しうべき行爲」といふ概念である。
これは、英米法における「不當威壓(undue influence)」の法理に由來するもので、支配的地位に立つ者がその事實上の勢力を利用して、服從的地位に立つ者の自由な判斷の行使を妨げ、後者に不利益な處分または契約をなさしめた場合には、自由恢復の後において、その處分なり契約を取消して無效を主張することができるとされてゐるものである。そして、特に、その詐欺または強迫の程度が著しく自由意思によらない強制下でなされたときは、意思の欠缺となり、その瑕疵の著しさ故に、取消の意思表示やその他の觀念の表明を必要とせずに當初から「無效」と評價される。これは、私法理論であるが、およそ社會關係に遍く適用される法理であつて、公法にも適用があることは疑ひはない。
ところで、「取消しうべき行爲」は、「瑕疵ある意思表示」であり、後に「取消」によつて遡及的に確定的に無效とすることができるし、あるいは逆に、後述するやうに「追認」することによつて確定的に有效とすることもできる。これは、およそ效力評價において、無效か有效かといふ峻別の法理からして例外に屬する範疇である。このやうな概念が定立されるのは、當事者の利益衡量を精緻にすることを目的とする私法固有の事情によるものであつて、私法の中でも團體法において、また、公法においては、法的安定性を重視するため、有效か無效かの二分法による峻別の法理が原則通り適用される。後に述べる「事情判決の法理」や「裁量棄却判決の制度」も、理論上はこの例外ではないのである。
それゆゑ、占領憲法の效力論爭においても、後述するとほり、制定時において、その目的、權限機關、内容、手續、時期などに瑕疵があれば無效、瑕疵がなければ有效として評價されることになり、「取消しうべき改正行爲」といふ概念は成り立たない。現に、この效力論爭において「取消説」なるものは存在しないのである。 また、有效説の中には、追認、時效などの私法理論を援用するものがあり、これに對して、これらの普遍的法理を無效説の論據及び反論として援用することも認められて然るべきものであるから、以下、特段に排除する根據と理由がない限り、私法理論の普遍的法理を占領憲法の效力論に援用するものとする。
ともあれ、この「無效」とは、無效であることを確定させるための新たな立法行爲(占領憲法無效化決議)をしなければならないものではない。法律的、政治的、社會的には無效であることを「確認」する決議(無效宣言決議)をすることは政治的には望ましいものの、それをしなければ「無效」が確定しないものでもない。また、後述するとほり、その政治宣言としての無效宣言決議をなすについては、占領憲法は無效であるから、占領憲法第九十六條の「改正條項」の適用はなく、過半數原則による通常の國會決議で充分であるといふことになる。
なほ、ここで「有效」と「無效」の區別を説明したが、さらに本質的な事項について説明する必要がある。「有效」とは概ね法令に適合してゐる場合であり、「無效」とは概ね法令に違反してゐる場合であつて、適合ゆゑに有效、違反ゆゑに無效である。しかし、必ずしもさうではない。法令の規定であつても、それに違反しても無效とはならないとする規定もある。それを「訓示規定」といふ。一定の行爲を禁止し、一定の行爲を命ずるものの、それはあくまでも「原理」(principle)であつて、これに違反したとしても無效とはならない規定のことである。これは極めて例外的なものである。そして、原則通り、その規定に違反すれば無效となる規定のことを「效力規定」といふ。その規定の性質は、訓示規定の場合のやうな「原理」(principle)ではなく、「準則」(rule)である。つまり、「效力規定」といふのは、違反行爲ないしは違反法令が法秩序と法體系を侵害するものであることから、當該規定に違反した行爲ないしは法令を無效とする規定のことである。
この區別からすると、國家における重要法令、特に憲法などの規定は、すべて例外なく「效力規定」である。それゆゑ、憲法の各條項に違反するものは、すべて「無效」といふことになるのである。效力論は本質的な問題であるから、憲法典に違憲審査制度に關する手續的・形式的規定があるか否かによつて左右されるものではない。もし、憲法改正行爲などの立法行爲(規範定立行爲)が憲法に違反するが、それ自體が無效とはならないといふ例外を肯定するとすれば、その例外であることの特段の事情などについての立証責任は、例外であることを主張する者の側にある。それゆゑ、その者が例外であることの立証に成功せず、あるいは沈黙することは、違憲無效であることを承認することになるのである。
破棄
次に、「破棄」とは、一旦成立し、しかもその效力要件(有效要件)を滿たしてゐるので「無效」ではなく、あくまでも「有效」ではあつたが、當初からその立法行爲(占領憲法)自體に内容的な缺陷や瑕疵があつて、その法をそのまま容認して繼續させることができない場合(始源的事情の場合)、あるいは、その施行後に、立法行爲時(占領憲法制定時)に存在した社會環境や政治環境などに變化が生まれ、立法行爲(占領憲法)をその後も繼續して施行しえない事情が生じた場合(後發的事情の場合)において、その立法行爲(占領憲法)を將來に向かつてその效力を消滅させることである。つまり、始源的事情の場合であつても、その瑕疵の程度が「無效」とするまでに至らないし、また、後發的事情の場合であつても、その事情の變更によつて當該立法行爲(占領憲法)が遡つて無效となることまでを意味するものではない。しかし、「無效」の場合と異なり、「破棄」は、そのための新たな立法行爲(占領憲法破棄決議)が必要となる。そして、「破棄」されるまでは「有效」であるから、これを破棄するといふのは占領憲法の全面的かつ消極的な「改正」(削除改正)であつて占領憲法第九十六條の改正手續によらなければならない。さらに、破棄した結果、帝國憲法に復元するのか、新たな成文憲法を制定するのか、あるいは成文憲法を制定しない(不文憲法)とするのかといふ點については、破棄決議(立法行爲)において確定されなければならないことになる。
このやうに、「破棄」とは、私法の領域でいふ「取消」と似たところがある。しかし、この「破棄」の用語は、法律用語として一義的な嚴密さはなく、占領憲法が「無效」であるから、これを形式上も排除する趣旨で「破棄」するといふ用語例もありうるから、これは法律用語といふよりも日常用語ないしは政治用語であつて、嚴格な定義を求められる「效力論」の領域にこの不明確な概念である「破棄」の概念を持ち込むことは妥當ではない。
失效
さらに、これに類似したものとして「失效」がある。これは、一旦成立し、しかもその效力要件(有效要件)を滿たしてゐるので「無效」ではなく、あくまでも「有效」ではあつたが、その施行後に、立法行爲時(占領憲法制定時)に存在した社會環境や政治環境などに變化が生まれ、立法行爲(占領憲法)をその後も繼續して施行しえない事由が發生して、その立法行爲(占領憲法)を將來に向かつて(あるいは制定時に遡つて)その效力が消滅することが確定することである。この「失效」には、改めて「失效」のための立法行爲(占領憲法失效決議)は不要である。これは、「無效」の場合と同樣であり、「破棄」の場合と異なる。
そして、この「失效」は、私法の領域でいふ「解除條件付法律行爲」と似てゐる。つまり、これは、ある條件が成就すれば、それまで效力のあつた法律行爲が自動的に消滅する場合であつて、この條件のことを「解除條件」といふ。たとへば、落第したら奬學金の給付を取りやめるといふやうに、法律行爲の效力の消滅を將來の不確實な事實にかからしめることを條件(解除條件)とする契約のやうな場合であり、もし、落第すれば、改めて解除などの意思表示をすることなく當然に消滅するのである。
また、私法の領域において、この解除條件成就による「失效」と類似したものとして、「事情變更の原則」による「失效」がある。これは、當事者が豫期しえず、當事者が認識してゐた信賴關係を破綻させるやうな著しい事情の變更が事後に發生した場合には、その契約をその事情の變更の樣相に對應させて改訂させ、あるいは契約を存續できない程度の事情が發生したのであればこれを消滅(解除、失效)させるといふ法理である。
これに關連する學説として、占領憲法無效説の一種とされてゐる占領憲法失效説(菅原裕)がある。この失效説は、我が國が本土だけの獨立を回復したこと(占領終了)を解除條件とし、あるいは、その背景には本土の獨立の回復を以て社會環境や政治環境の變更があつたとして、その時點において占領憲法は「失效」したとする見解であり、憲法としては無效であるが、占領憲法といふ名の占領目的の「管理基本法」としては本土の回復(占領終了)までは有效であつたとする。
しかし、占領憲法は、最高法規性(最高規範性)を謳ひ(第九十七條)、憲法尊重擁護義務(第九十九條)を規定することからしても永續性を豫定してをり、我が國の本土だけが獨立するまでの時限立法(限時法)の趣旨を含んではゐない。あくまでも「恆久法」としての體裁を整へてゐる。
また、ポツダム宣言第七項には、「右の如き新秩序が建設せられ、且日本國の戰爭遂行能力が破碎せられたることの確證あるに至る迄は、聯合國の指定すべき日本國領域内の諸地點は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する爲占領せらるべし。」とあり、わが國本土の獨立回復(占領終了)は、ポツダム宣言による「保障占領」の目的達成後に實現されることが豫定されてゐた。それゆゑ、本土の獨立回復(占領終了)は當初から豫期されたことであつて、その後の獨立の回復は豫期しえない事情の變更ではない。
また、帝國憲法の改正として成立したとする占領憲法が何ゆゑに「占領管理法」といふ議會などの立法機關により成立する「法律」なのか。憲法改正としては無效であるのに、その下位法規である「法律」として有效であるとする根據は何か。この管理基本法が本土獨立回復(占領終了)を解除條件とする根據はどこにあるのか。だれがそれを解除條件として決定(合意)したのか。この「管理基本法」といふ命名が、占領憲法を揶揄するためのものであれば單なる感情論であつて法律論ではない。このやうな點が解明されてゐないために、この失效説(舊無效論)は説得力を缺いてゐると云はざるをえないのである。
廢止と改正
次に、「廢止」と「改正」とは、立法行爲(占領憲法制定)を「有效」とした上で、事後にそれを消滅させ(廢止)、あるいは變更(改正)する立法行爲である。これは、いづれも占領憲法を有效とすることを前提とする點において共通する。條項的な變化としては、前者は全部削除、後者は一部削除と一部追加である。
また、「廢止」と「改正」は、その立法行爲を行ふことの理由があることが普通であるが、その理由は何であつてもよい。内心は、押し付け憲法であるといふ愚癡であつてもよいし、氣に入らないからといふ氣まぐれでもよいし、表向きは、時代に對應できないといふ現實論であつてもよく、特に理由は限定されてゐない。否、理論的には何らの理由も要らないのである。
そして、この「廢止」とは占領憲法の全否定であり、この方向と對極にある理念が占領憲法の「護憲論」である。その護憲論(似非護憲論)には、占領體制を占領憲法のまま完全に維持するとの「反改憲的護憲論」(改正反對護憲論)と、占領憲法を修正しつつ、あくまでも占領體制の基本を維持するとの「改憲的護憲論」(改正贊成護憲論)がある。いづれも占領憲法信奉論者の見解である。
なほ、「廢止」した場合、帝國憲法に復元するのか、新たな成文憲法を制定するのか、あるいは成文憲法を制定しない状態(不文憲法)とするのかといふ點について、「廢止」の際に確定しなければならないことは「破棄」の場合と同じである。
追認
「追認」とは、「破棄」のところで述べたとほり、私法の領域でいふ「取消」の對極にある概念である。つまり、GHQの強迫により國家の自由意志を抑壓してなされた立法行爲(占領憲法の制定)に瑕疵があり、「不確定的な有效」と評價されるものについて、それを將來に向かつて「確定的に有效」であることを承認する行爲のことである。つまり、二度と取消をすることができないといふ意味では「取消權の放棄」である。
また、前述したとほり、その瑕疵の程度がさらに著しいときは、「取消しうべき行爲」ではなく「無效」であるが、この場合にも一般的には「追認」ができるとされてゐる。つまり、「無效行爲の追認」である。
ただし、「取消しうべき行爲の追認」の場合は、行爲時(立法時)に遡つて確定的に有效となるのに對し、「無效行爲の追認」の場合は、追認時から有效となつて遡及效がないといふ違ひはある。
ところで、無效とされる行爲(無效行爲)には、追認可能な無效行爲と追認不可能な無效行爲との區別があることに留意しなければならない。單なる手續の不備などがあつた場合のやうに、法の效力要件要素たる妥當性を缺かない場合に限られるのであつて、他國の武力による占領中に改正を強制するなど、國際法の求める正義(妥當性)に反して制定された占領憲法の場合は、追認しえない無效行爲に該當することは明らかである。
民法においても、たとへば、殺人依賴の見返りとしての報酬約束などは公序良俗に違反することを理由に當然に無效であるが、このやうな公序良俗違反の無效行爲については追認はできない。なぜならば、その追認を認めると、その公序良俗違反行爲を結果的に許容することになり、それ自體が公序良俗に違反するからである。これと同樣に、占領憲法を暴力と強制で制定させたことの違法性は、公序良俗違反以上ものものであり、法の妥當性を缺く。これを追認することは、暴力の容認、暴力の禮贊に他ならず、その後の國際社會においても、軍事力によつて他國を制壓占領して憲法を改正させるといふ行爲の反復と繼續を容認することでもあるから、追認できない無效行爲である。
次に、「追認」がなしうるとしても、その時期については制約がある。「追認は、取消しの原因となっていた状況が消滅した後にしなければ、その効力を生じない(追認ハ取消ノ原因タル情況ノ止ミタル後之ヲ爲スニ非サレハ其效ナシ)。」(民法第百二十四條第一項)とあるやうに、「原因タル情況(状況)」が終了した後でなければ追認することができないといふことである。詐欺であれば、騙されたことを知り、強迫であればその強迫状態から解放されて、自由な意思を以て判斷できる情況になつて初めて追認できるのである。
後に詳しく述べることになるが、占領憲法の場合は、そもそも追認できる無效行爲ではないのではないか(追認の適格性)、はたして誰が追認できるのか(追認權の歸屬、追認機關)、追認しうる時期は到來したのか(追認時期)、追認の手續はどのやうなものか(追認手續)、現在において追認したと判斷できるのか(追認の有無)、もし、追認したとすればそれは有效なのか(追認の效力の有無)などについて問題がある。
結論を言へば、占領憲法は追認によつてその違法を治癒できる性質のものではなく(追認不適格=追認不可能な無效行為)、しかも追認の外形的事實もなく(追認不成立)、假にあつたとしてもその追認自體が無效であり(追認無效)、さらに、追認の時期も到來してゐない(追認時期の不到來)ので、追認があつたといふことはできない。
法定追認
さて、この追認に類似したものとして、「法定追認」といふ概念がある。これは、民法第百二十五條に定められてゐるとほり、追認行爲はなくても、追認と同視しうるやうな事態が生じた場合に、その事實を以て追認をしたものと擬制する制度のことである。もちろん、その事實の發生時期についても「追認をすることができる時以後」であることは追認の場合と同じである。
追認は法律行爲であるが、法定追認は法律行爲ではない。追認をなしうるためには、取消うべき行爲を行つたときと同じ方法と程度で追認の意思表示することが必要であつて、無效な規範を追認する場合においても同樣である。それは、たとへば、帝國憲法第七十三條に基づいて天皇が改めて占領憲法を追認のための發議をなし、少なくともその規範の追認を行ふために新たに設置された帝國議會と同視しうる國家機關によつて、占領憲法の制定手續と同等以上の審議をして承認議決(追認議決)を行ふといふやうな明確な憲法的追認行爲がなくてはならない。
ここで、重要なことは、この追認は、占領憲法で設置された國會が行ふことができないといふことである。なぜならば、追認とは追認權を有する「本人」が行ふものであり、國家のやうな法人の場合は、權限機關(帝國憲法においてその權限を行使しうる國家機關)が行ふもので、帝國憲法を否定して制定されたとする占領憲法によつて設置された「國權の最高機關」(占領憲法第四十一條)である「國會」は、その「權限機關」ではない。本人(權限機關)を強制した者(占領憲法)によつて設置された機關にすぎず、GHQの承繼人である。この國會が追認議決ができるとすることは、泥棒や詐欺を行つた者またはその承繼人が追認できることを認めることに等しい。泥棒や詐欺師の側が、「これは俺のものだ」と宣言しても、それは追認とは云はない。追認は被害者が自發的に行ふもので、加害者が開き直ることを許す制度ではないからである。
また、法定追認の場合は、そのやうな明確な國家行爲がない場合か、あるいはこれと類似した手續を行つたものの、それに不備があつて追認がなされたとは評價できない場合など、何らかの追認類似の事實があり、それに付加された補強的事實が加味されて、追認があつたと擬制されることなのである。それゆゑ、これまで追認も追認拒絶も行ふことがなかつたといふ「不作爲」を以て法定追認とされることは決してありえない。ましてや、これから國會で追認決議したとしても笑止千萬である。
いづれにせよ、占領憲法は追認適格がなく、しかも、その占領憲法で設置された國會などは追認機關ではないので、追認されることはありえず、從つて、追認と同視しうる法定追認が適用される社會的事實の集積もないことは明らかであるが、さらに加へて、後に述べるとほり、占領憲法の追認をなしうる時期は未だ到來してゐないのであるから、追認あるいは法定追認によつて占領憲法が有效となることは到底あり得ないのである。
規範の轉換
「無效行爲の轉換」といふ概念がある。そして、これと類似したものとして、「無效規範の轉換」といふものがある。無效行爲の轉換といふのは、ある法律行爲(立法行爲)がそれ自體としては無效であるとしても、それが他の法律行爲(立法行爲)の要件を具備してゐる場合には、法的安定性を維持する見地などから、その無效行爲が別の法律行爲として成立し、その有效要件を滿たせば效力を生ぜしめることをいふ現象であり、一般には私法行爲に妥當する理論であるが、公法についても應用されてゐる。これは、前に述べた「評價規範」による效力要件の充足といふ現象である。
私法の例で言へば、地上權設定契約としては無效な行爲を賃貸借契約としては有效であると評價したり、手形としては無效(手形行爲の無效)なものを借用證書としては有效(金錢消費貸借契約の有效)であるとするやうな場合である。
これらの例は、無效な契約が別の契約と評價される場合であるが、無效な「單獨行爲」(相手方の行爲を豫定しない單獨の法律行爲)が別の「契約」(二人以上の當事者の合意によつてなされる法律行爲)として有效であると評價される場合もある。それは、無效な自筆證書遺言が死因贈與に轉換する事例である。具體的に云へば、ある人(甲)が、自己の遺産を他人(乙)にすべて遺贈するといふ自筆證書の遺言書を作成し、それを乙に手渡し、くれぐれも後のことは賴むと依賴したとする。ところが、甲が亡くなつてから、その自筆證書の遺言書を家庭裁判所で檢認したところ、自筆證書の要件を滿たさないために、結局はその遺言が無效と判斷されるといふことがある。このやうなことは、自筆證書遺言について民法が嚴格な要件を定めてゐることから頻繁に發生しうる事態である。ところが、同樣の事案において、裁判所は、これを死因贈與とみなすとの判斷を下した(水戸家庭裁判所昭和五十三年十二月二十二日審判、東京地方裁判所昭和五十六年發月三日判決、東京高等裁判所昭和六十年六月二十六日決定、東京高等裁判所平成九年發月六日決定など)。つまり、この無效な遺言書は、甲が乙に對して、自己が死亡したときに乙に贈與するといふ死因贈與契約(死亡を停止條件とする贈與契約)の申込文書であり、これを乙に交付することによつて、その申込をなし、乙は、これを受け取つてその内容を知らされた上で承諾したのであるから、贈與契約が成立したと看做すことができるといふ論理を示したのである。これは、甲と乙との間で、初めから死因贈與の合意があつたとしたのではない。當事者雙方は、その意思がなく、その意思表示もしてゐない。行為規範としては遺言は無效ではあるが、それを評價規範により贈與契約としては有效であることを肯定したといふことである。
これを公法の規範定立行爲に當て嵌めた場合、ある法規(立法行爲)が無效とされた場合、それがその上位に位置する法規として有效とすることはおよそあり得ないが、下位に位置する法規として有效と評價しうることがあり得るが否か、具體的には、占領憲法が帝國憲法の改正としては無效であつたとしても、帝國憲法の下位法規である條約、法律、敕令などとして有效と評價し得るか否かといふことになる。これが、「無效行爲の轉換」と類似した「無效規範の轉換」といふ現象である。後に述べるとほり、帝國憲法第七十六條第一項は、この無效規範の轉換を肯定する根據となつてゐる。
この條項は、極めて重要である。それは、後述するとほり、占領憲法が國内系の規範として制定されたことからすれば、それは「單獨行爲」といふことになるが、その無效な「單獨行爲」(帝國憲法の改正)が國際系に屬する講和條約といふ「契約」(占領憲法條約)として評價できるとする眞正護憲論(新無效論)は、この帝國憲法第七十六條第一項の規定を根據とするからである。この第七十六條については、「憲法施行以前ニ於ケル法令及契約ノ效力ヲ規定シタリ」(文獻6)とする解釋がある。憲法制定時において、そのやうな要請から生まれた規定であるといふ沿革があつたことは確かである。しかし、この規定には、「憲法施行以前」といふ限定の文言は全くないので、ことさらに「憲法施行以前」に限定して解釋する根據に乏しいものがある。それどころか、憲法施行以前といふのは、憲法は存在するがその效力の發生が停止されてゐる状態と理解すれば、憲法施行以後であつても、國家の異常な變局時に憲法の效力が事實上停止されてゐる状態と全く同樣である。それゆゑ、憲法の效力が停止されてゐる状態であれば、施行の前後で區別する必要はなくなる。施行以後においても憲法の效力が事實上停止されてゐたり、事實上の障碍が存在する場合にも同條が適用されることは當然のことであり、少なくとも類推適用が肯定されるとすることに問題はない。そして、GHQの軍事占領下の我が國の法的状況は、まさにそのやうな状態であつたのであるから、同條が適用されることに異論はないはずである。
ところで、このやうな「無效規範の轉換」、すなはち、嚴密には、無效な規範が種類の異なる他の規範へと轉換するといふ現象以外に、有效に規範が成立した場合、それがそれより上位に位置する規範として評價される場合がある。いはば、「有效規範の轉換」である。これは、第一章の「行爲規範と評價規範」のところで述べた、刑法典、民法典の基本的規範や、君が代、日の丸などのやうに、法律として成立したものが規範國體として評價できるといふことを指す。
このやうな「無效規範の轉換」や「有效規範の轉換」といふ「規範の轉換」現象は、まさに法の科學である評價規範の作用として認められるのである。
