占領憲法の無效理由の概要
規範國體の最高規範性、根本規範性からして、GHQの完全軍事占領下の「非獨立」状況で制定された「日本國憲法」といふ名の「占領憲法」は、規範國體に違反してゐるので、最高規範及び根本規範としては無效である。つまり、少なくとも、その名稱とは無關係に、正統憲法に屬する規範ではないといふことである。
そもそも、占領憲法と占領典範の制定は、東京裁判(極東國際軍事裁判)の斷行と竝び、我が國の解體を企圖したGHQの占領政策における車の兩輪とも云ふべき二大方針として敢行されたものであり、それがいかなる論理や手續によつたものであつたとしても、占領憲法と占領典範の無效性は、これが最高規範、根本規範である規範國體に違反することだけで必要かつ充分な根據となるのである。
私見によれば、占領憲法は、國内系の正統憲法としては認められないが、帝國憲法第七十六條第一項により、國際系の講和條約の限度で認められるものである。つまり、端的に言へば、占領憲法は憲法としては無效であり、講和條約の限度で認められるといふことである。その理論的な説明の詳細は次章に讓るが、本章では、占領憲法の無效性を中心に述べ、講和條約として評價できる點についてはその骨子を概觀するに留める。そして、これらの理論體系に必要となる法令上の主要な根據としては、帝國憲法の第十三條(宣戰大權、講和大權、一般條約大權)、第七十三條(憲法改正の發議大權と改正手續)、第七十五條(憲法改正禁止條項)、第七十六條第一項(適正法令の評價規範)であり、さらに、第八條(緊急敕令)、第十一條(統帥大權)などであることに注目されたい。
無效理由については、前に述べたとほり、國體論、主權論、成立要件論、效力要件論、有效説批判の五つに分類されるが、要素還元的に論述することが困難であることは占領典範の無效理由の場合と同じである。また、占領憲法の無效理由は、占領典範の無效理由と共通する點も多く、これまで述べた占領典範の無效理由に付加する點もある。從つて、以下においては、占領典範と共通する無效理由として重複するものも含めて、事項毎に羅列的に述べることとする。
なほ、前にも説明したが、以下の十三の理由のうち、「無效理由その十二」と「無效理由その十三」の二つについては、占領憲法固有の無效理由であり、その餘の無效理由その一からその十一はすべて占領典憲共通の無效理由である。
無效理由その一 改正限界超越による無效
典憲には改正ができないものがあることは、第一章で國體論について述べたとほりである。最高規範・根本規範である規範國體に牴觸する改正が認められないのは當然のことである。
そして、この論理は、國體論からして當然のことではあるが、憲法論においてもこの論理は肯定される。すなはち、當時の憲法學界の支配的見解は、國體を破壞する典憲の改正はできないとする典憲の「改正限界説」であつた。それゆゑ、この支配的見解からすれば、占領憲法が帝國憲法の改正といふ形式をとり、また、占領典範が明治典範を廢止した後に規範形式を異にする新たな法律として制定したといふ形態をとつてはゐるが、これは實質的には改正である。それゆゑ、いづれも改正によつては變更し得ない典憲の根本規範(規範國體)の領域にまで踏み込んで、その改正權の限界を超えてなされたものであるから絶對無效であることになる。
帝國憲法下では、國體と政體の二分論を肯定する見解もこれを否定する見解も、概ね帝國憲法第一條ないし第四條は國體規定であるとして、國體の變更はできないとしてゐた。そして、その他政體の基本的な制度についても根本規範であつて改正を許さないとの見解が支配的であつて、占領憲法は、この改正の限界を超えて變更しようとしたものであるから、改正法としては無效といふことになる。このことは、明治典範を實質的に「改正」した占領典範についても同樣である。
ところが、占領典憲が典憲として有效であるとした當時の政府とこれを支へた支配勢力は、それまでは典憲改正に限界があるとそのすべてが國是として主張してゐたにもかかはらず、保身のために變節して節操を賣つてGHQの占領政策に迎合し、その暴力的強制を民主化などと禮贊した「敗戰利得者」であり「暴力信奉者」であつた。そして、今もなほ「暴力の切れ端」(井上孚麿)である占領典憲を典憲として有效であるとする輩は、その無責任な敗戰利得者の後繼者であり、その地位を保身するため、改正限界説を放擲し、あるいは詭辯を弄して有效であると強辯してゐるだけである。嘘を百回、千回も大合唱したからといつて、嘘が眞實になることはないし、國内系において、他國の暴力を國家正義の實現として承認することなどは到底あり得ないことである。
そもそも、憲法改正に限界があるとするのは、帝國憲法下において「立憲主義」が定着してゐたことの歸結でもあつた。つまり、立憲主義とは、第一章で述べたとほり、現在では樣々な解釋がなされてゐるものの、『人および市民の權利宣言』(フランス人權宣言)第十六條に、「權利の保障が確保されず、權力の分立が規定されないすべての社會は、憲法をもつものではない。」とする規定に依據したもので、この定義からしても、當時の憲法學界や帝國議會で、帝國憲法が「立憲主義的意味での憲法」であるとすることに異議を唱へたものは誰も居なかつた。そのことから、國體と政體との理念的區別を踏まへて、憲法改正の限界を肯定するのが通説となつてゐたのであつて、立憲主義は、憲法改正限界説と一體のものと理解されてきた。そのことは、立憲主義の意味が多義的となつた今日においても受け繼がれた。そして、占領憲法有效論によれば、占領憲法の掲げる基本原則(國民主權主義、民主主義、恒久平和主義、權力分立制、基本的人權尊重主義など)については改正ができないとする見解が主流であり、とりわけ、國民主權主義、恒久平和主義、基本的人權尊重主義の三原則が唱へられてゐる。
極東委員會が昭和二十一年十月十七日に發令した占領憲法の「再檢討」指示に則り、その走狗となつて占領憲法の更なる改惡を企てた團體の改正案は多く、中でも『公法研究會』が發表した「憲法改正意見」(昭和二十四年三月)や『東京大學憲法研究會』の「憲法改正の諸問題」(同年六月)などがあるが、この三原則は、東京大學憲法研究會の「憲法改正の諸問題」に登場してくる。田中二郎(行政法)がその「總説」の中で、占領憲法の根本的改正を提案した際に主張したのが嚆矢とされる。その提案は、第一章を「總則」又は「日本國」と題し、そこに、憲法の基本原理を明示し、國民、領土、國旗等に關する規定、戰爭放棄條項を入れ、第二章を「國民の基本的人權に關する規定」、第三章を「天皇」とする、占領憲法以上に破壞的な改惡を提案したものであるが、そこでこの三原則を主張したものであり、占領憲法の解釋から當然に導かれるものではない。
そして、この三原則の改正が不可能であることの根據の一つとして必ず掲げるのが、「占領憲法は立憲主義的意味の憲法である」といふ點である。やはり、占領憲法の解釋においても、立憲主義を採るのであれば、典憲の改正限界説とは不可分一體のものになるはずである。そして、この立憲主義と典憲の改正限界説は、戰後になつて初めて定着したものでないことは前述のとほりであるから、帝國憲法の改正時においても、立憲主義と典憲の改正限界説に基づいて占領典範と占領憲法の效力について論ずるべきである。決して、御都合主義の二重基準をとることは許されない。帝國憲法と占領憲法が共に立憲主義的意味での憲法であるとするならば、占領憲法の改正に限界があるとする見解は、帝國憲法の改正に限界があることを當然に認めなければならない。さうであれば、論理必然的に、占領憲法は無效といふことになるのである。また、この論理が、そのまま占領典範についても同樣に適用されることは自明のことである。
無效理由その二 「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」違反
オランダのス・フラーフェンハーヘ(ハーグ、英語名・ヘーグ)で我が國及び連合國が締結してゐた『陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約(ヘーグ條約)』(1907+660)の條約附屬書『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』第四十三條(占領地の法律の尊重)によれば、「國ノ權力カ事實上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶對的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル爲施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘシ。」と規定されてゐた。そして、ポツダム宣言は、「民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。」(第十項)との表現をもつて、改革すべきは帝國憲法自體ではなく、その運用面における支障の除去にあつたことを強く指摘してゐたものであつて、帝國憲法を改正しなければならないやうな「絶對的ノ支障」などは全くなかつた。つまり、これまで我が國の根本規範及び最高規範として通用してきた帝國憲法には種々の人權條項があり、連合軍の占領政策を實施するにあたつて、その運用を十全にすることによつて充分であつて、そのことについて「絶對的ノ支障」があるはずがなかつたといふことである。ましてや、明治典範を含む正統典範に至つては、そもそも何ら「支障」と考へられる點すらなかつたのである。
それゆゑ、占領下での典憲の改正は國際法に違反する。
ところが、これに對し、ヘーグ條約は、交戰中の占領に適用されるものであり、我が國の場合は、交戰後の占領であるから、ヘーグ條約は原則として適用されず、適用されるとしても、ポツダム宣言・降伏文書といふ休戰條約が成立してゐるので、「特別法は一般法を破る」といふ原則に從ひ、休戰條約(特別法)がヘーグ條約(一般法)よりも優先的に適用されるとする見解による反論がある。
しかし、このやうな見解は、根本的に誤つてゐる。
第一に、第二章で述べたとほり、GHQ(マッカーサー)は、「占領軍は、國際法および陸戰法規によつて課せられた義務を遵守するものとする。」として、GHQの占領統治が陸戰法規の適用を受ける占領であることを承認してゐたのである。にもかかはらず、このやうな見解の論者は、なにゆゑに、占領軍の見解とも異なり、しかも、あへて我が國に不利な解釋をするのか、その屬國意識と賣國意識の強固さに愕然とする外ない。
第二に、「交戰中」と「交戰後」とに區分する基準とその意味が不明であり、これを以て後法優位の原則を適用できるとする根據に乏しいことにある。ヘーグ條約は、そのような區別をせず、むしろ戰爭状態後の占領時に適用されることを豫定してゐるものである。そもそも、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印によつて「停戰」したのであるから、これは「交戰後」には當たらない。「停戰」は「交戰中」の一態樣なのである。
第三に、これとの關連で、昭和二十六年の桑港條約第一條には「日本國と各連合國との間の戰爭状態は、第二十三條の定めるところによりこの條約が日本國と當該連合國との間に效力を生ずる日に終了する。」とあり、降伏文書調印後においても「戰爭状態」であるから、ヘーグ條約が適用されることになる。
第四に、「特別法は一般法を破る」といふ原則自體は肯定できるとしても、あくまでもこれは、両者が同じ性質の「法規」でなければならないのである。ところが、一般法とするヘーグ條約は、條約といふよりも客観的かつ普遍的に適用される一般國際法であるのに對し、ポツダム宣言や降伏文書は、戰爭當事国間にだけ適用され、それが條約としての適格性に疑義がある條約であることからすると、両者の法規としての性質が同質ではないことになる。それゆゑ、特別法優位の原則を適用できず、ヘーグ條約は排除されないことになるのである。
第五に、假に、さうでないとしても、特別法優位の原則が適用される場面は、特別法と一般法とが同じ事柄についてそれぞれ異なる規定を設けてゐるときに、どちらの規定を適用するのかが問題となる場合のことであつて、ポツダム宣言と降伏文書には、ヘーグ條約を排除する規定もなければ、占領下において憲法改正を義務づける規定もないのである。それどころか、「民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。」(ポツダム宣言第十項)として、帝國憲法秩序の「復活強化」を規定してゐたぐらいであり、ポツダム宣言と降伏文書は、ヘーグ條約と同樣、帝國憲法の改正についてはこれを肯定してゐなかつたので、やはりヘーグ條約違反である。
尤も、この違法性は、次に述べる「無效理由その三」とともに、「無效理由その四」の補強的な理由となるものである。
無效理由その三 軍事占領下における典憲改正の無效性
ポツダム宣言では、「全日本國軍隊の無條件降伏」(第十三項)を要求し、その目的のために「聯合國の指定すべき日本國領域内の諸地點は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する爲占領せらるべし」(第七項)としてゐた。これは、我が軍の武裝解除などの目的のために、我が國の一部の地域を占領し、その地域内における統治權を制限することを限度とする「一部占領」の趣旨であり、國土全部を占領し、統治權自體の全部の制限、即ち、「全部占領」を意味するものではなかつた。また、第二章で明らかなとほり、その占領態樣は、降伏文書に調印した翌日(昭和二十年九月三日)に「間接統治」とされたものの、その實質は、占領典憲制定の強制、東京裁判の強行、徹底した檢閲と言論統制、メディア支配、公職追放、レッドパージ、内閣と政府の人事に對する直接干渉と指令、選擧干渉、議會審議干渉、法案制定指示、財閥解體、宮家皇籍剥奪、裁判干渉、二・一ゼネスト中止命令など、國内統治の全事象に亙つてその主要事項については「直接統治」となつてゐた。
つまり、降伏文書によれば、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ、本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス。」とされ、ポツダム宣言第七項に違反して「全部占領」を行つたのである。ポツダム宣言受諾後に武裝解除が進み、一切の抵抗ができなかつた状況で、「日本軍の無條件降伏」から「日本國の無條件降伏」への大胆なすり替へである。
しかし、それでも、第二章で述べたとほり、これが無條件降伏であるか有條件降伏であるかについては見解が分かれるのは、嚴密には、ポツダム宣言の受諾が「有條件降伏申入の無條件承諾」といふ態樣に起因するものである。しかし、さうであるとしても、GHQの占領統治は、デヴェラティオ(デベラチオ)、つまり「敵の完全な破壞及び打倒」ないしは「完全なる征服的併合」ではなかつたので、「無條件降伏」の意味や、バーンズ回答と降伏文書にある「subject to(隷屬)」の意味をどのやうに理解したとしても、日韓併合における大韓帝國の消滅のやうな場合ではなかつたことだけは明らかである。それゆゑ、我が國は、獨立は喪失したものの連合國の「被保護國」の地位にある國家として講和條約を締結しうる當事國能力は降伏後も存續したのである。
このやうな状況で、我が國は、その全土が連合國の軍事占領下に置かれたが、統治權が全面的に制限されることを受忍してポツダム宣言を受諾したのではないから、その後になされたデベラチオ(直接統治)に近い完全軍事占領は國際法上も違法である。
第二章で述べたとほり、立法に對しては、昭和二十一年五月四日に鳩山一郎(日本自由黨總裁、衆議院議員)、同二十一年五月十七日に石橋湛山(日本自由黨、衆議院議員)及び同二十三年一月十三日に平野力三(日本社會黨、衆議院議員)をそれぞれ公職追放した「三大政治パージ」をはじめ、何百人もの政治家、國會議員を排除した。また、行政(内閣)に對しては、萩原徹外務省條約局長の更迭(昭和二十年九月十五日)、内務大臣山崎巖の罷免要求(昭和二十年十月四日)、それによる東久邇宮稔彦内閣が總辭職(同月五日)、農林大臣平野力三の罷免要求(昭和二十二年一月四日)、閣僚中五名の公職追放該當者がゐたことによる幣原喜重郎内閣の改造人事と松本烝治國務大臣の暫定的特免の申請(昭和二十一年一月十三日)などがなされ、占領憲法施行後においても大蔵大臣石橋湛山の公職追放(昭和二十二年五月十七日)などがなされた。さらに、占領憲法施行後において、司法に對しては、東京地方裁判所が昭和二十三年二月二日になした平野力三に對する公職追放指定の效力發生停止の假處分決定に干渉して取消させ、國民に對しても、占領憲法制定後において、二・一ゼネストの中止命令(昭和二十二年一月三十一日)を發令したのである。それ以外にも、選擧干渉、議會審議干渉、法案制定指示、財閥解體、宮家皇籍剥奪などについて直接に指令するなど、皇室、立法、行政、司法のみならず、民生に對してまで、ありとあらゆる事象において、實質的にはデベラチオ(直接統治)を實施してきたのである。
從つて、このやうな態樣による完全軍事占領下で、連合國が帝國憲法と明治典範の改正作業を命令して、一部始終に關與すること自體がポツダム宣言と降伏文書に違反する。
そもそも、完全軍事占領下といふのは、自由意志のない繼續的な強迫状態に置かれてゐるといふことである。この状態下においては、成立の外觀において任意性があるかのやうな樣相があつても、實質は國家の自由な意志は否定されてゐる。ポツダム宣言の結語に「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみとす。」と言明され、原爆投下によつてジェノサイドの危機に追ひ込まれた強迫状態において、さらに、皇室を廢絶するといふ強迫も加はつた状態が繼續する中で、なだめられたり、すかされたり、再び脅かされたりを繰り返され、お爲ごかしに優しく説得された擧げ句、後に述べるやうな「蚤の曲藝」の調教が完成し、遂に抵抗を諦めて、占領典範と占領憲法を承諾したのである。銃口を突きつけられて自己の墓穴を掘らさせられた上で殺害されたことを自殺と評價することはできないのである。これは、意思主義の理論からしても、このやうな絶對強制下では自由で任意の意志はなく、占領典範も占領憲法も本來無效であることは多言を要しないところである。
國際法においても、ヘーグ條約によらずとも、外國軍隊の占領中の憲法改正は當然に禁止され、これを事後に否定した例もある。ナチスの占領終了とともに占領法規は破棄され、ベルギー、オーストリアは舊憲法を復活させ、フランスは新憲法を制定し、東歐のソ連傀儡政權の憲法もソ連崩壞とともに破棄されたのである。昭和十五年(1940+660)、フランスはナチス・ドイツの攻撃で敗れて降伏し、休戰協定を經て、パリを含むフランス北部と東部がドイツの占領下に置かれた。そして、ペタン元帥を首班とするナチス・ドイツの傀儡政權が南フランスのヴィシーに誕生し(ヴィシー政權)、七月十日にはペタンの授權獨裁を容認する新憲法が制定された(ペタン憲法)。そのため、ナチス・ドイツの占領から解放されるとペタン憲法は破棄され、その後に制定された『フランス一九四六年憲法』第九十四條には、「本土の全部もしくは一部が外國軍隊によって占領されている場合は、いかなる改正手續も、着手され、または遂行されることはできない。」と規定されてをり、これは國際慣習法としても定着した國際系の法理として、明文規定がないとしても、我が國の法制(國内系)にも妥當する普遍の法理と考へられる。
我が國の占領憲法は、このペタン憲法と同じである。米軍基地が容認され北方領土が侵奪されてゐるなどの情況が繼續してゐる戰後體制は、未だにGHQの實質的占領下にあることと同じである。それゆゑ、占領憲法とそれによる戰後體制を容認するこれまでの占領憲法政權は、ヴィシー政權と同じである。このフランスの歴史的教訓は、占領憲法と占領憲法政權を打倒することの正統性、正当性の根據を示してゐるのである。
無效理由その四 帝國憲法第七十五條違反
この普遍の法理は、帝國憲法にも規定がなされてゐた。「憲法及皇室典範ハ攝政ヲ置クノ間之ヲ變更スルコトヲ得ス」(第七十五條)との趣旨は、攝政を置く期間を國家の「變局時」と認識してゐることにある。
この規定は、天皇御自らが御不例などの理由から天皇大權を行使し得ない事由が發生して攝政を置かなければならないといふ通常豫期しうる國家の變局時においては、帝國憲法と明治典範の改正ができないといふものである。
伊藤博文著『憲法義解』(文獻10)の第七十五條の解説によれば、「恭て按ずるに、攝政を置くは國の變局にして其の常に非ざるなり。故に攝政は統治權を行ふこと天皇に異ならずと雖、憲法及皇室典範の何等の變更も之を攝政の斷定に任ぜざるは、國家及皇室に於ける根本條則の至重なること固より假攝の位置の上に在り、而して天皇の外何人も改正の大事を行ふこと能はざるなり。」とあり、この規定が國の變局時に關する「例示規定」であることを認識してゐるのである。
確かに、占領期において攝政が置かれた事實はないのであるから、この規定の適用がないとする皮相な文理解釋からの批判はありうる。しかし、ここで問題としてゐるのは、占領期に攝政が置かれるべき事情があつたか否かを議論してゐるのではない。この規定の趣旨が、「攝政ヲ置クノ間」が國家の變局時の「代表的な事例」としてゐるもので、一般に、このやうな國家の變局時には憲法を改正することができないことを意味してゐる。
この第七十五條違反を根據とする見解は、私見(眞正護憲論)以外にも、井上孚麿(文獻34、74)、谷口雅春(文獻59、60、65、89)、小山常実(文獻319)などがあるが、その嚆矢は、極東國際軍事裁判において東條英機元首相の弁護人を務めた清瀬一郎であらう。
後述するとほり、昭和三十一年に内閣に憲法調査のための審議機關として憲法調査會が設置されるが、その法案が審議されたのは、第二次鳩山一郎内閣においてである。昭和三十年十一月十五日の保守合同によつて自由民主黨が結黨され、その初代総裁となつた鳩山一郎は、「自主憲法」の制定に意欲を燃やし、自由民主黨は、その政綱の第六に「現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再檢討し、國情に即してこれが改廢を行ふ」と定めた。そして、その結黨直前の第二次鳩山一郎内閣の政權下で、清瀬一郎衆議院議員は、同年七月四日の參議院本會議において、衆議院の發議者として同法案の提案趣旨説明をなし、廣瀬久忠議員の質疑に對して次のとほり答辯したのである。
すなはち、「わが國の舊帝國憲法はその七十五條において、この憲法は攝政を置くの間は變更することはできないと書いてある。陛下御不例で攝政を置かるるの間は憲法改正は企ててはならない、その同じ意味から考へると、占領軍の制限の下に、陛下も國民も完全な自由意思を発揮することのできないときに、憲法を改正するといふことは、そのときまで有效であった舊憲法の趣旨に反しております。」として、不十分ながらも第七十五条違反を指摘したのであつた。
そもそも、條文解釋において、その條文の形式において特定の事例(事項)のみが規定されてゐる場合、これと類似する事例(事項)についてどのやうに解釋適用されるのかについては、「反對解釋(限定解釋)」と「類推解釋(擴大解釋)」とに分れる。反對解釋(限定解釋)とは、條文に規定のある事例(事項)のみに限定して、それ以外の事例(事項)にはその條文が適用されないとするものである。これに對して、類推解釋(擴大解釋)とは、條文に規定のある事例(事項)以外の類似した事例(事項)にもその條文の適用があるとするものである。そして、各條文について反對解釋がなされるか、あるいは類推解釋がなされるかについては、法律全體やその條文の制度趣旨、その立法行爲を基礎付けることになつた前提事実(立法事実)などによつて決せられるものであつて、この第七十五條について言へば、國家の自主性と獨立性の見地からして、當然に類推適用がなされることになる。攝政設置時といふ通常豫測しうる國家の變局時においてすら典憲が改正できないのに、外國軍隊による未曾有の完全軍事占領下といふ異常な國家の變局時には、むしろ逆に典憲が改正できるといふことを積極的に肯定できるだけの根據と論理を示すことは到底できない。これは、「人を不注意で傷付ければ犯罪であるが、人を殺せば犯罪ではない。」といふことを肯定することよりも難しい藝當である。
さらに、例へ話をするとすれば、假に、「同居の長男(攝政)が病気で寢てゐる親(天皇)に内緒でその先祖の財宝を持ち出し(典憲改正)してはならない。」といふ法律があり、財宝の持ち出しを禁止することについては、偶々この規定しかなかつたとする。すると、このやうな事態が起こつた。それは、「他人(GHQ)が侵入してきて病人ではないその家の主人(天皇)を凶器で脅して無理矢理に承諾させその先祖の財宝を持ち出した」といふ事件である。親子間の持ち出しについては規定はあるが、他人の持ち出しについては明文の規定がない。これも親子間の場合(國内問題)と同樣に許されないとするのか否かといふことである。許されないとするのが類推適用である。これは、規範の底邊に存在する健全な規範意識によつて決まるのであり、この場合には當然に類推適用されることになるのである。
もし、これについて類推適用を否定するとすれば、その解釋の動機は「賣國」の二字以外にないのである。それゆゑ、あらゆる「國家の變局時」にすべて同條が類推適用されることは當然のことなのである。
また、「攝政ヲ置クハ固ヨリ一時ノ變局ニシテ決シテ恆久ノ常態ニ非ス而シテ帝國憲法及皇室典範ハ國家最高ノ大法ニシテ其ノ改正ハ實ニ國家最重ノ要事タリ加之此ノ二法ニ定メタル處ハ大綱ノ要目ニ止ルカ故ニ之ヲ改正スルノ必要ハ必スシモ焦眉ノ急ニ迫ラルルモノニ非ス。」(清水澄)といふ點も、占領憲法が無效であることの根據となる。すなはち、攝政が置かれるといふ事態は、「一時ノ變局」であり、いづれ正常化するものである。しかも、そのやうな一時的な變局時に、どうしても改正しなければならないやうな緊急性がない限り、そのやうな時期に改正はできないといふことを意味するのである。つまり、攝政設置時といふのは例示であつて、およそ一時的な變局時において改正の緊急性がない場合には改正が禁止されるといふことである。ポツダム宣言第十二項には、「前記諸目的が達成せられ、且日本國國民の自由に表明せる意思に從ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、聯合國の占領軍は、直に日本國より撤收せらるべし。」とあることからして、GHQの軍事占領は「恆久ノ常態」ではなく、いづれ終了して我が國の獨立が實現することが豫定されてゐる暫定的な事態(保障占領)であつて、そのやうな非獨立の時期に我が國としては敢へて改正しなければならない緊急性がなかつたことは明らかなのである。
ところで、帝國憲法第十七條第二項には、「攝政ハ天皇ノ名ニ於テ大權ヲ行フ」とあり、原則として攝政は、天皇大權の代理行使をなしうる。しかし、帝國憲法第七十三條に定める憲法改正の發議大權だけは、それ以外の天皇大權とは異なり、天皇の一身專屬權である。一身專屬の天皇大權は、この改正大權しかない。その他の天皇大權は、攝政といふ機關代理や他の國家機關への機關委任を許すものであるが、この改正大權だけは、攝政といふ機關代理も機關委任も一切許さない。帝國憲法第十七條第二項の「攝政ハ天皇ノ名ニ於テ大權ヲ行フ」といふ一般規定に對し、同第七十五條は、これに對する明確な例外規定となつてゐるからである。第一章、第二章で述べたとほり、帝國憲法の「輔弼制」は、「統治すれども親裁せず」といふ、天皇の拒否權を肯定するものであるのに對し、占領憲法の「承認制」は、「君臨すれども統治せず」といふ、天皇の拒否權を認めないものである點に特徴がある。天皇は「統治權ヲ總攬」(第四條)するのであるから、この「總攬」の中に一切の機關委任を禁ずる意味はなく、むしろ、「天皇は、統治權を總攬せらるるも、各般の政務を一々親裁せらるるものに非ず。」(清水澄)と解されるからである。しかし、戰前における統治大權の輔弼と諮詢の制度といふのは、實際には英國流の立憲君主的な有權解釋がなされ、慣例的に、天皇は拒否權(ヴェトー)を行使できなかつたことからして、「君臨すれども統治せず」といふ占領憲法の助言と承認の制度と同じ運用がなされてゐた。これらの統治權總攬の運用も、平時においては「王覇の辨へ」といふ規範國體が許容しうるものである。
しかし、必ず親裁し給ふ大權がある。それが一身專屬權としての改正大權であり、大權事項のうちの唯一の例外である。改正大權は統治大權には含まれない。これ以外にも、明治十二年の「天皇自ら大元帥の地位に立ち給ひ、兵馬の大權を親裁し給ふ」との布告においては、統帥大權も親裁し給ふものとされたが、帝國憲法下では、軍の統帥部といふ「統帥内閣」の出現によつて、その「輔翼」を受け、國務各大臣(政務内閣)の「輔弼」を受ける「統治すれども親裁せず」の原則と同樣に、「統帥すれども親裁せず」との原則的運用へと變化した。それゆゑ、帝國憲法で明記された一身專屬の天皇大權(親裁し給ふ大權)は、統治大權でも廣義の統帥大權でもない、この改正大權のみである。これは、天皇が他者の影響を全く受けることなく、皇祖皇宗の御叡慮を體現して御親づから自發的かつ自律的に發議をなしえない變局時においては、その發議も審議もできないといふことである。そして、たとへ、そのやうな變局時でなくても、天皇は攝政をして發議なさしめることすらできない。むしろ、攝政をして發議せしめる事態こそ變局時であると言ひ換へることもできる。これが「天皇の外何人も改正の大事を行ふこと能はざるなり。」との意義である。
そして、第二章で明らかにされた占領憲法の制定過程からすれば、天皇が自發的かつ自律的に改正の發議がなされたといふ事實は全くなく、むしろ、天皇と樞密院を差し置いて、GHQと占領下の政府、さらに民間において、帝國憲法の改正案が喧しく私議され、改正大權が簒奪されたことが明らかである。
從つて、「通常の變局時」である攝政設置時ですら典憲の改正をなしえないのであるから、このことは、帝國憲法の豫想を遙かに超えた「異常な變局時」であり、マッカーサーといふ「攝政」を遙かに超えた權限を有する者によつて、天皇大權が停止、廢止、剥奪されてゐた連合軍占領統治の非獨立時代に典憲の改正はできず、また、それを斷行したとしても絶對無效であることは、同條の類推解釋からして當然のことである。
また、マッカーサーは、昭和二十六年五月五日の米上院聽聞會で「日本人の成熟度は十二歳、勝者にへつらふ傾向」があると評價したのであるから、マッカーサーからすれば、天皇も含めて日本人は未成年であつて、自己が「攝政」以上の地位にあつたといふ政治的認識があつたことからしても、占領期はまさに帝國憲法第七十五條の射程範圍の政治的情況にあつたのである。
帝國憲法は、他國に支配されない完全獨立國の憲法として制定されたものであつて、およそ我が國が連合國に隷屬(subject to)した状態で憲法改正がなされる事態を豫測してゐない。また、假に、法理論的にはそのやうな事態がありうるとしても、前述した『フランス一九四六年憲法』の規定は、ナチスによる占領統治の強迫觀念から生まれた特殊な例であつて、通常の場合は、獨立國の矜恃として、そのやうな不吉で恥辱に滿ちた事態の對應やその場合における原状回復手續について殊更に規定しないのは、最高規範としての憲法の權威を保持するための諸外國の通例である。
しかし、帝國憲法は、このやうな不吉で恥辱に滿ちた事態を直接に規定することなく、それを忖度しうる極めて優れた表現を以て、國家の異常な變局時をも含めた例示規定として、この第七十五條を置いたものと評價することができる。他國の軍事占領下での憲法改正が禁止され、改正されたとしても無效であるとする法理は當然のことではあるが、それを規定することは、憲法の權威を傷つける。いはば、「憲法の痩せ我慢」である。このことは、「書き記されたものだけが憲法ではない。」とすることの例證でもある。しかし、フランス一九四六年憲法は、その權威を捨ててまで書き記さなければならないほどの緊迫感があつたといふことである。
しかして、占領典憲がいづれも典憲として法的に完全に無效であることの根幹的な理由はここにある。つまり、帝國憲法と明治典範に違反した帝國憲法の改正、明治典範の廢止及び占領典範の制定(實質的な明治典範の改正)は、いづれも無效であるといふ單純な理由なのであり、これが眞正護憲論(占領典憲無效論)の核心的理由である。また、この解釋は、法實證主義によつても、法文の合理的解釋により導かれるものであつて、占領典憲の無效は明らかである。
無效理由その五 典憲の改正義務の不存在
ポツダム宣言には、帝國憲法と明治典範の改正を義務づける條項が全く存在しなかつた。勿論、降伏文書にもそれを義務づける規定はなかつた。むしろ、ポツダム宣言は、日本軍の無條件降伏(第十三項)、完全武裝解除(第九項)、民主主義的傾向の復活強化(第十項)などを促進させることを要求してゐたのであり、降伏文書をも含めて總合的に判斷しても、決して典憲の改正までを要求してゐなかつた。
なほ、典憲の改正義務があるとする見解は、ポツダム宣言第六項、第十項及び第十二項を根據とするやうである。第六項には、「吾等は、無責任なる軍國主義が世界より驅逐せらるるに至る迄は、平和、安全及正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本國國民を欺瞞し、之をして世界征服の擧に出づるの過誤を犯さしめたる者の權力及勢力は、永久に除去せられざるべからず。」とあり、第十項には、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は國民として滅亡せしめんとするの意圖を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戰爭犯罪人に對しては、嚴重なる處罰を加へらるべし。日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」とあり、さらに、第十二項には、「前記諸目的が達成せられ、且日本國國民の自由に表明せる意思に從ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、聯合國の占領軍は、直に日本國より撤收せらるべし。」とある。しかし、まづ、第六項と第十項の意味とは同趣旨である。つまり、「過誤を犯さしめたる者の權力及勢力は、永久に除去せられざるべからず。」(第六項)と「一切の戰爭犯罪人に對しては、嚴重なる處罰を加へらるべし。」(第十項)とは、戰犯處罰を意味するものにすぎない。「權力及勢力は、永久に除去」することと憲法改正とは全く關係がない。また、第十二項は、撤収の時期を定めたものであつて、「日本國國民の自由に表明せる意思に從ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立」とあることから、これは憲法改正ではなく、撤退の要件として民主主義による平和的傾向のある政府の樹立を求めてゐるにすぎないのである。從つて、これらを以て「國體變更」や「憲法改正」を義務付けたと解釋することは到底できないものである。
現に、ポツダム宣言を起草した「三人委員會」(國務長官代理ジョセフ・グルー、陸軍長官ヘンリー・スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタル)の一人であるジョセフ・グルー(元駐日大使)は、後になつて、「新しく憲法を制定するといふやうな根本的、全面的な憲法改正は考へられてゐなかつた」と述懷してゐたのである。
つまり、連合國側ですら、そのやうな解釋をする者は居ないのに、あへてこれを我が國に不利に解釋しようとする見解は、「賣國」の意圖と目的によるものに他ならない。
また、我が政府が連合國側へポツダム宣言受諾に關する照會をしたことに對し、昭和二十年八月十二日の連合國側(バーンズ米國務長官)の回答(バーンズ回答)には、「最終的ノ日本國政府ノ形態ハポツダム宣言ニ遵ヒ日本國國民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス」とあり、これからしても改正義務まで受け入れたものでないことは明らかである。
なほ、第二章でも述べたとほり、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印とは、その法的性質は、いづれも帝國憲法第十三條の講和大權に基づく講和條約(獨立喪失條約)であつたが、これまでの國際法における講和條約の方法によらない異例のものであつたことから、政府の國内手續においてはこれを「條約」としては扱つてゐなかつた。當時の樞密院官制によると、「國際條約ノ締結」は諮詢事項となつてゐたにもかかはらず、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印については、この諮詢手續がなされてゐなかつたし、官報には、これを「條約」欄ではなく、「布告」欄に登載して公示された。これは、これまでの國際法による慣例を著しく踏み外した異例の事態に當惑した結果であつたにすぎない。關東大震災のとき、樞密院の諮詢を經ずに緊急敕令が發令されたことがあつたやうに、國家緊急時においては、手續が履踐されずに法規が成立することは當然にありうることなのである。
從つて、このやうな國内手續を履踐しなかつたといふ手續規定違反があり、講和條約の成立要件としての合法性に若干問題があるとしても、これは講和條約の效力要件ではなく、講和條約としての效力があることに何ら疑問はない。
それゆゑ、講和條約(獨立喪失條約)に講和の條件として憲法改正義務がない限り、占領統治下での典憲改正の強制は國際法に違反する。
無效理由その六 法的連續性の保障聲明違反
内容的に比較すると、占領典憲は、帝國憲法と明治典範の改正の限界を超えた改正であつて、全く法的連續性がなく絶對的に無效であることは前に述べたとほりである。そして、占領憲法については、昭和二十一年六月二十三日の「帝國憲法との完全な法的連續性を保障すること」とするマッカーサー聲明と比較しても、「完全な法的連續性」を保障した結果にはなつてをらず、改正の限界を保障した同聲明の趣旨に自ら違反してゐる。
ましてや、帝國憲法と同格の明治典範を廢止し、占領典範を法律として制定したことは、法形式においても明治典範と法的連續性がないことは明らかである。
法的連續性といふのは、成立要件要素である合法性と正統性、效力要件である妥當性と實效性のいづれをも滿たすことを意味するが、全くそのやうになつてゐないのである。
GHQの意圖は、單に、手續の形式だけを外觀上完璧に整へさせて、國内的にも國際的にもそれが強制されたものであるといふ實態を隠蔽することにあり、外觀において形式的、手續的に「連續性」があることを假裝できればよいといふものであつた。それゆゑ、發議の敕語、帝國議會の審議と議決、公布の敕語などの一連の形式文書と手續が完璧に整へられてゐるのは當然のことである。これは、完全犯罪を目論む犯罪者の心理と行動に類似したものであつて、この外觀の完璧さは、むしろ實質的に「帝國憲法との完全な法的連續性」がなかつたことを物語つてゐる。それゆゑ、この外觀の完璧さを以て占領典憲の有效性の根據とすることは、完全犯罪をしくじつた者をあへて無罪であると擁護するにも似た愚かさがある。
無效理由その七 根本規範堅持の宣明
ポツダム宣言受諾日の昭和二十年八月十四日の詔書によれば、「非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾」せんがためにポツダム宣言を「受諾」したものであり、敗戰後も「國體ヲ護持」すること、即ち、正統憲法と正統典範の上位に存在する根本規範である規範國體を堅持することを國家の要諦として宣明してゐた。
また、昭和二十年六月八日の御前會議における國體護持などの國策決定、同年八月十日の御前會議における國體護持などを條件としたポツダム宣言受諾の決定、同日の下村宏情報局總裁の國體護持の談話發表、同月十四日における國體護持の内閣告諭、同月十五日の國體護持の文部大臣訓令、同月十七日の陸海軍人に對する國體護持の敕語、同月二十八日の東久邇總理大臣の國體護持聲明、同年九月四日の貴族院における國體護持の決議、同月十五日の國體護持を内容とする文部省發表の「新日本建設の教育方針」などにおいて、一貫して「國體護持」が國是として表明されてゐた。ここでいふ「國體」とは、文化國體をも含まれるが、少なくとも國法學、國體學においては、その規範的性質である「規範國體」(根本規範)を意味するものであることは云ふまでもない。
昭和天皇も昭和二十年八月に、「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」と、さらに、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」と詠まれ、翌二十一年の新年歌會始めには、「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」と詠まれてゐる。
そして、政府は、その後においてこの「國體護持」の基本方針を撤回する宣明をした事實が全くない。それゆゑ、規範國體を護持するといふ國家基本方針は、占領の前後において一貫して堅持されてきたことになる。從つて、これを否定する宣明をすることもなく密かにこれを放棄することは許されず、あへてこれを否定する宣明をすることもなく、規範國體を否定する内容の占領典憲を制定することは、禁反言(エストッペル)の法理に違反して無效である。
そもそも、假に、詔書において「國體護持」の宣明がなされてゐなかつたとしても、規範國體に違反する規範は、いかなる形式のものであつても無效である。このことは、前に述べた「占領典憲共通の無效理由の分類」の五つの類型のうち、第一の類型である「國體論」による理由付けである。しかし、ここでの理由付けは、第三の「成立要件論」と第四の「效力要件論」によるものである。つまり、ここで指摘する無效理由とは、綸言汗の如しといふ詔書不變更の原則もまた規範國體を構成するものであることから、後行する帝國憲法の改正が先行的に宣明された國體護持の詔書に反するものであれば、その改正自體が無效であることを意味するものである。そして、このことから、帝國憲法の改正が先行の詔書に反することから無效であるといふことになる。
無效理由その八 改正發議大權の侵害
占領憲法の起草が連合軍によつてなされたことは、帝國憲法第七十三條で定める憲法改正發議大權を侵害するもので無效である。帝國憲法發布時の詔敕及び帝國憲法第七十三條第一項により、憲法改正の發議權は天皇に一身專屬し、帝國議會及び内閣などの機關、ましてや、外國勢力の介在や關與を許容するものではないからである。これは帝國憲法第七十三條の解釋の定説である。
つまり、第二章で詳しく列擧した事實からすれば、前に述べたとほり、改正大權が一身專屬の天皇大權であるにもかかはらず、天皇が自發的かつ自律的に改正を發議せず、天皇と樞密院を差し置いて、GHQと占領下政府によつて改正案が私議され、改正大權が簒奪されたことが明らかである。
占領憲法の發議は、昭和二十一年二月十三日、マッカーサーが同月三日にGHQ民政局(GS)へ『マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)』に沿つて作成を指示したことに基づいて完成した英文の『日本國憲法草案』(GHQ草案)を、GHQ民政局長ホイットニー准將とケーディス大佐から吉田茂外相と松本烝治國務大臣らに手交して、これに基づく帝國憲法の改正を強制したことに始まるのであつて、天皇の發議とは全く無縁のものであつた。この「大權の私議と簒奪」は、「統帥權の干犯」といふやうな非難の程度を遙かに超えたものである。つまり、改正大權私議の大罪は、東久邇宮稔彦内閣において、昭和二十年九月十八日に入江俊郎内閣法制局第一部長が憲法改正檢討報告書の『終戰ト憲法』を法制局長官へ提出したことを嚆矢として、同年十月四日に近衞文麿副總理格國務相がマッカーサーから受けた憲法改正指令によつて雨後の竹の子のやうに生まれてきた、外務省私案、佐々木惣一私案、松本烝治私案など悉くさうである。政府案なら私議することは許されるが、GHQ案は許されないといふものでは決してない。マッカーサー戰爭回顧録によると、戰爭放棄條項が幣原喜重郎の發案であるとするが、假に、それが眞實であつたとすれば、幣原は大權私議の大罪をマッカーサーと共謀して犯したといふことである。占領下では、その權力に尻尾を振つて迎合する者だけが生存を許される。迎合しない者は、外務省條約局長であつた萩原徹のやうに左遷される。それゆゑ、政府側の數々の私案もマッカーサー・ノートもGHQ草案も大權私議の點では同じであり、まさに「目糞鼻糞を笑ふ」である。ましてや、GHQは、いはゆる松本案を排除してGHQが起案した草案を強制し、これを原案として改正案が策定されたのであるから、發議大權を輔弼しうる國内機關である樞密院(樞密顧問)の諮詢による審議(帝國憲法第五十六條)が排除されて、その正規の輔弼機關(樞密院)の審議によらない系統の草案を原案とした點においても、明らかに發議大權の侵害がなされたのである。天皇が一切關與できない發議なるものは、發議大權の侵害といふよりも、發議大權の簒奪に他ならず、これによる改正審議も議決もすべて無效である。最後の樞密院議長であつた清水澄博士が占領憲法に抗議して自決された事實は、帝國憲法第五十六条及び同七十三條に基づく樞密院の審議が排除されて占領憲法が成立したことの証左に他ならない。
さらに、發議大權の簒奪は、これにとどまらない。つまり、このやうに發議大權を簒奪してなされた改正審議において、帝國議會が修正議決したこともまた、二重の意味で憲法改正發議大權の侵害となる。すなはち、「議會ハ憲法改正案ニ對シテハ可否ノ意見ノミヲ發表スヘク之ヲ修正シテ議決スルコトヲ得サルモノト爲ササルヘカラス」(清水澄)とするのが當時の通説(佐々木惣一、美濃部達吉、宮澤俊義など)であり、議會に修正權を與へることは第二の發議權を認めることとなり、天皇に專屬する憲法改正の發議權を侵害することになるといふのがその理由である。
帝國議會においては、衆議院で帝國憲法改正發議案を修正可決し、その後に貴族院でも衆議院の送付案をさらに修正可決し、それを回付された衆議院では、これを憲法改正特別委員會に付託せずに直ちに本會議で起立方式で修正回付案を採擇して可決したのである。このやうな重大案件を斯樣に杜撰で強引な方法と手續で議決したことについて、手續面での合法性を滿たさないことは云ふまでもないが、それ以上に、衆議院において二度、貴族院において一度、それぞれ修正決議した點は、發議大權の侵害となつて無效である。ちなみに、帝國議會には修正權はないといふ學説を主張してゐた佐々木惣一と宮澤俊義は、共に貴族院議員でありながら貴族院での修正に何ら反對しなかつた典型的な變節學者である。この變節學者らの唱へてきた學説を受け入れて、帝國議會には發議案に對する修正權がないのが定説であるとしてこれに反對し、修正を加へることは法的連續性を缺くと衆議院本會議で明確に主張したのは、皮肉にも衆議院議員の野坂參三(共産黨)だけであつた(昭和二十一年六月二十八日)。
後に述べるとほり、宮澤俊義の變節は云ふに及ばず、佐々木惣一についても、第一章で述べた「狼少年」を演じた後の昭和二十四年二月に、こんなことを書物で述べてゐるのである。
「日本國憲法は、帝國憲法を改正したものであるから、帝國憲法が定めていた、帝國憲法改正の手續きを經て制定せられたのである。即ち、日本國憲法はその成立において帝國憲法と法的連續を有する。又、帝國憲法は、わが國において、初めて立憲政治を定めた制度であるから、政治について民意を尊重する、という思想の法制化において、日本國憲法に對して、先達をなすものである。日本國憲法は、ここの事項に關する規定において、帝國憲法と根本的に異なるのであるが、併し、政治における民意尊重の思想を基礎とすることは、兩者その性格を同じうする。故に、民意尊重の政治ということに關する限りにおいては、日本國憲法の基礎たる思想は帝國憲法のそれを醇化し強化したものといえる。然れば、日本國憲法を説く場合には、必ず帝國憲法の存在したことに特に言及するべきである。始めよりこれを無視することは、日本國憲法そのものの意味の理解を不徹底のものとする。」(『日本國憲法論』)と。
いづにせよ、これら保身學者らの變節とは無關係に、野坂參三が主張したとほり、帝國議會には修正權はなく、占領憲法は、帝國憲法第七十三條に定める憲法改正發議大權をGHQと帝國議會とが共謀共同して侵害し、しかも、その手續規定にも實質的に違反し法的連續性を缺いてゐることから、帝國憲法の改正としては完全に無效である。獨立時において政府が軍縮條約を締結したことを統帥大權の干犯とするのであれば、非獨立時に政府が連合軍の強制により帝國憲法の改正大權を私議して簒奪した大罪を犯し占領憲法を制定することは改正大權の干犯として無效となることは當然のことである。
そして、何よりも占領憲法は、この憲法改正發議大權を侵害して制定したことを自認(自白)してゐるのである。それは、占領憲法の前文の冒頭の「日本國民は、正當に選擧された國會における代表者を通じて行動し、・・・ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」とある部分である。占領下の占領憲法施行前において「正當に選擧された國會における代表者」なるものはあり得ないし、しかも、「帝國議會」で占領憲法を確定したはずにもかかはらず、なんと、占領憲法で初めて設置された「國會」で確定したといふのであるから、矛盾も甚だしい。妊娠した後に出産するのであつて、出産してからその子供を妊娠するものではないからである。しかも、これは、「國會」で確定し、「帝國議會」では確定しなかつたといふのであるから、帝國憲法に違反することを自白してゐる。そもそも、この文言だけに限らず前文全體の内容が明らかな虚僞であることはいまさら言ふまでもないが、少なくともここには、憲法改正發議大權を完全に無視した意思が表明されてゐることだけは明らかなのである。
さらに云へば、第七十三條第一項には、「將來此ノ憲法ノ條項ヲ改正スルノ必要アルトキハ敕命ヲ以テ議案ヲ帝國議會ノ議ニ付スヘシ」とあり、「改正スルノ必要アルトキ」として、改正の「必要性」を要件としてゐる。この必要性とは、自國固有の必要性のことであつて、外國からの要請や強制は自國固有の必要性があるとは云へない。「外國ノ強制アリタルトキ」は、むしろ「改正スルノ必要ナキトキ」に該當するものと解釋される。これこそが憲法の自律性であつて、この趣旨は第七十五條の類推適用を認めて無效とすることと同樣である。
また、これらのことは占領典範にも同じやうなことが云へる。明治典範第六十二條には、「將來此ノ典範ノ條項ヲ改正シ又ハ增補スヘキノ必要アルニ當テハ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シテ之ヲ敕定スヘシ」とあるので、この敕定についても外國勢力の介在や關與を許容するものではない。いはば、皇室の自治と自律が保たれるべき皇室家法の典範は、その改正は勿論のこと、ましてや廢止するについては、天皇に固有の發議權があり、そのことは帝國憲法の場合に勝るとも劣らないことである。それゆゑ、明治典範の廢止と占領典範の制定はいづれも絶對無效である。
無效理由その九 詔敕違反
帝國憲法は欽定憲法であるから、告文、憲法發布敕語及び上諭といふ帝國憲法發布に際しての詔敕についても憲法典と同樣に憲法規範を構成することになる。
「みことのり(御事詞、御言宣)」には、祭儀における神前での宣命(せんみゃう)、告文(かうもん)、御誓文(ごせいもん)と、臣民に下される詔(みことのり)、敕諭(ちょくゆ)、上諭(じゃうゆ)、敕令(ちょくれい)など種類があり、事の性質と輕重、内容などによつて各樣に區別されてゐるが、これらを總稱して「詔敕」といふ。
そして、帝國憲法の本文の前には、「告文」、「憲法發布敕語」、「上諭」の順で「詔敕」が置かれてゐる。その憲法發布敕語には「不磨ノ大典」とあり、さらに上諭には「將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とあることから、これは、帝國憲法改正に關する形式的要件である第七十三條とは別個に、改正のための實質的要件を定めたものと解釋しうる。即ち、その實質的要件は「紛更ヲ試ミルコト」を禁止したことであるから、占領憲法の制定といふ方法による改正は「紛更」そのものに該當するので無效である。
また、明治典範には、「宜ク遺訓ヲ明徴ニシ皇家ノ成典ヲ制立シ以テ丕基ヲ永遠ニ鞏固ニスヘシ」とあるので、これに明らかに反した占領典範は、そもそも典範の名に値しないものであつて無效である。
「天皇といへども國體の下にある」ことから、「紛更」が明らかな占領憲法と、皇室家法の「丕基」を破壞した占領典範とは、いづれも天皇による公布がなされたといへども完全に無效であることに變はりはない。當今の一天皇に國體を變更できる權限はない。從つて、先帝陛下の上諭による公布があつたことだけを根據とする「承詔必謹」論を以て、憲法として有效であるとする見解は、後に述べるとほり、帝國憲法第七十六條第一項の解釋を誤つた反國體的見解である。
無效理由その十 改正條項の不明確性
占領憲法は、帝國憲法の改正條項の條文の對應關係においても著しい問題がある。即ち、上諭には「將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜」とあり、さらに、帝國憲法第七十三條第一項によれば、「此ノ憲法ノ條項ヲ改正スルノ必要アルトキ」とあることから、條項毎の改正を豫定してゐたのである。「憲法ノ或ル條章」とか「憲法ノ條項」といふのは、「憲法の全部の廢止又は停止を容認しない」趣旨である(美濃部達吉)。
ところが、占領憲法は、帝國憲法の各條項を改正するといふ手續をとらず、差換へ的な全面改正を行つたのである。改正條項を明示するについては、通常は「第□條を次のとほり改正する。」、「第□條を廢止する。」などとして改正すべき條項との對應關係と改正の内容とを特定するものであるが、占領憲法には全くそれがなされてゐない。それゆゑ、帝國憲法と占領憲法とは條文の條項毎に一對一に對應してをらず、占領憲法の各條項が帝國憲法の、いづれの條項を改廢したのかが不明である。
また、帝國憲法に規定のある機關(帝國議會、樞密顧問、行政裁判所など)や兵役の義務などを廢止するとの規定もないので、これらの機關や義務などは事實上停止されてゐるに過ぎないこととなり、廢止されたのではないことになる。
さらに、占領憲法が眞に帝國憲法の改正法であれば、「大日本帝國憲法の昭和二十一年改正」として表示すべきであり、あくまでも法規名稱は「帝國憲法(大日本帝國憲法)」のままであるはずである。しかし、新たにこれを「日本國憲法」と改稱するとの規定すらないまま、「日本國憲法」と呼稱することのいかがはしさは拭へない。
さらに、占領憲法の公布の詔敕には、「朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」とあるが、假に、占領憲法が憲法として有效であるとしても、これにはまことに不正確な表現が用ゐられてゐると云へる。まづ、「日本國民の總意に基いて」とあるが、これは「臣民の總意」とするのが正確である。帝國憲法には、「臣民」の概念はあつても「國民」の概念も用語も存在しないのである。また、「帝國憲法第七十三條」とか「帝國憲法の改正」として「帝國憲法」といふ表現が用ゐられてゐるが、これは「大日本帝國憲法」と表記しなければならない。本稿においても、「大日本帝國憲法」の略稱として「帝國憲法」といふ表記を用ゐるが、これはあくまでも私的な略稱にすぎない。法文、しかも憲法の改正において、正式名稱を用ゐずに、慣例的な略稱表記を用ゐることはあつてはならないのである。それゆゑ、嚴密に云へば、「大日本帝國憲法」改正の公布は存在してゐないことになる。
このやうな不手際は前代未聞のことであり、このことからしても、占領憲法は先帝陛下の御叡旨に基づいてゐないことを推認しうるのである。
尤も、このやうな不手際は、單なる不手際といふよりも、意圖的なものと云へる。それは、公布時にも效力を有してゐた神道指令(資料二十九)の影響である。神道指令の一(ヌ)には、「公文書ニ於テ『大東亞戰爭』、『八紘一宇』ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ國家神道、軍國主義、過激ナル國家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル」とあり、「臣民」とか「大日本」の用語は、「過激ナル國家主義ト切り離シ得ザルモノ」とされたからであらう。
しかし、さうであれば、帝國憲法改正の公布權は、神道指令に服してゐたことになり、このことは、占領憲法は帝國憲法の改正法ないしは憲法としては無效であり、講和條約の性質を有してゐたことの證左となるものである。
その上、帝國憲法の各條項に對應する占領憲法の類似條項についても、それが交換的改正なのか追加的改正なのかは、占領憲法の補則(第十一章)によつても一切明らかにされてゐない。從つて、帝國憲法の各條項がどのやうに改正されたかについて不明確なものは形式的連續性をも缺いてをり、帝國憲法の改正と認めることができないのである。
上諭には「將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とある。この紛更とは、つまり、無闇やたらに變更することを禁止してゐるのであるが、占領憲法のこのやうな全面改定は「紛更」そのものに該當するので無效であることは前にも述べたが、その上さらに、改正條項の對應關係が不明確であるが故に無效であるといふ法理によつて無效であるといふことである。
附言するに、明治典範第六十二條には、「將來此ノ典範ノ條項ヲ改正シ又ハ增補スヘキノ必要アルニ當テハ皇族會議及樞密顧問ニ諮詢シテ之ヲ敕定スヘシ」とあつて、これも明治典範の各條項の改正するといふ手續をとらず、占領典範により實質的には差換へ的な全面改正を行つたのであるから、前記同樣の理由で無效である。
無效理由その十一 典憲としての妥當性及び實效性の不存在
占領典憲には、典憲としての妥當性は勿論のこと、實效性も備はつてゐない。まづ、占領典範は、確かに形式上は明治典範と隔絶したものとして制定されたとされるが、その實質は、皇位の繼承、攝政、尊稱使用など明治典範の各條章の構成と表現、態樣を踏襲してゐるのであつて、明治典範を國民主權の名の下に實質的に「改訂」した點において妥當性を缺いてゐる。そして、その解釋運用については、常に明治典範に依據してゐることからすると、占領典範の各條項の主な部分は、實質的には明治典範の實效性を借用してゐるだけであつて、固有かつ獨自の實效性は存在しないのである。
また、前述したとほり、昭和天皇は、占領典範によつて「初代天皇」として選定されたのではなく、明治典範に準據して昭和三年十一月の即位禮により第百二十四代天皇として踐祚され、崩御されるまで一度も退位されたことはない。つまり、明治典範の廢止による退位には全く實效性がなく、占領典範の「初代天皇」ではない。そのことは第百二十五代天皇である今上陛下についても同樣であり、占領典範は、その意味においても、皇位の繼承と選定の本質に關して、いまもなほ全く實效性を備へてはゐないのである。
これと同樣に、占領憲法についても、憲法としての妥當性も實效性もない。占領憲法が妥當性を缺くことについては、この單元において無效理由として指摘した理由のとほりであり、さらに、前章で指摘したとほり、占領憲法の核心的條項である第九條には實效性がなかつたのである。占領憲法が憲法として有效であれば、自衞隊は、その第九條第二項前段の「陸海空軍その他の戰力」に該當することは明らかである。舊安保條約の冒頭にも、「日本國は、本日連合國との平和條約に署名した。日本國は武裝を解除されているので、平和條約の效力發生の時において固有の自衞權を行使する有效な手段をもたない。」とあり、自衞隊について、アメリカはこれを容認しても占領憲法においては容認されてゐるものとは見てゐない。「戰力」であるか否かとは、人的組織と物的裝備において客觀的に戰爭遂行能力を有するか否かで決定されるものであつて、自衞のためであるか否かといふ動機、目的その他の主觀的な要素によつて決まるものではない。むしろ、軍事學的に考察して、自衞に軸足を置く戰力は、攻撃だけのための戰力よりも重裝備である。にもかかはらず、自衞隊が占領憲法第九條第二項前段に違反しないといふのは詭辯も甚だしく、自衞隊が存續してゐる事實は、明らかに「違憲状態」の繼續であるから、第九條は實效性を完全に喪失してゐる。そして、第九條に實效性がないのであれば、これと一體となる占領憲法全體についても實效性がないのである。
占領憲法に憲法としての實效性があるかの如き形式的な情況は、帝國憲法の實效性の影繪を見てゐることに他ならない。「虎(正統憲法)の威を借りる狐(占領憲法)」である。また、第九條以外の統治機構條項や權利義務條項などの適用についても、それは帝國憲法の實效性の反射に他ならない。後に詳述するとほり、占領憲法は帝國憲法下で締結した講和條約の限度で認められるだけであつて、これに實效性が認められるのは、講和條約としてのそれであつて憲法としてのものではない。このやうな政治状況において、占領憲法が憲法としての實效性を有することを證明するためには、むしろ、帝國憲法の實效性が喪失し、占領憲法のみが憲法としての「排他的な實效性」を有することが證明されなければならないのである。しかし、占領憲法に、このやうな排他的實效性があることは證明できない上に、むしろ、帝國憲法のみに排他的實效性があることが證明されるのである。占領憲法の施行後において、GHQ指令によつて警察豫備隊といふ軍隊が設立され、それが後の自衞隊となつた。また、GHQによる言論統制や檢閲があり、選擧に對する干渉などがなされた。そして、「特別裁判所」である極東國際軍事裁判所が容認されてゐた。また、GHQは昭和二十一年二月十九日に『刑事裁判權行使に關する覺書』を公布し、これにより、占領目的に有害な行爲に關して、連合國軍事裁判所が裁判權を行使することになつた。このやうなことは、すべて占領憲法の第九條、第二十一條、第七十六條第二項に違反するものであり、それが容認されてきたことは、占領憲法に憲法としての實效性がなかつたことを證明してゐる。このことに對し、帝國憲法においては、これらは占領下の非獨立時代における講和行爲(講和條件)として容認しうることであつて、これこそが帝國憲法第十三條の實效性の證明となる。
占領憲法に實效性がなかつたことは外にもある。マッカーサーが國連軍最高司令官及び連合國軍最高司令官を解任され、この後任として着任したマシュー・リッジウェイは、GHQの權限を我が政府に「權限移讓」を行つてゐるのである。第二章で述べたとほり、これはイラクのCPAの「權限移讓」と同じことを行つたのである。つまり、リッジウェイは、昭和二十六年五月一日、我が政府へ占領下法規再檢討の權限を移讓すると聲明し、同月六日に政令諮問委員會を設置し、その後に移讓手續とその實施を行つてゐる。このとき既に占領憲法は、國民主權の憲法であるして施行されてゐたのである。それゆゑに、この權限移讓にはたして憲法的根據があるのか。あるはずがない。これに答へられる占領憲法の有效論者が居れば、是非ともご教授願ひたいところである。これは占領憲法に實效性がないことを示す有力な根據の一つでもある。
そして、何よりも占領憲法に實效性がないのは、後に詳述するとほり、占領憲法では、連合國の一部と戰爭状態の終結をさせる講和條約(桑港條約)の締結は、「交戰權」の行使となり、しかも、桑港條約の當事國とならなかつた連合國の一部との關係では、「戰爭状態の繼續」をすることになつて、まさに「交戰權」の行使となつてしまふのである。つまり、法人たる國家において自ら權限のないものとして憲法によつて定めた行爲をあへて行ふことは不可能であり、假に、その外形行爲を行つたとしても無效であることは法人能力理論の定説であつて、「交戰權」を自ら否定した占領憲法が憲法であれば、桑港條約は無效となり、我が國は未だ「獨立」できてゐないことになる。桑港條約によつて獨立できたとすることの法的根據は、帝國憲法第十三條の講和大權の行使しかないのである。
この外にも、占領憲法は、①第九條に違反する自衞隊が恆常的に存在し、憲法の變遷、解釋改憲がまかり通つてゐること、②闇米がなければ生活できないやうな食糧難の状況が續いたことから第二十五條が完全に死文化してゐたこと、③GHQによる二・一ゼネストの中止命令によつて第二十八條の實效性は否定されたこと、④私學助成といふ第八十九條に違反する事實が反復繼續してゐること、などからして、占領憲法は實效性を喪失し、第九十九條の最高法規性が否定され續けてゐるのである。
それゆゑ、占領憲法は、憲法としての實效性がなく、憲法としては無效なのである。
無效理由その十二 政治的意志形成の瑕疵
占領憲法については、その改正過程において、プレスコード指令や神道指令などによる完全な言論統制と嚴格な檢閲がなされてゐたことは嚴然たる歴史的事實であり、その詳細は第二章で述べたとほりである。これは、臣民の政治的意志形成に瑕疵があり、表現の自由等を保障した帝國憲法第二十九條等に違反する。
表現の自由(知る權利)は、民主社會を維持し育成する上で極めて重要な機能を有し、實質的には政治參加の機能を持つてゐる。いはば、參政權行使の前提となる權利であつて、この行使が妨げられることは實質的に參政權の行使が妨げられたと同視されるから、言論統制下での改正行爲自體が違憲無效なのである。
前述のとほり、バーンズ回答によれば、我が國の最終的政治形態は「日本國民の自由意志」に委ねるとしてゐたのであつた。このことは、憲法改正を義務づけず、連合國の占領統治下においても「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」を遵守し、國内手續においても憲法改正發議權を侵害せずに、かつ、我が臣民の自由意志によるとの意味である。しかし、連合國は、これらを悉く踏みにじつたのである。
ただし、帝國憲法の改正審議において必要な「日本國民の自由意志」とは、あくまでも帝國憲法下の法制で顯出されるものであつて、決して剥き出しの國民主權を意味するものではない。それは、あくまでも憲法改正手續における一つの審議機關としての帝國議會、しかも、民選の衆議院を經由して汲み取られた「日本國民の自由意志」を意味するのである。
ところが、改正手續の過程において、GHQは、プレスコード指令などにより全面的な檢閲と情報操作による完全な言論統制を行つてゐた。GHQが占領憲法を起草したことに對する批判や、その起草に當たつてGHQが果たした役割についての言及やその批判などは一切報道してはならないし、これを行へば發行禁止處分になるといふことは、國民には全く知らされてゐなかつたのである。また、憲法改正の是非を問ふための選擧もなされず、帝國議會での審理は、實質的には祕密會で全てが行はれて全く公開されなかつた。昭和二十一年三月六日に發表された『帝國憲法改正草案要綱』(いはゆる「三月六日案」)は、あくまでも要綱であつて、改正案全文ではない。この要綱案しか發表されないままで、僅か約一か月後の同年四月十日に衆議院議員總選擧がなされたが、この選擧では立候補者の選擧広報所載の政見内容でこの要綱に觸れてゐないものが八十二・六パーセントであつて、殆ど選擧の爭點とはされてゐなかつたのである(憲法調査會「憲法制定經過に關する小委員會第二十五回議事録」)。この選擧の唯一最大の爭點は、食糧問題であり、「憲法よりもメシだ!」といふ感覺が世情を完全に支配してゐたのである。
このやうな臣民の生活状況で憲法改正について關心を向けることは不可能に近かつたが、さらにその上に追ひ打ちをかけるやうに、GHQの情報操作と思想検閲は猖獗を極めた。特に、アメリカの對日檢閲計畫は、用意周到なもので凄まじいものがあつた。昭和十六年十二月八日の大東亞戰爭開戰の翌日に、J・エドガー・フーヴァーFBI長官が檢閲局長官臨時代理に任命されたときから用意周到に行はれてきたものであり、占領直後から、連合國軍最高司令官總司令部(GHQ、SCAP)の民間諜報局(CIS)に屬する民間檢閲支隊(CCD。Civil Censorship Detachment)などによつて徹底した檢閲がなされてきたのは周知の事實である。昭和二十年八月三十日に、マッカーサーが厚木飛行場に到着し、橫濱に入つた二日後の同年九月一日には、連合國軍最高司令官總司令部(GHQ、SCAP)の太平洋陸軍總司令部參謀第二部(G2)民間諜報局(CIS)に屬する民間檢閲支隊(CCD)の先遣隊の一部が橫濱に到着してゐる。これは降伏文書調印の前日のことである。
このやうに、國民の政治的意志を決定するために不可缺な「知る權利」は全く否定されて徹底した檢閲がなされた情況での帝國憲法の改正が有效として肯定されるはずはない。國民の眞摯な政治的意志が決定されるためには、正確で必要不可缺な情報を國民が知ることのできる權利が保障されてゐなければならない。この論理は、占領憲法を有效とする見解の壓倒的多數が當然の如く肯定してゐるものである。さうであれば、論理必然的に占領憲法は無效であるとしなければ自家撞着を來すことになる。參政權と不可分の關係にある「知る權利」は、表現の自由の保障にとつて根幹をなす權利であり、帝國憲法第二十九條も「日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス」として表現の自由は保障されてゐた。ましてや、ポツダム宣言第十項は、「日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」として、この知る權利の保障を占領統治の條件としてゐたのであるから、檢閲、情報操作、言論統制などは論外なことである。このことからしても、GHQの占領政策の目的が「民主化」であるとする主張は成り立たない。單に、「日本弱體化」の目的のために都合のよい方向だけの「民主化」の僞裝を、非民主的かつ暴力的な強迫に屈して推進してゐたものに過ぎないのである。
この強迫の主體は、何もGHQだけではない。GHQの傀儡となつた我が政府首腦も、帝國議會や臣民に對し、GHQの手先となつて占領憲法の制定について非民主的に問答無用の態度で推進してきたのである。しかも、GHQの虚僞の情報操作による詐術によつて、GHQが極東委員會の我が國に對する無理難題の要求的壓力の盾となつて我が國を守つてくれてゐるといふ倒錯した認識すら政府首腦が抱いた感がある。つまり、GHQによる強迫に馴致しつつ、さらに、GHQの詐術によつてまんまと騙され、占領憲法の制定は天皇の地位を安泰ならしめるために不可缺なものであると信じて、この強迫と詐術の二頭立ての馬車に乘つて占領憲法の制定の道を驅け抜けたといふことである。
具體的に云へば、たとへば、昭和二十一年三月二十日、幣原首相が樞密院會議において、帝國憲法改正草案要綱を發表するに至つたこれまでの經緯について、「極東委員會ト云フノハ極東問題處理ニ關シテハ其ノ方針政策ヲ決定スル一種ノ立法機關デアツテ、其第一回ノ會議ハ二月二十六日ワシントンニ開催サレ其ノ際日本憲法改正問題ニ關スル論議ガアリ、日本皇室ヲ護持セムトスルマ司令官ノ方針ニ對シ容喙ノ形勢ガ見エタノデハナイカト想像セラル。マ司令官ハ之ニ先ンジテ既成ノ事實ヲ作リ上ゲムガ爲ニ急ニ憲法草案ノ發表ヲ急グコトニナツタモノノ如ク、マ司令官ハ極メテ秘密裡ニ此ノ草案ノ取纏メガ進行シ全ク外部ニ洩レルコトナク成案ヲ發表シ得ルニ至ツタコトヲ非常ニ喜ンデ居ル旨ヲ聞イタ。此等ノ状勢ヲ考ヘルト今日此ノ如キ草案ガ成立ヲ見タコトハ日本ノ爲ニ喜ブベキコトデ、若シ時期ヲ失シタ場合ニハ我ガ皇室ノ御安泰ノ上カラモ極メテ懼ルベキモノガアツタヤウニ思ハレ危機一髪トモ云フベキモノデアツタト思フノデアル」と報告したことや、同年六月二十三日には、吉田首相が、憲法改正案の立案に關し、貴族院での施政方針演説への質問に對して、「唯茲ニ一言御注意ヲ喚起シタイト思ヒマスノハ、單ニ憲法國法ダケノ觀點カラ此ノ憲法改正案ナルモノヲ立案致シタ次第デハナクテ、敗戰ノ今日ニ於キマシテ、如何ニシテ國家ヲ救ヒ如何ニシテ皇室ノ御安泰ヲ圖ルカト言フ觀點ヲモ十分考慮致シマシテ立案シマシタ次第デアリマス。」と答辯したやうに、マッカーサーの配慮によつて御皇室の護持安泰ができたことに感謝し、その取引条件として占領憲法を制定するのであると本氣で信じてゐたのである。つまり、マッカーサーが天皇を人質にした強迫と詐術によつて、幣原と吉田の各首相がこれを眞實であると信じ、かつ、その強迫に屈服して、樞密院を騙し、貴族院を騙し、そして臣民を騙してきたといふことである。
ところで、國民の政治的意思決定に關しては、前章で述べたとほり、極東委員會(FEC)の方針について言及する必要がある。それは次のとほりであつた。まづ、極東委員會(FEC)は、昭和二十一年三月二十日、『日本憲法に關する政策』を採擇し、マッカーサーに通告した。その骨子は、日本憲法問題に關して、①極東委員會は草案に對する最終的な審査權を持つてゐること、②最高司令官は草案の推移について絶へず極東委員會に報告すべきこと、③草案の内容はポツダム宣言に適合するものであるべきこと、④しかもそれは日本國民の自由な意思の表明の保障の下に採擇されるものであること、などであつた。そして、同年四月十日、極東委員會(FEC)は、日本憲法採擇について極東委員會(FEC)が關與することを希望するものであることを米國を含め全委員一致で決議(いはゆる「四月十日決議」)したが、同月十三日、マッカーサーは、極東委員會(FEC)の「四月十日決議」を拒否する旨米政府に通知した。しかし、極東委員會は、同年五月十三日に、『日本新憲法採擇に關する基準』を全會一致で決定した。この『日本新憲法採擇に關する基準』とは、「新憲法の採擇に關する基準は、憲法が最終的に採擇されたときに、事實上、日本國民の意思の自由な表現であることを確保するやうなものでなければならない。」とし、「新憲法の條項を十分に論議し、考究するための、適當な時間と機會が與へられなければならない。」などといふものであつた。そして、同年七月二日には、極東委員會(FEC)特別總會が開催され、『新日本憲法の基本諸原則』を全會一致で採擇した。その主な内容としては、①主權は國民に存することを認めなければならないこと、②日本國民の自由に表明された意思をはたらかすやうな方法で憲法の改正を採擇すること、③日本國民は、天皇制を廢止すべく、もしくはそれをより民主的な線にそつて改革すべく、勸告されなければならないこと、もし、日本國民が天皇制を保持すべく決定するならば、天皇は新憲法で與へられる權能以外、いかなる權能も有せず、全ての場合について内閣の助言に從つて(in accordance with)行動すること、④天皇は帝國憲法第十一條、第十二條、第條十三條及び第十四條に規定された軍事上の權能をすべて剥奪されること、⑤すべての皇室財産は國の財産と宣言されること、⑥樞密院と貴族院を現在の形で保持することはできないこと、⑦内閣總理大臣その他の国務大臣は全て文民でなければならないこと(文民條項)、などであつた。そして、これらを踏まへて、同年十月十七日の極東委員會(FEC)は、『日本の新憲法の再檢討に關する規定』といふ政策決定を行ひ、三月二十日の『日本憲法に關する政策』としての「極東委員會は草案に對する最終的な審査權を持つてゐること」を前提とすると、既に成立したとする新憲法について事前審査がなされてをらず、それが果たして七月二日の『新日本憲法の基本諸原則』における「日本國民の自由に表明された意思をはたらかすやうな方法で憲法の改正を採擇すること」の要件からして、帝國議會の承認がこれに該當するのかについて、極東委員會が最終審査權による新憲法の承認又は不承認を判斷するためにも、日本國民に對し、その再檢討の機會を與へるべきであるとの見解を示した。つまり、アメリカは、帝國議會の承認が「自由に表明された意思」であるので、極東委員會において最終審査として承認されるべきとし、ソ連はこれに不承認として反對したことから、承認か不承認かを棚上げにする案として「再檢討」といふことになり、占領憲法は、極東委員會の最終審査を經ずに實施されることになつたのである。
つまり、これらの經緯が意味する結論としては、占領憲法が帝國議會で承認されたことだけでは不十分であり、極東委員會の一連の決定にある「日本國民の意思の自由」と「論議・考究するための適當な時間と機會」の確保のために、少なくとも憲法改正のための特別議會及び國民投票を必要とするといふことである。
しかし、占領憲法においては、憲法改正案の贊否を問ふための特別の國民會議の選擧もなく、その代用としての衆議院の解散總選擧もなく、ましてや國民に極東委員會の決定内容等の詳細を周知させることもなかつた。しかも、憲法改正のための充分な論議等の時間を與へるどころか、祕密會の小委員會でGHQ草案の翻譯檢討に終始したかの如き審理をしただけで、その經過内容も五十年後になつてやうやく開示しただけで、その當時は全く周知させないまま祕密裏に手續を進め、最終の改正案について、國民の信を問ふための國民投票はおろか、衆議院の解散すら實施してゐないのである。このことは、假に、國民主權主義の立場に立つたとしても、有效に憲法として成立したものとは云へないのである。
もし、現在、このやうなことが行はれた場合、誰もがそのやうな改正は無效であるとするはずである。あのときは有效だが、今行はれた場合は無效だといふ論理は、國民の意思決定の價値と效力が時代別に等差を認める不當な差別主義を前提とした二重基準であつて何らの説得力もないのである。
偉大な數學者であり思想家でもあつた岡潔は、「西独は進駐軍治下の憲法というものはありえないといって毅然としてその憲法を變えることを拒否したのに、日本は唯々諾々として進駐軍治下で憲法を變えた。問題はここにあるのであって、いや進んでしたのだ、いや強いられてしたのだと言っているようだが、問題はそれ以前にあるのである。これはたとえ國民投票に問うても、進駐軍治下という状勢においてはなおいけないというのである。日本の場合はその國民投票にさえ問うていないではないか。強いられてしたのか進んでしたのかをどうしてきめるのか。しかし實際は、日本の場合は進んで憲法を變えたのである。政府はそうしなければ萬世一系の皇統を斷絶するぞといって恐喝されたからであって、政府はその時國民にはかったわけではないが、私はそれが國民過半の感情だったからであると思う。」(文獻292)と述べたが、まさに正鵠を得た言葉である。
假に、前述した昭和二十一年七月二日の極東委員會(FEC)特別總會で採擇された『新日本憲法の基本諸原則』が臣民に正確に周知されてゐたとすると、幣原や吉田のやうにマッカーサーの口車に乘つて拙速な形で占領憲法を制定する必要はなかつたのである。つまり、この『新日本憲法の基本諸原則』である、①主權は國民に存することを認めなければならないこと、②日本國民の自由に表明された意思をはたらかすやうな方法で憲法の改正を採擇すること、③日本國民は、天皇制を廢止すべく、もしくはそれをより民主的な線にそつて改革すべく、勸告されなければならないこと、もし、日本國民が天皇制を保持すべく決定するならば、天皇は新憲法で與へられる權能以外、いかなる權能も有せず、全ての場合について内閣の助言に從つて(in accordance with)行動すること、④天皇は帝國憲法第十一條、第十二條、第條十三條及び第十四條に規定された軍事上の權能をすべて剥奪されること、⑤すべての皇室財産は國の財産と宣言されること、⑥樞密院と貴族院を現在の形で保持することはできないこと、⑦内閣總理大臣その他の国務大臣は全て文民でなければならないこと(文民條項)などは、いづれも占領憲法の規定のとほりであつて、マッカーサーの強迫と詐術によつて拙速に占領憲法を制定しなくても、結果的には同じであつて、占領憲法を拙速に制定したことによる我が國側の利益は何もなかつたのである。何も變はらないのであれば、臣民が『新日本憲法の基本諸原則』を周知して、その原則でなければ講和の條件を滿たさないことを充分に自覺して慎重に改正作業に入ることができたはずであり、それによつて講和獨立後における占領憲法の再改正ないしは破棄も容易にできたはずである。つまり、これらの歴史的な事實經過からすると、マッカーサーは、極東委員會と張り合つて、自らが占領憲法の制定に關する政治的な主導權を握りたいといふ權力欲と自己顕示欲のために、我が國政府首腦に對し強迫と詐術を繰り返して占領憲法を拙速に制定させたことが明らかとなつてゐるのである。もし、極東委員會の『新日本憲法の基本諸原則』が公表されてゐれば、マッカーサーの立場はなくなり、詐術が通じないこととなつて、占領憲法の制定に關してマッカーサーの出る幕はなかつたのである。幣原首相が「危機一髪トモ云フベキモノ」といふのは、實のところ、我が國の立場ではなく、マッカーサーの立場のことであつたのである。
そればかりではない。まだまだ臣民にリアルタイムで周知されてゐなかつたことが多くある。第二章でも觸れたが、極東委員會の昭和二十一年三月二十日の決定、同年十月十七日の「再檢討」の決定などについてもさうである。
昭和二十一年十月十七日、極東委員會(FEC)は、『日本の新憲法の再檢討に關する規定』といふ政策決定を行つた。これは、同年三月二十日の極東委員會(FEC)のなした『日本憲法に關する政策』において、「極東委員會は草案に對する最終的な審査權を持つてゐること」を前提とすると、既に成立したとする新憲法について事前審査がなされてをらず、それが果たして七月二日の『新日本憲法の基本諸原則』における「日本國民の自由に表明された意思をはたらかすやうな方法で憲法の改正を採擇すること」の要件からして、帝國議會の承認がこれに該當するのかについて、極東委員會が最終審査權による新憲法の承認又は不承認を判斷するためにも、日本國民に對し、その再檢討の機會を與へるべきであるとの見解を示した。アメリカは、帝國議會の承認がポツダム宣言第十二項の「日本國國民の自由に表明せる意思」であるので、極東委員會において最終審査として承認されるべきとし、ソ連はこれに不承認として反對したことから、承認か不承認かを棚上げにする案として、占領憲法施行一年目から一年間(昭和二十三年五月三日から同二十四年五月二日までの間)に「再檢討」といふことになり、占領憲法は、極東委員會の最終審査を經ずに實施されることになつた。しかも、昭和二十一年十月七日に帝國議會で改正案が成立した十日後であり、公布前のこの時期になされた「再檢討」決定は、「憲法の權威を損なふ」との反對があり、マッカーサーも翌二十二年一月三日の書簡を以て吉田首相にも趣旨の異なる通知をしただけで、公表はされなかつた。ここでいふ「憲法の權威」とは、占領憲法が憲法であることを臣民に假裝することを維持することの權威であり、「權威の假裝」の意味である。假裝が必要なのは、占領憲法が「日本國國民の自由に表明せる意思」に基づかないことが露見することを阻止しなければならないからである。この決定が公表されたのは、二・一ゼネストの中止命令がなされた萎縮效果も覺めやらぬ占領憲法施行直前の昭和二十二年三月二十日であつた(新聞報道は同月三十日)。
このやうに、臣民に對し眞實を秘匿するといふ消極的な不作爲の欺罔以外にも、特筆すべきは、積極的な作爲の欺罔もあつた點である。それは、「憲法普及會」による臣民の洗腦である。實はこれこそが臣民に對する最大の洗腦工作であつて、全國組織的な洗腦運動を推進する母體として、昭和二十一年十二月一日、帝國議會は、「憲法普及會」を組織した。官製の洗腦運動の始まりである。この憲法普及會は、衆貴兩院議員を評議員とし、評議員と院外者(學者、ジャーナリストなど)の中から理事を選任し、会長は芦田均(衆議院議員)、事務局長は永井浩(文部官僚)が就任。院外者の理事には、河村又介(九大・憲法)、末川博(立命館・民法)、田中二郎(東大・行政法)、宮澤俊義(東大・憲法)、横田喜三郎(東大・國際法)、鈴木安蔵(憲法)などの學者の他、ジャーナリスト、評論家では、岩淵辰雄、小汀利得、長谷部忠などが就任した。この中央組織の下に各都道府縣に支部が翌年一月から三月までにつくられ、京都支部以外の支部長は各都道府縣知事が就任し、その支部事務所は各都道府縣廳内に設置された。まさに、占領憲法による洗腦運動の「大政翼賛會」であり、その活動はGHQの指圖に基づいたものであつた。
そして、翌昭和二十二年一月十七日、憲法普及會の常任理事會が首相官邸で開催され、GHQ民政局員のハッシーとエラマンが出席した。全國を十區域(東京、關東、北陸、關西、東海、中國、四國、九州、東北、北海道)に分け、各地區で四日ないし五日間の日程で講師による中堅公務員の研修を實施することを決定し、これに基づき、同年二月十五日、憲法普及會が東大法學部三十一番教室で六百六十四名の公務員(各省廳及び警察廳から約五十名づつ)を集めて憲法研修會を實施(同月八日までの四日間)した。その演題は、「開講の辭」(会長・芦田均)、「新憲法と日本の政治」(会長・芦田均)、「近代政治思想」(東大講師・堀眞琴)、「新憲法大觀」(副会長・金森德次郎)、「戰爭放棄論」(東大教授・横田喜三郎)、「基本的人權」(理事・鈴木安蔵)、「國會・内閣」(東大教授・宮澤俊義)、「司法・地方自治」(東大教授・田中二郎)、「家族制度・婦人」(東大教授・我妻榮)、「新憲法と社會主義」(代議士・森戸辰男)、「閉講の辭」(事務局長・永井浩)といふものであつた。
憲法普及會編『新憲法講話』(昭和二十二年七月發行)は、非売品として五萬部印刷して憲法研修會にテキストとして使用された。横田喜三郎は、その中で、自衞戰爭を否定し自衞權は制約されるとして次のやうに主張してゐた。つまり、「自衞の戰爭といえども、今後は戰爭をいっさい行わない」「外國から急に攻められるような場合には、一應自衞權を認めるけれども、國際連合がその自衞權が正當か否かということを判斷して、その後は國際連合が引受けることとし、國際連合が活動できない暫定的の間だけ、自衞權を認めることになっております。」といふ極めて間の抜けた主張であつた。ちなみに、横田喜三郎は、昭和二十六年九月八日の桑港條約と舊安保條約調印後に、一轉して、自衞權を一般的に肯定し、武力なき自衞權の行使として米軍駐留と基地提供を認めるに至り(『自衞權』(有斐閣)昭和二十六年)、その變節の功績によつて最高裁判所長官へと上りつめたのである。
ともあれ、占領憲法が「ただしい、すばらしい」といふ洗腦書は、この『新憲法講話』以外にも、内閣法制局閲『新憲法の解説』(昭和二十一年十一月發行)がある。これは、全文九十四頁のもので、二十萬部發行された。さらに、一般國民を對象とした憲法普及會主催の講演會を全國各地で開催した。一例を擧げれば、群馬縣では三百八十二回、六萬人餘の受講者を動員した。また、石川縣では百八回、一萬二千人、長野縣では五十六回、一萬四千人を動員したのである。
そして、憲法普及會編『新しい憲法 明るい生活』(昭和二十二年五月三日発發)に至つては、全文三十頁のもので、それを二千萬部發行したのである。この部數は、當時の全世帶數に相當する部數である。これを各戸配布したのである。その中で、芦田均は、「新しい日本のために」と題する文を掲載し、「新憲法は、日本人の進むべき大道をさし示したものであって、われわれの日常生活の指針であり、日本國民の理想と抱負とをおりこんだ立派な法典である。」と、齒が浮くやうな軽薄な言葉で洗腦に加擔したのである。この『新しい憲法 明るい生活』は、憲法普及會と文部省教科書課が第一稿を作成し、東大の横田喜三郎と田中二郎が推敲して、芦田均と金森德次郎が審査した後、GHQ民政局員ハッシーが監修したもので、明確な洗腦文書である。これを投票用紙の配布と同樣の方法で全戸に無料配布したのである。昨今の教科書の偏向どころの騒ぎではない。さらに、洗腦の仕上げとして、全國から懸賞論文の募集をしたのである。審査委員は、芦田均、金森德次郎、宮澤俊義、横田喜三郎である。また、制作指導や資金援助をした映畫も作られた。『新憲法の成立』、『情炎』、『壮士劇場』、『戰爭と平和』などである。それだけでない。兒童向け短編映畫、幻燈、紙芝居、カルタなど、臣民のすべての階層を洗腦した。音楽では『われらの日本(新憲法施行記念國民歌)』、『憲法音頭』まで作られて、すべての行事に演奏された。新憲法施行記念式典では、『君が代』ではなく、「平和のひかり 天に満ち 正義のちから 地にわくや われら自由の 民として 新たなる日を 望みつつ 世界の前に 今ぞ起つ」といふ歌詞の『われらの日本(新憲法施行記念國民歌)』が演奏されたのである。まさに、國民洗腦運動が官民、GHQの總動員體制で繰り廣げられたのである。
このやうに、當時の我が國には、自由な政治的意思を形成しうるだけの「政治的環境」がなかつたのであるが、それに加へて、さらに重大なこととしては、それを支へうる「生活的環境」も全くなかつた點がある。前にも述べたが、當時は、敗戰による極度の食糧難に陷つてをり、その上に、さらに外地から大量の將兵、軍屬、居留民などが内地に復員することによつて、その食糧難は極限状態となつてをり、昭和二十年末から翌昭和二十一年一月にかけての狂亂物價の高騰によつて食糧事情は最惡となり、同年五月一日のメーデー、同月十九日の食糧メーデー、そして、同月二十四日には、停戰時以來二度目の天皇の「玉音放送」がなされ、食糧危機に家族國家の傳統で對處するやうにとの綸言を賜るほどの臣民の困窮ぶりであつた。このやうな状況において、假に、形式的な政治的自由が保障されたとしても、「倉廩實ちて禮節を知り、衣食足りて榮辱を知る」(『管子』)との格言のとほり、それは餘りにも空しい畫餠である。大多数の國民は、廢墟となつた燒け跡の中で暮らし、配給食糧だけでは命を繋ぐことができず、食糧管理法に違反して闇米で食ひ繋いできた。その中にあつて、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」(教育敕語)、「天皇ノ名ニ於テ」(帝國憲法第五十七條)裁判を行ふ裁判官の職責を全うする盡忠報國の覺悟をもつて、闇米を一切口にせず配給米だけで生活した東京地方裁判所の山口良忠判事夫婦の姿があつた。そして、山口良忠判事が激務と極度の栄養失調のため、餓死による自決を果たしたのは、占領憲法の施行から約五か月後の昭和二十二年十月十一日のことである。
また、その丁度二年前の昭和二十年十月十一日にも、東京高校(舊制)のドイツ語教授亀尾榮四郎は、「いやしくも教育者たる者、表裏があつてはならぬ。どんな苦しくても、國策に從ふ。」といふ固い信念のもとに、自分は殆ど食べずに、子供たちに食物を與へ續け、ついに力盡きて亡くなつた。 このやうに、家族の命と暮らしが守れるか否かといふ、何よりも最優先の死活問題があり、憲法改正について關心が向けられることはなかつた時代である。
總人口が七千八百十萬千四百七十三人であり、そのうち失業者は約八百萬人の時代である。もし、自由な政治的意思を持ち得た都會人が居たとすれば、それは全て農家からの闇米やGHQからの闇物資を食らつて命を永らへた者ばかりである。特に、GHQの走狗となつて我が國の放送、出版物、信書などの檢閲に携はつてGHQから法外な厚遇を受けてゐた者と、さうでない者との生活格差は甚だしかつた。いはゆる戰後に空前のベビーブームが起こつたのも、紛れもなくそれは空前の食糧危機の投影である。飢ゑによつて生命の危機を感じると、強烈に種族保存本能が機能して子孫を殘そうとすることの結果である。激しく物價が高騰するなかでは、食料を求めるのが最大の關心事である。GHQの走狗となつて檢閲などに從事して破格の待遇を受けてゐる者や、あるいは、GI(米兵)にぶらさがつて生きるオンリーやパンパンなどの奢侈で裕福な生活をする者を横目に見ながら、また、戰爭孤兒たちがギブ・ミー・チョコレートといふ物乞ひの屈辱と強かさを交錯させて生きてゐる社會の中で、多くの人々は、それでも清貧なる矜持を持つて生き拔かなければならなかつた。そのやうなギリギリの生活をする多くの人々からすれば、憲法などは二の次であつた。このときの世相は、隠匿物資の橫流し、かつぎ屋の橫行、買ひ出し列車で彩られ、GHQや政府の隠匿物資などを利用して、それを餌にして飢ゑたる民を動員し、ラジオ、新聞なども總動員して、占領憲法を受け入れてこれを祝賀する啓蒙と喧傳が繰り返された。つまり、占領憲法は、闇米を食つてゐた隙に出来上がつた「闇憲法」であり、そのやうなものに正統性があるはずもない。
無效理由その十三 帝國議會審議手續の重大な瑕疵
最後に、帝國憲法改正案の帝國議會における審議は、極めて不十分であつて、審議不十分の重大な瑕疵があるため、その議決手續は違法であり、かつ、GHQが、帝國憲法第四十條で保障する兩議院の建議權(一種の國政調査權)の行使を實質的に妨げ、かつ、その不行使を強要した事情が存在するので、手續自體が違憲無效である。
その事情及び理由は、第二章で詳細に述べたが、その概要を指摘すれば次のとほりである。
ポツダム宣言受諾後、帝國憲法改正案を審議した第九十回帝國議會(昭和二十一年六月二十日開會)までに開會された帝國議會は、敗戰直後の第八十八回(同二十年九月四日開會)と第八十九回(同年十一月二十七日開會)の二回のみである。そのいづれの帝國議會においても、國家統治の基本方針についての實質的な討議は全くされなかつた。
その間に、昭和二十年九月二十日、連合軍の強要的指示によつて帝國憲法第八條第一項による「ポツダム緊急敕令」(昭和二十年敕令第五百四十二號「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件」)が公布され、これに基づく命令(敕令、閣令、省令)、即ち、「ポツダム命令」が發令されることになる。この「ポツダム命令」が占領中に約五百二十件も發令されたことからしても、「ポツダム緊急敕令」の公布及び「ポツダム命令」は、占領政策の要諦であつたことが頷ける。
この緊急敕令は、「法律ニ代ルヘキ敕令」であり、帝國憲法第八條第二項により「此ノ敕令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出」しなければならないものであつたため、次の第八十九回帝國議會で提出され、承諾議決がなされてゐるものの、全くの形式的審議に終始したのである。
その原因は、占領統治に協力することを命じ、その不遵守に罰則を設けて強制したことと、昭和二十年十二月十九日の『連合國の日本占領の基本的目的と連合國によるその達成の方法に關するマックアーサー元帥の管下部隊に對する訓令』を新聞發表して我が國政府に命令した内容には、「日本政府及び國民は、最高司令官の指令を強制されることなく實行するあらゆる機會を與へられるべきであるが、自發的な行動が執られない場合には、遵守を要求するために適當な管下部隊に命令があたへられるであらう。占領軍は、主として最高司令官の指令の遵守を監視する機關として又必要があれば最高司令官が遵守を確實にするために用ゐる機關として行動する。」として、占領統治が、我が國政府の自發性を假裝した強制であるとしたことである。國内系においてはポツダム緊急敕令、國際系においてはこのマッカーサー訓令により、我が國は自繩自縛に陷つてその自由意思を喪失したのである。
しかし、國内系において判斷すると、法律事項を規定した命令は、たとへ帝國憲法第八條の「法律ニ代ルヘキ敕令」である「ポツダム緊急敕令」に基づくものといへども、この緊急敕令は命令に對して法律事項の白紙委任(白地委任)を定めてゐるため、帝國憲法下の解釋においても「絶對無效」である。ところが、帝國議會では、このやうな議論すらされなかつた。
そもそも、昭和二十年八月十四日詔敕及びこの緊急敕令は、この敗戰が我が國の經驗した未曽有の國家非常事態であつたことから、帝國憲法第九條の命令大權、同第十條の官制・任免大權、同第十四條の戒嚴宣告及び同第三十一條の非常大權などに基づく措置を同時に發動しなければならない程度に重大な政治的・法律的意義を有するものであつた。
從つて、帝國議會において、この緊急敕令の審議はもとより、國家再建の基本方針が十二分に審議されるべきであつて、これが帝國憲法改正案の審議の前提條件であり、先決事項でなければならない。特に、敗戰に至るまでの原因に關して、憲法的要因や運用上の問題などを徹底究明すべき必要があつたはずである。そして、さらに、これらの議論をふまへて、帝國憲法改正の必要性の有無及び程度竝びに各條項的な個別的檢討などについて充分討議する必要があり、これらの討議を經たうへでなければ、具體的な改正案の審議ができないはずである。敗戰後の占領下で、帝國憲法の「全面改正」に初めて着手することは、帝國憲法の「制定」に勝るとも劣らない國家の根幹を定める大事業であつたにもかかはらず、そのことの認識が全く缺如してゐたのである。
帝國憲法が十年以上の歳月を經て制定されたのに對し、わずか十日程度の日數で、しかも、我が國政府の手によらずして連合軍で起草されたGHQ草案に基づき、これと内容同趣旨の「政府原案」(占領憲法原案)が作成され、これについて、衆議院では僅か四日間の本會議における審議がなされたにすぎない。それも、法律專門家等の見解の聽取もせずに直ちに委員會付託となつた。これは秘密會であり、そこでの作業は、GHQ草案と政府原案を比較して、英文と邦文との對比表現、逐條解釋、字句の選定と訂正、各條項の意義と各條項間の整合性などの檢討といふものであつて、單なる「翻譯委員會」にすぎなかつた。また、その間にも多數の委員が更迭されたため、充分に檢討審議の餘裕もないまま、間もなく可決成立したやうな憲法改正行爲は、たとへ占領下でなかつたとしても、審議不十分として無效であると言はざるをえない。
このやうに、性急な「お手盛り審議」により憲法改正案を全會一致に近い壓倒的多數で可決させたのは、占領軍の強い意志に基づくものであつて、我が國政府に對する直接の強要的指示があつたからである。そして、その前月の五月三日から極東國際軍事裁判を開廷させるとともに、この事實を帝國議會審議より重大事件であるかのやうな嚴重な統制による報道をさせることによつて、臣民及び帝國議會議員に對しても、帝國議會の審議において帝國憲法改正案に反對することは、如何なる不利益を蒙るか計り知れないとの心理的壓力による間接的な恫喝をなし、その萎縮效果を狙つたものであり、極めて卑劣かつ巧妙な作戰と演出が實行された。その結果、帝國議會は、GHQの狙ひ通りに萎縮して病的恐怖(phobia)に陷る者、「蚤の曲藝」(尾崎一雄)に從ふ者、GHQに積極的に喜んで迎合する者などの議員で占められてしまつた。そして、帝國憲法改正案についての帝國議會の審議過程の詳細は全く報道されず、國民はこれについて全く知らなかつたのである。
このやうな經緯の評價に對して、占領憲法は「占領軍の壓力の下で、議會も混聲合唱をしたにすぎぬとみる見方(注・レーベンシュタインの指摘)もあるが、改正審議のために選擧をおこなって構成された議會において議論をつくしたうえでの、全會一致にちかい壓倒的多數の贊成を、無意志の人形の協同動作だとするのは、あまりにも偏った極言だといわねばならない。議員の贊否の意志の表明も、自由な決定だったはずだからである。」とする見解(小林直樹)や、「日本國憲法の制定は、不十分ながらも自律性の原則に反しない」(芦部信喜)とする見解もあるが、これは第二章で明らかにしたとほり、その審議過程やその背景事情を全く無視して歴史を捏造する舞文曲筆の賣國的言説であつて、それこそ「あまりにも偏つた極言」である。
他方、このやうな見解の論者は、これとは逆に、今度は占領憲法の解釋において、「國家權力が特定の思想を勸奬することも、形式的には強制でないにせよ實際上は強制的に働くから、やはり本條(占領憲法第十九條)の禁ずるところと解すべき・・・」(青林書院新社『注釋日本國憲法上卷』青林書院新社)として、思想的勸奬をなす國家行爲ですら「強制」に該當するとして無效とするのである。この論理をそのまま占領憲法制定時に當てはめれば、罰則を以て強制した國家行爲によつて形成された見せ掛けの國民の意思形成なるものを當然に無效とする結論以外はありえないのである。餘りにも有效論者の論旨は支離滅裂である。
ところで、平成七年になつてやうやく公開された衆議院憲法改正委員會小委員會の議事録によると、小委員會とは名ばかりで、その審議と稱するものの實態は、GHQの求めに從つて、英文の翻譯を忠實に行ふ「翻譯委員會」の翻譯作業手續に過ぎず、憲法改正手續としての實體がなかつたことが明らかとなつた。このことを踏まへて、占領憲法無效論者の中には、「法律論議をするまでもなく事實關係からして無效」といふ見解(小山常実)もある。勿論、無效であることは確かであるが、無效といふのは法的評價であるから、事實關係から法律論議をして無效であるといふ意味であらうと受け止めたい。「審議」自體が事實として「不存在」であつたと同視しうるほど、それには事實實體がなかつたといふ意味では、この見解は正しい。
また、第二章でも述べたが、昭和二十一年十月一日、貴族院の帝國憲法改正案特別委員小委員會(第三回)において、宮澤俊義(貴族院議員)は、「・・・憲法全體ガ自發的ニ出來テ居ルモノデナイ、指令サレテ居ル事實ハヤガテ一般ニ知レルコトト思フ。重大ナコトヲ失ッタ後デ此處デ頑張ッタ所デサウ得ル所ハナク、多少トモ自主性ヲ以テヤッタト云フ自己僞瞞ニスギナイ・・・」と發言し、帝國憲法改正作業がGHQの指令に基づく「自主性の假裝(自己僞瞞)」であることを告白したことでも解るやうに、帝國憲法の改正を拒否しうることも、その改正案審議に自主性を持つことも全くなかつたのである。そして、その最たるものとして、同月六日、貴族院本會議で送付憲法改正案を修正可決したのであるが、このとき、GHQは、貴族院での審議に時間をかけて審議未了により憲法改正案を廢案にしようとする動きを牽制するために、帝國議會の大時計が午後十一時五十五分を指したときに、この大時計を止めて、名目上は同日に可決させることを強要した。この事實を知つた貴族院では、審議未了による廢案に追ひ込むのは不可能であると斷念して審議を繼續し、實際に修正可決したのは、翌朝(七日の夜明け)であつた。そして、直ちに衆議院に再び回付され、衆議院は、これを特別委員會に付託することもなく本會議に上程し直ちに起立方式で採決を行つた。「五名ヲ除キ、其ノ他ノ諸君ハ全員起立、仍テ三分ノ二以上ノ多數ヲ以テ貴族院ノ修正ニ同意スルコトニ決シマシタ。之ヲ以テ帝國憲法改正案ハ確定致シマシタ」との議長の宣告がなされた。このやうに、外國勢力の暴力によつて強制的に占領憲法は形式上の成立を見たのである。
從つて、このやうな諸事情からすれば、帝國議會の帝國憲法改正案審議自體に實質上も手續上も著しく重大な瑕疵があつたことになり、占領下の憲法制定ないし改正としての占領憲法は、帝國憲法の改正として、かつ、實質的意味の憲法(規範國體)としては絶對的に無效である。
