有效論の分類
占領憲法の效力論において、これが有效とする有效論には、大別して二つある。一つは、占領憲法の制定時または施行時から有效とする「始源的有效論」と、制定時または施行時は無效であつたが、その後に有效となつたとする「後發的有效論」とがある。
そして、始源的有效論には、改正無限界説、八月革命説に代表される革命有效説、條約優位説、正當性説、承詔必謹説などがあり、後發的有效論には、追認有效説、法定追認有效説、既成事實有效説、定着有效説、時效有效説などがある。
後發的有效論
では、初めに、先に後發的有效論について檢討する。この見解は、制定時または施行時には無效であるとする點で、無效論を前提として立論されてゐるため、その後の事情がどのやうに效力的に影響するのかについて檢討すればよく、それが否定されれば、そのことはむしろ無效論の補強となるといふ關係にあるからである。
まづ、後發的有效論の代表的な見解として、民法第百二十四條第一項にあるやうに、無效とされる「原因タル情況(状況)」が終了した時期(追認をなしうる時期)以後に、憲法制定行爲と同樣の要件に基づいて立法的追認がなされることを契機として有效になるとする見解(追認有效説)がある。また、この變形として、民法第百二十五條の法定追認の規定を借用し、立法的追認がなされなくとも、追認をなしうる時期以後に、占領憲法が存在してゐることを前提として、それを踏まへた更なる立法行爲や行政行爲などの國家の行爲がなされたときは、追認したものと看做すといふ見解(法定追認有效説)もある。
しかし、「無效行爲の追認」(無效規範の追認)については法定追認の制度自體がないので、法定追認有效説(長尾龍一、大石眞など)では、「取消うべき行爲の追認」(瑕疵はあるが無效ではない規範の追認)の場合に限定されることになると思はれるが、追認有效説と法定追認有效説では、「取消うべき行爲の追認」とするのか「無效行爲の追認」とするのかについて明確ではない。
いづれにしても、これらの見解の骨子としては、占領憲法が憲法として無效であつても、將來に向かつて憲法としての適格性があることを前提として追認又はこれに準ずる行爲がなされれば、以後は憲法として有效となるとする論理であり、これについては、前にその批判の概要を述べたが、これらの見解とこれに類似する言説の矛盾についてさらに敷衍する。
この追認有效説とその變形した類似的な見解は多く、六十年も占領憲法が施行されてきたから、假に無效であつても、その後に占領憲法に基づく法律が制定されてきたといふ「既成事實」が形成され、その事實を以て有效の根據とする見解(既成事實有效説)、世論調査などからして占領憲法が國民の意識の中に國民の憲法として「定着」したことを有效の根據とする見解(定着有效説)、さらには、前にで述べた「時效の國體」を逆手にとつた烏滸(おこ)の至りともいふべき「似非時效」を根據とする見解(時效有效説)などがある。
これらの見解は、占領憲法は始源的(制定時)には瑕疵(無效を含む)はあつたが、後發的(事後的)には確定的に有效となつたとするものであつて、その意味では後發的有效論であり、ポツダム宣言の受諾を以て革命と評價しそれに有效性の根據を求める見解(革命有效説)、「承詔必謹」により先帝陛下の上諭による「公布」を有效の根據とする見解(承詔必謹説)などの始源的有效論とは異なるものの、これら後發的有效論に共通するものは、その裏付けとして、イェリネックの「事實の規範力」の理論を援用する點にある。
しかし、「事實の規範力」とは、法が守備範圍としてゐなかつた領域において、當初から違法性の意識がなく形成された「事實たる慣習」が「法たる慣習」(慣習法)へと昇格する成立過程の説明には適しても、それ以外の異質な事象と領域について適用させることは、甚だ無理があり單なる虚構にすぎない。前述したとほり、法の「效力要件」における「妥當性」と「實效性」の二つの要素において、そもそも違法に行使された實力(暴力)が反復繼續してきたとする「事實」は、假に、事實的要素としての「實效性」を滿たしたとしても、價値的要素としての「妥當性」を滿たすものではなく、その「效力」としては常に無效である。違法な實力の行使による事實の反復繼續に法創造の原動力を認めることは、事實と規範、存在と當爲を混同し、「暴力は正義なり」を認めることとなり、社會全體の規範意識を消失させて法秩序は破壞される。つまるところ、後發的有效論といふのは、「追認」とか「時效」とかの巧みな言葉を驅使して、結論的には「革命」と言ひ換へた「暴力」を受け入れて禮贊することに他ならない。
古今東西を問はず古來から殺人、賣春、賄賂、政府權力による人權彈壓などの不正行爲は繼續反復されて存在してきたし、不幸なことに將來も反復繼續するであらう。しかし、この反復繼續する「事實」を以て法創造の規範力を認め、殺人、賣春、賄賂、政府權力による人權彈壓などを正當であると許容する「法」が創造されたとして合法化することは法の自己否定となる。「赤信號、みんなで渡れば怖くない。」といふ諧謔があるが、これは「怖い」といふ「違法性の意識」を群集心理で鈍麻させようとする「不道德」を説くものであつて、「赤信號、みんなで渡れば青(信號)になる。」といふ「違法性の消滅」を意味するものではない。ところが、有效論の説く「事實の規範力」の援用は、その本來の守備範圍を逸脱して「違法性の消滅」を説き、法の破壞につながる牽強附會の禁じ手を用ゐたことになる。これは法律學の自殺行爲であり、これを主張するものは法律學者としての資質を疑はざるを得ない。
そもそも、「事實の規範力」の理論といふのは、法定追認有效説の亞流にすぎない不完全な假説である。效力要件要素のうち、妥當性を輕視(無視)して、實效性だけで效力論を組み立てたものであり、事實の集積だけで實效性が具備することにより、法の效力が認められるとするのである。
つまり、ここには、どのやうな事實の集積があれば、どのやうな規範性を持つのかといふ分析がない。追認しうる適格があるのか、追認をなす權限を有する機關がどこなのか、追認しうる時期がいつなのか、といふ區分とその分析もなく、事實が集積すれば單純に規範となるといふやうな亂暴な論理に陷り、法の破壞を招くことになる。
ともあれ、後發的有效論のうち、追認有效説及び法定追認有效説以外の見解は、時間の經過などの「事實」を主な根據とするのに對し、追認有效説及び法定追認有效説は、追認又はこれに準ずるなんらかの國家行爲ないしは立法行爲の存在を根據とする點に相違があるので、追認有效説と法定追認有效説について、もう一度整理して述べてみたい。
前述したとほり、そもそも、占領憲法の追認がなされたといふためには、改めて天皇の改正發議と同樣に追認のための發議がなされることから始まつて、帝國憲法の改正手續に準じて「天皇」、「樞密院」及び「帝國議會」その他の國家機關が、その改正手續と同樣の手續と要件に基づいて、發議、審議、議決、公布が適正になされることが必要である。しかし、少なくとも樞密院や帝國議會が缺損状態で機能停止してゐる状況下では、帝國憲法下の帝國議會とはその存在根據を異にし、かつ、帝國議會とは利害相反關係となる占領憲法下の「國會」がそのまま帝國議會の代用機關とはなりえない。假に、國會が獨自に事後承認(追認)の議決をしたとしても、帝國憲法第七十三條に準じた手續とはほど遠いもので、これを以て立法的追認とすることは到底できないのである。
平易に言へば、泥棒の被害者がその泥棒が盜んだ品物を返還しなくてもよいとして事後に所有權を讓渡して宥恕することによつて泥棒はその品物を正式に自己の所有とすることができるが、被害者は何も言はないのに、泥棒自身が「これは俺の物だ」と勝手に宣言したとしても、決してその品物は泥棒の所有とはならないことは誰でも解る。この「泥棒」が占領憲法下の「國會」であり、その「被害者」が帝國憲法下の「天皇」と「帝國議會」などである。この泥棒の國會については、占領憲法第四十一條により「國會は、國權の最高機關」であるとして自畫自贊するものの、未だに氣恥ずかしいのか、泥棒の國會において、改正手續と同樣の審理を經た上で「占領憲法は有效である」との有效確認決議(泥棒の所有宣言)すら現在に至るも未だになされてゐない。つまり、追認有效説が有效の根據とする立法的追認ないしはそれに準じた立法行爲それ自體が存在しないので、この説はそもそも成り立ちえないのである。
また、「公序良俗」に違反する行爲を追認することはできない。なぜならば、これの追認を認めることは公序良俗違反を無效とした意味がなくなり、結果的には、公序良俗違反を許してしまふことになるからである。これと同じやうに、公序良俗違反以上の違法性がある帝國憲法違反の行爲を追認しえないことは當然のことであつて、追認有效説は論理において當初から破綻してゐる。
これらのことは、法定追認有效説についても同樣であり、しかも、法定追認有效説の場合は、一體どのやうな事實を以て法定追認と判斷しうるかといふ要件論において行き詰まる。これは、「事實の規範力論」や「憲法の變遷論」と同類の見解であり、法定追認と云ひうるための要件の構築、それに該當しうる事實の認定、評價の基準などについて百家爭鳴の隘路に迷ひ込み、擧げ句の果てに結論に到達できない慘めな代物なのである。
原状回復論
また、追認がなされるためには、原状回復がなされた上でなければならない。これは、民法第百二十四條第一項にあるやうに、「原因タル情況(状況)」が終了した後でなければ追認できないとする規定に現れてゐるとほり、追認の要件と時期において當然に認められた法理である。つまり、暴力によつて形成された法秩序から解放され、原状に回復してから新たに出發しなければならないのである。ここでいふ「暴力」とは、大東亞戰爭遂行における「戰爭行爲」を指すのではなく、その後になされた軍事的な「占領行爲」を指す。完全武裝解除によつて丸裸にされたことを奇貨として、完全軍事占領下でなされた様々な有形無形の暴力と強迫によつて、天皇と臣民全體が拉致され、捕虜となり、身體的、精神的、文化的、政治的、經濟的などの虐待がなされたことを意味する。しかも、占領状態が事實面において終了したとしても、法律面においては、占領下に強制された法制度が未だに效力を有してゐる限り、その法制度に拘束されてゐる状況が繼續してゐるので、「原因タル情況(状況)」が終了したことにはならない。「事實的占領状態」は終了しても、「法的占領状態」は繼續してゐるのである。その暴力が集約された最も鞏固なものが、占領典範と占領憲法なのである。 この原状回復といふ原則は、まさに北朝鮮による拉致事件でも適用された。
北朝鮮の國家的犯罪である拉致事件は、民間諸團體の忍耐強い活動が結實し、賣國奴の巣くう我が政府やマスメディアも漸くその重い腰を上げるに至つた。この問題の眞の解決は、金正日體制の打倒による北朝鮮人民の解放と新たな民主政體の樹立による北朝鮮人民の救濟と自立といふ根元的解決なくして實現できず、その道のりは限りなく遠い。しかし、今までのやうな無明下での絶望的な彷徨と、これから始まるであらう一筋の光明へ向かふ行進とでは雲泥の差がある。
ところが、金正日體制やその走狗となつた内外の賣國奴は、惡魔のささやきとして次のやうな「拉致繼續論」とでもいふべき便宜主義を唱へる。それは、早期解決のためには、理不盡ながらも北朝鮮の犯罪行爲を一旦は黙認して拉致被害者を現政權下の北朝鮮へ戻して拉致状態を繼續し、その状況下で彼らの自由意思で永住歸國をするか否かを決斷させるべきである、と。
しかし、これに從へば、拉致の事實關係が完全に迷宮入りしてこの問題が永久に解決不能となることが必至である。これは、そのことが全ての拉致被害者の救出にとつて絶望的な事態になることを知りながら、輕薄な人權論などを振り回し、眞相を知らない素振りをする私曲の言説である。
そもそも、拉致は犯罪であるから、拉致被害者を奪還した後に再び犯罪地(拉致監禁場所)へと戻すといふ行爲は、再度犯罪を繼續させることであつて到底認めることはできない。假に、拉致被害者が強くそのことを望んでも、二十數年間にわたつて強迫觀念を植ゑ付けられた拉致被害者の「自由意思」なるものは單なる「幻想」に過ぎず、拉致被害者の出國を拒否し、拉致状態の繼續を否定することは拉致被害者らの自由を制限したり否定したことには絶對にならない。それを眞に受けて現政權下の北朝鮮へ戻すことは、我が政府が現政權下の北朝鮮による犯罪行爲を承認して加擔するといふ新たな棄民的犯罪を自ら犯すことになるからであつて、たとへ道のりは遠くとも、この問題が解決へ向かふ第一歩は、いはゆる「原状回復」しかないのである。筋を通すことであり、拉致被害者とその家族が無條件で我が國に永住歸國して生活すること以外にはない。
ところで、この「現状回復」といふ論理は、なにも拉致事件だけのものではなく、暴力的に眞意とは異なる状況に置かれた全ての事象について適用される論理なのである。それゆゑ、「占領典範」と「占領憲法」の見直しについても、この「原状回復」の論理は當然に適用されるべきである。占領典憲などによる法的占領状態が繼續してゐることは、拉致状態が繼續してゐることと同じなのである。この拉致状態から解放されて初めて、我が國の眞姿を見つめ直すことができる。
日本國憲法といふ名の占領憲法の見直しについては樣々な見解があるが、その中でも「似非改憲論」といふのは、前にも述べたが、その前提として占領憲法を「有效」とした上でその改正を行ふといふのである。拉致事件で例へれば、拉致被害者を一旦は現政權下の北朝鮮へ戻せといふ賣國奴の拉致繼續論と同じ論法である。
ところが、拉致問題については原状回復論を主張する者でも、占領憲法の扱ひについては原状回復論を否定し、拉致繼續論と同樣の「似非改憲論」主張をする者が餘りにも多い。つまり、個々の國民については原状回復論で救濟するだけの保護が與へられるべきであるが、國家については原状回復論による保護は與へられないとする二重基準(ダブル・スタンダード)であり、何ら論理性も一貫性もないのである。
つまり、占領憲法の似非改憲論者は、理不盡ながらも一旦は占領憲法を「有效」であると認め、その制定時の不都合を治癒させようとする考へであつて、それがいかに實現不可能なものであることを知らない。否、知つてゐるはずなのに知らない素振りをしてゐる敗北主義に外ならない。
似非改憲論の論理は、占領憲法を當然「有效」とし、これを金科玉條として絶對に改正すべきではないとする頑な「似非護憲論」と本質的に同じ仲間である。つまり、いづれも「似非護憲論」であり、その條項の一部を改正すべきか否かの方向付けにおいて相違があるに過ぎず、「無效論」とは水と油の關係にある。
そして、その似非改憲論者(改正贊成護憲論者)は、無效論者に對して、その論理的な反論を行はずに、專ら、衆參兩議院で無效宣言を多數決で行ふといふ無效論の方法は政治的には著しく非現實的と批判する。
しかし、ならば似非改憲論者に問ひたい。そもそも、占領憲法第九十六條の改正條項に基づき、各議院の總議員の三分の二以上の贊成と國民の過半數の贊成といふ状況が今まであり得たのか。そして、これから以後もあり得るのか、と。
また、國民の贊否を問ふ國民投票手續を定める法律が制定されたものの、その法律の運用に關しても根強い反對がある。そして、現在では、各政黨の支持率が一律に低下し、與黨政權は、今までのやうな一黨支配ではなく、多黨連立政權とならざるを得ない状況で、與黨内部でどの條項を改正すべきかを選定することだけでも困難である上に、それをどのやうに改正するかについての改正案をまとめること自體が不可能に近い。
それゆゑ、本音においては、改正は不可能であることを認識しながら、建前だけの改正運動を續けることにどれだけの意味があるのか。無效論が「非現實的である」といふ似非改憲論者の批判は、そのまま熨斗を付けて似非改憲論者へお返ししたい。
むしろ、「原状回復論」といふ筋の通つた論理で國民や議員を説得し、衆參兩議院の多數決で無效宣言決議をさせることの方がより現實的であり、今後、必ず實現しうる勝算はある。困難な拉致事件ですら、解決への光明は一日で差した。これが、憲法問題において起こり得ないといふことはない。現在の憲法問題における閉塞状況からして、これを根本的に解決したいといふ國民意識の地殻變動が起こる可能性は充分ある。この地殻變動は、似非改憲論の軟弱な論理では起こすことはできない。聞こえのよい似非改憲論や教育改革論では我が國は絶對救へない。これは、拉致問題も同樣である。占領憲法では拉致問題は永久に根本的な解決はできないのである。
これから突入するであらう憲法激動期には、吉田松蔭のいふ「狂夫の言」にこそ正統性と正當性が與へられる。在り來たりで袋小路に入つた憲法論や教育論に惑はされることなく、透徹した論理と卓拔した勇氣が必要である。
追認の時期と手續
北朝鮮に拉致された犯罪被害者が無條件かつ無制約の歸國の實現と強迫觀念からの解放による自由意思の保障がなされた環境が與へられるといふ「原状回復」が實現しない限り、假に、再び北朝鮮で生活するといふ選擇をさせてはならないのと同樣、本土獨立後も日米安全保障條約といふ方式による占領政策の繼續し、かつ、戰勝國による國際連合體制が繼續してゐる現在の情況では、未だに原状回復が果たされたといふことはできない。それゆゑ、「追認は、取消しの原因となっていた状況が消滅した後にしなければ、その効力を生じない(追認ハ取消ノ原因タル情況ノ止ミタル後之ヲ爲スニ非サレハ其效ナシ)」(民法第百二十四條第一項)とあるやうに、その時期において、未だ追認をなしえないのである。
そして、このことは、假に、追認がないものの追認がなされたと看做すべき行爲があつたとしても、民法第百二十五條の法定追認を主張する法定追認有效説についても同樣である。つまり、「追認をすることができる時(追認ヲ爲スコトヲ得ル時)」に至つてゐないからである。
もし、追認をなしうるとすれば、その時期は、現在の國連體制と日米安保體制からなる占領繼續體制が解消した後のことである。具體的には、日米安保條約が對等雙務條約と變更されるか、あるいは解消されるかのいづれかとなり、國連が解體され、あるいは我が國が國連を脱退して自立し、または、戰勝國のみで構成する非民主的な常任理事國制度と敵國條項が廢止され、少なくとも戰勝國ではない中共や共和制ロシア(ソ連崩壞後の新國家)が常任理事國から排除され、北方領土が返還されて分斷國家状態が終了してからのことである。
しかも、少なくとも政府が國民に對し、占領憲法の出自の祕密を暴露して啓蒙し、十分に周知させて判斷させる措置を講じた後でなければ、追認しうる時期は到來しない。帝國憲法改正案審議を行つた衆議院憲法改正特別委員會の小委員會(祕密懇談會)議事速記録は、印刷されないまま衆議院事務局に保管されままとなつてゐたのであり、それが平成七年になつてやうやく公開された程度で、しかも、それは一部の者しか知り得ない程度で、これを啓蒙周知させる措置はいまもなほ爲されてゐないのである。
ところで、前述したとほり、追認有效説は、占領憲法を「取消しうべき行爲」であるとして追認するのか、あるいは「無效行爲」であるとして追認するのかが定かではない。しかし、帝國憲法の改正行爲が「取消しうべき行爲」であるとするのは、そもそもその根據に乏しいので、やはり「無效行爲」として追認を想定してゐるのであらう。また、法定追認有效説は、おそらく「無效行爲の法定追認」を主張するものと思はれるが、無效行爲の追認にはそもそも法定追認の規定はなく、類推適用もされない。この法定追認の制度は、取消しうべき行爲といふ不確定な法律状態を速やかに解消するために、たとへ追認の意思表示がないとしても、これと同視できる行爲や表示があれば、それは追認と看做すことによつて利益衡量を實現するための規定であるから、初めから無效であるものを特段の意思表示もなしに殊更に有效とすることは私的自治の原則に違反し、當事者にとつては不意打ちとなるからである。
このやうに、無效行爲の追認を想定して構築された追認有效説や法定追認有效説は、その出發點において論理破綻を來してゐることになる。
さらに、本質的な問題として、「無效行爲の追認」が絶對に不可能であることの理由がある。つまり、民法第九十條によれば、「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする(公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行爲ハ無效トス)」と規定し、いはゆる公序良俗違反の行爲は絶對無效であるとするのであつて、このことは占領憲法の效力論においても妥當する。公序良俗違反の典型例として、人身賣買の例で説明すれば、これは人權の否定であり違憲の行爲であるから許されないのであつて、人身賣買の行爲は無效であるといふことである。そして、この無效といふのは絶對無效であつて、事後に追認することも許されない。もし、これを許すのであれば、結果的には公序良俗違反を肯定することとなつて法の趣旨に反するからである。それゆゑ、追認自體が無效であり、追認しても人身賣買は有效とならない。これが絶對無效といふ意味であり、占領憲法は、そもそも追認をなしえないものなのである。
さらに言へば、詐欺、強迫の場合は取消うべき行爲であつて、事後の追認によつて有效となる私法理論を憲法や條約などの公法にそのまま適用されるかといふとさうではない。むしろ、公法においては、詐欺、強迫は取消うべき行爲(暫定的有效)ではなく、「無效」であるとすることが多い。たとへば、後にも觸れるが、我が國も締結した『條約法に關するウィーン條約(條約法條約)』といふものがあり、これによると、條約が無效となる事由として、①「條約を締結する權能に關する國内法の規定」に違反した場合(第四十六條)、②「國の同意を表明する權限に對する特別の制限」に違反した場合(第四十七條)、③「錯誤」があつた場合(第四十八條)、④「詐欺」があつた場合(第四十九條)、⑤「國の代表者の買收」があつた場合(第五十條)、 ⑥「國の代表者に對する強制」があつた場合(第五十一條)、⑦「武力による威嚇又は武力の行使による國に對する強制」があつた場合(第五十二條)、⑧「一般國際法の強行規範に牴觸する條約」である場合(第五十三條)を掲げてゐる。公法規範がこのやうな事由によつて成立したとしても、それは私法における公序良俗違反による無效以上の否定的な評價が下されるといふことである。憲法と條約との關係において、いづれが優位するかは別としても、これらは共通した公法上の法理であるから、軍事占領下といふ強迫状態での占領憲法は「無效」であつて、これを「追認」することはできないのである。
このやうに、憲法の條項に違反する行爲が絶對無效であるのならば、憲法自體を否定した上で憲法の條項にも違反する行爲は、さらに違法性が著しいので絶對無效であることは當然のことである。占領憲法の制定は、帝國憲法を否定し、その條項(第七十五條)にも違反する行爲であるから、占領憲法の規範定立行爲(制定行爲)は絶對無效であつて、帝國憲法の改正行爲として追認することも絶對にできないのである。
從つて、追認ないしは追認と同視しうるとする「法律行爲」を以て有效とすることはできないのであるから、ましてや、追認有效説及び法定追認有效説以外の後發的有效論のやうに、「既成事實」とか「定着」、ないしは時間の經過といふ「事實」を以て有效化しうる根據はない。
附言するに、追認有效説と法定追認有效説が論理として成り立ちうるのは、これらの説が憲法改正の限界に關して無制限説を採る場合に限られるといふことである。制限説を採るのであれば、そもそも追認も法定追認も認められることはないのである。それを認めれば、追認の場面だけが無制限説となつてしまふのであり、論理矛盾となるからである。
また、追認の手續についても、前に「追認と法定追認」のところで述べたとほり、規範が追認されるための手續は、規範定立行爲と同樣同等の方法によらなければならないのは當然である。それが憲法の制定であれば、憲法の制定と同樣同等の方法、まさに「憲法制定手續に基づく追認」がなされなければならない。それは帝國憲法第七十三條に基づくことになるが、貴族院と樞密院といふ機關が缺損してゐることから、その問題が治癒されなければならず、直ちに追認手續を行ふ要件を缺いてゐる。ましてや、國會(加害者)は帝國議會(被害者)ではないので、國會の追認などは噴飯ものである。假に、占領憲法下での追認を肯定できるとする見解に立つたとしても、占領憲法第九十六條の改正手續を代用する以外にはない。このやうな見解からすると、憲法改正權は、憲法制定權力(制憲權)を超えることはできないとするのであらうから、せめて憲法改正手續を借用して、制憲權の瑕疵を追認できるとすることになるはずである。つまり、「憲法の追認」とは制憲權の行使そのものであるから、これを簡易な手續や事實の存在を根據に肯定するとなると、その憲法は「軟性憲法」となり「硬性憲法」ではなくなるのである。ところが、その憲法の改正については「硬性憲法」の性質を持つといふのは、あたかも、「子が親を生む」といふか、「山より大きい猪が出た」といふことに比肩される致命的矛盾を來すことになるからである。
つまり、せめて占領憲法の改正手續(第九十六條)に從つて占領憲法の「追認」手續をなすべきであるとの主張が追認説や法定追認説から出ないことは、これらの見解のいかがわしさを證明してゐることになる。しかし、假に、その改正手續に從つて國會で發議され國民投票で承認されたとしても追認とはならないことは前に述べたとほりである。むしろ、國會で追認の発議が否決され、あるいは國民投票の結果において不承認となつたときは、占領憲法を追認しないといふ政治意思が表明されたものとして、占領憲法の無效が政治的にも確定することになるのである。
時效有效説
「時效」といふ法理を以て、無效な占領憲法が事後に有效となるとする見解(時效有效説)を唱へる者も多い。その中の代表的な見解として八木秀次の「時效有效説」がある。
「自由主義史觀研究會」のホームページに、平成十四年度「特別出張ゼミナールの記録」として、藤岡信勝代表の司會進行により、『明治憲法の思想』といふ演題で八木秀次(當時・高崎經濟大學助教授)が語つた内容が掲載されてをり、時效有效説が端的に語られてゐるので、その部分を以下に引用する。
(藤岡) 公民の教科書でも巻末で日本国憲法全文が載っていますが、重要なことが省かれています。明治憲法を改正するために大臣が連署して、最後に御名御璽が入った前書きがあるのですけれど、これを絶対に載せない。前書きを載せると、手続き的には大日本帝国憲法の改正として今の憲法がつくられたことがハッキリして、八月革命説が破綻してしまう。ポツダム宣言の受諾が革命だというフィクションが崩れないようにしているのだと思います。
今の憲法改正論議の一つの考え方として、渡部昇一さんが「占領下につくられた憲法、教育基本法は主権がない時につくったものだから全て無効だ。無効宣言をして新たにつくり直すべきだ」という議論をしています。
確かに占領軍がやったという点ではもっともだが、手続き的には成り立たない。そういう方法と、やはり憲法改正の手続きに従うのと、二つ路線があると思います。このあたりは八木先生は実践的にはどのようにお考えですか。
(八木) 極めて難しい問題ですが、無効論という考え方はかねてからあります。主権回復直後であれば極めて有効な論理でしたが、法律には時効という考え方があり、そこからもう五十年経っています。
普通、時効というのは二十年です。五十年の間に日本国民が現行憲法に一度も「ノー」と言わなかったということにおいて、これを承諾したという理屈が成り立つわけです。ですから、渡部先生の意見には溜飲が下がる思いですが、理屈から言うと難しい気がします。
これは、つまるところ、民法に規定する所有權の取得時效である二十年を經過したので、占領憲法は所有權(憲法としての地位)を取得するといふことであらう。しかし、第一章で述べたとほり、規範國體の護持のために時效理論は存在するものであつて、占領下における奇胎の占領憲法が施行された六十年程度の時間と、我が國の悠久の歴史と傳統とを比較して、奇胎の六十年の方に重きを置くといふ時效有效説は、恐ろしく無知な本末轉倒の謬説であり、「似非時效論」である。時效の意味が解つてをらず、民法レベルの時效期間を國法學のレベルにそのまま持ち込む暴論でもある。このやうな論者は、ハーメルンの笛吹き男であり、國體破壞者に他ならない。
いづれにせよ、この時效有效説に對する反論は、「事實の規範力」と「原状回復論」のところで述べたとほりである。時效の法理により悠久の歴史と傳統によつて育まれた規範國體が既に確立してゐるにもかかはらず、これと相反する事實がほんの一時期に反復累積されたことを根據として、これに規範國體としての妥当性と実效性を肯定し、規範國體を改變させる效力を認めることなどは到底できない。占領憲法には憲法としての妥當性を缺き、暴力的に構築された法制度のままで原状回復がなされない状態での時間の經過に、憲法としての規範創造の效力はないのである。
さらに附言すれば、そもそも、私人の所有權の時效といふ議論と、國家の根幹である憲法の時效といふ議論を同列かつ一律に論ずることのできる論理は、何を根據とするものか。また、その時效期間は二十年なのか、それとも五十年なのか、どのやうな根據で定められるのか。等々、議論することも幼稚すぎて憚るものがある。ところが、では時效中斷とか、時效完成後の時效利益の放棄といふことについてはどうなのか、といふやうな突込みを入れたくなる衝動も出てくるが、それを尋ねてもおそらくまともな答へは出てこないだらう。
また、假に、「憲法の時效」を議論するとしても、あくまでも「憲法」としての「妥當性」のあるものが「實效性」を具備するに足りる事實の集積とその時間的經過に着目するのであつて、そもそも憲法としての「妥當性」を有しない規範が時效による「實效性」を具備したとしても「妥當性」まで具備するものではない。これは、所有權の取得時效で例へれば、所有の意思を有する占有(自主占有)ではなく、所有の意思を有しない占有(他主占有。たとへば賃借の意思による占有)の繼續では永遠に所有權を時效取得することはない。自主占有(憲法適格性)でない他主占有(講和條約適格性)の繼續は、賃借權その他主占有に對應する權利(講和條約)の時效取得が可能となるにすぎないのである。
完全獨立時において自發的かつ自主的に帝國憲法を改正したが、その手續に輕微な違背があつた場合、この程度の輕微な瑕疵だけでは妥當性を缺くことはないので、時間的經過によつてその瑕疵が治癒されて實效性が付與されるとするのが本來の時效の論理である。しかし、占領下で非獨立時代に、GHQの強制で制定されたものは、自發的かつ自主的なものではない。それゆゑ、占領憲法は、「他主占有」に匹敵する講和條約の性質であり、講和條約(東京條約、占領憲法條約)として時效の論理によつて認められるといふのであればまだしも、これを「自主占有」に匹敵する「憲法」としての適格を有するものとして認められるといふのは、時效の論理による立論ではなく、似非時效の詭辯である。贋作はいつまで經つても贋作であり、僞札はいつまで經つても僞札である。また、同じ嘘を百回言つたとしてもそれが本當になることはない。これは根本的に妥當性を缺くためであり、時效の論理の射程範圍外のことである。
そして、このやうな似非時效の言説を聞いて、妙に納得してしまふ風潮が誠におぞましい限りである。やはり「蚤の曲藝」に馴らされてゐるからである。我々は、「ハーメルンの笛吹き男」のやうな似非保守によつて驅除される「ネズミ」になつてはならない。この男は、町の人が謝禮の金品を呉れないので、國體護持の擔ひ手となる臣民の子供達を誘拐してしまつた身代金誘拐犯であつて、我々は、こんな「ほら吹き男」による似非時效説を唱へる似非保守を斷固として糾彈し排除しなければならないのである。
なほ、ここには、「五十年の間に日本国民が現行憲法に一度も『ノー』と言わなかったということにおいて、これを承諾したという理屈が成り立つわけです。」といふ發言もある。これは、時效有效説の外に、法定追認有效説なども主張してゐるかのやうであるが、一體、現行の法制度において、占領憲法に「ノー」と言ふことができる時效中断に關する正規の法的手續があるといふのか。是非ともご教授願ひたいものである。もし、それがなければ、時效中斷の手續と方法もない時效制度はありえないので、時效は永遠に完成しないことになり、時效有效説は成り立ちえないことになる。
つまり、第一章でも述べたが、時效によつて不利益を受ける者が、時效を中斷してその權利の回復を求めることを不可能ならしめるやうな天災その他避けることのできない事變などの障害があるときは、その障害が消滅した後から相當期間が經過するまでは時效は停止したままで完成しないのである(時效の停止。民法第百五十八条ないし第百六十一條參照)。そのことからすれば、占領憲法が憲法としての合法性と正統性があるか否かについて、占領憲法によつて成立した政府自身が、これまでの帝國憲法改正の審議經過の全容を官報などにより全國民に明らかにし、教育機關においてもその事實を踏まへての教育を徹底するなど、その詳細な説明を盡くしてゐない状態が現在まで續いてゐることからして、未だに時效の停止状態にあり、時效が完成してゐるはずはない。これらについての詳細な説明もせず、詭辨を弄して安易に時效が完成したなどとして占領憲法を有效であるとする見解は、やはり第一級國賊の言説である。
實效性
似非「時效」の主張は重ねて云ふに及ばず、また、「既成事實」の正體は、違法な實力(暴力)の連鎖的繼續状態であつて、これが法創造の原動力たりえないことは前述したが、それに加へて、國民の意識が定着したとする點については、むしろ次のとほり、逆に「不定着」の事實が繼續してゐることを指摘したい。
すなはち、交戰權を持たない占領憲法は制定及び施行の時點において、「戰爭状態」であり、既に當初から實效性がなく、效力がなかつたことは既に述べた。さらに、附言すれば、第二章でも明らかなとほり、占領憲法の要諦である第九條が、假に當初は實效性を保つてゐたとしても、その期間は、施行された昭和二十二年五月三日から昭和二十五年七月八日までの僅か三年餘に過ぎないことに留意すべきである。つまり、昭和二十五年七月八日は、マッカーサーが、朝鮮戰爭を契機として警察豫備隊七萬五千人の創設と海上保安廳八千人增員を許可したときであり、このときから再軍備が實現し第九條の實效性は否定された。そして、同年十月には、米軍の上陸作戰を支援するため、海上保安廳の掃海隊が朝鮮半島沖の機雷處分に投入された。これは、戰闘地域での日米作戰の合意に基づくものであつて、同月には海上保安廳の掃海艇一隻が機雷に觸れて沈没し、十八人が重輕傷、一人が死亡(戰死)した。そして、灣岸戰爭、カンポジアPKO、イラク戰爭などを經て、完全に第九條は死文化し、再軍備が國際的に認知された。イラクのサマーワが戰闘地域か否かといふ議論は、過去の歴史的事實を知らない者の戲言であり、空虚で欺瞞に滿ちたものに過ぎないのである。
それゆゑ、占領憲法第九條は、再軍備の實現によつて憲法としての實效性を既に喪失してゐると評價される反面、この再軍備の實現は、逆に帝國憲法第十一條の實效性が復活(繼續)して現在も存續してゐるものと評價できる。また、第九條以外の占領憲法の各條項について實效性があるとされる事象についても、それは同時に、概ねこれに對應する帝國憲法の各條項によつても説明できるものである。これは帝國憲法の實效性が繼續してゐることの證明となるのであつて、未だに帝國憲法はその實效性を喪失してゐないことになる。
つまり、帝國憲法は法としての妥當性と實效性が存在し、占領憲法にはそれがいづれも備はつてゐないので、憲法としての效力を有してゐるのは帝國憲法しかありえないといふことである。
附言するに、そもそも定着有效説が、國民の意識として「定着」したといふ點も單なる虚構にすぎない。この「定着」については世論調査などに準據するといふのであるが、そもそも世論調査なるものは、その目的、項目、對象、範圍などにおいて恣意的な要素が入りやすく、世論誘導の手段として用ゐられてゐることは公知の事實である。にもかかはらず、この世論調査等を根據として國民の意識なるものを推定することは統計學的な正確さを備へてゐない危うい言説である。
さらに、世論調査に準據するとしても、本書で述べるやうな占領憲法の生ひ立ちを詳しく説明した上で世論調査がなされたことは一度もないのであつて、この定着有效説は、このこととの關連において、次の重大な點を缺落させてゐる。それは、占領憲法制定時から現在に至るまでの「憲法教育」の實態についてである。義務教育に用ゐられる教科書には、占領憲法の出生の祕密を記載してゐないし、無效説の存在とその内容や論據に至つては全く記載されてゐない。檢定基準自體にもその項目がない。このやうな教育實態は、義務教育のみに限らず、その他の公教育や社會教育、家庭教育においても同樣であつて、現在もなほその状況は繼續してゐる。このことは、無效説を排除する思想統制が行はれ、占領憲法が「有效」であるとする洗腦教育であつて、その教育を受けた者が成人して國家の意思形成に參加したとしても、その意思形成は、詐欺、強迫の状態が繼續したことに基づくものであるから、この呪縛と強制から解放されない限り、「不當威壓」(undue influence)の法理は今もなほ適用され續ける。洗腦された者の多數決なるものは、「大衆の喝采」を擬制した全體主義國家の行ふ手法であつて、これを以て「定着」といふことは斷じてできないのである。
ましてや、占領憲法の改正手續について、その概要が明らかになつたのは平成七年になつてからである。平成七年になつて衆議院憲法改正委員會小委員會の議事録の公開がなされ、小委員會とは名ばかりで、單なる英文の「翻譯委員會」に過ぎないことが初めて明らかになつたのである。これでは、それまでの事情を根據とする全ての後發的有效論が成り立ち得ないといふことになる。
それゆゑ、占領憲法の制定經過事實が記載され、占領憲法の效力論爭の存在とその内容について兩論併記された教科書による教育(眞の憲法教育)がなされて教育の正常化が實現し、このことが遍く周知された状況になつた後でなければ、定着有效説はその論據の前提を缺くことになるのである。
また、この定着有效説については、これと「憲法變遷論」との關係で矛盾が生まれる。定着有效説は、つまるところ、「國民の歡迎と支持」があつたとするのであるが、憲法の變遷があるとする見解も、これと同じ論法を用ゐてゐる。憲法規定と現實とが齟齬を生じたとき、事實に規範力を認め、その事實の反復繼續に法の效力要件である實效性を備へた場合に、憲法(規定)が變遷して、改正されたと同等の效果があるとするのである。いはば「濳りの改正」である。しかし、法の效力要件としての妥當性については、どのやうな事態となれば妥當性が付與されるのかについては定かではない。ともあれ、この憲法變遷論と定着有效説とは、同じ基礎に立つために、反復繼續する事實の性質がどのやうなものであり、どの程度の反復繼續であれば、「定着」したと云ひ、あるいは「變遷」したといふのかが不明である。そして、同じ事象の事實について、一方では定着したと云ひ、他方では變遷したといふ相對立する判斷もありうるのである。たとへば、自衞隊と占領憲法第九條との關係で云へば、定着有效説では、自衞隊が存在する事實があつても、戰力不保持を含むこの條項が定着したとするのに對し、この事實を以て第九條は自衞隊の存在を容認して戰力(自衞力)保持へと變更(改正)されたと見る憲法變遷論もあるのである。
また、變遷論は、各條項毎で判斷するのに對し、定着有效説は、おそらく占領憲法全體が定着したか否かであり、各條項毎に判斷はしないものと思はれる。さうすると、各條項毎に定着の程度が異なることは容易に想像できるにもかかはらず、一律に定着したか否かを判斷するといふことは、餘りにも荒すぎる議論である。その意味では、各條項毎に變遷したか否かを判斷する憲法變遷論の方がまだ良心的な理論であると云へる。
效力論爭の鳥瞰
以上の考察で明らかとなつたのは、占領憲法の效力論爭が多面的、多元的なものであり、その爭點についても、占領憲法の、①目的、②主體(權限機關)、③内容、④手續(手段、方法)、⑤時期などの各事項について樣々な主張がなされてきたことが解る。
占領憲法は、無效論からすれば、①日本弱體化、國體破壞といふGHQの目的によるものであり、動機の不法、不正の目的によるものであること、②制定の主體(權限機關)は、實質的にはGHQであり、我が國の自主性は奪はれてゐたこと、③内容においても、國體の變更を伴ふものであつて、改正の限界を超えてゐること、④手續(手段、方法)においても、著しく審議不十分であつたこと、⑤時期においても、帝國憲法第七十五條に違反し、ヘーグ條約にも違反してゐたことを理由に無效であると主張するものであるが、これに對し有效論は、必ずしもこれに一對一に對應して反論してゐない。ただし、ヘーグ條約違反であるか否かについては論爭がされてゐるが、最も重要な帝國憲法第七十五條(類推)違反については全く反論がない。
また、このこととの關連で、いつの時點における效力の有無を論ずるのかといふ點(效力時點)についても、無效論は、憲法改正に内容的な限界があるとする見解(限界説)に立ち、概ね「制定時」の效力を問題とし始源的に無效であるとするのに對し、有效論は、憲法改正に内容的な限界がないとする見解(無限界説)と革命有效説を除いて、概ね「現在時」の效力を問題とし後發的に有效であるとする傾向にある。
そして、これに加へて爭點としなければならないのは、失效説の説明でも觸れたが、次章で詳述するとほり、占領憲法の法的效力について、占領憲法の名稱が形式的には「憲法」であるとしても、はたしてこれが眞の「憲法」なのか、それとも「法律」又は「條約」その他の法令といふべきなのか、といふ法の「領域」の問題が橫たはつてゐる。
これに關する私見は、結論を言へば、占領憲法は「講和條約」、しかも「憲法的條約」の限度でその成立を認めなければならないとする見解に立つてゐる。その意味からすれば、占領憲法は「憲法」の領域では「無效」であるが、「講和條約」の領域では「成立」したとすることとなり、無效論と云つても、正確には「相對的無效説」と名付けるべきかも知れない。これに對し、從來までの無效論(舊無效論)も有效論も、失效説を除き、法の領域としては「憲法」だけに限定し、他の領域についての言及はない。失效説を除く舊無效論は、おそらく一切の法の領域において無效とするものであつて、その意味では「絶對的無效説」と呼稱すべきかも知れない。ただし、失效説は、制定時は憲法としては無效で管理基本法としては有效とする點において相對的無效説であり、これが憲法的條約(占領憲法條約)として成立したとする私見と近似するところがあるが、現時點(占領終了)では失效してゐるとすることからして、現在時評價からすればこれも絶對的無效説であり、現在時においても憲法的條約(占領憲法條約)として成立したものの未だ發效してゐないとする私見とは異なる。
改正無限界説
占領憲法が制定當初から有效であつたとする始源的有效論には、改正無限界説、革命有效説、條約優位説、正當性説、承詔必謹説などがある。以下、これらについて順次檢討することとする。
まづ、初めは憲法改正には全く限界がないとする改正無限界説である(佐々木惣一、大石義雄、小森義峯など)。
改正無限界説は、次のやうに主張する。「国民主権主義を採る現行憲法が天皇主権主義を採る明治憲法の改正手続によって成立したことは、何人も疑うことのできない厳然たる法的事実であるが、この法的事実は、法理論的に『憲法改正に限界を認めない』われわれの立場からすれば、少なくとも理論的には何ら異とするに足らぬことである。・・・われわれが、日本国憲法は占領軍によって押しつけられたという社会的事実を認めながらも、明治憲法七十三条の定める手続を踏んで成立したという法的事実に着眼して、現行憲法成立の合法性を認める所以である。」「現行憲法は、民定憲法でもなく、欽定憲法でもなく、協定憲法であると思う。」(小森義峯、文獻70)と。
つまり、後述する革命有效説とは異なり、占領憲法の有效性を矛盾なく説明できるとして、革命有效説よりも占領憲法の有效性を説くにおいて優位に立つてゐると自畫自贊する見解である。
そして、この見解は、無限界改正をなすことは、法的(憲法的)に許容されてゐることは勿論、さらに、無限界改正をなすに至つた政治的契機をポツダム宣言の受諾に求める。つまり、ポツダム宣言第十項の「日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし」の條の「民主主義」の意味を強引に「國民主權」と解釋し、同第十二項の「日本國國民の自由に表明せる意思に從ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立」の條の「日本國民の自由に表明せる意思」を、これまた強引に「國民主權」と解釋する見解なのである。
しかし、この見解は以下の理由によつて否定される。
まづ、憲法改正に限界はあるか。これについては、戰前戰後を通じて、これに限界があるとするのが通説である。帝國憲法下では、改正限界説が當時の有權解釋として運用されてきたものであり、改正無限界説は全く無力であつた。それがGHQ占領下の時期に、火事場泥棒的に有力説に伸し上がつたといふことは憲法學會においてあり得ないことである。
そもそも、憲法改正に限界があるとする根源には、「國體論」があるからである。ところが、この限界を認めない改正無限界説は、實は「主權論」であり、「國體論」を否定する見解である。改正無限界説の論者らは、天皇主權説を採つてゐなかつたのであるから、天皇機關説であることになる。ところが、天皇機關説であれば、帝國憲法は主權概念を否定してゐると解釋してをり、現に、天皇は統治權を總攬するにすぎないのであるから、主權者であるはずはない。にもかかはらず、改正は無限界であるとなると、天皇の改正發議權(改正大權)は「主權」の性質を有することになる。「主權者でない者の主權の行使」といふジレンマを改正無限界説は克服できないのである。
このことは、改正無限界説が「議會主權論」を採つたとしても同樣である。天皇に主權がなく、帝國議會に主權があるとする帝國憲法の解釋が、そもそも成り立つはずがないからである。これが成り立つとすれば、この見解は、まさしく「國民主權論」と近似する。
そして、もし、憲法改正には限界がないとすると、國體の破壞も許されるとすることになり、假に、改正無限界説が主權論ではなくても、少なくとも反國體論である。このことを自覺的に議論されたことがこれまで一度もなかつた。これはこれまでの憲法學の貧困さを物語るものである。
ともあれ、改正無限界説の根底には、第一章でも述べた、「憲法制定の父たちはその子孫たちよりも大きな權威と權限を持つ」といふことに對する疑問と不信が橫たはつてゐる。改正に限界を認めることは、そのことについて子孫を拘束することになり、「憲法制定の父たちはその子孫たちよりも大きな權威と權限を持つ」ことになつてしまふからである。もし、この疑問と不信をさらに突き進むならば、硬性憲法(一般の法律よりも改正の手續及び要件が加重されてゐる憲法)についても同樣の疑問と不信を投げかけねばならない。憲法制定の父たちが通常の多數決で憲法を制定したのであれば、その子孫たちもそれと同じ手續で憲法の改正ができなくてはならないはずである。しかし、殆どの國家の憲法は、硬性憲法であり、改正のための手續と要件が加重されてゐる。そして、この改正の手續と要件の加重は、改正内容の制限を推認させることになるが、どうして硬性憲法が存在するのかについて改正無限界説では説得力ある説明ができない。
この點について、帝國憲法と占領憲法とを比較すれば、次のやうなことが云へる。帝國憲法第七十三条第二項は、「此ノ場合ニ於テ兩議院ハ各々其ノ總員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多數ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ爲スコトヲ得ス」として、定足數三分の二、議決數三分の二の「九分の四」基準を採つてゐる。これに対し、占領憲法第九十六条第二項は、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」として、定足數を定めず專ら議決數を總議員の三分の二とする「三分の二」基準及び「国民過半数」基準を採る。
しかし、帝國議會で憲法改正が「九分の四」基準によつて成立したとすれば、そのさらなる改正をするについても同樣の基準でなければならない。ところが、占領憲法改正贊成派議員が總議員の「九分の四」を超え、さらに「過半數」を超えたとしても、「三分の二」に屆かないときは、改正することができなくなる。これは、國民主權による多數決原理と矛盾した事態が起こる。さうであれば、やはり、「憲法制定の父たちはその子孫たちよりも大きな權威と權限を持つ」ことになり、改正無限界説の破綻を招くことになるのである。
また、言語、文化など暮らしと營みの根幹を形成するもの(國體)を廢止し變更することは、祖先が代々守り續けてきたものを一時期の子孫が不可逆的に變更することを認めることとなつて、逆に、「憲法を改正する子孫たちはその父たちよりも大きな權威と權限を持つ」ことになり、これについての疑問と不信に對して、改正無限界説では何ら回答できないといふ矛盾がある。
それどころか、未だにこの改正無限界説を放棄することなく國體護持を叫び、しかも、國體と政體とを分離して、國體規定とされる帝國憲法第一條ないし第四條前段と政體の基本原則規定とされる同第四條後段の改正を否定して改正には限界があるとする自家撞着の言説(小森義峯)も殘存するが、これらは既に論理的には破綻を來たしてゐる。
そもそも、改正無限界説が學説として認められるとしても、それは、國家に自律性が存在する平時の場合に限定して適用されることになる。無限界の改正が認められるのは自律性を保つた平時に限られ、戰時ないしは他國による被占領時には適用されないとするのが當然の歸結である。それを、あへて戦時ないしは被占領時であるにもかかはらず、火事場泥棒的にこの時期にも改正無限界を強調することは國家の自律性を否定する亡國理論に他ならない。
また、前述のとほり、無限界の改正をするに至つた政治的契機とされるポツダム宣言の條項解釋なるものは、牽強附會の一語に盡きる。ポツダム宣言第十項の「民主主義的傾向の復活強化」とは、過去に存在した民主主義的傾向を「復活」させさらに「強化」させるといふことであつて、ここには「國民主權」なるものが出てくる餘地はない。「民主主義」を「國民主權」に讀み替へるといふ藝當は、法の科学においてはあり得ないことである。
そして、假に、ポツダム宣言の解釋がそのやうなものであつたとしても、それはあくまでも國際系のポツダム宣言が我が國に要求した事項であつて、國内系の憲法體系が直接に拘束されるものではない。また、無限界改正が法的に許容されること(可能性)と、無限界改正をなすべき必要があること(必要性)とは別個のものである。それゆゑ、改正無限界説は、可能性と必要性とを意圖的にすり替へた「火事場泥棒改正説」といふ名稱が相應しいことになる。
さらに、前掲の「現行憲法は、民定憲法でもなく、欽定憲法でもなく、協定憲法であると思う。」との點であるが、これにも大きな誤謬がある。この「協定憲法説」の主張するところは、帝國憲法に基づき、その改正條項に從つて、天皇と臣民との間で、主權が臣民(國民)に存することを認めた憲法が占領憲法であるといふことになる。しかし、帝國憲法には「主權」概念はなかつた。むしろ、先帝陛下も「天皇主權」を否定しておられたことはこれまで述べたとほりである。從つて、帝國憲法に存在しない「主權」を臣民(國民)が取得することはあり得ない。「無から有は生じない」「山より大きな猪は出ない」のである。「天皇」に「主權」がないにもかかはらず、「天皇」から「國民」へ「主權委讓」されたとするのは完全なフィクションであり、それこそ「立憲主義」に反して無效といふことになる。
また、協定憲法説は、帝國憲法は「君民協治」の憲法であるから、占領憲法も君民の協定憲法として成立したと主張するのであらうが、帝國憲法は君民協治の憲法ではない。天皇は統治權の總攬者であり、臣民との協治はありえないし、帝國憲法の「憲法發布敕語」においても、「朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」とあり、論者もまた帝國憲法を欽定憲法であることを認めてゐるのであるから、それ自體が矛盾である。
そして、この「君民協治」を「主權の君民共有」の意味であるとすれば、矛盾がさらに增幅する。主權は、君主と國民のいづれかに排他的に歸屬するもので、君民がこれを共有することは主權概念の破綻となるからである。
そして、何よりも不可解なのは、改正無限界説は、まるでGHQの占領がなかつたかの如く立論してゐる點である。獨立を奪はれてゐた時期であることも、帝國憲法の改正作業がGHQの強制によるものであつたことも無視してゐる。國内手續のみを微視的に注視し、占領下であることの國際的な視點を忘却してゐる。共に拉致された君民間の協定を持ち出す前に、武力を背景とする連合國と敗戰國の我が國との「協定(講和條約)」の存在を認識すべきであるが、全くこれを無視してゐる。
何故そのやうにするかと云へば、これらの視點を注視すれば、改正無限界説は根底から否定されることになるのを恐れてのことである。つまり、改正無限界説に立つたとしても、連合國軍による占領状態といふのは、法的には、天皇及び帝國議會その他全ての國家機關に對する暴行又は脅迫の状態を意味する。保障占領といふのはさういふものなのである。個々の暴行脅迫行為等の有無を議論するまでもなく、占領状態とは、繼續的な暴行脅迫状態なのである。それゆゑ、帝國憲法の改正は改正無限界説でも違憲であり、連合國の徹底した檢閲と洗腦による状態下での帝國議會の形式的手續は、「抗拒不能の状態にて行はれた瑕疵ある意思表示」であつて絶對無效である。從つて、改正無限界説は、牽強附會に占領憲法の有效性に固執する「火事場泥棒改正説」であり、賣國學説である正體が露見することを恐れてのことである。
革命有效説
改正無限界説でなければ、改正限界説となる。つまり、憲法改正には一定の限界があるとするのである。その限界が何であるかについては樣々な見解がありうるが、改正を許さない規範(部分)を「根本規範」として認識し、それを超える改正は無效であるとするのである。帝國憲法下の學説においては、主權國體の概念も影響して、少なくとも第一條から第四條までは改正不許とするのである。しかし、法實證主義的に形式的な條項に限定することなく、規範國體に牴觸することができないとするのが本來である。いづれにせよ、帝國憲法下は勿論のこと、占領憲法下の學説においても、改正限界説が通説である。
その意味からすれば、占領憲法下の學説において改正限界説をとる見解は、帝國憲法の改正法としての占領憲法がその限界を超えたことを理由に無效であると主張しなければ學説としての整合性はなくなる。しかし、占領憲法の改正限界説に立ちながら、占領憲法を有效とする支離滅裂の學者が殆どであり、曲學阿世、魑魅魍魎の極みである。
もし、改正限界説に立ちながら、占領憲法を有效といふのであれば、帝國憲法には限界はなく、どうして占領憲法には限界があるのかといふ二重基準の矛盾について釋明しなければならないのである。
ともあれ、帝國憲法下において、改正限界説が通説であつたにもかかはらず、占領憲法時には突如として學説的な異變が起こつた。それは、改正限界説に立つた革命有效説(宮澤俊義)の登場である。俗に、「八月革命説」と呼ばれ、昭和二十年八月に法律學的な意味での「革命」が起こつたといふフィクションを打ち立て、當時は多くの贊同者を得たものである。いまではこれも學説的には否定的に淘汰されたのであるが、この革命有效説が制定時において政治的に占領憲法の制定を推進させた原動力となつたもので、その及ぼした影響は極めて大きいものがある。
宮澤俊義とその師である美濃部達吉は、いづれも東大學派として、改正限界説に立つてゐた。そしてまた、占領直後までは、憲法改正は不要であるとしてゐたのである。つまり、美濃部達吉は、「私はいはゆる『憲法の民主主義化』を實現するためには、形式的な憲法改正は、必ずしも絶對の必要ではなく、現在の憲法の條文の下においても、議院法、貴族院令、衆議院議員選擧法、官制、地方自治制その他の法令の改正及びその運用によりこれを實現することが十分可能であることを信ずるものである。」と主張し、宮澤俊義も、これまで昭和二十年十月十六日と十九日の毎日新聞などで、内大臣府が憲法改正作業をすること自體を批判し、「この憲法における立憲主義の實現を妨げた障害の排除といふことは、わが憲法の有する彈力性といふことと關連して、憲法の條項の改正を待たずとも相當な範圍において可能だといふことを注意することを要する。」などと主張してゐたのに、一夜にして變節したのである。
つまり、宮澤俊義は、昭和二十一年二月十三日に提示されたGHQ草案を見るや否や、直ちに變節し、「このたびの憲法改正の理念は一言でいへば平和國家の建設といふことであらうとおもふ。・・・日本は永久に全く軍備をもたぬ國家ーそれのみが眞の平和國家であるーとして立つて行くのだといふ大方針を確立する覺悟が必要ではないかとおもふ。いちばんいけないことは、眞に平和國家を建設するといふ高い理想をもたず、ポツダム宣言履行のためやむなくある程度の憲法改正を行つてこの場を糊塗しようと考へることである。かういふ考へ方はしばしば『官僚的』と形容せられる。事實官僚はかういふ考へをとりやすい。しかし、それではいけない。日本は丸裸かになつて出直すべき秋である。」(「憲法改正について」、雜誌『改造』昭和二十一年三月號所収)として、GHQ草案の戰爭放棄を全面的に受け入れた憲法改正を積極的に支持したのである。これが變節學者の面目躍如たる由縁である。
この革命有效説が制定時に贊同者を增やしたのは、當時の國際情勢、社會情勢、政治情勢などの背景があるが、學説にも衝撃的な影響を及ぼした理由は、先に述べたとほり、この革命有效説が帝國憲法の學説において主流であつた改正限界説から生まれた點にある。つまり、革命有效説は、帝國憲法の改正としては「絶對無效」であるが、「革命憲法」としては「有效」であるとする點にある。それゆゑ、帝國憲法の改正法としては無效であるとする點においては、無效論の範疇に入る。これが改正限界説の他の學者の心を搖るがし、形式的には變節せずに實質的には變節を果たすといふ學者の保身に寄與した。變節しなければ、帝國大學などの大學教授の地位が危ぶまれたといふ保身が最大の理由である。保身のために國を賣つた賣國奴である。つまるところ、この革命有效説は、形式的には「改正限界説」に立ちつつ、「革命」といふものを媒介させれば、實質的には「改正無限界説」へと變節するための方便とトリックを編み出した。それは、要約すれば、ポツダム宣言の受諾により帝國憲法の根本規範に變更が生じ、「天皇制の根據が神權主義から國民主權主義に」變化して「革命」が起こつたとするのである(宮澤俊義「八月革命の憲法史的意味」、雜誌『世界文化』昭和二十一年五月號所収)。
しかし、ポツダム宣言を受諾した途端に革命が起こつたとするのはフィクションであり、「主權喪失國家の國民主權」といふ致命的な矛盾を糊塗するために、濳在主權とか、濳在革命とか、難解でいかがはしい概念を驅使して言葉の遊びをしてゐる舞文曲筆の言説に過ぎない。そもそも革命は「立憲制」の枠外の現象であるのに、GHQによる「外からの革命」の根據を「立憲制」の枠内で見つけようとすること自體に根本的な矛盾がある。
なほ、革命有效説が矛盾に滿ちてゐることの證左として、その論旨自體が混亂してゐる點があり、それを示すものとして次のやうな記述がある。
それは、宮澤俊義が「降伏によつて、かように、明治憲法の豫想しない變革や、その容認しない變革が行われた以上、明治憲法も、その條項の改正ということは行われなくとも、その影響を受けないわけにはいかない。もちろん、降伏によつて明治憲法が全面的に廢棄されたわけではない。それは、引きつづいてその效力をもつていた。」と主張してゐる點である。これでは、帝國憲法のどの部分が破棄され、どの部分が引き續いて效力を持つてゐたのかが不明であり、少なくとも帝國憲法を引き繼いだ部分があるといふやうな不明確な法律状態を以て、なにゆゑにそれが革命的變革であり、その妥當性を根據付けるものは一體何なのかが明らかでない。
ポツダム宣言の受諾は、帝國憲法第十三條の講和大權に基づくものであつて、明らかに帝國憲法による統治行爲であつて、この時點で根本規範の變更はありえない。終戰の詔書にも「茲ニ國體ヲ護持シ得テ」とあり、ポツダム宣言においても根本規範の變更を求めてゐなかつたのである。
そもそも、「神權主義」(宮澤俊義)といふ概念は不明確であり、假にこれが「國體論」を意味するものとしても、それが何ゆゑに「主權論」へと變化するのか。しかも、帝國憲法の性質について「天皇主權説」を否定して「天皇機關説」を主張してきた者が、占領憲法の有效性を導くために、帝國憲法が天皇主權であつたと牽強附會の強辯をなし、天皇から國民へと「主權委讓」されたとも説明するのである。一體、天皇機關説といふ天皇主權否定説から、どうして一足飛びに「國民主權」なのかといふ點において餘りにも著しい論理の飛躍がある。
「天皇主權の帝國憲法から国民主權の占領憲法へと改正された」といふ虚僞の説明は、この革命有效説だけでなく、前述の改正無限界説でも「国民主権主義を採る現行憲法が天皇主権主義を採る明治憲法の改正手続によって成立した」(小森義峯、文獻70)と説明したり、革命有效説なのか否かは不明であるが「神聖不可侵な天皇主権主義から国民主権主義へと憲法が根本的な転換をとげた」(古関彰一、文獻354)などと輕々しく説明する見解もあるやうに、多くの論者が殊更に虚僞の説明をまき散らし、學者としての良心そのものが疑はれてゐるのである。
その最たるものが革命有效説の論者である。この革命有效説は、「根本規範の變更を規定する憲法が有效たりうるのは、『革命』によつてである。」とする命題を示したが、これを踏まへて、「革命」とは何か、との問ひに對し、それは「根本規範の變更をもたらすもの」と答へ、ならば「根本規範の變更をもたらすもの」とは何か、との問に對しても、それは「革命」と答へるのである。これは循環論法であつて、論理破綻の典型であると指摘されてゐる(相原良一)。
この革命有效説の論理破綻は他にもある。この説は、帝國憲法の改正手續がなされたことについて、一方では改正の限界を超えたこと(改正限界説)を理由に「無效」としながら、他方ではこれが革命であることを理由に「有效」とするのであるから、「改正手續」を改正無效の根據にすると同時に革命有效の根據ともするといふ矛盾を犯してゐる。つまり、宮澤俊義の見解は、改正の限界を超えたことを改正限界説により「無效」とし、かつ、革命有效説により「有效」とするものである。これは、表現を變へて言へば、「帝國憲法の枠内で帝國憲法の枠外の憲法を制定した」ことを「革命」と名付けるといふことである。「憲法違反であるが、憲法違反ではない。」といふことである。このことは、形式論理學でいふ排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)に違反する典型例であつて、論理として全く成り立たないことは一目瞭然である。ちなみに、排中律ないし矛盾律は、法律學の場面でも適用があり、たとへば、有效か無效かといふ二者擇一の關係において、そのことが有效であり且つ同時に無效であるといふことは成り立たないとする論理學の基礎理論のことである。
いづれにせよ、根本規範の變更である「革命」がポツダム宣言の受諾といふ講和大權の行使によつてもたらされたと認めるのであれば、それは帝國憲法下の合法的な行爲でなければ保護されない。そもそも「憲法」と「革命」とは對立概念として用ゐられるのであつて、これを「革命」と呼稱するかは用語例の問題であるとしても、この「革命」が有效であるとされるためには、これが帝國憲法體制下の法秩序において合法的(合憲的)な行爲でなければならないことは當然のことである。しかし、通常の違憲行爲であつても無效であるとされるにもかかはらず、それ以上の違憲行爲である國體變更を目的としたこの「革命」が有效であるはずはないのである。
また、この「革命」の意味を政治的なものと法的なものとに區別し、法的な意味における占領憲法の「革命」とは、その根底にある國際的ないしは國内的な政治的情況とは無關係に、「主權が天皇から國民に委讓された」といふ現象であり、無效論による革命有效説への批判は、專ら政治的な意味におけるそれであつて、法的な意味の批判ではないと反論する見解がある。
しかし、この見解も次の二點において矛盾がある。第一に、帝國憲法は法的な意味において「天皇主權」ではないことから、この無效論批判は、その前提を缺いてゐるといふ點である。天皇機關説が法的な意味における通説であり、天皇主權は否定されてゐた。天皇は、統治權の總覽者(第四條)といふ「國家機關」なのである。それゆゑ、天皇主權説は、帝國憲法下では通用せず、それこそ政治的な意味しか持ち得なかつた。ところが、この見解は、占領憲法制定の消息を「主權の委讓」といふ政治的現象として捉へるのではなく、實際には、これまで法的な意味としては通用してゐなかつた天皇主權説といふ亡靈に依據して、法的現象としての「主權の委讓」を主張することになる。あくまでも政治的な意味に留まるとしながらも、これを根據なく飛躍させて、法的な意味としての「主權の委讓」であると詭辯を弄するのである。つまり、この「主權の委讓」といふ「革命」を主張したのは、天皇主權説を否定してゐた天皇機關説の學者(宮澤俊義ら)とその弟子たちであつて、そもそも「主權」概念そのものを否定してゐたのに、突然に天皇主權説に鞍替へし、その主權が國民に委讓されたなどと主張して完全に變節したのである。繪に描いたやうな論理破綻の典型例である。
これには、イラクでの米英によるイラク暫定占領當局(CPA)の「主權移讓」と同じ矛盾がある。つまり、ここで、「移讓」と「委讓」を區別して用ゐることとするが、權限の移轉が國際關係でなされるのが前者であり、國内關係でなされるのを後者とすると、この見解は、連合國から國民への主權移讓(國際的主權移轉)を主張してゐるのか、帝國憲法ないしは天皇から國民への主權委讓(國内的主權移轉)を主張してゐるのか、そのいづれなのかが不明である。おそらく、ここでいふ「主權」とは、對外的な意味での「獨立」を意味する「對外主權」と、國民主權や天皇主權などの主權論における「主權」を意味する「對内主權」の異なる二つの主權概念(主權概念の二義性)を混同してゐることに起因するのであらう。つまり、前者の対外主權(獨立)と後者の対内主權(國民主權)とを混同してゐるのである。
第二に、「委讓」といふことが法的な意味を有するのであれば、「委讓」が正當化される合法的(合憲的)な根據が要求されることになるが、この見解は、その要求に答へられないといふ點である。つまり、合憲的に委讓されることの法的説明が全くできない點において、この「革命」の概念は、やはり法的な意味ではなく、單に政治的な意味に留まることとなつて矛盾を來すことになるのである。
そもそも、革命の意味の守備範圍としては、自國民の「自律的變革」を意味するものであつて、GHQの軍事占領下でなされた「他律的變革」を意味するものではない。非獨立状態で革命はありえない。「他律的變革」を革命と叫ぶのは、日本共産黨が、GHQを「解放軍」と評價したのと同樣に、主權概念の二義性による混同がここにも見られるのである。
そもそも、宮澤俊義の八月革命説は、後述するとほり、日本共産黨の野坂參三が唱へた「占領下平和革命論」と通底するものである。これは、「二段階革命論」であり、第一段階は「民主主義革命」であり、それを踏まへて第二段階である「社會主義革命」に至るとするものであつた。そして、占領憲法施行前の昭和二十二年元旦における吉田茂首相の「不逞の輩」發言に端を發した全國的な倒閣運動が、いはゆる「二・一ゼネスト」へ向けて進展する中で、これは第一段階である民主主義革命と位置づけられた。ところが、この「國民主權」による民主主義革命がマッカーサーの中止命令によつて崩壞したのである。全官公廳勞組擴大共闘委員會伊井彌四郎議長は、GHQに出頭を命ぜられ、全組合員に對し、NHKラジオを通じてゼネスト中止を表明するやうに強制され、NHKラジオで中止の呼びかけを行つた。そして、その最後に、「命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。一歩後退二歩前進。」と涙ながらに語つた。この「一歩後退二歩前進」といふのは、レーニンの著作である「一歩前進二歩後退」を捩つた言葉である。伊井彌四郎は、國民主權による革命が幻想であつたことを痛感した。この二・一ゼネストが直接命令によつて崩壞したことは、まさに「國民主權の不存在」を突きつけたことになる。
ちなみに、宮澤俊義の師匠である美濃部達吉は、前に述べたとほり、帝國憲法の上諭に「朕カ子孫及ヒ臣民ハ敢ヘテ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とある點について、これを「天皇の側からのクーデターの禁止宣言なり」と主張してゐたのである。この「革命」なるものが體制内變革としてのクーデターに該當することになるので、天皇大權を行使しうる天皇の側からのクーデターですら禁止されてゐるのであれば、GHQといふ外國勢力はいふに及ばず臣民の側からのクーデターも禁止され、クーデターによる憲法的變革は當然に無效である。
さらに、この革命有效説には、他の論者もあり、たとへば、「今次の憲法改正の經過が、明治憲法制定の場合と比較すれば、著しく公開的であったことは固よりである」(佐藤功)などとして、帝國議會の審議が公開的であつたことから、その審議過程を經たことによつて革命的に有效となつたとする趣旨の見解もある。しかし、審議が公開的であることが理由として加はつたとしても、これまでの述べた革命有效説に對する批判に答へたことにはならない。このやうな論法が不自然で欺瞞に滿ちてゐることは明らかである。まるで、これは、誰も知らないところで人を刺し殺したら犯罪だが、にこにこ顏で大つぴらに徐々に毒を與へて解らないやうに殺したり、公衆の面前で堂々と殺した場合には犯罪ではないと云つてゐるやうなものである。いつどのやうな方法で殺したとしても、殺人は殺人である。
ところで、この革命有效説の變形として、占領憲法が制定されることを解除條件として主權が國民に移つたとする見解(ただし、これは正確には、解除條件ではなく停止條件と表現すべきであろう。)、占領から解放されることを停止條件として占領憲法が制定されたとする見解などがある。しかし、これらの條件付國家行爲をなした時點は占領期間中であつて、誰が誰に對して、どのやうな權限に基づいてこの條件付國家行爲を行つた(合意した)のかについての説明がなく、しかも、これらの條件が成就するまでの憲法状態がどのやうなものであるのかといふ點についても解明されてをらず、全く説得力のない虚構の産物である。このこととの關連で附言すると、八月革命説も同じ問題を抱へてゐる。つまり、「憲法の空白」を生むといふ矛盾がある。昭和二十年八月十四日にポツダム宣言を受諾したことで革命が起こり、瞬時に帝國憲法が破棄されてから、昭和二十二年月五日三日に占領憲法が施行されるまでの間は、憲法がないといふことになつてしまふので、この八月革命説も、解除條件とか停止條件といふやうな、ちんけな議論を組み立てなければならなくなるのである。
ともあれ、革命有效説は、基本的には改正限界説に立つがゆゑに、占領憲法は帝國憲法の「改正」としては「無效」であることを前提に、これは改正ではなく「革命」であるとして「有效」になるとするのであるから、この「革命」が否定されれば、占領憲法は「無效」として確定することになる。そして、この「革命」は、現在においては完全に否定されたため、破綻した革命有效説は、占領憲法が無效であることを證明する學説となつたのである。
さらに、帝國憲法が「天皇主權」ではなかつたことは前述したとほりであり、そのことは、天皇主權説といふ和製ホッブズの學説が存在したとしても、帝國憲法には全くそれを根據付けるものはなかつたのである。さうであれば、改正限界説から、いきなり改正無限界説に屬する主權論へと百八十度の解釋變更はできない。學説の變更においては、その節度が守られなければ學問ではない。しかも、「革命」ならば、「これは革命である」といふ「革命宣言」がなければならないが、これもない。みんなが知らない「濳りの革命」、「騙し討ちの革命」、「火事場泥棒的革命」であり、このやうなものが革命と呼べるはずがないのである。
ところで、純粹法學を主唱したケルゼンは、實定法の純粹かつ客觀的な認識を指向し、法學を政治的な認識や倫理的な考察、それに社會學的な認識からも峻別して規範體系を科學的に認識することを主張した。そのケルゼンに心醉した宮澤俊義は、ケルゼン主義者として學問的地位を得たが、その宮澤俊義は、支那事變が起こつた年の翌年である昭和十三年に『法および法學と政治』といふ論文を發表した。それにはかう書かれてゐたのである。
「法はその根本的性格において政治的なものである。だから、法を政治から全く分離させることは正當でない。すべて社會的なものは生きたるものでなくてはならぬ。生きた現實から抽象された單なる形式は眞に社會的なものではない。政治という生きた現實のうちに根ざしていない法は、だから、眞の法、すなわち、生きた法ではない。法が政治と全く異なるものであるとする自由主義理論は清算せられなくてはならぬ。法學は法と區別せられなくてはならぬ。法が政治的性格をもつということは必ずしも當然に法學が政治的性格をもつべきであることを意味しない。法學と通常呼ばれるもののうちで法の解釋論と法の科學を區別する必要がある。兩者は全くその本質を異にする。法の解釋論は直接に實踐に仕えるもので、その意味でその方法は必然的に政治的なものでなくてはならぬ。ここで政治を排斥することは結局概念法學に堕することを意味する。法の科學は、これに反して、直接には理論に仕えるものであるから、その方法は必然的に科學的・理論的なものでなくてはならぬ。それが政治から獨立であるべきことは、したがって、當然である。」と。
これは、ケルゼン主義の放棄である。イェーリングがケルゼン主義を批判する用語として用ゐた「概念法學」の言葉まで便乘使用してまで、弊履の如くケルゼンを捨てた。どうしてかは本人に聞かなければ解らないとしても、これだけば云へる。
この論文が發表された時代背景としては、昭和十年の天皇機關説論爭で師匠の美濃部達吉が批判されて失脚した事件がある。そして、翌昭和十一年二月二十一日午前九時に美濃部達吉宅に小田十壮が美濃部の教へ子の辯護士であると僞名(小田俊雄)を名乘つて訪問し、その面談中に斬奸状を示して美濃部の面前で讀み上げ、逃げる美濃部の背後から拳銃を發砲して重傷を負はせた。さらに、五日後には天皇機關説を批判し續けてきた皇道派將校による二・二六事件が起こり、翌年には支那事變が起こる。二・二六事件において渡邊錠太郎教育總監が誅殺されたのは、渡邊教育總監が、軍人敕諭にある「朕を頭首と仰ぎ」とあることを根據として、かねてより天皇機關説を強く支持してゐたことに起因したとされる。かういつた状況では、純粹法學を維持して政治介入を批判し、軍部の行動を帝國憲法違反であると批判したり、自由主義を唱へ續けることに、身の危險を感じたであらう。
宮澤俊義の變節は、一回だけではなかつたのである。
國際法優位説と條約優位説
國内法と國際法といふ別個の法體系が存在するが、いづれも影響し合ふことから、前に述べたとほり、この兩者の關係を一元的に捉へるとすれば、いづれの法體系が優位(上位)となるのかといふ議論になる。國内法優位説と國際法優位説である。そして、國際法が國家間の關係を規律する機能がある限りは、國際法は國内法に對して優位であるとするのが、國際法優位説の論據とされる。しかし、實際の國際司法裁判所での國際判例においても、國内法と國際法とが衝突した事例について、國際法の優位を認めた場合であつても、これに牴觸する國内法を無效とする事例は皆無に等しい。それゆゑ、國際法優位説には實效性がないといふことで、國内法優位説も根強く主張される。また、國内法優位説とか國際法優位説とかの對立は、これら二つの法體系を一元的に捉へることが前提であつて、二元説によれば、どちらが優位といふことはない。相互に影響する場合もあるが、原則として雙方が關與せず、その守備範圍も異にする二元的な存在とする二元説の方には説得力がある。
この國内法と國際法との全體的な關係については次章で詳細に述べることとして、まづは、個別的に、國内法の憲法と國際法への廣がりを持つ條約とではどちらが效力において優位であるかといふ點について、再度述べてみたい。
これについて、全ての條約が憲法に優位するといふ極端な條約優位説は少ない。しかし、通常は憲法の方が優位するが、特別の條約、たとへば「確立された國際法規」については憲法に優位するといふ見解がある(橋本公亘、樋口陽一)。また、占領憲法第九十八條第二項は、國際法優位の一元論の根據となるとの見解も根強い。
しかし、「確立された國際法規」の概念は、極めて不明確であり、それが國家意思や國情に適合しないものであつても遵守しなければならないとする結果となつたり、そのやうなものを嚴格な通常の憲法律より優位に置くことに無理がある。また、一般の「條約」は、その締結手續が通常の憲法律の改正よりも簡易であることから、憲法より優位する地位に置くことはできないのである。そもそも、この見解では、どのやうな條約が憲法に優位するかといふ基準が明確ではない。しかも、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印といふ講和條約は、「確立された國際法規」とは到底云へない。もし、それが肯定されるのであれば、桑港條約もまた「確立された國際法規」として、帝國憲法や占領憲法よりも優位となる。このやうな見解によれば、講和條約は帝國憲法に基づいてその締約を授權されて締結されたはずなのに、戰爭に負けると、あたかも制裁措置を受けるかのやうに、講和條約が締結されると同時に帝國憲法と講和大權との授權關係及び效力關係が突然に逆轉し、帝國憲法の講和大權に基づいて締結された講和條約が帝國憲法や占領憲法よりも優位になるといふのである。「山より大きな猪が出た」といふことである。しかも、これは敗戰國だけに起こるもので、戰勝國にはそのやうなことは起きないといふ奇妙な現象である。このやうな現象もまた「確立された國際法規」といふことになる。しかし、このやうな見解は、單なる暴力禮贊、暴力迎合、暴力信奉といふ暴力至上主義の産物であつて、國際法と國内法の立憲的見地からも到底容認できるものではない。
そもそも、ポツダム宣言と降伏文書には、帝國憲法と全面的に牴觸する條項はなかつた。單に、ポツダム宣言第十項後段に、「日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」とあつただけで、これをもつて基本的人權の充實について帝國憲法の改正變更を義務付けたものと理解したとしても、それ以外の帝國憲法の條項は一切牴觸するものがないのである。さうであれば、假に、條約が優位であつても、憲法と牴觸は起こらないので帝國憲法が無效となつたり破棄される根據はどこにもない。
また、ポツダム宣言の受諾及び降伏文書の調印の時點では、少なくともこのような條約優位説は我が國には存在しなかつたものであり、このやうに解釋される餘地は全くあり得ず、これは「後出しのジャンケン」に他ならない。
さらに、この見解の亞流として、條約優位説と憲法改正無限界説との結びつきを深めて生き延びようとする試みがあるが、いづれにしても帝國憲法の解釋において成り立ち得ない見解である。
ところで、最高裁判所は、條約優位説に立つてゐるのではないかとの見解もある。それは、いはゆる「砂川事件」の大法廷判決(昭和三十四年十二月十六日)において、統治行爲論を採用したことを根據とするものである。これによると、日米安全保障條約は「主權國としてのわが國の存立の基礎に極めて重大な關係をもつ高度の政治性を有する」もので、「一見極めて明白に違憲無效であると認められない限り」司法審査權の範圍外にあるものと判斷したのである。
また、占領憲法第九十八條第一項は、「この憲法は、國の最高法規であつて、その條規に反する法律、命令、詔敕及び國務に關するその他の行爲の全部又は一部は、その效力を有しない。」とし、同第二項は、「日本國が締結した條約及び確立された國際法規は、これを誠實に遵守することを必要とする。」と規定されてをり、第二項では「日本國が締結した條約及び確立された國際法規」には無條件で遵守義務を規定するものの、第一項には、この「日本國が締結した條約及び確立された國際法規」が含まれてをらず、憲法體系の枠外にあるのではないかとの解釋が成り立つことから、最高裁判所は、占領憲法と「日本國が締結した條約及び確立された國際法規」との相互關係において、條約を含む國際法規が優位であると解釋するがゆゑに、統治行爲論を採用したのではないかと考へられるからである。ましてや、日米安全保障條約(舊安保條約)は、桑港條約と同時に締結され、同時に發效した講和條約であるから尚更のことである。
これは、國家主權を連合國の制約下に置くといふ意味に解釋できる可能性がある規定であり、昭和四十三年八月のチェコ事件において、ソ連の軍事介入を正當化するために主張された「ブレジネフ・ドクトリン」といふ「制限主權論」と同樣の構成である。
しかし、最高裁判所は、前掲昭和二十八年判決において、國家の「自然權」を認めてをり、その自然權の意味が他國に從屬したり條約に拘束されるものであるとする「不自然な解釋」がなされるとは到底考へられない。おそらく、統治行為論は、占領憲法第八十一條の違憲審査權の對象に形式上は「條約」が含まれてゐないことからくる司法消極主義によるものと解釋されるのである。
さうであれば、占領憲法は講和條約の下位規範となるものの、その講和條約は帝國憲法の講和大權の授權によるものであるから、帝國憲法を凌駕する地位に位置することはありえないことから、最高裁判所は、①帝國憲法、②講和條約を含む「日本國が締結した條約及び確立された國際法規」、③占領憲法、といふ階層序列を肯定したこととなり、前述した眞正護憲論(新無效論)の階層序列の不等式とは若干異なるものの、帝國憲法、講和條約、占領憲法の順の階層序列となつてゐる點は一致することになるのである。
ところで、占領憲法が憲法ではなく講和條約であることを前提とすれば、前に述べたとほり、「確立された國際法規」については占領憲法に優位するといふ見解(橋本公亘、樋口陽一)や、占領憲法第九十八條第二項を根據として國際法優位の一元論を主張する見解は、當然のことを述べたまでであり、講和条約説と整合性があるものとなり、これを補強することになつても、決して講和条約説と矛盾することはないのである。
正當性説の登場
このやうに有效論である改正無限界説と革命有效説と條約優位説などは、その論理を破綻させて今日に至つてゐる。改正無限界説は死滅したが、革命有效説については、改正限界説と改正無限界説との對立、憲法と革命との相克から逃げ出して、その後、その土壤から新たな有效論(らしきもの)を出現させた。革命有效説の逃げ場所、それが正當性説である。
それは、憲法の名に値するものは、その出自や來歴、歴史や傳統によつて決定するものではなく、その内容と價値體系(國民主權主義、人權尊重主義、戰爭放棄平和主義など)の優越性を意味する「正當性」によつて決定するといふ見解である。革命有效説では、占領憲法は帝國憲法から判斷すれば無效であつても、革命によつて帝國憲法は無效となり、これとは全く別個に新たに成立した占領憲法が有效であるとした。ところが、これには、革命の定義と根據などについて明確な説明ができないといふ致命的な缺陷があつた。そこで、革命に拘ることなく、占領憲法の有效性の根據を直接的に求めようとするのが正當性説である。
しかし、正當性説は、效力要件の要素である妥當性とは異なる「正當性」といふ概念を定立し、效力論に直接には言及しない。つまり、正當性即妥當性ではなく、正當性説即有效論ではないことを自覺するからであるが、占領憲法の效力論とは別個に(むしろこれを度外視にして)占領憲法の正當化に成功すれば、これによつてあたかも占領憲法が有效であるが如き印象を與へることができるとするのである。それゆゑ、これは法律學といふよりも法社會學の範疇における革命有效説の變形であり、有效論らしきものなのである。
確かに、カール・シュミットがいふやうに、憲法についても、「合法性」と「正統性(legitimacy)」の二つ觀點を檢討する必要があり、いままで述べてきたのは、主として占領憲法の合法性に關する有效論と無效論の議論であつた。他方、正統性の概念は、論者によりまちまちであるが、それが政治學、歴史學、文化論など廣範な領域を守備範圍とするために多岐に分かれてゐるものの、少なくとも、その憲法が國家の歴史、傳統、文化などに合致し連續性を有しているか否かといふ要素を含むものであることには疑ひはなく、占領憲法が正統性を滿たさないことは多言を要しない。なほ、ここでは、「正統性」と「正當性」とを音讀で區別するために、前者を北畠親房の『神皇正統記』に倣つて「シャウトウセイ」と音讀し、後者を「セイタウセイ」と音讀して區別したい(相原良一)。
ともあれ、正當性説は、憲法の名に値するものは、その出自や來歴、歴史や傳統によつて決定するものではなく、その内容と價値體系の優越性を意味する「正當性」によつて決するとするのであるから、「正統性」とは別に「正當性」があるとし、「現時点における日本国憲法の正当性と、その出生の正統性とは全く別の問題である」(長谷部恭男『憲法学のフロンティア』)とする見解である。否、むしろ、「正統性」がないことを前提として、それに代はる「正當性」があれば充分であるとする。正統性がないことと正當性があることとは矛盾せず、正當性は結果であつて過程を問はないとするのである。
しかし、これは言葉の遊びにひとしい。つまり、この正當性説は、著しく欺瞞的で、あるいは暴力的で凄慘を極めるやうな憲法制定過程であつても、結果においてその内容が「正當」と判斷できるものであれば有效であるとする「目的のためには手段を選ばない暴力禮贊思想」なのである。これは、ナチスが依據した思想であり、フランス革命におけるジャコバン主義である。正當と判斷する主體は、詐術と暴力を用ゐた者であるから、それは自畫自贊となり、「暴力=正當」とすることになる。しかも、自己の暴力(革命)だけでなく、他者の暴力(征服)もまた「正當」とするのである。
目的が正當であれば、その目的のためには手段を選ばないことを正當として、その實現のための自他の暴力を無條件で肯定すること自體に問題がある上に、その暴力によつて生まれた結果もまた正當であるとする點にも大きな問題がある。暴力から生まれた結果が内容としても「正當」であるといふのは、暴力が正當であることから当然に導かれるのか、それとも、その内容を別個に判斷して導かれるのか、といふことが定かではない。前者であれば、内容の如何を評價するまでもなく「暴力=正當」の公式によつて導かれる。しかし、正當性説は、さうではなく、後者の立場のやうである。單純な暴力禮贊思想であるといふ批判を避けるために、「目的の正當性」の外に、「内容の正當性」といふ要件を持ち出すのである。
しかし、「正當性」といふ概念は、本來は「正統性」の内容を檢討するところから出發した議論であつたはずなのに、正當性説は、歴史、傳統、文化など、正統性の中核に位置する傳統性を全く排除し、單に内容だとか價値體系などの優劣を議論することにすり替へてゐるだけである。
そもそもこのやうな内容と價値の優劣に關する判斷は千差萬別であつてなんら普遍性はない。これまでの悠久の歴史と、これからも續く未來といふ長い時間の中で、「現在」といふほんの一瞬の時點における特定の價値判斷(正當性説の價値判斷)に時代を超えた未來永劫の「普遍性」があるとするならば、そのことを先づ證明しなければならない。
ところが、もし、正當性説が正當であると判斷した價値が普遍的なものであるといふためには、結局のところ、それが將來に向かつて時間的に永續することが確實であるとの確信を前提とすることになるが、それならば、過去からの永續性を根據とする歴史、傳統、文化などに依據した正統性(正當性)の主張を排斥することはできないはずである。
そして、なによりも、内容や價値體系の優劣によつて正當性を決定するといふこと自體に致命的な陷穽がある。この正當性説は、古典的な神學的自然法説に屬する見解である。正當性こそが絶對的正義であるとして「正當で普遍な自然法」といふ信仰的な假説を設定しただけである。それゆゑ、正當性説は、これまでの自然法説と同樣に、その絶對的正義が何ゆゑに絶對的價値を有するのかについて、絶對的價値を有するはずの正當性といふ名の自然法そのものによつて證明できないといふ致命的な矛盾がある。そのために正當性説は、社會科學ではなく神學の領域の見解なのである。
それは、北朝鮮によるいはゆる拉致事件といふ國家犯罪などを題材として具體的に考察することで解るはずである。
たとへば、假に、我が國において極貧の生活をし、仕事もなく社會的には全く活動の場が與へられなかつた人が拉致の被害者となつたとする。しかし、拉致された後には工作員指導教育などの任務が與へられて極めて富裕な生活待遇を受け、本人も拉致によつて我が國で生活することの自由が損なはれたことの不滿はあつたが、極貧生活からの解放とそれなりの仕事と社會的地位を與へられたことを事後になつて好意的に受け入れたとする。そして、いつしか、拉致されたことへの不滿や不安も薄らぎ、北朝鮮で一生暮らすことを決意したとしよう。この場合、正當性説と同じ論理によれば、それまでの經過はどうであれ拉致の前後における生活の内容と水準を比較すれば、拉致後の生活の内容の方が決定的に勝つてゐるので、我が國としても、これを北朝鮮の犯罪だと批判せずに、逆に、北朝鮮に感謝して被害者が拉致されたことを大いに祝福すべきであつて、「拉致」には「正當性」が認められるといふことになる。また、もつと單純な例を擧げるとすれば、親から虐待されてきた貧しい家庭の子供を誘拐し、この子供に愛情をそそいで裕福に育てた誘拐犯についても同じことが云へる。この陷穽はどこにあるかといふと、それは、犯罪の成否と斟酌すべき情状とを混同したことにある。正當性説は、斟酌すべき情状があれば犯罪は成立しないといふ、本末轉倒の見解なのであり、まさに「無理が通れば道理が引つ込む」といふ理論なのである。
やはり、このことからしても、前に述べた「原状回復論」の正しさが再認識されるとともに、正當性説の論理破綻が明らかとなるのであるが、正當性説からは、このやうな批判に對する反論を一切行はうとはしない。正當性説は、いまや革命有效説に代はり、有效論(側)の主流となつてゐる感がある。正當性説の企ては、占領憲法の效力論爭を眞摯に行へば無效論の勝利となるのは必至であるから、效力論爭を沈靜させて決着をつけさせないやうにすることにある。そのために、效力論爭に全く參加せずにこれを黙殺することによつて無效論を封じ込め、あたかも占領憲法が有效であるかのやうな風潮を生み出すことに懸命である。そして、正當性説に立たない全ての憲法學者もこれに同調する。それはなぜか。それは、占領憲法の效力論爭をすることは、占領憲法のコバンザメとしてその解釋で生計を立ててゐる憲法學者全體の利益に反するからである。これはまさに憲法學の自殺行爲であつて、今や憲法學は、自己保身の處世術を驅使する法匪の道具となり果てたのである。
占領憲法の效力論爭といふのは、純粹な法學論爭であつて、「占領憲法が好きだから」とか「占領憲法が嫌いだから」といふやうな感情論や趣味の問題であつてはならない。「占領憲法は好きだけれども、占領憲法は無效なのでこれを否定する。」といふ、泣いて馬謖を斬るが如き態度こそが法學者たるものの矜恃でなければならない。その意味では、我が國に眞の憲法學者は皆無にひとしい。
有效論が復活しうる唯一の論理的な選擇肢としては、革命有效説が絶滅したと思はれた改正無限界説を抱き込んで、改正無限界による「合法的革命」として有效であると主張することである。これは荒々しい主權論同士の結合であり、新たなジャコバンの群れとなる。しかし、これも後出しのジャンケンであり、法匪のなす變節の極みとならう。
憲法は、法匪の專賣物ではない。これまで帝國憲法が「憲法」であるとし、そのことを前提として、その改正の限界があるか否かを議論してきたのに、改正無限界説では説明が付かないことを知ると、今度は、法概念論(法の認識)と法價値論(法の評價)を扱ふ魑魅魍魎、百家爭鳴の「法哲學」の領域に逃げ込み、ついには帝國憲法は「憲法」ではないとして、革命説や正當性説などを編み出してくる。これこそ法匪の法匪たる所以である。
法匪は、これ以外にも樣々な詭辯を用ゐる。たとへば、占領憲法には、「憲法の自律性」があつたとする論法である。それは、「日本國憲法の制定は、不十分ながらも自律性の原則に反しない」(芦部信喜)といふ正當性説の主張である。それは、どんな論法かと云ふと、まづ、憲法制定權力を持ち出し、凡そ次のやうに云ふのである。
「憲法制定權力は法秩序を創造する權力であり、純粹な法的な權力ではない。社會的、政治的な事実の力(實力)である。占領憲法の國民主權とは、この權力の究極の行使者として國民を射程することをいふ。國家權力の正當性の根拠としての一體的國民は、法外(占領憲法外)の概念であり、それを占領憲法内に内包することはできない。内包しうるのは、國民主權による憲法改正權である。法外の國民が法内の國民を支配するといふことである。そして、占領憲法は、この憲法制定權力によつて、不十分ながらも自律性を以て制定されたものであるから、憲法の自律性を有してをり、正當性がある。」と。
しかし、憲法の自律性の原則といふのは、法原則ではなく、政治的要請に過ぎないのであつて、これを以て占領憲法の有效性を議論できないのである。政治的要請を不十分ながらも滿たすので、正當性があると主張しても、それは政治的意見であつて法的根拠とはならない。憲法外にある剥き出しの憲法制定權力を持ち出したとしても、この憲法制定權力については、第一章で述べたとほり、これは同じく法外の「革命」と不可分一體のものであるから、占領憲法が「革命」によつて生まれたことを例証せねばならなくなる。さうすると、やはり、前述した革命有效説の矛盾を抱へることになる。
また、憲法制定權力(革命現象)を社會的、政治的に捉へるとすると、それは紛れもなく連合國による「革命」ある。しかし、その契機とされるポツダム宣言は、連合國に我が國の憲法制定權を与へてはゐなかつた。そこで、連合國が我が國政府を傀儡として占領憲法を制定させたといふことになり、これを以て「革命」を説明するのは、社會的、政治的にも不可能である。やはり、これは「革命」ではなく、第二章で述べた「征服」(デベラチオ)であつて、我が國側には、「革命」も「憲法制定權力」も存在してゐなかつたことになる。
そして、なによりも問題なのは、この憲法制定權力や革命が認められるためには、その權力(實力)に正當性が必要であるとする點である。つまり、正義の革命でなければならないのである。これが滿たされなければ、正當性説は崩壞するからである。ところが、占領憲法の制定過程における社會的、政治的状況は、連合國軍といふ外患を利用して、憲法改正に反対する意見や政府案を排除し、あるいは一般國民に占領憲法制定に關する詳細な事情を全く知らせず占領憲法を制定したといふものである。
このやうな社會的、政治的状況には、本質的に自律性はなく、自律性の存在を十分條件とする正當性をも滿たさないことになることは明らかである。もし、このやうな社會的、政治的状況に正當性があるといふのであれば、後世の國民がこれと同じ手法によつて憲法を制定することを認めなければならない。正當性とは、一回性のものではなく、普遍性がなければならない。ところが、このやうな行爲を現在行はうとすると、内亂罪(刑法第七十七條)、外患誘致罪(同第八十一條)、外患援助罪(同第八十二條)に該當するとして處斷される。この刑法規定は、形式的には下位法規ではあるが、實質的な憲法規範であり、このやうな行爲には正當性がないとする占領憲法秩序が形成されてゐる。「昔は良かつたけれど、今はダメ」といふのでは、普遍的な正當性ではない。占領憲法秩序は、占領憲法制定の手續に正當性がないことを自ら認めてゐるのである。次項で述べるとほり、手續的正義は、實質的正義に勝るとも劣らない重要なものであるから、假に、占領憲法の定める他の原理原則が實質的正義を備へた正當性を持つものであつても、占領憲法には手續的正義を備へた正當性がない。このことから、正當性説は破綻してゐることが證明されたのである。
このやうに、占領憲法の效力論爭に怠惰であつた法匪には、憲法學全般においては專門性を持ち合はせてゐたとしても、占領憲法が無效であるとする論據に反論するだけの知識を持ち合はせてゐない。素朴で健全な批判的精神があれば、憲法學の初學者といへども必ず法匪と論爭して、その邪論を打ち破ることができるのである。
デュープロセス論によるジレンマ
前に述べた法の支配の原則は、一部ではあるが占領憲法にも取り入れられてゐる。そして、この法の支配の内容には、法による正義の實現を目的とする側面をも有してゐることも認識されてゐる。
この「法の正義」といふものは、「實質的正義」と「形式的正義」に分類されるといふ。そして、實質的正義とは、本來、價値が絶對視、絶對化されるといふ保障がなければ成り立ちうるものではなく、現代社會における價値の多樣化に伴つて一義的に定まらない事象が擴大し、今後もさらに相對化することは必至である。しかし、その中でも比較的爭ひのない歴史的かつ傳統的な普遍性のある規範と内容を抽出して、實質的正義の概念は現在も維持されてゐる。
このやうに、實質的正義が重要であることは今更言ふまでもないが、形式的正義の役割もまた近年益々重要となつてきてゐる。この形式的正義といふのは、「自己の權利は主張しながら、他者の權利を尊重しない者」を「惡」とする法理であり、他者を差別的に扱ふ「エゴイスト(二重基準の者)」を惡とするものであるとされ、「等しきものは等しく扱へ」「各人に各人の權利を分配せよ(Ius suum unicuique tribuit)」といふローマ時代から言ひ傳へられてきた人類の知惠であつて、現代においては「クリーンハンズの原則(汚れた手で法廷に入ることは出來ない)(自ら法を守る者だけが法の尊重を求めることができる)」や「禁反言(エストッペル)の原則(自己の行爲に矛盾した態度をとることは許されない)」などとして、英米法のデュー・プロセス・オブ・ロー(due process of law 適正手續の保障)として結實し、占領憲法第三十一條もこれに準據したものと説明されてゐる。
これは世界的に共通した普遍的法理であつて、勿論、我が國においても、「手前味噌」、「我田引水」、「身贔屓」及び「二足の草鞋」を不正義とする歴史と傳統があり、喧嘩兩成敗として、公私、自他、彼此でそれぞれ判斷基準を異にするとの典型的な二重基準(ダブルスタンダード double standard)の主張を排除してきたのは、この形式的正義の理念によるものである。
この實質的正義と形式的正義との關係は、法の正義の理念を車に喩へればその兩輪、飛行機に喩へればその兩翼であつて、いづれが缺けても「法の正義」は實現しえない。そして、この「法の正義」が實現することによつて、「法の支配(國體の支配)」が維持されるのである。この法の正義とは、法の支配の構成要素として「法治主義」に對峙する概念と云へるのである。
ところで、始源的有效論の主流は、占領憲法の基礎となつてゐる英米法の諸原則の理念を信奉してゐる者が壓倒的である。ところが、彼らは、そのお得意のデュープロセスの保障の觀點からしても、占領憲法の制定手續が適正でなかつたことは概ね認めつつも、これを理由として占領憲法無效論を展開する見解には至らないのが全く不思議である。
このことは、正當性説の問題點と連なることであるが、デュープロセスの保障は、占領憲法下では喧しく議論しても、その制定過程については全く議論しないといふ露骨な二重基準(ダブル・スタンダード)に立つてゐるのである。デュープロセスの保障は、あくまでも人權保障に關するものに限定し、人權規定を含む憲法總體の改正についてはこれを除外するという奇妙な考へ方すらある。帝國憲法よりも占領憲法の方が人權保障が強化されてゐるから全く問題にならないといふことであらう。結果がよければどんな手段を使つても許されるといふことである。鼠小僧次郎吉の行爲は、「生活調整」のための所得と所有の再配分行爲として、また、極惡非道の死刑囚を死刑執行の前に勝手に慘殺する行爲は、社會正義の實現として、いづれも無條件で絶贊することになるのであらう。しかし、結果がよければ手段を選ばないといふ考へ方を最も批判して否定するのが、他でもなく、このデュープロセスの保障の心髄であることを忘却してしまつてゐるのである。彼らは、このジレンマに氣付きつつも、無視し續けてゐる。それは、憲法學者を名乘る大學教授などは、占領憲法の「業界」に生きてその「解釋業」營んでゐるために、オマンマの種になる解釋對象である占領憲法自體を否定することは自殺行爲になるので、それが出來ないからにすぎない。
附言すると、デュープロセスの保障では、新たに義務を課し、あるいは權利を剥奪する場合には、特に嚴格で適正な手續を求められることになる。ところが、占領憲法には、帝國憲法にはなかつた教育に關する義務(第二十六條)や勤勞の義務(第二十七條)が規定され、さらには、憲法尊重擁護義務(第九十九條)まである。例へ一部といへども人權條項の義務規定を追加するといふ不利益變更がなされる場合には、やはり嚴格かつ適正な手續によらなければならないのである。にもかかはらず、デュープロセスの保障に違反した占領憲法の制定行爲を全く問題にしないのは、やはり曲學阿世の徒であることの證左に他ならない。
承詔必謹説
承詔必謹説といふ有效論がある。これは、昭和天皇が占領憲法を上諭を以て公布されたことから、聖德太子の憲法十七條の「三に曰はく、詔を承りては必ず謹め。」(承詔必謹)を根據として、占領憲法は帝國憲法の改正法として有效であるとする見解である。また、この見解のやうに、必ずしも意識的に主張するものではないとしても、尊皇の志ある者としては、占領憲法の正統性を否定しつつも、それでもなほ無效論に踏み切れない人々の抱いてゐる漠然とした躊躇の本質を顯在化し代辯したものがこの承詔必謹説であつた。
そして、この見解は、昭和天皇が公布された占領憲法を無效であると主張することは承詔必謹に背くことになり、占領憲法無效論を唱へる者は、みことのりを遵守しない大不忠の逆臣であるといふのである。
しかし、もし、昭和天皇が國體を破壞するために積極的に帝國憲法を否定して占領憲法を公布されたとすれば、占領憲法無效論者を承詔必謹に背く大不忠の逆賊と批判する前に、昭和天皇を明治天皇の詔敕に反する「反日天皇」とし、「反國體天皇」と批判しなければならなくなる。つまり、昭和天皇は、祖父帝である明治天皇の欽定された帝國憲法發布に際しての詔敕に明らかに背かれたことになる。その上諭には、「朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とされてをり、まさに占領憲法の制定は「敢テ之カ紛更ヲ試ミ」たことは一目瞭然であつて、皇祖皇宗の遺訓と詔敕に背かれ國體を破壞されたことになるのである。それゆゑ、この承詔必謹説を主張するものは、昭和天皇に對して、「反日天皇」とか「反國體天皇」であるとの不敬發言を言ひ切る信念と覺悟がなければならない。果たしてその信念と覺悟はありや。
そもそも、ポツダム宣言受諾における昭和天皇の御聖斷は、進むも地獄、退くも地獄の情況の中で、ご一身を投げ出されて全臣民を救つていただいた大御心によるものであり、占領下の非獨立時代での占領憲法の公布は、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」といふ「國體護持の痛み」を伴つたものに他ならない。昭和天皇の平和への強い祈りは、帝國憲法下で即位されたときから始まり、それゆゑに終戰の御聖斷がなされたのであつて、世人の皮相な評價を差し挾む餘地のない深淵な御聖斷なのである。御聖斷の時期がさらに早ければよかつたとしても、そのことが問題なのではない。困難な状況で御聖斷がなされたこと自體が肝要なのである。そして、昭和天皇は、「國體ヲ護持」せんがため、「時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」、日本の早期復興と獨立を實現せんための第一歩として、マッカーサーの指令に服從して、占領憲法を公布せられたのである。畏れ多くも昭和天皇の大御心を忖度いたせば、このやうな場合、ご皇室とともに國體護持の擔ひ手である臣民からその法的な無效を主張することは當然に許されるものである。
「天皇と雖も國體の下にある。」といふ「國體の支配」の法理からすれば、「詔(みことのり)」といふのは、國體護持のためのもので、決して國體を破壞するものであつてはならないし、また、そのやうに理解してはならないのである。ここに詔の限界がある。
このことは、楠木正成の旗印とされた「非理法權天」の釋義によつても説明できる。「非理法權天」とは、一般には、「非」は「理」に勝たず、「理」は「法」に勝たず、「法」は「權」に勝たず、「權」は「天」に勝たずといふ意味であると説明される。これに照らせば、「法」(占領憲法)の「公布」は、「權」(當時はGHQ)の作用であつて「天」(國體)の命ずるところではない。しかも、その「權」は、「非」(非道)から生じたものである。詔敕は、天命(國體)の垂迹であり、他國の軍事占領による非獨立状態での強制や欺罔によつて簒奪されたものは僞敕、非敕であつて眞の詔敕たりえない。
その昔、和氣清麻呂公は、皇統を斷絶させる孝謙天皇(稱德天皇)の敕命に抗して國體を護持せんとしたことから、自らは叡慮に背く背敕の徒とされ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅國に遠島となつた。太宰府の神司である中臣阿曽麻呂が「道鏡を皇位につければ天下泰平となる」との宇佐八幡宮の神託があつたか否かとの眞僞は兎も角も、これにより、道鏡に即位させることを望まれた天皇は、宇佐八幡宮に再度のご託宣を賜るために和氣公を敕使として遣はされたものの、和氣公が「天之日嗣、必立皇緒、無道之人、宜早掃除」(あまのひつぎは必ずこうちょを立てよ、無道の人よろしく早く掃除すべし)と、御叡慮に反する宇佐神宮の託宣が下つたとして天皇に奏上されたところ、その返照は、これが嘘の報告であるとして敕勘を受け遠島となつたが、後にこの詔敕は「非敕」であることが明らかとなつたため、和氣公は復權し、「天皇と雖も國體の下にある。」とする我が國是が遺憾なく發揮された。そして、嘉永四年、孝明天皇は和氣公に「護王大明神」の神號を贈られ、明治七年には護王神社として別格官幣社に列せられたのである。この歴史的事實から、承詔必謹の深層を把握する必要があるのである。
ところで、この承詔必謹説には、次の二つの盲點がある。その一つは、眞正護憲論(新無效論)では、憲法として無效の占領憲法が轉換理論により講和條約として「成立」したものと評價し、その限度で公布は「有效」であるとする點を見落としてゐることである。それは、みことのり自體は否定せず、みことのりの解釋の問題なのである。つまり、承詔必謹説の批判の的は、公布を全否定することになる舊無效論に本來は向けられるものなのである。
二つめは、公布といふ行爲自體が有效であるか無效であるかといふ問題と、公布された占領憲法が有效であるか無效であるかといふ問題とは別の問題であるといふことである。公布行爲自體は有效であるが、公布の對象となつた占領憲法は無效であるとする見解が成り立つのである。
そもそも、「公布」といふのは、成立したとされる法令を一般に周知せしめる行爲であつて、成立したとしても無效である法令が、「公布」によつて有效化させるだけの原始取得的效力(公信力)を有しないことは明らかである。
もし、承詔必謹説を唱へる者が、教條主義的な承詔必謹を振りかざし、占領憲法の公布を「みことのり」であると強辯して無效論を排斥するのであれば、和氣公にも無效論者と同じ批判をするがよい。お祖父さん(明治天皇)の遺言を守るべきか、これに反する孫(昭和天皇)の言葉に從ふかのジレンマに立つたとき、迷ふことなくお祖父さんの遺言を弊履の如く捨て去るがよい。教育敕語なんか糞食らへと云へばよい。「大不忠の逆賊」といふ言葉は、承詔必謹説の教條主義者に熨斗を付けてお返しするものである。
そして、前述したとほり、承詔必謹論は、舊無效論に對しては別としても、承詔必謹を具體化した帝國憲法第七十六條第一項に基づく眞正護憲論(新無效論)に向けることはできない。
また、附言するに、天皇の公布があるから、憲法として無效の占領憲法も憲法として有效となるとする教條主義的な承詔必謹論は、天皇の公布行爲に、無效のものを有效化する創設的效力があると主張することになる。これは、まさしく「天皇主權論」であつて、國民主權論と同じ主權論の仲間であり、國體論とは不倶戴天の關係となる。
ポツダム宣言受諾時の大御歌(おほみうた)は、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」である。また、昭和二十一年の歌會始に賜つた御製は「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」であり、占領憲法施行の大御歌には、「うれしくも國の掟のさだまりてあけゆく空のごとくもあるかな」の一首があり、また、その歳晩には「冬枯れのさびしき庭の松ひと木色かへぬをぞかがみとはせむ」、「潮風のあらきにたふる濱松のををしきさまにならへ人々」の二首がある。さらに、桑港條約發效時の大御歌は、「風さゆるみ冬は過ぎてまちまちし八重櫻咲く春となりけり」、「國の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに」、「いにしへの文まなびつつ新しきのりをしりてぞ國はやすからむ」である。これら一連の大御歌を小賢しく詳細に解説するつもりはないが、ただ一つだけ留意されたいのは、まことに畏れ多いことながら、「國がら」の下に「國の掟」があることを知ろしめされてゐたことは明らかなのである。それゆゑに、眞正護憲論(新無效論)こそが承詔必謹に忠實な憲法論であることの確信が深まるのである。
さらに、第一章で述べたとほり、先帝陛下もまた「天皇主權」を否定してをられたことは、當時の侍從武官長であつた本庄繁陸軍大將の日記(本庄日記、文獻48)でも明らかである。先帝陛下は、天皇機關説を否定することになれば憲法を改正しなければならなくなり、このやうな議論をすることこそが皇室の尊嚴を冒涜するものであると仰せられたとある。天皇主權説は、帝國憲法を否定する學説であり、皇室の尊嚴を冒涜するものであつて、占領憲法の「公布行爲」などに、占領憲法が憲法として有效であることの創設的根據を求める承詔必謹説は、先帝陛下の大御心に反した「天皇主權」論であることを深く自覺すべきである。
二・一ゼネスト問題と五十年問題
このやうに、占領憲法が憲法として有效であるとする見解は樣々であるが、その中でも、革命有效説と正當性説とは、帝國憲法とは隔絶したところで占領憲法の有效性の根據を導こうとするものである。革命有效説は、帝國憲法と占領憲法との間に「革命」の楔を打ち込み、これが帝國憲法の息の根を止めて無效化する根據とするのに對し、正當性説は、「革命」を契機とすることなく、占領憲法の内容などからその正當性を見出そうとするのである。しかし、そのやうな相違があるとしても、占領憲法が有效である根據は、いづれも「國民主權」であるとすることにある。
革命有效説も正當性説も、占領憲法は帝國憲法の改正法ではないとして、帝國憲法と占領憲法とは法的連續性がないとするのであるから、昭和二十一年六月二十三日の「帝國憲法との完全な法的連續性を保障すること」とするマッカーサー聲明は、完全に虚僞であつて國家と臣民の全體を欺いたことを認めることになる。それでも革命があつたとか正當性があつたといふことになるとすれば、詐欺にかかつた主權者が憲法を制定したといふ滑稽なことになつてしまふ。
このやうな見解について、そのいづれの論據にも説得力がないことはこれまで述べてきたとほりであるが、假に、これらの見解に立つとすれば、一體、いつから國民主權を根據とする占領憲法が最高規範としての憲法となつたとするのであらうか。換言すれば、いつから國民主權になつたのかといふ疑問が生まれる。
そもそも、革命有效説も正當性説も、占領憲法を帝國憲法の改正法として認めないのであるから、占領憲法がその手續に基づいて發效する時期とされる「施行時」が占領憲法の發效時とすることの必然性はなくなる。むしろ、その制定過程自體が國民主權に基づくものとして認識するのであるから、遲くとも「制定時」には、占領憲法の制憲權(國民主權)が發動されたといふことになる。革命有效説では、その時期がポツダム宣言受諾時にまで遡ることになるのであらう。
いづれにせよ、遲くとも占領憲法制定時には國民主權が確立したとすることになる。さうすると、制定以後に發生した政治現象が國民主權で説明できなければならないことになる。そこで、特に、我が國が獨立前に經驗した次の注目すべき二つの政治問題については、果たして國民主權の立場からはどのやうに説明できるのか、そして、占領憲法に憲法としての實效性が備はつてゐたのか、さらにまた、占領憲法が最高法規となつてゐたのか、といふことについて檢討してみたい。
その注目すべき二つの政治問題とは、昭和二十二年二月一日午前零時を期して全國全産業の勞働者が統一的に計畫してゐたゼネラル・ストライキ(總罷業、ゼネスト)がマッカーサーの直接命令によつて中止されるに至つた「二・一ゼネスト問題」と、昭和二十五年一月六日にスターリンの率ゐるコミンフォルムがその機關紙を通じて日本共産黨の野坂參三が唱へた「占領下平和革命論」を名指しで批判することにより日本共産黨に對し武裝革命方針をとることを直接命令したことから、これに反發する所感派とこれを支持する國際派との對立情況が生じた「五十年問題」のことである。
これらの事件の詳細は、第二章で述べたが、いづれも占領憲法制定後の占領下において、我が國で結成された「結社」が外國勢力の直接干渉を受けた政治問題である點において共通する。そして、「二・一ゼネスト問題」は占領憲法制定後施行前のものであり、「五十年問題」は、占領憲法施行後のものであつて、いづれも獨立前の占領下のものであつた。
そして、結論を言へば、この二つの政治問題は、國民主權論の試金石となるもので、その當時の、憲法論としての「八月革命説」と、政治論としての「占領下平和革命論」で説明することができる。すなはち、宮澤俊義の提唱した憲法理論としての八月革命説の内容については既に述べたので省略するが、この八月革命説の誕生に先だつて、野坂參三の提唱した政治理論としての「占領下平和革命論」が誕生してをり、これらが車の兩輪の如く、憲法論と政治論の兩面において國民主權論を支へる理論となつてゐたのである。
つまり、野坂參三は、昭和二十一年一月十二日に歸國した直後から、「愛される共産黨」といふスローガンを掲げ、同年二月二十四日の日本共産黨第五回黨大會において、一番の中心問題は暴力革命を避けることであるとし、平和的・民主的な方法で民主主義革命を成し遂げ、さらに議會的な方法で政權を獲得して社會主義革命を實現しうる可能性が生まれたとする「占領下平和革命論」を提唱した。そして、この政治論が後に憲法論として誕生する宮澤俊義の八月革命説の誕生に決定的な影響を與へたはずである。宮澤俊義は、野坂理論を憲法論に應用して、ポツダム宣言の受諾から占領憲法の制定過程を通じて前倒し的に「占領下平和革命」が實現したものと捉へたことになる。いはば、憲法論としての宮澤俊義の八月革命説(宮澤理論)は、政治論としての野坂の占領下平和革命論(野坂理論)を憲法論に模樣替へした、いはば「パクリ」である。
ともあれ、二・一ゼネストが直接統治態樣のGHQ指令によつて直接に中止されたことは、「國民主權」の胎動を否定されたことを意味するのであつて、この二・一ゼネストの決行準備過程と占領憲法制定過程とは同時進行的に重なることからしても、占領憲法は「國民主權」によるものではなかつたことが明らかとなつてくる。つまり、占領下平和革命論(野坂理論)は、まさに國民主權論であつて、それが政治的に流産したことは、とりもなほさず、憲法的にも流産したことを意味するのである。
厳密に言へば、野坂理論(占領下平和革命論)は、「二段階革命論」であつた。第一段階は「民主主義革命」であり、それを踏まへて第二段階である「社會主義革命」に至るとするものである。そして、二・一ゼネストは、まさにこの第一段階である民主主義革命と位置づけられた。ところが、この「國民主權」による民主主義革命がGHQの命令で崩壞したのである。この「二・一ゼネストの崩壞」は、まさに「國民主權の不存在」を證明したことになる。
しかして、ポツダム宣言受諾の昭和二十年八月十四日から占領憲法が公布された昭和二十一年十一月三日までの間のいづれかの時点で「國民主權」による「革命」があつたとする「革命有效説」などは完全に破綻してをり、すべてはフィクションであり「賣國的憲法業者」の戲言に過ぎないことを證明してゐる。
ところが、宮澤理論とその亞流理論は、その後も脈々と生き續けた。他方、野坂理論は、二・一ゼネストの中止と五十年問題といふ二つの政治問題によつて衰退した。兩者の明暗に明確な相違が生まれた原因は、宮澤理論が憲法論であり、戰後社會の主流となる敗戰利得者の利權を一貫として支へ續けてきた理論であつたのに對し、野坂理論には、政治勢力として微弱な日本共産黨の政治論であるといふ限定と限界があり、しかも、五十年問題によつて結果的には武裝革命方針へと轉換してその理論は抹殺され、昭和三十年七月の日本共産黨第六回全國協議會(六全協)において武裝革命方針を放棄して再評價されるまでの間は長く否定され續けてきたといふ事情によるものである。日本共産黨は、當初はGHQを解放軍として評價する程度に敗戰利得者であつたが、その後はレッドパージなどによつて敗戰利得者の地位を喪失してしまつたといふ事情もある。
では、このやうな前提のもとで、まづ、「二・一ゼネスト問題」について考へてみると、この二・一ゼネストに至る過程は、その時期的には占領憲法制定に至る過程と殆ど重なり合つてゐる。政府・議會レベルにおいてGHQとの交渉により占領憲法が制定に向けて進展して行く状況があり、これと竝行して、國民レベルにおいて二・一ゼネストへと國民勞働運動が擴大して行く状況があつた。この二つの状況は、まさに同時進行で推移して行つたのである。そして、一足先に占領憲法が制定され、その施行まで約三箇月と迫つた昭和二十二年二月一日の前日にマッカーサーの中止命令が發令されるまでの社會の樣相は、まさに國民主權論に基づく「占領下平和革命」といふ政治理論に裏付けされたものであつた。
二・一ゼネストの計畫は、全國勞働組合共同闘爭委員會や全官公廳勞組擴大共闘委員會(伊井彌四郎議長)によつて自主的になされたものであり、政府やGHQの關與はなかつた。むしろ、吉田首相が昭和二十二年元旦にラジオ放送で、勞働爭議を行ふ者を「不逞の輩」と發言したことに反發して、その倒閣運動がさらに發展した性質のものである。つまり、この二・一ゼネストの性質は、同年一月六日に、日本共産黨第二回全國協議會において、德田球一が「ゼネストを敢行せんとする全官公勞働大衆諸君の闘爭こそは、民族的危機をますます深めた吉田亡國内閣を打倒し、民主人民政權を樹立する全人民闘爭への口火である。」と吠えたことに示されてゐる。
もし、この時點で國民主權が認められてゐたのであれば、二・一ゼネストは、占領憲法で保障された結社の自由と勞働爭議權に基づくもので、まさに「占領下における平和革命を指向する自發的な國民主權の具體的な發現形態」といふべきものであつた。さうであれば、國民主權の絶對最高性からして、これを強權的に中止させうる權力は理論上存在し得ないはずである。ところが、これが存在したといふことは、憲法論としての八月革命説による國民主權論の破綻であり、かつ、政治論としての占領下平和革命論の敗北を意味するものであつた。
つまり、二・一ゼネストがGHQの中止命令によつて中止させられたといふことは、皮肉なことに、國民主權を認めたはずのGHQによつて、その國民主權が否定されたことを意味する。占領統治は間接統治が原則であつたが、この中止命令は直接統治方式によるものであつて、この事實は、占領憲法の掲げる國民主權よりも上位の權力としてGHQ權力があつたといふことを意味し、占領憲法の掲げる國民主權が實效性を伴はない畫餠であつたことが暴露された瞬間であつた。
次に、「五十年問題」であるが、これは、昭和二十五年一月六日にスターリンの率ゐるコミンフォルム機關紙『恆久平和と人民民主主義のために』が「日本の情勢について」と題する論評を掲載し、野坂參三の「平和革命論」を批判したことに始まる。その論評の要旨は、「野坂の『理論』が、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないものであることは明らかである。本質上野坂の『理論』は、反民主的な反社會主義的な理論である。それは、日本の帝國主義的占領者と日本の獨立の敵にとつてのみ有利である。したがつて、野坂の『理論』は、また同時に、反愛國的な理論であり、反日本的な理論である。」といふものであつた。
しかし、「占領下平和革命論」(野坂理論)は、まさに國民主權論に基づく八月革命説(宮澤理論)を生んだ母體であり、宮澤理論のやうな憲法理論の世界に留まることなく、現實政治の持つダイナミズムの世界において實現しようとする指導的理論であつた。その指導的理論の發現が二・一ゼネストへの道であり、コミンテルン日本支部として發足した日本共産黨が初めて自主獨自路線へと轉換しようとする胎動であつた。これがマッカーサーの二・一ゼネスト中止命令(直接命令)によつて二・一ゼネストは流産し、さらに、五十年問題により、コミンテルンの後身であるコミンフォルムの論評(スターリンの直接命令)によつて自主獨立路線の試みが完全に挫折したのである。
このやうに、これら二つの政治問題は、「國民主權」なるものが法的にも政治的にも「幻想」であつたことを物語つてゐる。二・一ゼネストの共闘委員會はGHQ(マッカーサー)にねじ伏せられて中止され、日本共産黨はソ連(スターリン)に盲從させられて野坂理論を放棄した。
さうであるなら、六全協(昭和三十年七月)で野坂理論を再評價した日本共産黨が、GHQの強制によつて制定されただけで國民主權の手續によつて制定されたものではない占領憲法を有效であるとして肯定するのは論理矛盾となる。つまり、占領憲法は、GHQによる二・一ゼネスト中止命令によつて國民主權の實效性を維持しえなかつたことになるからである。しかも、日本共産黨は、ソ連の命令によつて野坂理論による自主路線を流産させ、ソ連に完全に從屬することとなり、再びソ連共産黨日本支部となり、武裝革命路線を墨守した。これは、日本共産黨が占領憲法を最高法規とは認めてゐないことでもある。日本共産黨にとつての最高法規はソ連(スターリン)の意志である。つまり、日本共産黨は、占領憲法よりも高次の規範として、コミンフォルムの命令があることを認識してゐたことになる。それゆゑ、占領憲法の保障する結社の自由が侵害されたことに對して、被害者意識を持てないのである。また、占領憲法の側から見れば、我が國にある結社の一つである日本共産黨が外國勢力によつてその結社の自由を侵害され、露骨な内政干渉により國民主權を蔑ろにされたことを黙認してきたのであつて、その意味でも、占領憲法は何らの實效性も發揮できなかつた。
從つて、現在において、日本共産黨が占領憲法を最高法規であるとすることは論理矛盾も甚だしいのである。このことは、昭和十四年に、野坂がソ連共産黨に同志の山本懸蔵らにスパイ疑惑があると虚僞の密告をし、山本らをスターリンの大肅清の犠牲にさせて銃殺刑に追ひ込んだことが發覺して、野坂が死亡する前年の平成四年に野坂が日本共産黨から除名されたこととも微妙に關連してくる。つまり、日本共産黨にとつての最高規範は、スターリンの意志であつて、帝國憲法でも、ましてやその改正法であると僞裝された占領憲法でもないことを意味する。そして、武裝闘爭を主導した歴史のある日本共産黨が、今では臆面もなく暴力で自由意思を抑圧することが許されないと主張してゐる。この矛盾に勝るとも劣らないのが占領憲法の容認である。占領憲法はまさに暴力で自由意思を抑圧して制定されたのであるから、日本共産黨を含めた左翼陣營こそ占領憲法の無效を主張しなければ、その理論的破綻は必至となるのである。
