國民主權と象徴天皇制
占領憲法の有效論によれば、「象徴天皇」といふ地位についても、これは「傳統」に則つたものであるとしてこれを是認する見解が驚くほど多い。「昔から天皇は日本の象徴であつた。」とする考へである。つまり、占領憲法第一條では、「天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であつて、この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。」とあり、このうち「この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。」との點は論外であるとしても、天皇が「日本國の象徴」であり「日本國民統合の象徴」とする點は、確かに、天皇と日本國及び日本國民統合との關係がフラクタル構造であることを意味するものであるといへる。
しかし、多くの人々は、占領憲法の象徴天皇といふ制度がいかに不條理なことであるのかを未だに氣づいてゐない。「この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。」といふ「國民主權」であるといふことは、主人が國民であり、天皇を家來とするのであるから、主人(國民)が家來(天皇)を象徴とすることが論理矛盾であるとの自覺がない。たとへば、織田信長の軍團の象徴として、家臣の羽柴秀吉が用ゐてゐる千生瓢箪の馬印を使ふことはあり得ないのではないか。そして、これまでの我が國の歴史において、一度たりとも天皇が臣民(人民)の家臣となつたことはない。それでもこれが傳統の承繼であるとする根據がどこにあるのか。
昭和二十一年六月二十六日、帝國議會の衆議院帝國憲法改正案第一讀會で、衆議院議員北浦圭太郎は、「八重、花ハ咲イテ居リマスルケレドモ、山吹ノ花、実ハ一ツモナイ悲シキ憲法デアリマス」と発言し、占領憲法は「山吹憲法」であると嘆いた。八重咲きの山吹(やへやまぶき)は、花は咲いても實がならない。それと同じやうに、第一條から第八條までの八箇條の天皇條項には、元首たる天皇としての「實」がない憲法であるといふのである。つまり、國民主權下の象徴天皇制(傀儡天皇制)は立憲君主制ではなく、實質的には共和制であると嘆いたのである。そして、北浦は、これに續いて、「山吹憲法ナドト失禮ナコトヲ申シマシテ、或ハ關係筋カラ私ハ叱ラレルカモ分リマセヌガ・・・」と發言するが、この「關係筋」とはGHQのことである。北浦は、GHQが立憲君主制憲法に僞装して共和制憲法を作つたことを「山吹憲法」といふ表現で指摘したのである。
ところで、その昔、崇德上皇は、保元の亂(1156+660)において、後白河天皇と戰つて敗れ、仁和寺で髪を下ろして恭順を示されたが許されず、讃岐に流刑となられた。保元物語によれば、讃岐では佛教に深く傾倒され、恭順の證として、後世の安寧と戰死者の供養のために專心に完成された五部大乘經の寫本に和歌を添へて朝廷に獻上し、都のあたりの寺に奉納されることを願はれた。しかし、すでに治天の君となられた後白河法皇は、寫本に呪詛が込められてゐるのではないかとの疑ひからこれを拒否され、これに從つた朝廷はその寫本を崇德上皇(崇德院)に送り返された。これに激怒された崇德上皇は、舌先を噛み切り、そのしたたり落ちる血を以てその寫本の全てに「日本國の大魔縁となり、皇を取つて民とし民を皇となさん」「この經を魔道に回向す」と誓状を書きしたためて海に沈められ、その後は爪や髪を伸ばし續け、夜叉のやうな風貌となつて失意のうちに讃岐で崩御された。
この「皇を取つて民とし民を皇となさん」といふ、天皇と臣民との逆轉は、それから約四百五十年後に、徳川幕府が禁裏を拘束する『禁中竝公家諸法度』となつて顕れる。その後の『禁裏御所御定八箇條』も同じである。明治天皇も孝明天皇の御遺志を受けて崇德上皇の鎭魂にこころを碎かれ、京都に白峯宮(現・白峯神宮)を創建された。ところが、さらに、天皇を家來とし國民を主人とする占領憲法が出現することによつて崇德上皇の怨念は成就したと云へる。
それゆゑ、祖國再生のためには、崇德上皇の御靈の鎮魂と修拔を第一歩とし、その上で占領憲法の無效宣言をなして國民主權といふ傲慢不遜な政治思想から解放される道を歩むことしか殘されてないのである。
ともあれ、占領憲法における象徴制の意味するところは、「象徴の現在性」であつて、「象徴の永續性」を意味しない。國民主權下で、最高位の國民に從屬する下位機關である天皇が日本國と日本國民統合の現在的な象徴であるとするだけで、「萬世一系の皇統」といふ國家の永續性を意味する象徴ではない。
そのために、占領憲法では、主權者である國民が天皇に對する尊崇の念を抱いて行動する義務は規定されてゐない。占領憲法では、ご主人樣である主權者の國民に對し、家來である天皇に尊崇の義務を課してゐない。もし、國民に天皇を尊崇する義務を課すのであれば、占領憲法にその義務規定がなければならないし、そもそもそのやうな義務を課すことは、占領憲法の趣旨に反する。法律でそのやうな義務を課すとすれば、それは占領憲法違反となる。つまり、國民主權の占領憲法の解釋からすれば、國民に天皇尊崇の義務があるのではなく、天皇は日本國と國民統合の象徴として振る舞ふ義務があるのである。占領憲法が憲法として有效であるとすれば、天皇に對する不敬行爲は、これを禁止する規定がないので許されることになる。それゆゑに、不敬罪は廢止された。天皇は占領憲法第九十九條に定める憲法尊重擁護義務が課せられた義務者であつても、國民はその義務者として定められてゐないからである。
このやうに、多くの人々は、占領憲法の象徴天皇制がいかに不條理なことであるのかを未だに氣づいてゐない。主人(國民)が家來(天皇)を象徴とすることの論理矛盾と、その實質が「象徴制」ではなく「傀儡制」であるといふことなのである。
その一例として、指摘すべきものとして内奏問題がある。首相その他の閣僚が天皇に國勢の報告(内奏)をすることが占領憲法では可能なのか、といふ問題である。
現在もなされてゐるが、いづれにせよこれは口外無用といふ不文律がある。
昭和四十八年、當時の防衞廳長官增原惠吉は、内奏に關して天皇が「防衞の問題は難しいが、國を守ることは大切だ。舊軍の惡いところは見習わないで、いいところを取り入れてしっかりやってほしい。」とのお言葉を賜つたとマスメディアに漏らしたことから、「天皇の言葉を引き合ひに、防衞力增強を合理化しようとしてゐる。」との批判を浴びて更迭されたことがある。天皇は、この事件を受けて「もうハリボテにでもならなければ」とご嘆息されたといふ(『入江相政日記』)。これこそが傀儡天皇といふことを意味してゐるのである。
そもそも、祭祀性(神祕性)と政治性を喪失した占領憲法の象徴天皇制といふのは、共和制への下り坂へ一歩踏み出したといふ位置付けがなされてゐる。その兆候は明治のころから顕れてゐる。福澤諭吉は、『福翁百話』の中で、共和制が文明的であつて君主制は文明國としては民度が低いものと決めつけてゐるのである。文明とは野蠻なものである(南洲遺訓)。その野蠻な文明を是とする者こそ野蠻人である。我々は野蠻人となつて天皇を「傀儡」に陷れて滿足なのか。今では、皇位繼承についても、皇室には何らの發言も提案もできない。そのやうなことをされれば、皇室典範といふ法律の改正案について容喙することになるので、「國政に關する權能を有しない」とする占領憲法第四條に違反すると批判されることになるからである。一般の家庭で、もし、そこまで國に干渉されれば、文句も言ひたくなり、人權侵害だと口さがなく大騷ぎするだらう。そして、もし、大騷ぎすると、そのことが憲法違反とされるとしたら、これに唯々諾々とする人が果たして居るのだらうか。
皇室には、臣民の家族の有樣とは異質の原理と傳統がある。皇統連綿を維持するために、正妃である皇后に皇子がなければ、嫡出外の皇子を皇嗣としなければならなかつた。直近の皇統を見ても、後桃園、光格、仁孝、孝明、明治までの五代の天皇は、いづれも嫡出の皇子に惠まれなかつた。正妃に皇子を得た天皇は、明治天皇の六代前の桃園天皇まで遡ることとなり、裕仁親王(後の昭和天皇)は皇室において百四十年ぶりの嫡出の皇子だつたのである。それほどにまで皇嗣を得ることは一大事なのである。
軍事占領下の非獨立時代に第二の憲法とも言はれた皇室の家法である明治典範が廢止され、御皇室の自治と自律を剥奪して拘束するための法律である占領典範が制定された。これは、元和元年(1615+660)の『禁中竝公家諸法度』(行幸禁止、拜謁禁止)よりも嚴しい内容であり、帝國憲法における天皇大權は全て剥奪された上、皇族の自治、自律は完全に剥奪され、皇室財産は全て没收され、さらに、皇族の皇籍離脱が強制されるなど、占領典範は明らかに「皇室彈壓法」であり、この象徴天皇の制度は、「傀儡天皇」の制度といふべきものである。
そもそも、「象徴」といふ言葉は、ギリシャ語のシュンボロン(割符)を語源とする譯語であるとされてゐるが、いづれにせよ、象徴とは、何らかの目印となる「物質」を意味するに過ぎない。さうであるならば、天皇を物質扱ひされ、傀儡化されたことをどうして是認することができるといふのか。
このやうなことは社會風潮においても益々拍車がかかつて蔓延してゐる。人類のエゴのために他の動物が大自然の中で生存できる環境を奪つておきながら、動物保護の名目で野生動物を捕獲し、「動物園」といふ動物隔離虐待施設に強制收容して見せ物にし、これが動物の仕合はせであると勝手に判斷してゐるのが現代社會である。そして、犬や猫などのペットについても、家畜との「共生」ではなく「同化」の傾向が著しくなり、ペットに服を着せ、美容院でセットさせて化粧までさせてゐる惚けた飼主の自己滿足な風潮も蔓延し、いまやこれを支へて助長する關連事業が經濟にまで組み込まれてゐる。これは、「動物園の極小化」の現象である。
動物に對してもこんな無慈悲なことを平氣でし續けて感覺が麻痺してしまつてゐるから、だんだんと天皇、皇族に對しても不敬、不遜な傾向に陷つてしまふのである。皇室から自治、自律を奪ひ、對外的には外見上の知と美のみを強調するだけの象徴天皇制は、實質的には傀儡天皇制に他ならない。三島由紀夫は、これを「週刊誌天皇制」と云つた。不敬の極みではあるが、いはば「天皇ペット論」である。しかし、先帝陛下と皇族に、これほどまでの「敗戰責任」をご負擔していただくだけの「戰爭責任」があつたと言ふのであらうか。この傀儡天皇制は、まさに天皇を政治利用する究極的な政治形態に他ならない。
東京裁判(極東國際軍事裁判)は、戰勝國が裁いたものであるから、我が國が自主的に戰爭責任の所在について獨自に裁判すべきであるといふ言説があるが、もし、それを本氣で主張するのなら、その前に、「冤罪」であることが明らかな皇籍離脱を強制された舊皇族の原状回復(皇籍復歸)を早急に實現しなければ嘘になる。天皇は勿論、皇籍離脱を強制された舊皇族こそが敗戰による最大の犧牲者であり、國民が最大の敗戰利得者である。もし、そのことを眞摯に認識するのであれば、「皇籍離脱」の原状回復を怠る國民は、「國籍離脱」を甘んじて受けなければならないはずである。
「天皇は國家のために存し給ふものに非ず」(杉本五郎)。これを肯定するか否かが「眞正保守」(傳統保守)と「似非保守」(戰後保守、占領保守)との相違である。尊皇、皇統護持、國體護持の絶對性を認める國體論に依據し、占領憲法を無效とするのか。あるいは、皇統斷絶、廢止が可能な主權論に依據し、占領憲法を有效とするのか。これは、單に學説の相違ではなく、國家觀の相違である。
そもそも、保守と革新、右翼と左翼、といふ區別は意味をなさない。區別することに意義があるものとしては、①國體論か主權論か、②占領憲法について無效論か有效論か、といふ點であり、畢竟、眞正保守(傳統保守)とは、尊皇と皇統護持を含む國體護持及び帝國憲法眞正護憲論(新無效論、講和條約説)による「國體護持派」(祓庭復憲)であり、そのいづれか一つでも缺損した考へは全て「國體破壞派」として區別することで充分である。
敗戰責任
ここで、「敗戰責任」といふ用語の定義は、大東亞戰爭に敗戰したことによつて受けた不利益、すなはち、「敗戰による不利益」といふ意味に用ゐることとする。決して、法的責任と道義的責任といふ意味ではない。
その意味からすれば、國民は、國民主權といふ傲慢な權利と數多くの基本的人權を占領憲法によつて取得したので敗戰責任はなかつた。敗戰責任どころか、戰勝國の國民の扱ひと見紛ふが如き敗戰利益者となつた。しかし、その一方で、天皇、皇族が敗戰責任を負はれたことは明らかである。敗戰により、皇室の家法である皇室典範(正統典範)を廢止され、天皇、皇族から一切の自治と自律を奪つた同名の皇室彈壓法(占領典範)が制定され、帝國憲法で定められた天皇大權のすべてを剥奪された上、皇室財産が没收され、皇籍離脱の強制がなされ、「象徴」といふ名の「傀儡」となつたからである。
このやうに、「敗戰責任は國民にはなく天皇皇族にあり」との結論が明確に出てゐるのに、いつまでも戰爭に至る「原因」に關して、天皇に「戰爭責任」があつたか否かを喧しく議論するのは、まるで、判決を執行をした後に、その被告人不在のまま裁判をして有罪か無罪かを審理すること以上に不合理かつ無意味なことである。
そして、敗戰による不利益を被つた皇室とは對極のところに「敗戰利得者」がゐる。それは、先帝陛下の御聖斷によつて救はれ、その後は國民主權なるものを振りかざして占領典範といふ皇室彈壓法を制定した「國民」である。「怨みに報ゆるに德を以てす」ではなく、「恩を仇で返す」不義の姿がそこにあつた。
戰爭責任
戰前に共産黨から轉向した林房雄は、戰後に著した『大東亞戰爭肯定論』(昭和三十九年)の中で、「われわれは有罪である。天皇とともに有罪である!」とし、「天皇もまた天皇として戰つた。日本國民は天皇とともに戰い、天皇は國民とともに戰ったのだ。・・・日清・日露・日支戰爭を含む東亞百年戰爭を、明治・大正・昭和の三天皇は宣戰の詔敕に署名し、自ら大元帥の軍裝と資格において戰った。男系の皇族もすべて軍人として戰った。東京裁判用語とは全く別の意味で戰爭責任は天皇にも皇族にもある。これは辯護の餘地も辯護の必要もない事實だ。」とした。しかし、林がここで云ふ「責任」とか「有罪」といふのは、法的責任ではなく、「敗戰による不利益の受容」といふ意味での「敗戰責任」の意味であるはずであつて、思ひ込みが激しく言葉足らの表現であつたことは否めない。
また、左翼的な立場からは、天皇の戰爭責任を追及したものは頗る多く、近年においても、アメリカのハーバート・P・ビックスがその著書『昭和天皇』(邦譯・講談社)の中で、昭和天皇は單なるお飾りではなく、政治意思を持つた最高權力者であつたとしてその戰爭責任を肯定した。
マッカーサー回顧録によれば、昭和天皇は、「私は國民が戰爭遂行に當たって政治、軍事兩面で行ったすべての決定と行動に對する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸國の採決にゆだねるためにおたずねした。」も述べられたとある。そして、これに對しマッカーサーは、「私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り盡くしている諸事實に照らして、明らかに天皇に歸するべきではない責任を引き受けようとする、この勇氣に滿ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。」と述懷してゐる。これは外務省公式記録などとの相違はあるが、ここでの「責任」といふのは「敗戰責任」のことである。
「戰爭責任」といふ概念は、その範疇においても、法的、政治的、社會的、教育的、人道的などの多岐に亘り、また、「戰爭」の概念も、開戰から講和に至るまでのどの時點を意味するのかといふことや、「責任」の概念も、行爲責任であつたり結果責任(無過失責任)であつたりして一義的ではなく、ここではそのすべてについて言及することはできない。私は、これらの戰爭責任といふ概念のうち、情念を拔きに考察できる領域として、前に「敗戰による不利益」といふ意味での「敗戰責任」(結果責任)について述べたので、ここでは開戰から講和に至るまでの戰爭の全事象における「法的責任」について述べることにする。
國際法上の責任
まづ、法的責任の場合、初めに押さへておかなければならないことは、どの法規が適用されるのかといふ「準據法」の問題である。この準據法を度外視して議論することは論理性を失ひ、議論にはならないからである。これは、今までの多くの議論において缺落してゐた觀點である。
この前提に立つとき、そもそも、國家には、戰爭の對外的な法的責任といふことは原則として「國際法」上あり得ない。對外的責任は國際法及び講和條約に準據することになるからである。戰爭は武力を以て行ふ外交行爲であり、國家には戰爭をする權利(交戰權)が國際法上認められてゐる。パリ不戰條約においては、「自衞戰爭」を認め、正確には「攻撃戰爭」ないしは「積極戰爭」(war of aggression)とすべきところを「侵略戰爭」といふ譯語として定着させたのは反天皇主義學者の橫田喜三郎である。ともあれ、パリ不戰條約では、この「侵略戰爭」の禁止を謳ふが、自衞戰爭であるか侵略戰爭であるかは、相手國や第三國に認定權があるのではなく、その國に侵略戰爭であるか否かを判斷する自己解釋權があるとされる。そして、大東亞戰爭は、これを「自存自衞」の戰爭として行つたのであるから違法な戰爭ではあり得ない。國家が國際的に違法な行爲をしてゐない限り、その戰爭を決斷し、遂行してきた國家機關に屬する個人には何らの責任も問はれない。つまり、「國家は國家を裁けない」とする原則がある。それゆゑ、東京裁判においてA級戰犯として有罪としたのは、國家(連合國)が國家(我が國)を裁いた趣旨ではない。これに限りなく近づけた政治的演出であつて、これは「裁判」としての法的な意味での戰爭責任ではなく、講和の條件としての政治責任を意味する。
つまり、ポツダム宣言第十項において、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は國民として滅亡せしめんとするの意圖を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戰爭犯罪人に對しては、嚴重なる處罰を加へらるべし。・・・」とあつたが、これは極東國際軍事裁判(東京裁判)を正當化する根據とならない。しかし、これが桑港條約の條件(第十一條)となつて本土の獨立を回復したので、これを「裁判」とすれば違法であるが、講和の條件(敗戰による不利益の受容)としては有效である。そして、天皇はこれに含まれず不訴追と決定したことから、いかなる意味においても天皇に講和の條件としての法的責任はなかつたことになる。
附言するに、ソ連は早々と天皇不訴追方針を決めてをり、昭和二十一年四月三日には極東委員會は天皇の戰犯除外を決定した。それは、敗戰前に既に決められたもので、昭和十九年に延安にゐた野坂參三がアメリカ政府から延安に派遣された使節團(ディキシー・ミッション)と接觸し、「われわれは天皇打倒のスローガンを回避する」と申し入れ、これがアメリカ本國に傳達された。野坂がモスクワのコミンテルン勤務から延安に移動した後のことであり、この方針はソ連の方針であつて、野坂はそれを單に傳達したに過ぎない。なぜ、ソ連がその參戰前から、來るべき我が國の敗戰後に天皇不訴追方針を決めてゐたかといふと、それは野坂の意見が採用されたからである。野坂の意見は、根強い天皇崇拜意識下の我が國において、天皇の處罰(處刑)と天皇制の廢止を求める運動を展開することは大衆から完全に遊離してしまひ、革命が遠のく結果となつてしまふとの現状分析と、天皇個人の退位と天皇制の廢止とを區別し、天皇制廢止への第一歩として天皇の退位を求めていくといふ運動を展開するものであつた。イタリアでは、昭和十九年六月に、國王の退位、皇太子の即位、王制の廢止による共和制の樹立といふプロセスを經たことが野坂の主張のヒントとなつた。そして、野坂は、昭和二十一年一月十二日に歸國して、既に釋放されてゐた德田球一と志賀義雄らと日本共産黨の路線をめぐる協議をしたが、德田と志賀は、天皇個人と天皇制との區別は承認したものの、天皇退位論も運動論として時期尚早として日本共産黨の方針としては退けられたといふ經緯がある。野坂が延安で接觸したアメリカの使節團のメンバーの多くはいはゆる「中共派」で容共勢力であり、ルーズベルトとトルーマンが率ゐる民主黨政權が容共的體質であつたことの證左でもある。ちなみに、昭和二十年七月二十三日付でOWI(戰時情報局)日本部長のジョン・フィールズが野坂に感謝状を送つてゐることが公開文書から明らかになつてゐる。このことは、日本共産黨が主張するやうに、野坂が二重スパイであつたとする根據にもなり得るのであるが、むしろ、東西冷戰構造の始まりにおいて、米ソが天皇不訴追といふ共通した結論を同床異夢として抱いてゐたといへるのであり、「ヤルタ密約」に野坂が關與してゐたのではないかと推測させる事實と云へる。さうであればこそ、日本共産黨がマッカーサー率ゐるGHQを「解放軍萬歳」して占領を受け入れたことの説明がつく。謀略の限りを盡くす日本共産黨が輕率に「解放軍萬歳」と叫んだとは考へられないからである。これを「輕率」だとか「失言」だと評價して揶揄することだけで滿足することは、日本共産黨の陰謀の歴史を隱蔽することに手を貸す結果となる。これはまさに日本共産黨の本音であり、實相であつて、この點についてのさらなる解明が必要となる。
無效論の場合における國内法上の責任
では、國際法的には問題がないとしても、國内法的にはどうなのか。
開戰から講和までの一連の國家行爲は、帝國憲法第十三條の宣戰大權と講和大權、同第十一條の統帥大權及び同第十二條の編制大權に基づくものであることはこれまで説明してきた。それゆゑ、占領憲法が無效であるといふ前提に立てば、この問題は極めて簡單である。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」といふ同第三條の無答責の規定から當然に天皇には法的責任、政治的責任を含む一切の責任はないといふことである。これは、帝國憲法の本質において、立憲君主制か專制君主制かといふ解釋論爭があり、そのいづれに重きを置いて天皇大權の行使の態樣を解釋するか否かといふ問題や、天皇が開戰から講和に至るまでどの程度關與されたかといふ客觀的事實も、あるいはそのときに聖上がどのやうなお考へであつたかといふ内心的事實などとは全く無關係に、法的かつ政治的な天皇の無答責は成り立つからである。
始源的有效論の場合における國内法上の責任
これに對し、占領憲法が有效であるとする見解に立つとすれば、占領憲法第九條第二項後段で「交戰權」が認められないことを前提とした議論がなされなければならない。また、有效論であつても、始源的有效論か後發的有效論かによつて、また、そのうちの樣々な見解によつても、それぞれの場合に分けて檢討しなければならないことになる。
つまり、天皇の戰爭責任を檢討するについては、前に述べた如く、その準據する憲法がどの時點でいづれの憲法なのかといふこと、すなはち、憲法とは帝國憲法なのか占領憲法なのか、具體的には占領憲法の效力論から檢討した上でなければ正確な結論が出せない。つまり、前述のとほり、無效論であれば、帝國憲法第三條で無答責の結論に達するが、有效論ではこれと樣相を異にするのである。
では、まづ、始源的有效論によると、そのいづれの説であつても、占領憲法制定時において帝國憲法は效力を失ふが、そのときまでの天皇の責任は、やはり帝國憲法第三條で無答責となり、占領憲法制定後の責任について議論することになる。尤も、八月革命説のやうに、「停戰」と同時に帝國憲法が失效したとすると、占領憲法制定までの間は「憲法の空白」が生まれる。しかし、占領憲法第百條には、「この憲法は、公布の日から起算して六箇月を經過した日から、これを施行する。」との不遡及の規定があることから、「革命時」まで遡及しないことになる。もし、これを革命時まで遡及させ、あるいは帝國憲法が失效してゐない開戰の時期まで遡及させて天皇の戰爭責任を議論することは、それこそ占領憲法に違反する見解であり、自己矛盾を來すことになる。
ともあれ、始源的有效論の場合は、占領憲法制定後から戰爭状態が終結する桑港條約の發效までの間は、占領憲法が適用されることになるので、天皇には國政に關する權能を有しない(第四條)ことからして、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印後の停戰状態(戰爭状態)に關する責任はやはり問へない。天皇が降伏文書の調印後に何もしなかつたといふ不作爲責任を問ふとしても、まづ、そのやうな事實があつたか否かはさておき、そもそも國に交戰權が認められてをらず、しかも、占領憲法第四條によつて、その作爲義務も作爲可能性もない天皇に對して不作爲責任を法的に問ふことは法理論上絶對に不可能である。つまり、作爲義務が肯定される場合は、作爲の必要性と作爲の可能性の雙方が認められることが前提であるが、占領憲法においては、天皇は内閣の助言と承認によつて國事行爲を行ふのみであつて、全ての責任は内閣にあるので、天皇には、作爲の必要性も作爲の可能性もないからである。それゆゑ、始源的有效論(革命説、承詔必謹説など)では、やはり天皇には戰爭責任はないとの結論が導かれる。
なほ、附言するに、前にも述べたが、帝國憲法下では、概ね立憲君主的な有權解釋がなされ、慣例的に、天皇は拒否權(ヴェトー)を行使できず、上奏された事項について疑問や不審の點があれば御下問を繰り返して暗に御内意を傳へることしか許されず、これが天皇の「作爲」の限界であり、天皇に開戰を阻止し、かつ早期に停戰を實現しうる作爲の可能性はなかつたのである。
後發的有效論の場合における國内法上の責任
次に、後發的有效論の場合は、占領憲法がいつ有效になつたかによつて個別に檢討する必要があるが、その時期を桑港條約の發效時(昭和二十七年四月二十八日)とすると、これと同時に戰爭状態は終結すると同時に、それまでは帝國憲法が效力を有してゐたといふことになるので、やはり帝國憲法第三條で責任はない。また、桑港條約の締結時(昭和二十六年九月八日)から占領憲法が有效となるとすると、やはりそれまでは帝國憲法第三條の問題であり、締結から發效(昭和二十七年四月二十八日)までの七か月餘の間の責任を檢討することになる。しかし、この間は、やはり國に交戰權もなく占領憲法第四條で天皇に責任がないことになるので、結論的には同じである。その他の後發的有效論に屬する有效説も、有效化した時期に若干の相違があつたとしてもほぼ同樣の議論となり、いづれの見解であつても、その論理的檢討過程は異なつても結論的には始源的有效論と同じことになる。
退位問題
ところで、敗戰による不利益の受容といふ點に關して、天皇の退位に關して議論されたことがあつた。しかし、これは決して、退位すべき義務があるといふ意味での「戰爭責任」を意味しない。そのやうな意圖で議論されたことがあるが、それは感情論であつて論理性はない。なぜならば、正統典範は勿論、占領典範にも退位の規定も退位の義務を定めた規定もない。從つて、退位の義務のないところに退位責任は存在しないのである。
實のところ、先帝陛下は、過去三回に亘つて退位の意向を表明されたことがある。一回目は、敗戰直後に、自ら退位することによつて敗戰國の責任を一人で負へないか、と木戸幸一内大臣に漏らされたが、木戸がこれに反對した。その理由は、GHQに退位の意圖が誤解され、あるいは皇室の基礎に動搖があると誤解されることになるのではないかとの理由からであつた。その後、アメリカの國務・陸軍・海軍三省調整委員會の極東小委員會は、天皇が自ら退位し、かつ訴追する正當な理由がある場合には、天皇を戰爭犯罪人として逮捕し裁判にかけるべきであるとする意見書が提出されたことからすると、木戸の豫測は正しかつたことになる。二回目は、東京裁判の判決を控へた時期である。A級戰犯に對する判決に合はせて自らも退位といふ形で責任を取りたい、といふ意向を表明されたが、退位による混亂を恐れたマッカーサーの反對があつて撤回された。三回目は、講和條約調印直前の昭和二十六年秋のことである。巣鴨プリズンに服役中の木戸が宮内廳式部長官松平康昌を介して、皇祖皇宗と戰犯を含む國民に對する敗戰責任として退位されることが皇室を中心とする國家的團結に資するのではないかと内奏し、天皇もこれに受け入れて希望されたが、吉田首相の贊同が得られず見送りとなつた。
このやうに、結果的に退位されなかつたことは重大な意義がある。それは、「火のない所に煙は立たぬ」といふやうに、もし、退位なされれば、何らかの非があつたとの憶測を生むことになるからである。また、退位の制度がないので、單なる假定の話ではあるが、東京裁判開廷前の訴追可能な時期に退位されて上皇となられたならば、「天皇訴追」といふ事態が回避され、上皇のご身分として訴追がなされる危險が大きかつたといへる。その意味からも最後まで退位されなかつたことは國體不變の意味からも誠に喜ばしい限りであつた。

