背理法による證明
このやうに、「獨立」の概念と領土問題を考察してくると、我が國が「分斷國家」であることが見えてくる。そこで、さらに「分斷國家」の問題と占領憲法とがどのやうな關係にあるのかについて檢討し、領土的視點による眞正護憲論(新無效論)のさらなる根據を説明する。それは、沖繩縣、小笠原諸島、奄美群島、北方領土、竹島が我が國の領土でありながら、北海道、本州、四國、九州とその周邊からなる占領憲法制定當時の「本土政府」による實效支配がなされてゐなかつた事實についての憲法的考察であつて、以下では、沖繩縣以外の領土については省略し、沖繩縣について集中的に掘り下げることによつて、この問題の所在を浮き彫りにしたい。具體的には、「背理法(歸謬法)」による眞正護憲論(新無效論)及び國體論が眞正であることの證明であり、それは、占領憲法が無效であるとする立場の根源的な認識である「國體論」を否定し、有效論が肯定する占領憲法の「主權論」を眞正であると假定すれば、そこから導かれる矛盾した結論を明らかにすることによつて、眞正護憲論(新無效論)及び國體論の眞正を證明し、有效論及び主權論の不眞正を證明することにある。
占領憲法制定への道
我が國が、沖繩戰を死力戰として戰ひ、本土決戰まで覺悟せねばならなかつたのは、從來までの近代戰爭における講和條件が、領土の割讓や賠償金負擔、それに軍備の縮小までであつたのに、昭和十六年八月の『英米共同宣言(大西洋憲章)』では「敗戰國の武裝解除」まで求めてゐたためであつた。完全武裝解除は將來における自衞權の完全放棄となり、國體の護持が危うく、國家滅亡に至る驚天動地の要求であるとの我が政府の判斷は當時としては當然のことである。從つて、その延長線上のポツダム宣言を直ちに受諾することはできず、最終的にこれを受諾するまでに愼重な討議や檢討のため然るべき日數を要したとして、それを單なる逡巡であるとして非難することできない。つまり、來るべき講和條件の受諾において、國家の滅亡を回避するための讓歩を少しでも得るために、沖繩戰を戰ひ拔き、その強い抵抗を示し、もつて讓歩を求め、それでも讓歩が得られないときは本土決戰といふ決死の覺悟をしてでも國家滅亡を回避せねばならなかつた政府の苦惱と沖繩縣民の痛みは、沖繩防衞軍の大田實司令官の「沖繩縣民かく戰へり。縣民に對し後世特別の御高配を賜はらんことを」との最後の言葉に凝縮されてゐる。
それでもなほ、昭和二十年七月二十六日のボツダム宣言は、右の英米共同宣言(大西洋憲章)と同十八年の米英中共同宣言(カイロ宣言)とを繼承し、「日本軍の無條件降伏」と「日本軍の完全武裝解除」を條件とするものであつた。このまま受諾すれば沖繩の犧牲が無駄になつてしまふとの我が政府の逡巡に對し、問答無用で敢行されたのが昭和二十年八月六日と九日の廣島・長崎の原爆投下であつた。
かくして、我が國はポツダム宣言を受諾した。
ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印は、帝國憲法第十三條の講和大權に基づいて締結された講和條約の總論的な入口條約であつて、その各論的な取り決めが連合國側でいふ保障占領期間を經て具體的に確定したのが桑港條約であつた。
桑港條約第一條には、「日本國と各連合國との間の戰爭状態は、第二十三條の定めるところによりこの條約が日本國と當該連合國との間に效力を生ずる日に終了する。連合國は、日本國及びその領水に對する日本國民の完全な主權を承認する。」とあり、桑港條約が效力を生ずる日まで、我が國と連合國とは「戰爭状態」にあつたことが確認された。つまり、その間になされたGHQの我が國になした行爲は、いづれも戰爭の繼續としてなされたものであつて、その間において連合國が築いた最大の橋頭堡は、極東國際軍事裁判(東京裁判)の斷行と占領憲法の制定であり、さらに占領政策全般の要諦となつたのは、『ポツダム緊急敕令』(昭和二十年敕令第五百四十二號『ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件』)であつた。
ポツダム宣言第十項には、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は國民として滅亡せしめんとするの意圖を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戰爭犯罪人に對しては、嚴重なる處罰を加へらるべし。日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」とあり、その前段が東京裁判斷行の、後段が占領憲法制定のそれぞれの根據とされた。しかし、これらはいづれも連合國側の恣意的な解釋であり、前段の「一切の戰爭犯罪人」の中に、國際法において確立されてゐた罪刑法定主義に違反し、新たに事後法を制定して遡及的に處罰するといふ國際法無視の東京裁判を容認する解釋などは成り立ちえない。また、後段の「一切の障碍」の中に帝國憲法を含ましめるといふのも到底成り立ち得ない牽強付會の解釋であつた。
ところが、GHQは、占領開始後間もなくこれらに着手した。その經緯の詳細は、第二章で述べたが、その概要を示すと次のとほりである。
昭和二十年九月四日に第八十八回帝國議會が開催され、同月二十日、占領政策の要諦となる『ポツダム緊急敕令』が公布され、同年十月十一日に、マッカーサーが幣原喜重郎首相に帝國憲法の改正を嚴命し、幣原はこれに屈服して受け入れたことが嚆矢となり、このことから我が本土政府は占領憲法制定への道を歩み出すのである。同月十三日に國務大臣松本蒸治を中心とする憲法問題調査委員會を設置することを閣議決定し、同月二十五日に同委員會が發足され、その後『憲法改正要綱』(松本案)が作成される。また、これと平行して、同年十一月二十七日開催の第八十九回帝國議會においてポツダム緊急敕令の承諾議決がなされ、同年十二月十七日、衆議院議員選擧法の改正(婦人參政、大選擧區制など)がなされていつた。そして、本土政府は、松本案をまとめ、これを翌昭和二十一年二月八日にGHQに提出して發表する豫定のところ、發表前の同月一日に毎日新聞が松本案を素つ破拔いてその内容をスクープとして發表したため、國策に重大な惡影響を及ぼした。この松本案は、天皇が統治權の總攬者であること、 議會の議決事項の範圍を擴充し大權事項をある程度削減すること、國務大臣の責任を國務の全般に及ばしめること、臣民の自由および權利の保護を擴大することの所謂「松本四原則」をもとに作成されたものであるが、これが素つ破拔かれて報道されたことから、これを知つたマッカーサーは即座に民政局に對してGHQ草案の作成を指示した。本土政府は、豫定通り同月八日に松本案をGHQに提出したが、GHQは、同月十三日にこの松本案を拒否すると同時に、占領憲法の原案となつた『GHQ草案(マッカーサー草案)』を強制し、「これを最大限に考慮し」て日本側に新たな案を作成するように命じたのである。しかし、本土政府は、我が國の國情からして、松本案以外に道はないとの結論に至り、同月十八日に松本案の補充説明書をGHQに提示し松本案の再度の受け入れを願つたが、GHQは、にべもなく峻拒し、あまつさへ、GHQ草案を受け入れなければ、天皇の地位を保障できなくなることや、言論統制下にある新聞社を使つて直接に國民にGHQ草案を公表するなどと強迫した。本土政府は、その後、同年三月二日に修正案(三月二日案)を提出するが、GHQはこれも拒否し、これ以上は待てないとして、「最終案」を作成のための共同研究會を開催することを嚴命した。本土政府は、ついにGHQに脅從して、同月六日、共同研究會で決定した「最終案」の字句に若干の修正を加へただけの『憲法改正草案大綱』をGHQの指示により天皇の敕語を添へさせて國民に發表し、同年四月十七日、この憲法改正草案大綱を口語體にした『憲法改正草案』が内閣で作成され、これが占領憲法案となつた。
そして、同年四月十日には第二十二回總選擧が實施され、同年五月三日に極東國際軍事裁判が開廷される中での同年六月二十日に第九十回帝國議會で憲法改正案を衆議院に提出され、同年八月二十四日に衆議院で修正の後に可決され、貴族院へ送付。同月二十六日には貴族院での審議が開始し、同年十月六日に貴族院で修正のち可決、再度衆議院へ送付されて翌七日に衆議院で貴族院送付案を可決、樞密院の審議へ入つた後、同年十一月三日に占領憲法が公布され、翌昭和二十二年五月三日に占領憲法を施行するといふ手續がなされてきたのであつた。
分斷國家の占領憲法
このやうな經緯は、前にも述べたとほり、占領憲法が無效である根據を基礎付けるものであるが、沖繩縣がこの一連の占領憲法の制定において完全に排除されて行つた經過事實について何ら觸れられてはゐない。 沖繩縣は、特別の御高配を賜はるどころか、その後、本土とは分斷され、占領憲法の制定手續においても完全に排除されたのである。
すなはち、翌昭和二十一年一月二十九日、GHQは『若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに關する覺書』を發し、同年三月に憲法改正を審議する議員を選ぶための總選擧から沖繩縣などを排除することを指令し、同年二月にはこれに基づき内務當局をして、來る總選擧は沖繩縣などの地域に及ばないと言明なさしめた。かくして、我が國は、本土と沖繩縣とに分斷され、本土にのみ適用される占領憲法の制定をGHQから強要され、本土政府は分斷國家への道を歩み出したのである。
しかし、このことは、假に、主權論に基づいて考察すれば、占領憲法は我が國本土にだけに適用される分斷國家の憲法といふことになる。占領憲法には、領土に關する規定がないことから、その範圍は不明確ではあるが、制定時の状況からして、沖繩縣が除外されてゐないとする根據も存在しないので、この本土限定の占領憲法が、いつ、どのやうな根據により、どのやうにして本土返還後の沖繩縣にも適用されるに至つたのかといふ疑問が生じてくるのである。
このことについて、沖繩社會大衆黨の安里積千代委員長は、昭和三十七年十月の沖繩社會大衆黨臨時大會において次のやうな挨拶を行つて問題提起を行つてゐた。
「・・・日本は占領から解放されて獨立を回復しました。・・・その獨立の陰に沖繩縣を分離して米國に施政を委ねるという民族の悲劇がかくされております。平和條約は憲法第六十一條によって國會の承認を受けています。然しその國會には當時(今もそうでありますが)沖繩は參加しておりません。憲法第九十五條には一つの地方公共團體のみに適用される特別法はその地方公共團體の住民の投票において過半數の同意を得なければ國會はこれを制定することはできないと規定しております。勿論條約の承認ということは多少意味は違いますけれども日本の法律の下から沖繩を除くということは沖繩のみに適用される特別法を制定する以上に住民にとっては重大なことであります。このような拘束力をもつ條約の承認に當って國會は沖繩縣民に諮らず、その意志に反し、沖繩代表も參加しない國會において議決されたということは當時の事情は諒とするに致しましてもその非は爭えないのでありまして政治的責任を感ずべきであります。加うるに重要な國會法から沖繩縣を除いております。民主國家の國民としてもつ參政權を規定する國會法や公職選擧法から沖繩の定員を除き選擧法の別表から沖繩縣を削除しているのがその好例であります。」
この安里委員長の挨拶は、前々年の昭和三十五年に沖繩縣祖國復歸協議會が結成され、前年の昭和三十六年四月二十八日には二萬人が參加したとされる那覇での祖國復歸縣民總決起大會などの祖國復歸運動の高まりの流れの中でなされたものである。
このころの沖繩は、琉球政府の行政府の長として「行政主席」が置かれてゐたが、實質上の最高權限は米國民政府がすべて掌握し、行政主席の權限はその制限下にあつた。そして、立法機關についても、同じく米國民政府の制限下で設置された琉球政府の「立法院」があつた。
そして、行政主席の任命については、昭和三十二年から昭和三十六年までの間は、立法院の代表者に諮つて米國民政府が任命することとなつてゐたが、昭和三十七年から昭和四十年までの間は、米國民政府の受諾できる者を立法院が指名することとなり、その後、昭和四十三年までは立法院議員による間接選擧制、さらにその後本土復歸までは、住民による直接選擧制へと變遷した。
そのやうな變遷の中で、行政主席を立法院が指名することになつてゐた昭和四十年十一月十四日の第七回立法院議員總選擧の歸趨は重要であつた。この結果は、與黨民主黨が過半數を確保して行政主席を指名することができたのであるが、これには、アメリカの強い選擧干渉があつたことが平成八年になつて判明してゐる。その具體的な内容としては、米國のライシャワー駐日大使(當時)らがこの立法院議員總選擧において與黨民主黨を勝たせるために、本土の自民黨を經由して多額の選擧資金を極祕に據出したことが祕密指定解除の米國務省文書で判明したのである。
それどころか、新安保條約を締結するに至る伏線となつた本土における昭和三十三年の衆議院總選擧において、アメリカCIAから自民黨に對し、祕密資金が注入され、それがこの立法院議員總選擧のころまで繼續的に注入されてきた事實や、本土における民社黨(民主社會黨)にもアメリカCIAの資金が昭和三十五年から昭和三十九年まで據出されたとされてゐる。ましてや、日本共産黨や日本社會黨がソ連(コミンテルン)から革命工作等の祕密資金が提供され續け、日本社會黨に至つては、その幹部がアメリカからも資金の提供を受けてゐたことがあり、本土と沖繩の政黨の殆どには、「獨立」の二文字はない。米ソの冷戰をそのまま國内に持ち込まれて、政黨の獨自性とか獨立國家の體を成してゐなかつたといふことである。
それゆゑ、この安里委員長の問題提起について云へば、本土政府の占領憲法の制定から、桑港條約、さらに、昭和四十七年五月十五日に沖繩返還が實現し沖繩縣が發足するまで、否、その後においても、占領憲法を有效とする國民主權論の側からはこの問題提起に對して今もなほ何らの應答もなされてゐないことに加へて、そもそもこのやうな政治状況から判斷すれば、獨立國とは言ひ難く、從つて、占領憲法の實效性はなかつたと云はざるをえないのである。
琉球政府の主權
國民主權主義によれば、沖繩縣民を除外し本土の一部國民のみによつて成立した本土政府の占領憲法が沖繩縣民を直接に拘束することはあり得ない。占領憲法第十條には、「日本國民たる要件は、法律でこれを定める。」とするのであり、占領憲法制定時には、沖繩縣民の全ては參政權を行使し得ないのであつたから、沖繩縣民を占領憲法における選擧民團としての國家機關たる「國民」としては認めてゐなかつたといふことになる。もし、沖繩縣民も占領憲法で主權を享有する「國民」であるとすれば、一部の國民を意圖的に除外した占領憲法は、國民主權によつて制定されたといふことはできず、革命有效説と正當性説からすれば「憲法」としては無效であるといふことになる。
沖繩が領土として返還されただけでなく、アメリカの施政權下にあり制限的ながらも桑港條約の發效直前に三權分立の縣民による自治機關としての琉球政府が設立され、昭和四十三年十一月十一日には初の公選による琉球政府主席が選出されてゐた「琉球政府の國民」が「本土政府の國民」となるといふ現象は、その事情と來歴を異にするとしても、法的には、我が國とその保護國であつた大韓帝國との日韓併合(明治四十三年)に類似したところがある。ところが、後者は、當事國の併合(合邦)條約によつて成立したが、前者は、日米間の沖繩返還協定(性質は條約)で實現したもので、琉球政府と本土政府との併合條約によるものではない。
國民主權論によれば、その主權の範圍は、邦域たる領土的範圍と主權歸屬者たる人的範圍によることになるが、沖繩縣と沖繩縣民がこれから除外され、しかも、制限的ながらも沖繩縣下で「縣民主權」が實施されてきた琉球政府は、主權國家と認められるはずである。それゆゑ、本土政府と琉球政府との一體化は、それぞれの獨立を維持した連邦制か、一方の獨立を否定する吸收併合又は雙方の獨立を否定して新國家を成立させる新設合併(對等併合)のいづれかによることになる。そして、琉球政府は、本土政府との連邦制ではなく、本土政府に吸收される吸收併合を選擇したのであるから、琉球政府としては、主權國家の消滅と縣民が本土政府下の國民になることに關する縣民の合意がなされた上で、本土政府との間で併合條約が締結されなければならない。ところが、そのやうな手續はなされてゐない。ここに占領憲法の國民主權論が抱へる第一の矛盾がある。
本土政府の殘存主權
この合邦現象については、本土政府に、沖繩縣及び沖繩縣民に對する「殘存主權(濳在主權)」があることを以て説明する見解がある。この殘存主權とは、「residual sovereignty」の譯語であり、國際法上確定した用語ではなく、桑港條約第三條の解釋として登場したものである。つまり、桑港條約第三條には、「日本國は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)竝びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆國を唯一の施政權者とする信託統治制度の下におくこととする國際連合に對する合衆國のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆國は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に對して、行政、立法及び司法上の權力の全部及び一部を行使する權利を有するものとする。」とあり、これに基づき米國の信託統治として沖繩における立法、司法、行政權以外の、領土の最終的處分權が我が國に歸屬してゐるとの説明として、この殘存主權なる概念が用ゐられたのである。
ところが、ここにも國民主權論の矛盾が露呈する。國民主權は、「絶對」、「最高」、「無制限」であるとする定義からして、そもそも殘存主權なるものが成り立つ餘地はない。「制約された絶對的なもの」といふのは、あたかも「一匹狼の集團」、「無所屬クラブ」などといふ矛盾の典型に他ならず、主權概念自體を矛盾崩壞に導くからである。
この矛盾を回避するために、主權概念の相對化を主張し、國民主權における主權の概念と、領土の最終處分權としての主權の概念(領土主權)を區別したとしても、やはり本土政府が保有するとする沖繩に對するこの殘存主權(領土主權)なるものは、主權の通有性である絶對、最高、無制限からは遠い内容である。ここには、處分の對象となる領土(沖繩)だけの要素しかなく、人的要素が全く無視されてゐる。その領土(沖繩)に生存する縣民は、領土(沖繩)の附屬物ではない。沖繩と沖繩縣民とは不即不離の不可分一體の關係にあり、もし、本土政府が沖繩についての領土の最終處分權を行使し、これを米國に割讓したとすれば、沖繩に生存する沖繩縣民の國籍は剥奪され、又は、米國への歸化を強要し、あるいは本土への移住を強制することになるのである。これは、本土政府が主權の歸屬者たる國民全體の部分集合體である沖繩縣民の生殺與奪の權利があると解釋して、主客轉倒の結果に至る。これは、領土を「主物」とし、住民(沖繩縣民)を「從物」とし、「從物は、主物の処分に從う」(民法第八十七條第二項)といふ論理を用ゐて、住民(沖繩縣民)を領土(沖繩縣)の附屬物とすることに他ならない。これは國民主權論の自殺行爲に等しい。ここに占領憲法の國民主權論が抱へる第二の矛盾がある。
桑港條約
占領憲法第六十一條によれば、「條約の締結に必要な國會の承認については、前條第二項の規定を準用する。」とあり、前條二項には、「豫算について、參議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、兩議院の協議會を開いても意見が一致しないとき、又は參議院が、衆議院の可決した豫算を受け取つた後、國會休會中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を國會の議決とする。」として、豫算と同樣に衆議院の優越性を規定してゐる。
これに對し、法律の場合は、占領憲法第五十九條第一項に、「法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、兩議院で可決したとき法律となる。」とし、同第二項には「 衆議院で可決し、參議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多數で再び可決したときは、法律となる。」とし、豫算と條約の場合とその態樣を異にするものの、ここでも衆議院の優越性を認めてゐる。
このやうに、衆議院の優越を規定するのは、參議院よりも衆議院の方が國民主權における一般意志を正確に反映してゐるとの認識によるものだとされてゐるからである。
そして、同第五十六條によれば、第一項で「兩議員は、各々その總議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。」とし、第二項で「兩議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半數でこれを決し、可否同數のときは、議長の決するところによる。」として、法律、豫算、條約については、いづれも通常の多數決原理によるものとしてゐるので、國民主權主義の立場からすれば、法律、豫算、條約の規範的價値は同等と認識することになる。
ところで、法律については、同第九十五條で「一の地方公共團體のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共團體の住民の投票においてその過半數の同意を得なければ、國會は、これを制定することができない。」と地方自治特別法に關する規定を設けてゐるが、豫算、條約にはそのやうな規定はない。法律においてこのやうな規定があり、豫算にこのやうな規定がないのは、この規定が特定の地方公共團體に特別の不利益を課す場合を想定したものであつて、歳費の支出を定める豫算により特別の不利益が課せられることは想定しえないからである。しかし、條約の承認の場合はさうではない。現に、桑港條約において、沖繩縣などは米國の施政權下に置かれるといふ不利益を受けたからである。これは法の不備であつて、國民主權主義の立場からすれば、當然にこの場合にも占領憲法第九十五條が類推適用されるべきであつた。ところが、本土政府は、沖繩に對する領土主權(殘存主權)を主張しながら、これを行はなかつたのである。これこそが、前述の安里委員長の問題提起であり、ここに占領憲法の國民主權論が抱へる第三の矛盾がある。
本土復歸前の國政參加
本土政府は、沖繩の本土復歸前の昭和四十五年、沖繩から衆參兩院議員を選出させ國政に參加させた。將來の本土復歸の準備として沖繩の民意を本土政府の國政に反映させることにあつた。しかし、これは確かに政治的には意義のあることかも知れないが、果たして主權論からして、どのやうに評價されるのであらうか。
國民主權主義からすれば、沖繩縣民は、琉球政府の主權者であり、かつ、本土政府の國政參加が認められたことにより本土政府の主權者としての地位も與へられたことになる。つまり、二重國籍であり、在外外國人に參政權を付與したことになる。しかし、そのやうな手續は一切なされてゐないし、國民主權主義からすれば、このやうなことを斷じて許してはならないはずである。ここに占領憲法の國民主權論が抱へる第四の矛盾がある。
沖繩返還協定
昭和四十六年六月十七日、日米間で『琉球諸島及び大東諸島に關する日本國とアメリカ合衆國との間の協定』(沖繩返還協定)が調印され、昭和四十七年五月十五日、本土への復歸、沖繩縣の復活が實現する。
この沖繩返還協定といふ「條約」の性質は、講和條約と一般條約との中間的な形態のものである。つまり、これは、対米戰爭(大東亞戰爭)の戰爭状態が桑港條約の發效によつて終了して獨立を回復した後の條約であることから一般條約とも云へるが、桑港條約第三條において確定した我が領土の事後的な返還合意といふ意味においては、桑港条約を基本條約とする附随條約(派生條約)といふ關係にあることから、講和條約の性質を有してゐる。それゆゑ、沖繩返還協定を締結する權限を占領憲法から導くことができない理由については前章で述べたとほりである。
これは、昭和二十八年十二月二十四日の『奄美群島に關する日本國とアメリカ合衆國との間の協定』、昭和四十三年四月五日の『南方諸島及びその他の諸島に關する日本國とアメリカ合衆國との間の協定』(米國との小笠原返還協定)と同樣に、桑港條約第三條に基づく米國の施政權などすべての權利及び利益を日本國のために放棄するといふ内容において共通するものである。
ともあれ、この沖繩返還協定は、日米間の條約であつて、日琉間の條約ではない。主權論の立場からすると、前述のとほり、國民主權の本土政府と琉球人民主權の琉球政府との併合(合邦)條約ではないから、沖繩は本土に復歸してゐないことになる。ただし、革命有效説や正當性説からすれば、沖繩に對する殘存主權(濳在主權)を主張することなく、沖繩の住民を除外して本土の住民だけで革命が起こり、その正當性が確立したと構成することもできるから、假に、本土だけに限定すれば占領憲法が有效であると再構成することもできる。つまり、それによると、本土は沖繩と分離して占領憲法を制定し獨立したとすることができるのである。さうすると、「本土復歸」の時點では、本土では占領憲法による國民主權の本土政府が沖繩とは無關係に成立したことになる。そして、沖繩の場合は、本土とは獨自の經過を辿る。それは、帝國憲法下の沖繩縣(大日本帝國)から、GHQ占領下となつて、制限的ではあつても琉球人民による人民主權の琉球政府へと移行したことになる。しかも、革命有效説であれば、第三章で述べたとほり、この現象は、有りもしない「天皇主權」から「國民主權」へと「主權委讓」がなされたと見ることになる。 それでは、いつ、主權者の變更がなされたのか。
昭和二十七年四月二十一日米國民政府布告第十三號により琉球政府設立が布告された同月二十九日に「革命」があつたとするのか(以下「昭和二十七年革命説」と假稱)。または、初の公選による琉球政府主席が選出された昭和四十三年十一月十一日に「革命」が起こつたとするのか(以下「昭和四十三年革命説」と假稱)。あるいは、日米間で沖繩返還協定が調印された昭和四十六年六月十七日に琉球政府は獨立し、本土復歸が實現した昭和四十七年五月十五日に琉球政府は消滅(滅亡)したとして、昭和四十六年六月十七日の主權者は琉球政府の琉球人民、昭和四十七年五月十五日の主權者は本土政府の日本國民へと二段階の「革命」が起こつたとするのか(以下「二段階革命説」と假稱)。
これは、占領憲法の效力論爭における「沖繩版」である。
また、沖繩返還協定では、沖繩縣下の米軍基地が存續することとなつたが、昭和二十七年革命説や昭和四十三年革命説であれば、沖繩返還協定時には沖繩人民が主權者であり、存續の決定主體は琉球政府といふことになり、本土政府ではない。二段階革命説においても、遲くとも本土復歸時には琉球政府は獨立してゐたのであるから、本土政府に對して、米軍基地提供者としての地位の承繼をする合意とその履行が必要となるが、そのやうな事實はない。これらの經過は、國民主權主義からでは全く説明がつかない。
ここに占領憲法の國民主權論が抱へる第五の矛盾がある。
新憲法制定
沖繩返還協定は、日米間においては沖繩の本土復歸の條約であるが、その本土政府の國内的效果としては、占領憲法下における領土の擴大と國家構成員の擴大をもたらした。
そして、歴史的に見ても、分斷國家状態にある我が國において、その重要な部分の解消の一つである(全面的解消ではない。)。
これとの關係で參考にすべきはドイツの例である。
ドイツにおいては、昭和二十四年に『西獨基本法』が成立し、西獨と東獨が成立。昭和三十年に『パリ條約』が發效し、西獨は主權を取得してNATOに加盟。同時に、東獨はワルシャワ條約機構に加盟。翌昭和三十六年に「ベルリンの壁」が構築。昭和四十七年に東西兩獨が基本條約を締結して關係正常化。翌昭和四十八年に東西兩獨が國連に加盟。平成元年十一月に「ベルリンの壁」開放。翌平成二年七月に兩獨通貨・經濟・社會同盟發足。同年九月に兩獨間の『統一條約』發效。同年十月三日統一といふ經過を辿つた。
ドイツ統一の過程において、西ドイツの基本法(『ドイツ連邦共和國基本法』。俗に『ボン基本法』)第百四十六條に基づき新憲法の制定を行つて統一する方法(併合方式)と、統一ヨーロッパを實現するためにヨーロッパ連合の設立に關する同基本法第二十三條に基づいて同基本法を改正して西の諸州に東の五州が編入される形をとるといふ方法(連邦編入方式)が存在したが、實際には後者の方法による統一がなされた。
いづれにせよ、これは基本法の改正を伴ふものであり、ドイツがこれを「憲法」(Verfassung)と呼ばないのは、分斷國家には眞正な憲法といふものはありえず、統一までの「さしあたり」(zunachst)のものであるとの認識によるものである。そのことは、ボン基本法第百四十六條に、「この基本法は、ドイツ國民が自由な決斷で議決した憲法が施行される日に、その效力を失ふ。」と規定してゐたことからも明らかである。
このドイツの例と比較すれば、我が國の地方自治は連邦制ではないので、沖繩縣の復歸は併合方式といふことになり、新憲法を制定しなければならなかつたはずである。
そもそも沖繩縣民と本土の都道府縣民とをその人數や面積の差異を以て優劣を論ずることはできない。ましてや、主權論によれば、琉球政府と本土政府といふ分斷國家の統合であるから、本土政府の下で制定した占領憲法をそのまま復歸後の沖繩縣及び沖繩縣民に適用させることはできない。前述の地方自治特別法(占領憲法第九十五條)の場合ですら、住民投票で可決することが要件であつて、ましてや主權者の擴大的變動があつた場合であるから、憲法については、その變動後の新たな主權者によつて新たに制定されなければならないのである。
しかも、それは、沖繩縣民だけの追認決議だけでは足りない。國民主權は、個々の國民に分有するのではなく、全體として一個の主權であるから、本土において占領憲法について贊意を表してゐる個々の國民であつても、改めて參政權を行使して新たな憲法の制定を求めることができる。つまり、參政權は、個々の利益を追求する「自益權」ではなく、全體の利益を求める「共益權」だからである。このやうに、國民主權主義によれば、沖繩の本土復歸は國民主權を否定する事態であつたことになる。
ここに占領憲法の國民主權論が抱へる第六の矛盾がある。
國内系と國際系の區別
以上のとほり、背理法により、國民主權論の矛盾を明らかにし、國民主權論の誤りが證明された。嚴密に言へば、國民主權論による占領憲法の妥當性と實效性が否定されたといふことである。つまり、國民主權論の立場に立てば、本來ならは、分斷國家を併合する際においてなされるべき手續がなされなかつたし、占領憲法の謳ふ國民主權に基づき運用されてゐないので、占領憲法はその實效性を缺き憲法としては無效であるといふことである。
このやうに、分斷國家について考へるとき、そこには、單に國内法だけでは解明できないことに氣付く。日本列島が海に圍まれてゐるが如く、國内である國土は直ぐに海から諸外國の國際領域に接してゐる。そして、この國内系の法體系と國際系の法體系とは、それぞれ別個の原理と適用範圍で成り立つてゐる。附言するに、この國内系と國際系の區別は、これまで述べてきた「主權」概念の「二義性」に對應するものである。國家最高の意思決定といふ意味での「主權」概念はまさに「國内系」であり、対外的獨立(主權國家)といふ意味での「主權」概念は「國際系」のことである。
そこで、以後においては、國内系に屬する法體系と、それに接してゐる國際系に屬する法體系との關係について、前章で述べた區別を踏まへて、さらに檢討することとする。
占領統治下に制定された法令の性質
これまで、占領憲法及び桑港條約の公布に伴ひ、帝國憲法下及び占領統治下に制定された法令が、獨立回復後にどのやうな效力があるかについては樣々な議論があつた。とりわけ、占領時代の『占領目的阻害行爲處罰令』(昭和二十五年政令第三百二十五號)が講和獨立後にどのやうな效力があるかについての論爭は、これに關する大きな示唆を與へてゐる。そして、このやうな論議に關する有權解釋として一定の見解を示したのが、『日本國憲法施行の際現に效力を有する命令の規定の效力等に關する法律』(昭和二十二年四月十八日法律第七十二號)及び『日本國憲法施行の際現に效力を有する敕令の規定の效力等に關する政令』(昭和二十二年五月三日政令第十四號)であつた。
このうち、法律第七十二號の第一條には、「日本國憲法施行の際現に效力を有する命令の規定で、法律を以て規定すべき事項を規定するものは、昭和二十二年十二月三十一日まで、法律と同一の效力を有するものとする。」とあり、政令第十四號には、「日本國憲法施行の際現に效力を有する敕令の規定は、昭和二十二年法律第七十二號第一條に規定するものを除くの外、政令と同一の效力を有するものとする。昭和二十二年法律第七十二號第一條に規定するものを除くの外、日本國憲法施行の際現に效力を有する命令の規定中『敕令』とあるのは『法律又は政令』、『閣令』とあるのは『總理廳令』と讀み替えるものとする。」とされてゐたのである。
つまり、これらの法令により、「法律事項を規定した命令」を「法律」と、「敕令」を「政令」と、いづれも同一の效力を有するものとし、「ポツダム緊急敕令」に基づき發せられた命令(ポツダム命令)の效力は占領憲法施行後も維持されることになつたのである。
しかし、法律事項を規定した命令は、たとへ帝國憲法第八條の「法律ニ代ルヘキ敕令」である「ポツダム緊急敕令」に基づくものといへども、この緊急敕令は命令に對して法律事項の白紙委任を定めてゐたため、帝國憲法下の解釋においても「絶對無效」である。從つて、この無效な命令を法律とするためには、手續的には、一旦その命令を全部廢止し、その上で同樣の内容の法律を制定せねばならない。しかし、前掲昭和二十二年法律第七十二號は、その法律制定手續をもつて、明示的に、無效な命令を有效な法律に轉換させたのである。このことは、公法における「無效規範の轉換」を立法措置の方法によつて明確に肯定したことによるものと理解できる。
そして、さらに、桑港條約の發效時においても、同樣な處理がなされる。つまり、占領統治時代において制定された法令は、桑港條約が發效した日と同日に施行された『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件の廢止に關する法律』(昭和二十七年法律第八十一號)によつて、昭和二十年九月二十日に公布(即日施行)された『「ポツダム」宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件』(昭和二十年敕令第五百四十二號)が廢止され、連合國占領軍の郵便物・電報・電話の檢閲に關する件など占領統治のために制定された法令などは、時際法的に處理されて消滅し、それ以外の占領統治時代に制定された法令は、その後も國内系の規範として存續することとなつた。しかし、これらの法令は、すべて國内系のものと理解してよいのであらうか。
確かに、これらは占領統治のために、形式上は國内系の法令として制定されたが、いずれも講和條約群である入口條約(ポツダム宣言、降伏文書)、中間條約(占領憲法)、出口條約(桑港條約、舊安保條約及びその繼承である新安保條約)といふ連合國との一連の講和條約を履行するために制定されたものであるから、占領憲法が國際系であるのと同樣、これらの占領統治目的の法令もまた國際系の存在と判斷できる。
しかし、占領統治中に占領政策の實現のためにGHQの指示で制定された法令がすべて國際系であるとは限らないし、その線引きは難しい。ところが、桑港條約發效と同時に時際法的に處理された法令は、それまで國際系に屬するものであつたとしても、その後はすべて國内系に屬することとなつた。それが時際法的處理の經緯であつた。
國際系法令の國内系への編入
一般に、國際系に屬する法令(條約)を國内系に屬する法令(憲法、法律など)へ編入する場合には、次の二つの方式があるとされる。一つは「立法方式(變型方式)」であり、他は「承認方式(一般的受容方式)」である。前者は、國内法秩序への編入のためには、條約を法律へと變型させるための立法措置を必要とするものであるのに對し、後者は、立法措置までを要求せず、議會その他の政府機關の承認で足るとするものである。我が國は、前記のとほりの時際法的處理として立法方式を採用してゐたことになる。
しかし、このことは、現在、占領憲法第九十八條に關する議論として、一元論か二元論か、そして、國内法秩序への編入についての立法方式(變型方式)か承認方式(一般的受容方式)といふ議論とは無縁であることに注意しなければならない。ここで問題にしてゐるのは、その占領憲法自體を受容する場合の議論であり、次元を全く異にするものだからである。つまり、占領憲法施行時と桑港條約發效時においては、一元論や承認方式(一般的受容方式)によらず、紛れもなく、二元論と時際法的處理を採用して國内法秩序への編入がなされたのであるから、占領憲法施行後での議論をここで持ち出して混同させることはできないのである。
從つて、我が國が獨立に際して立法方式の時際法的處理をしたことは、次の二つのことを明確にしたことになる。すなはち、第一に、我が國が立法方式を採用してゐたことは、國内法と國際法とは別個の法體系であり「二元論」に立つてゐたこと、そして、第二には、非獨立占領下に制定された一切の法令については獨立回復後に時際法的處理を行ふ必要があるとしてゐたこと、の二點である。
このやうな捉へ方に對しては、前記のやうな時際法的處理は、あくまでも占領下の國内系の法令を獨立回復後の法令としての效力を認める否か、認めるとしてもどのやうな法令として認めるのか、といふ國内系の法令に關する處理であつて、國際系の法令を國内法秩序に編入するといふ性質のものではないといふ批判が考へられる。確かに、法形式からすれば、獨立回復時を境にして、國内系の法令をこれと同じ法令として確定させ、あるいは他の法令に轉換させる手續であるから、そのやうな批判がありうることは一應理解できる。しかし、もし、國内系の法令同士の問題であれば、獨立回復前と雖も、最高法規である占領憲法施行後に、改めてそのやうな處理がどうして必要なのかといふ再批判にどう應へることができるのだらうか。
しかも、一般に言はれてゐる國際系の法令の國内系への編入といふのは、その編入の前後において國家が連續して「獨立」を維持してゐる場合に適用される論理であつて、非獨立状態から獨立状態へ移行する際になされる場合までを全く想定してゐないからである。
我が國には、これまで、①入口條約(ポツダム宣言の受諾、降伏文書の調印)締結前、②入口條約締結後、占領憲法制定前、③占領憲法制定後、占領憲法施行前、④占領憲法施行後、桑港條約締結前、⑤桑港條約締結後、桑港條約發效前、⑥桑港條約發效後(獨立後)といふ六段階を經てきたが、このうち、前記の時際法的處理がなされた法令は、②から⑤までの段階で制定された法令といふことになる。
假に、占領憲法が最高規範としての憲法として有效であれば、それは④の段階で突然有效となるのではなく、③の段階の始期(占領憲法制定時)から適法に成立してゐなければならず、③の期間に成立した法令は、占領憲法に準據したもののはずであるから、時際法的處理は全く不要のはずである。嚴密には、この③の期間は、占領憲法が成立したものの、施行前であることから、その效力の發效前、つまり、成立未發效の状態であるが、現に、③の期間には、占領憲法の施行を前提として、占領典範、内閣法、參議院議員選擧法、請願法、衆議院議員選擧法、教育基本法、學校教育法、日本國憲法施行の際に現に效力を有する命令の規定の效力等に關する法律、應急的措置法(民法、民事訴訟法、刑事訴訟法)、國會法などが公布され、第一回參議院議員選擧、第二十三回衆議院總選擧が實施され、さらに、樞密院、皇族會議、皇室典範、皇室典範增補、樞密院官制、皇室祭祀令などが廃止されてゐるのである。いはば、占領憲法の施行を先取りして立法方式によつて處理されてゐることからして、事實上の施行の前倒しがなされたかの如くである。
ましてや、④の段階以後(占領憲法施行後)の法令では、時際法的處理をすることはありえないはずである。最高規範として占領憲法が存在してゐるのであれば、獨立の有無にかかはりなく、④の段階以後の法令を改めて時際法的處理をすることは明らかに矛盾がある。
また、②の段階で成立した法令についても、この段階では既に「國民主權」が確立してゐたから占領憲法の制定に至つたとする見解もあるので、これによれば、國民主權の下で成立した②の段階の法令もすべて有效であることになり、これについても時際法的處理は不要になる。
また、占領憲法が最高規範としての憲法として有效であれば、獨立の前後で最高規範性に變化はなく、⑥の段階で時際法的處理をすることも全く不要である。それゆゑ、時際法的處理がなされたこと自體が、國民主權と占領憲法がいづれも有效であることと矛盾することになるので、つまるところ、國民主權も占領憲法もいづれも無效であつたことを背理法によつて證明されたことにもなるのである。
そして、もし、④の段階と⑥の段階において、國内法であつても時際法的處理が必要であるのであれば、それは國内法秩序の根幹となる「憲法」についても時際法的處理が必要となるはずである。大(憲法の時際法的處理)は小(法令の時際法的處理)を兼ねることはあつても、その逆はありえない。少なくとも⑥の段階(獨立時)において、帝國憲法から占領憲法への改正移行といふ正式な時際法的處理が必要であるにもかかはらず、それがなされてゐないのである。これも占領憲法が無效であることの傍證になるとともに、講和條約として評價された國際系に屬する占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の國内系への編入がなされるための要件である時際法的處理もなされてゐないので、正式かつ完全な意味で講和條約としての占領憲法の效力は、未だに發效してゐないのである。つまり、私見によれば、占領憲法は憲法として無效であるが、無效規範の轉換によつて講和條約の限度で轉換成立し發效したと評價されることになるものの、そのことだけで當然に國内的秩序へ編入されることにはならないといふことである。
見方を變へると、占領統治下に制定された法令及び國際系法令の國内系への編入に關して、我が國は、立法方式(變型方式)によつて時際法的處理を行つてきたので、その處理がなされてゐない法令は、その反射的效果として、原則的には「失效」したとも考へられる。
このことを前提とした上で、桑港條約第十九條(d)の規定を檢討してみることが必要となつてくる。この規定によれば、「日本國は、占領期間中に占領當局の指令に基いて若しくはその結果として行われ、又は當時の日本國の法律によつて許可されたすべての作爲又は不作爲の效力を承認し、連合國民をこの作爲又は不作爲から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。」とある。
これは、連合國民の「免責」に主眼を置いた條項であるが、占領期間中に占領當局の「指令」に起因した「すべての作爲又は不作爲の效力を承認」するとの點が含まれてゐることについての解釋が重要となる。
この「指令」に基づいたものの最たるものは占領憲法であるが、これについては具體的に明記されてゐないので、含まれてゐるとみるか、含まれてゐないと見るかについては定かではない。しかし、實質的には含まれてゐるとしても、これが含まれてゐると解釋することは、「占領當局」が、憲法改正義務を認めてゐないポツダム宣言及び降伏文書の規定に違反したことを認めることになるのである。さらに、ヘーグ條約の條約附屬書『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』第四十三條(占領地の法律の尊重)の「國ノ權力カ事實上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶對的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル爲施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘシ。」との規定に違反した行爲があつたことを公表することになり、この桑港條約第十九條(d)自體が無效(一部無效)となつて、免責が受けられなくなるといふジレンマが生ずることになる。それゆゑ、この「承認」されるものの中には、占領憲法が含まれると解釋することはできないのである。
ところで、桑港條約の發效までに、占領下での占領憲法以外の法令は概ね國内系の「法律」によつて時際法的處理がなされたのであるから、その國内的な「效力」を國際系の桑港條約によつて「承認」するといふことは本來はあり得ない奇妙な話なのである。これは、内政干渉的な「承認」といふことになるが、いづれにせよ、「法律によつて許可された」以外のものには承認の效力は及ばないといふ意味であることに疑ひはない。そして、その承認の效力が及ばないものの中に、講和條約に轉換された占領憲法(東京條約、占領憲法條約)があるといふことである。/p>
勿論、占領憲法は、帝國憲法の改正法として、あるいは、それ以外のいかなる意味においても憲法としては無效であることは前章で述べたとほりであるが、もし、占領憲法が憲法であるとすれば、國内系の憲法を國際系の桑港條約で「承認」すること自體が法理論上はありえない。この場合の「承認」とは、國際系における承認であり、國内系での承認とは異なる。帝國憲法改正行爲の「承認」(追認)を意味するとすれば、それは國内系での承認であるから、あくまでもそのやうなことについては、帝國憲法第七十三條の手續を獨立回復後に再度履踐することを必要とするものであつて、桑港條約によつて承認できるものではなく、そのやうなことをしても有效に追認されるものでもないことはこれまで述べたとほりである。
さうすると、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)以外のすべて法規範について時際法的處理がなされたものの、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)についてのみ未だに立法方式によつて講和條約としての時際法的處理がなされてゐないことからして、憲法として無效であることは勿論のこと、それ以上に、講和條約の國内的效力を當然には認めることができないといふ結論に至る。つまり、占領憲法は、講和大權によつて講和條約として轉換成立したものと評價され國際系の講和條約としては效力を發效したとしても、未だ國内系として國内法秩序へ正式かつ完全に編入されたことにはならない。
しかし、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の時際法的處理がなされてゐないことから正式には國内法的受容がなされてゐない状態であつたとしても、占領憲法が「事實たる慣習」としてこれまで國内において事實上運用されてきたことを否定することはできない。つまり、「事實たる慣習」として認められることに疑ひはない。しかも、その内容が憲法事項に關するものであることから、「事實たる憲法的慣習」といふことになる。そして、それが、法的容認、つまり、法源(法の存在形式)として認識されること、すなはち、「法たる慣習」(慣習法)にまで昇格されたか否かが次の問題となる。そして、もし、これが慣習法として認められるのであれば、それは「憲法的慣習法」といふことになる。ところが、講和大權によつて締結されたと評價しうる占領憲法(講和條約)は、帝國憲法の條項を含むものであることから、それが帝國憲法の下位法令として、帝國憲法の根本規範に抵觸しない限度で有效と評價された事項については、憲法的慣習法として認めることができるが、それ以外は、「違憲の慣習」として、「事實たる慣習」に留まるといふことになる。
それゆゑ、講和條約として轉換成立したと評價できる占領憲法の國内的な反射的效力である慣習運用については、これを一括りにしてすべてを「憲法的慣習法」として認めることはできないとしても、以後においては、時際法的處理がなされてゐない占領憲法(講和條約)の國内的な反射的效力を便宜的に「憲法的慣習法」と呼稱することにする。
講和行爲の效力
入口條約の段階において講和の條件を履行するため制定された法令について、その規定形式において、我が國が獨立を回復するまでの期間に限定して效力を有するものとするといふ「限時法」ではなく、その期限を設けない「恆久法」と理解できるものであつても、實質は講和條件を履行する目的で制定された期限付立法としての限時法であると判斷される。そのことも講和獨立の交渉のなかでGHQとの間で合意され、『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件の廢止に關する法律』(昭和二十七年法律第八十一號)が成立した。從つて、これも占領憲法と同樣、その形式的な成立形態と内容の如何を問はず講和條約としての性質を有することになる。かくして、これまで國内系と國際系とが混在した占領統治におけるカオスの法體系が、このやうな時際法的處理を經て、その存續か廢止かが決定して、以後はすべて國内系へと編入しようとしたのである。
本來であれば、占領憲法も限時法として制定されるべきであつた。しかし、そのことをGHQは許さず、恆久法として制定することを講和の條件とした。それは、前にも觸れたが、桑港條約第十九條(d)に、「日本國は、占領期間中に占領當局の指令に基いて若しくはその結果として行われ、又は當時の日本國の法律によつて許可されたすべての作爲又は不作爲の效力を承認し、連合國民をこの作爲又は不作爲から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。」と規定されたことからも明らかである。「占領期間中に占領當局の指令」も「當時の日本國の法律」も、ともに「講和行爲」であつたことから、その「指令」と「法律」による「作爲又は不作爲の效力を承認」せよと、最終講和である桑港條約によつて義務付けたのである。
ここでいふ「講和行爲」とは、桑港條約第十九條(d)に列擧されてゐるやうに、占領統治下において、GHQが入口條約に基づき占領統治を實施するための具體的な要求、命令、處分をなし、我が國がこれを受け入れてそれを履行するために政府の行つた一切の行爲や、我が國が國體護持と早期の獨立回復を實現するために、占領憲法の制定を含め早期講和の條件としてGHQの要求を受け入れた一切の行爲など、GHQの要求と命令の行爲とそれを受け入れた我が國側の服從行爲(compliance)の總體であつて、これらも講和條約群の構成要素となるものである。つまり、「占領當局の指令」に從つて國内系の規範形式として定立され、國内系の處分形式として發令された全ての法令及び處分は、いづれも國内系の規範ではなく、國際系の規範である講和行爲なのである。また、「占領當局の指令」といふのは、その名稱の如何を問はず、マッカーサー及びGHQの各部署から直接又は間接に發令された指令、覺書、指示、指導などの一切の作爲又は不作爲の行爲及び處分のことであり、我が國側の服從行爲(compliance)を求めるものをいふのである。
本來ならば、純粹に國内系である「法律」について、國際系に屬する講和條約でその效力の有無を規定することはあり得ないのであるから、「當時の日本國の法律」は、「講和行爲」として制定されたものであることを當事國(我が國と連合國)が桑港條約第十九條(d)によつて承認したことを意味するのである。
そして、さらに重要なこととして、この「當時の日本國の法律」の中には、形式上は「憲法」(帝國憲法)の改正法とされる占領憲法は含まれてゐない。もし、これを講和條約(東京條約、占領憲法條約)として認識してゐたのであれば、國際法上の解釋として當然に占領憲法は含まれるのであるが、あくまでも占領憲法が「憲法」であるとの前提であるから、これが除外されてゐることになる。
そもそも、「占領期間中に占領當局の指令に基いて若しくはその結果として行われ」た最大級のものが占領憲法であるから、これを「憲法」ではないと認識するのであれば、占領憲法は講和行爲(講和條約)であることを認めてゐることにもなる。
それゆゑ、時際法的處理として、前に述べた『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件の廢止に關する法律』(昭和二十七年法律第八十一號)のやうな特別な法的處理がなければ、占領政策の要諦となる「指令」や「法律」は、桑港條約發效後も原則として效力を維持することになつてしまふが、占領憲法を「憲法」として認識する限り、「法律」には含まれないので、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)についてのみ時際法的處理がなされなかつたことになる。そのことから、前述のとほり、占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)へと轉換して成立したとしても、時際法的處理がなされなかつたことにより、未だ國内系秩序への正式な編入がなされてゐないことになるのである。
ところで、この規定によれば、指令や法律そのものの法的效力が維持されるのではなく、この指令と法律による「作爲又は不作爲の效力」が維持されるのであつて、遡及的にその作爲又は不作爲が無效となるといふ意味ではないといふことである。なぜならば、「連合國民をこの作爲又は不作爲から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。」といふ規定が續いてゐることからして、後に述べるアムネスティ條項の原則に對する例外を定めてゐると解釋されるからである。
そもそも、占領下に制定された法令(占領憲法を含む)は、實質的にその性質からして、占領時に限定された時限法であるとの判斷から、講和獨立(桑港條約發效)によつて當然に失效するといふ國際法の原則に基づいて主張されたのが菅原裕の「日本國憲法失效論」であつた。しかし、これは傾聽に値する見解ではあるが、殘念ながら國際系の觀點(國際政治の觀點)が缺落してをり、專ら國内系(國内政治の觀點)だけで考察しようとしたことに無理がある。つまり、桑港條約の締結時(昭和二十六年九月八日)及びその發效時(昭和二十七年四月二十八日)は、いづれも朝鮮戰爭(昭和二十五年六月二十五日から昭和二十八年七月二十七日まで)の最中であり、當面の課題であつた占領憲法第九條を改正して再軍備すれば、直ちに朝鮮戰爭に名實共に派兵することを餘儀なくされるといふ國際事情と、國内においても強い厭戰意識が戰爭放棄條項を心情的に支持する風潮があつたことなどから、この失效論は、政治的に評價されなかつたのである。このことは、裏を返せば、占領憲法は、政治的には講和條約の性質を完全に備へてゐたことでもある。
さて、時際法的處理に關する話に再び戻るが、占領憲法は、その形式が帝國憲法の改正法として、恆久法の形式となつてゐることからして、桑港條約第十九條(d)によつて、別途に時際法的處理をしなければ、講和行爲(講和條約)としては轉換成立して發效したとしても、國内法として編入させるための時際法的処理がなされてゐないことから、假に認められるとしても、未だに憲法的慣習法に留まるものと言はざるをえないことは前述のとほりである。これと同樣に、占領下の國會で制定された「法律」及びその他の法令についても、その形式は、やはり恆久法の形式であり、限時法の形式でなかつたことから、時際法的處理が必要となつたのである。しかし、これはあくまでも「當時の日本國の法律」の場合だけであつて、「占領期間中に占領當局の指令」や法律より下位の規範(命令、通達、通知など)の場合は、形式上は限時的指令ではないとしても、性質上は全て限時的指令であることから、講和獨立後(桑港條約發效後)に失效するものと理解されるのである。
たとへば、後に述べるとほり、桑港條約が發效した昭和二十七年四月二十八日の數日後である昭和二十七年五月一日に出された法務省法務總裁通知(法務府注意總發第五十二號『連合國の軍事裁判により刑に處せられた者の國内法上の取り扱いについて』の通牒)には、「さきに昭和二十五年七月八日附をもって『人の資格(任命若しくは就職又は罷免若しくは失職等にかかる條件又は許可、認可、登録若しくはその取消又は業務の停止等にかかる條件を含む)に關する法令の適用については、軍事裁判により刑に處せられた者は、日本の裁判所においてその刑に相當する刑に處せられた者と同樣に扱うべきものとする』旨の解釋を參考のため御通知したが、この解釋は、もともと總司令部當局の要請に基づいたものであり、平和條約の效力の發生とともに撤回されたものとするのが相當と思料するので、この旨御了承の上、貴部内閣關係機關にも徹底せしめられたい」とある。これは、その法務總裁通知の内容と形式がいかなるものであつても、これは、占領下において、一連の講和條約群である入口條約(ポツダム宣言、降伏文書)に基づく細目的な講和行爲の履行としてなされたものであるから、獨立回復を實現した出口條約(桑港條約)が特別に規定しないものについては、桑港條約發效時にすべて失效するといふことになる。つまり、この「失效」は、桑港條約の效果なのであつて、そのことからしても、占領下の諸法規や指令などは、すべて講和條約群に含まれる規範であることを意味することになり、講和條約説を根據付けるものとなつてゐる。
神道指令等の失效
さらに、最近においても、そのことが改めて正式に再確認されたのである。それは、GHQが昭和二十年十二月十五日付覺書を以て發令した、いはゆる神道指令とこれに基づく文部省の通達が桑港條約の發效によつて失效したとの政府の公式見解が明らかとなつたことである。それは、まづ、平成二十年三月二十七日の參議院文教科學委員會における衞藤晟一議員の質問に對して、渡海文部科學大臣は、次のとほり答辯した。それは、神道指令を受けて、國公立の小中學校が主催して神社佛閣、教會を訪問することを全面的に禁止することを命ずる昭和二十三年七月九日付で發出された文部省教科書局長通達『學習指導要領社會科編取扱について』に基づき、昭和二十四年十月二十五日付で發出された文部事務次官通達『社會科その他、初等および中等教育における宗教の取扱について』の一の(二)で「學校が主催して、靖國神社、護國神社(以前に護國神社あるいは招魂社であつたものを含む)および主として戰没者を祭つた神社を訪問してはならない。」と命じた點については、「靖國神社等の取扱ひについては既に失效してゐる。」と答辯し、さらに、同月三十一日の參議院文教科學委員會における西田昌司議員の同樣の質問に對しても、渡海文部科學大臣は、「日本がサンフランシスコ講和條約に調印しまして、これが發效したのが二十七年四月二十八日でございますから、これをもつて失效してゐると、かういふふうに理解をしていただけたら結構だと思ひます。」と答辯してゐる。そして、これらを踏まへて、平沼赳夫衆議院議員は、平成二十年五月十四日、衆議院議長河野洋平を經由して政府に對し『學校行事として靖國神社・護國神社訪問を禁じた文部事務官通達に關する質問趣意書』(文獻350)を提出し、各通達の法的根據及び桑港條約發效とともにこれらが「失效」したとする理由についてなどの質問がなされたところ、同月二十三日付で内閣總理大臣福田康夫の『衆議院議員平沼赳夫君提出學校行事として靖國神社・護國神社訪問を禁じた文部事務官通達に關する質問に對する答辯書(内閣衆質一六九第三八〇號)』(文獻351)が送付された。その内容によると、各通達の法的根據及び桑港條約發效とともにこれらが「失效」したとする理由といふ最も重要な點については回答せず、これらの各通達は「日本國との平和條約(昭和二十七年條約第五號)の發效により我が國が完全な主權を回復するに伴い覺書(神道指令)が效力を失つたことをもつて、失效したものと考える。」と回答したのである。
つまり、神道指令その他のGHQ指令及びこれを具體的に施行するするための國内的措置は、桑港條約の發效によつてすべて失效したといふのであるから、これは、桑港條約の效力によるものであり、占領憲法の效力によつてこれらが失效するものではないことを明確にしたことになる。
つまり、神道指令その他のGHQ指令を失效させたのは、桑港條約であつて占領憲法でないといふことは、桑港條約の方が占領憲法よりも上位の規範であるか、あるいは同位の規範として後法優位の原則による歸結であることを認めたことになるのである。その意味からしても、占領憲法が桑港條約と同樣の講和條約であることの根據となりうるのである。
そもそも、神道指令などのGHQ指令(講和行爲)は、すべて國際系であり國内系ではない。GHQ本部が東京にあり、そこから指令が出たことを以て國内系の法規とするやうな屬地主義解釋は噴飯ものと言はねばならない。すると、國際系の講和行爲である「神道指令を受けて」發出された文部省通達が、純粹に國内系の行政處分であるとしたら、これらは別系統の規範であるから、一方の消長が他方に直接影響することはありえないことになる。また、これと同樣に、特段の措置が講ぜられることなく、國際系の桑港條約の發效によつて、國内系の文部省通達が自動的に消滅することはあり得ない。國際系の桑港條約の發效によつて國際系の神道指令が當然に失效するのは、同じ規範系に屬する上位規範の内容によつて下位規範が廢止されることによるものであるが、行きがけの駄賃でもあるまいに、ついでに國内系の文部省通達も自動的に失效したといふのは説明がつかない。これは、占領下において、GHQ指令による國内系の形式による法令及び處分は、すべて講和行爲(國際系)であつたからこそ、桑港條約といふ「親龜」が轉けたら「子龜」(講和行爲)も轉けたことになるのである。
講和條約群の效力
そして、占領憲法もまたこれらの神道指令やこれに基づく通達などと同樣に、桑港條約第十九條(d)にいふ、「占領期間中に占領當局の指令に基いて若しくはその結果として行われ、又は當時の日本國の法律によつて許可されたすべての作爲又は不作爲」に含まれる。厳密に言うと前述のとほり、占領憲法は桑港条約によつて「承認」される「作為又は不作為」には含まれないが、「承認されなひ作為又は不作為」である事は確かなことであるから、占領憲法は中間條約(東京條約、占領憲法條約)として位置づけられることになる。つまり、通達などは純然たる國内規範に屬するものと理解すれば、何ゆゑに桑港條約の發效によつてこれらが失效するのかを説明しうるのは、占領憲法を含めた占領下の法體系全體が、その法形式の如何を問はず、すべて講和條約群として一體的に評價する講和條約説以外に論理的に説明できる見解は存在しないのである。
このことを正確に把握するためには、國家には、内的なものと外的なものとがあり、これに對應するものとして、「國内系」である「憲法體系」と「國際系」である「講和(條約)體系」といふ二つの法體系に峻別されてゐることを理解せねばならないのであり、それがここでの認識の出發點であるといふことである。このことを認識すれば、GHQの占領統治における「間接統治」の法的な意味が理解できる。つまり、間接統治といふのは、GHQが我が政府を通じてポツダム宣言と降伏文書といふ講和條約(入口條約)を實施させる態様のことであるから、そもそもそれ自體が「國際系」の講和行爲であるといふことである。「間接統治」の「統治」といふ言葉から受ける印象では、いかにも「國内系」のやうであるが、決してさうではない。「國内統治」といふ「國内系」の秩序を實現させるための前提として、GHQと我が政府との外交行爲があり、それはすべて「國際系」に屬する講和行爲であるといふことである。そして、この「間接統治」を原則としながら、例外的に「直接統治」がなされたことは、我が政府の統治能力の存在自體を否定するに等しい完全なる征服としてのデヴェラティオ(デベラチオ)に近い態様があつたといふことである。しかし、これも「國際系」であつて、直接統治は「國内系」ではありえない。間接統治と直接統治の具体的な態様については既に述べたが、國際系のポツダム宣言と降伏文書を入口條約とし、これに基づいて國内系ではポツダム緊急敕令とその下位のポツダム命令など段階的な系統(國際系の講和行爲)によつて統治されるのが間接統治の實相であつた。ところが、入口條約に基づく連合國の占領統治の細目的命令(指令、覺書、指示、指導など)によつて、緊急敕令に始まる國内系の間接統治形態に割り込む形で、直接に政府や民間に命令する(文部省通達、二・一ゼネスト中止命令など)系統がある。これが直接統治である。直接統治の場合における國内系形式の命令や處分は、實質的に國内系の行爲ではなく、講和行爲としてなされた國際系に屬する行爲であるから、GHQ命令と一蓮托生として運命を共にすることになる。
他方、間接統治の場合、桑港條約發效に際して時限法處理がなされるのは、國内系の處理としては當然のことである。その根據は、帝國憲法第七十六條第一項である。第七十六條第一項は、「法律規則命令又ハ何等ノ名稱ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ總テ遵由ノ效力ヲ有ス」とあることから、無效規範の轉換の根據規定であると同時に、獨立時に行ふべき時限法處理の根據ともなるのである。
これに對し、占領憲法では、前文において、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔敕を排除する。」とし、第九十八條第一項において「この憲法は、國の最高法規であつて、その條規に反する法律、命令、詔敕及び國務に關するその他の行爲の全部又は一部は、その效力を有しない。」とするだけで、いづれも抵觸する法令を排除する規定しか存在しない。抵觸しない法令を法體系内で整序する規定を持たないのである。それゆゑ、時限法處理は帝國憲法第七十六條第一項に基づくことになり、その意味でも帝國憲法は獨立の時點でも現存してゐることになる。
ともあれ、形式的には國内系の法令及び命令を裝つてはゐるが、その實質は國際系であることから、講和獨立の際に、實質的にも國内系の法律とするか、あるいは占領時に限定した講和行爲として失效させるかについて、時際法的處理が必要となる。しかし、直接統治の場合、その源泉となつたGHQ指令が桑港條約の發效によつて消滅したとしても、このGHQ指令に從つて發令された國内系形式の命令が當然に失效するといふのは、どういふ根據に基づくのか。國際系の命令が消滅すれば、自動的にそれを受けて發令された國内系形式の命令及び處分が失效するといふのは、國際系と國内系といふ異なる法體系を混同した議論となりうるので、明確な法律的説明が必要となる。
思ふに、まづ、國際系に屬するGHQ命令が桑港條約の發效によつて失效することは異論がないであらう。これは、占領憲法の最高法規性に基づいて失效するものでないことだけは確かである。施行後の占領憲法が最高法規としての效力があるのであれば、獨立回復前においても、GHQ命令に基づく國内的な命令や處分の憲法適合性とその效力の有無が判斷され、それに適合しないものは失效(排除)されてしかるべきであつた。そして、占領憲法の國民主權主義と最高法規性からすれば、占領憲法が發效すれば、GHQのによる占領とは相容れない關係になるので、この時點で、「GHQよ、Go Home Quickly」と憲法上も政治上も要求しなければ自家撞着となるが、これをしなかつた(できなかつた)ことは、國民主權主義も最高法規性も單なる政治的マニフェストに過ぎず、憲法としての妥當性も實效性もなかつたことを自白してゐることになる。そして、占領憲法の國民主權主義と最高法規性の宣言が施行後獨立回復までなされなかつたのは、占領憲法を有效とする見解であつても、占領憲法は占領期間中は少なくとも「停止」してゐたことになるが、それはどうしてなのかについての説明ができない。説明できるのなら、それは有效論者の義務として説明がなされるべきである。つまり、ここに至つて、占領憲法の有效性の説明責任(主張立證責任)は有效を主張する側(占領憲法政府を含む敗戰利得者)にあるのであつて、これが主張立證できないことは、占領憲法が憲法としては無效であることを認めたことになる。「沈黙」(その實質は無效論を無視し續ける状態)は、「無效であることを黙示に自白した」ことであることを自覺すべきである。
ともあれ、占領憲法が憲法として有效であるとすれば、占領憲法の施行後は國民主權と最高法規性が確立したはずであるから、占領憲法施行後に、占領憲法の授權によつて定立した法律その他の規範や處分は確定的に有效なはずである。ところが、『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件の廢止に關する法律』(昭和二十七年法律第八十一號)によると、
1 ポツダム宣言の受諾に伴い發する命令に關する件(昭和二十年敕令第五百四十二號。以下「敕令第五百四十二號」という。)は、廢止する。
2 敕令第五百四十二號に基く命令は、別に法律で廢止又は存續に關する措置がなされない場合においては、この法律施行の日から起算して百八十日間に限り、法律としての效力を有するものとする。
3 この法律は、敕令第五百四十二號に基く命令により法律若しくは命令を廢止し、又はこれらの一部を改正した效果に影響を及ぼすものではない。
とし、占領憲法の施行の前後で峻別することなく、占領下の命令を原則として「法律」としたのである。ここでも、占領憲法の最高法規性は否定されてゐたのである。
つまり、桑港條約の發效(獨立回復)によつて、占領憲法がその最高法規性の停止状態から脱却して發效したとするならば、獨立回復前に制定した法律によつて時際法的處理をするのではなく、獨立回復後において改めて時際法的處理に關する法律を制定して決定されるべきであるが、それもしてゐないのである。占領下の法律で處理されてゐるのである。これでは獨立回復の法的意味がないことになる。それだけでも占領憲法の有效性を否定する根據となるはずである。
時際法的處理は、形式的には國内系の規範であつても、その實質は、國際系と國内系とを峻別する處理に他ならない。つまり、これまで國際系であつた講和行爲の一部を國内系に取り込むか否かの處理であつて、取り込まれた法令については、いはばGHQから我が國政府への「法令移管」、「權限移讓」がなされたことになるのである。
實際にも、マッカーサーが國連軍最高司令官及び連合國軍最高司令官を解任され、この後任として着任したマシュー・リッジウェイの手によつて、この「權限移讓」がなされてゐるのである。リッジウェイは、昭和二十六年五月一日、我が政府へ占領下法規再檢討の權限を移讓すると聲明し、同月六日に政令諮問委員會設置し、その後に移讓手續とその實施を行つてゐる。このとき既に施行されてゐる占領憲法が國民主權の憲法であるといふのであれば、この權限移讓にはたして憲法的根據があるのか。これに答へられる占領憲法の有效論者が居れば、是非ともご教授願ひたいところである。これは占領憲法に實效性がないことを示す有力な根據の一つでもある。
このやうに、我が國としては、講和獨立後(桑港條約發效後)において、恆久法の形式として占領下で制定した法律について、それを失效させる必要のあるものについては、改めて限時法處理をなし、これを明確に失效させる必要があつたのである。
しかし、このやうな處理は、國内系だけでは法律的にも政治的にも不可能である。我が國は、桑港條約と同時に舊安保條約を締結して米軍に軍事基地を提供し續け、「間接統治」方式による緩やかな占領統治を繼續させたため、完全獨立には至らず、限時法であるべき占領憲法の時際法的處理をすることができなかつたのである。
さらに、桑港條約の發效と同時に、舊安保條約も發效し、これにより、GHQ、對日理事會、極東委員會(FEC)が廢止されたことも、時際法的處理を不可能ならしめた。なぜなら、占領政策の最高權限を有する極東委員會が昭和二十一年十月十七日に行つた『日本の新憲法の再檢討に關する規定』といふ政策決定に基づく、我が臣民の自由意思の「再檢討」が實施されないまま極東委員會が廢止されたことは、これによつて「再檢討」を實施する必要性も可能性もなくなつたといふことに國際系において確定したと理解することもできる。この「再檢討の實施」とは、國内系の手續としては、まさに「占領憲法追認手續」であり、國際系の手續としては、「東京條約追認手續」である。
しかし、その「再檢討」が實施されないまま、我が國は本土だけで獨立したことは、占領憲法の時際法的處理ができないことを意味することになつたのである。これによつて、占領憲法は、憲法としては無效であり、講和條約(中間條約としての東京條約、占領憲法條約)として轉換成立したものの、時際法的處理がなされてゐないことから、國内的な反射的效力としては憲法的慣習法に留まることになつたのである。
