疑問と不安
これまで、帝國憲法を改正して成立したとされる占領憲法が憲法としては無效であることの理由を樣々な角度から考察して述べてきた。しかし、無效の根據について理解し、理論としては無效であると判斷できたとしても、この無效といふ結論からは、眞つ先に次の素朴な「疑問」と「不安」が生じてくると思はれる。
まづ、「疑問」とは、占領憲法が憲法として無效であるとしても、全く何らの效力もないといふのか、といふ點である。これは、法律學的に表現すれば、絶對的無效か、相對的無效か、といふ問題、すなはち、憲法として無效な占領憲法は、憲法以外の他の法令としても一切その效力が認められないのか(絶對的無效)、あるいは、憲法以外の他の何らかの法令として效力が認められるのか(相對的無效)、などといふ前章における無效論の「構造式」に關する問題である。
そして、「不安」とは、法理論的には占領憲法が憲法としては無效であるとしても、これまで占領憲法の下で運用されてきた立法、行政、司法、自治體などによる法令、判決、處分などによる既存の法律關係の現實が遡つて否定されてしまふのか、これから先、いきなり帝國憲法が復元して適用されれば國民生活に大混亂が生ずるのではないか、帝國憲法が現實の政治と合はない點を今後どのやうな方法で調整させていくのか、といふ樣々な不安である。
この「疑問」と「不安」は、いづれもこれまでの舊無效論が充分に説明しえなかつた命題であり、實は、この命題の解明は、無效論の論理構成によつて左右される性質のものであつた。そこで、次章において、帝國憲法秩序に復元し改正する措置について述べるが、この「復元」とは、嚴密には、帝國憲法は未だ改正されずに現在まで間斷なく存續してゐたとの「現存」事實を認識するといふ「認識の復元」であり、その「法的な心構へ」に基づいて法體系の整備をするといふことである。そのことについて述べることにより具體的にその疑問と不安の解消に努めるとして、本章では、さらにその前提となるいくつかの基礎知識について整理しつつ、この「疑問」と「不安」の解消のために必要な眞正護憲論(新無效論)の核心部分である「講和條約説」に迫つてみたい。
絶對と相對の概念區別
まづ、前に述べた「峻別の法理」からすると、法律學は、原則としてデジタル思考の論理に基づき、アナログ思考の論理ではない。有效であると同時に無效であるなどといふ、有效と無效の中間領域ともいふべき鵺的な概念は存在しえない。裁判所がなす「判決」に至る審理は、立證責任(主張事實の存在を證據によつて證明しなければ不利益に認定されてしまふ立場)が事項毎に當事者のいづれか一方にあるのであつて、雙方が共に負擔することはないといふ徹底したデジタル世界(on or off )である。それゆゑ、判決は、その法律學の論理であるデジタル思考の論理が適用されるため、それが全部認容される全面勝訴の判決であらうが、全部認容されなかつた全部敗訴の判決であらうが、はたまた、その一部のみが認容される一部勝訴又は一部敗訴の判決であらうが、全て同じ論理で貫かれる。一部認容の判決と雖も、全體のうちの一部が數量的に可分的な判斷をなしうる場合であつて、全體が數量的でないものや不可分一體のものについて一部認容の判決がなされることは絶對にあり得ない。ところが、同じく裁判所が關與するものであつても、裁判上の「和解」の場合には、アナログ思考の論理が許される。それは、對立當事者が判決によらずに互讓により紛爭を解決するためであり、法律學の論理を排除することの合意も原則として認められるからである。かくして、法論理學においては、有效か無效かの區別は峻別され、集合論の論理で表現すれば、有效の集合と無效の集合との積集合は空集合(共通要素なし)であるといふことである。
ところが、無效とは、本來的に確定的に無效(絶對無效)を意味するが、ときには、その状態が不確定な場合がある。つまり、無效のものが何らかの要因によつて有效に變化したり、その逆に、有效のものが何らかの要因によつて無效になつたりすることがある。しかし、これは、同一の事象において、有效と無效とが同時に成立することを意味するものではなく、ある時點で有效であつたものがその後に無效となり、あるいはある時點で無效であつたものがその後に有效になるといふ場合である。それは、確定的有效、不確定的有效、確定的無效、不確定的無效といふもので、たとへば、詐欺、強迫によつてなされた法律行爲は有效ではあるが、その後に取消の意思表示をすれば無效になるといふ「取消うべき行爲」といふものや、無效の行爲を事後に追認することによつて有效となるといふ「無效行爲の追認」といふものである。これらは、峻別の法理の「例外」に屬するものとされるが、嚴密に言へば、これは峻別の法理の「應用」といふべきものである。つまり、これは、「確定」と「不確定」、「有效」と「無效」といふ二種の對立概念を組み合はせたものであつて、決して峻別の法理を否定したものではないからである。
そして、憲法といふ事象において、占領憲法の成立時(帝國憲法の改正時)には無效であつても、事後に有效となりうるか否かといふ議論は、それが確定的に無效であるか否かといふ問題に還元されるのであつて、占領憲法は帝國憲法の改正の限界を超えて國體を破壞する内容であることから、事後において追認などによる有效化が絶對にできないといふ意味で確定的無效(絶對無效)であることは前に述べたとほりである。
しかし、占領憲法が確定的に無效(絶對無效)であるといふことは、あくまでも憲法としては無效であるといふことであつて、それ以外の法令(法律、敕令、條約など)として效力を持ち續けるのか否かといふこととは全く別の問題である。既に述べた「確定的な無效」を「絶對無效」とも表現するので紛らはしいのであるが、これとは別に、一つの事象において無效なものが他の事象において有效であることを肯定するのを「相對的有效」と名付け、また、他の一切の事象においても無效であるとするのを「絶對的無效」と名付けることにより、相對と絶對といふ二つの對極概念を用ゐて區分をすることができる。
そして、このことを踏まへて、占領憲法を無效とする見解に共通することは、占領憲法が「憲法事象」において無效であるとする點であるが、「他の法令事象」の一切において無效であるとする「絶對的無效説」と、「他の法令事象」において有效であるとする「相對的無效説(相對的有效説)」とに區分することができる。
占領基本法
ところで、占領憲法は、「GHQが作つた占領管理基本法」(小山常実)とする見解がある。これは、相對的無效説(相對的有效説)といふことになる。それ以外にも、占領管理のための「法律」であつたとする見解が舊無效論の論者には多い(井上孚磨、菅原裕など)。それによつて、疑問と不安を解消しようといふのである。いはゆる「法律説」である。
この法律説は、なにゆゑに「憲法」が「法律」に轉換するのかについての説明がなされてゐないが、確かに、占領憲法の制定手續は、法律の制定手續として見れば、形式上は酷似してゐる。このことから、假に、眞正護憲論(新無效論)のやうに、帝國憲法第七十六條第一項に基づいて立論されたものであつたとしても、その詳細な根據付けの檢討はひとまづ置くとして、果たして、そのやうな考へが「法の正義」に適ふのであらうか。
前章でも述べたとほり、そもそも、法の正義といふものは、「實質的正義」と「形式的正義」に分類されるといふ。そして、實質的正義とは、本來、價値が絶對視、絶對化されるといふ保障がなければ成り立ちうるものではなく、現代社會における價値の多樣化に伴つて一義的に定まらない事象が擴大し、今後もさらに相對化することは必至である。しかし、その中でも比較的爭ひのない歴史的かつ傳統的な普遍性のある規範を抽出して、實質的正義の概念を維持してゐるといふのが實状である。
このやうに、實質的正義の絶對性が搖らぐ一方で、形式的正義の役割は益々重要となつてゐる。この形式的正義といふのは、「自己の權利は主張しながら、他者の權利を尊重しない者」を「惡」とする法理であり、他者を差別的に扱ふ「エゴイスト(二重基準の者)」を惡とするものであるとされ、「等しきものは等しく扱へ」「各人に各人の權利を分配せよ(Ius suum unicuique tribuit)」といふローマ時代から言ひ傳へられてきた人類の知惠であつて、現代においては、「クリーンハンズの原則(汚れた手で法廷に入ることは出來ない)(自ら法を守る者だけが法の尊重を求めることができる)」や「禁反言(エストッペル)の原則(自己の行爲に矛盾した態度をとることは許されない)」などとして根付いてゐると言はれてゐる。
しかし、これは、現在のところ、あくまでも「法の支配」が妥當する國内系の領域に限られ、國際系には適用がない。國際系では、「法の支配」がある程度は尊重されるとしても、今でも「力の支配」によるものであり、體系理念を異にするのである。
國内系では、刑法典によつて、殺人罪等の重大犯罪については、屬地主義と屬人主義の雙方が適用され、本國人も外國人も處罰されるのに對し、國際系では、大量殺人を招く戰爭自體が合法であり、しかも、戰勝國の國際法違反の大量殺人は處罰されない。これらは別體系による結果の相違であり、國内系と國際系とを混同し、あるいは同列に論ずることはできないのである。
さうであれば、占領憲法は、國内系の規範であることから、實質的正義(内容の正當)においても手續的正義(手續の公正)においても、正統憲法の授權の内容と手續を逸脱してゐることを理由として、憲法としてはもとより法律としても無效であるといふ結論に到達することになる。つまり、内容においても、帝國憲法の改正の限界を超えて改變するものであり、手續においても、帝國憲法第七十三條の手續を外形的に履踐したとしても、天皇の改正發議權を侵害し、占領軍の強制によるものであつて、非獨立の占領下といふ國家の異常な變局時に改正したものは帝國憲法第七十五條に違反するので、内容と手續の雙方において「法の支配」(國體の支配)に違反して無效であるといふことである。
ましてや、「法律論議をするまでもなく事實關係からして無效」(小山常実)であるとして、帝國議會の「審議」自體が事實として實質的に「不存在」であるから無效であると判斷することもできるのである。憲法の改正も法律の制定も共に帝國議會の審議が必要なのであるから、その審議それ自體が不存在であれば、それは憲法の改正の審議としても、法律の制定の審議としても不存在なのであつて、いづれの規範としても無效のはずである。ところが、「法律説」は、それを「GHQが作つた占領管理基本法」とするのである。つまり、我が國の帝國議會が法律として審議して制定したのではなく、それを「GHQが作つた」とまで評價するのであれば、嚴密には「法律」ではないことになる。そして、これは、「GHQが作り、我が國がそれを承諾した規範」、すなはち、「講和條約」といふことになるのではないのか。にもかかはらず、占領憲法を法律として轉換させる根據は一體どこにあるといふのか。
そもそも、國内系の憲法として無效なものが、その憲法の下位にある同じく國内系の法律として有效となるはずはない。憲法の破壞を目的とした憲法改正行爲が無效であれば、憲法の破壞を目的とした法律制定行爲もまた憲法違反であるから無效である。占領憲法が帝國憲法の改正として無效であるといふことは、帝國憲法以下の「國内系」の法體系から排除されることを意味するので、「憲法」は勿論のこと「法律」として認められることもあり得ない。帝國憲法第七十六條第一項には、「法律規則命令又ハ何等ノ名稱ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ總テ遵由ノ效力ヲ有ス」とあり、それが「日本國憲法」といふ「憲法」といふ名稱を用ゐたものであつても、帝國憲法と矛盾しないものであれば、それが法律としての制定手續に基づいてゐる限り、帝國憲法に基づいて成立した「法律」として遵由すべき效力があるが、占領憲法は帝國憲法を否定するために生まれたものであり、そのやうな違法(違憲)な目的で制定された國内系の法律が、法律として許容されることはありえないのである。また、その結果、内容においても、帝國憲法を否定し、これと矛盾するものであるから、目的と手續・内容のすべてにおいて不正義なものを「法律」として認めてその效力を認めることはできないのである。
尤も、占領憲法が帝國憲法と矛盾しないのであれば、直接的に、帝國憲法の改正法としての「憲法」として認められることになるのであつて、「日本國憲法といふ名の占領統治基本法」(占領基本法)として有效であるか否かを檢討する餘地もあり得ない。それゆゑ、占領憲法が憲法としては無效だが「占領基本法」としては有效であるとする見解は、あたかも、舊日本社會黨が自衞隊の存在を違憲であるが合法であるとした「違憲合法論」の論理矛盾と同樣の誤謬を犯すものであつて認められないことになる。
確かに、占領憲法は、その制定手續においては、帝國議會の審議を經たものである。しかも、それは帝國憲法第七十三條に基づく改正手續の形式を踐んでゐると僞裝(假裝)してゐることから、少なくとも形式上は「凡テ法律ハ帝國議會ノ協贊ヲ經ルヲ要ス」とする帝國憲法第三十七條の法律制定手續を履踐してゐることになる。しかし、繰り返し述べるが、帝國憲法の内容と手續に違反し、違憲の目的を以て制定され、規範國體の内容にも違反して無效のものが、帝國議會の審議を經て「法律」として成立しうる外形的な手續を滿たしてゐるとしても、それが有效であるはずはない。憲法として確定的に無效(絶對無效)であるものが、その下位法令である占領基本法として現在もなほ有效であるとすることは幻想に過ぎないのである。うべなるかな、憲法が自らを否定することを法律に授權したとでも云ふのか。憲法を否定する目的で制定した法律が有效となる道は國内系ではありえない。親の仇は子にとつても仇である。
この點において、講和條約の場合は、全くその樣相を異にする。そもそも、講和大權に基づく講和條約は、帝國議會の「議決」は勿論、事前事後の承認を經る必要がない。講和大權は大權事項であるから、帝國議會の關與を許さないのであり、天皇を補弼する政府がその委任を受けて締結することで足りる。帝國議會の審議と議決を經たのは、この正體が講和條約(東京條約、占領憲法條約)であることが悟られまいとしてなされた「壮大なる茶番劇」に過ぎないのである。つまり、帝國議會の衆貴兩院議員と政府官僚たちなどをエキストラとして、これに法外なギャラを我が國の國家豫算から支払はせて總動員させ、マッカーサー監督の演出によつて完成した「占領憲法物語」といふスペクタル作品に他ならない。
ところで、講和條約の特殊性からして、帝國憲法の根本規範を侵害しない限度で「遵由ノ效力」があるので、一般の憲法條項に牴觸してでも締結しうる。そして、その講和條約を支配する規範は、國内系の「法の支配」ではなく、國際系の「力の支配」に基づく。それゆゑに、その實質において、占領憲法は、まさに講和條約に等しいものであつた。ただし、それが直ちに國内法秩序に編入されるものでないことは前に述べたとほりである。
我が國は、恫喝によつて、敕許も得ない違敕の安政の假條約を締結したが、これを德川幕府から國家承繼した明治政府は、後に述べる『條約法に關するウィーン條約(條約法條約)』の規定のやうに、これが恫喝によるもので無效であるとは主張せず、國際系の「力の支配」に從つて、富國強兵政策とともに外交努力を重ねて、不平等條約を解消するに至つたのである。ここでは、これらが違敕の條約であつたとする國内系の認識に基づいて排除せねばならないとする國家意志と、力の支配によつて國際法的に締結された條約として受け入れざるを得ないとする國際系の認識とを峻別してゐたのである。にもかかはらず、我が國は、當時の國際政治状況の中で、極東委員會の占領憲法に對する干渉も存在した事情も踏まへれば、占領憲法を國際系の規範として位置づけされるといふ國際政治の實相を無視し、專らこれが國内系の規範であるとする引き籠もりの判斷に陥つてしまつたのである。その引き籠もり現象は、およそ國際系の觀點を缺落させた見解に蔓延してをり、有效論のみならず、舊無効論でも、この法律説や後に述べる非常大權説などにも見られるのである。
すべてを國内系として認識し處理しようとする法律説は、違敕の安政假條約をも無效であつたとするのであらうか。そして、これと同じ論理で、入口條約も恫喝によるもので無效であるとするのか。もし、これらの國際系の講和條約が無效なら、どうしてそのまま國内系の法律として有效なのか。これらは、國際系と國内系の論理が倒錯したことによる矛盾であることは明らかである。この法律説は、國内系しか認識できず、國際系と國内系の區別ができない、まさに井の中の蛙の論理に他ならない。
今、我々に必要なことは、「憲法體系」と「講和(條約)體系」との相違、つまり「國内系」と「國際系」とを峻別して認識し判斷し、この占領憲法の問題を國内問題に限定することなく、國際問題であるとする視座に立つて、「然諾を重ずる」武士道精神を以て國際社會に對峙した明治政府の襟度と氣概を甦らせ、占領憲法問題の國際的解決のために前進せねばならないのである。
占領基本敕令
では、占領憲法は、帝國憲法第七十三條の改正條項に基づき、「敕命」を以て帝國憲法改正議案を帝國議會の議に付し、改正の議決を經て「上諭」を以て公布された占領憲法は、「敕令」の效力として有效となるのではないか、といふ「承詔必謹論」の應用ともいふべき主張もありうるので、念のためこれについて言及する。ただし、これも國内系に限定することを前提とする議論であり、その批判は前に述べたとほりであるが、さらに、次の點を付加して説明する。
まづ初めに、帝國憲法には敕令に關する條規として、第八條、第九條、第三十四條、第四十二條、第四十三條、第四十五條、第五十五條、第七十條、第七十三條があるが、この中で、憲法事項と法律事項に關連するものは、第八條、第九條、第七十三條である。
このうち、第九條においては、天皇の命令大權を定める。帝國憲法上は敕令もまた行政作用としての命令の一種であり、天皇の命令大權により發せられる。そして、その命令には、「法律ヲ執行スル爲」に發する執行命令、「公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ增進スルカ爲」に發する獨立命令(狹義の行政命令)、さらに、明文にはないが、帝國憲法上法律を以て定めるべき事項(法律事項)を法律自らが命令に委任する旨を規定した場合になされる委任命令があるとされてきた。これらの命令(敕令)はいづれも法律よりも下位の法令であり、第九條但書にも「命令ヲ以テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス」とあるから、「占領基本法」が有效であるとすることが幻想であるのなら、「占領基本令」もまた幻想といふことになる。
ところが、この命令大權に基づく敕令(命令)とは別格のものとして位置づけられる敕令として、第八條の緊急命令と第七十三條の憲法改正發議の敕令がある。
帝國憲法第八條には、この緊急敕令について、「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル爲緊急ノ必要ニ由リ帝國議會閉會ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ敕令ヲ發ス 此ノ敕令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出スヘシ若議會ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ將來ニ向テ其ノ效力ヲ失フコトヲ公布スヘシ」と定めてゐる。そこで、この緊急敕令(第八條)と前述の命令大權(第九條)とを比較すれば、前者の特徴として、帝國議會閉會中であることを時期的な要件として法律を改變できるとする點がある。つまり、後者が法律の「下位」にあるのに對し、前者は法律と「同等(同位)」なのである。
前に述べたとほり、ポツダム宣言受諾後、憲法改正案を審議した第九十回帝國議會(昭和二十一年六月二十日開會)までに開會された帝國議會は、敗戰直後の第八十八回(同二十年九月四日開會)と第八十九回(同年十一月二十七日開會)の二回のみであり、そのいづれの帝國議會においても、國家統治の基本方針についての實質的な討議は全くされなかつた。そして、その間の昭和二十年九月二十日、連合軍の強要的指示によつて帝國憲法第八條第一項による「ポツダム緊急敕令」(昭和二十年敕令第五百四十二號「『ポツダム』宣言ノ受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件」)が公布され、これに基づく命令(敕令、閣令、省令)、即ち、「ポツダム命令」(執行命令)が發令された。この「ポツダム命令」が占領中に約五百二十件も發令されたことからしても、「ポツダム緊急敕令」の公布及び「ポツダム命令」は、占領政策の要諦であつたことが頷ける。ともあれ、この緊急敕令は、次の第八十九回帝國議會で提出され、承諾議決がなされたのである。
ところが、占領憲法については、あくまでもその法形式は帝國憲法第七十三條による改正法であつて、決して緊急敕令といふ法形式で發令されたものではないが、ここでの問題は、假に、この占領憲法を帝國憲法第八條第一項の緊急敕令として發せられたものと看做すことができるとすれば、占領憲法は緊急敕令として效力を有するのではないかといふ疑問である。つまり、「日本國憲法」といふ名の緊急敕令(占領基本敕令)の效力論である。
しかし、帝國憲法第八條を根據とする緊急敕令は、あくまでも法律事項の範圍内でのみ效力を有するもので、占領憲法のやうに憲法事項(憲法で定める事項)を改變して法律事項を超えるものは、たとへ敕令と雖も無效である。つまり、帝國憲法には憲法事項の變更に關する敕令(憲法的敕令)の規定がなく、緊急敕令は法律事項を守備範圍とするだけで、決して憲法事項には及ばないので、この緊急敕令は違憲であり無效であるといふことである。敕令は無制約なものではなく、國體を變更することができないことは、國體の支配の原則からして當然のことなのである。
ただし、假に違憲無效な占領基本敕令(占領憲法)であつたとしても、公布されたといふ事實があるため、これを同等の方法で無效であることを公示することが必要になる。つまり、假に、占領基本敕令が緊急敕令であれば、「此ノ敕令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出スヘシ若議會ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ將來ニ向テ其ノ效力ヲ失フコトヲ公布スヘシ」とする帝國憲法第八條第二項に基づき、公布された昭和二十一年十一月三日以後の第九十一回帝國議會の會期に提出して承諾を得なければならないが、それが行はれてゐないため、政府としては「失效の公布」をしなければならないが、これが未だになされてゐないからである。尤も、この緊急敕令たる占領基本敕令は違憲無效であるから、有效な緊急敕令の場合のやうな「失效の公布」ではなく、その類推としての「無效の公布」(無效であつたことの告知)が必要となるであらう。すは、これは、占領憲法下の政府によつて占領憲法の無效宣言を行ふべき根據の一つとなりうるのである。
國際系としてのポツダム緊急敕令
ところで、このやうな議論は、占領政策全般の要諦となつた『ポツダム緊急敕令』(昭和二十年敕令第五百四十二號『ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件』)を「國内系」に限定して考察したことになるものであるが、前にも觸れたが、これを國際系に屬するものと見ることができるといふことである。
再び、行爲規範と評價規範の話に戻すが、帝國憲法第七十六條第一項により、行爲規範において帝國憲法の改正法としては無效な占領憲法が、評價規範によつて講和條約(東京條約、占領憲法條約)の限度で成立したと認められるとして轉換したのと同樣、このポツダム緊急敕令は、形式としては帝國憲法第八條の手續による國内系の規範であり、國内系の規範としては無效ではあるが、これが帝國憲法第十三條の講和大權の行使として、このポツダム緊急敕令とこれに基づく一連のポツダム命令も講和條約群、いはば「敕令條約群」として評價しうることになる。
つまり、後で詳しく講和條約説の説明を行ふが、占領憲法とポツダム緊急敕令とは相似してをり、いづれも國内系の規範としては無效であり認められないが、國際系の講和條約として評價されるといふことになる。そして、このポツダム緊急敕令等(敕令條約群)は、「入口條約」に屬するものといふ位置づけになる。
しかし、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)と決定的に異なる點は、『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件の廢止に關する法律』(昭和二十七年法律第八十一號)などによつて、ポツダム緊急敕令等(敕令條約群)だけは、すべて獨立時に廢止されたといふ點である。
この廢止は、我が國が單獨で決定したものではなく、GHQとの合意により行はれた。後に觸れるとほり、これも交換公文と同樣に、「英文官報」に掲載されてGHQの承認を得たことなどから、この「廢止」の實質的な性質は、入口條約の一部を形成してゐた敕令條約群の「合意による破棄」といふことになる。
そして、殘された入口條約、中間條約(東京條約、占領憲法條約)及び桑港條約の講和條約群は未だに存續してゐることになる。
非常大權
次に、これまで述べた「占領基本法」と「占領基本敕令」との關連で、帝國憲法「第二章 臣民權利義務」の第三十一條についても言及してみたい。勿論、これも國内系に限定された議論であることは多言を要しないところである。
帝國憲法第三十一條は、「本章ニ掲ケタル條規ハ戰時又ハ國家事變ノ場合ニ於テ天皇大權ノ施行ヲ妨クルコトナシ」といふ規定であるが、帝國憲法下において、これがいはゆる「非常大權」と呼ばれる別個獨立した天皇大權の存在根據であるとする見解があつた。つまり、帝國憲法「第一章 天皇」の第四條から第十六條までに規定されてゐる大權事項とは別個獨立して存在する天皇大權であり、しかも、これは「國家緊急權」としての天皇大權の總括的規定であつて、緊急敕令大權(第八條)、戒嚴大權(第十四條)及び緊急財政處分(第七十條)は、この非常大權の例示的規定にすぎないとする見解である。
これに對し、第三十一條は、緊急敕令大權(第八條)及び戒嚴大權(第十四條)によつて臣民の權利を制限し義務を賦課することができることを規定したものにすぎないとする見解があつて、この二つの見解は對立してゐた。
第三十一條の規定は、大權事項を規定した第一章(天皇)に屬する規定ではなく、第二章(臣民權利義務)にある規定であり、別個獨立した大權の存在と内容を示す表記はなされてゐない。而して、立憲主義に立脚する帝國憲法の解釋において、その存在と内容が明記されてゐない非常大權なるものを解釋によつて創設することはできないのであつて、後者の見解が正しいことは言ふまでもないが、帝國憲法の立憲的理解が未熟な戰前の時代にあつては、兩者の見解の對立は、天皇機關説論爭、統帥權干犯問題、陸海軍大臣現役武官制などの政治的な混亂を引き起こしてきた。
そして、戰後においても、この「非常大權」を以て、ポツダム宣言の受諾と占領憲法の成立を説明する「非常大權説」なる見解が登場する(小森義峯)。ポツダム宣言の受諾は、この非常大權の發動によつてなされ、それを原點として成立した占領憲法は「暫定基本法」としての性格を有するに過ぎず、「憲法」としての性格を有しないとする。そして、GHQによる軍事占領期間においても、憲法としては帝國憲法が嚴存してゐたが、それが「假死」ないし「冬眠」の状態にあつたので、占領解除の時點において法理上當然に非常大權の發動は解除され、帝國憲法は完全に復元したとするのである(文獻119、252)。
この非常大權説は、これだけの論述からすると、占領憲法無效論の一種と考へられなくもないが、論者のこれまでの憲法理論(憲法改正無限界説)からすると、單純にさうとは言ひ切れない疑問がある。
この見解は、前述した「占領基本法」と「占領基本敕令」の有效性の根據を、これらに代へて「非常大權」に求めるものであるが、帝國憲法下の立憲的秩序において、このやうな見解が成り立つ餘地は全くない。まづ、別個獨立した非常大權といふものの存在自體に疑義がある上、ポツダム宣言の受諾は、大東亞戰爭の講和に向けて戰闘終結の端緒となつたもので、これは紛れもなく講和大權(第十三條)の發動である。それが講和大權ではなく非常大權の發動とする根據は一體どこにあるのか。また、非常大權と講和大權との關係はどのやうなものか。非常大權は國内系だけのものであり、講和大權は國際系の規範を創造するものである。それゆゑ、非常大權ではポツダム宣言の受諾ができないのは自明のことである。
そして、帝國憲法が嚴存してゐるとしながら、それがどうして「假死」ないし「冬眠」なのか。非常大權なるものが、帝國憲法を「假死」ないし「冬眠」させるだけの權限を有してゐるとする根據はどこにあるのか。これは、「失效論」の矛盾と同樣に、占領解除の時點において、天皇による何らの行爲も必要とせずにどうして法理上當然に非常大權の發動が解除されるのか、などといふ點において、全く説得力を缺いてゐるからである。つまるところ、このやうな手法は、非常大權の概念とその内容を恣意的に創設ないしは解釋することによつて、どのやうな結論をも導けるものであつて、法の科學の領域における議論ではないといふことである。
附言するに、この非常大權説は、嚴密には無效論とは言ひ難い。この見解の論者(小森義峯)は、改正無限界説に立つてゐるからである。それゆゑ、非常大權を行使し、帝國憲法の無限界改正をなしたのであるから有效であるとするか、あるいは、その後の帝國議會での改正においても改正に限界があるといふ制約もなく有效に改正されたとするか、そのいづれかになるはずである。
そして、この見解の致命的な缺陷としては、假に、非常大權によつて何らかの措置がなしうるとしても、非獨立の占領統治下において國内系の非常大權が無制約かつ有效に行使しうるのかといふ最も重要な問題について全く言及しないことである。それどころか、非常大權を行使して帝國憲法を「假死」ないし「冬眠」することができたとするのであれば、占領下において有效に行使し得たことを前提としてゐることになり、どうしてその行使が有效なのかについての説明がなされてゐない。
無效論に共通するものは、憲法改正大權の行使が無效であることを主張するものであるが、この見解は、憲法改正大權には言及してゐないのである。もし、言及すれば、それは改正無限界となつて占領憲法が有效となつてしまふからであらう。このやうに、この見解は、この重大な問題を回避してゐるのであつて、これを無效論の一種とすることは、效力論爭に無用の混亂を招くだけであつて、論者の正確な釈明がなされない限り、これを無效論として取り扱ふことはできないのである。
あへて言ふならば、この見解(小森義峯)が無效論であるとすると、この「非常大權説」は、宮澤俊義の「八月革命説」と對極の関係にある「ねじれ理論」の學説といふことができる。つまり、宮澤俊義は、改正限界説に立ち、本來ならば占領憲法を無效とすべきところ、その學説による歸結を放棄(回避)して八月革命説を持ち出して有效であるとした。これに對し、小森義峯は、改正無限界説に立ち、本來ならば占領憲法を有效とすべきところ、その學説による歸結を放棄(回避)して非常大權説を持ち出して無效であるとした。いづれも御都合主義の學説であることに變はりはないのである。
講和條約群と占領憲法
昭和二十年八月十四日のポツダム宣言の受諾、同年九月二日の降伏文書の調印に基づいて我が國の獨立が奪はれ、GHQの軍事占領下での占領憲法の制定と極東國際軍事裁判の實施を受忍し、昭和二十六年に『日本國との平和條約』(桑港條約)が締結されて翌二十七年四月二十八日に我が國が獨立を回復するまでの道程は、前に述べたとほり、帝國憲法第十三條の講和大權を拔きにしては語れない。
これまでも述べてきたが、占領憲法第九條第二項後段には、「國の交戰權は、これを認めない。」とあるため、交戰權を有しない國家であれば、交戰後の講和も締結する權限をもないことになるので、桑港條約の締結權限は、やはり帝國憲法の講和大權に求めざるをえないからである。
まづ、ポツダム宣言の受諾とこれに引き續く降伏文書の調印とは、講和大權の發動により、大東亞戰爭の戰闘行爲を終結(停戰)し、皇軍の無條件降伏と皇軍の完全武裝解除を約定した講和條約である。これにより我が國は獨立を喪失して、長い「非獨立トンネル」に入つた。そのことから、これらは、この非獨立トンネルの入口に位置する「入口條約」としての「獨立喪失條約」といふべき性質の講和條約である。そして、この獨立喪失條約の履行として占領憲法の制定と極東國際軍事裁判を受容し、それを踏まへて、桑港條約を締結して我が國はやうやく獨立を回復したのであるから、この桑港條約は、非獨立トンネルの出口に位置する「出口條約」としての「獨立回復條約」といふべき性質を有する講和條約である。そして、このポツダム宣言の受諾から桑港條約の締結までのGHQ軍事占領下の「非獨立トンネル」時代にGHQの強制によつてなされた立法行爲その他の政府の行爲もまた一連の講和條約群の講和行爲として構成されるものであつて、その頂點に位置する占領憲法もまたこの講和條約群の「中間條約」として制定されたものと評價できるのであつて、この點について、さらに詳細に以下に考察していくこととする。
獨立喪失條約
我が國は、『ポツダム宣言』を受諾し(昭和二十年八月十四日)、『降伏文書』に調印した(同年九月二日)。これらは、「天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス」と規定された帝國憲法第十三條に基づく講和條約であり、ここからGHQによる完全かつ直接に等しい軍事占領が開始し、我が國は獨立を奪はれたのであるから、「獨立喪失條約」である。
戰爭とは、當事國が相互に武力を行使し、いづれかが戰勝國と敗戰國といふ立場となり、あるいはそのいづれの立場にもならずして、講和による最終解決を圖る外交の一種である。つまり、宣戰と講和が一對となつた廣義の外交であつて、講和條約を武力の行使や威嚇の繼續によつて成立させることも當時の國際法において當然に認められてきたものである。その講和もまた廣い意味での戰爭であり、講和條約に武力の威嚇を用ゐることを否定することは、そもそも戰爭自體が當時の國際慣習法上容認されてゐることと矛盾することになる。
ポツダム宣言においては、我が國の獨立までも奪ふ内容ではなかつたが、その確認文書とされる降伏文書については、その内容比較において疑義がある。つまり、ポツダム宣言では、我が國の降伏條件として、①皇軍の無條件降伏、②皇軍の完全武裝解除、③連合國による部分的な保障占領などを要求してゐた。特に、この部分的保障占領については、第七項(右の如き新秩序が建設せられ、且日本國の戰爭遂行能力が破碎せられたることの確證あるに至る迄は、聯合國の指定すべき日本國領域内の諸地點は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する爲占領せらるべし。)と第十二項(前記諸目的が達成せられ、且日本國國民の自由に表明せる意思に從ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、聯合國の占領軍は、直に日本國より撤收せらるべし。)とに明記され、占領軍の目的を間接的に強制し、それが實現するまでは我が國の一部を軍事占領するといふものであつた。
ところが、降伏文書では、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ、本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス。」とあり、我が政府はポツダム宣言の趣旨と同樣にこれをGHQによる「間接統治」を意味するものと捉へたが、GHQ側はこれを「直接統治」も可能なものとし、さらに、「全地域軍事占領」として實施した。これにより「日本軍の無條件降伏」から「日本の無條件降伏」にすり替へられ、我が國は獨立を喪失したのである。
バーンズ回答の「subject to」問題
バーンズ回答については、第二章で詳細に述べた。
このバーンズ回答の問題點とその影響は大きいものがあるが、「subject to」問題は、つまるところ、外務省の背信行爲による我が國の「自繩自縛」、「自己滿足」が引き起こしたものである。
つまり、バーンズ回答には、
From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
とあつたところを外務省は、
「降伏ノ時ヨリ天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ降伏條項ノ實施ノ爲其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル連合軍最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」
と意圖的に誤譯した。つまり、「subject to」は、「從屬」、「隷屬」、「服從」の意味であつて、「制限の下におかれる」ではなかつたのである。
つまり、「subject to」を外務省ではポツダム宣言の受諾を推し進めて軍部の抵抗を和らげるために殊更に「制限の下」と誤譯し、軍部はこれを「隷屬する」と正確に理解したことから、政府内部の混亂を招いたが、結果的には、占領態樣は、まさに一貫して文字通り「subject to(隷屬)」であり、我が國の自由意志なるものは、この自繩自縛によつて喪失したのである。
ただし、このやうに翻譯による悲劇は、これだけではない。これも第二章で述べたが、昭和二十年七月二十八日、鈴木貫太郎首相は、「ポツダム宣言」について、「政府はこれを黙殺し、あくまで戰爭完遂に邁進する。」と聲明を出したが、その際、本來ならば、これを「靜觀する」(no comment)とすべきところを、それが弱氣であると捉へられることを避けて「黙殺する」といふことに決定した。そして、連合國では、この黙殺(ignore)を拒否(reject)と受け止めたことから、九日後に原爆投下といふ「迅速且完全なる壞滅」行爲に着手するに至るのである。
條約法條約
しかし、ポツダム宣言には、「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみとす。」として、ポツダム宣言を受け入れない場合には、原爆投下による我が民族を殲滅(ホロコースト)するとの宣言がなされ、このやうな絶對的強制下でこれを受諾し、完全武裝解除による無抵抗状態において欺罔と脅迫による不利益變更が行はれた降伏文書の調印により獨立を喪失させた條約の瑕疵は極めて重大である。果たして、このことはポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印を無效化する理由となるのであらうか。
この問題の解明については、我が國が昭和五十六年に締結した『條約法に關するウィーン條約(條約法條約)』(條約第十六號及び外務省告示第二百八十二號、資料四十三)が參考になる。
ただし、條約法條約第四條によれば、「この條約の不遡及」を定め、「この條約は、自國についてこの條約の效力が生じている國によりその效力發生の後に締結される條約についてのみ適用する。ただし、この條約に規定されている規則のうちこの條約との關係を離れ國際法に基づき條約を規律するような規則のいかなる條約についての適用も妨げるものではない。」との不遡及規定があるため、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の締結、桑港條約の締結には直接に適用はないことになる。
ともあれ、この條約法條約は、その第五部第二節の第四十六條以下に「條約の無效」について規定し、明白な憲法違反(第四十六條)、特別の制限(第四十七條)、錯誤(第四十八條)、詐欺(第四十九條)、國の代表者の買收(第五十條)、國の代表者に對する強制(第五十一條)、武力による威嚇又は武力の行使による國に對する強制(第五十二條)、一般國際法の強行規範の牴觸(第五十三條)を無效原因として擧げてゐる。
もし、この條約法條約がポツダム宣言と降伏文書などに適用されるとすれば、いづれも無效であることは明らかであるが、當時の國際慣習法においては、武力による威嚇又は武力の行使による國に對する強制(第五十二條)による講和條約はある程度當然のことであつたし、我が國もまた耐え難きを耐え忍び難きを忍んで對外的な天皇の講和大權に基づいてこれを受容したのであつて、これを直ちに無效とすることはできない。
國内法の論理と國際法の論理とは別の法體系であつて、これに國内法の論理を當てはめれば當然に無效であつても、國際法の論理では無效とは言ひ切れない。國際法の論理は、當時から現在に至るまで著しく變化したものの、當時の戰時國際法においては、戰爭とは國家間において武力を行使して行はれる合法的な闘爭であつて、宣戰(開戰)よつて國交が斷絶し、戰闘後に停戰、講和を以て終了する國際紛爭のための一連の合法的な解決手段であつた。我が國もこの戰時國際法に基づいて大東亞戰爭を宣戰大權の行使により國際的には合法的に開戰したのであるから、その終了についての講和も原則として受容しなければならない。確かに、當時の國際法においても、強制によつて締結された條約は無效であるとする國内法と同樣の論理は一般論としてはあり得たが、究極的な國權の發動である戰爭であつても合法であり、その終局の段階である講和にもある程度の強制が加へられても合法であつて、ましてや一般の條約においても外交交渉の一貫として強權的要求があつても有效といふことである。それゆゑ、この大東亞戰爭の終了に際して戰勝國によつて敗戰國を支配するために結成された國際連合體制に組み込まれた我が國としては、敗戰によつて締結された講和條約群に對しては、これがたとへ不平等で不合理な内容であつたとしても、その後の改正、破棄等の手段を以て原状回復を目指さなければならず、事後法である條約法條約の趣旨を援用して獨立喪失條約自體の無效を主張することは、それこそ禁反言の法理が支配する國際的な信義に悖ることになる。我が國の先人達は、幕末において黑船の威嚇により、治外法權と關税自主權喪失などの不平等な内容で締結された安政五カ國條約とその後の條約をそれから五十年以上の長い努力によつてこれらを對等なものへと改正したことを範とすべきであらう。
ところが、假に、さうであつたとしても、前述のとほり、ポツダム宣言には、「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみとす。」として、ポツダム宣言を受け入れない場合には、原爆投下による我が民族を殲滅(ホロコースト)するとの宣言がなされてをり、また、「吾等の條件は、左の如し。」(第五項)として、無條件降伏を求めてゐるのではなく、あたかも有條件降伏を求めてゐるかの如くではあるが、これに引き續いて「吾等は右條件より離脱することなかるべし。右に代る條件存在せず。吾等は、遲延を認むるを得ず。」として、その條件の取捨選擇を許さない「無條件受諾」を求めるものであつた。
それゆゑ、このやうな絶對的強制下での獨立喪失條約がそれでも有效であるとすることには依然として疑問が殘るのである。
日韓保護條約と日韓併合條約
この問題を考へるにおいて、比較すべきは、明治三十八年の『第二次日韓協約(日韓保護條約)』から明治四十三年の『韓國併合ニ關スル條約』(明治四十三年條約第四號。日韓併合條約)に至る大韓帝國における獨立喪失條約群である。日韓保護條約は、我が國が大韓帝國を「保護國」とし、大韓帝國から外交に關する權限の移讓を受け、その後、日韓併合條約によつて大韓帝國を法的に消滅させたからである。
現在の大韓民國(韓國)は、昭和二十三年七月十二日に制定された『大韓民國憲法』(制憲憲法)に基づき、同年八月十三日に獨立を宣言して國際的には獨立したが、法的な意味での對日獨立は、昭和四十年十二月十八日に公布かつ發效した『日本國と大韓民國との間の基本關係に關する條約(日韓基本條約)』(資料四十一)によつてである。つまり、大韓民國が國際政治的に獨立した日は昭和二十三年八月十三日であるが、條約關係上の完全獨立を果たした日は昭和四十年十二月十八日といふことになる。
この日韓基本條約が對日獨立回復條約である所以は、第二條の「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝國と大韓民國との間で締結されたすべての條約及び協定は、もはや無效であることが確認される。」とする點にあつた。
日韓併合條約に至る一連の條約について、我が國側は勿論これをすべて有效であるとしたのに對し、韓國側は、すべて無效と主張したことから、玉蟲色の政治決着の所産として、「もはや無效」といふ表現で合意したが、いづれにせよこの條約によつて過去の日韓併合關係は解消されたからである。
この「もはや無效」について、韓國側は、日韓保護條約の締結の際、我が國の代表である伊藤博文が多數の護衞兵士を率ゐて交渉に臨み、大韓帝國の大臣らを監禁しながら大韓帝國皇帝と重臣の署名を得たので無效であると主張してゐた。そして、その後に條約法條約が締結されてからは、條約法條約第五十一條(國の代表者に對する強制)及び第五十二條(武力による威嚇又は武力の行使による國に對する強制)に違反する條約の締結は、當時においても一般國際法の強行規範に牴觸するものであるから無效であるとの理由も主張することになつた(第五十三條參照)。つまり、韓國側は、「もはや無效」の意味を始源的(原初的)に無效であるとの「確認的」なものと主張するのである。
しかし、第二章でも述べたが、大韓帝國の元首である第二代皇帝純宗は日韓併合に贊成し、全権委員として内閣總理大臣李完用を任命する自署と國璽のある正規の委任状を作成した上で日韓併合條約は締結されたのである。日韓併合條約は李完用が獨斷で行つたものではなく、大韓帝國側の署名も国璽も眞正なものである。また、條約法條約には遡及效がないので、これを根據として事後法的に解釋することはできない。ただし、第一次世界大戰後のベルサイユ條約(1919+660)からは武力による國際關係の構築が問題視されたが、それまでは武力による國際關係の構築は國際法上まつたく問題とはならなかつた。しかも、この國際法は、文明國相互間のみに適用されるものであり、當時の國際社會において既に文明國として承認されてゐた我が國と、李氏朝鮮や大韓帝國のやうな文明の成熟度が低い非文明國との間には適用がない。このことは、これも第二章で述べたとほり、平成十三年十一月十六日、十七日の兩日に亘り、アメリカのハーバード大學のアジアセンター主催で開催された「日韓併合合法不法論爭」に關する國際學術會議において、國際法の專門家でケンブリッジ大學のJ・クロフォード教授の合法論が展開され、これに對する學術的な反論がなかつたことによつて決着濟みのことである。それゆゑ、我が國としては、國際社會の認識に基づいて、「もはや無效」とは、それまで有效であつた條約群が、効對日獨立回復條約である日韓基本條約によつて無效化したといふ「形成的」なものと評價するのは當然である。つまり、我が國は、これらの條約の締結を無效化する程度の強制はなく、強制の究極的な行爲である戰爭の開戰と講和もまた當時は合法であつたとして、「もはや無效である」との趣旨は、日韓基本條約締結時における「失效」ないしは「解除」の意味であるとするのである。
「無效」と「失效」、「解除」の區別については前述したが、嚴格な法律用語の用法からすれば、「無效」はあくまでも「無效」であつて「失效」ではない。その意味で、我が國側としては用語の選擇を誤つたのではないかとの批判はあるとしても、「もはや無效」といふ表現は、「少なくとも現時點では效力を有してゐない」といふ意味で用ゐられたものであることからして、峻別の法理による法理論のデジタル思考の論理による解決ではなく、アナログ思考による「政治決着」の解決を實現したことは賢明であつた。
韓國側の論理は、これらの背景にある歴史問題や政治問題はさておき、遡及效がないことが明記されてゐる條約法條約第四條があるために、このやうな「政治決着」の表現になつたとするものであるが、日韓基本条約締結時には條約法條約は存在してゐないので、牽強付會の事後法的解釋である。しかも、このやうな主張は、實質的には條約法條約第四條を否定するものとなり、現在の論理を過去に遡及的に適用する非を犯かすものであつて失當である。もし、これが認められるのであれば、同じ論理により、安政五カ國條約もまた無效であり、ポツダム宣言の受諾も降伏文書の調印も全て無效であり、その前提で成立した占領憲法も極東國際軍事裁判(東京裁判)も無效となり、桑港條約も無效となつて、とりわけ、桑港條約第十一條の「日本國は、極東國際軍事裁判所竝びに日本國内及び國外の他の連合國戰爭犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本國で拘禁されている日本國民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。・・・」といふ、いはゆる東京裁判條項に法律的にも歴史的にも政治的にも一切拘束されることはなくなる。つまり、韓國側に限らず、日韓保護條約と日韓併合條約の始源的無效論を主張する無明の輩の言ひ分が許されるのであれば、同じ論理によりポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印や東京裁判の無效なども論理的に認めざるを得ないのである。しかし、これらの無明の輩は、前者(日韓保護條約と日韓併合條約の無效)を肯定し、後者(ポツダム宣言の無效、降伏文書の調印の無效、東京裁判の無效など)を否定するといふ二重基準(ダブルスタンダード)の論理破綻に氣付かない。それどころか、日韓保護條約と日韓併合條約の無效の根據として、東京裁判の有效性を主張するといふ支離滅裂の強辯すら行ふのである。
ホロコースト宣言たるポツダム宣言
ともあれ、これに纏はる歴史問題と政治問題といふ現實的な國際問題を解決するために、私は、これらの無明の輩と同じやうに、獨立喪失條約を初め、一切の講和條約群の無效を主張する必要があるのではないかといふ誘惑に過去何度も襲はれたことがあつた。それは、この無明の輩の主張のやうな、日韓保護條約と日韓併合條約は「無效」、ポツダム宣言の受諾も降伏文書の調印は「有效」とする倒錯した論理矛盾を犯さずして、その逆に、前者を「有效」、後者を「無效」とする論理が嚴然と存在するからであつた。つまり、ポツダム宣言の性質が原爆投下によつて我が民族を殲滅する目的の「ホロコースト宣言」であつたとする論理である。
すなはち、ポツダム宣言第十項には、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は國民として滅亡せしめんとするの意圖を有するものに非ざる」としながらも、同第三項には、「蹶起せる世界の自由なる人民の力に對するドイツ國の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本國國民に對する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本國に對し集結しつつある力は、抵抗するナチスに對し適用せられたる場合に於て全ドイツ國人民の土地、産業及生活樣式を必然的に荒廢に歸せしめたる力に比し、測り知れざる程更に強大なるものなり。吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は、日本國軍隊の不可避且完全なる破壞を意味すべく、又同樣必然的に日本國本土の完全なる破壞を意味すべし。」とし、ポツダム宣言の締め括りは、「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみとす。」としてをり、「完全なる破壞」が何度も繰り返し強調されてゐる。
つまり、ポツダム宣言を受け入れない場合には、原爆投下によつて我が民族を殲滅することを宣言し、それが單なる強迫ではなく、實際にも廣島、長崎に投下されて數十萬人を虐殺されてゐたからである。民族殲滅を強迫手段とし、しかもそれが單なる脅しではないとして、現實に順次大量虐殺を斷行し續けて見せしめを行ふといふ手法の強制は、人類史上最大級の卑劣な強制であり、この強制方法は、當時の戰時國際法においても許容性の範圍外のものとして全く豫定してゐなかつた事柄である。當時、陸戰協定では、殘虐な兵器の使用を禁止されてをり、毒ガスやダムダム彈も禁止されてゐたのであるから、原爆がこれに當たることは明白であつた。國際法上違法な兵器を用ゐた民族殲滅といふこの最大級の強制は、前者(日韓保護條約と日韓併合條約)には全くなく、後者(ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印)には歴然と存在した。それゆゑ、前者は「有效」であり、後者は「無效」であるとする論理である。
現在では、これは當然に認められる論理ではあるが、當時はそこまでの論理として認められてゐたかについていろいろと見解は分かれるであらう。しかし、國際政治は、學問で決着できるものではなく、學説はあくまでも學説にすぎない。また、強制における脅迫文言(害惡の告知)は樣々であつて、その告知された害惡の内容如何によつて強制の性質が必ずしも變質するものでもない。刃物をちらつかせ「腕一本を切り取る」といふ脅迫がなされたままで實行に移されない場合と、「皆殺しにする」といふ脅迫がなされ一人づつ目の前で射殺されて行く場合とでは、確かに脅迫の程度と態樣は異なる。しかし、被害者が畏怖し自由な意思を抑壓されて加害者に屈服する過程は、被害者の性格、信念、環境などの被害者側の要素と、加害者の性格、目的、害惡の内容など加害者側の要素との相關關係によるものである。それゆゑ、告知された害惡の内容と害惡の實現の程度は、確かに重要な要素ではあるが決定的な要素ではない。
そして、この國際政治の現實を直視した我が國の先人の足跡と潔さ、「恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」とする教育敕語の精神などを文化總體とする我が國としては、負け惜しみ、負け犬の遠吠え、引かれ者の小唄を唄ふ反面教師である無明の輩と同じ穴の狢となつてはならないとの自戒を以て私はこの誘惑を退けてきた。
しかし、「ホロコースト宣言」であつた「ポツダム宣言」を條約法條約第四條が不遡及を宣言してこれを「有效」としたことは、國際的にも恥ずべき不條理がまかり通つたといふことである。條約法條約は、昭和五十六年七月二十日に公布され、同年八月一日に發效した。それゆゑ、條約法條約第四條が、「この條約は、自國についてこの條約の效力が生じている國によりその效力發生の後に締結される條約についてのみ適用する。」としてゐるために、この條約が發效から約三十六年前の「ポツダム宣言の受諾」とそれ以降の講和條約群にも遡及せず、すべて有效とされたといふことである。ところが、このやうな國際法における不遡及原則を貫くのであれば、同じくその當時において、遡及處罰の禁止を含む罪刑法定主義が國際法として確立してゐたにもかかはらず、「平和に對する罪」や「人道に對する罪」を事後に新設して遡及的に處罰した東京裁判などは、そもそも許されないものとしなければならなかつたし、これの「無效」を宣言しなければならなくなる。ポツダム宣言は遡及效を否定して有效とし、東京裁判は遡及效を肯定して有效とする。いづれにしても、このやうな露骨な二重基準を振りかざし、なりふり構はずにヤルタ・ポツダム體制(國連體制)を堅持して我が國を封じ込めてゐるのである。このやうな國際政治の現状を踏まへて我が國が再生するためには、この國際政治と國際法の論理に依據しつつ、これを實現しうる強かな論理と戰略を構築しなければならない。それが後に述べる講和条條説の論理に基づく占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の破棄通告戰略なのである。
憲法的條約
繰り返し述べるが、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印とは、いづれも、帝國憲法第十三條の講和大權の行使により締結された「獨立喪失條約」である。これを帝國憲法に從つて考察すれば、前記の獨立喪失條約の内容は、統治大權(第四條)を制限し、統帥大權(第十一條)及び編制大權(第十二條)を停止したことになる。そして、これらを制限し停止することを受諾する權限が講和大權といふことになる。このやうに解釋できるためには、各天皇大權の權限序列において、講和大權が、統治大權、統帥大權及び編制大權に優越し、統治大權を制限し、統帥大權及び編制大權を停止しうることが憲法上許容されることが肯定されなければならない。
戰爭の結果は、必ずしも勝利するとは限らず、國家滅亡の危機に遭遇することもありうる。大東亞戰爭はまさにそのやうな世界的な思想戰爭であつた。それゆゑ、講和大權とは、戰爭を終結させるための諸條件など、對手國と停戰講和に關する合意を行ふ權限であつて、その内容は、國家滅亡を回避するための廣範な權限を含むはずである。しかし、憲法改正手續によつては改變しえない規範國體(根本規範)をも完全否定した講和は、國家の同一性を損なひ、國家の滅亡を來すこととなるので、講和大權と雖もそのやうな權限まで授權されてゐない。ここに講和大權の限界が自づと存在するのである。しかし、講和大權は、國家緊急權として、規範國體(根本規範)以外の通常の憲法規範(統治技術的な規定など)については、規範國體を維持する必要がある場合に限つて、これを改廢又は追加すべき義務(帝國憲法改正義務)を負ふ内容の講和條約を締結する權限を含むものと考へられる。
しかし、講和大権の性質が一般的にはそのやうなものであるとしても、實際には、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印といふ入口條約には、帝國憲法改正を義務づける條項がなかつた。つまり、我が國は、連合國が求めた國内政治の變革を受け入れる義務を負つたものの、それは規範國體と抵觸しない事項について、「帝國憲法改正以外の方法」によることを限度として認められるものであつて、決して帝國憲法改正義務まで負つたものではなかつた。この入口條約は、最終講和に至るまでの講和條約群の性質と内容を決定づける總論的な「基本條約」であるから、最終講和に至るまでにおいて、武装解除されて抗拒不能となつた敗戰國である我が國に對して事後的に帝國憲法改正義務を新たに負擔させるなどの不利益變更が許されないことは當然のことである。それゆゑ、我が國は、連合國に對して帝國憲法改正義務を負つてはゐないのであるが、國體護持のため、講和大權によつてポツダム宣言を受諾し、皇軍の完全武裝解除を受諾するなど根本規範に屬する統帥大權、編成大權、統治大權を否定することなく、その行使を制限ないしは停止する趣旨にて合意するに至つたのである。それゆゑ、このことから、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印は、講和大權の行使によつて、根本規範に屬する統帥大權、編成大權、統治大權の行使を暫定的に「制限」ないしは「停止」させる限度で許容されるのであり、將來において獨立し、制限・停止の障碍が喪失した場合には、根本規範の本來的な規範性は當然に復元される。あくまでも暫定的な制限、停止が許容されるのであつて、永久かつ完全に否定するデヴェラティオ(デベラチオ)、つまり「敵の完全な破壞及び打倒」ないしは「完全なる征服的併合」でない限り、條約法條約を持ち出すまでもなく國際法上もありえない。それゆゑ、國際系の講和條約が恆久的に國内系の根本規範を直接に制限、停止ないしは廢止することを内容とするものであつても、それは、「先勝國の政治的要望書」にすぎない。國際系の規範と國内系の規範とは法體系が異なるため、國際系の規範(講和條約)によつて國内系の規範の直接の改廢は不可能である。國内系の規範をそのやうに改變することを要望し、あるいは緩やかに義務付ける程度の效力しか認められない。
なぜならば、後述するとほり、占領憲法の各條項の解釋においても、第四十一條についての政治的美稱説、第二十五條についての制度的保障論、さらに、第九條についての政治的マニフェスト論など、準則と原理の二分論などによつて、法規の持つ規範性について、強いものと弱いものとに區分されるのと同樣に、國際規範においてもその區分は肯定される。そして、直接に國内規範を改變するデヴェラティオ(デベラチオ)のやうな時代錯誤の講和條約が國際法上も認められるはずもないことからすると、國際系の規範のうち、武力によつて構築される内政干渉的な講和條約の規範性は弱いものと認識されるからである。このやうなものに、直接的な法的拘束力があると信じ込むこと自體が「奴隷道德」であり、さう信じ込ませることが「蚤の曲藝」に他ならない。
ただし、その講和條約が恆久的に國内系の憲法規範を否定する内容のものであるとしても、講和條約の性質上からすると、それが國内系の根本規範の場合は、根本規範の行使を暫定的に停止、制限する限度において、また、根本規範に屬しない他の憲法規範の場合は、そのやうな國内系の規範の定立を義務付ける「立法(義務)條約」としての限度で許容されることになるのであらう。
ここで、「許容」されるといふ意味は、國内系では「違憲」であるが、國際系では「合法」であるといふ状態が共存しうるといふことである。いづれは、講和條約が國内系に確定的に組み入れられて受容するか、あるいは講和條約を破棄又は改定して排斥するかして、この國内系と國際系との捻れ現象による相剋が解消されることになる。しかし、それまでは、國内系においては、その未編入の講和條約の國内的效力としての「憲法的慣習(法)」が生じることになる。これは、違憲であるが無效ではないといふ憲法的慣習であり、「違憲慣習」と呼んでもよい。「憲法的」(constitutional)といふのは、憲法そのものではないといふ意味であり、「慣習法」といふのは、適正な手續によつて成立する「法律」といふ意味ではなく、廣義の規範を意味する言葉である。
この憲法的慣習法については、國内系における正規の憲法改正ではないことから、既存の憲法規範の效力自體を否定するものではなく、既存の憲法規範の持つ復元力によつて、憲法的慣習(違憲慣習)を正規の憲法改正に昇格させない状態に留めてゐることになる。これは、國内系と國際系に跨つた「違憲合法論」の一種であると捉へることもできるし、獨立喪失條約(ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印)は、その意味で「憲法的條約」といふことができる。
立法義務條約
ともあれ、我が國における實際の占領統治について見てみると、ポツダム宣言は、保障占領を求めてをり、占領終了後の再軍備についても否定したものの(第十一項)、桑港條約では再軍備を否定しなかつたので、これはあくまでも大權事項の一時的な制限、停止の要求であつた。そして、實際においても、後述するとほり、桑港條約發效により獨立し、これまで制限、停止されてきた障碍が喪失して、個別的自衞權及び集團的自衞權が認められて復活したことから、これら制限、停止されてきた大權事項もまた全て復元したと解されることになる。
このやうに、講和大權の權限内容とは、①規範國體(根本規範)に屬する事項について改廢はできず、暫定的な效力の停止または制限のみができる權限であること、②規範國體以外の通常の憲法規範(統治技術的な規定など)については、規範國體を維持する必要がある場合に限つて、對外的にその改正義務を負ふことを内容とする講和條約(立法義務條約)を締結する權限があること、の二點に集約される。
そして、入口條約である獨立喪失條約(ポツダム宣言、降伏文書)、中間條約である占領憲法(東京條約、占領憲法條約)、出口條約である獨立回復條約(桑港條約)といふ國際系の講和條約群は、講和條約としては有效であつても、國内系においては、規範國體と齟齬し牴觸する限度において無效であり、その齟齬する部分については、對外的には事後(獨立後)において國内法秩序への編入を義務付けられるといふ效力があるといふことになる。あくまでも憲法の改正は、事後(獨立後)において帝國憲法第七十三條による「正系」の憲法改正手續によるものであつて、同第十三條による「閏系」の講和條約締結手續で改正されることはない。
入口條約である獨立喪失條約(ポツダム宣言、降伏文書)は、前に述べたとほり、講和條約群の性質と内容を決定づける總論的な「基本條約」であるから、ここに憲法改正義務が明文化されてゐない限り、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)にも憲法改正義務はない。ましてや、これに憲法改正義務があるとすることは、有條件降伏であり憲法改正義務を謳はなかつたポツダム宣言、降伏文書に違反することになり、武装解除がなされた後の抗拒不能の「戰爭状態」下における一方的な不利益變更であるから、このやうな場合に、これまでになかつた憲法改正義務を追加して義務付けることはできない。
ましてや、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)は、時際法的處理がなされてゐないことから、國内法においては憲法的慣習法に留まつてゐるので、假に、この義務規定があつたとしても、國内法への編入が正式になされてゐないことから、その義務は「未發效」である。
また、もし、講和條約(中間條約)としての占領憲法(東京條約、占領憲法條約)に帝國憲法の改正義務があるとするのであれば、そのやうな解釋はヘーグ條約の條約附屬書『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』第四十三條(占領地の法律の尊重)にも違反することになる。なぜなら、同條は、「國ノ權力カ事實上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶對的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル爲施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘシ。」と規定してをり、連合國の軍事占領下においては、帝國憲法第八條の緊急敕令などによつて占領政策を支障なく實施しえたのであるから、帝國憲法を改正しなければならないやうな「絶對的ノ支障」は全くなかつたからである。帝國憲法は、國家緊急時に對應する規定(第八條、第十四條、第三十一條、第七十條など)が存在し、さらに、臣民の權利義務(第十八条ないし第三十二條)についてはその殆どが法律事項となつてゐるなど、極めて柔軟かつ彈力的に運用しうるものであつたからである。
從つて、いかなる意味においても、占領憲法(講和條約)において憲法改正義務を認めることはできず、時際法的處理がなされてゐないことによる國内系の憲法的慣習法であつても、下位規範である憲法的慣習法が上位規範である帝國憲法の改正を義務付けることなどは法理論からしても到底ありえないことである。
また、百歩讓つて、假に、國際系の講和條約群によつて、對外的、外形的には帝國憲法改正義務らしきものを負担することになるとしても、これは決して國内系において帝國憲法改正義務が發生する根據とはならない。あくまでもこの義務は、講和條約上の國家間における政府の對外的義務であつて、國内法秩序體系において、講和條約に副つた立法措置を講ずる義務を意味するだけであり、これについても國内法秩序への編入における立法方式が採られなければ效力を有しないことはこれまで述べたとほりである。憲法改正以外の方法で立法措置を講ずることは可能であるから、そのやうな程度の義務は決して憲法改正義務ではない。もし、それを課すとすれば、前述したとほり、憲法改正義務を謳はないポツダム宣言及び降伏文書に違反することになり、その義務は無效であつて、むしろ、我が政府にもその義務はない。
むしろ、假に、この對外的な國際系の帝國憲法改正義務といふものがあるとすれば、それは國内系の法秩序からすれば「奇胎」であるから、早晩この相剋を解消させるために、帝國憲法改正を義務付けたものと解釋しうる可能性のある講和條約の條項を改定ないしは破棄するなどしてその義務を消滅させる憲法上の義務を負ふことになる。
このやうに、講和大權は、天皇大權の中でも特別な序列的地位にある。これは、講和大權が、宣戰大權によつて開始された戰爭に敗北した場合に、その敗戰處理のための内政干渉的な講和條約の締結を餘儀なくされることによつて、國内系と國際系との關係性を有することを想定した特殊性からくるものであり、同じく帝國憲法第十三條に規定する大權のうちでも、一般の條約を締結する大權(一般條約大權)とは大きくその性質を異にする。宣戰大權、講和大權及び一般條約大權が、ともに帝國憲法第十三條に規定されてゐるのは、いづれも國際系との關係性を持つ大權であるから、それを一纏めにして列記されてゐるためである。しかし、宣戦大權と講和大權といふ戰爭の顛末處理のための「戰時」における大權とは異なり、一般條約大權は、戰爭によらない場合の「平時」における國際系との關係性を守備範圍とする點で大きくその性質を異にする。非常事態における國家緊急權に含まれる宣戰大權と講和大權と、さうでない一般條約大權とでは、その性質や権限態樣を異にするのは當然である。それゆゑ、一般條約大權は、平時における統治大權と同樣に、立憲主義が嚴格に貫かれるために、規範國體はもとより、通常の憲法律に違反することもできないことは自明のことである。
なほ、國際的な軍縮條約を締結するときは、編制大權(帝國憲法第十二條)をその限度で制約することになるが、それは一般條約大權が編制大權よりも優位の序列に位置するためであつて、これは編制大權の内在的な制約であると言へる。それゆゑ、第一章及び第二章で述べたとほり、一般條約大權に基づいて締結されたワシントン海軍軍縮條約(大正十一年)とロンドン海軍軍縮條約(昭和五年)によつて編制大權がその限度で制約されたのは、一般條約大權の行使に伴ふ反射的な當然の結果であつて、そのこと自體においては「統帥權の干犯」が起こりうる餘地が全くなかつたのである。
ともあれ、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印の結果、「皇軍の無條件降伏」は「統帥大權(帝國憲法第十一條)の停止」として、「皇軍の完全武裝解除」は「編制大權(同第十二條)の停止」として、さらに、「軍事統治による保障占領の受忍」は「統治大權(同第四條)の制限」として、それぞれ暫定的なものとして受け入れることを具體化したのである。
また、この外にも「カイロ宣言の條項は、履行せらるべく、又日本國の主權は、本州、北海道、九州及四國竝に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。」(第八項)として領土の侵奪を受け入れ、「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戰爭犯罪人に對しては、嚴重なる處罰を加へらるべし。」(第十項前段)との規定が不当に拡大適用されて極東國際軍事裁判その他の戰犯處罰を受容した。さらに、「日本國は、其の經濟を支持し、且公正なる實物賠償の取立を可能ならしむるが如き産業を維持することを許さるべし。但し、日本國をして戰爭の爲再軍備を爲すことを得しむるが如き産業は、此の限りに在らず。右目的の爲、原料の入手(其の支配とは之を區別す)を許可さるべし。日本國は、將來世界貿易關係への參加を許さるべし。」(第十一項)との經濟産業に對する統制と制限を講和大權の發動により受け入れたのである。
そして、「日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」(第十項後段)として、表面上は民主主義的傾向の復活強化と基本的人權の尊重を受け入れたこととなつてゐるが、實際は、「吾等は、無責任なる軍國主義が世界より驅逐せらるるに至る迄は、平和、安全及正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本國國民を欺瞞し、之をして世界征服の擧に出づるの過誤を犯さしめたる者の權力及勢力は、永久に除去せられざるべからず。」(第六項)として、特定の思想と政治勢力の排除をも講和大權の發動により受け入れた。つまり、GHQによる自由主義の否定(思想統制)を受け入れざるを得なかつたのであつた。
そこで、このやうな状況下での占領憲法の成立過程を考へるとき、占領軍の強い影響下でGHQの要求と承認によつてなされたといふ政治的かつ社會的な現象としてとらへてみると、占領憲法は「欽定憲法」でも「民定憲法」でもなく、アメリカが制定したとの趣旨から「米定憲法」であるとする見解の方がより正鵠を得てゐるかも知れない。しかし、占領憲法は、到底「憲法」ではありえなし、しかも、アメリカが單獨で制定したものでもない。假に、占領憲法を「憲法」であるとして議論を進めるとすると、占領憲法の實相は、欽定憲法でも民定憲法でも米定憲法でもないとすれば、「協定憲法」といふ種類に屬することになる。この協定憲法といふ憲法は、合意又は契約に基づいて制定される憲法のことで、この中には、君主と人民(代表)との合意で制定される「協約憲法」(一八三〇年フランス憲法など)や、次に述べる「條約憲法」が含まれる。そして、占領憲法は、その中でも、連合國と日本國との間でなされた條約憲法の一種といふことになるのである。
この條約憲法とは、アメリカ合衆國憲法、ドイツ帝國憲法(1871+660)などのやうに、多數の國家が連邦を形成する場合に、國家間の合意によって制定される憲法のことである。一般的に、「國家結合」又は「國家連合」には樣々な態樣があり、そのそれぞれの現象に對應した形態がある。
そのため、憲法と條約のいづれが上位に位置する規範であるかといふ點についても、獨立國家において、自國の最高規範とされる憲法が、その憲法の授權によつて締結される條約よりも優位(上位)であることは言ふまでもないが、歐洲連合(EU)における歐洲憲法條約のやうに、自國の憲法に優位する憲法條約により、國家連合を成立させる場合には、その條約(條約憲法)が優位することになる。しかし、それ以外では自國が最高規範と定めた憲法が優位することは當然のことである。そして、EUが目指す連邦形成といふやうな最も硬い國家結合から、一般條約による友好國關係や同盟關係の創設といふ最も柔らかい國家結合まで無數の態樣が存在することになる。
さらに、その法的效力と法體系の位置づけについても、純粹な「憲法」から「一般條約」までの廣がりを持つことになる。そして、その中間領域として、國家結合の態樣や程度に對應し、當該國家の憲法の一部の改廢を義務付けて國内法體系に影響を及ぼしうる效力を有する條約(憲法的條約)といふ條約の範疇が存在しうることになるのである。
このやうに考へてくると、占領憲法の制定が外國勢力の干渉の全くない状態で純粹に獨立國の憲法として成立したものでないことは明らかであるから、法社會學的に捉へても、國際系の規範といふことになる。しかも、アメリカ合衆國やEUなどのやうな國家連合や、あるいは、廣い意味で國家協力關係を形成しようとするやうな「友好的」な環境の中で成立したものではなく、あくまでも戰勝國が敗戰國を支配するためにその占領下において「敵對的」な環境の中で成立したものであることからすると、占領憲法は、社會科學的なマクロ的見地から考察すれば、紛れもなく「條約」の性質があることが明らかとなつてくる。
講和條約説
では、これから、帝國憲法第七十六條第一項の規範轉換法理によつて、占領憲法が講和條約へと轉換して成立したとの眞正護憲論(新無效論)による「講和條約説」の具體的な説明に入るが、この講和條約説は、これまでの占領憲法に關する效力論爭において全く缺落してゐた視點を明らかにしたことに意義がある。ところが、これまで、これに對する理論上の檢討や批判が全くなされないまま、角を矯めて牛を殺すが如き揶揄の遠吠えしかなされなかつたのは、憲法學の怠慢と貧困さを物語るものといへる。
講和條約説の法的根據や國内系と國際系との關係などについては、これまで述べたとほりであり、占領統治の實態と占領憲法の制定經緯を實質的に判斷すれば、占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)として位置づけられるといふことである。
しかし、決して、占領憲法の公文書に講和條約締結の際におけるGHQ全權としてのマッカーサーのサイン(署名)があるわけではない。占領憲法は、「濳りの講和條約」、「占領憲法の擬態」であるから、そんなものがあるはずもない。しかし、それでも、占領憲法の場合には、手續形式面についても講和條約としての體裁があつたと云へるのである。講和條約の締結は、法律の場合と異なり、帝國議會の協贊を必要としないので(第三十七條)、帝國議會でなされた審議は、帝國憲法の改正審議であるかの如く欺いた僞裝工作といふことになるが、帝國憲法改正案の發議と占領憲法の公布といふ天皇の外形的行爲は、内閣の輔弼による講和大權の行使と見なすことができるからである。いづれにせよ、講和條約の締結のための固有の手續と形式が履踐されてゐないとしても、そのやうな形式具備の有無を根據とすることなく、講和條約(東京條約、占領憲法條約)としての實質を備へてゐるといふことであり、それが帝國憲法第七十六條第一項によつて講和條約(東京條約、占領憲法條約)と評價される所以なのである。つまり、占領憲法は、その實質及び形式(手續)の兩面について、帝國憲法第七十六條第一項により講和條約(東京條約、占領憲法條約)として評價することができるのである。
そして、このことをさらに具體的に檢討すれば、占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)として轉換評價しうる根據を主に以下の二つの視點から示すことができるのである。それは、第一に、法の「妥當性」に對應する「轉換適格性」であり、第二に、法の「實效性」に對應する「事實の慣習的集積」のことである。以下これらについて詳述する。
轉換適格性
まづ、第一に、占領憲法には、法の「妥當性」に對應する「轉換適格性」がある點である。法律行爲について「無效行爲の轉換」があるのと同樣に、規範についても「無效規範の轉換」があることは前にも述べた。法律行爲もまた、その法律效果によつて特定の當事者の間で一定の命令や禁止の當爲を發生させることからすれば、廣く一般人に當爲を發生させる法令等の規範と共通するからである。そして、これを一括して説明することにすると、まづ、轉換前の法律行爲又は規範(A)と轉換後の法律行爲又は規範(B)との關係は、法律行爲又は規範としての共通性を有するものの、兩者は擇一的關係にあることが前提要件となる。擇一的關係とは、兩立しない關係、つまり、AとBとは事項的に重なり合ふ部分がなく、BとAが相互に包含關係にあるといふこともない關係のことである。
具體的に言へばかうである。國内系の規範である憲法(A)は「單獨行爲」であり、國際系の規範である講和條約(B)は「契約」であることから、兩者は法形式において異なるが、ともに規範定立行爲であるといふ本質的性質において共通する。憲法(A)は、國内系の規範であり、國家機關内部の手續が必要であるとしても、その國家が他國とは無關係に單獨で形成する規範といふ意味では「單獨行爲(規範)」である。これに對して、講和條約(B)は、國際系の規範であり、戰爭當事國の合意によつて成立する「契約(規範)」であり、直接または間接に自國の國内系の規範として編入される性質も有してゐる。しかし、ある規範が國内系の憲法(A)であると同時に國際系の講和條約(B)でもあるといふことはあり得ない。つまり、憲法(A)と講和條約(B)とは擇一的關係にあるといふことである。
そして、さらに、無效な憲法(A)から有效な講和條約(B)への轉換が認められるための前提要件としては、無效な憲法(A)の内容に講和條約(B)としての國家間の合意がなされたと同視しうる實質的な事情とその合意事項が存在してゐなければならないといふことである。これがなければ凡そ講和條約(B)へと轉換しうる適格性がなく、その前提を缺くことになる。
そして、前章で述べたとほり、裁判所の裁判例によれば、このやうな前提要件を滿たせば、たとへば、無效の遺言(單獨行爲)が死因贈與(契約)に轉換することを認めてゐるのである。それゆゑ、このことと同樣に、憲法形式によつて單獨行爲(規範)として定立されたものが無效であるとしても、それがこのやうな前提要件を滿たすならば講和條約といふ契約(規範)へと轉換しうる可能性があるといふことになる。
本來ならば、純粹に國内法の領域に關する事項であれば、その適格性はないことになるが、占領憲法は、實質的にはGHQによる内政干渉的な要求を我が政府がこれを承諾してなされた合意であるから、その適格性があるといふことになる。つまり、字句の微細な相違はあつても、GHQ側の講和條約案である「GHQ草案」の要求項目と、最終的な占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の規定事項とは、その後の交渉經緯からして概ね一致してゐるので、全體として占領憲法には講和條約としての轉換適格性が認められることになる。
ただし、轉換により異なる規範として「成立」することを意味するだけであつて、轉換がなされれば、當然に「有效」となるものではない。その意味では、轉換適格性とは、轉換の成立要件であつて、效力要件ではない。特に、講和條約(東京條約、占領憲法條約)へと轉換して效力を得るためには(發效するためには)、時際法的處理がなされることが要件となることは前述したとほりである。
また、講和大權の發動による講和條約に限らず、一般條約大權に基づくその他の條約に共通するものとして、一般には「書面主義の原則」といふものがある。つまり、一般に、條約とは、書面の形式によつて締結される國際系の合意(契約)といふことである。しかし、書面といふのは、一つの書面による合意文書である必要はない。契約は、申込と承諾といふやうに、對向する當事者の意思表示の合致によるものであるから、通常はその合意を示す一つの合意文書が作成される場合が多いが、それだけではなく、申込文書と承諾文書といふ二つの書面があつて、その内容が客觀的に對應し、合意の存在が明らかになつてゐれば充分である。現に、占領憲法においては、「GHQ憲法草案」といふ申込文書と、承諾文書に該當する「日本國憲法」が存在するのである。
そもそも、書面を求められることの意味は、その合意の存在が單なる口頭によるものではなく、その存在を公證すべき何らかの書面といふ證憑があることで足りるといふことであり、また、その書面の種類や形式は合意によつて簡素化できるのであつて、合意文書といふ特定の形式(方式)が必要なのではない。つまり、條約は書面だけが要求されるだけで、特定の記載事項が求められたり、その他特別の方式を必要としないことから、嚴密な意味での「要式行爲」ではない。そして、轉換前の規範(A)と轉換後の規範(B)とが、書面主義の態樣において共通したものであるときは、轉換適格性の前提要件を滿たしてゐることになる。
この書面主義に關しては、次の點に留意する必要がある。降伏文書は、合意文書の形式であるが、ポツダム宣言の受諾については、ポツダム宣言が申込文書であるとすると、その承諾文書に對應するものがない。我が政府は、中立國スウェーデン・スイスを通じて連合國へポツダム宣言受諾を正式に打電して申入れただけである。ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印が講和大權に基づく獨立喪失條約(入口講和條約)であることについて、今では異論を挾む者は居ないと思はれるが、第二章で述べたとほり、その當時、これまでの國際法における講和條約の方法によらない異例のものであつたことから、政府の國内手續においてはこれを「條約」としては扱つてゐなかつた。つまり、當時の樞密院官制によると、「國際條約ノ締結」は諮詢事項となつてゐたにもかかはらず、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印については、この諮詢手續がなされてゐなかつたし、官報の搭載にも、これを「條約」欄ではなく、「布告」欄に公示されたのである。これは、これまでの國際法による慣例を著しく踏み外した異例の事態に當惑した結果であつたが、このやうな國内手續を履踐しなかつたといふ手續規定違反があるからと云つて、これは講和條約の有效要件ではないので、獨立喪失條約が無效であるとすることは到底できないし、これに異議を唱へる學説はない。
このやうなことは、「講和」の場面だけでなく、「開戰」の場面でも同じやうなことがある。これも第二章で述べたとほり、『開戰に關する條約』(明治四十五年條約第三號)第一條には、「締約國は、理由を附したる開戰宣言の形式又は條件附開戰宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且事前の通告なくして、其の相互間に、戰爭を開始すべからざることを承認す。」とあり、第二條には、「戰爭状態は遲滯なく中立國に通告すべく、通告受領の後に非ざれば、該國に對し其の效果を生ぜざるものとす。該通告は、電報を以って之を爲すことを得。但し、中立國が實際戰爭状態を知りたること確實なるときは、該中立國は、通告の決缺を主張することを得ず。」と規定し、相手國に宣戰通告をせずに戰闘を開始することを禁ずるのであるが、この趣旨は、不意打ち攻撃を禁止する趣旨であり、戰爭當事國が宣戰通告することなく戰爭状態であることを認識してゐる場合は、これを不要と解釋されてをり、それが國際慣習法として通用してゐたのである。
このことを踏まへれば、長い非獨立トンネルの入口條約(ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印)から出口條約(桑港條約、舊安保條約及びその繼承である新安保條約)の中間に位置する占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の制定過程は、中間條約としての講和條約の性質を有してゐたことの實質的かつ具體的な理由があつたことが解る。その詳細は、以下のとほり多岐に亘る。
講和條約と評價しうる具體的理由
1 まづ、昭和二十一年二月十三日、GHQ側が「マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)」に基づいて作成された『日本國憲法草案(GHQ草案)』を我が國政府側に手交して、これによる憲法改正を指令し、このGHQ草案を翻譯した「三月二日案」をGHQがさらに訂正した確定案を政府に強制して閣議決定された「GHQ修正草案」が政府の確定草案(三月五日案)となり、これに若干の字句の訂正を經て、『帝國憲法改正草案要綱』を作成してマッカーサーの承認を得たものであり、その後も、條項の細部に亘つて詳細な指示と交渉が繰り返され、これにより政府原案が作成され、さらに引き続き指示と交渉が爲され、帝國議會の審議等の國内の形式手續を經て占領憲法となつた經緯がある。つまり、GHQ草案の手交は、講和條約(東京條約、占領憲法條約)の「申込文書」であり、「占領憲法」の制定は「承諾文書」であると評價できる。前に述べたとほり、「契約」は、申込と承諾によつて成立するので、文書化することはその證明方法であつて、一つの「合意文書」を作成しなければならないことはない。申込文書と承諾文書の二つの文書によつて合意を證明することもできるからである。『條約法條約』第二條(用語)第一項にも、「『条約』とは、国の間において文書の形式により締結され、国際法によつて規律される国際的な合意(単一の文書によるものであるか関連する二以上の文書によるものであるかを問わず、また、名称のいかんを問わない。)をいう。」とあり、合意文書が作成されることは要件とされない。文書の個數にも制約がなく、その名稱も問はないのであるから、ポツダム宣言とその受諾、降伏文書の調印が一連の條約であると判斷されるのと同樣に、GHQ草案の手交とそれによる占領憲法の制定手續と、後に述べるやうに、GHQの命令によつて占領憲法を「英文官報」といふ文書により公示した經過からすれば、その實質はまさに「講和條約」なのである。
2 また、占領政策の最高決定機關である極東委員會(FEC)は、昭和二十一年三月二十日に、「極東委員會は(占領憲法の)草案に對する最終的な審査權を持つてゐること」との決定をなしてをり、同年十月十七日において、占領憲法の「最終審査」が未了のまま、事後において占領憲法が「日本國民の自由に表明された意思」に基づくものであるか否かを「再檢討」するといふことになつたものの、桑港條約の發效とともに廢止されたといふ一連の經緯からして、占領憲法は單純に國内系に屬する規範ではなく、連合國と我が國との講和條約であることの實質的な性質を有してゐたことが明らかである。
3 次に、「終戰連絡事務局」の存在が擧げられる。GHQからの命令や連絡を受ける政府側の窓口は、「終戰連絡事務局」であり、これは、ポツダム宣言受諾直後の昭和二十年八月十九日、マニラに派遣された河邊虎四郎全權がGHQとの「マニラ會談」においてGHQから手交された要求事項に基づいて設置されたものである。この「終戰連絡事務局」は、外務大臣の所管とされ、「大東亞戰爭終結ニ關シ帝國ト戰爭状態ニ在リタル諸外國ノ官憲トノ連絡ニ關スル事項ヲ掌ル」といふものであり、その後の機構と名稱が變更されたものの、ポツダム宣言受諾の直後から桑港條約發效までの非獨立時代を一貫して存續してきた組織である。それは、占領憲法の施行の前後においても全く變はることはなかつたのである。つまり、占領憲法の制定、施行とは全く無關係に獨立に至るまで一貫した講和交渉の窓口が置かれてゐたことになる。
4 そして、この占領憲法制定過程において、當初から外務大臣、そして内閣總理大臣として深く關與してきた吉田茂は、「・・・改正草案が出來るまでの過程をみると、わが方にとっては、実際上、外国との条約締結の交渉と相似たものがあった。というよりむしろ、条約交渉の場合よりも一層”渉外的”ですらあったともいえよう。ところで、この交渉における双方の立場であるが、一言でいうならば、日本政府の方は、言わば消極的であり、漸進主義であったのに対し、総司令部の方は、積極的であり、拔本的急進的であったわけだ。」(吉田茂『回想十年』第二卷)と回想してゐるとほり、まさに占領憲法は、交渉當事者の認識としても「外國との條約締結の交渉」としての實態があつたといふことである。つまり、占領憲法制定作業は、政府とGHQの二者間のみの交渉によつてなされ、政府は常にGHQの方のみを向いて交渉し、帝國議會や臣民の方を向いてゐなかつたことから、占領憲法は、國内法としての憲法ではなく、國際法としての講和條約であつたといふことである。
5 このことは、何も交渉當事者であつた吉田茂だけの感覺や評價に限られたものではなかつた。たとへば、上山春平(京都大學名譽教授)は、『大東亜戦争の思想史的意義』の中で、「あの憲法は、一種の国際契約だと思います。」と述べてをり、後述するとほり有倉遼吉(元早稻田大學法學部教授)も占領憲法が講和大權の特殊性によつて合法的に制定されたとする見解を示してゐたこともあつたのである。また、前に述べたとほり、黒田了一(元大阪市立大學大學法學部教授、共産黨系の元大阪附知事)も占領憲法を「條約」であるとする見解を示してゐたのである。
6 同樣に、昭和二十九年三月二十二日の衆議院外務委員會公聽會において、外交官大橋忠一議員の發言にも注目すべきものがある。大橋忠一議員は、第二次近衞内閣當時の外務次官を務め、また、昭和十五年十一月に松岡外務大臣のもとで外務次官となつて日米交渉に携はつた外交官であるが、この衆議院外務委員會公聽會において、「GHQの重圧のもとにできた憲法、あるいは法律というものは、ある意味においてポツダム宣言のもとにできた政令に似た性格を持つたもの」といふ發言をしてゐる。長く外交官を務めた者の判斷として、占領憲法は、ポツダム宣言に根據を持つ下位の法令であるとしてゐるのである。
7 また、吉田茂の第一次内閣發足直後の樞密院審議において、吉田は、「GHQとは、Go Home Quicklyの略語だといふ人もゐる。GHQに早く歸つてもらふためにも、一刻も早く憲法を成立させたい。」と發言して、これが講和の條件として制定する趣旨であることを樞密院に説明し、樞密院は講和獨立のためといふ動機と目的のために帝國憲法改正案を諮詢したことになり、講和條約の承認としての實體があつたことになる。
8 さらに、吉田茂は、占領憲法が「新日本建設の礎」となるとして、それを與へてくれたマッカーサーに感謝の書簡を出してゐる。それを與へくれたといふのは、まさに講和條約を受け入れたといふことであり、獨自の憲法であれば、それをマッカーサーが與へてくれたと感謝する必要もないのである。
9 そして、「英文官報」の存在も無視できない。GHQの指令により、昭和二十一年四月四日から獨立回復した昭和二十七年四月二十八日までの間、「英文官報」(英語版官報)が發行されてゐた。これは、外務省の終戰連絡事務局と法制局との協議によつて作成し、GHQの承認を得て掲載されるものであつて、我が國の法令は、すべてGHQとの條約交換公文方式によつて公布、公示されてきたのである。そして、占領憲法については、特に嚴密にGHQの承認を得て帝國憲法改正案(占領憲法)の英譯文を作成して掲載されたものである。ちなみに、この公文書たる「英文官報」に掲載された「英文占領憲法」が現在でも市販のいくつかの六法全書に掲載されてゐるのは、單なる任意の英譯文ではなく、英文官報掲載された「英文占領憲法」として規範的效力を有する公文書なのである。
10 連合國軍最高司令官總司令部の最高司令官(GHQ/SCAP)であるマッカーサーが發令した、昭和二十年九月十日『言論及新聞の自由に關する覺書』(SCAPIN16)、同月十九日『日本に與ふる新聞遵則』(SCAPIN33)及び同月二十二日『日本に與ふる放送遵則』(SCAPIN43)などによる一連の言論、新聞、報道の規制と檢閲制度の全體を『日本プレスコード指令』と呼稱するが、削除又は發行禁止處分の對象となる項目としての具體的な内容(文獻170、183、184)の一つに、「SCAPが憲法を起草したことに對する批判(日本の新憲法起草に當つてSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に當つてSCAPが果した役割に對する一切の批判。)」が含まれてゐた。このことは、占領憲法の實質は、GHQ/SCAPと日本國との合意(講和條約)であり、それを國内的には憲法と假装することの「密約」があつたと評價できるものである。つまり、占領憲法は、「憲法」ではないが、その「擬態」として作られたものであり、その本質は講和條約であるといふことである。
11 また、桑港條約第一條に注目せねばならない。ここには、「日本國と各連合國との間の戰爭状態は、第二十三條の定めるところによりこの條約が日本國と當該連合國との間に效力を生ずる日に終了する。連合國は、日本國及びその領水に對する日本國民の完全な主權を承認する。」と規定し、同條約の效力發生(昭和二十七年四月二十八日)までは、我が國には「完全な主權」がなかつたことを宣言した點についてである。
このことは、占領憲法の前文に「日本國民は、・・・ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」ことが、占領憲法の制定時も施行時も不可能であつたことを意味し、その宣言内容が全てが虚僞であることを桑港條約によつて證明されたことになるのである。
確かに、前に述べた主權概念の二義性からすると、桑港條約第一條の「主權」は對外的主權の意味であり、占領憲法前文の「主權」は對内的主權を意味するので、同列には議論できないとしても、對外的主權が維持されてゐない状態では對内的主權がありえないことからすれば、このやうな批判は當を得たものではない。つまり、占領憲法が確定したとする時點では、戰爭状態も終了してをらず、未だ戰爭中であり、しかも完全軍事占領下の非獨立状態であつたから、いづれの主權概念であつても「完全な主權」がなかつたといふことである。しかも、そのことについて占領憲法は一言も觸れてゐない。「日本國民は、・・・ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」といふのは明らかな誤りであつて、「この憲法を連合國の軍事占領下の非獨立の時期に制定する。」とすべきであるのに、あたかも、獨立國の憲法であるかの如く假装した欺瞞に滿ちたものとなつてゐる。降伏文書は「停戰協定」にすぎず、依然としてその實效性が繼續して「戰爭状態」にあり、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ・・・聯合國最高司令官」の隷屬下に置かれてゐたのであるから(subject to)、「主權者」は、「聯合國最高司令官」であつて、「日本國民」ではなかつたからである。そもそも、占領憲法のどこを探しても、占領憲法が「非獨立」の「戰爭状態」で制定されたものであるとの記載がない。占領憲法は、このやうな重大な事實を隱して、あたかも「一人前の憲法」であると僞つた「詐欺憲法」なのである。
それゆゑ、少なくともこの「日本國民は、・・・ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」との部分は、「主權の存する聯合國最高司令官は、・・・主權が將來において國民に移讓されることを宣言し、この憲法を非獨立の軍事占領下における戰爭状態で聯合國の強制により制定する。」といふのが實質的な意味となる。この「主權の移讓」といふ論理は、第二章でも述べたとほり、英米によるイラク戰爭後のイラク統治においても用ゐられ、平成十六年六月二十八日、米英によるイラク暫定占領當局(CPA)がイラク暫定政府に主權を移讓したとするものと同樣である。
これは、戰爭で勝利して實現した實力(暴力)こそが唯一正當な權力(主權)であり、戰勝國の意に反しない敗戰國の國民にその主權を移讓することができると信奉してゐる暴力至上主義の主權論に基づくものであり、占領憲法もイラク憲法もまさにこの主權移讓を受けたことに正當性の根據を見出す「暴力禮贊憲法」なのである。
12 さらに、桑港條約第十九條(d)である。これには、「日本國は、占領期間中に占領當局の指令に基いて若しくはその結果として行われ、又は當時の日本國の法律によつて許可されたすべての作爲又は不作爲の效力を承認し、連合國民をこの作爲又は不作爲から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。」と規定してゐる。
そして、前に述べたとほり、この「指令に基いて若しくはその結果として行われ」たものの中に、占領憲法の制定があつたことは歴史的事實ではあるが、あくまでもこれは「憲法」であるとの認識から、形式上は占領憲法を除外してゐるのである。もし、同條(d)において、占領憲法が「指令に基いて若しくはその結果として行われ」たものの中に占領憲法が含まれると明記したのであれば、これに含まれたことになるが、そのやうに明記すれば國際法違反であることをわざわざ宣言することになるので、そのやうに明記できなかつたのである。つまり、この條項を政治的意圖を以て擴大解釋すれば、占領憲法は我が國と連合國との合意によつて成立したものであるとの認識がなされてゐたことになるのである。
この桑港條約第十九條(d)の原型は、「この憲章のいかなる規定も、第二次世界戰爭中にこの憲章の署名國の敵であつた國に關する行動でその行動について責任を有する政府がこの戰爭の結果としてとり又は許可したものを無效にし、又は排除するものではない。」と規定する國連憲章第百七條に見出すことができる。これは連合國が我が國になした占領憲法の強要を含む一切の行爲を免責させその效力を維持させようとするものである。つまり、我が國がポツダム宣言受諾前に「敵國條項」を含む國連憲章を作成し、それを最終的には桑港條約第十九條(d)によつて、未だに「敵國」であることを改めて我が國に承認させたかつたのである。そして、その上で、我が國が國連に加入(國連憲章の承認)したのであるから、我が國は占領憲法の改廢をしないことの誓約をしたに等しい。このやうに、連合國は、國連憲章と桑港條約によつて我が國に占領憲法を改廢することを禁止する意向を示し、我が國がそれを受諾したかのやうな事實的状況からして、占領憲法は獨立國の憲法としての性質を有せず、實質的には連合國との講和條約であることが客觀的に明らかとなつてゐるのである。
13 そして、さらに、再び占領憲法の前文に注目してほしい。その最後には、「日本國民は、國家の名譽にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」として締めくくつてゐる。ところで、この「誓ふ」といふのは、一體誰に誓ふといふのか。「主權が國民に存する」のであり、その國民主權を制約したりする上位に位置するものはないはずである。なのに「誓ふ」ことは矛盾する。「誓ふ」といふのは、本來は「神」に誓ふといふやうな場合に使ふものである。その「神」とは、この場合、戰勝國である連合國のことである。連合國に誓ふのである。將來、獨立したときは主權移讓をしてもらふことになる神である主權移讓者の連合國に誓ふのである。これこそ、講和條約の實體であつたことを宣言したことになる。つまり、帝國憲法から「主權委讓」(國内的主權移轉)されたのではなく、連合國から「主權移讓」(國際的主權移轉)されたことを宣言したのである。
14 また、占領憲法第九條第二項後段(國の交戰權は、これを認めない。)の表現は極めて不可解である。一體、誰が誰に對して「認めない」といふのであらうか。これは、まぎれもなく「連合國は、我が國の交戰權を認めない。」といふ講和條件を意味してゐる。もし、主體性のある自國の憲法であれば、この表現は、「國の交戰權は、これを抛棄する。」となつたはずである。
15 最後は、占領憲法第九十八條である。 ここには、前文の「誓ふ」と同樣に、占領憲法は、その主權をGHQから移讓を受けたことを、いみじくも暴露してゐるのである。占領憲法制定時から既に國民に主權があつたと僞裝したはずであつたが、やはりその出生の祕密を完全には隱せなかつた。出生の祕密を暴露してしまつた規定を設けてしまつたのである。
この規定は、前にも述べたが、條約優位説の根據となるのではないかとの見解や、最高裁判所もそのやうな見解ではないかといふことの根據となりうるものである。つまり、この第一項には、「この憲法は、國の最高法規であつて、その條規に反する法律、命令、詔敕及び國務に關するその他の行爲の全部又は一部は、その效力を有しない。」として、これには「條約」が含まれないが、同第二項には「日本國が締結した條約及び確立された國際法規は、これを誠實に遵守することを必要とする。」と規定し、ここでは明らかに「條約」を含めてゐるのである。
「條約」は、「法律」でも「命令」でも、ましてや「詔敕」でも「國務に關するその他の行爲」でもない。占領憲法では、「法律」と「條約」とを明確に區別し、兩者を含むときは、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔敕を排除する。」(前文)といふやうに、「法令」とする。ましてや、第二項では、「條約」についてのみ言及してゐることからして、第一項には、「條約」が含まれないことは明らかである。つまり、このことからして、第一項は、占領憲法に違反する法令のうち、條約のみは有效であることを意味する。
また、第二項は、「日本國が締結した條約及び確立された國際法規は、これを誠實に遵守することを必要とする。」とするだけで、「この憲法に反しない限り」といふやうな限定もない。それどころか、いかなる「條約」であつても、また、條約ではないとしても「確立された國際法規」については、無條件で遵守することを義務付けてゐる。
この「確立された國際法規」とは、ヤルタ・ポツダム體制を集約的に表現した、我が國を敵國として規定した國連憲章を意味することは明白である。
それゆゑ、占領憲法は、條約及び國際法規とは效力的には同等(同位)であるか、あるいは條約等が占領憲法よりも優先する存在であることを認めてゐることになるのであつて、占領憲法が實質的に條約であることを自ら宣明してゐることとなつてゐる。
事實の慣習的集積
次に、占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)として轉換評價しうる根據の第二の要件としては、法の「實效性」に對應する「事實の慣習的集積」が滿たされなければならないことである。
つまり、法形式の異なる規範が他の規範に轉換されたと評價されるべき「事實の慣習的集積」が存在しなければならないのである。即ち、國内的及び國際的な事情において、講和條約として轉換されたと評價しうる程度の反復繼續した事實が集積し、それが講和條約としての國際的信賴性を形成することによつて、規範性が付與されることである。これが國内法體系における場合とは異なる國際的慣習なのである。
占領憲法(東京條約、占領憲法條約)は、連合國が我が國に占領憲法の内容のとほりの國内法秩序を義務付けること(強制すること)を目的とした性質のものである。そして、形式的にも帝國議會の制定手續を經たものであり、占領憲法下の國會における條約の批准と同樣の手續を先取り的に履踐させたものである。そして、我が國は、連合國との間で締結された桑港條約及びこれと同時に連合國の幹事國であつたアメリカとの間で締結された「舊安保條約」によつて、やうやく獨立が回復された後も、特にアメリカとの通商經濟關係を深め、兩國政府間においても、これらに關連する各種の條約を締結して今日に至つてゐる。そして、このやうな一連の講和條約群及び一般條約群の締結による日米兩國政府間の密接な國際關係の形成や國會審議の經緯からしても、占領憲法は、舊安保條約等との一體的運用によつて、兩國間の基本的條約として尊重し遵守してきた實績がある。自衞隊の創設も我が國には自主性はなかつたもので、專らGHQの意向によるものであり、占領憲法第九條の解釋の變遷も、我が國が自律的に行つたものではなく、實質的にはGHQの「命令と承認」によつてなされたものである。そして、このことは、占領憲法第九條と自衞隊の關係のみならず、占領憲法第二十條、第八十九條と靖國神社の問題についても同樣である。國内事情には大きな變化がないにもかかはらず、連合國の意向など國際的な事情などの變化や諸外國の要求によつて占領憲法の解釋適用が影響されてをり、およそ最高規範としての尊嚴と信賴がない。占領憲法は、連合國に對する「詫證文(謝罪憲法)」であつて、これに基づいて謝罪外交を繼續し、その解釋適用において諸外國の内政干渉を受け續け、それを我が國も受容してゐる。
デュルケームの「集合表象」(集團表象、社會的表象)の觀点から考察すると、占領憲法に對する我が國の社會全體の空氣は、占領憲法第九條の問題と靖國問題などが肥大化して認識され、戰争の放棄や戰力不保持、交戰權の否認といふものを、過去に侵略戰爭を行つたことに對する自國に課した制裁であるかの如く、我が國がそのことを諸外國と約束したとの社會意識に支配され、まさしく「條約」としての拘束力を有してゐる。それゆゑ、諸外國から占領憲法第九條問題や靖國問題などに關する内政干渉的發言があつたとき、これまではそれを内政干渉であるとの反發が弱く、むしろ、真摯にこれを受け止めるといふ空氣が、政界、官界、財界、法曹界その他遍く社會全般に漂つてゐたのである。
このことからしても、占領憲法が施行されてきたとするこれまでの道程における實質的な運用實績の樣相は、むしろ憲法としてのそれではなく、實質的には講和條約としての運用がなされてきたと云へるのであつて、その限度の實效性しか有してゐなかつたのである。
GHQの占領統治は、原則として間接統治形態であつたことからして、占領憲法の制定はまさに間接統治の産物である。間接統治とは、GHQが直接に統治せず、政府を通じてなされるものであるから、GHQと政府とは、常に講和の一環としてあらゆる事項について交渉してきたといふことである。これはまさに講和交渉そのものであり、占領憲法がその交渉によつて誕生したことからして、占領憲法が講和條約の實質を備へてゐることの證となつてゐる。
なほ、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)が國際系の講和條約として成立したものの、國内系秩序への編入に必要である立法方式による時際法的處理がなされてゐないことによつて正式には國内系に編入されてをらず、その内容と同樣の憲法的慣習法として國内で通用してゐることは前にも觸れた。それゆゑ、この憲法的慣習法としての國内における事實の慣習的集積は、あくまでも憲法的慣習法として認められるに必要な實效性の要件に關するものであつて、ここでの問題ではない。ここで議論してゐるのは、あくまでも、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)としての國際系における實效性(事實の慣習的集積)のことである。つまり、占領憲法が國内法秩序の最高規範である憲法であるとすれば、他國からその解釋に基づいて國政のあり方を批判されることは、極度の内政干渉であるから國際法上許されないにもかかはらず、それを受け入れて續けてきたこと、そして、過去の歴史問題についても他國の批判と抗議を受け入れてそれに我が政府が迎合し續けてきたことなど、我が國と連合國(その便乗國を含む)との國際社會において我が國がこのやうな内政干渉を容認し續けてきた國際的な事實の慣習的集積を以て、占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)であることを根據付けることになるといふことである。
無效規範の轉換
前にも述べたが、この第七十六條については、「憲法施行以前ニ於ケル法令及契約ノ效力ヲ規定シタリ」(文獻6)とする解釋があり、憲法制定時において、そのやうな要請から生まれた規定であるといふ沿革があつたことは確かである。しかし、この規定には、「憲法施行以前」といふ限定の文言は全くないので、ことさらに「憲法施行以前」に限定して解釋する根據に乏しいものがある。それどころか、憲法施行以前といふのは、憲法は存在するがその效力の發生が停止されてゐる状態と理解すれば、憲法施行以後であつても、國家の異常な變局時に憲法の效力が事實上停止されてゐる状態と全く同樣なのである。それゆゑ、憲法の效力が停止されてゐる状態であれば、施行の前後で區別する必要はなくなる。施行以後においても憲法の效力が事實上停止されてゐたり、事實上の障碍が存在する場合にも同條が適用されることは當然のことであり、少なくとも類推適用が肯定されるとすることに問題はない。そして、GHQの軍事占領下の我が國の法的状況は、まさにそのやうな状態であつたのであるから、同條が適用されることに異論はないはずである。
このやうにして、占領憲法は、憲法としては無效であるが、帝國憲法第七十六條第一項により無效規範の轉換がなされ、講和條約としては成立したことなるのであるが、それは、要件が嚴格である國内系の規範から、それよりも要件が緩和された國際系の規範への轉換であることも、その轉換が容易なる一因でもある。
帝國憲法下における憲法の改正の要件と手續と比較して、講和條約の締結は、帝國議會の議決を必要としないなど、著しくその要件と手續が緩和されてゐるため、比較的その轉換が容易となるのである。その逆に、講和條約から憲法改正への轉換は不可能といふことになる。
それは、遺言(單獨行爲)から死因贈與(契約)への轉換を認めた前掲裁判例の場合も、要件と手續が嚴格な遺言から、その要件と手続が著しく緩和された贈與への轉換であつたためである。
また、憲法から講和條約への轉換は、内には嚴しく、外には寛容であること、そして、恭儉己れを持し然諾を重んずれば、國内系の要件は嚴しく、國際系の要件はそれより緩和されるといふことも認められる。前に述べたとほり、ポツダム宣言の受諾や降伏文書の調印といふ入口條約については條約法條約の適用がないことや、日韓基本條約第二條の解釋に関して日韓保護條約が無效でなかつたとすることなどからしても、占領憲法は憲法としては無效であるが、講和條約(東京條約、占領憲法條約)の限度で成立したと理解することは、一貫した矛盾のない論理である。
ところで、講和條約に轉換されるといふことは、當事國の意思を介在せずに當然に轉換することを意味する。「轉換」といふ現象は、法律行爲の效果ではなく、當事者の意思を全く介在せずに生起する現象で、法律學的な意味でいふところの「事件」である。
ここで、基礎的な概念を整理しておくと、一般に、權利變動の原因となる事實を「法律要件」と呼び、その法律要件を具備すると、一定の「法律效果」が生ずることになる。法律要件の主要なものに、契約などの「法律行爲」がある。そして、法律要件を構成する要素となる法律上の事實のことを「法律事實」といふが、この法律事實は、さらに人の精神作用に基づくものと基づかないものとに區分され、人の精神作用に基づくものの代表的なものに「意思表示」があり、また、人の精神作用に基づかないものを「事件」と呼んでゐる。法律要件たる法律行爲は、一個又は數個の法律事實たる意思表示によつて構成され、一個の單獨の意思表示で構成されるもの(遺言、解除など)と對向する二個以上の意思表示の合致によつて構成されるもの(契約など)などがあり、それに對應した法律效果を生じさせる。また、精神作用に基づかない事件には、時の經過や人の死などがあり、それによつて時效や相續などの法律效果を生じる。
このやうに、特定の法律效果を生む法律要件には、必ずしも人の精神作用(意思)に基づくものばかりではなく、これに基づかない事件がある。人の死は、それを願つても願はなくても、あるいは、相續といふ法律效果を生じさせる意思(效果意思)がなくても相續といふ法律效果が發生する。そして、ここでいふ「無效規範の轉換」といふ法律效果を生む法律要件は、まさにこの人の死といふ事件によつて生ずる相續といふ法律效果と同樣に、「轉換適格性」と「事實の慣習的集積」を滿たす客觀的事實が備はれば、「轉換」といふ法律效果を發生させるのである。「轉換させる意思」といふ效果意思は不要である。「無效規範の轉換」といふ法律效果は、當事者の意思表示によつて生ずるものではないからである。その意味で、轉換は「事件」である。つまり、當事國の明確な意思とは異なるとしても、轉換の要件を滿たす限り轉換するのである。換言すれば、我が國と相手國(GHQ)がその當時から現在まで講和條約であるといふ確定的な認識をしてゐることを全く不要とするのである。客觀的事實が相手國との講和條約として轉換しうる要件を充足すれば足り、主觀的要素としての當事國の認識は不要なのである。そもそも、講和條約を締結するといふ明示かつ確定的な意思表示があれば、初めから講和條約として成立するのであつて、「轉換」を論ずる餘地はない。尤も、我が國もGHQも、共に、占領憲法の實質が講和條約群に屬することの認識があつたことは、これまで指摘したとほりであつて、GHQ(Go Home Quickly)のために國際批判を受けないやうに密かに締結する意思があつたことは明らかである。今、アメリカなどが、その後ろめたさのために、講和條約といふ當時の認識を否定したとしても、そのことが後に述べるとほり、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の破棄を通告する上で全く支障とはならず、むしろ好都合なのである。
ところで、前に述べたが、有倉遼吉は、嚴格な法實證主義者としての立場から、「講和大權」を基軸として占領憲法の效力を論じた。その意味では、この有倉説も私見である講和條約説(眞正護憲論、新無效論)も、廣義の意味では「講和大權説」として分類されてもよいことになる。このやうに、講和條約説(眞正護憲論、新無效論)が、占領憲法の性質を講和大權の行使によつて定立した規範であると認識することにおいて有倉説と同樣であることからすれば、講和條約説(眞正護憲論、新無效論)を珍説、奇説の類であるとして揶揄するだけで、その論據に正面から向き合はない態度は、およそ學問的良心に悖るものであることを自覺すべきである。
ともあれ、兩説は、講和大權を契機として占領憲法の效力を論ずるものでありながら、占領憲法が憲法として有效か無效かといふ點においては正反對の結論に至つてゐる。有倉説は、帝國憲法の改正に限界があるとした上で革命有效説を受け入れたといふ見解でもなく、さりとて、改正の限界がないとする見解でもない。專ら、「講和大權の特殊性」から占領憲法が憲法として有效であるとしたのである。しかし、その論理性の精度は低く理論的には未熟であり矛盾破綻してゐると云へる。蓋し、「講和大權の特殊性」なる不明確な抽象的概念を以て、その國際系の規範を定立させる講和大權を行使して講和條約(東京條約、占領憲法條約)を締結するのではなく、國内系に屬する帝國憲法の改正法としての占領憲法の有效性をどうして導くことができるのかといふことについて全く説明ができてゐないからである。もし、「講和大權の特殊性」といふ概念を肯定的に解釋するとすれば、それは前に述べたやうなこと以外にありえない。これまで述べてきたとほり、各種の大權事項の中にあつて、講和大權は、國家緊急時において規範國體を護持するために行使しうるものであり、他の大權との序列において最優先のものであるといふ性質があるといふことである。
しかし、このやうに、講和大權に他の大權よりも優越性が認められるとしても、帝國憲法によつて授權された講和大權によつて帝國憲法自體を排除することができないことも當然のことである。むしろ、このことを踏まへ、嚴格な法實證主義を貫けば、講和大權の行使によつて定立される規範は、講和條約(東京條約、占領憲法條約)しかあり得ないはずである。それゆゑ、有倉説は、占領憲法の定立が講和大權を根據とするものであることに着目した嚆矢の見解であつた點において大いに評價しえても、その理論的歸趨を見失つた學説であると云へる。やはり、「講和大權説」から導かれるのは、論理必然的に講和條約説(眞正護憲論、新無效論)しかないことになるのである。
このやうに、講和條約説(眞正護憲論、新無效論)は、占領憲法が憲法(帝國憲法の改正法)としては無效ではあるが、それが中間條約としての講和條約(東京條約、占領憲法條約)に轉換するとの見解であり、講和條約の限度で成立したものとすることから、「相對的無效論」であり、廣義の意味で「相對的有效論」とも言へる。帝國憲法を守り、その立憲主義に從つて占領憲法を憲法としては無效とし、講和條約の限度で成立したとすることは、帝國憲法を眞の意味で護憲する、まさしく「眞正護憲論」なのである。
これに對し、舊無效論のうち、論理矛盾のない見解としては、占領憲法が憲法(帝國憲法の改正法)としては無效ではあると同時に、他のいかなる規範としても有效となることはないとする意味で、「絶對的無效論」であるといふことができる。また、さうでなければ矛盾を來すことになるのは前に述べたとほりである。
なほ、これまで述べてきた占領憲法の效力論學説について、占領憲法が無效となり、あるいは有效となる時期に關する各主張を整理すれば、章末の別紙三『效力論學説一覽表』のとほりとなる。
國内系と外國系と國際系
國際法(條約)と國内法との法規範秩序の相互關係について、いはゆる「一元論」と「二元論」との對立があり、さらに、憲法と條約との關係における「憲法優位説」と「條約優位説」との對立があることは、これまで述べてきたとほりであるが、ここでは、國際系と國内系の關係において、條約(講和條約を含む。)が、何らの國内系への編入措置を講ずることなく自動的に國内系の規範として適用されるのか(一元論)、それとも、條約締結國は、國内系において、この條約に基づいて新たに規範を定立して(立法化して)それを適用する義務を負ひ、それに基づいて規範化されて初めて、その規範を通じて當該條約の規範性が實現するのかといふことについて再度述べてみたい。
思ふに、國際社會には、多數の對外主權國家(獨立國家)が存在するので、個々の獨立國家内の法規範である國内系の法體系と獨立國家相互間の對外的な國際系の法體系との二つの異なつた法體系の領域があることは周知のことであり、そのことは、特に、公法の領域において、國内系(國内規範)の體系と國際系(國際規範)の體系とを統一する世界法體系(統一規範)は現在もなほ存在してゐないことは明らかである。
さうであれば、公法の領域における國内系の法體系と國際系の法體系とは、各々の體系に屬する法規範が規律する事項や範圍を異にするので、單純な「一元論」は説得力を持たない。一元論とは、國際法に屬する規範がそのまま直接的に國内法に屬する規範として適用されるとするものであるが、國民國家の國際社會においては、特に公法の領域において通常はそのやうなことはあり得ない。特に、國家間のみを拘束する條約においては、それぞれの國民に對する直接の效力を考へることはできないからである。それゆゑ、二元論による理解しかあり得ず、また、國際系の規範を國内法秩序へと編入するについて、「立法方式(變型方式)」と「承認方式(一般的受容方式)」とがあるとしても、我が國は、前者によつてゐることは前に詳述したとほりである。
ところで、話は全く變はるが、世界の全事情と全領域が雛形構造をしてゐることからして、この國内系と國際系との關係が、神經細胞の構造と模型的に相似してゐることについて述べてみたい。まづ、神經系を構成する基本單位である神經細胞(ニューロン、ノイロン)は、形態的には、その中核には「神經細胞體」があり、そこから比較的短い複數の「樹状突起」が延びてゐる。これは感覺細胞や他のニューロンからの刺激を受けて神經細胞體に情報を傳へる働きをしてゐる。そして、それ以外に、神經細胞體か比較的太い樹状突起の基部から太く長く皮膜に包まれた「軸索突起」があり、その延びた先で次の神經細胞などに接合してゐるといふ構造になつてゐる。そして、ニューロンの軸索突起が延びた末端には、シナプスといふ結合部があり、ここから神經傳達物質が放出されて、次のニューロンに電位變化による興奮が傳達されるといふ基本的構造を有してゐる。傳達は一方通行であり、樹状突起と軸索突起、それに末端のシナプスなどの複雜な構造は、大腦生理學的にも未だ解明されてゐない點も多いが、シナプスには、興奮性と抑制性の對極した二種類があるとされてゐる。これを極めて簡素な雙方向傳達の機能構造に置き換へると、神經細胞體を國家及びその法體系に、次の神經細胞體を別の國家及びその法體系に、そして、軸索突起とシナプスを國際系に屬する條約に對應したものとして相似的に捉へることができる。
つまり、神經細胞體(自國)と他の神經細胞體(他國)とは形態的には同質であり、軸索突起とシナプスといふ結合部(條約)とは形態的かつ機能的に異質である。言ひ換へれば、自國の國内系と外國の國内系(外國系)があつて、それらを連結する部分が條約といふ構造と類似してゐることになる。結合部の條約は、確かに雙方の國内系に傳達物質によつて情報を傳達して刺激と興奮、麻痺と抑制を與へるものの、それによつて國内系の成分や細胞組成に直接に變化をもたらすものではないが、刺激と興奮、麻痺と抑制が傳達されることによつて、間接的な影響を與へることは確かであらう。
さう捉へると、實は、神經系統は、このやうなニューロンとシナプスなどの連結したネットワーク構造であつて、一つの大きな單細胞としての神經細胞が構成されてゐるのではない。それゆゑ、國際法と云つても、國内法と相似した存在ではなく、神經細胞體(國内系)から形態的に區分される軸索突起(條約)の總體といふ意味であり、それをいくつ集め合はせたとしても、一つの大きな神經細胞體に類似したニューロンになることはない。國内系と國際系とは、全く異なる體系であることとなり、二元論が正鵠を得てゐることになる。
つまり、國内系と外國系(外國の國内系)と國際系(各國の條約集合體)の三つが認識され、自國からみれば、それに影響を及ぼすのは、國際系のみであり、外國系は、その國際系を通じてでしか何ら國内系に影響を及ぼすものではないので、ここで考察すべきは、國内系と國際系の二つの關係だけに限定されることになる。
そして、二元的な關係にあることからして、單純に國際法が國内系に優位するといふことはあり得ないし、確立された國際法規と雖も、それを認識、確認、評價することが一律ではないことが多く、しかも、國家の國益を否定される方向のものであれば、それを受け入れるか否かについては國家に自主權がある。國際系では力の支配、力の論理が適用されるのであれば、それは少なくとも國家が合意しないことについては、力で屈服させられない限り、それを遵守するか否かの選擇權はある。にもかかはらず、無條件で確立された國際法規なるものの遵守義務を謳ふ占領憲法第九十八條第二項は、占領憲法自らがこれと同列の條約であつたことを自白した規定であると解釋できるのであり、最高規範性を自ら否定したことになることはこれまで述べてきたとほりである。
國内系と國際系との關係は、このやうなものであるが、さらに、このことに加へて、前章で示した
規範國體(明治典範を含む正統典範と帝國憲法を含む正統憲法の根本規範部分) > 講和大權 ≧ 講和條約群(ポツダム宣言、降伏文書、占領憲法、桑港條約) ≧ 憲法改正權 ≧ 憲法的慣習法 ≧ 通常の憲法規定部分 > 條約大權 ≧ 一般條約 = 條約慣習法 ≧ 憲法慣習(事實たる慣習) > 法律 ≧ 緊急敕令 > 政令その他の法令
といふ法段階構造の不等式(=は同等同列の意味)を基礎にした章末の別紙四『國内系國際系關係圖(付録・規範不等式)』によつて、その立體的構造の理解をさらに深めていただきたい。
なほ、「憲法的慣習」には、戰前において帝國憲法に適合してゐた本來的な慣習(合憲慣習)と、占領後において占領憲法を含む講和條約群により帝國憲法に違反した運用がなされてゐる慣習(違憲慣習)とが併存してゐることになる。憲法的慣習は、正規の憲法改正によつて改廢されることになるから、それが憲法的慣習法として承認されたとしても、當然に憲法改正權の下位となる。この不等式では、違憲慣習法だけが恆久的な效力がないために、これと恆久的な合憲慣習法やその他全ての法規とを同列に論ずることはできないが、これは、國内系と國際系とを形式的かつ平面的に序列した模式圖であつて、國内系の序列に、國際系に屬する講和條約と一般條約を組み込んで、その效力的限界について述べたものである。
つまり、講和條約や一般條約を締結するだけでは、その内容の規範がそのまま直ちに國内系に組み込まれず、國内系における立法措置を通じてその條約の内容が實現するのであつて、講和條約や一般條約が直接に國内系において效力が發生するものでないことに注意しなければならない。これを先ほどの神經細胞で喩へれば、國際系の講和條約や一般條約のシナプスから國内系の受容體に向けて、立法義務の履行請求といふ衝撃電波(電流)が發せられてゐるのであるが、それは神經細胞體組織(國家)と直接連結して一體となつてゐるのではなく、あくまでも神經細胞體に「速く改正しろ」といふ衝撃電波による衝撃(立法義務の履行請求)を與へ、神經細胞體組織(國家)を興奮させてゐるといふことなのである。
占領憲法の國内的效力
さて、これまで、占領憲法が講和條約として轉換評價できる具體的根據と、國内系と國際系との關係について説明してきたが、では、このやうに轉換されて成立した占領憲法(東京條約、占領憲法條約)は、そもそも國際系の存在であることからして、それが國内系において、具體的にはどのやうな「性質」も持ち、また、どのやうな「效力」を有するのかといふことが次に問題となる。
まづ、入口條約の基本的な性質は、その内容からして、停戰と武裝解除等を求めるもの(停戰協定)であり、出口條約の性質は、最終講和と獨立を目的とするものであるが、この中間條約(占領憲法)の性質は、國内系の立法措置を求める「立法條約」といふことになる。この立法條約といふのは、條約で定めた内容又はそれを施行するために必要な内容を定めた國内系の法令を制定し、あるいは既存の法令を改正するなどの「立法措置義務」を課した條約のことである。
占領憲法は、帝國憲法の改正法としては無效であるが、講和條約(東京條約、占領憲法條約)として轉換して成立したものの、それは、形式的には講和條約の體裁をとつてをらず、帝國憲法の改正法といふ形式をとつてゐるため、この立法措置義務(帝國憲法改正義務)が明記されてゐないことは當然である。「濳りの講和條約」であり「憲法の擬態」であるために、そのことを明記できるはずもない。むしろ、その帝國憲法改正義務規定を設けることを省略し、直接に帝國憲法改正義務を履行させた趣旨にて、帝國憲法の改正法といふ僞裝の體裁を整へたのである。GHQと政府(天皇)との間で立法條約としての講和條約(中間條約)を締結し、次に、政府(天皇)が帝國議會に限時法(占領基本法)を提案して制定するといふやうに、①GHQ→②政府→③帝國議會へと順次なされるべきが、①→②の講和條約(中間條約)の締結が正式になされず、いきなり、②→③の立法、しかも法律の制定ではなく帝國憲法の改正を恆久法として實行したやうに假裝されたのである。國際系の①→②は有效、國内系の②→③は無效であるために、②→③が履行されてゐないことになるので、①→②の效力として、我が國には「帝國憲法改正義務」が課せられてゐることになると解される餘地がある。
つまり、憲法としては無效の占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)として轉換するのであれば、假に、形式上は帝國憲法改正義務を明記してゐないとしても、これが立法條約であるといふ性質上、やはりこの帝國憲法改正義務を課してゐるものと解釋される餘地があるといふことである。
しかし、無效規範の轉換理論により、憲法として無效な占領憲法が有效な講和條約として轉換する場合は、無效な占領憲法の目的及び内容がそのまま有效に轉換される譯ではない。違憲の目的及び違憲の内容の講和條約の條項が有效に轉換されることはないのである。あくまでも有效な講和條約の限度でのみ講和條約として成立を認められることになるのである。つまり、講和條約として有效であるためには、ヘーグ條約の條約附屬書『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』第四十三條(占領地の法律の尊重)の有效要件を滿たさなければならず、同時に、轉換成立したと評價される占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の時際法的處理が必要となるのである。前述のとほり、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)を講和條約としてでも締結しなければならないやうな「絶對的ノ支障」がなかつたとも判斷しうることからすると、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)は、講和條約の有效要件すら滿たしてゐないとも言へる。ましてや、國内系への編入に關する時際法的處理(立法方式)もなされてゐない。それゆゑ、少なくとも、占領憲法の目的及び内容のとほりの講和條約を締結すべき義務(立法措置義務)も含めて有效に轉換されるとしても、憲法改正義務までを引き繼ぐことはない。
占領憲法(東京條約、占領憲法條約)に帝國憲法改正義務がないといふのは、「全面的」にその義務を負はないといふ意味である。規範國體に違反する條項(天皇條項、國民主權など)についてだけ帝國憲法改正義務を負はないといふ限定があるのではなく、それ以外の全ての帝國憲法條項についても改正義務を一切負はないといふ意味である。
このやうに考察してくると、帝國憲法改正義務に關して簡潔に説明するとすれば、次のとほりとなる。すなはち、
1 入口條約(ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印)は、最終講和に至るまでの講和條約群の性質と内容を決定づける總論的な「基本條約」であるから、最終講和に至るまでにおいて、武装解除されて抗拒不能となつた敗戰國である我が國に對して事後的に帝國憲法改正義務を新たに負擔させるなどの不利益變更は許されない。
2 入口條約は、ヘーグ條約の條約附屬書『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』第四十三條(占領地の法律の尊重)に違反する限度で無效である。すなはち、同條は、「國ノ權力カ事實上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶對的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル爲施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘシ。」と規定してをり、連合國の軍事占領下においては、帝國憲法第八條の緊急敕令などによつて占領政策を支障なく實施しえたのであるから、帝國憲法を改正しなければならないやうな「絶對的ノ支障」は全くなかつた。帝國憲法は、國家緊急時に對應する規定(第八條、第十四條、第三十一條、第七十條など)が存在し、さらに、臣民の權利義務(第十八条ないし第三十二條)についてはその殆どが法律事項となつてゐるなど、極めて柔軟かつ彈力的に運用しうるものであつたからである。
3 假に、入口條約に帝國憲法改正義務があつたとしても、規範國體の事項に反する帝國憲法改正義務を講和條約(占領憲法條約)で認めることは、そもそも講和大權の權限外の行爲であつて絶對的に無效である。
4 現實には、入口條約には、帝國憲法改正義務についての明文規定がない。これにより、規範國體に關する事項のみならず、規範國體以外の憲法事項についても帝國憲法改正義務がなく、帝國憲法改正義務は一切負つてゐない。
5 占領憲法は、帝國憲法の改正法としても獨自の憲法としても無效であるが、帝國憲法第七十六條第一項に基づく無效規範の轉換法理により、入口條約の目的及び内容の制限内で成立した中間条約としての講和條約(東京條約、占領憲法條約)に轉換しうる。
6 占領憲法(東京条約、占領憲法條約)が轉換により成立しうるとしても、ヘーグ條約の條約附屬書『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』第四十三條(占領地の法律の尊重)に違反する限度で無效であることは、入口條約と同樣である。
7 最終講和となる出口條約(桑港條約)においても、帝國憲法改正義務が謳はれてゐない。すなはち、桑港條約第十九條(d)には、「日本國は、占領期間中に占領當局の指令に基いて若しくはその結果として行われ、又は當時の日本國の法律によつて許可されたすべての作爲又は不作爲の效力を承認し、連合國民をこの作爲又は不作爲から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。」とあり、連合國が占領期間中になした一切の行爲を免責させることだけの規定であり、その「當時の日本國の法律」には「占領憲法」は含まれないが、これを擴大解釋すれば含まれる餘地もある。しかし、いづれにせよ帝國憲法改正義務を「維持」し「繼續」する義務を謳つてゐない。
このやうに、占領憲法は憲法として無效であり、これが有效な講和條約として轉換されるとしても、この講和條約(東京條約、占領憲法條約)によつても帝國憲法改正義務を負はないことになるのは明らかである。しかし、帝國憲法改正義務が認められないとしても、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の條項のとほりに帝國憲法を改正するやうに「要望」する限度においては、それが強制に及ばない限り認められてもよいのではないかと解釋される餘地が殘る。つまり、任意になされた帝國憲法改正の要望であり、それを我が國政府が事後にその要望に副つて「檢討」することを約した程度の合意の限度では有效であると解することができるからである。これは、帝國憲法改正の「檢討義務」である。この「檢討義務」と「改正義務」とは大きく相違するものであるが、廣い意味では、「帝國憲法改正に關する義務」であるから、廣義の「帝國憲法改正義務」であると云ふこともできる。
また、帝國憲法の改正に關する義務ではないとしても、帝國憲法の改正以外の方法、たとへば帝國憲法下の法律などを制定する方法によつて實質的に占領憲法の規定を政治的に運用するといふ義務と理解することもできる。
從つて、占領憲法の規定を實質的に運用するといふ政治的・法律的措置を講じたり、そのことを檢討する、なんらかの義務があるとすれば、そのことについて考察する必要があるが、その際、この廣義の「帝國憲法改正義務」全般について考察することは決して無駄なことではない。
つまり、講和條約(東京條約、占領憲法條約)においても我が國に帝國憲法改正義務が認められないとしても、講和條約(東京條約、占領憲法條約)の締結交渉の中で帝國憲法の改正をすることを約した政府擔當者には、事實上の義務があるとされる餘地があり、そのやうな政府擔當者だけが負擔する「改正義務」と我が國が負擔しうる餘地のある「改正檢討義務」とは紙一重のものと考へられるからである。
そこで、以下においては、あくまでも假定の議論として、假に、講和條約として轉換して成立した占領憲法(東京條約、占領憲法條約)が假に帝國憲法改正義務を負ふことになると假定すれば、どのやうなことが問題となるのかといふことについて考へてみることにする。
これは、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)が假に帝國憲法改正義務を負ふとすれば、それは對外的な政府の義務としての帝國憲法改正義務といふことになるのであるが、さうした場合、國内系においてどのやうな論理的歸結をもたらすことになるのかといふ問題である。
これまで、講和大權の權限内容とは、第一に、規範國體(根本規範)に屬する事項について改廢はできず、一時的な停止または制限のみができる權限しかないこと、第二に、規範國體以外の通常の憲法規範(統治技術的な規定など)については、規範國體を維持する必要がある場合に限つて、その改正義務を負ふことを内容とする講和條約を締結する權限があることの二つに集約されると説明してきた。このことからして、我が國は、規範國體の一時的停止と一時的制限のみならず、これを含めて帝國憲法全體の改正義務を受容したとすれば、前者については履行されたものの、後者については未だに履行されてゐないことになる。つまり、占領憲法が帝國憲法の改正法としては無效であることからして、未だに帝國憲法のどの條項についてもすべて正規の合法的な改正をしてゐない。その手續に着手もしてゐないといふ義務不履行の状態にあるといふことである。
一般に、講和條約の場合は、戰勝國が敗戰國及びその國民に對して、大なり小なり内政干渉的な内容であることがあるが、それもあくまでも具體的に講和條約において定められた内容によることになる。ましてや、他國が自國又はその國家機關と臣民との關係、國家機關の設置、改組及び廢止竝びにその運營などの基本的な公法關係の改廢と整備ための立法措置を求める「立法條約」である講和條約(占領憲法條約)が締結されたからと云つて、それが自國において何らかの規範定立行爲を全く必要とせずに直ちに國内系の規範として效力を持つとすることは到底ありえない。我が國と連合國との關係は「保護國關係」であつたことからすれば、それは東京條約(占領憲法條約)に定めたとほりの國内系の法令を改正しなければならない義務を課したことになるにすぎない。それは、あくまでも憲法改正以外の方法で國内法の整備をすべき義務である。そして、繰り返し述べるとほり、我が國では、占領憲法が帝國憲法の改正法としては無效であり、それが國際系の講和條約に轉換成立したとしても、國際系の講和條約(占領憲法條約)を憲法以外の法形式として國内法秩序への編入に必要な立法方式による時際法的處理をすべき義務があることになるが、未だにその義務を履行してゐない状態といふことになるのである。
どうして今もなほ履行してゐないかと云へば、それは、我が政府が、國内においても國際社會に對しても、占領憲法を講和條約(東京條約、占領憲法條約)であると宣明せず、未だに「憲法」であると僞裝してゐることにある。しかも、そのやうな僞裝を強制したのは、その義務の履行請求をなす地位にあるGHQ(アメリカ)にあるのであるから、我が國に對して、この状態が我が國の落ち度による義務の不履行であると非難される理由はない。民法でも、不履行の原因が債權者の行爲に起因するときは、債務者の責に歸すべき事由がないとして、債務不履行責任を免れるからである。
ちなみに、このやうなことは、自衞隊の存在について云へる。これについても、マッカーサーの指令によつて同じやうな僞裝をしてきたからである。「自衞隊は軍隊ではない」と國内に對しても國際社會に向けても宣明してゐたが、自衞隊の海外派兵をするやうになつてからは、國際系においては「日本軍(japanese army)」であり、國内系においては依然として「軍隊ではない」とするやうになつた。このことは、占領憲法においても、國内系と國際系との取り扱ひが變化することを豫測させるものである。
ところで、次に檢討しなければならないことは、講和條約であれば、どのやうな立法義務も課すことができるのか、といふ點である。占領憲法(東京條約、占領憲法條約)は、人權條項のみならず統治機構條項など帝國憲法の全領域について改正義務を課したことになつてゐるとすれば、はたしてこのやうな講和條約自體が有效なのかといふ點である。
人權條項に關してであるが、たとへば、國連總會が昭和二十三年に採擇された『世界人權宣言』は條約ではなく基準にすぎないとしても、昭和四十一年に採擇した『國際人權規約』や平成元年に採擇された『子供の權利條約』などの人權條項に關する條約については、その締結によつて直ちに國内的效力を生ずることを認めてゐない。人權侵害については、純粹な國内問題ではなく國際問題であるとの見解が擴大する中で、人權侵害の指摘や批判を内政干渉とは認めない國際的な傾向があるが、それ以外の各國の統治機構の樣相について批判することは、今でも内政干渉であるとする見解が根強い。ましてや、人權條項のみならず統治機構條項についてまで立法義務を課す講和條約は、その當時においても確立してゐた「内政不干渉の原則」に違反してゐることは明らかであつた。
なぜならば、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)が我が國とGHQとの間で締結されたのは昭和二十一年十一月三日であり、この日は、占領憲法の公布がなされて英文官報に掲載され、同時に、對日理事會のアメリカ(ジョージ・アチソン)とイギリス(マクマホン・ボール)の新憲法發布を歡迎する聲明がなされたことによつて、實質的には講和條約(東京條約、占領憲法條約)が締結されたことになるが、これよりも一年以上前に國際連合憲章が發效してゐるからである。すなはち、國際連合憲章は、昭和二十年六月二十六日に署名、同年十月二十四日に發效したのであり、これはGHQの連判状である。その連判状の第二條第四項には、「すべての加盟國は、その國際關係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる國の領土保全又は政治的獨立に對するものも、また、國際連合の目的と兩立しない他のいかなる方法によるものも愼まなければならない。」として、「内政不干渉の原則」を規定する。これは加盟國を拘束するものであり、GHQを含む加盟國は、加盟國以外の「いかなる國」(我が國を含む)に對して、「武力による威嚇又は武力の行使」によつて、「領土保全又は政治的獨立に對するもの」を要求してはならないとしてゐるのである。これは、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の締結以前に調印し發效してゐる國際條約であるから、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の締結は明らかにこれに違反する。つまり、GHQの軍事占領統治においては、恆常的な「武力による威嚇又は武力の行使」がなされてゐるのであつて、その状況で我が國だけに片務的な立法措置を求める「立法條約」を締結させることは、ヘーグ條約とか、條約法條約を持ち出すまでもなく違法である。
我が國は、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)が締結された後である昭和三十一年十二月十八日に國連に加入し、我が國との關係でも國際連合憲章は效力を發生することになるが、このことは、我が國に對する内政干渉の違法性を消滅させるものではない。なぜなら、我が國が國連に加入し加盟國となることによつて、我が國もまた「その國際關係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる國の領土保全又は政治的獨立に對するものも、また、國際連合の目的と兩立しない他のいかなる方法によるものも愼まなければならない。」との義務を負ふといふことであつて、我が國になされた内政干渉を免責させることになるとの詭辯を導き出すことなど到底できないからである。そして、これと同時に、この國際連合憲章第二條第四項は、占領憲法の強制といふ我が國に爲された連合國の行爲が課した憲法改正義務の無效を主張する根據となるものである。
それゆゑ、以上のことから、我が國には、帝國憲法改正義務すら負はない(あるいは消滅した)と解釋することができる。しかし、これだけで議論を終了すれば、帝國憲法改正義務があることを前提とした見解とは永久に交はることがなくなり、爭點の議論として深化しないため、以下の論考は、假に百歩讓つて、我が國が帝國憲法改正義務を負擔し續けるとした場合の假定的推論であることを了解していただかねばならない。
では、現在も帝國憲法改正義務を對外的に負担し續けて爲ることの前提に立つた場合、現在の法律状態は、どのやうに理解できるのであらうか。帝國憲法改正義務を履行しないことは、占領憲法に對應する國内系の規範が存在しないのに、占領憲法の内容で國家統治がなされてゐるのは、それこそ違法状態(違憲状態)といふことになるのかといふ疑問が出てくる。
しかし、そのやうなことはない。これは、新たに帝國憲法改正義務が履行されてゐないものの、帝國憲法が改正され、あるいはその義務が消滅するまでの間は、「慣習法」(違憲慣習法)として占領憲法と同樣の運用がされてゐるといふ状態であり、これこそが講和條約(東京條約、占領憲法條約)の反射的效力といふべきものである。つまり、これは、國内系の「不文法」であり、帝國憲法の講和大權の限度内で認められた「憲法的慣習」(違憲慣習)として運用され、その後に制定、改廢、處分がなされ、あるいは當該義務の消滅がなされるまでの限時法的な憲法的慣習(違憲慣習)として、樣々な國家行爲の授權規範となつて柔軟に運用されてゐるのである。
我が國は成文法のみを規範とする國ではない。法實證主義でも慣習法の存在を否定しない。現在でも國會運營において帝國議會の慣習を憲法的慣習として踏襲して運營されてゐるのである。
ポツダム緊急敕令の存在根據について「自然法」を持ち出し、砂川事件において統治行爲論を持ち出して條約優位説を仄めかすなど、占領憲法を超える規範の存在を示唆する最高裁判所の判斷の柔軟さは、もしかして、この憲法的慣習(違憲慣習)を暗示してゐるのかも知れない。また、自衞隊の存在について「違憲合法論」といふ見解や憲法變遷論などの登場も、やはりこの憲法的慣習(違憲慣習)による柔軟な對應からくる現象ではないかと考へられないでもない。いづれにせよ、この柔軟さは、占領憲法の實效性を疑ふに足る十分な根據となりうるのである。
ところで、帝國憲法に含まれる規範國體については、一時的な停止ないしは制限がなされたとしても、これを改正することは不可能であるから、この部分については改正義務は課せられてゐない。それ以外の帝國憲法の條項についても、我が國が獨立を回復した後においては、もはや緊急事態に對應する講和大權の守備範圍ではなく、この憲法的慣習(違憲慣習)を正式に帝國憲法の一部として認めるためには、やはり帝國憲法に定める改正手續に基づかなければならないことになる。
それゆゑ、占領憲法の内容のとほりの改正義務を負つてゐるとしても、獨立すればアムネスティ條項の原則によつて立法義務は消滅してゐるのであるが、それはさて置き、必ずこれを改正しなければならない義務の程度は緩和され、その義務違反による具體的な制裁はない。つまり、その義務も「自然債務」(裁判所に訴へることができない債務)ないしは「責任なき債務」(強制執行ができない債務)の程度になつてゐるはずである。それゆゑ、このやうな「義務」は履行する必要がなく、速やかに講和條約(東京條約、占領憲法條約)を次章の理論と方法によつて破棄をし、帝國憲法改正義務を消滅させれば足りることになる。
獨立回復條約
我が國は、昭和二十六年九月八日、獨立回復條約である桑港條約を締結して獨立した。この獨立回復條約の目的は、我が國にとつてすれば、第一には、我が國の獨立(主權)の回復であり、第二には、我が國の自衞權と自衞軍(國防軍)が容認されることにあつた。
連合國は、ヤルタ・ポツダム體制を固定化するため、我が國がポツダム宣言を受諾する前の昭和二十年六月二十六日、國際連合(國連)を設立して常任理事國に就任したので、獨立喪失條約に始まるこれら一連の講和條約群の當事國の地位は、實質的には國連が承繼することになる。そして、桑港條約の締結と同時に締結された舊安保條約は、この同時締結が獨立の實質的な條件であつたことから、桑港條約の意義はさらに鮮明となり、この舊安保條約もまた獨立回復條約の一つとして講和條約群に含めることができる。
舊安保條約は、米軍の駐留目的が不明確であり、效力期間の定めがなく、我が國に内亂等が起こつた場合に米軍が出動することがてきるといふ「内亂條項」まで存在した。 そして、連合國、とりわけ米國にとつてすれば、この桑港條約と舊安保條約の二重構造からなる獨立回復條約の目的は、我が國を敵國として規定する國際連合憲章(第五十三條、第七十七條、第百七條)による「國際連合體制」と、米軍基地の提供を繼續させる「日米安保體制」とによつて我が國を半獨立状態のまま支配する構造を確立することであつた。
東西冷戰構造が構築された後の昭和二十五年六月二十五日には朝鮮戰爭が勃發したことから、同年七月八日にはマッカーサーが警察豫備隊七萬五千人創設、海上保安廳八千人增員を許可(指示)した。すは、これは、我が國と連合國との再軍備の合意(條約)であつて、桑港條約の締結を俟たずして占領憲法第九條が廢止された瞬間でもある。そして、同年十月には、戰闘地域での日米作戰合意に基づき米軍の上陸作戰を支援するため、海上保安廳の掃海隊が朝鮮半島沖の機雷處分に投入され、我が國は「參戰」して戰死者まで出してゐた。そこで、米國主導の連合國としては、この戰時體制を維持し、かつ、我が國に對する支配を繼續するために、我が國に「責任ある政府」(傀儡政府)を樹立させてこれに主權を移讓させることが必要となり、桑港條約を締結させ、その同第五條(c)において、我が國に個別的自衞權と集團的自衞權を認めたのである。
そして、舊安保條約は、我が國國内及びその附近に米軍の配備を許與する内容(具體的には米軍基地提供)の片面的軍事同盟(軍事支配繼續)であり、同日に吉田茂内閣總理大臣とアメリカのアチソン國務長官との間で交はされた「吉田・アチソン交換公文」に、桑港條約と舊安保條約が締結された眞の目的が確認されてゐる。
それは、言ふまでもなく、いはゆる朝鮮戰爭の勃發と東西冷戰構造の定着化等の國際情勢の變化により、アメリカとしては、我が國に再軍備させる必要が生じたためであつて、占領憲法第九條第二項を名實ともに變質させることに第一次的な意義と目的があつた。ヤルタ協定とポツダム宣言から占領憲法制定に至るまでの連合國の主要な對日政策の目的は、日本の産業構造をも變革し、「再軍備を爲すことを得しむるが如き産業」をも禁止して(ポツダム宣言第十一項)、非工業化政策を推進し、日本を弱體化させることにあつたが、朝鮮戰爭が勃發したことにより、我が國を防共の堡塁とするために、それまでの對日政策を放棄して全面解除した。そして、再軍備の制限規定を一切定めずに自衞權を完全に肯定して講和條約を締結し、西側陣營に屬することの血判状(舊安保條約)に誓詞させることと引き換へに獨立を許容したのである。
そして、その結果、我が國の國内政治において、國内系の「占領憲法體制」と國際系の「桑港(安保)體制」といふ占領憲法をめぐる二律背反の相剋状況が出現し、現在に至るまでその相剋から脱却しえない状況が續くのである。
アメリカなどの連合國は、およそ占領憲法を占領政策の手段としか評價してをらず、この押し付け憲法は、連合國の事情の變化により、随時變更しうるとの認識であつたため、他國の法體系に二律背反の状況を生み出させることを、いとも簡單にやつてのける。連合國からすれば、やはり占領憲法は條約程度の規範性しか認識してゐなかつたのである。
東京裁判の受容條項
桑港條約第十一條によれば、「日本國は、極東國際軍事裁判所竝びに日本國内及び國外の他の連合國戰爭犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本國で拘禁されている日本國民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び假出獄させる權限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本國の勸告に基づく場合の外、行使することができない。極東國際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この權限は、裁判所に代表者を出した政府の過半數の決定及び日本國の勸告に基づく場合の外、行使することができない。」と規定する。
この「裁判を受諾し」といふ翻譯部分は、「判決を受諾し」の意味であり、後段の「刑の執行」を繼續するための法的權限を付與するためのものであつて、その刑の執行の合法的根據を「判決」に求めるといふ純然たる法律問題にすぎない。これは、講和に際して交戰法規違反者の責任の免除條項(アムネスティ條項 amnesty clause)を設けるのが國際慣習法とされてゐることからして、その例外となる桑港條約第十一條を制限解釋するのが世界の國際法學會における定説だからである。
ところが、同條約第十一條を根據として、東京裁判を歴史觀として受け入れたとする謬説とこれに便乘する中韓の妄言があるが、そもそも、條約で歴史觀を拘束することなどはありえないことなのである。
しかも、同條約第二十五條によれば、「・・・第二十一條の規定を留保して、この條約は、ここに定義された連合國の一國でないいずれの國に對しても、いかなる權利、權原又は利益を與えるものではない。・・・」と定め、その第二十一條には、「この條約の第二十五條の規定にかかわらず、中國は、第十條及び第十四條(a)2の利益を受ける權利を有し、朝鮮は、この條約の第二條、第四條、第九條及び第十二條の利益を受ける權利を有する。」とある。ここでの「中國」とは中華民國のことであり、「朝鮮」とは大韓民國を意味するが、これと異なる見解もあるので、假に、いづれの見解に立つたとしても、そもそも同條約第十一條が除外されてゐるため、中國(中華民國及び中華人民共和國)及び朝鮮(大韓民國及び朝鮮民主主義人民共和國)との關係で、同第十一條の拘束力の範圍に關する解釋がいかやうであつても、何ら中韓との關係で影響されることは全くないのである。
しかし、東京裁判の判決を受容したことは、特定の歴史觀に拘束されるものではなく、中韓から容喙されることを受け入れる義務がないことは明らかであるとしても、しかし、この事實は重い。東京裁判は、裁判の名に値しないし、裁判としては無效であつても、やはり講和條件としては有效であり、これが破棄、訂正されるまでは受忍しなければならないのである。
ところで、桑港條約が發效した昭和二十七年四月二十八日の數日後である昭和二十七年五月一日に出された法務省法務總裁通知(法務府注意總發第五十二號『連合國の軍事裁判により刑に處せられた者の國内法上の取り扱いについて』の通牒)には、「さきに昭和二十五年七月八日附をもって『人の資格(任命若しくは就職又は罷免若しくは失職等にかかる條件又は許可、認可、登録若しくはその取消又は業務の停止等にかかる條件を含む)に關する法令の適用については、軍事裁判により刑に處せられた者は、日本の裁判所においてその刑に相當する刑に處せられた者と同樣に扱うべきものとする』旨の解釋を參考のため御通知したが、この解釋は、もともと總司令部當局の要請に基づいたものであり、平和條約の效力の發生とともに撤回されたものとするのが相當と思料するので、この旨御了承の上、貴部内閣關係機關にも徹底せしめられたい」とあり、これは、國内的には、桑港條約第十一條の國内的效力を否定し、東京裁判は無效であつて撤回されたものとして、東京裁判に服した者の名譽回復表明であつた。これと呼應して、昭和二十七年六月九日參議院本會議における『戰犯在所者の釋放等に關する決議』、同年十二月九日衆議院本會議における『戰爭犯罪による受刑者の釋放等に關する決議』、昭和二十八年八月三日衆議院本會議における『戰爭犯罪による受刑者の赦免に關する決議』、昭和三十年七月十九日衆議院本會議における『戰爭受刑者の即時釋放要請に關する決議』など數回に亘つてなされた全て戰爭受刑者に對する釋放要求、赦免の國會決議もまた同樣の名譽回復表明であつた。
これらの法的意味は何か。それは、桑港條約第十一條の國内的效力を否定する我が國の國内系における意思表明にとどまり、國際系における對外的(國際的)な表明ではない。後述するとほり、我が國は對外的にもこれを破棄することが可能であるが、それを未だ行つてゐないのである。これでは、眞の名譽回復措置とは云へない。眞の名譽回復措置としては、國内的にとどまらず、對外的なものでなければならず、アムネスティ條項といふ國際慣習法に違反したこの桑港條約第十一條の改正を正面から求め、あるいは、この條項の破棄、失效などを主張することでなければならないのである。次章でも述べるが、「東京裁判は無效である」とか、「戰犯は今や存在しない」などと、國内系の議論だけで滿足し、國際系の認識ができずに、これらを同列に混同して議論する見解があるが、このやうな見識では國際的には何らの説得力もないことを自覺すべきである。
講和條約群の效力比較
前にも述べたが、比喩を用ゐれば、ポツダム宣言の受諾に始まり、桑港條約に至るまでの非獨立時代を長い「トンネル」に喩へることができる。この「非獨立トンネル」の入口に、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印といふ獨立喪失條約があり、これは「入口條約」である。そして、占領憲法といふ「中間條約」(東京條約、占領憲法條約)の地點を經て、足かけ八年の道のりを走り續けて、やうやく出口に向かふ。その出口に桑港條約の獨立回復條約である「出口條約」がある。かくして、我が國は、これら一連の講和條約群といふ長いトンネルを拔けて獨立を回復したのである。
しかし、この獨立も舊安保條約の存在により不充分なもので、朝鮮戰爭が停戰した昭和二十八年七月二十七日以後においては、むしろ逆に對米從屬をより一層深めて行つた。アメリカが極東戰略を全面的に見直す中で、『日本國とアメリカ合衆國との間の相互防衞援助協定(MSA Mutual Security Act)』(昭和二十九年五月一日・條約第六號)を締結し、我が國が防衞力を持つことを義務付け、これにより自衞隊を發足させた。そして、昭和三十一年には我が國を敵國とする國連に加盟させ、昭和三十六年には食料自給率を低下させる目的の『舊農業基本法』を制定させることになる。
我が國は、昭和四年に起きたアメリカの大恐慌と、ホーリー・スムート法といふ高關税法による保護貿易政策、昭和七年のオタワ協定によるイギリス帝國經濟ブロックの形成などによつて、食料・資源エネルギー危機を招いたことが大東亞戰爭の誘引となつたことから、英米は、その戰爭終結前の昭和十九年に、現在の國連體制の一翼を擔ふIMF體制(ブレトンウッズ體制)によるワンワールドの貿易體制を確立して、世界の貿易、金融、經濟を支配し、さらに、軍事的には、昭和四十五年にNPT(核擴散防止條約)體制を敷くなどして、連合國による世界の完全支配秩序を確立させて今日に至つてゐる。
これら一連の過程は、軍事的屈服と經濟的從屬、特に、食料自給を確立する路線を放棄させ、我が國は、平時でなければ生存できない國家へと追ひやられ、軍事のみならず食料、資源エネルギーにおいても安全保障がままならない状態となり、現在もその路線を踏襲してゐるため、再び隷屬トンネルに入つた感がある。
ともあれ、これらの講和條約群は、いずれも講和條約として同列であるから、先に締結された講和條約と後に締結された講和條約とが内容的に矛盾牴觸する場合には、後に締結された講和條約の方が、その牴觸する部分について優先的效力があり、先の講和條約の當該部分は後の講和條約の當該條項により改廢されたことになる(後法優先の原則)。
具體的に言へば、まづ、部分占領を定めたポツダム宣言第七項は、降伏文書によつて全部占領へと變更された。また、ポツダム宣言第十一項(再軍備禁止條項)と占領憲法第九條(自衞權及び自衞軍の否定條項)は、桑港條約第五條(c)の個別的・集團的自衞權及び自衞軍の肯定條項及び我が國の國連加盟による國際連合憲章(條約)第五十一條によつて改正變更(廢止)されたことになるので、いはゆる占領憲法體制と桑港(安保)體制とはなんら矛盾しないのである。
帝國憲法と占領憲法の對應關係
以上のことを踏まへて、帝國憲法との關係で、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の各條項が現時點において具體的にはどのやうな影響を有してゐるのかといふことについて述べることになるが、その前に、その前提事項について確認しておく必要がある。
それは、第一に、占領憲法が帝國憲法の改正法であれば、帝國憲法の各條項との個別的な對應關係がなければ無效といふことになるが(第三章參照)、憲法である帝國憲法と講和條約である占領憲法といふ二種の異なる法形式が重畳的に兩立するために、各條項の個別的對應關係がないとしても、講和條約(東京條約、占領憲法條約)としては當然には無效とはならないとする點である。
そして、第二に、占領憲法は講和條約(東京條約、占領憲法條約)であり、その性質に從つて各條項の解釋をする必要があるといふ點である。無效論は、帝國憲法の改正をするについては帝國議會の審議と議決が要件となることから、これに瑕疵があることを以て占領憲法が帝國憲法の改正法としては無效であるとするのである。そして、さらに、眞正護憲論(新無效論)は、これが講和條約(東京條約、占領憲法條約)に轉換したものとして成立を認めることになる點に特徴がある。しかし、講和條約(東京條約、占領憲法條約)として成立したと評價されるためには、帝國議會の審議と議決は必要ではない。帝國憲法においては、講和大權を行使して講和條約を締結するについて、帝國議會の審議と議決は不要だからである。それゆゑ、占領憲法を講和條約(東京條約、占領憲法條約)として評價すると、帝國議會の審理と議決の瑕疵は、そのまま占領憲法の瑕疵としては評價されないことになる。このことは、講和條約のみならず、一般條約の場合も同樣である。實際にも、統帥權干犯問題は、帝國議會において國政問題として取り上げられた事柄に過ぎなかつたのである。
さらに、第三には、占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)であることからする當然の歸結として、占領憲法の各條項を改正することは、講和條約の改定といふことになり、その性質からして、講和條約の相手國である連合國(現在では國連)との合意が必要となるといふ點である。我が國が國内法手續だけで單獨では改正(改定)することはできないのである。假に、占領憲法第九十六條の改正條項に從つて改正するとしても、この條項の性質は、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の改正案(日本側申入案)の確定手續を意味し、これを連合國(國連)が承認して初めて改正條約として成立することになる。
つまり、占領憲法が憲法であり、帝國憲法の改正法であれば、それは國内系に屬するために、外國からの干渉はないが、國際系の講和條約であるためにその干渉を餘儀なくされる。これは、第二章で詳述したとほり、占領統治の最高意思決定機關であつた極東委員會(FEC)が昭和二十一年三月二十日になした『日本憲法に關する政策』において、「極東委員會は草案(占領憲法)に對する最終的な審査權を持つてゐること」を前提とすれば、この極東委員會が昭和二十七年四月二十八日に桑港條約の發效と同時に廢止されたとしても、それは我が國が國際連合に加盟前においても「國際連合憲章の原則を遵守」することを條件として桑港條約が締結されたからであつて、この極東委員會(FEC)の地位は、國際連合の安全保障理事會(實質は常任理事國)が實質的に承繼したと解される餘地があるからである。國際連合憲章には、第五十三條及び第百七條の、いはゆる「敵國條項」が存在し、特に、第百七條は、「この憲章のいかなる規定も、第二次世界戰爭中にこの憲章の署名國の敵であつた國に關する行動でその行動について責任を有する政府がこの戰爭の結果としてとり又は許可したものを無效にし、又は排除するものではない。」と規定してゐる。そして、我が國は、この敵國條項を含む國連憲章の全部について、國連に加盟する以前にも桑港條約で「遵守」を義務付けられ、加盟後においても、敵國條項の削除改正がなされないままである。といふことは、我が國が獨立後においても、連合國の占領統治支配體制がいまもなほ繼續してゐることに他ならないのである。それゆゑ、「敵であつた國に關する行動」(占領憲法の強制といふ講和條約の締結)を「無效にし、又は排除するものではない。」とすることから、我が國が国連に加盟してゐる間は、占領憲法を一方的に否定することはできなくなる。そして、これを一部改正することについても、國連は、それが少なくとも講和條約の趣旨に反するものである場合には、それに對する「最終的な審査權を持つてゐる」ことから、そのことに對する拒否權を持つて、これを行使しうるといふことになる。しかし、悲觀的になることはない、次章で述べるとほり、我が國には、國際慣習法の「事情變更の原則」を根據にして、講和條約群の全部又は一部を破棄通告(終了通行)する權利があるからである。
さらに、第四に、帝國憲法と齟齬する占領憲法の條項については、それが「法たる慣習」(慣習法)として認められるのか、あるいは單に「事實たる慣習」に留まるのかといふことを區別しなければならないといふ點である。すなはち、規範國體に違反する占領憲法の條項は、國内系においても「法たる慣習」(慣習法)としては認められず、慣習法として規範化することのない「事實たる慣習」に留まることになる。特定の事例が反復・繼續してその事實が集積するとしても、規範國體に適合しないことは法としての妥當性を缺くので規範化には至らない。これは、前章で述べた「事實の規範力」の問題である。また、そもそも反復・繼續した集積事實自體が存在しないときは、事實たる慣習としても認めることができない(非慣習)。これは、法としての實效性の基礎を缺くことになるから、それが規範化することはありえない。たとへば、その條項が存在しても、一度もその條項が規定する事實が實現してゐない場合(又は反對事實が實現してゐる場合)や、その條項自體の適用事例が一度もない場合などは、その條項の豫定する規範性は否定されることになる。前者の例としては、占領憲法第九條である。自衞隊といふ戰力が存在する事實は、戰力の不保持の反對事實として繼續・反復されてゐる。實效性が喪失してゐるのである。また、後者の例としては、占領憲法の改正條項である第九十六條である。一度もこの條項が適用された事實がないので實效性が當初から存在してゐないからである。占領憲法施行から六十年後に『日本國憲法の改正手續に關する法律(平成十九年法律第五十一號)』が成立したが、それは手續法の整備にすぎず、占領憲法第九十六條に基づいて何らかの具體的な改正手續が着手された事實はないのである。
天皇條項
では、このやうな前提に立つて、帝國憲法と占領憲法の各項目毎の對應關係を解釋するとどうなるのか。まづは、天皇に關する條項(天皇條項)について檢討する。
帝國憲法の天皇條項を列擧すると、「第一章 天皇」の第一條ないし第十七條の外に、第三十一條、第三十四條、第四十二條、第四十三條、第四十五條、第四十九條、第五十五條ないし第五十七條、第六十六條、第七十三條ないし第七十五條がある。そして、占領憲法には、これに對應するものとして、「第一章 天皇」の第一條ないし第八條の外に、第九條、第十四條、第十五條、第七十三條、第七十四條、第八十八條、第九十六條、第九十九條がある。
天皇條項とは、天皇大權の内容とその行使の手續を定めたもので、帝國憲法では、國務各大臣(内閣)の輔弼と樞密顧問の諮詢がなされるが(第五十五條)、占領憲法では、これにほぼ對應する天皇の國事行爲(第七條)については、内閣の助言と承認を必要とされる。ただし、天皇大權は、機關としての天皇に屬する權限であつて、天皇はその行使機關であり、その效果の歸屬主體はあくまでも國家である。
この帝國憲法の「輔弼と諮詢」制と占領憲法の「助言と承認」制とは、同じく立憲君主制の統治態樣である點において共通するものの、前者では天皇にその實質的權限が留保されてゐるのに對し、後者では、實質的權限の委任がなされてゐると理解される。「諮詢」は天皇が行ふもので、「助言」は内閣が行ふといふ行爲機關の相違があるものの、いづれも事實行爲に過ぎないが、「輔弼」と「承認」とでは政務の決定機關の相違があるからである。しかし、前に述べたとほり、帝國憲法の「輔弼制」は、「統治すれども親裁せず」といふ、天皇の拒否權を肯定するものであるのに對し、占領憲法の「承認制」は、「君臨すれども統治せず」といふ、天皇の拒否權を認めないものである點にある。しかし、前章で述べたとほり、戰前における輔弼と諮詢の制度といふのは、實際には英國流の立憲君主的な有權解釋がなされ、慣例的に、天皇は拒否權(ヴェトー)を行使できなかつたことからして、占領憲法の助言と承認の制度とほぼ同じ運用がなされてゐた。
なぜならは、輔弼と諮詢の制度は、第一條ないし第四條に違反しない限り、原則として、天皇が他の機關に對してその權限の一部又は全部を委任することを許容しうる制度と理解できるからである。つまり、天皇は「統治權ヲ總攬」(第四條)するのであるから、この「總攬」の中に一切の機關委任を禁ずる意味はなく、むしろ、「天皇は、統治權を總攬せらるるも、各般の政務を一々親裁せらるるものに非ず。」(清水澄)と解されるからである。
これは、前に述べた國務についての「統治すれども親裁せず。」の制度である。天皇は、國務各大臣(政務内閣)から奏上された政務を御裁可され、あるいは御裁可されないこと(不裁可)ができる。天皇に拒否權がある立憲君主制である。そして、國務が政務と統帥に分離し、それぞれの内閣(政務内閣と統帥内閣)が天皇に上奏して裁可を受ける。政務内閣(國務各大臣)は政務一般について上奏し、統帥内閣(統帥部)は廣義の統帥事項について帷幄上奏して天皇の御裁可を受ける。そして、國家緊急時以外においては、天皇の有する不裁可の權限(拒否權)は、慣例的にその行使を停止されてきたのである。
それゆゑ、占領憲法が、天皇は「國政に關する權能を有しない。」(第四條)とするのは、天皇大權を他の下位機關(内閣)へ委任し、拒否權を有しないものであると解され、「君臨すれども統治せず」といふ統治形態となつてゐる。拒否權の「慣例的停止」と「否定」とは異なるが、帝國憲法下においても、慣例的に「停止」されてきた限度では許容しうるものである。ましてや、占領憲法は、「平時限定」の規範であるから、戰前においても「平時」においては天皇の拒否權が停止されてゐたことからして、同じ態樣であると云へる。これらは、機關への委任の範圍と態樣に關する技術的なものであつて、その當否や整合性はさて置き、占領憲法の天皇條項は、後に述べるいくつかの例外を除き、直ちに違憲であるとは云へない。それゆゑ、これに關する占領憲法の規定は、憲法的慣習として認めうるのである。
では、法たる慣習として認められない天皇條項とはどのやうなものがあるのか。これについては、廣義の統治權に關して、次の「元首」、「典範」、「外交」、「戒嚴」、「改正」の五つの部門に分けて説明する。
第一は「元首部門」である。これは、帝國憲法第四條に、「天皇ハ國ノ元首」とあり、無留保で元首とする絶對的地位として定めてゐるのに對し、占領憲法は、天皇を「象徴」の限度に留め、しかも、「この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。」とする相對的地位としてゐる點である。天皇主權も國民主權も帝國憲法に違反するものであり、天皇の地位を相對的なものとした點も違憲であつて無效である。ただし、國の内外において天皇が國家元首であることが周知されてをり、天皇の地位について、これまで一度も「國民の總意」に基づく政治的措置がなかつたことから、この占領憲法第一條の「この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。」との規定は死文化してゐる。このことからして、この規定は、法たる慣習となるべき實效性がなく、事實たる慣習としても認められないものである。
第二は「典範部門」である。帝國憲法によれば、「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス」(第二條)とし、「攝政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル」(第十七條第一項)とし、さらに、「皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ經ルヲ要セス 皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ條規ヲ變更スルコトヲ得ス」(第七十四條)と規定する。また、第六十六條には、「皇室經費ハ現在ノ定額ニ依リ毎年國庫ヨリ之ヲ支出シ將來增額ヲ要スル場合ヲ除ク外帝國議會ノ協贊ヲ要セス」と規定する。これに對し、占領憲法では、「皇位は、世襲のものであつて、國會の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承する。」(第二條)とし、「皇室に財産を讓り渡し、又は皇室が、財産を讓り受け、若しくは賜與することは、國會の議決に基かなければならない。」(第八條)とし、さらに、「すべて皇室財産は、國に屬する。すべて皇室の費用は、豫算に計上して國會の議決を經なければならない。」(第八十八條)と規定する。
これらは相互に嚴密な對應關係がなく、必ずしもその整合性は定かではないが、①典範と憲法との序列關係、②皇室財産と皇室財政の獨立といふ二つの點において大きく相違する。つまり、これまで述べてきたとほり、明治典範と帝國憲法とは消極的二元關係の同位であるのに對し、占領憲法の下位規範としての占領典範を定めてゐる點と、帝國憲法と明治典範が定めてゐた皇室の財産と財政の獨立を、占領憲法、占領典範(皇室經濟法を含む)が否定してゐる點である。その限度で占領憲法などが無效であることはいふまでもなく、これらに基づく事實が反復繼續しても、法としての妥當性を缺き、それは事實たる慣習に留まり、法たる慣習とはならない。
第三は「外交部門」である。これは、廣義の統帥大權、すなはち、狹義の統帥大權及び編制大権、そして、これらを含む廣義の外交大權に關するものである。帝國憲法第十一條には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、第十二條は「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」とし、さらに第十三條には「天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス」とある。明治十二年の「天皇自ら大元帥の地位に立ち給ひ、兵馬の大權を親裁し給ふ」との布告においては、統帥大權は親裁し給ふものとされたが、帝國憲法下では、「統帥内閣」の出現によつて、「統治すれども親裁せず」と同樣に、「統帥すれども親裁せず」との原則に變化した。いづれにせよ、帝國憲法は、この廣義の外交大權、すなはち、狹義の統帥大權、編制大權、宣戰大權、講和大權、一般條約大權などを定めてゐる。これに對し、占領憲法第九條第二項は、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない。」として、統帥大權、編制大權、宣戰大權、講和大權の全てを否定した。それゆゑ、これらの大權を否定する點において違憲無效である。ただし、占領憲法といふ講和條約(東京條約、占領憲法條約)第九條は、桑港條約と國連加盟條約(國連憲章)などによつて廢止改定され、これらの大權事項は復活した。
すなはち、桑港條約第五條(c)には、「連合國としては、日本國が主權國として國際連合憲章第五十一條に掲げる個別的又は集團的自衞の固有の權利を有すること及び日本國が集團的安全保障取極を自發的に締結することができることを承認する。」とあり、また、國際連合憲章第五十一條には、「この憲章のいかなる規定も、國際連合加盟國に對して武力攻撃が發生した場合には、安全保障理事會が國際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集團的自衞の固有の權利を害するものではない。この自衞權の行使に當つて加盟國がとつた措置は、直ちに安全保障理事會に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事會が國際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く機能及び責任に對しては、いかなる影響も及ぼすものではない。」としてゐるので、これらによつて占領憲法第九條第二項(前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない。)は改正されたことになる。占領憲法(東京條約、占領憲法條約)は、帝國憲法第十三條前段の講和大權によつて締結されたものであるから、後法優位の原則により、同じく講和大權によつて締結された桑港條約によつて改正變更されたのである。そして、桑港條約によつて獨立回復した後に、帝國憲法第十三條後段の一般條約大權によつて締結された國連加盟條約(國連憲章)によつてそのことがさらに明確に確定したのである。具體的には、桑港條約が發效した昭和二十七年四月二十八日に占領憲法第九條第二項は廢止され、さらに、國連加入條約が發效した昭和三十一年十二月十八日にそのことが確定したのである。
つまり、桑港條約によつて獨立したのも帝國憲法第十三條の講和大權に基づくものであり、これも内閣の輔弼によるものである。それが名目上は、占領憲法第七十三條第三號の内閣の條約締結權に基づいたとされてはゐるが、實質的には、占領憲法第九條第二項では交戰權に屬する講和條約締結權限が否定されてゐるので、占領憲法で定めた内閣の權限としてなされたものではない。それゆゑ、これは占領憲法によらず、帝國憲法に基づく内閣(國務各大臣)の輔弼によつて帝國憲法第十三條の天皇大權(講和大權)が行使され締結されたことになるのである。
なほ、帝國憲法第十三條のうち、「諸般ノ條約ヲ締結ス」といふ一般條約大權を含む外交大權については、占領憲法第七十三條第二號及び第三號によつて、内閣に委任された態樣となつてゐる。つまり、帝國憲法下で許容される「統治すれども親裁せず」が「君臨すれども統治せず」へと變更したことになる。これは、國家緊急時においても天皇の拒否權を否定する趣旨ではあるが、これまで占領憲法施行後において一度もそのやうな事態が生じてゐないことからして、天皇の拒否權が否定されたといふ事實たる慣習は存在しない。それゆゑ、法令的には違憲であるが、運用的には合憲であるといふことになる。
第四は「戒嚴部門」である。これは、廣く國家緊急條項についてである。帝國憲法第十四條は、「天皇ハ戒嚴ヲ宣告ス 戒嚴ノ要件及效力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」として、天皇大權としての戒嚴大權を定めることによつて、國家緊急條項を備へてゐた。また、第八條は、「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル爲緊急ノ必要ニ由リ帝國議會閉會ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ敕令ヲ發ス 此ノ敕令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出スヘシ若議會ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ將來ニ向テ其ノ效力ヲ失フコトヲ公布スヘシ」として緊急敕令大權に關する條項があり、他にも非常大權(第三十一條)及び緊急財政處分(第七十條第一項)があつた。ところが、占領憲法には、この點についての規定がない。規定がないといふことは、戒嚴大權や緊急敕令大權などを否定してゐないといふことである。そして、占領憲法では、「助言と承認」の制度が採られてゐることからして、この戒嚴大權と緊急敕令大權などは内閣に委任されてゐることになるのであらう。
また、占領憲法第五十四條第二項は、「衆議院が解散されたときは、參議院は、同時に閉會となる。但し、内閣は、國に緊急の必要があるときは、參議院の緊急集會を求めることができる。」とし、同第三項は、「前項但書の緊急集會において採られた措置は、臨時のものであつて、次の國會開會の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その效力を失ふ。」と規定してゐる。これは、緊急敕令を定めた帝國憲法第八條と類似した規定態樣となつてゐるもので、占領憲法によつて新設された國家緊急條項の一種である。
一般に、平時における統治機構の手續を以てしては對處しえない非常事態や緊急事態において、國家權力が國家及び憲法の存立と確保を圖るために非常緊急措置をとりうる權限を國家緊急權といふ。これは、對外獨立性及び國家統治の基本秩序を保つべき國家本能であり、自衞權と同樣、獨立國に固有の權能として認められるものである。その意味において、自衞權と國家緊急權とは根本規範に含まれる。
しかし、占領憲法が參議院の緊急集會以外に、これよりも重要な自衞權その他の國家緊急權の規定を設けなかつたのは、そもそも占領憲法が非獨立時の軍事占領下の講和條約であつたからである。敗戰國の國家緊急事態において最大のものは、占領軍に對する軍事的反攻としての内亂や内戰であるが、完全占領下ではそのやうな事態の想定がなされず、それ以外の國家緊急事態はすべて占領軍が鎭壓處理するために、そのやうな規定を設けなかつたといふことなのである。
そして、獨立後において、緊急事態布告(警察法第七十一條)、防衞出動(自衞隊法第七十六條)及び治安出動(同法第八十一條)などの緊急的措置を定めた規定を設けるに至つたのである。
第五は「改正部門」である。帝國憲法の改正について、天皇の改正大權は、他の大權とは異なり一身專屬權であり、そのことは、帝國憲法第十七條第二項、同第七十三條及び同第七十五條から演繹されるものであることは既に述べた。それゆゑ、假に、占領憲法が憲法として有效であるとすれば、占領憲法第九十六條とは根本的に牴觸することになるが、占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)であることからすると、この占領憲法第九十六條の性質をどのやうに捉へるかは、極東委員會(FEC)の廢止の持つ意味ついての解釋によつて左右される問題である。つまり、次の二つの見解が成り立つのである。その一つは、「草案(占領憲法)に對する最終的な審査權を持つてゐる」極東委員會が昭和二十七年四月二十八日に桑港條約の發效と同時に廢止されたことによつて、最終的な審査權が放棄され、以後の改正は占領憲法の改正手續だけで改正できるとする見解(單獨改正説)である。これに對し、極東委員會の廢止は桑港條約の發效と同時であり、その桑港條約が「國際連合憲章の原則を遵守」することを條件とし、我が國が國際連合に加盟前においても國際連合憲章に拘束されてゐることなどからすれば、この極東委員會(FEC)の地位は、國際連合の安全保障理事會(實質は常任理事國)が實質的に承繼したと解されることから、連合國の承認(連合國との合意)が必要とするとの見解(合意改正説)が成り立ちうるのである。前者によれば、占領憲法第九十六條の手續によつて我が國單獨で改正できるが、後者であれば、それは單に我が國側の條約改正案の確定手續にすぎず、連合國(國連)の承認を得て初めて改正できるとすることになる。しかし、前にも述べたが、「この憲章のいかなる規定も、第二次世界戰爭中にこの憲章の署名國の敵であつた國に關する行動でその行動について責任を有する政府がこの戰爭の結果としてとり又は許可したものを無效にし、又は排除するものではない。」と規定する國連憲章第百七條の意味するところは、極東委員會(FEC)及び連合國が占領憲法の制定を強制したことを合法であるとし、我が國が占領憲法を改廢することを禁止する趣旨であるから、我が國が国連に加入することは、占領憲法を改廢しないことを暗に承諾したに等しいことになる。我が國はそれを認識してわざわざ國連に加入したのであるから、加入したことによつて占領憲法の改廢をしないことを誓約したことと同じである。そこで、その拘束から逃れるには、我が國が國連から脱退し、あるいはその條項の破棄通告をすることである。もし、それを實行すれば、その拘束から解放されるので、前者(單獨改正説)と同じ結果となり、占領憲法を廢止(破棄通告)することもできるのである。
帝國憲法は、改正する場合には通常の法律改正手續と比較して特に嚴格かつ愼重な改正手續を必要とする意味において「硬性憲法」であるが、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の場合は、帝國憲法との形式要件の比較においても、「超硬性憲法」といふことができる。このやうに「超硬性」である理由は、連合國としては、講和條約體制ないしは敵國條項を含む國連體制を變更することになる占領憲法(東京條約、占領憲法條約)の改廢を實質的に禁止したかつたからである。そして、國連憲章第百七條と桑港條約第十九條(d)でさらに念には念を入れてゐるのである。ところが、このやうな念の入れ樣によつて、却つて占領憲法が講和條約であることを證明する結果となつた。それは、もし、占領憲法が我が國の「憲法」であるのなら、その改廢を禁止するやうな國連憲章や桑港條約の前記條項は國際慣習法上も到底ありえず、占領憲法が講和條約でなければ、これらの規定の存在根據を喪失することになるからである。
以上の考察からすると、占領憲法の天皇條項の規定のうち、規範國體と矛盾牴觸する部分や有害無益な部分としては、占領憲法第一條中の「この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。」の部分、第二條中の「國會の議決した皇室典範の定めるところにより」の部分、第四條第一項の全部、第五條の全部、第八條の全部、第九條第二項の全部、第九十六條の全部であり、これらの條項はすべて違憲無效といふことになる。
統治機構條項
次に、天皇條項と不可分一體となりうるその他の統治機構に關する條項について檢討する。
帝國憲法第三章ないし第六章には「統治機構」についての條項が規定され、占領憲法では、これに對應するものとして第四章ないし第七章に規定があるが、これらについても各條項毎に對應するものではない。それゆゑ、帝國憲法と占領憲法の規定を全體として制度的に比較してみると、兩者に共通する制度としては、三權分立、二院制、兩議院議員の兼職禁止、法治主義、會期制、會議の公開、衆議院の解散、議會の公開、議院の規則制定權、議員の免責特權と不逮捕特權、國務大臣の議院出席、責任内閣制、裁判官の身分保障、裁判の公開原則、豫算・決算制度、租税法律主義、豫備費制度、會計檢査院制度などである。
これらの統治機構制度は、國家統治の基本原則として根本規範(規範國體)を組成するものではあるが、その具體的な細目内容は極めて技術的性質を有してゐる。それゆゑ、根本規範を組成するものは、これらの制度の基本や趣旨であつて、これらの制度的保障が維持される限り根本規範に牴觸するものではない。從つて、占領憲法におけるこれらの制度的規定は、帝國憲法との具體的な規定内容の細部において齟齬があるとしても、同質性を有し基本制度自體を否定するものではなく、根本規範(規範國體)に違反するものではないので、講和條約(東京條約、占領憲法條約)の當該條項は成立してゐる。
しかし、形式的には帝國憲法違反であり、憲法改正手續を經たものではなく、時際法的處理もされてゐないので、講和條約(東京條約、占領憲法條約)が轉換成立したとしても、その國内法的效果として、法たる憲法的慣習である憲法的慣習法として存在し、その慣習によつてこれまで運用されてきたことになる。
また、帝國憲法と占領憲法との制度比較について、帝國憲法には規定はなく占領憲法にある制度としては、國會、議院内閣制、參議院、條約の國會承認、彈劾裁判所、地方自治などがあり、逆に、帝國憲法には規定があるが占領憲法にはない制度としては、帝國議會、貴族院、樞密顧問(樞密院)、特別裁判所、行政裁判所などがある。
このうち、帝國議會と國會、貴族院と參議院との對比をすれば、貴族院議員の選出が、皇族、華族、敕任といふ任命制であつたのに對し、參議院議員の選出が公選制となつたことによる相違に由來する。任命制と公選制といふ異なる選出方法による二院制と同じ選出方法(公選制)による二院制といふ相違である。つまり、公選議員による議院は、帝國議會では衆議院のみ、占領憲法では衆議院と參議院の兩院であり、公選一院制と公選二院制との相違に過ぎず、議會制度の本質は同じである。
そもそも、任免權者が特定の身分と資格を持つ者から選任する場合(任命制)と國民から選擧によつて選任される公選の場合(公選制)とを機械的に比較して、どちらが制度の理想目的を實現するかといふことを一律的に論ずることはできない。現在でも、專門性を有する職務(裁判官や諮問機關などの政府委員など)は任命制であり、裁判官などを選擧で選ぶことに抵抗があるのは、專門性の有無を公選では審査できないといふ事情に基づくからである。教育の民主化といふ名目でなされたGHQによる教育解體政策によつて、教育委員會委員の公選制が實施されたが、それが教育の政治化による混亂を生じたことから、任命制へと變更せざるをえなかつたのと同樣に、公選制は、外見、風評、知名度などといふやうな專門性とは全く無縁の要素の有無によつて選出されるからである。立法機關の議員についても立法關連の專門性が要求されるが、公選制では、專門知識と見識、人格に劣る者であつても議員になりたいと希望する者(立候補者)から選任され、議員にさせたい者(高度の專門知識と見識、高潔な人格を有する者)を選任する制度でないところに、この制度の限界と缺陷があるからである。
また、條約の發效について議會の承認を必要とするか否かとか、特別裁判所をどの守備領域について設置するか否かといふことは、極めて統治機構制度の技術的な事項であり、帝國憲法と占領憲法と司法制度の相違は瑣末なものであつて本質的なものではない。特別裁判所といふのは、爭訟事項の專門分化に對應するものであつて、統治機構が權力分立によつて、各權力部門相互間の抑制と均衡を實現させようとするのと同樣に、各權力部門内部においても分立制を採用してきたのである。立法部門における二院制、行政部門における獨立行政委員會(一般行政權から獨立性を保つ行政機關)の設置などはその趣旨であつて、それを司法にも適用すれば、それは特別裁判所制度となるのである。
このやうに、帝國憲法と占領憲法の統治機構制度には相似性がある。ただし、占領憲法第四十一條中の「國權の最高機關であつて、國の唯一の」の部分、第六十六條第二項、第七十六條第二項の全部、同條第三項中の「この憲法及び法律のみに拘束される。」の部分、第八十八條前段の全部は、いづれも規範國體に違反するので認められないが、それ以外の條項における齟齬の多くは制度技術的ないしは運用記述的な相違であつて本質的相違ではない。從つて、前に述べたと同樣に、占領憲法におけるこれらの制度的規定は、帝國憲法との具體的な規定内容の細部における齟齬があるとしても、前記例外の條項を除けば、同質性を有し基本制度自體を否定するものではなく、根本規範(規範國體)に違反するものではないので、講和條約(東京條約、占領憲法條約)の當該條項は成立してゐる。しかし、前記同樣、形式的には帝國憲法違反であり、憲法改正手續を經たものではないので、講和條約(東京條約、占領憲法條約)の國内法的效力として、法たる憲法的慣習である憲法的慣習法として存在し、その慣習によつてこれまで運用されてきたことになる。
ただし、貴族院や樞密顧問(樞密院)は現在では事實上存在せず、機關缺損の状態となつてゐるが、この點については、次章で説明する。
地方自治條項
これまで、帝國憲法と占領憲法との制度比較について述べてきたが、帝國憲法には規定はなく占領憲法にある制度のうち、地方自治については、項を改めてここで述べてみたい。
帝國憲法には規定がない事項は、帝國憲法下においてはいづれも下位法規によつて定めることができる。そのことは、占領憲法(東京條約、占領憲法條約)で新たに定められた地方自治制度についても同樣であつて、占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)として認められるのであれば、この地方自治制度が新設されたことになる。そして、さらにこれが法律に委任(第九十二條)され、現行の『地方自治法』(昭和二十二年法律第六十七號)で運營されてゐることになる。
占領憲法では、新たに第九十二條以下において「地方自治制度」を規定し、その第九十二條には、「地方公共團體の組織及び運營に關する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」と規定し、「地方自治の本旨」といふ概念が登場した。
では、これをどのやうに理解するのか。これについては、「民主主義(人民自治)」と「地方分權(團體自治)」であるとする見解がある。それによれば、『マッカーサー草案』(マ草案)第八章「地方政治」に規定する第八十六條ないし第八十八條を根據とするとされてをり、これによれば、「住民」は、首長及び地方議員のみならず「徴税權ヲ有スル」自治體の主要な公務員についても直接選擧による選定罷免權を有してゐることや、自治體内に「財産」を有する「住民」は、當該自治體に對し、監督權・參政權をも享有することになつてゐる。それゆゑ、「住民」とは、國籍等を問はず、自治體内で「財産」を有し、納税の義務を果たしている總ての「住民」をも含むことにならう。このやうな住民自治の概念は、この人民主權概念に依據してゐる。これに影響を受けた『フランス山嶽黨憲法』(1793+660)の一部をなす山嶽黨權利宣言第二十條によれば、納税者である人民は、租税の設定に協力し、その使途を監視し、これについての報告を受ける權利を有するとしてをり、納税の義務の履行者(納税者)と參政權とは一體のものとの認識がなされてゐた。まさに、マ草案の思想的背景もこの系譜に屬するものであつて、地方自治の參政權(地方參政權)は、この地方納税者住民の享有する權利(地方納税者權)の一つといふことになる。さうであれば、國籍の有無を問はず、永住許可を受けてゐるか否かを問はず、地方納税の義務を履行して納税した者(地方納税者)に地方自治の參政權を認め、地方納税者でない者(納税免除者を含む。)は國民であつても地方參政權を認めないといふ制度でなければ地方自治の本旨に違反することになるのであらう。
この外國人の地方參政權のうち、外國人の地方選擧權のみ(國政選擧權、國政被選擧權及び地方被選擧權を除く。)に關して、判例と通説は、これを認めるか否かは憲法的にはニュートラルな立法政策の問題であつて、これを認めることが占領憲法の要請ではなく、また、憲法違反でもないとする(最高裁判所第三小法廷平成七年二月二十八日判決)。つまり、占領憲法の基本的人權の保障は、權利の性質上日本國民のみをその對象としてゐると解されるものを除き、我が國に在留する外國人に對しても等しく及ぶものであるとする一般論に立つものの、第十五條一項にいふ公務員の選定罷免權は、國民主權原理における國民(日本國籍を有する者)に歸屬し、外國人には及ばず、第九十三條二項にいふ「住民」についても、地方公共團體の區域内に住所を有する日本國民を意味するとした上で、「地方自治に關する規定は、民主主義社會における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な關連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその區域の地方公共團體が處理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が國に在留する外國人のうちでも永住者等であってその居住する區域の地方公共團體と特段に緊密な關係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な關連を有する地方公共團體の公共的事務の處理に反映させるべく、法律をもって、地方公共團體の長、その議會の議員等に對する選擧權を付與する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相當である。」とするのである。
しかし、このやうな肯定説ないしは立法政策説(許容説)の見解に對しては、いくつかの根本的で重大な疑問を抱かざるを得ず、現時點においては、占領憲法の解釋においても、外國人の地方參政權を認めることは、帝國憲法に違反し、かつ、占領憲法にも違反するものと判斷される。
では、その理由と根據を説明する前に、その前提事項を次のとほり整理しておきたい。
まづ第一に、占領憲法の地方自治條項とマ草案の地方自治條項とは、その趣旨が異なるといふ點である。兩者を比較すると、マ草案の第八十六條ないし第八十八條の三箇條は、具體的に表現されてゐたのに對し、これに形式的に對應する占領憲法の第九十三條ないし第九十五條の三箇條の規定は抽象的、包括的なものとなつてゐる。そのために、總論的な制度保障規定として、「地方公共團體の組織及び運營に關する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」(第九十二條)といふ規定を設けたといふことができるが、この「地方自治の本旨」についての説明がないことから、地方自治制度自體の抽象性にさらに拍車をかけることになつた。それゆゑ、占領憲法は、マ草案の定めた具體的な限定をなくしたものであつて、兩者の規定の趣旨は同じではない。
第二に、占領憲法の解釋はマ草案の文言に拘束されないとの點である。つまり、マ草案は、講和條約(東京條約、占領憲法條約)の締結交渉における初期草案であつて、これがその協議の中で變更され、結果的には占領憲法の文案で成立したのであるから、協議經過途中でのマ草案の文言自體に拘束されることはないのである。現に、マ草案第八章の表題は「地方政治」(Local Government)であつたのを、GHQ側が政府提案を了承して「地方自治」(Local Self-Government)と變更してゐる。また、マ草案では、前述のとほり「徴税權ヲ有スル」者の直接選擧を定めてゐたことから、これを昭和二十一年三月二日の政府案では、これを受けて「地方税徴收權ヲ有スル」としたのであるが、GHQ側が逆にその表現全體の削除を強く要請してきた。しかし、我が政府がこれに應じなかつたところ、後に示されたGHQの整理英文ではそれが削除されたことから、結果的にはその文言が削除された三月五日案ができたといふ經緯があつたのである。ただし、講和條約(東京條約、占領憲法條約)として締結された英文の公文である英文官報の占領憲法(英文占領憲法)は、邦文占領憲法と同等の法的效力を有するものであつて、解釋においてもその表現文言に拘束されることになる。
第三に、「地方自治の本旨」の意味を民主主義と地方分權として限定的に解釋しえない點である。そもそも、我が國の中央と地方との關係が強く認識されることになつたのは江戸時代からである。この幕藩體制といふのは、冊封制度、すなはち、德川幕府(征夷大將軍)が諸藩の藩主の任命權を有することから、幕府と諸藩とがそれぞれ國家であるとすれば、それは宗主國と從屬國(附庸國)の關係であつたことになるが、それが明治維新を經て版籍奉還、廢藩置縣により中央集權の統一國家となつた。それゆゑ、藩主、知藩事、藩知事、知事、縣令、知事と呼稱はめまぐるしく變遷したが、國家からの委任事務を管理執行する官選の地方長官であつて、中央集權體制であつたから「地方自治」といふ觀念自體がなかつたのである。「本旨」とは、「本來の趣旨」といふ意味であり、この制度は「新設」であつて、そもそも「本來」のものがないのである。それゆゑ、これには特段の意味はなく、地方自治の運用については占領憲法との整合性が保たれる範圍内であればこれを許容するといふ趣旨のはずである。それゆゑ、これを「民主主義(人民自治)」と「地方分權(團體自治)」の意味であると恣意的に限定解釋する根據はないのである。
むしろ、歴史的に考察すると、「地方」の姿は、部族連合制、律令制、幕藩制を經て、廢藩置縣の明治維新へと推移したので、地方自治の樣相を探るとすれば、幕藩制以外にない。幕藩制は、各藩が獨自の年貢諸役によつて獨自の財源を確保して藩政を担つてゐたことから、「團體自治」と「財源自治」で貫かれてゐた。もし、地方自治の本旨なるものがあるとすれば、地方は中央に財源的に依存しない獨自の財源で運営することである。それゆゑ、「財源自治」の原則が滿たされてゐない、三割自治と揶揄される現在の「地方自治」は、地方自治の本旨によるものではなく、地方自治の名のもとに國政の一部を分掌することに他ならない。つまり、もし、これに外國人が參政權を有することになると、地方交付税交付金や補助金など國費の處分に關與させることとなつて、國政參政權を附與したに等しく、占領憲法にも違反することになる。
以上のことを踏まへて、さらに、外國人に地方參政權を附與することが帝國憲法及び占領憲法のいづれにおいても認められない理由と根據について説明したい。
まづ、占領憲法が憲法として無效であり帝國憲法下の講和條約であることを前提とすると、帝國憲法が中央集權體制の統治制度であること、帝國憲法第十九條は議員など資格を得て公務に就くことができるのは臣民固有の權利であることを定めてゐることなどからして、地方參政權と雖も外國人に附與されることがないことは當然のことであるが、それだけでは占領憲法を踏まへた現在性のあるこの問題の議論とはなりえないので、ここでは占領憲法が憲法であると假定した立論も用ゐて理由付けるものとする。
ただし、占領憲法が講和條約であることから、その條文解釋においては、各國に自己解釋權があり、我が國は、可能な限り自國に有利に解釋適用しうる權利があることを留意されたい。
まづ、第一の理由としては、法實證主義に依據して制定されたとする占領憲法の解釋からの當然の歸結によるものである。占領憲法第十五條第一項に、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、國民固有の權利である。」と規定し、さらに、同第九十三條第二項には、「地方公共團體の長、その議會の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共團體の住民が、直接これを選擧する。」とある。つまり、「地方公共團體の長、その議會の議員及び法律の定めるその他の吏員」の意味は、特別職及び一般職を含むすべての「地方公務員」のことであり、その「公務員」の選定罷免權は、「國民固有の權利」であるとするのであるから、外國人(非國民)にその權利は認められない。占領憲法の英文でも、第十五條第一項の「公務員」は「public officials」であり、また、第九十三條第二項の「地方公共團體の長」は「The chief executive officers of all local public entities」、「その議會の議員」は「the members of their assemblies」、「法律の定めるその他の吏員」は「such other local officials」となつてをり、「local」(地方)であつても、「officers」(公務員)であり、「public」(公務)であり、これらは全て「such」(同種、同類)なのである。それゆゑ、國政參政權と地方參政權とを分離することはできず、國民固有の公務員選定罷免權を國民でない者(非國民、外國人)に附與することは占領憲法違反となることは明らかである。
また、第二の理由としては、地方自治において、人民主權主義に基づく「人民自治」を認めることは國民主權主義の占領憲法違反になるとする點である。
人民自治(住民自治)は、民主主義と同義ではなく、これを同義とする點も誤りである。占領憲法の前文に「主權が國民に存する」との部分に該當する英文占領憲法の表現は「sovereign power resides with the people」であり、占領憲法には「國民」の概念はあつても「人民」とか「人民主權」の概念はない。また、最高裁判所裁判官の國民審査を定めた第七十九條第二項の「國民審査」に該當する部分についても「reviewed by the people」となつてゐるし、憲法改正案の國民投票について定めた第九十六條第一項に該當する部分は「submitted to the people」(國民に提案し)、「require the affirmative vote of a majority」(過半數の贊成投票を必要とする)となつてゐる。そして、このことは、地方自治の規定についても同樣である。つまり、地方自治の吏員について住民の直接選擧を定めた第九十三條第二項に該當する部分は、「direct popular vote within their several communities」(それぞれの自治體内における直接の國民投票)であり、地方自治特別法の住民投票について定めた第九十五條に該當する部分は、「the consent of the majority of the votes of the local public entity」(地方公共團體の投票においてその過半數の同意)となつてゐるのであつて、どこにも「住民」に對應する文言はない。むしろ、第九十三條第二項の「popular vote」は、占領憲法全體の表現文言からして、當然に「國民投票」を意味し、ここで突然に「人民投票」の概念が出てくるはずもない。これを「住民投票」と解釋したとしても、それは「國民である住民」を意味することになる。
そもそも、人民自治といふのは、自治體固有の財産の處分や財政の運營をその財源を提供する納税者全體の判斷に委ねるといふ趣旨で、納税者權と地方參政權を同視する考へであるから、それが認められるためには、自治體が固有の財源のみによつて運營されることが前提條件となるはずである。つまり、前述したとほり、傳統的、歴史的に見て、地方自治の本旨といふのは、單に、「住民自治」と「團體自治」だけでは足りず、「財源自治」が最も重要なものなのである。ところが、現在の地方自治は、地方財政調整のために國税收入の一定割合の交付金(地方交付税交付金)や國の補助金によつて運營されてゐる。これらは、自治體の固有の財源ではない。しかも、事務事業のうち、その大半は國の委任事務であり、固有事務は少なく、このやうな脆弱な自治を「三割自治」と揶揄されてゐる。しかも、自主財源であると説明されてゐる「地方税」と呼ばれてゐるものについても、地方税法その他の「法律」によつて課税徴收される財源は、眞の意味で自主財源でも固有財源でもない。地方税とは、地方における行政府が課税して納付させる税金であり、國家が課税して納付させるものを國税として區別するのが一般であるが、納税者の立場からすれば、課税される根據が國の「法律」なのか地方公共團體の「條例」なのかの區別、つまり、「法律税」か「條例税」かの區別こそ重要である。つまり、假に、地方參政權が地方納税者權(條例税納付者權)と對應するものであれば、地方納税者は、自己が條例によつて納税する税金の管理監督權として、その自主財源の課税徴收の根據となる條例を制定し、その税金の使途等を豫算決算の形式で議決した議會の議員、その豫算を執行した行政機關などの公務員に對して、選定罷免權を行使することが認められるのである。ところが、その豫算決算の中に、地方が獨自の條例制定權に基づいて課税徴收したものでない財源が含まれてゐる場合、その部分についての管理監督權は行使できないことになる。特に、それが「法律税」による財源であれば、その管理監督に容喙することは國政に參加させることとなる。法律税の税收が自治體に分配されるのは、自治體を通じて當該自治體に居住する「國民」に向けられた國家の行政執行であつて、自治體固有の行政ではない。あくまでも機關委任事務である。これに國民以外の住民を參加させるのは違憲であつて許されないのである。
前に述べたとほり、マ草案では、「徴税權ヲ有スル」となつてゐたのを三月二日案で「地方税徴收權ヲ有スル」として、あへて「地方税」の字句を附加したのは、「條例税」の自主財源を踏まへた地方自治を想定してゐたためである。
この地方の自主財源(條例税)の支出や處分を管理監督するために、地方納税者たる「住民」に地方參政權を付與するとしても、それは、「國民」の有する國政の參政權とは明らかに異なつた態樣となる。國政の參政權は、納税の有無とは關係がないため、地方參政權を納税者權と對應させると、特定の自治體に居住する「國民」と「住民」とは一致しなくなる。住民とは、その自治體領域の單なる居住者ではなく、定住性がある者やある程度長期の居住期間を必要とすることからすると、地方自治に關係を持ちうる「居住者」について、國籍の有無と納税の有無とによつて、次の四種類に區別される。それは、①國民であり住民である者、②國民であるが住民でない居住者、③國民でないが住民である者、④國民でも住民でもない居住者、の四種類である。そして、このうち、「住民」は、條例税を納付した住民とさうでない住民とに區分され、住民でない者(非住民)も、條例税を納付した居住者とさうでない居住者とに區分される。
ところで、「臣民(國民)」の概念定義は法定されることになつてゐる(帝國憲法第十八條)。臣民とは、大御寶(おほみたから)である。「たから」とは、「田柄(田幹)」であり、田(農地)で結び付きを持つ族(柄、幹)である。やはり、臣民は、農を拔きにしては成り立たないことを意味する。そして、第三章で述べたとほり、皇統が血統のみならず靈統と一體となつてゐるのと同樣に、その雛形となる臣民についても、臣民の血統のみならず臣民としての靈統が求められる。つまり、國籍取得の要件は、臣民の血統としての「家族」と、靈統としての「祭祀」の兩面が必要となる。そして、成人に達した者には、元服式(成人式)において「臣民之誓詞」が求められる。これによつて初めて眞の臣民となり、君民一體となるのである。
それゆゑ、國籍取得の要件は、臣民であるための歸化要件と同程度でなければならないのであつて、そのことが規範國體の内容となつてゐる。アメリカ合衆國の歸化要件においても、忠誠宣言がある。これは、歸化をする外國人は、母國に對する忠誠を放棄し、もし要請があれば武器を持つて合衆國軍の一員として戦ふことを誓ふのである。母國とアメリカが戰爭する場合、アメリカ人として武器を持つて母國と戰ふ覺悟がなければ市民權(國籍)は與へられないのである。
このやうに、歸化要件は、歸化國と祖國(母國)との戰爭時における歸化國への忠誠義務、祖國に對する忠誠の放棄がなされるものでなければならない。これは戰爭だけではない。歸化國と祖國(母國)との外交、政治、法律、經濟など一切の國家的利害對立の状況において、常に歸化國の利益のために行動することの誓詞が求められる。
ところが、占領憲法には、これと同樣の體裁をとつてゐる第十條の規定があるものの、この性質は帝國憲法第十八條の臣民條項の性質とは全く異なる。占領憲法は、敗戰國が戰勝國に服從して制定(締結)されたものであることから、外國人が日本國籍を取得するについての國籍條項も歸化條項も原則として何らの制約を設けることができない「無國籍化(國籍自由化)」を圖り、國籍條項の撤廢を目途としたものである。占領憲法では、歸化人が歸化國を裏切つて祖國(母國)の利益のために行動する利敵行爲をしても當然に許される。むしろ、そのやうに行動することが我が國を弱體化し消滅させるために效果的と考へたからである。
占領憲法は、日本國の憲法であることの特異性が全くない。それどころか、日本を消滅させる占領下の敗戰國であれば、どこにでも適用されうる内容であり、日本でなければならない特有の規定などはどこにもないのである。占領憲法の「第三章 國民の權利及び義務」における「國民(日本國民)」の英譯(Japanese people)とは異なり、同第十條の「日本國民」の英譯は、「Japanese national」(日本國籍所有者)とある。GHQは、「Japanese people」を「日本在住者」を意味するものとし、日本國籍の有無にかかはらず、日本に居住してゐる外國人のすべてを含むものとして「第三章 國民の權利及び義務」を定め、國籍條項はGHQ草案にも政府草案にもなかつたのである。つまり、占領憲法は國籍による差別を認めない無國籍國家の憲法だつたのである。それを昭和二十一年七月二十九日の衆議院憲法改正特別委員會の小委員會において、國籍條項(第十條)が挿入されたが、GHQは、「Japanese national」(日本國籍所有者)と「Japanese people」(日本在住者)とは同じであり、いづれも「Japanese people」(日本在住者)であると理解して、この挿入を許諾したのである。
占領憲法の「第三章 國民の權利及び義務」にも、「すべて國民は」とする規定と「何人も」とする規定とがあるが、何ゆゑにそのやうに區分されてゐるのかの基準は明確ではない。その理由は、GHQとしては、「people」(在住者)と「person」(人民)とを區別しなかつたからである。すべてこれは、國民と非國民との區別を溶融させて混在一體化させ、我が國をメルトダウンさせることを狙つたものである。それゆゑ、占領憲法では、國籍はもとより、外國人の地方參政權を制約することもできないものとなつてゐる。そのため、占領憲法に從へば、臣民と臣民でない者の區別を流動化させ最後には撤廢させるに至ることは必然であつて、その意味でも占領憲法を憲法として認めることは、國家の消滅を招來することになる。
ともあれ、現行の國籍條項の運用によつても、臣民(國民)の社會において共存する臣民(國民)でない者にも、臣民(國民)の場合と同樣に、「住民」と「非住民」との區別が求められることになる。しかし、「住民」の概念定義自體が不明確であることから、恣意的な線引きによつて住民と非住民(居住者)が區別され、特定の者が實質的に住民から排除しうる運用が可能な制度自體が違憲となる。それは、非住民とされた者が條例税納付者である場合に顯著となる。住民であれば通常は條例税納付者であることが一般であつても、さうでない場合も多いのであるから、この状況は、「住民自治」の根幹を搖るがす問題となるからである。
このやうな複雜な情況においても、あへて現行制度下において地方參政權を容認する方法を見出すとすれば、それは、法律税を財源とする豫算決算と條例税を財源とする豫算決算とを別會計とし、これに對應する各豫算別行政を區別した上で、それぞれに對應する豫算議會とそれを執行する首長を設置しなければならない。つまり、①と②を參政權者として選出された法律税豫算議會議員及びその執行責任者(首長)と、①と③を參政權者として選出された條例税豫算議會議員及びその執行責任者(首長)とに區分し、それぞれが法律税財源と條例税財源の審理、議決、執行、管理、監督などを行ふといふ煩雜な方法しかないのである。①に屬する者は、国政と地方の雙方の參政權を有するのであつて、これを一律かつ單一の議會と首長を選擧できる制度とし、國籍を有しない者や條例税を納税しない者を同列同等に參加させることは公正、公平を著しく缺くことになる。ましてや、條例税納付者であり居住者であるにもかかはらず、住民と認められない者を參加させないことは、地方參政権の侵害として違憲となる。それゆゑ、二種類の議會と首長を設けずに現行制度のままで短絡的に一つの議會議員と首長を選出する制度のままで外國人の地方參政権を認めることは、參政権の平等原則を崩壞させることとなつて違憲無效となることが明らかである。
次に、外國人に地方參政權を付與することが違憲であることの第三の理由としては、「地方分權」化しつつある地方自治に外國人の參政權を認めることが違憲であるとする點である。
初めに明確にすべきことは、「地方分權」は帝國憲法と占領憲法のいづれにも違反するといふことである。團體自治は、地方分權と同義語ではなく、これを同義とする點は誤りである。前に述べたが、マ草案では、當初は地方自治とせず「地方政治」としてゐた。地方政治と地方自治とは異なるのである。ましてや、「地方分權」とも異なるし、そもそも地方分權の定義が明確ではない。一般に、地方分權とは、中央集權に對置される概念として、國家權力を地方自治體に移して分散させる體制を意味するとされるが、それでも具體的なものではなく明確ではない。戰前のやうな地方政治の態樣から、アメリカのやうな連邦制の形態までの樣々な態樣まで、中央と地方の關係には樣々なものがあるが、そのうちどの態樣を意味するのかも不明である。これは、「地方自治の本旨」が不明であることと無縁ではない。いづれにせよ、この地方分權が「國家權力の一部が委讓された地方政府」といふ意味であるとすれば、帝國憲法第四條の統治大權を侵害することになつて違憲無效である。また、「委讓」が「委任」であつても、恆常的に法律で委任されるのは委讓に等しく、これも違憲無效である。
そして、この點について、さらに、占領憲法レベルで考察しても、「委讓」とこれと同視できる「委任」もまた以下の理由により占領憲法違反となつて無效となる。すなはち、前述した現行の運用のとほり、その委讓する權限が國の財政支出を伴ふものであれば、國費の支出等について國會の議決に基づくこととし(第八十五條)、會計年度主義によつて國會の豫算議決を必要とする財政の基本制度を空洞化させるものであるからである。ましてや、委讓された地方政府の財政に日本國民でない外國人を關與させることは、間接的には外國人に實質的に「國政參政權の移讓」をしたに等しく、二重の意味で占領憲法に違反する。ちなみに、ここでも、「移讓」と「委讓」の相違は、權限の移轉が國際關係でなされるのが前者であり、國内關係でなされるのを後者として區別してゐる。ともあれ、これが移讓ではなく恆常的な法律の委任であつても同じである。また、公務員の選定罷免權は、「國民固有の權利」(第十五條)であるから、移讓は勿論のこと、委任にも馴染まないものである。
さらに、第四の理由としては、占領憲法第九十五條の地方特別法の住民投票に關する規定からして、その「住民」に外國人が含まれるとすれば、外國人に國政參政權を付與することとなつて占領憲法に違反するといふ點である。
すなはち、これは、國會が國の唯一の立法機關であるとする第四十一條の例外規定として、住民投票による同意に法律の成立を委ねるものであり、いはばその「自治體の選擧民團」を「臨時の國家機關」として、その同意決議に委ねるといふ制度となるからである。これは、占領憲法改正について定めた第九十六條の「國民投票」の場合に、「國民の選擧民團」といふ臨時の國家機關による贊成決議に委ねたのと同樣の構造となつてゐる。さうであれば、この場合の自治體の選擧民團といふ臨時の國家機關の決議は、まさに國政の參政權行使の場面であつて、これに外國人が參加することは許されない。それゆゑ、この第九十五條の「住民」と第九十三條第二項の「住民」とは全く同じであることからして、「住民」とは、「國民である地方公共團體の住民」の意味であることは明らかである。
また、第五の理由としては、外國人の地方參政權について、地方選擧權と地方被選擧權と區別して論ずることができない點である。
參政權といふのは、選擧し選擧されるといふ自同性を本質とするものであつて、本來一體不可分のものである。現行制度において、選擧權を有し被選擧權を有しない者(公職選擧法第十一條の二)を認めてゐるが、これは刑罰に派生した制裁による政策的なものである。外國人に地方選擧權を認めるとの見解は、これを認める點において特權を付與し、地方被選擧權を認めない點において制裁を加へるといふものであつて、特權と排除を組み合はせた差別思想に他ならない。
さらに、第六の理由としては、外國人に地方參政權を付與するについて、永住許可の有無や在留資格の種類によつて區別したり、納税の有無によつて區別したりすることに合理的な基準が設定できない點である。
つまり、どの程度のその土地に居住定着すれば「住民」と云へるのかいふ點は、在留資格の種別だけで判斷しえないものであり、「住民」であるか否かは、單に登録等の形式ではなく實質で判斷されなければならないものである。さうすると、その地に居住してゐても居住態樣によつて住民と認めてもらへない者が生じたり、逆に、居住実態がないのに登録等の形式だけで住民と認められる者も生ずることになる。そして、居住してゐなくても納税してゐる者は「住民」ではないとしても、地方參政權を付與すべき「人民」ではないのかといふ疑問も出てくる。特に、その土地で多額の納税をした外國人旅行者(非居住者)の場合と、これまで一切納税したことのない定住外國人の場合(居住者)とを比較して、どちらが地方參政權を付與するに適格なのかを明確に判斷しうる基準がないことである。このやうな不明確なものは、參政権の得喪に關する基準とはなりえず、恣意的な制度とその運用によつて、實質的に參政權が侵害される者が生ずることとなつて違憲であると云はざるを得ない。
最後に、第七の理由としては、外國人の地方參政權について、外國の立法例や相互主義の見地は、これを付與する根據とはなり得ない點である。
これについての諸外國の立法例は、それぞれの國の制度的沿革や政治的事情も樣々であつて、一律に論じたり參考にできるものではない。法體系の相違を無視して單に平面的に論じても無意味である。また、外國人に權利を與へるについてその外國人の本國が自國民に同等の權利を與へることを條件として認めるとの相互主義の原則は、國家主權に關する事項には適用がないのである。
以上の理由により、外國人の地方參政權付與が帝國憲法及び占領憲法のいづれにおいても認められないことが明らかであるが、外國人のうち、桑港條約發效まで臺灣と韓半島(朝鮮半島)の出身者で日本國籍を有してゐた者については、別途に考察する必要がある。
まづ、桑港條約發效前の昭和二十二年五月二日の『外國人登録令』、同二十六年の『出入國管理令』によつて、既に、これらの人民の日本國籍は「停止」されてゐた。そして、最高裁判所は、戰前の領土割讓や併合に因つて日本國籍を取得した者は桑港條約發效によつて日本國籍を喪失すると判斷したのである(昭和四十年六月四日判決)。しかし、桑港條約第二條は割讓及び併合による「すべての權利、權原及び請求權を放棄」したのであつて、「義務を免除」されたのではない。從つて、戰前に我が政府が割讓地及び併合地の人民に日本國籍を付與して引受けたのであれば、桑港條約發效後はその人民に國籍選擇權を與へ、日本國籍を希望すれば日本國籍の保持繼續を保障する義務があつたはずである。少なくとも、占領憲法第二十二條第二項の趣旨から、國籍の選擇權を付與すべきであつたが、結果的には、國籍要件に關する法定主義(帝國憲法第十八條、占領憲法第十條)に基づき、現在ではその國籍の喪失が確定してゐる。從つて、これらの人民とその末裔については、外國人の地方參政權の問題として處理するのではなく、歸化要件の緩和による救濟措置を以て對處すべきものである。
ただし、ここでどうしても觸れておかねばならない危惧がある。それは、次項とも關連するが、占領憲法の條文解釋については一樣ではなく、これまで以上にさらに亡國的な解釋も成り立ちうるといふことである。それは、移民、入國審査、永住許可、歸化、國籍取得、國籍條項などの一齊緩和によつて、日本が溶け出すことに齒止めがかからない事態となる危險があることである。國民主權の名の下に、どのやうな解釋も許されるといふ事態である。
そもそも、邦文の占領憲法の條文を英譯して「英文官報」に正式に掲載された「英文憲法」は、單なる公式の英譯といふよりも、邦文の占領憲法と「同等」の法的效力を有する英文占領憲法であるとする解釋も成り立ちうるのである。つまり、決して「占領憲法の英譯」ではなく、「もう一つの占領憲法」といふことである。占領憲法が講和條約であることからすると、これを否定する根據に乏しくなるのである。
さうすると、このやうな解釋も射程範圍に入つてくる。つまり、邦文占領憲法に「日本國民」と表現されてゐるのは、英文占領憲法では、「Japnese people」(前文、第九條)、「people」(第一條)、「Japnese national」(第十條)、「people of japan」(第九十七條)となつてゐる。また、同樣に、邦文占領憲法と英文占領憲法を比較すると、「國民」と表現されてゐるのは、「people」(第十一條、第十二條、第十五條、第三十條、第九十六條)であり、「すべて國民」と表現されてゐるのは、「All of the people」(第十四條)、「All people」(第二十五條ないし第二十七條)とある。これに對し、「何人」と表現されてゐるのは、「Every person」(第十六條、第十七條、第二十二條第一項)、「person」(第十八條、第二十條、第三十一條ないし第三十四條、第三十八條、第三十九條、第四十八條)、「all persons」(第二十二條第二項、第三十五條)、「any person」(第四十條)である。このことからすると、概ね「國民」は「people」に、「何人」は「person」にそれぞれ對應してゐるが、そもそもこのやうに明確に区分される根據はない。「Japnese people」(前文、第九條)、「Japnese national」(第十條)、「people of japan」(第九十七條)は「日本國民」と理解されるとしても、単なる「people」(第一條、第十一條、第十二條、第十四條、第十五條、第二十五條ないし第二十七條、第三十條、第九十六條)を「國民」のみに限定される根拠に乏しい。ましてや、「person」を「國民」に限定される根拠は全くなく、外國人を當然に含むものと解釋しうる。
國籍法制は、大きく分けて血統主義と生地主義とがある。我が國などは、血統を基本とした血統主義であるが、英米などは誕生地を基本とした生地主義であることから、GHQ草案(資料三十一)には、占領憲法第十條が想定するやうな血統主義を想定した國民の要件に關する規定がなく、國籍については英米法の生地主義による國籍法制を當然のことと考へてゐた形跡がある。帝國憲法第十八條の臣民の要件は血統主義であり、その流れを汲んで占領憲法第十條が帝國議會の審議で追加されたといふ經緯があつたことからすると、やはり、GHQ草案における「person」と「people」には明確な區別はなく、生地主義の國籍を豫定してゐたとしても不思議ではない。そのために、後で付け足された占領憲法第十條の「國民」の英譯だけが、他の規定における「person」と「people」とは異なり、「Japnese national」といふ英譯になつてゐるのである。「Japnese national」は、血統主義による國籍を想定したものであるが、GHQは、これを生地主義を想定した「person」や「people」と同じ意味であるとしてスルー(through)させてしまつたのである。
さうすると、邦文占領憲法第十四條の「すべて國民」は、これと同格の法的效力を有する英文占領憲法第十四條の「All of the people」の邦譯を「すべての人民(何人)」と解釋してもよいといふ見解も成り立ちうる。その意味では、國籍法第三條に關して、實質的には、占領憲法第十四條の「すべて國民」を「何人」と解釋改憲した平成二十年六月四日の最高裁判所大法廷判決とこれに呼應する法改正も既にその方向へ歩み出したものといふことができるのである。
權利義務條項
帝國憲法第二章には「臣民權利義務」についての條項が規定され、占領憲法では、これに對應するものとして第三章に「國民の權利及び義務」についての規定がある。
これらの條項を比較して云へることは、その特徴とし次の二つが擧げられる。第一は、占領憲法はポツダム宣言第十項の「日本國政府は、日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人權の尊重は、確立せらるべし。」に基づいて權利條項を補充したことであり、第二には、占領憲法が非獨立占領下であつたことから、國防條項や國家緊急權條項を持たないことに對應して、これに關する規定を設けてゐないことである。
これら各規定は、各條項毎に個別具體的に對應するものではなく、内容的にも一致したものではないが、①帝國憲法(帝)と占領憲法(占)に共通してあるもの、②帝國憲法にあり占領憲法にはないもの、③帝國憲法になく占領憲法にあるもの、の三つに分類することができる。
まづ、①の分類に屬するものとしては、國籍要件の法定(帝第十八條、占第十條)、納税の義務(帝第二十一條、占第三十條)、居住と移轉の自由(帝第二十二條、占第二十二條第一項)、逮捕・監禁・審問・處罰に對する保障(帝第二十三條、占第三十三條・第三十四條・第三十七條第一項、第二項)、裁判を受ける權利(帝第二十四條、占第三十二條)、住居侵入・捜索に對する保障(帝第二十五條、占第三十五條)、信書の祕密の保障(帝第二十六條、占第二十一條第二項)、所有權の保障(帝第二十七條、占第二十九條)、信教の自由(帝第二十八條、占第二十條)、言論の自由(帝第二十九條、占第二十條第一項)、請願權(帝第三十條、占第十六條)である。
また、②の分類に屬するものとしては、能力即應・機會均等の任官權(帝第十九條)、兵役の義務(帝第二十條)、國家緊急時の權利制限・非常大權(帝第三十一條)、軍人の特例(帝第三十二條)である。
さらに、③の分類に屬するものとしては、個人の尊重、幸福追求の權利(占第十三條)、法の下の平等(占第十四條)、公務員選定罷免權、全體の奉仕者、普通選擧の保障、祕密投票の保障(占第十五條)、國家賠償請求權の保障(占第十七條)、奴隷的拘束の禁止、苦役からの自由(占第十八條)、思想及び良心の自由(占第十九條)、檢閲の禁止(占第二十一條第二項)、職業選擇の自由(占第二十二條)、外國移住・國籍離脱の自由(占第二十二條第二項)、學問の自由(占第二十三條)、婚姻等の制度保障(占第二十四條)、生存權(占第二十五條)、教育を受ける權利、教育を受けさせる義務、義務教育の無償(占第二十六條)、勤勞の權利と義務、勤勞條件基準の法定、兒童酷使の禁止(占第二十七條)、勤勞者の團結權等(占第二十八條)、法定手續の保障(占第三十一條)、押收に對する保障(占第三十五條)、拷問等の刑罰の禁止(占第三十六條)、辯護人選任權、國政辯護人制度(占第三十七條第二項)、自白法則(占第三十八條)、遡及處罰、二重處罰の禁止(占第三十九條)、刑事補償制度(占第四十條)である。
では、これらの權利と義務の條項は、どのやうな效力を持つのものであらうか。まづ、①の分類に屬するものについては、帝國憲法と占領憲法の權利と義務の内容と態樣に本質的な同一性が見られるので、占領憲法によつて權利態樣が擴張されて實施適用されてゐるものは、憲法的慣習として認めてよい。また、②の分類に屬するものは、そのまま存續してゐることになる。つまり、全ての權利條項は、「ただし、戰時や災害などの國家緊急事態の場合はこの限りではない。」と解釋されるのである。そして、③の分類に屬するものについては、規範國體に違反し、あるいは有害無益な規定、すなはち、第十一條後段の全部、第十二條前段の全部、第十三條前段の全部、第十四條第二項の全部、第十五條第一項、第十八條の全部、第二十四條第一項中の「兩性の合意のみに基いて成立し」の部分、同條第二項中の「個人の尊嚴と兩性の本質的平等に立脚して」の部分を除いて、その實施適用されてゐるものは、憲法的慣習として認められる。
最高法規條項
占領憲法には、その第十章に「最高法規」として第九十七條から第九十九條までの三箇條を規定する。これは、自畫自贊條項であり、占領憲法を憲法であると僞裝したことの痕跡を示す「政治的美稱」の規定である。
このやうな政治的美稱は他にもある。それは、占領憲法第四十一條の「國會は、國權の最高機關であつて、國の唯一の立法機關である。」との規定である。占領憲法有效論からすれば、國民主權であるから「國會は、國權の最高機關」ではないから、この規定を無視するために、政治的美稱であるとするのと同樣である。
この政治的美稱といふ技法は、結果的には明文規定とは全く反對(否定)の解釋をするときに用ゐられる解釋技術のことである。つまり、明文規定とは逆に「國會は國權の最高機關ではない」と解釋することになる。憲法には美稱といふか、平氣で嘘をつき詐稱された内容のものがあることを肯定するのが政治的美稱説である。占領憲法が有效であるとする見解でも、占領憲法第四十一條について政治的美稱説で説明してゐるのであるから、占領憲法は「嘘つき憲法」であることを認めることになる。そのため、「嘘つき憲法」が最高法規であるとする信仰にも似た自信も搖らぐはずである。さうであれば、この「最高法規」の三箇條が自畫自贊の政治的美稱(詐稱)ではないと言ひ切れる根據はどこにもないことに氣づくはずである。
つまり、占領憲法無效論では、このやうな政治的美稱説によつて占領憲法の條項を解釋することは占領憲法の最高規範性を否定する根據となるのであるが、占領憲法有效論が政治的美稱説により占領憲法の條項を解釋することは、占領憲法が「嘘つき憲法」であることを認めることとなつて、最高規範性を否定してしまふことになるといふ矛盾に陷るのである。しかし、占領憲法有效論は、それでも占領憲法が最高法規であると強辯するのであるから、これはペテン師の解釋論であると云へる。占領憲法有效論は、占領憲法第四十一條を政治的美稱とし、第九十七條から第九十九條の三箇條は政治的美稱ではないとするが、これを明確に區別できる明確な理由を示してはゐない。前者が政治的美稱であり、後者はさうではないとすることは、占領憲法にも規定がない。法實證主義からしても根據付けられないのである。他人に對して平氣で齒の浮くやうな御世辭を云ふ者は、おそらく自分のこととなれば自畫自贊の嘘も平氣で云ふであらうと思ふのが常識である。さうであれば、他人(國會)のことについて齒の浮くやうな御世辭(國權の最高機關)を云ふ占領憲法は、自分のこととなれば自畫自贊の嘘(最高法規)も平氣で云ふとは思はないのか。これを否定するのはペテン師であることを證明してゐることになる。
このやうなペテン師の解釋論は他にもいくつかある。占領憲法第二十五條についての制度的保障論も同類である。そして、同第九條についての政治的マニフェスト論も然りである。さらには、占領憲法の條項を「準則」(rule)と「原理」(principle)とを恣意的に區分し、同第九條は「原理」であるとする見解(長谷部恭男)もある。この「準則」とは一義的に定まつた規範(スカラー)であり、「原理」とは方向性の規範(ベクトル)であると理解されるが、その區別の基準は明確ではなく、各條項の規定内容や表現から區別することは困難であり、これをあへて區別することは著しく恣意的なものとなつて法的安定性を害することになる。結局のところ、これは解釋改憲を促進させるだけである。
ともあれ、占領憲法の「最高法規」の條項は、占領憲法が講和條約(東京條約、占領憲法條約)である限度で理解されるべきもので、第九十七條の全部、第九十八條第一項の全部及び第九十九條の全部は、「政治的美稱」といふよりも「政治的詐稱」であるから規範性はなく、帝國憲法に違反する内容であることから無效である。
ただし、講和條約その他の條約や確立された國際法規を遵守すべきは當然のことで、第九十八條第二項は注意規定にすぎない。占領憲法もまた講和條約であることからすれば、我が國がこれを遵守することは當然のことであるが、講和條約の遵守義務は我が國自身にあるのであつて、「天皇又は攝政及び國務大臣、國會議員、裁判官その他の公務員」といふ國家機關や執行者に個別に「尊重擁護義務」を課すことができないことから、第九十九條は無效である。
法的安定性
これまで、「無效論は過激である」といふ批判があつた。確かに、舊無效論の場合はさうなのかも知れない。現行の「憲法」を無效だと主張するのは、占領憲法が「革命」によつて有效だとする見解以上に過激で革命的な危險思想といふ誤解があつた。そもそも、この「無效」といふ言葉に過激性が内包されてゐたことからくる宿命であつたかも知れない。しかし、このやうな謂はれなき誤解が蔓延した最大の要因は、そのことを意圖的に吹聽されてきたことにある。その喧傳をしてきたのは、「敗戰利得者」であり、その保身術が占領憲法有效論であつた。もし、眞正護憲論(新無效論)ですら過激な見解であるとするのであれば、占領憲法といふ銃口の先から生まれた「暴力禮贊憲法」を憲法として有效であるとする有效論の方こそ、眞正護憲論(新無效論)以上に超過激であることを自覺せねばならないはずである。
そもそも、今日の我が國における憲法學といふのは、占領憲法の解釋學でしかなく、眞の意味での憲法學や國法學がない。それは、戰前も同じある。軍事占領下では憲法學者とか法曹には公職追放がなかつたが、宮澤俊義に見られるやうに、權力に迎合して見事に變節した者が殆どである。特に、舊帝大系の學者は悉く變節して占領憲法を擁護した。そのため、占領憲法が出生した祕密をつきとめたり、その效力論を論じたりすることは自己否定となつてできず、僅かな者だけが占領憲法が無效であるとする學燈を守り繼いた。憲法を生業とする學者や裁判官などの「憲法業者」は、占領憲法を有效としなければ、その解釋學が成り立たず、自らの職を失することになるので、どうしても有效であると強辯せねばならない「保身」といふ裏の事情があつたのである。そのために、占領憲法の構造だけを解明し、その運用のための解釋のみを教へるといふ「占領憲法眞理教」の信者としての法曹を養成することが憲法學者に與へられた使命となつてしまつた。つまり、占領憲法有效説派(占領憲法眞理教)が我が國の國家教學(司法試驗制度、裁判制度)となつてしまつたといふことである。
丁度このことは、德川幕府が寛政異學の禁(1790+660)を發してまで官學として養護された朱子學に似てゐる。さらにいふならば、李氏朝鮮で國家教學となつた朱子學と類似したものと言つても過言ではない。國家教學となつた占領憲法有效派と朱子學派との相似性は、他の學派である占領憲法無效派とか陽明學派などを一切排除する點にある。そして、このことが、これまでの憲法學を壞死状態に陷れた元凶なのである。
有效論者としては、自己の保身のために、このやうな學問の無明を何時までも續けることに固執し、占領憲法の效力論爭の土俵には上がろうとはしない。無效論は無意味なものであるとか、最大級の侮蔑をしたり、あるいは、これを無視し續け、逃げまどふことしかできない。無意味、無價値であるのなら、どの點がそうであるのかを説明するのが學問ではないのか。效力論爭の土俵に上がり、その内容の詳細を廣く公開して人口に膾炙すれば、有效論者は陶太され失職してしまふことを自覺し恐れてゐるからである。
效力論爭を廣く公開することは、「國家事業」であつて、單なる學術論爭ではない。それは國家の責務でもある。そして、この論爭における爭點は、これまで述べてきた國體學、國法學、憲法學、政治學、社會學などの爭點の中で、「法的安定性」の爭點が最も熾烈となるであらう。それは、有效論が喧傳するとほり、占領憲法が無效ならば、何らかの修復措置が必要となり、多くの不利益や犧牲や負擔を生ぜしめるとの不安があるのは、當然のことであると通常は理解できるからである。しかし、眞正護憲論(新無效論)ではそのやうなことはない。眞正護憲論(新無效論)は、徹頭徹尾、論理學的に構築されたものであり、その結果、法的安定性においても問題はないもので、決して過激で亂暴な議論ではない。
これまで説明してきたとほり、眞正護憲論(新無效論)は、帝國憲法は今もなほそのままの存續し、その下位法規として東京條約(占領憲法條約)か存在するのであるから、東京條約(占領憲法條約)と桑港條約とは、講和條約群として同列であり、後方優位の原則によつて、東京條約(占領憲法條約)第九條第二項は、桑港條約第五條(c)の個別的自衞權及び集團的自衞權を容認する規定によつて廢止され、自衞隊は國防軍として當然に合憲となるとするのである。
桑港條約第五條(c)は、「連合國としては、日本國が主權國として國際連合憲章第五十一條に掲げる個別的又は集團的自衞の固有の權利を有すること及び日本國が集團的安全保障取極を自發的に締結することができることを承認する。」と規定する。連合國は、占領憲法の制定に關與してゐるので、その第九條によつて、「個別的又は集團的自衞の固有の權利を有すること及び日本國が集團的安全保障取極を自發的に締結することができること」といふことは絶對に不可能であることを認識してゐるはずである。しかも、我が國が昭和三十五年に國連加盟條約を締結する以前であるから、これはあくまでも桑港條約によつて連合國が我が國に對し、個別的自衞權及び集團的自衞權を「特別」に認めたといふことである。占領憲法が本來の憲法であるとすれば、その憲法の授權限度内で講和條約を締結するのであるから、講和條約によつて占領憲法を變更することができないことは明らかである。つまり、占領憲法第九條で個別的自衞權及び集團的自衞權ないしは交戰權を否定してゐるのであれば、講和條約でこれを認めたとしても「法的」には全く無意味なことである。ところが、あへてこの桑港條約第五條(c)が存在するといふことは、桑港條約には何らか「特別」の性質と意味があるはずである。そして、その意味は、桑港条約占領憲法第九條を桑港條約第五條(c)によつて改正されたとする以外にはありえないし、そのやうに連合國と我が國が共通の認識によつて桑港條約を「政治的」に締結したことになるのである。この意義は極めて重大である。それ以後、「政治的」には自衞權と交戰權を肯定し、「法的」にはこれを否定し續けた。これが「講和體制」と「憲法體制」の矛盾相克である。
また、占領憲法を「憲法」であるとする立場であつても、占領憲法は日本側の意思だけで自由に制定できずに、各條項の細部に亘つて連合國の承諾が必要であつたことは、「法的(憲法的)」には兎も角も、「政治的」には「講和條約」であつたことを否定することはできない。連合國のポツダム宣言を「受諾」した經緯と、GHQの憲法改正草案を「受諾」した經緯とは、驚くべき相似性がある。これは、いづれも「外交」としてなされたものであつて、占領憲法は日本側の意思だけでは成立しえなかつた性質があつたことは明らかである。それが政治的には講和條約の性質を持つことを意味するのであつて、このことは誰も否定する者は居ないはずである。
つまり、法律學(憲法學)的には「憲法」であつても、政治學的には「講和條約」であるといふ矛盾相克が生じてゐるのである。
敗戰利得者の憲法業者や政治業者たちは、この相克を説明することができずに、政治學と憲法學とは別であるなどと気取りつつ、その實は焦燥感を抱いて逃げ回つてゐる場合ではないはずである。これを萬人に對して、矛盾なく説明することが本來の學者と政治家の務めであり、それが憲法學と政治學との上位に位置する國法學の役割でもある。さうであれば、この矛盾相克を解消するのは講和條約説以外にはなく、これを排斥せざるを得ない特段の理由がない限り、講和條約説は相對的眞實の地位を獲得することになる。あくまでも、講和條約説を排斥すべきことを主張する者が、自己の主張する見解の眞實性を担保するための十分な理由を示さなければならないのである(ライプラッツの理由律)。
このやうな理由から、講和條約説は、この「講和體制」と「憲法體制」の矛盾相克を解消しうる極めて有用な見解であることから、これによると、眞正護憲論(新無效論)によつたとしても、占領期から今日に至るまでの全ての國家行爲が直ちに覆るといふやうな、法的安定性を害する事態は起こるはずがない。つまり、眞正護憲論(新無效論)は、講和條約説といふ占領憲法有效論であつて、講和條約(占領憲法)が國内系として時際法的處理がなされず國内系秩序への正式な編入がなされないまま、それが憲法的慣習法として、占領憲法の條項に準じた慣習的運用がなされてゐることになり、これまでなされた立法、行政、司法、地方自治などにおける處分等には原則として何らの影響はないのである。
占領憲法が第二章のやうな歴史經過で制定されたことは事實であり、これを事實とは違ふといふのは、事實を見誤つたか、意圖的に捏造してゐる人たちである。しかし、事實は動かない。そして、この暴力的な事實經過を知れば、健全な人々は嫌惡するが、中にはこれを歡迎する自虐者もゐる。しかし、問題はそれだけでは終はらない。その事實をどう正當に評價するかである。その評價基準において、眞正護憲論(新無效論)は、科學的根據を示し、その結論として、帝國憲法が今もなほ現存してゐると憲法學的に認識できるとし、さう認識することが現實と何ら矛盾するものではないと説いたものである。つまり、まづは「意識改革」を提唱し、いはば、「法的な心構へ」を説くのであつて、現状の事實認識はそのままで、その評價を變へるだけである。
さうであるからこそ、法的安定性を何ら害することはなく、しかも、安全保障上の見地からしても、國家緊急時における實用的かつ即應性を備へた解釋となる。現實政治の見地からしても、法理論の見地からしても、何らの問題はない。むしろ、祖國再生のために大いに歡迎されるべきものである。
「この(天皇の)地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。」とする占領憲法第一條に基づく手續が一度も實施されず、同じく占領憲法の樞要である第九條が自衞隊の永續的設置によつて實效性を失ひ、私學助成制度が定着して第九十八條が否定され續けてゐるものの、それ以外では概ね曲がりなりにも實施されてきたといふ事實を踏まへれば、これを根底から覆滅させ、將來においても實施しないといふ斷絶と混亂はどうしても避けなければならない。法的安定性を確保し國家の繼續と民生の安定を圖らなければならないのは當然のことである。それゆゑ、眞正護憲論(新無效論)は、これまでの法律的、政治的、社會的な事實と現象を踏まへて、國法體系の構造を解明しただけである。これは、さながら物理法則の發見と同じである。物理的な諸現象の中に一定の法則性を見出しただけであり、その發見がなされたからと云つて、その後の諸現象が變化するものではないのと同樣に、眞正護憲論(新無效論)による法體系の認識をしたとしても、すべての社會事象の客觀的風景が變更されるものでもない。ただ、その法則を利用して諸現象を統制することはできるのであるから、今後の指針として活用することになるだけである。憲法學も社會科學であるならば、當然にこの手法を受け入れなければならないのである。
また、眞正護憲論(新無效論)は、占領憲法の似非改憲論(改正贊成護憲論)と比較すると、その政治的有用性は格段に高いものがある。似非改憲論が叫ばれてゐても、改正が實現できる見込は皆無に等しい。假に、あつたとしても、それは何年先になるか、どのやうな方向に向かふかも解らない。しかし、周邊事態の異變などは、それを待つてはくれない。いつ何が起こるか計り知れない。憲法改正のスケジュールに合はせて、周邊事態の異變が起こるとでもいふのか。「泥繩式」といふが、それよりもひどいものである。泥棒を捕へてから繩をなふのではなく、泥棒を捕らへることもできず、泥棒が入つて來て盜みをして去つて行つてからでも、繩をなふか否かの「小田原評定」をして、一體何になるのか。
これらのことからしても、安全保障對策において、實用性と有用性、それに即效性と即應性を備へた理論は眞正護憲論(新無效論)しかなく、似非改憲論では、國家緊急の事態に全く對應できない敗北主義的見解であるので、歴史的使命を終へたものとして、これも速やかに退場させなければならない。
そして、なによりも似非改憲論がもたらす害惡としては、占領憲法を改正するといふことが占領憲法を憲法としての實效性を認めようとする方向となるといふ點である。それゆゑ、これはどうしても避けなければならないし、絶對阻止しなければならないのである。
本來、法的安定性といふのは、大局的見地からすると、祖法との一貫性、連續性を維持することを意味する。その意味では、眞正護憲論(新無効論)こそが法的安定性を最も實現しうる理論である。
ジョージ・ウエスト博士(文獻208)は、『憲法改惡の強要』(嵯峨野書院)の中で、「占領憲法はマッカーサー・コンスティチューションに過ぎない。」として、我が國の「憲法」ではないとされた。つまり、講和條約であるとする私見と共通した見解である。ウエスト博士は、辯護士ではあるが博覧強記の賢人であり、神靈能力を持ちメキシコで神社を創建し神主をされてゐた。そのウエスト博士が約二十年前に來日された際、私を清水澄博士の遺志を繼いだ占領憲法無效論者であると斷言され、節操を守つて最後まで占領憲法と戰つてほしいと要請された。そして、「これが占領憲法(マッカーサー・コンスティチューション)無效論の應援歌です。」として、私も一緒になつて「ラバウル小唄」の歌詞の一番を三回續けて歌つていただいたことを今も鮮明に覺えてゐる。
ラバウルは、今村均陸軍大將が自給自足體制と強固な地下要塞を構築して、敗戰によつて降伏するまで死守した所である。「さらばラバウルよ 又來るまでは しばし別れの 涙がにじむ 戀しなつかし あの島見れば 椰子の葉かげに 十字星」。私は、この「又来るまでは」と「しばし別れの」とは、占領憲法の無效を宣言して再び帝國憲法下の法體系へと復歸して眞の法的安定性を實現できるまでのしばしの猶予といふ意味に理解してゐる。


