復元措置の課題
以上のやうな手順で復元措置が採られるが、ここで明らかなとほり、法的安定性が害されることは必要最小限度にとどまることが解るはずである。しかし、正統憲法調査會で檢討される問題は多岐に亘り、それは單に法的問題にとどまらず、政治、經濟、文化、教育など樣々な分野に廣がり、さながら國家改造運動の樣相を呈することになる。
戰前、戰後を通じて、政治問題、社會問題、教育問題、家族制度など樣々な問題があつたが、これらの現象は規範國體との軋轢から生ずる憲法問題に歸着する「同根」の問題なのである。特に、戰後において、典範の運用、防衞の方針、自衞隊の活動、官僚の腐敗、選擧制度の混亂、地方自治の樣相、靖國參拜の喧噪、教育の荒廢、文化風俗の頽廢、凶惡犯罪の多發、拉致事件、領土問題、家族制度、金融資本主義經濟の暴走など、我が國の内外におけるあらゆる領域で起こつた問題は、それぞれが個々獨立したものではなく、すべて「同根」から生じてゐる。それは、國内的には「憲法」である。モグラたたきのやうに、個々に對應しても解決はできず、すべては憲法問題として根本治療を施さなければ解決することができないのである。
その多岐に亘る課題や問題をここで網羅的に列擧して具體的に解説することは不可能であるが、以下において、これまでに述べてきたことに加へ、補充的にその主な項目の概要を提示することにする。
なほ、これらの課題と問題を檢討し、文化運動などを展開するためには、情報の公開と公正な報道が不可缺であり、第二章で述べたとほり、昭和二十一年七月二十三日に占領統治下でGHQによる檢閲の補完として設立された『社團法人日本新聞協會』が、その出生の祕密と罪状を隱したままで、それを告白して懺悔する報道もせずにこれからも存續しようとするのであれば、これを直ちに解散させ、これに連なる放送局の放送法等による許認可を取消して解體させなければならないことは勿論のことである。
そして、このやうに復元措置をなすことによつて、一體何を守るのか、何を目的として復元するのか、といふことが課題となる。それは、すべて「國體護持」のためであり、そのためには「國防」の觀點が必要である。國防は、單に軍事力だけではない。歴史、傳統、民俗など守る文化防衞であり、家族、地域の教育と秩序などを守る社會防衞も含むものである。そこで、復元によつて實現すべき眞の國防の意味とは何なのかについて、以下において述べてみたい。
不審船事件
平成十三年十二月二十二日に東シナ海で海上保安廳が追撃し船體射撃して撃沈させた不審船事件について、中國人民解放軍機關紙『解放軍報』は、同月三十一日、海上保安廳巡視船の發砲を「正當防衞」とする我が政府の立場を否定し、我が國の「軍事強國化」に警鐘を鳴らす論文を掲載し、追撃、撃沈の法的根據がなく、專守防衞の戰略方針に反すると主張した。これに同調する國内の學者や評論家も多く、民主黨の菅直人幹事長(當時)も「相手が射撃後の射撃は正當防衞だが、(その前の)排他的經濟水域で威嚇して停船させるための射撃は正當防衞とは意味合ひが違ふ」とするのであるが、結論を云へば、我が國の内外で結成された反日勢力によるこれらの主張は、占領憲法が有效であることを前提とすれば、殘念ながらこれを認めざるを得ない。
蓋し、『海上保安庁法』第二十五條によれば、「この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない」とあり、軍隊でないはずの海上保安廳の巡視艇が、大口徑の機關砲を撃つて不審船を撃沈させることには法制度上の問題がある。また、『自衞隊法』第八十條(海上保安廳の統制)第一項には、「内閣總理大臣は、第七十六條第一項(防衞出動)又は第七十八條第一項(治安出動)の規定による自衞隊の全部又は一部に對する出動命令があつた場合において、特別の必要があると認めるときは、海上保安廳の全部又は一部をその統制下に入れることができる。」とあり、同第二項には「内閣總理大臣は、前項の規定により海上保安廳の全部又は一部をその統制下に入れた場合には、政令で定めるところにより、長官にこれを指揮させるものとする。」とあるので、軍隊でない自衞隊の統制下に、同じく軍隊でない海上保安廳が組み入れられたとしても、あくまでも警察的な「正當防衞」を越えることはできないからである。さらに、自衞隊ですら、自衞隊法第八十二條(海上における警備行動)に「長官は、海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため特別の必要がある場合には、内閣總理大臣の承認を得て、自衞隊の部隊海上において必要な行動をとることを命ずることができる。」との規定があるだけで、やはり「正當防衞」の枠を越えることはできないからである。
このやうに、「正當防衞」といふ警察權の枠を越え、自衞權の行使として追撃と撃沈を認める必要があるといふ「必要性」と、現行法制下でそれが可能かといふ「合法性(合憲性)」とは正反對に對立するのであり、この矛盾を見透かしたかのやうに、不審船引き上げに對して中共側から五億圓か六億圓の漁業補償費を請求してくるのであるが、これらの惡循環の根本原因はやはり占領憲法の存在それ自體にある。それゆゑ、これを根本的に解決するための唯一の方法は、やはり占領憲法を無效と確認することしか道はないのである。
漁業權
ともあれ、中共が持ち出した漁業補償の前提となる「漁業權」なるものは、國内及び極東において防衞上の桎梏としてしばしば登場してくる。國際問題においても國内問題においても、これがあたかも平和のシンボルであるかのやうに。
しかし、この「漁業權」とは一體何者なのか。
明治八年、政府は、海面官有宣言を行ふと同時に、太政官布達により、海面の使用を希望する者に使用願ひを出させ、使用料を定めて借用させる海面借區制といふ制度を設けようとした。しかし、これは、江戸時代の幕府や藩主から慣習や論功により特權として認められてきた漁場利用の既得權を補償もなく奪ふことになるため、漁師の猛反對によつて、翌九年にはこの布達が撤回され、各地方で、水面を使用して續けられてきた漁場では、それまでの慣習に從ふ旨の新たな太政官布達が出された。その後、久しく慣習として認められてきた漁業權について、我が國は、明治四十三年に『(舊)漁業法』(法律第五十八號)を制定して、慣習上の「海の入會權(いりあひけん)」として、一定の漁場に制限し、海軍の水利權などとは競合・牴觸させないものとしたのである。
ところが、GHQは、その占領下の昭和二十四年に、『(舊)漁業法』を廢止して現行の『(新)漁業法』(昭和二十四年十二月十五日法律第二百六十七號)を制定させ、漁業權を「物權」として認め、漁場制限を逐次解除して、その漁業權を領海全域、内水面全域にまで擴大させることを「民主化政策」の名の下で行つたのである。
しかし、アメリカでは、公用財産である内水面や領海(海區)に私的な權利である漁業權を設定することは否定されてゐる。アメリカでは、議會がアラスカ先住民に對してのみ漁業權を與へたが、その後、アラスカ州最高裁判所は、その漁業權付與を違憲とする判決をなし、公用財産を私的に利用させる漁業權といふ概念自體が否定されてゐる。また、このことは、歐洲においても同樣で、オランダでは明確に漁業權は否定されてゐるのである。
漁業權を認めてゐないアメリカが何故に我が國の隅々にまで漁業權を認めたかと云へば、それは、我が國の報復戰爭を極度に恐れたアメリカが、日本弱體化政策の一環として、帝國海軍の有してゐた海岸の水利權を奪ひ、これを全て漁師に漁業權として分割して與へ、これにより、軍港の再建設をするためには、法的に漁業權を收用する手續が必要となり、財政的にも漁業權の保障を餘儀なくさせることによつて、再軍備を實質上阻止しようとしたためである。そして、水上警察の施設建設も軍事的に轉用しうるとの懸念から、全國津々浦々の内水面にも遍く漁業權を與へた。そのGHQの占領政策を承繼した傀儡政府もまた、漁業權については特別の利便を與へ續け、漁業權を設定する對價の支拂ひを免除し、さらに、特許權の特許料のやうな權利繼續のための對價に相當する負擔をも免除してゐる。つまり、漁業權は物權とされてゐるところ、その設定の對價を一切徴收せず、無償で附與されてゐる。地上權も物權であるが、地上權の場合は、設定の對價(地上權價格)を支拂ひ、さらに、地代をも繼續して支拂ふ必要があることから比較すると、漁業權は、GHQの占領政策の殘滓である不合理な特權として今もなほ維持し續けてゐるのである。
自給率
ところで、海洋國家である我が國の國防を考へるとき、そもそも海の産軍協同の視點を外してはならない。林子平は、寛政三年(1791+660)の『海國兵談』を著し、鎖國のみとする幕府の無爲策を批判し海防の必要性を説いた先見者であつたが、幕府(松平定信)から彈壓され、そのことがやうやく見直されるのは黑船來航以後であつた。自給自足の鎖國體制のために、その自覺が鈍磨してゐた時代にはやむを得ないことであつたとしても、海外との交易によつて國家の生存を維持する時代にあつてはさうは行かない。つまり、海洋國家の軍隊の役割は、海の道を經て國内へ物資を流入させる海運業と水産資源を確保する漁業が營む海域を守ることにあると同時に、これらの産業活動による國防に不可缺な海域情報を蒐集することにある。しかし、エネルギーと食料の自給率を年々低下させて海外への依存度を高めてゐる我が國においては、いくら海の守りの軍備を世界最大級に增強したとしても、その軍事力だけでは最早その自衞可能な限界點を越えてゐるために、有事には深刻な事態を引き起こすことであらう。
このエネルギー安保、食料安保の視點から、その自給率を高めることこそ、海洋國家の防衞論に不可缺な要素でありながら、現在の防衞論は專ら軍備(軍事力)のみしか着目されない點に我が國の防衞論の致命的な甘さがある。
我が國の食料自給率は、供給カロリーベースによると、昭和三十五年で七十九パーセント、昭和五十年で五十四パーセント、平成九年で四十一パーセント(小麥九パーセント、大豆三パーセント)とされ、現在でも同程度となつてゐる。ただし、自給食料の栽培に石油等の輸入エネルギーを費消するために、エネルギーベースで換算すれば、原子力を含まないエネルギー自給率は四パーセントであることから、眞の食料自給率は悲観的な數値となるはずである。
また、古い統計でも、遊休農地は十一萬七千ヘクタールで、これは長野縣全農地に匹敵する面積で、さらに、年々耕作放棄地が擴大してゐる。
では、どうしてこのやうに我が國は自給率を年々低下させてきたのであらうか。それは、ここにも我が國の再軍備を阻止するを目的を持ち續けたGHQの政策があつたからである。
今、本土決戰を想定した有事法制の審議がなされてゐるが、本土決戰のためには、まづ、自給率が高くなければならない。自給率が低ければ、海外に物資を依存することになるが、制海權も制空權も完全に奪はれた大東亞戰爭の末期のやうな状況では、如何に精鋭部隊が本土を守らうとも、餓死といふ見えざる敵の前に全員玉碎せざるを得ない。
そのことを知り盡くし、我が國が報復戰爭をいどむことを恐れたGHQは、餘剰農産物の戰略兵器化構想を打ち立てる。通常の兵器は、それを使用することにより破壞し殺傷するものであるが、難を逃れる者が必ず存在するので、殲滅させることは困難であるが、食料を戰略兵器として使へば、食料・飼料など供給を他國に依存してゐる人畜に對して、それを突然供給停止することにより根こそぎ餓死させることができるのである。そして、それは、MSA(Mutual Security Act)として、日米安全保障條約(舊安保條約)を獨立と引き替へ締結して間もなく日米相互防衞援助協定の調印により、アメリカはその目的を達成させるのである。これは、正式には、『日本國とアメリカ合衆國との間の相互防衞援助協定』(昭和二十九年五月一日條約第六號)と呼ばれるもので、これにより我が國は、一氣に自給率を年々加速的に低下させる一方で、連合國は、逆に、自給率を年々高め、餘剰農産物といふ名の戰略兵器を增産させていく。表向きは、西側陣營の國際的分業といふ美名の下に、我が國はこの謀略にまんまとはめられたのである。
そして、慶大醫學部の林髞(たかし)や朝日新聞の『天聲人語』(昭和三十一年三月十一日、昭和三十二年九月三日)など、GHQの手先となつた學者やマスメディアを利用して、「コメを食べるとバカになる」といふデマのキャンペーンを大々的に展開し、獨立後も學校給食は全てパン食にさせるなど、國民のコメ離れを強引に導き、遂に、昭和三十六年に『(舊)農業基本法』を制定させることになる。これは、選擇的擴大と稱して、食料自給路線の放棄、國際分業の徹底といふ比較優位説(リカード)を高らかに歌ひ上げさせ、我が國を引き返しのできない穀物輸入體質化へと追ひ込んだのである。
その後、アメリカは、この戰略兵器構想を我が國だけではなく、さらに、ソ連にも擴大させた。つまり、昭和四十七年、ソ連が凶作となり、それが今後慢性化すると豫測したアメリカは餘剰穀物をソ連へ緊急輸出し始めたのであつた。ところが、翌四十八年四月、今度はアメリカが異常氣象による凶作となり、トウモロコシ、大豆がアメリカでは絶對的に不足した。その結果、食肉物價の高騰を招き、同年六月二十七日、アメリカは、大豆の我が國向けの輸出を停止したのである。この輸出禁止が長期化すれば、我が國から豆腐や醤油や納豆などは高騰し、最後には消えてなくなる。大豆の國内自給率は三パーセントに過ぎず、輸入の上に食文化が榮えてゐたためである。しかし、同年九月には、幸ひにも輸出停止が解除となり難を逃れたが、この事件は丁度、第一次オイルショックの時期と重なり、風評によるトイレットペーパーの買ひ占め買ひ漁りといふとんちき騷ぎの陰に隱れて人々は殆ど話題にしなかつたが、これは、三パーセントの自給率しかない大豆だけの問題ではなく、自給率が全般的な低いことが亡國への道であるとの深刻さを如實に物語るものであつた。異常氣象や天變地變による農作物の凶作は今後ますます頻度を增してゐるからである。
我が國では、平成十一年七月になつて、やうやく自給率の數値目標を設定しようとする「新農業基本法」(食料・農業・農村基本法)が制定されるが、これとても單に數値目標を設定するだけで、その達成のための方策が全くないザル法である。はたして、これで食料安保への道を歩み出すことができるのか、甚だ疑問である。
我が國の米の政府備蓄量については、戰後における不作(作況九十八以下)の平均である作況九十二の不作が二年連續した場合に對應する百五十萬トンを保有するとしてゐるが、備蓄の意味が全く判つてゐない。食料全般の著しい不作を豫測したものでなければ危機管理の役割を果たしてゐないからである。
食料問題は防衞問題である。食料の安定、安心、安全なる生産と消費の保障と備蓄の確保、つまり、食料安保は、軍事力に勝るとも劣らない防衞問題なのである。そのことが現實となるのが戰爭、災害などの非常時である。大東亞戰爭開戰直後の昭和十七年に食糧管理法が制定され、國家の總力戰に向けた有事法制としての食糧管理制度が始まつた。政府が主要な食料である米や麥などの食糧の生産、流通、消費、備蓄の全般にわたつて管理するものであり、その目的は食料の需給と價格の安定にある。もし、有事において食料の需給と價格を自由な經濟活動に委ねるとすれば、人々は危機意識による萎縮效果として、生産者の賣り惜しみ、流通過程での買ひ占め賣り惜しみなどによつて消費者の需要が極度に不足して價格の高騰を生ずるのみならず、國家の總力戰を下支へする大多數の中流層と貧困層の臣民が飢餓に瀕し、聖戰の完遂が不能となるからである。
そして、この食糧管理制度は、敗戰後に襲つた極度の食糧難の時代にも當然繼續した。ところが、受忍の限界を超えた極度の食糧難は、臣民の自己保存本能を極端に肥大化させる。生産者(農家)は、自家消費と再生産に必要な米以上に大量の米を供出留保して、それを闇米として流通させる。そして、それを買ひ出しに來た都市生活者が提供する着物その他の稀少物と闇米とを交換し、それが價値的に不足すると言ひがかりをつけて女性の貞操までも奪ふといふおぞましい事態が恒常化した。空襲で焼け出された都市生活者のタケノコ生活と農家の焼け太り。食糧管理法による配給米は辛うじて臣民の生活を下支へしたが、遅配や欠配が慢性化し、それにも堪へながら、家族の命を守るためにやむをえず闇米を口にして凌いだ。前に述べたとほり、そのやうな中で、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」(教育敕語)、「天皇ノ名ニ於テ」(帝國憲法第五十七條)裁判を行ふ裁判官の職責を全うする盡忠報國の覺悟をもつて、闇米を一切口にせず配給米だけで生活した東京地方裁判所の山口良忠判事夫婦のひたむきな姿があつた。配給米が遅配と缺配を繰り返す中にあつても、命を繋ぐには絶對量の不足する配給米を優先的に子供達に食べさせ、夫婦は堪えた。自己保存本能よりも家族維持本能による行動を選擇して、山口判事は、昭和二十二年十月十一日、自決としての餓死を選ばれた。
また、その丁度二年前の昭和二十年十月十一日にも、東京高校(舊制)のドイツ語教授亀尾榮四郎は、「いやしくも教育者たる者、表裏があつてはならぬ。どんな苦しくても、國策に從ふ。」といふ固い信念のもとに、自分は殆ど食べずに、子供たちに食物を與へ續け、ついに力盡きて亡くなつた。
これらは單なる過去の事實にとどまらない。これらの自決が現代に投げかけるものは余りにも大きいのである。それは、リカード理論の變形である「消費者保護」といふ安易で輕薄な思想により安い輸入食料に賴つて自給率を著しく低下させ、米食離れが文化生活であるかの如く喧傳して減反政策を推し進めてきたことから、災害、戰爭などで食料輸入が不可能となつた場合の食料確保が絶望的となつてゐるからである。我が國は、敗戰後の食料事情が改善されるに從つて、食糧管理法を廢止するに至つたが、むしろ、自給率がこれほどまでに落ち込んだ現在こそ、緊急時立法として新たな食料管理法が必要となつてゐる。つまり、食料、食品ごとに需給量を調査して、國内生産量と輸入量の總和が生活必需量を下回つたときに發動される食料管理法である。もし、これがなければ、非常時の混亂は避けられない。トイレットペーパーを買ふため行列する程度では濟まなくなる。敗戰後の闇市の再來やマフィアの専横は杞憂ではない。買ひ占め、賣り惜しみによる貧困層の餓死者が多くなる。そのやうな時點になつてからでは充分な調査や檢討もできず、付け焼き刃的に立法化しても、立法の不備と周知の不徹底による更なる混乱では火を見るよりも明らかである。
昭和十七年十一月二十日に第八方面軍司令官としてニューブリテン島のラバウルに着任した今村均陸軍大將は、ガダルカナル島の悲劇を教訓として、内地などから彈藥、糧秣などの兵站が途絶えることを想定し、自ら率先して島内に広く田畑を耕作して完全な自給自足體制を確立し、米軍の空襲と上陸に對抗する強固な地下要塞を建設した。そのことから、マッカーサーは、ラバウルへの攻撃を斷念し、ラバウルだけを回避して、皇軍が守備する太平洋上の諸島への補給を阻止して皇軍將兵を餓死させる飛び石作戰へと轉換した。その結果、ラバウルは敗戰まで死守され、約十萬人の皇軍將兵は、玉碎することなく内地に復員したのである。これは、自給自足體制が防衞力としては何個師団もの兵力に匹敵することを物語つてゐる。言葉が空回りしてゐる歴史オタクや軍事オタクでは、この教訓は解らないのである。
また、現在、世界では、農産物の遺傳子組み替へが問題として議論されてゐるが、一般に論じられてゐるこの問題意識にも食糧安保の視點からは大きなズレがある。確かに、食品の安全性とか健康への影響といふ問題は決して皆無とは云へないとしても、ターミネータ・テクノロジーが世界の食糧安保を危くする點こそが最大の問題なのである。このバイオ・テクノロジーの一つであるこの技術は、種子會社が自社の種を生産農家に購入させ續けるために、生産農家がその種から種(第二世代)を得られないやうに、遺傳子の組み替へによつて第二世代を發芽させない技術を開發し、その特許を取得してゐることにある。これにより、世界の生産農家は、自家採取が不能となり、ひいては食糧の依存體質を固定化させることになるからである。
そして、現在ではさらに深刻な問題がある。つまり、低コスト牛肉(ハンバーガー用)は、世界の畜産農家を疲弊させ壞滅させ續けてゐるからである。低コスト牛肉を供給するには、牛に良質の飼料を與へ續ける飼育方法では絶對に不可能である。「放任放牧」でなければならず、牛一頭に付き一ヘクタール(百メートル四方)の放牧地が必要とされる。そのため、ブラジルなどの森林は伐採され續ける。ブラジルの牧場主はブラジル人ではない。ブラジルからアメリカ、日本その他の地域へ運ばれる。しかも、その價格は過當競爭によりさらに値崩れし、生産農家をぎりぎりまで壓迫する。「ハンバーガー(牛肉)を食べればブラジルの熱帶雨林を破壞する。」として、ブラジル産の安價牛肉ハンバーガーのボイコット運動がベジタリアンが中心となつて展開されてゐるが、この程度では現代の過激な資本主義の猛威に抗することはできない。激安のハンバーガーを頬張りながら、環境問題を論ずるなかれ。「消費者保護」といふ得體の解らないデマ・スローガンに幻惑されて、着實に世界は荒廢し續けてゐる。
このことは、ハンバーガー牛肉だけではない。コーヒー豆についても同樣である。安賣りのコーヒーショップなどが世界に氾濫する姿は、生産農家の過酷な状況が蔓延してゐることをそのまま投影してゐる。生産農家は買ひ叩かれて、今や採算が取れない限界點に達してゐる。そして、その生産を止めれば、敗者となつて失業し、農地の荒廢が待つだけである。それだけではない。次は、生きるために、リスクを覺悟でケシ栽培を始める。コーヒーの銘柄と同じ名前の麻藥があるのはこのためであつて、例へば、タイ北部の山岳地域で、その昔、ケシ栽培に代はる轉換作物として國連によりコーヒー栽培が奬勵されたが、今では、再び逆戻りしつつある。世界の農業は、こんな商業主義の猛威の前に破滅の道を歩み續けてゐると云つても過言ではない。
我が國は、大東亞戰爭の敗戰後も更なる敗戰を重ね續けた。それは、極東國際軍事裁判の受容と占領憲法の制定といふ二大決戰に敗れ、占領中に張り巡らされた「漁業權」といふ機雷を除去できないままである。そして、世界有數と云はれる自衞隊の軍備さへも全く無力化させる連合國の食糧戰略兵器の前、食料自給率やエネルギー自給率の低下といふ度重なる敗退を餘儀なくされてゐる。
食料とエネルギーの自給率を低下させ、國際分業を徹底することによつて生まれるものは、マルクスのいふ窮乏化理論が世界的次元で擴大し貧富の乖離が一段と加速し、世界を不安定化させることでしかない。今こそ、後に述べる自立再生經濟理論を以てこの過激な資本主義に立ち向かひ、我が國の安全保障と世界の安定を目指すことが刻下の急務なのである。
自衞隊について
自衞官諸君に問ふ。諸君には一旦緩急あれば義勇公に報ずる「氣概」があるか。
自衞隊法の第三條には、「自衞隊は、わが國の平和と獨立を守り、國の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に對しわが國を防衞することを主たる任務とし、必要に應じ、公共の秩序の維持に當るものとする。」とあり、また、第五十二條には、「隊員は、わが國の平和と獨立を守る自衞隊の使命を自覺し、一致團結、嚴正な規律を保持し、常に德繰を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、強い責任感をもつて專心その職務の遂行にあたり、事に臨んでは危險を顧みず、身をもつて責務の完遂に努め、もつて國民の負託にこたえることを期するものとする。」とあるので、自衞官には祖國防衞の「職責」を「法律上」は求められてゐるものの、「気概」まで持つことは法律上は求められてゐない。
この気概を持つ者が「軍人」であり、そうでない者が兵器操作の「技術者」である。このことをいち早く指摘したのが三島由紀夫であつた。自衞官は「軍人」なのか、それとも「兵器技術者(オペレータ)」なのか、といふジレンマである。
高度情報社會の現代において、祖國防衞に必要なものは、軍事固有の人的組織と物的裝備はもとより、軍事情報を含む廣範な情報を收集するための組織と裝備の充實が不可缺なことは今更云ふまでもないが、それが全く不完全な自衞隊の現状は、あたかも「目隱しをした有能な射撃手」にも等しい。そのことを意識すればするほど憂鬱にならざるを得ないが、まづは、自衞官に祖國防衞の氣概すらないのであれば、自衞隊は敵を目前に怯懦し臣民を楯に逃げ回る自己防御の武裝集團となる可能性があるからである。
ところで、これまで有事關連法の國會審議が小田原評定の如く延々と續けられてきた過去と現在を直視すると、假に、これからも全て可決成立したとしても、軍事に無知な官僚が作成した法制の下では、自衞隊は國家・臣民を守りきれないことを專門家である自衞官は知悉してゐるはずである。
そもそも國家緊急時に際しては、期間と權限事項などを限定した「委任的獨裁」を許容しなければ、國家は存立し續けることができない。それは、君主制國家であらうが、共和制國家であらうが共通した課題である。これが「統帥權の獨立」の眞の意味であつた。いはゆる六十年安保のとき、反對運動側で「民主か獨裁か」といふ馬鹿げたスローガンが用ひられたが、民主と獨裁とは兩立する。否、民主から獨裁は生まれるのである。古代ローマのカエサル(シーザー)、フランス革命後のナポレオン、ドイツ・ワイマール憲法下のヒトラーなどは、いづれも民主制(共和制)の中から合法的に生まれた「獨裁者」であることを忘れてはならない。戰時や内亂や未曾有の大災害時などの非常時に備へて、平時とは別個の法體系(帝國憲法下の例では戒嚴大權、緊急敕令大權、非常大權などの規定)を構築せず、平時の法體系だけで非常時に對處できるとする愚かな認識では國家は衰亡する。そもそも、平時と非常時とでは、價値體系、價値の優先順位を異にする。平時では言論により「話せば解る」と信じて説得できたものが、非常時には「問答無用」として命を奪はれる結果にもなる。戰爭や内亂や大災害は、「民主的」に起こるものではなく、表現の自由や集會・結社の自由などは、平時において最大の尊重を必要とするのは當然のことであるが、命が奪はれるか否かのときに、これらの自由の主張は虚しく無力であり、内亂勢力の表現の自由や集會・結社の自由などの保障は、臣民の生命、財産の喪失と直結するものであつて、價値體系が平時の場合と非常時の場合とでは異なるのである。
法體系といふものは、法的保護に値する價値の體系と優先順位に基づいて構築されるものであつて、平時における價値體系と非常時(有事)における價値體系がそれぞれ異なるのであれば、自づとそれぞれの法體系をも異にするのは當然のことである。また、非常時においては、民主制の原理で愼重な審議を經て決議するといふ手法では機を逸する事態となり得るのであつて、決議とその實施には迅速性と機動性が要求される。
ここに、民主制、立憲制の根本體制を維持・擁護するためのものとして、その權限の範圍及び事項竝びに期間等を限定した「委任的獨裁」が、その必要性の所産として登場するのである。
それゆゑ、自衞隊法が非常時の場合である防衞出動時の公共の秩序の維持のための權限(第九十二條)や治安出動時の權限(第八十九條)においても、平時にのみ通用すべき警察官職務執行法の適用を求めるのは、「羮に懲りて膾を吹く」が如き愚かさがある。
いづれにせよ、自衞隊法は非常時に實效的に機能し得ない法律であり、しかも臣民を守るための法律ではなく、專ら自衞官を守るための法律であると云つても過言でない。自衞官に課せられてゐる義務は、自衞官としての内部組織的な服務義務であつて、國防の義務ではない。假に、これを國防の義務と捉へたとしても、それは法律上の義務に過ぎず、占領憲法上の義務ではない。もちろん、臣民にも國防の義務が占領憲法上は課せられてゐない。そのくせ、たとへ國が滅び行くとも占領憲法だけは守れ(第九十九條)と定める自家撞着の規範が占領憲法なのである。もし、自衞官が防衞出動に際して利敵行爲を行ひ、その他服務義務に違反して、臣民を見殺しにし逃げまどひながら生き長らへたとしても、七年以下の懲役又は禁錮となるだけである(第百二十二條)。臣民の命は保障されないが、自衞官の命は保障される。臣民を守るためにするやうに見せかけて、その實は臣民を棄民して自衞官を守るためのものであるといふのは、まさに「お爲ごかし」を繪に描いたやうなものではないか。それが自衞隊法の本質である(ただし、その保障は、あくまでも自衞官の敵前逃亡にもかかはらず、我が國が存續し續けるといふ極めて稀な場合の限定的保障ではあるが・・・)。
冷戰時代、ソ連を假想敵國として想定した北海道有事の研究において、北海道にソ連が侵攻した際、部隊をどのやうに北海道その他の防衞上の要所に集結させるかについて檢討されたものの、防衞出動(第七十六條)及び防衞出動待機命令(第七十七條)が下命される前においては、「訓練」出動といふ姑息な方法で部隊を移動させて、北海道その他の防衞上の要所に集結させることしか方法がないとの結論に達したのではなかつたか。そして、もし、その移動中に敵國と意を通じた武裝難民、國内ゲリラ、あるいはその混亂に乘じて國家轉覆を狙ふ武裝組織などが部隊を襲つた場合、それに對する反撃は、防衞出動でも治安出動(第七十八條)でもなく、假に、速やかに内閣總理大臣からその下命があつたとしても、前述のとほり、それは治安出動時の權限(第八十九條)又は防衞出動時の公共の秩序の維持のための權限(第九十二條)の範圍内、つまり、警察官職務執行法の規定に拘束され、正當防衞でなければ武器を使用することができない。武器の使用は、對外的(直接侵略)には「必要性」の基準、國内的(間接侵略)には「補充性」の基準といふ二重基準が採られるため、防衞出動の對象となる「外部からの武力攻撃」(第七十六條)に該當しない武裝集團の間接攻撃に對しては全く無力である。
その上、占領憲法では自衞隊が「軍隊」ではありえないし、第九條第二項後段で「交戰權」が否定されてゐるので、戰時國際法規による保護は與へられない。戰時國際法規には、ヘーグ條約(明治四十年)などの敵對行爲(戰闘行爲)を規律したものと、ジュネーブ條約(昭和二十四年)などの捕虜の處遇等を規律したものに大別されるが、いづれの條約による保護も與へられないのである。といふよりも、交戰權を放棄することによつて、その保護を自ら放棄したのであるから、自衞隊には臨檢、拿捕などの權限もなく、ましてや自衞官には捕虜として處遇されることを求める權利もない。捕虜の資格すらないので、問答無用で殺戮されてもそれが直ちに國際的に違法であるといふことにはならない。
ところが、占領憲法第九十八條第二項により、戰時國際法規による義務だけは遵守しなければならない。つまり、權利はないが義務だけは負ふのである。
從つて、自衞官は捕虜として處遇されないが、敵國の正規軍將兵については捕虜として處遇しなければならない。また、ゲリラや武裝集團に對しては、警察の權限しかなく、ゲリラや武裝集團は我が國の刑法、刑事訴訟法などの法制度の下で篤く保護される。優柔武斷な我が政府であれば、自衞隊は「合憲」であると甘やかせてくれるだらうが、戰勝國はそんな馬鹿げた判斷はしない。戰勝國は、占領憲法第九條を「素直に」解釋して、自衞官の存在は紛れもなく憲法違反であると認定し、その確信犯的な憲法違反行爲を嚴しく斷罪するだらう。
我が國は犯罪國家であり、我が國が軍隊を持たず、我が國から戰爭を仕掛けさへなければ世界は恆久に平和であるとの認識こそが、GHQによる全面的な軍事占領下の「非獨立」の我が國で制定された占領憲法といふ「謝罪憲法」の掲げる「崇高」な精神といふことになる。その第九條第二項の戰力不保持と交戰權否認の規定は、我が軍の完全武裝解除と無條件降伏を求めたポツダム宣言をそのまま反映して規定されたのであつて、ここから集團的自衞權はおろか、個別的自衞權すら認められないことは自明のことではないか。假に、自衞權が認められたとしても、交戰權がないのであるから、自衞戰爭すらできないのである。それが占領憲法の忠實な解釋なのである。それゆゑ、ゲリラや武裝集團による間接侵略に對して、警察官職務執行法の權限の範圍でしか對處できないこと自體、現實には個別的自衞權すら否定されてゐる證左なのである。
こんなハンディキャップを背負つたままで、果たして外國の侵略とそれに呼應した國内ゲリラや武裝集團との戰闘に立ち向かひ、凱歌を奏して國防を達成することができるのか。
自衞官は、これでは勝ち目がないことを知つてゐる。そのために、自衞官は、臣民を見捨てて敵前逃亡し、自己防御(部隊防御)に走つてしまふ極限的状況に陷る可能性が極めて高くなることを豫測してゐるはずである。
しかし、このやうな極めて不利な自繩自縛の状況であつても、薄れる氣概を奮ひ起こして果敢に反撃せねばならないと決意する自衞官も出てくるだらう。だが、獨自の判斷で敵對行爲(戰闘行爲)を自衞官の一部の者が行つたとすれば、それは、部隊を勝手に指揮したとして刑罰(第百二十二條)に服するのである。超法規的行動として認められるのは、やはり警察官職務執行法や刑法の正當防衞又は緊急避難として認められる範圍に限られ、敵兵やゲリラや武裝集團に對して戰闘上の行き過ぎがあればこれもまた當然に處罰される。原則として、ゲリラや武裝集團に對しては先制攻撃はできず、攻撃後に應射するのが限界である。進むは地獄、退くは極樂。
自衞官はそれでもなほ氣概を持つて戰つてみせると誓ふことができるのか。
このやうな絶望的な環境においてもなほ、自衞官にその氣概があることを信じようとしたが、そのことに決定的な疑問を抱かせたのは、平成七年の阪神淡路大震災のときであつた。
敵が全くゐない状況で、しかも、多くの被災地住民が死の淵からの救濟を求めてゐる状況を自衞官は誰よりも早く察知してゐたにもかかはらず、ひたすら兵庫縣知事らの災害派遣要請を待つだけで、第八十三條第二項但書(天災地變その他の災害に際し、その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認められるときは、同項の要請を待たないで、部隊等を派遣することができる。)及び第八十三條第三項(廳舍、營舍その他の防衞廳の施設又はこれらの近傍に火災その他の災害が發生した場合においては、部隊等の長は、部隊等を派遣することができる。)との規定に基づき、派遣要請がなくも獨自の判斷で部隊を迅速に派遣をすることができたはずであるが、これを怠つて多くの住民を見殺しにしたではないか。
派遣要請を待たずして直ちに出動してゐれば、何人の被災地住民を救濟できたかといふ單なる量的なことを議論してゐるのではない。まさに氣概の缺如を問題にしてゐる。氣概は行動に現れる。怖じ氣付いた保身の者に言ひ譯は無用である。否、有害である。
阪神淡路大地震は、「その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認められるとき」であつたはずである。假に、後日、さうでないと政府や國會から判斷されて非難されたとしても、誰か胸を張つてその責を受け止める者はゐなかつたのか。臣民は必ずその自衞官の氣概ある行動を熱烈に支持したはずである。
だが、自衞官は誰も自發的に行動しなかつた。
何故か。それは、自衞隊が差し出がましいことを勝手にすれば、庇護者である政府や政黨などの機嫌を損ねて、自衞隊を擁護してもらへず、防衞廳から防衞省へと昇格ができないことになつては一大事であると打算的なことを考へてゐたのではなかつたか。自己の立身出世と保身、組織防衞のために、未曾有の災害を前に沈黙した。自衞官にとつては、臣民を救ふことよりも政府などの顏色を氣にすることの方が最も重大な關心事だつたのである。
しかし、占領憲法を有效とすれば、自衞隊はそもそも「違憲」の存在ではないのか。政府や政黨の一部が「合憲」と言つてくれるので、その氣になつてゐる「裸の王樣」に過ぎない。「違憲」の存在である自衞隊が、些末な部分の「合法性」の解釋を氣にして何になる。違憲の存在であるにもかかはらず、嚴格な意味で合法的に振る舞はうとする。律儀ではあるが滑稽ではないか。昔、社會黨が「違憲合法論」を唱へたが、それを眞に受けてゐるのか。その姿は、國連憲章では敵國條項の對象とされてゐる我が國が、その條項の削除を求めることなく、國連における常任理事國の地位を目指して懇願してゐる姿と似てゐるではないか。
三島由紀夫らは、吉田松陰が太陰太陽暦で安政六年十月二十七日に處刑された祥月命日の昭和四十五年十月二十七日(太陽暦の十一月二十五日)に、次の檄文(拔粹)を殘し、自衞隊に對して割腹して諫死した。松陰處刑から百十一年目のことであつた。
「・・・法理論的には自衞隊は違憲であることは明白であり、國の根本問題である防衞が、御都合主義の法的解釋によってごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廢の根本原因をなして來ているのを見た。もっとも名譽を重んずべき軍が、もっとも惡質の欺瞞の下に放置されて來たのである。自衞隊は敗戰後の國家の不名譽な十字架を負ひつづけてきた。自衞隊は國軍たりえず、建軍の本義を與へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか與へられず、その忠誠の對象も明確にされなかった。・・・憲法改正によって、自衞隊が建軍の本義に立ち、眞の國軍となる日のために、國民として微力の限りを盡くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。・・・憲法改正がもはや議會制度化ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衞となって命を捨て、國軍の礎石たらんとした。國體を守るのは軍隊であり、政體を守るのは警察である。政體を警察力を以て守りきれない段階に來てはじめて軍隊の出動によって國體が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは『天皇を中心とする日本の歴史・文化・傳統を守る』ことにしか存在しないのである。・・・しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こったか。總理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、壓倒的な警察力の下に不發に終わった。その状況を新宿で見て、私は『これで憲法は變わらない』と痛恨した。その日に何が起こったか、政府は極左勢力の限界を見極め、戒嚴令にも等しい警察の規制に對する一般民衆の反應を見極め、敢えて『憲法改正』といふ火中の栗を拾はずとも、事態を收拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になった。政府は政體護持のためには、何ら憲法と牴觸しない警察力だけで乘り切る自信を得、國の根本問題に對して頬っかぶりをつづける自信を得た。これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて實をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利點を得たのである。名を捨てて實をとる!政治家にとってはそれでよからう。しかし自衞隊にとっては致命傷であることに政治家は氣づかない筈はない。そこで、ふたたび前にもまさる僞善と隱蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。銘記せよ!實はこの昭和四十五年(注、四十四年の誤記)十月二十一日といふ日は、自衞隊にとっては悲劇の日だった。創立以來二十年に亘って憲法改正を待ちこがれてきた自衞隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議會主義政黨を主張する自民黨と共産黨が非議會主義的方法の可能性を晴れ晴れと拂拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生兒であった自衞隊は『護憲の軍隊』として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。われわれはこの日以後の自衞隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたやうに、もし自衞隊に武士の魂が殘っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。・・・しかし自衞隊のどこからも『自らを否定する憲法を守れ』といふ屈辱的な命令に對する男子の聲はきこえてはこなかった。・・・われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を與へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に與へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは來ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に關する財政上のコントロールである。日本のやうに人事權まで奪はれて去勢され、變節常なき政治家に操られ、黨利黨略に利用されることではない。この上、政治家のうれしがらせに乘り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衞隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこへ行かうとするのか。・・・あと二年の内に自主權を回復せねば、左派のいふ如く、自衞隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の眞姿に、戻してそこで死ぬのだ、生命尊重のみで魂は死んでもよいのか、生命以上の價値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の價値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ。これを骨拔きにしてしまった憲法に體をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、眞の武士として蘇ることを熱望するあまり、この擧に出たのである。」と。
今、三島由紀夫らの憲法理論や方法論を論ふつもりは全くない。ただ、この憂國の至情とその行動の精神こそ眞摯に受け止めなければならない。
占領憲法を有效とする限り、自衞隊は、その法論理において永久に認知されることはない。自己の存在根據を否定する占領憲法をなにゆゑに擁護するのか。もし、建軍の動機と經過が不純なものであるとき、陽明學による説明によらずとも、必ずやその邪惡な心と矛盾に押し潰されて自ら崩壞する。
自衞隊の建軍の本旨と精神は、我が國の再軍備の正當性を根據付ける帝國憲法にこそ求められるべきであり、眞正護憲論(新無效論)こそが、我が國體から導かれる合法性と正統性を共に滿たす唯一の理論であることを銘記せよ。
自衞官としては、時々の総理や權力者のためには死にたくはないはずである。また、己を虚しくする占領憲法とその國家組織のためには死ねないはずである。だからと云つて、臣民を守れない自衞隊法の不備を口實に保身に徹するのか。あるいは、退官するまでの間は非常事態は起こらないし政府も自衞隊を合憲であると言ひ續けてくれると高をくくつてゐるのか。
そんな志を失つた牽強付會の防人が一體どこへ行くといふのか。
心ある自衞官諸君よ、目覺めよ。
自衞官は、誰のために血を流さうとするのか。誰のために死ねるか。親のためか。妻子のためか。家族のためか。一族同族のためか。故郷のためか。祖國のためか。さうである。全てのために死ねる。それは天皇のためにこそ死ねることを意味する。
「憲法に體をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう」といふ三島由紀夫の血の叫びを志ある自衞官が受け止めほしい。そして、自衞官は、我々と共に眞正護憲論(新無效論)で理論武裝し、「自らを否定するものを否定せよ。」
國防義務と英靈について
「占領憲法を守れば靖國は滅ぶ。」この、極めて單純明快な論理を理解しない、否、理解できない御仁が餘りにも多い。小泉純一郎首相の靖國神社參拜に關して、今までなされた國内・國外の樣々な論評を見聞する限り、この問題が、占領憲法を取るか、靖國を取るか、といふ二律背反・二者擇一の相克と矛盾を集約した現象であつたことを論理的に知る人は皆無と云つて過言ではなかつた。
ある人は云ふ。「英靈に感謝の誠を捧げることは國民としての當然の務めではないか」と。
ならば聞く。第一に、英靈とはなんぞや。特に、その法律學的な定義がありうるのか。第二に、國民としての務めとは、憲法上の義務なのか、憲法以外の法律上の義務なのか、それとも法令以外の領域であるところの多くの臣民の私的で個人的な單なる心情にすぎないのか。
ところが、この單純かつ必要不可缺の問ひに對して、誰か、眞つ向から受け止めて答へたことがあつたであらうか。これに答へずして靖國問題を語るなかれと云ひたい。
では、誰も正面から答へなかつたこの問ひについて、私だけでも今から答へようと思ふ。
まづ、英靈とは、殉國者の「みたま」である。皇御軍(すめらみいくさ)に限らず、廣く殉國者の神靈を指す。なにゆゑに人靈(ひとのみたま)ではなく神靈(かみのみたま)なのか。それは、國家の如何なる偉人や英傑であつても、己の生命を國に殉ずることがなければ、その死後において崇高なる人靈として祀られることはあつても、神靈とはならない。これは唯神の道(かむながらのみち)の靈魂觀に基づく。
現に、靖國神社の祭祀は、人靈ではなく神靈を祀る儀式が行はれてゐる。そして、靖國神社に合祀されるといふことは、故人の意志や故人の遺族の意志を超越して、御靈が國家に歸屬するがゆゑに國家護持の英靈となるのである。人靈ならは、故人の意志と故人の遺族の意志に影響されるが、神靈であるがゆゑに、その祭神は遺族に屬さず、たとへ遺族の反對があつても國家に歸屬する。しかし、遺族や縁故者が故人を人靈として祀ることはできるのであり、故人や遺族らの信教の自由とは別の次元のことである。ここに靖國の根本的な意義がある。
これを國法學的に考察すれば、かうである。
帝國憲法第二十條には、「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ從ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」とある。これは、廣く國防の義務を規定したものである。『日本書紀』の天武天皇十三年閏四月の條に、詔して曰はく「凡政要者軍事也(おほよそまつりごとのぬみはいくさのことなり)」とある。それゆゑ、この義務の履行を滅私奉公の極致である殉國を以て果たした者には、國家最高の榮譽が與へられ、國家としてはその殉國者を鎭魂、慰靈、顯彰して感謝の誠を捧げることが、同條で規定する臣民の國防義務に對向した國家の義務として憲法上位置づけられるからである。
さうであるがゆゑに、靖國神社に國家元首たる天皇陛下の御親拜と臣民を代表した内閣總理大臣その他の要職者の公的參拜がなされるのであつて、公的かつ正式な參拜は、國家の憲法的義務の履行として、内閣總理大臣らの私的な信教の自由からも超越してなされなければならないのである。内閣總理大臣らが佛教徒であつても、クリスチャンであつても、その他の信仰者であつても、靖國神社への參拜は義務づけられ、靖國神社の正式な參拜形式による公的參拜がなされてきたのである。
これは、英靈が人靈でなく神靈であり、かつ、國家の公的な存在であるがゆゑに、故人や遺族の信仰とは無關係であることと鏡の如く對應するものであつて、國家機關による正式かつ公的な參拜は殉國に報ゆる國家の返禮的な參拜義務の履行として認識されるからである。
ところが、これらのことは、あくまでも帝國憲法下において矛盾なく成り立ちう論理であるが、もし、占領憲法が憲法として有效であるとすれば、占領憲法下では、以上の論理は全く成り立ち得ないことになる。
それは、まづ、占領憲法には、國防の義務が規定されてゐないからである。それどころか、第九條は、戰力不保持(武裝解除條項)と交戰權不所持(自衞權放棄、無條件降伏條項)すら規定してゐるためである。この規定の解釋について、自衞權は放棄してゐないとか、自衞のための戰力は保持してもよいとかいふ者が憲法學者と稱する者の中に、あるいは政治家の中に多くゐるが、それは國語の基本的な讀解力すら持つてゐない者らの「與太ばなし」に過ぎない。假に自衞權があつても、自衞權の行使、すなはち交戰權は認められてゐないからである。では、どうして交戰權まで否定する自繩自縛の占領憲法になつたかと云ふと、それは、その前文にも、「政府の行爲によつて再び戰爭の慘禍が起ることのないやうにすること」と、「平和を愛する諸國民の公正と信義に信賴して、われらの安全と生存を保持」することの二つの決意(誓約)をしてゐることからして、我が國の過去の行爲を全否定して懺悔し、連合國を神を仰ぐといふのが占領憲法の本質だからである。占領憲法は、連合國に對する「反省謝罪文」であり、「詫び證文」であつて、そして、「起請文」なのである。それゆゑ、我が國の戰爭において讃へるべき英靈とは、連合國からすれば、連合國(神)を冒涜する惡魔であつて、當然に抹殺されなければならない存在に他ならないから、この詫び證文に反して、英靈を祀ることの理由や靖國を護持することの根據が全くないといふことになる。否、むしろ、英靈といふ觀念や靖國の存在自體を否定してゐるのが占領憲法である。占領憲法は、過去の歴史を全否定し、GHQとその虎の威を借りた中韓に捧げた「謝罪憲法」(東京條約、占領憲法條約)であるから、その反省と謝罪の對象となつた行爲の先兵等を「英靈」とすることは全くの論理矛盾だからである。
しかも、交戰權を放棄してゐるのであるから、將來、違憲の存在の自衞隊が我が國を侵犯する武力勢力と戰つて、自衞官が戰死したとしても、それは人靈となりえても神靈には絶對なりえない。たとへ、「宗教法人靖國神社」が神靈として祀つても、それは一宗教法人の私的な宗教行爲であるから、故人の意志と遺族の意志を無視することは絶對にできない。ましてや、國家がこれを英靈として祀ることはできるはずもない。自衞官や警察官その他の公務員が、公務員の服務義務といふ法律上の義務に殉じたとしても、憲法上の義務に殉じたのではない。むしろ、占領憲法では、「戰つてはならない」、「國防の義務はない」、「國防の義務は免除する」と云つてゐるのに、これに背いて戰死したとしても、占領憲法下では絶對に肯定的な評價はできない。
なぜならば、占領憲法の第九十九條には、「・・・公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とし、國を守らなくてよいし、國が亡んでも占領憲法だけを守ればよい、としてをり、さらに、第十八條には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る處罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」としてゐるのであつて、占領憲法の解釋からすると、殉國といふのは、奴隷的拘束や苦役に該當するために、當然にそのことは禁じられてゐるからである。
占領憲法下では、自衞官らの殉國についてもこのやうな有樣なのに、戰前の殉國の英靈が、戰後においても同じ意味の英靈の評價として留まることは絶對にできない。それは、國家護持の公的存在としての「英靈」ではなく、「宗教法人靖國神社」といふ私的存在(民間信仰)としての「英靈」であつて、もはや「國家」との關係を遮斷された存在となつてしまふ。英靈が國家との關係を斷絶して公的存在から私的存在(民間信仰的存在)へと轉落することに呼應して、これに對する參拜も同樣に國家との關係を斷絶して公的なものから私的なものへと變質するからである。
それは、ひとへに、國防の義務を否定した占領憲法が存在するためであり、占領憲法が憲法として有效であるとする限り、英靈と國家とは永久に分斷され、眞の意味での英靈ではなくなる。それゆゑに、「占領憲法を守れば靖國は滅ぶ。」のである。
最後に、前述の「與太ばなし」に少しつき合ふとすれば、假に、百歩讓つて「自衞權」、すなはち、國家に「國防の權利」があることが占領憲法上認められたとしても、それを以て、臣民に「國防の義務」があることを導き出すことはできないのである。そのために、「與太ばなし」をする人たちでさへも、占領憲法には國民の義務としての「國防の義務」がないことだけはどうしても認めざるを得ないのである。
ちなみに、兵役の義務も含めた廣義の國防の義務を憲法上規定してゐないのは、諸外國でも數例しかなく、中共、韓國、北朝鮮などは憲法で國防の義務を規定してゐることは勿論であつて、殉國者には國家最高の榮譽が與へられるのである。
このやうに、我が國においては、占領憲法を打破しない限り、靖國の英靈を護持することは絶對に不可能であり、今もなほ、占領憲法下で靖國の庇護を望む者の姿は、「飛んで火に入る夏の蟲」の愚かさに似てゐる。
そもそも、靖國の英靈とは、國體護持のために散華された御靈であつて、これを破壞する占領憲法を靖國の英靈は決して容認するはずがない。「蚤」と「笛吹き男」の占領憲法有效論者が靖國參拜をする動機は、英靈を侮辱するためなのか、それとも懺悔するためなのか、そのいづれかである。改心もせず有效論を唱へ續けることの逡巡と懺悔のためであれば、これからの參拜は無用である。次に參拜するときは、無效論に改心してからの報告參拜しかない。また、有效論を確信する者であれば、その參拜は英靈を侮辱するものであり、明らかな冒涜であつて、恥を知るべきである。
いづれにせよ、占領憲法の有效性を主張することは、望むと望まざるとにかかはらず、眞正日本の再生を否定し、亡國の道を歩むことに他ならない。まさに、愚に滅ぶが如しである。
靖國問題について
占領憲法第二十條と靖國神社、護國神社の關係は、今までの誤魔化しにも似た小手先の解釋論では通用しなくなつてきた。平成九年四月二日の愛媛玉串料訴訟最高裁判決は、國體的見地からは絶對に承服できないことではあるが、占領憲法を有效とする見地からは殘念ながら承認せざるを得ない。神道彈壓・靖國否定の神道指令を前提として占領憲法第二十條と第八十九條が生まれたといふ沿革があるにもかかはらず、最高裁判所としては、よく今まで憲法解釋をねじ曲げてまで國體護持のために頑張つてくれたが遂に力盡きるときが來てしまつたと、その努力を勞つてやるべきであらう。この判決を批判する人々は、占領憲法第九條で黑い烏(自衞隊)を白い(非軍隊)としたのと同樣の詭辯をもつて占領憲法第二十條についての特異な解釋論を展開し、さらに、占領憲法を無效であると主張する勇氣もないのに、單に、占領憲法だとか、押し付け憲法だとかいふ揶揄にも似た批判を徒に展開する。しかし、占領憲法を憲法として有效であるとする限り、そんな批判は誠にもつて見苦しい限りである。無效を主張することもせず、負け犬の遠吠へのやうに、占領憲法の成立過程にケチをつけ悔し紛れに揶揄することは、法の支配や法治主義の理念からして許されるものではない。成立過程に問題があつても、結果的に憲法として有效と判斷するのであれば、占領憲法を輕んじて嚴格な解釋をしないのは、却つて臣民の遵法心を低下させ道義を退廢させる。嚴格な解釋を行へば、臣民の感覺からして、占領憲法を前提とする限り、自衞隊を「軍隊」でないと言ひ切ることはできないし、「宗教法人靖國神社」として存在してゐるのに、「神道は宗教にあらず」と言ひ切ることもできない。
ところで、靖國神社などへの閣僚の「公式參拜」を認めるべきか否かといふ議論があるが、このことについては、戰前の國家神道との關係で問題が提起されてゐる。國家神道については後述するとして、「參拜」には、本來的な信仰に基づく參拜(以下「信仰參拜」といふ。)と、信仰に基づかない儀禮的行爲などの動機に基づく參拜(以下「儀禮參拜」といふ。)の二種類があるのに、どうもこれらが混同して議論されてゐるやうである。
信仰參拜は、公式も非公式もなく、あくまでも私的な行爲である。信仰參拜には「正式參拜」と「略式參拜」の區別はあつても、「公式參拜」なるものがあるのではない。公式參拜が問題とされてゐるのは、主に儀禮參拜である。英靈は、信仰參拜の對象となることは勿論であるが、國家に殉じた英靈に對し、國家が行ふべき儀禮として參拜する義務があることは當然のことであり、その意味では、儀禮參拜としての公式參拜は認められるが、それを信仰參拜まで求めることは許されない。それでは國家神道となる。儀禮參拜は、その回數や程度、費用支出などを儀禮の限度で確定し、これを國家機關の主要な公務員に義務付けるづけることは、信教の自由の侵害とはならない。また、公式參拜に關してそれ以上に重要なことは、天皇陛下の御親拜を復活させることである。これこそが眞に「公式(皇式)」なものである。
ところが、これらのことは占領憲法下では不可能である。やはり、これを占領憲法を憲法としては無效であると認識しなければ根本解決には至らない。そうすれば、靖國の變質と弱體を狙ふ靖國神社國營論といふ新たな國家神道論から解放されることになるであらう。その意味では、昭和四十九年に、靖國神社國家護持法案が廢案になつたことは喜ばしいことである。英靈を否定する占領憲法の下では、靖國神社の國家護持とは、實質的には靖國の解體へと進んで行くことになるからである。
ところで、靖國神社では、大東亞戰爭終結時に責任を負つて自決された方々や東京裁判その他の軍事裁判で處刑された千餘名の方々を「昭和殉難者」として合祀されてゐる。それゆゑ、靖國の祭神たる英靈は、必ずしも軍人、軍屬に限られてゐない。それゆゑに、明治元年六月に江戸城大廣間で行はれた招魂祭における賊軍排除の限定は、決して靖國の歴史と方向を決定付けるものではなかつたはずである。
しかし、鳥羽・伏見の戰ひに始まる戊辰戰爭では會津は賊軍とされた。禁門の變では長州は逆賊であり、薩摩と會津は皇御軍であつた。この區分によれば、靖國神社や山口縣護國神社などでは逆賊も御祭神となつてゐるが、他藩の逆賊は決して御祭神とはなつてゐない。このやうに狹矮な大義名分論による官賊差別を靖國が堅持し續ける限りは、日本人の魂を搖さぶるだけの力と根據を持ち得ない。皇道と武士道の忠義のために一命を捧げた「憂國の忠魂」に官賊の區別はなく、官賊差別は有害無益である。日清・日露以後の戰爭においても、敵將や敵兵の亡骸に花を手向ける武士道精神と怨親平等の理念が、どうして邦人殉難者にも發揮されないのであらうか。會津の白虎隊など戊辰戰爭の全殉難者や、明治黎明期における神風連の亂、秋月の亂、萩の亂、西南戰爭などの憂國の全殉難者を靖國に合祀してこそ、日本精神の神髄に回歸できるのである。
これが實現し得ないのは、まさに「薩長史觀」による弊害であるが、まだ問題がある。この「官賊差別」と同樣に、否、それ以上に「官民差別」がある。國難に軍民、官民と臣民との區別はない。ましてや大東亞戰爭は、臣民の總力戰であつて、「銃後の守り」こそが戰爭の主力部隊であつたといへる。その銃後の守りが都市空襲や原爆で多大の被害を蒙つたのであつて、全てが殉難者であることに變はりはない。
東京裁判史觀やコミンテルン史觀からの脱却を唱へる者は、これらの歴史觀の源泉である占領憲法からの脱却として無效論を唱へなければ畫龍點睛を缺くことになり、さらに、明治維新における「薩長史觀」からの脱却をはからねばならないのである。薩摩、長州、會津などが歴史的和睦を行ひ、舊幕府、奥羽越列藩、西南戰爭などの殉國者の全てを靖國において合祀し、福島縣護國神社や鹿兒島縣護國神社、山口縣護國神社を初め全國の護國神社と靖國神社に普遍性が甦るとき、それが眞正日本の再生への第一歩となるはずである。
ともあれ、靖國神社は、嘉永六年から大東亞戰爭終結までの約百年間だけに限られた「防人」を祭神とする神社であり、しかも、その間における全ての「防人」が祭神ではないといふやうに、歴史的普遍性のないものであつて、眞に我が悠久の歴史における全ての防人を祀る神社とはなつてゐない。もし、靖國が不朽に防人を祀る神社となるためには、これまでの薩長史觀の呪縛から解放し、發展的に一旦は廢社した上で新たに「防人神社」として再創建されることを願ふばかりである。
しかし、このやうに、また、次に述べるやうな樣々な問題があるとしても、靖國は、少なくとも大東亞戰爭の英靈の多くを祀つた中核的神社であることに變はりはない。その靖國に我が國の首相が儀禮參拜することについては、眞正護憲論(新無效論)であれば何の問題もないのである。
占領憲法は「憲法」ではなく、東京裁判(極東国際軍事裁判)も本質的には「裁判」ではない。あくまでも講和の條件である。桑港條約が發效する昭和二十七年四月二十八日までは「戰爭状態」であつて、その間に東京裁判と稱する「政治の戰爭」によつて敵國に殺害された者の死は「戰死」である。「戰爭」には、事實面と法律面とがあり、事實面の戰爭(戰闘行爲)は、昭和二十年九月二日までに原則として終了し、法律面の戰爭(講和行爲)は、昭和二十七年四月二十八日に終了したのである。戰爭状態が終はるまでに、講和條件である東京裁判などの軍事法廷といふ名の「戰場」で法廷闘爭といふ法的戰闘の結果によつて處刑されたすべての戦犯死は例外なく「戦死」である。これは「公務死」ではなく、明らかに「戰死」なのである。それゆゑ、A級戰犯などの昭和殉難者は戦死者として靖國神社に合祀されることは當然のことである。
それゆゑ、一旦合祀された後の分祀が可能か否かとは關はりなく、A級戰犯の分祀を求める外國の内政干渉とこれに呼應する勢力に屈してまで分祀する必要はなく、これを峻拒して國家の矜恃を保つた靖國神社の對應を評價したい。
國家神道について
國家神道は、バチカンが聖書の解釋權を獨占した如く、國家が古事記の解釋を行ふ權限を獨占し、これ以外の解釋を邪教、國家反逆、不敬罪として彈壓した。
しかし、バチカンのやうに、ニカエア、クレルモン、コンスタンツ、トリエント、ラテラノなどの數多くの「公會議」で、聖書解釋上の異端を頻繁に排除し續けなければ、宗教的權威を維持しえなかつたといふ歴史を踏まへ、國家神道を推進する明治政府は、古事記の解釋すら許さないとする極度の教條主義を徹底させ、宗教會議自體を否定し、それを國家神道の走狗となつた多くの神官に命じた。これらの走狗神官もまた、これに從ふことで自己の地位を安泰にすることができた。
そして、この古事記解釋の禁止を犯し、大東亞戰爭の世界性と普遍性を古事記の世界性と普遍性の中から導かうとの壮大な試みの一つであつた「大本」が、當時の國家神道にとつては最大・最強の敵であつたため、政府は、信長による比叡山の燒き討ちや一向宗門徒の根絶やし殺戮と比肩されうる「大本」の壞滅的彈壓を二度に亘つて斷行したことは周知の事實である。
また、このやうな古事記解釋の禁止といふ政策に加へて、明治末期から大正初期にかけて推進された、いはゆる「神社合祀」と稱される政府・地方官主導の神社合併政策は、結果的には國家の神社神道に對する不當な干渉を許し、國家神道といふ「神社神道彈壓」の道を切り開く結果となつた。一般には、國家神道への道は、他の宗教に對する彈壓であるかのやうに安易な説明がなされてはゐるが、實際には、「神道は宗教にあらず」として國家神道との併存を肯定する限りにおいて信教の自由が認められてゐた他宗教とは異なり、神社神道は、「神道は宗教にあらず」としてその宗教性自體が否定され、神社そのものが國家や地方官の管理下となつた點において、完全なる存立否定がなされたのであつて、最大の彈壓對象が「神社」であつたことは紛れもない事實なのである。そして、この強制的な神社合祀政策は、境内地等が所定の規模に達しない小さな神社を全て廢し、その御神體を近隣にある相當程度の規模の神社へと合祀するといふものであつて、全國で約二十萬社あつた神社を半減させたといふすさまじいものであり、南方熊楠や柳田國男などはこれに強硬に反對したのであつた。
ともあれ、國家神道は、このやうに、「古事記解釋の禁止」と「神社合祀の強制」といふ二つの政策によつて推進されてきた「國家による神道彈壓」のことであつて、決して「國家による神道擁護」ではない。そして、明治十五年一月には、官國幣社の神職が教導職を兼補することとなり、葬儀に關與してはならないことになつて、神社固有有の布教、婚禮、葬儀、祈祷などの宗教行爲が禁止され、神社神道の非宗教化を推進させる。宗教から宗教性を剥奪する。しかも、宗教化してきた神道が、本來あるべき姿としての「祭祀」へと本格的に復活することも許されない。これ以上の彈壓は世界にも類例がない。
しかし、國家神道は、正確に云へば、決して明治から始まつたものではない。平安中期の延喜式からと云つても過言ではない。神道からその中心的な祖先祭祀を拔き取つて宗教化し、古事記、日本書紀にはない神格、社格を時の權力が決定すること、人が神(かみ)と社(やしろ)を格付けすること自體の傲慢さがある。その傲慢さが明治政府に受け繼がれ、祭祀を疎かにしながらも「神道は宗教にあらず」との神道非宗教論による公權的解釋によつて、教派神道以外の神社神道を他の宗教の上位に位置づけことを國家神道と云ふのである。非宗教とするために國家神道には宗教的教義が希薄であり、その活動態樣は、參拜儀禮と祭禮などの實踐が中心となつた。神祇官、神祇省、式部寮、教部省、文部省、大教院、内務省神社局、神祇院と、神道を含む宗教の所管は目まぐるしく變遷したが、官國弊社を所管して、新たな造營には公金を投入し、村社以上の社格の神社の例祭には地方官の奉幣が行はれるなどの國家管理がなされてきたのである。これは、神道が國教となつたのではなく、その實態は、國家による神社神道と統制と彈壓に他ならないのである。
その意味では、GHQがいはゆる神道指令(國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保證、支援、保全、監督竝ニ弘布ノ廢止ニ關スル件)において、國家神道を「非宗教的ナル國家的祭祀」であると定義したことは國家神道の性格を把握するものとして正しく理解してゐたものと云へる。それは、神道指令(資料二十九)の一(ハ)には、「神道ノ教義、慣例、祭式、儀式或ハ禮式ニ於テ軍國主義的乃至過激ナル國家主義的『イデオロギー』ノ如何ナル宣傳、弘布モ之ヲ禁止スル而シテカカル行爲ノ即刻ノ停止ヲ命ズル神道ニ限ラズ他ノ如何ナル宗教、信仰、宗派、信條或ハ哲學ニ於テモ叙上ノ『イデオロギー』ノ宣傳、弘布ハ勿論之ヲ禁止シカカル行爲ノ即刻ノ停止ヲ命ズル」とし、同二(ハ)には、「本指令ノ中ニテ意味スル國家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト區別セラレタル神道ノ一派即チ國家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル國家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(國家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル」としてゐたからである。
つまり、祭禮、儀禮的參拜などを「非宗教的ナル國家的祭祀」と認識し、その祭禮や儀禮的參拜などの實踐行爲を排除することに主眼があつたのである。これは、「非宗教的ナル・・神道ノ一派」、つまり「非宗教的宗教」といふ矛盾した概念なのであるが、「(國家)神道は宗教にあらず」とする見解の矛盾と同じであり、我が國がこれを矛盾であると非難することはできないはずである。GHQは、キリスト教的信仰と比較して、信仰といふ内面が形骸化し、祭禮、儀禮的參拜などの形式的實踐を重んじるものを「宗教」と認識できなかつたのである。しかし、「非宗教的ナル國家的祭祀」が「祭祀」でないことについては第一章で述べたとほりであるが、神道指令は、神道の否定だけではなく、人類にとつて必要不可缺なものである祭祀自體をも否定するに至つたことが最大の問題であつた。つまり、國家神道の否定ではなく、神道國家、祭祀國家それ自體を否定したのである。
ところで、戰前において、この「神道は宗教にあらず」とする國家神道の「理念」を逆手に取り、この傾向に拍車をかけたのが、この方向によつて莫大な「宗教利權」を見出した眞宗教團(特に西本願寺)やキリスト教教團などの宗教團體による迎合運動である。神社神道から宗教性を奪ひ、神社の維持運營を財政的に支へてきた婚禮、葬儀などの宗教行爲を奪つて、これを自らの「獨占事業」とするために神道彈壓に加擔した。今もなほ、「死人を餌にして飯を食らふ」などとして揶揄される「葬式宗教」、「婚禮宗教」の源流がここにある。「神祇不拜」と稱して祭祀を蔑ろにし、「進者往生極樂、退者無間地獄」と唱へさせた一向一揆によつて門徒を死に追ひ遣り公然と殺生をなした歴史を持ち、被差別部落の人に、文盲であつたことを逆手にとつて、「畜生」の文字を分解して「玄田牛一」といふ露骨な差別戒名を平然と付けて戒名代を支拂はせ、供養料をも徴收してきた素性を持つ眞宗教團などを含め、このやうに宗教利權を漁り續けて神道彈壓に加擔した多くの教團には、現在に至るも眞摯な自己批判はない。これは、マスメディアがGHQに迎合した歴史について自己批判をしないのと同じである。そして、「神道指令」は、國家神道政策(神社神道彈壓政策)によつて宗教利權を獲得した「加害者」の教團が、あたかも「被害者」であるかの如く取り扱はれ、それを奇貨として平然と二重の利得を得た敗戰利得者なのである。國家神道思想によつて侵略戰爭を行つたとするGHQの「幻想」(新田均)を生み出す原因を作つた張本人である最大の加害者である教團がGHQから保護され、最大の被害者である神社を攻撃し續けてゐるのである。
それゆゑ、眞の意味での國家神道からの解放は、これらの加害者教團の假面を剥ぎ取り、たどりきた道を戻り、古事記の解釋解禁と神社の祭神分靈の實現にあると斷言できる。
ともあれ、前にも述べたが、靖國神社の根源には、禁門の變で朝敵となつた長州が鳥羽・伏見の戰ひ以降は官軍へと轉じ、これとは逆に、會津が禁門の變では官軍であつたのが鳥羽伏見の戰ひ以降は賊軍へと陷れられた捻れ現象がある。會津藩主松平容保は、孝明天皇の信任篤く錦旗を拜領した尊皇の士でありながら、薩長らの權謀術數により朝敵の恥辱にまみれた。戊辰戰爭で斃れた奥羽越列藩同盟諸藩の志士も然りである。
靖國に祀られる英靈は、嘉永六年以降の殉難者であつて、それ以前の悠久の歴史における皇國の英靈は祭神とはされてゐない。我が祖國の行く末を憂ひ、尊皇と國體護持に身命を捧げた殉難者は、嘉永六年以降においても、靖國に祀られる英靈はそのごく一部にすぎない。賊軍の汚名を着せられた多くの英靈がある。
それは、鳥羽・伏見の戰ひで錦旗に恭順して斃れた會津藩らの幕軍、上野戰爭で斃れた彰義隊、長岡藩、會津藩ら奥羽越列藩同盟の戰ひ、さらに函館戰爭に至る戊辰戰爭で薩長の不條理に抗して尊皇の大義に殉じた多くの人々、それに、西郷隆盛をはじめとする西南戰爭の薩軍將兵などである。
つまり、靖國神社は、歴史的に見ても、嘉永六年から大東亞戰爭敗戰までの約百年間といふ極めて短い時期におけるほんの一部の英靈を祀るものであつて、白村江や元寇など、肇國以來の悠久の歴史における全ての「防人」を祀る神社ではない。
戰後の靖國神社は、昭和二十七年四月の戰傷病者戰没者遺族等援護法と恩給法によつて政府から送付される祭神名票と、靈璽簿奉安殿にある靈璽簿とは不可分なものとして運營され、同年九月に宗教法人化された。いはば、「國家神道の民營化」である。
將來において、我が國の戰爭は、大東亞戰爭が最後であるとは言ひ切れない。すでに前項で述べたとほり、少なくとも占領憲法を有效とする限り、將來の戰爭における英靈を占領憲法下の國家は唾棄し續けることになる。否、占領憲法下では英靈は存在しえないといふことである。
そして、これまでの祭神は、恩給等の受給資格との連動性があつたが、將來の戰爭における殉難者が靖國神社の祭神となるか否かは別問題であつて、占領憲法下の祭神と過去の祭神とは全く異質なものとなつて斷絶してしまふ。
今、いはゆるA級戰犯の分祀問題についても、靖國神社が分祀を拒絶した結論は評價できるとしても、その理由には疑問がある。靖國神社の見解は、假に「分祀」したとしても「分靈」はできないとしてゐる。しかし、この問題の政治的な觀點はさて置き、神道の教學における「分靈分祀不能」の説明には納得ができない。これは、國家神道政策によつて神社合祀を強制した政府が、合祀により廢社された神社の復元運動を阻止するために編み出した論理そのものである。「物」の世界ならば、添附(民法第二百四十七條)によつて物の獨立性が消滅することはありえるが、「神」の世界では神格は合祀がなされても常に獨立してをり、合祀したことにより神格が消滅して「久羅下那州多陀用弊流(くらげなすただよへる)」といふやうなカオスの状態になるはずはない。合祀された祭神を蝋燭の燈明に喩へて分靈分祀を否定するのは、唯物論者の戲言に過ぎず、このやうな見解は、「神」を「物」と同視する暴論であつて、ここにも國家神道の歪みが殘つてゐる。このやうに、國家神道による古事記の教條主義と薩長史觀による靖國神社の教條主義とは同根であると言へる。
明治政府は、王政復古と祭政一致を實現するため、神祇官を再興させ、これまで神佛習合を否定して神道を佛教から獨立させる慶應四年三月の神佛判然令などによる一連の神佛分離政策を推進した。「神佛分離」は可能で、「神神分離」(分靈分祀)が不可能であるとする理由はあり得ないので、この意味からしても分靈分祀不能の教學は破綻してゐることになる。
ともあれ、神佛分離政策が國家神道への第一歩となつた。しかし、明治國家建設のためには、神道の國教化を圖るために神社神道を體系統一化するといふ制度の構築よりも、尊皇教育の徹底こそが要諦であつた。幕末における尊皇思想の確立は、決して神社神道の影響ではなく、幼少から培つた樣々な教育にあることの自覺があれば、經綸の要諦は、制度構築といふハード面もさることながら、尊皇教育といふソフト面が最も重要であることを當然に氣付いたはずである。
そのことを最も自覺してゐたのが南洲西郷吉之助隆盛(本名・隆永)であつたが、この維新回天の創業は、明治六年政變で挫折した。隆盛は、武力による征韓論に決して與せず、道義國家の再生を目指し、江藤新平、板垣退助、副島種臣らの征韓論者の暴走を抑制して、朝鮮使節として自らを派遣させるといふ見解(遣韓論)で廟議を決し、その内敕を得て執奏されることになつてゐた。ところが、それまでに征韓論を唱へる江藤らが、數々の汚職事件、職權濫用事件などを犯した井上馨、山縣有朋らの惡事を暴き、それを容認し續けてきた長州閥(汚官派)を追放寸前にまで追ひ込んでゐたことから、これに危機感を抱いた汚官派と、何の成果も得られずに維新創業の最も重要な時期に職務放棄して單なる物見遊山だけをして歸朝した岩倉具視、木戸孝允、大久保利通ら歐米使節團(外遊派)とが結託し、權謀術數の限りを盡くして先の裁可を覆して隆盛を追ひ落し、汚職事件等を隱蔽して有司專制を實現するために仕組んだのがこの政變である。
隆盛は、「もう一度、維新をやり直さなければならない」と言つて汚官派の放逐を決意し、「萬民の上に位する者、己を謹み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節儉を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を氣の毒に思ふ樣ならでは、政令は行はれ難し」、「然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじきなり。今となりては、戊辰の義戰もひとへに私を營みたる姿に成り行き、天下に對し戰死者に對して面目なきぞ」(文獻77)と述べてゐた。
そして、戊辰戰爭における會津藩や奥羽越列藩同盟の各藩の義擧を凌駕するだけの國家道義の確立による維新回天を達成できなかつたことを胸に刻み、その非力を詫びながら、隆盛は、城山において、嚴然と端座し禁闕を遙拜して瞑没したのである。
その後の薩長政府は、戊辰戰爭の佐幕軍も西南戰爭の薩軍も、さらには、明治六年政變から西南戰爭に至るまでの佐賀の亂、神風連の亂、萩の亂などの叛亂軍も、すべて盡忠報國の尊皇の志士であつたにもかかはらず、これらを賊軍としなければ自己の正當性が維持できないといふ歪んだ尊皇思想に支配された。尊皇思想は薩長政府のみが獨占し、それ以外のものは賊軍であるといふ二元圖式にし、戊辰戰爭と西南戰爭などの眞相も、さらに、後ろめたさの餘り吉田松陰の思想も危險視して公教育から遠ざけたため、道義教育を基礎とする眞の尊皇教育の推進は大幅に遲れ、明治二十三年になつてやうやくその根幹となる教育敕語が發布されたに過ぎない。
ともあれ、明治五年に楠木正成を祀る湊川神社が別格官幣社として創立され、明治七年には和氣清麻呂を祀る護王神社が別格官幣社となつて、尊皇教育の基軸となるべき神社ができた。しかし、あくまでも別格官幣社といふのは、功臣を祀ることに主眼が置かれ、尊皇教育の基軸といふ明確な目的で決められたものではない。そして、西南戰爭が終はり、明治十二年になつてから、東京招魂社が別格官幣社の靖國神社となつたが、その後の實質的な機能は、戰死した軍人軍屬、特に恩給受給者として認定された殉難者をご祭神とする神社へと變容した。
講和條約が發效した日の二日後である昭和二十七年四月三十日に、『戰傷病者戰没者遺族等援護法』、『恩給法(軍人恩給法)』が成立し、準軍屬の概念を廣げ、沖繩戰での戰闘參加者、戰闘協力者らを「公務死」として認定することになつた。そして、同年九月に靖國神社が宗教法人となつた後も、厚生省引揚援護局は、『舊陸軍關係靖國神社合祀事務協力要綱』(昭和三十一年一月)や『靖國神社合祀事務に對する協力について』(同年四月)を發令し、厚生省と都道府縣が御祭神選考を行つて靖國神社に「祭神名票」を送付し、靖國神社がこれに基づき靈璽簿に記載されるといふ關係が昭和六十一年まで續く。
もし、占領憲法が有效であるとの見解に立てば、これら一連の行爲は全て占領憲法第二十條及び同第八十九條に違反すると斷ずるのは論理の必然であつて、このやうな違憲行爲を反復繼續した靖國神社は、オウム眞理教に勝とも劣らない存在として、宗教法人法に基づき、その設立が取消されるべきであると主張することができるであらう。しかし、實際は、その論理を貫く意志も勇氣もなく、さりとて占領憲法を無效であると主張する氣概もなく、全く優柔不斷の態度である。そして、そのことを棚に上げ、しかも、保身のために詭辯を弄して眞正護憲論(新無效論)の見解を逆に批判し續けるのである。ところが、このやうな事實の反復は、見方を變へれば、占領憲法第二十條及び同第八十九條の實效性が否定され續けてきたことを意味し、占領憲法の無效性を根據付けることになる。それほど、占領憲法の運用は、實效性のない優柔不斷なものであつたことが解る。
この優柔不斷さは、靖國神社自體にもある。その一例としては、本殿の左側にある鎭靈社の存在である。これは、嘉永六年以後の國内において朝敵として斃れた者と、日清戰爭以後の戰爭で斃れた敵國人を祀るものとして、昭和四十年七月に建立された。
靖國神社のご祭神は、嘉永六年以降の殉難者であり、皇運の挽回に盡力した志士や王事に身を捧げて斃れた者とされるのであれば、朝敵の汚名を雪がれることなく非命の死を遂げた者の名譽回復措置をして靈璽簿に記載し、ご祭神とすべきであつて、これを鎭靈社に祀るといふことは、未來永遠に靖國神社の御祭神とはせずに名譽回復をしないことを宣言し、薩長史觀をさらに固定化したことと同じである。しかも、これを敵國人と同じ扱ひにして祀るといふのは、餘りにも理不盡なことではないか。靖國神社としては、八方美人的にすべての殉難者を祀る鎭靈社があるとすることで世間の批判を免れ、未だに薩長史觀に固執してゐることをカモフラージュしてゐるつもりであらうが、こんな非道な措置をとり續けることは斷じて許されるものではない。
準軍屬の概念を廣げて公務死なる概念を認め、昭和三十四年には、B、C級戰犯を合祀し、さらに昭和五十三年にはA級戰犯の合祀するに至つて、靖國神社のご祭神である殉難者、すなはち英靈の概念定義は極めて不明確となり、その認定が著しく恣意的になつてきた。その優柔不斷さが原因となつて、今では内外に問題を抱へて益々混迷するばかりである。
これの混迷を解決し、靖國を護持しつつ、靖國の新たな使命により再生するための方策として、たとへば、戰犯とされてきたすべてのご祭神を分靈分祀して新たに「大東亞神社」なるものを創建することも選擇肢としてあり得るが、やはり、これらを分靈分祀せずに、一旦は靖國神社を發展的に廢社解體し、改めて、歴史を通じて全ての殉難者を合祀した尊皇報國の「防人神社」として再創建する道を選擇することこそ、西郷隆盛の果たせなかつた道義國家の再生といふ維新回天を完成させる第一歩であると考へてゐる。
なほ、靖國神社に祀られてゐる英靈の範圍を時系列的に圖解するとすれば、章末の別紙五『靖國神社關係圖』のとほりとなる。これによつて、靖國神社と鎭靈社がそれぞれ司る時代的範圍と人的範圍が極めて歪んだ限定的なものであることが解るはずである。
家族制度について
GHQによる反國體的な重大變革が行はれたのは、法律的觀點からすれば、身分法(民法の親族・相續法)の領域である。我が國には從來からの傳統的な家父長制度があり、これが教育敕語の精神文化と國體を維持してきた。そのむかし、フランス民法を基礎としたボアソナード草案による『(舊)民法』を、明治二十三年に公布、同二十六年から施行しようとしたが、「民法出でて忠孝滅ぶ」との大論爭の結果、その施行が無期延期(實質的な廢案)となつた。そこで、今度はドイツ民法を基礎とした『(明治)民法』が明治三十一年に公布・施行された。これには「家」の制度が取り入れられたのであるが、それでも傳統に適さないとの批判があり、大正時代に改正が企てられたものの成功しなかつた。「家」の概念は、「先祖(ancestor)」といふ縦軸と「家族(family)」といふ橫軸とで成り立つものであり、その各々の祖先の宗家が萬世一系の皇統に連なるものであつて、皇祖皇宗の末裔であらせられる當今を「總命(すめらみこと)」として尊崇いたすのである。教育敕語に「恭儉己レヲ持シ・・」などとあるやうに、本來、我が國は階級分化の利益社會(Gesellschaft)ではなく「一視同仁」の共同社會(Gemeinschaft)であるため、GHQが我が國を解體するためには、利益社會化する必要があつたのである。そのため、この日本弱體化政策にとつて最も障害となる「家」の制度を解體し、個人個人に分解して對立抗爭を促進させた。家族制度が崩壞すれば、これに近似した同族會社など事業體の調和も崩壞し、その結果、我が國の解體が完成するからである。
さらに、世襲、相續の法理についても、現行法制は、これを根底から否定するに等しい制度となつてゐる。そもそも、財産相續は、家の制度(家族制度)の根幹となるものであつて、安定した家産(身代)の承繼が家と制度の安定とそれによる文化傳統の維持發展をもたらすものである。「恆産なければ恆心なし」とか、「衣食足りて禮節を知る」といふ諺があるが、安定した遺産の繼承が安定した人心を保たせ、それによつて文化が繼承される。ところが、たとへば農地の相續のやうに、農業生活者、農業從事者であるか否かとは無關係に均分相續となる制度であるため、農地は、農業とは無縁の者にも細分化されて相續され、「田分け」されて農業が疲弊する。まさに「戲け者」となる。
これらは、前述のとほり、すべて合理主義、個人主義に由來するものであり、家族主義の復活によつて淘汰されなければならない。そのためには、近代合理主義から脱却し、個人主義から家族主義へと移行するための措置が必要となる。それは、具體的には、まづは財産制度において、私産制度(個人所有)から家産制度(家族所有)へと轉換させることであり、個人主義の影響を受けた帝國憲法第二十七條の改正が必要となつてくるのである。
ところで、相續自體に關しては、さらに大きな問題がある。遺産に課せられる税制(相續税制)は、これまでは最高税率が七十パーセントといふ極度の累進課税であり、平成十五年の税制改正で五十パーセントに引き下げられてものの、それでも極度の高率であることに變はりはない。ある程度多い土地が遺産であれば、それが二回の相續を經ると、それまでの遺産の土地はなくなるやうな制度となつてゐる。なぜならば、本來なら承繼した遺産價格の範圍内で相續税額が賄へるはずが、多くの場合が逆轉してゐるからである。「山より大きい猪が出る」制度が現行の相續税制である。このやうな制度は、占領期に作られたものである。
これは、GHQが、マルクス、エンゲルスの『共産黨宣言』にいふ革命のための十の方策の中にある「強度の累進税」と「相續權の廢止」に基づいて、私有財産制度を實質的かつ最終的に否定する施策を採用したためであり、これは、實質的に相續自體を否定する目的の制度である。祖先が財産を子孫のために恆産として殘すことを「罪惡」とするものである。「高い相續税が課せられて、ほとんど取られてしまつて子孫に遺産を殘せないのであれば、今のうちに全部散在しよう。」といふ心理に追ひ込むことであり、結果的には浪費を奬勵することになる。これほど不條理なことがあるであらうか。これは規範國體に明らかに違反するものであり、具體的には、帝國憲法第二十七條の所有權保障の規定に反し、占領憲法第二十九條の財産權保障の規定にも反するものである。
「相續税の廢止」といふ方向こそが、規範國體への復元のために必要なことであり、これによつて家産の復活、家族の再生へと向かふ。自助と共助の努力によつて家族を維持する制度が確立することになれば、公的年金制度は原則として不要となる。
また、これと同時に必要なことは、家族の次代を担ふ子供たちのことである。教育問題は後述するとして、その前に少子化が問題であると叫ばれてゐるが、少子化の基礎にあるのは、精子の劣化などに起因する劣子化、民族の劣化こそが問題である。今昔の感があるが、敗戰直後のベビーブームは空前の食糧難から起こつた。それは、食糧難によつて個體の生命維持が危ぶまれると、種族保存本能が強く働いたことの結果である。しかし、それによつてさらに食糧難が加速し、反米意識の高揚と報復戰爭への人員增強をおそれたGHQは、産兒制限の立法を目論んだ。アメリカでは堕胎を禁じてゐることから、そのやうな立法をGHQが指示すると、自國においても批判の矢面に立つことになるので、さうならないために議員立法の形式で『優生保護法』(昭和二十三年法律第百五十六號)を成立させた。これは、明らかに「胎兒虐殺法」である。これが平成八年に『母體保護法』と法律名が改稱されたものの、その本質は全く變つてゐない。それは、「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」(第十四條第一項第一號)の場合は堕胎(人工妊娠中絶)を認めるとすることから、食糧難の片鱗すら全くない現今においても、これを擴大解釋して事實上無條件で中絶手術が行はれてゐる。性風俗が亂れ、無責任に妊娠しても、出産や育兒が面倒であり、これまでの奢侈で奔放な生活を維持できないからとして、それを經濟的理由であるかの如くすり替へて安易に堕胎するのである。医師もそれを自己の営業利益になるとして受け入れる。占領憲法ですら、第十一條後段に、「この憲法が國民に保障する基本的人權は、侵すことできない永久の權利として、現在及び將來の國民に與へられる。」と謳つてをり、この「將來の國民」とは紛れもなく「胎兒」のことであるが、この法律によつて占領下から今日まで胎兒を虐殺し續けてきたのである。もし、この條項を廢止して、胎兒虐殺を禁止すれば、自堕落な性風俗を是正し、親の責任を自覺させて家族を再構築させ、少子化の解消へと向かふ一石三鳥の實現に資する一助となるはずである。
さらに、家族制度の根幹に關はる問題としては、破産制度における免責制度がある。人が債務超過状態や支払不能状態になつたときの法的整理手段として破産制度があるが、破産における免責制度とは、その破産者の法律上の債務を裁判所が債務者の申立てにより債権者の同意なくして免除させる制度のことである。我が國は、商業活動が活發化した江戸期において、御定書百箇條で身代限と分散の手續を定められ、明治五年には、太政官布告として華士族平民身代限規則が出されたが、その後、近代化に向けて統一的な破産制度の確立が模索され、大正十一年にドイツ法系などを参考にした(舊)破産法と(舊)和議法が制定された。これには免責制度はなかつた。ところが、GHQの占領下でアメリカ法系の強い影響を受け法體系の改變がなされ、桑港条約による獨立回復前に立法準備がなされてゐた破産法改正案を獨立回復直後の昭和二十七年六月七日に成立させ、ここで初めて免責制度を取り入れた。そして、現在では、平成十六年に(新)破産法が制定され、(舊)破産法と同樣に免責制度を維持してゐる。
ところで、およそ、一般に立法化がなされる前提として、「立法事實」が存在することが求められてゐる。この立法事実とは、立法化を支へる事實として、實際の社會に存在する事實のことを云ふ。實際の社會に存在し生起してゐる事實が法秩序を維持するための支障となつてゐる場合、その事實の發生を將來において減少あるいは消滅させ、既發生の事實をも解消しうるための規制又は救濟をする目的で立法化する必要性があり、その規制又は救濟の目的を達成するための立法手段(規制方法など)がその目的に適合してゐる必要がある。そして、もし、さうでなければ、その立法化は憲法に違反して無效であるとする憲法審査のルールを前提とする考へ方なのである。
ところが、昭和二十七年の改正(舊)破産法による免責制度を取り入れなければならないやうな「立法事實」は全くなかつたのである。すなはち、司法統計年報(最高裁判所事務総局)によれば、改正年の昭和二十七年の免責申立は一件もない。昭和二十八年では三件、昭和二十九年でも三件に過ぎない。現在は年間約二十萬件の免責申立があることからすると、この免責制度を導入したことによつて、破産申立を奬勵してきたのであつて、免責制度のある破産法は、明らかに「破産促進法」であり、破産を回避し經濟秩序を維持するためのものではない。免責を必要とする立法事實は、事後に捏造されたといふことである。
これによつて何が起こつたか。それは、道德と經濟秩序の崩壞である。貸主側が無秩序で過大な融資をなし高利を得るといふ、金融制度、クレジット制度、保証人制度など、無計畫で衝動的な借入・保証を誘發させる法制度を維持してゐること自體の問題と、無計畫で安易な借入と保証をなし、返濟ができなければ破産して免責を受ければよいとする風潮を蔓延させた免責制度を含む破産法などの法制度の問題とが、車の兩輪となつて健全な道德と經濟秩序を崩壞させてきたのである。この問題を解決するには、根本的には、個人主義から家族主義への轉換が必要となるが、當面は金融法制の規制的な見直しと免責要件の嚴格化などて対處する必要がある。現行の免責制度は、その運用において餘りにも緩和され過ぎてゐることが、道德の退廢を促進してゐるからである。
そもそも、破産制度は、個人主義に立脚してゐる。家族で生活してゐるのに、その家族の一員が破産しても、その他の家族が法的には何の影響も受けないことでよいのであらうか。借金をしてまで家族が生活をしてきたのであれば、破産になるときは、家族の連帶責任として、家族全體が破産することでなければならないはずである。さうであれば、家族の絆と責任感が回復する。また、家族の一人が他人を殺しても、他の家族は、「道義的責任」といふ見せかけの責任を負ふだけで、民事的な法的責任を全く負はないことでよいのであらうか。
法の目的は、國家・社會の「本能」に適合することにある。家族を守り、家族の苦難を共有すること家族の本能であり、これと同樣に、國家・社會を守り、國家・社會の苦難を共に耐え拔くことも國家・社會の本能である。法制度は、その本能適合性のために整備させるものであつて、いまこそ個人主義法制から家族主義法制への大轉換が必要となつてゐるのである。金融法制の改善と免責制度の廢止とを共に實現させ、秩序ある經濟社會を再構築しなければならない。
次に、家族秩序の復活として、尊屬殺人罪の復活が必要となる。昭和四十八年四月四日の最高裁大法廷判決は、「法定刑が死刑および無期懲役刑に限られている点において不合理な差別を設けるものであり、憲法十四条一項に違反する。」と判斷し、それ以來、尊屬殺人については普通殺人として起訴されるなどの運用がなされ、平成七年には尊屬殺人罪を規定した刑法第二百條は削除改正された。この改正は、刑法第二百條には「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス」とし、同法第百九十九條(改正前)には「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス」と規定してゐたものを、この第二百條を削除し、百九十九條(改正後)を「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」と改正したのである。これは、「人」の中に「尊屬」を含めて他人も尊屬も一律に扱ひ、有期の法定刑を三年以上から五年以上に引き上げたといふことである。
尊屬殺人罪を占領憲法違反であるとした前掲判例は、尊屬殺人の法定刑が死刑又は無期懲役であることから、未遂や自首などによる法律上の減輕と酌量減輕の二回の減輕をしても、執行猶予が付かない(實刑)となるといふ現實的な事情を斟酌したことによるものである。つまり死刑と無期懲役のうち、無期懲役を選択して法律上の減輕をしても、七年以上の有期懲役となり、さらに、これを酌量減輕しても、三年六月以上の有期懲役となるだけで、三年以下の有期懲役にしか執行猶予は付かないので、どうしても實刑になるといふ事情である。
尊屬殺人において執行猶予相當の事案があるとするのであれば、そのやうに法定刑について、「死刑又ハ無期若クハ十二年以上の有期懲役ニ処ス」と改正して法定刑の下限を下げれば足りることであつた。最高裁は、尊屬殺人罪の規定自體が違憲であるとはしてゐなかつたのに、國會はこれを削除改正までしてしまつたのである。
尊属と他人の命に輕重があると云つてゐるのではない。それを犯す者の罪に輕重があるのである。尊屬殺人を普通殺人と同じとすることは、家族と他人との區別を否定することであり、家族秩序と社會秩序とが同じとなつて家族制度を否定することになる。家族が溶け出し、祭祀と忠孝の基礎が否定され、そしてこれによつて社會が溶け出して國家の崩壞へと突き進む象徴的な第一歩がこの尊屬殺人罪の削除改正であつた。
暦について
ひふみよいむなやこと。古代から、一(ひ)から十(と)までの數靈の全てを兼ね備へたのが人(ひと)とされてきた。「一から十まで」といふ表現は、今でも、始めから終はりまでといふ意味のやうに全事象を指し示す言葉として通用してゐる。我が國は、萬葉集で山上憶良が詠つやうに、「言靈の幸はふ國」であるとともに、このやうに「數靈の幸はふ國」でもある。人々は季節の織りなす自然の中で生き、その暮らしや營みを支へるものを大切にしてきた。森羅萬象は全て巡り巡つて循環し、始めと終はりは表裏のものとして、特に、事物の始まりと終はりを神聖なものと認識して祭禮を執り行つてきた。萬世一系、循環無端である。そして、年、月、日、年號でも、その始め(初め)は一(元)であり、人の生まれの始め(初め)は一歳といふやうに、人の暮らしと營みは農事と儀式の暦に從ひ、四季の移り變はりとともに月日を重ねてきたのである。
ところが、權力的干渉によつてこの傳統文化が破壞され、人の年齡だけは、その生まれの初めを零歳とすることが法律で決められて今日に至つてゐる。それは、『年齡計算ニ關スル法律』(明治三十五年)と『年齡のとなえ方に關する法律』(昭和二十四年)の二つの法律によるものである。
しかし、「いのち」は、母の胎内から始まり、出生から始まるものではない。もし、年齡といふものを「生命の年齡」、「生命年數」といふ意味に理解すれば、法律で強要された、いはゆる「滿年齡」といふ數へ方は、單に「出生後の生存年數」に過ぎず、「生命年數」とは全く異なる。現に、現代醫學といふ名の施術を用ゐると、分娩を遲らせたり早めたりすることもできるし、意識が回復不能の状態でも生命維持裝置を用ゐて限りなく延命することも、安樂死とか尊嚴死といふ名でいのちの終はりを早めることもできるので、年齡を考へるにあたつて、その始めも終はりも人爲的に左右される滿年齡といふ「出生後の生存年數」も決して正確なものではなく、殊更にこの年數に固執して年齡を表示する意味も薄らいでゐるのである。
その點、傳統的な「數へ年」は、もののはじめが一であるといふ數靈に適ふものであると同時に、この「生命年數」の理念に最も近いものである。受精から出生までの「とつきとをか」を出生時に一歳と認識して、その後の齡は暦計算に基づいて重ねていくものと捉へれば、生命年數の捉へ方の理念としては最も論理性があると認められる。確かに、數へ年といふ年齡計算は、科學的に正確な生命年數ではないが、太陽暦によつても、一年は三百六十五日ではなく、閏年や閏秒があることから、年齡計算を暦計算で行ふことはやはり科學的には不正確と言はざるを得ない。
ともあれ、現在の法律では、人は生まれたときは零歳といふことになる。何とも奇妙であり、その「零歳」といふ響きには、いかがわしさすら感じられる。一(ひ)から始まらない生存は「ひと」ではない。また、胎兒はそれ以前であることから、理屈からすればマイナス年齡で表示されることになり、人としては認識されなくなつた。胎兒の命は輕んじられ、堕胎に齒止めがないに等しい昨今の風潮が生まれる素地がここにあるのではなからうか。
ところで、GHQの占領下では數多くの傳統破壞が行はれたが、傳統的な年齡計算が法律によつて強引に否定されたのは戰前のことであり、いはば明治維新やその後の明治政府の施策によつて、GHQによるものに勝るとも劣らないやうな傳統破壞や文化干渉がなされてゐることを忘れてはならない。
この數へ年の廢止も暦に關連した大事件であるが、これに勝るとも劣らない最大の事件としては、大隈重信の發案による明治五年の太陽暦改暦がある。明治政府は、歐米諸國と暦を共通することによる外交上や貿易などの便益から、從來までの太陰太陽暦(舊暦)から太陽暦(グレゴリオ暦、新暦)への改暦を決定し、舊暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年一月一日(元旦)とすることを僅か二十三日前に發表して改暦を行つた。改暦を行ふことが假に時代の趨勢としてこれに抗することができなかつたとしても、何故この時期に行つたかといふことが問はれなければならない。
その理由は、一言で言へば、當時の政府が著しい財政難であつたことが原因してゐる。つまり、舊暦によると翌年の明治六年には閏六月があり、十三箇月、三百八十四日となつてゐた。このままでは、官吏(公務員)の俸給(給料)を十三箇月分支拂ふことになる。そこで、舊暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年元旦とすれば、明治五年十二月は、一日と二日の二日間しかないので、この十二月分の給料を支拂はずに濟み、しかも、明治六年は十三箇月分の給料を支拂ふところを十二箇月分で濟ませられるので、向かふ一年で二箇月分の給料が節約できるとの計算から、そのやうに計畫して實行したのである。財政のために傳統文化を否定した。金で傳統文化を賣り飛ばしたといふ現象である。
そもそも暦を決定する權限は、古今東西において「王權(皇權)」に屬するものであるにもかかはらず、財政的な理由や諸外國に迎合することを善とした文明開化といふ名の傳統破壞思想によつて、大御稜威を簒奪し、改暦による文化的・社會的な惡影響を全く考慮せずに、暦といふ重要な國體的素因を無造作に變更してしまつたといふ過ちは、決してぬぐい去ることのできない汚點と言はざるをえない。
近現代史の捉へ方において、我が國はいつでも惡いことをやつてきた犯罪國家であるとするコミンテルン史觀や東京裁判史觀などは論外であるが、戰爭に勝つてゐるころ(明治時代)の日本は正しいが、昭和に入つて負けてきたころ以降の日本は惡かつたとする司馬遼太郎の歴史觀にもほとほと呆れ果てる。これは、昭和初期から敗戰までの日本は日本でありながら日本ではない奇胎であつたとする斷絶史觀である。戰前は惡で、戰後は善とする戰後保守思想もこれと同列のものである。歴史は連續してをり、金太郎飴のやうに、どこを切つてみても「日本」は「日本」である。こんな單細胞的な司馬史觀などが最近もてはやされてゐるが、司馬遼太郎が大好きな、明るく逞しい明治維新や日清・日露戰爭は、大嫌ひな暗くて苦しい昭和史を作つた最大の原因であつたことを自覺すれば、歴史の評價においては、一時代に限つて全肯定したり全否定したりすることが如何に愚かしいものであるかが解る。光と影の雙方を見つめなければ、歴史の立體構造を知ることができない。その意味でも明治維新や明治政府の施策を全肯定することも全否定することもできない。この改暦も、數へ年の廢止も、明治維新を遂行した明治政府が、我が國の傳統を破壞して歴史に禍根を殘してゐる一例なのである。しかし、この改暦や數へ年の廢止がもたらした功罪について、今まで誰も本格的に論じてゐなかつたことが不思議でならない。
我が國の歴史は、修理固成の御神敕のとほり歩んで行くと信ずるがゆゑに、この改暦による弊害はいつの日か治癒されると確信する。太陰太陽暦には、確かに難點はあつたが、決して致命的な缺陷はなく、今でも實生活と農業、漁業などの面において多くの利點と效用がある。否、地球の暦としては、もつと積極的な意味がある。地球は、太陽と月の双方の影響を受けることからして、その双方の動的平衡の調和が果たせる暦としては、太陰太陽暦が最も相應しいと云へるからである。現代において、これを單純に復活させ、新暦を廢止せよといふものではないとしても、せめて韓國のやうに、新暦と舊暦の併記併用を公式に認めさせるべきである。
また、アジアでも新暦のみで元旦を祝ふ國は我が國だけで、多くの國では舊暦の元旦の方を盛大に祝つてゐるが、正常な季節感からすれば、舊暦元旦、もつと正確には立春を新春として祝ふ方が自然である。
つまり、舊暦の併記併用型の復活に際しては次のことが考慮されなければならないのである。それは、新暦を從來どほり主たる暦として使用繼續する場合であつても、元旦を立春とする古式傳統を復活させるべきではないか、といふことである。そもそも、ユダヤ暦のやうな純粹な太陰暦ではなく、太陽の運行をも考慮した太陰太陽暦は、元旦を立春に近い日になるやうに定められてをり、太陽暦とするのであれば、理想としては、立春を元旦とすることであつた。しかし、新月の日(月立ちの日、朔日)と滿月の日(十五日)の限定から、どうしても元旦と立春とのズレを生じるが、我が國の古式傳統では、立春を元旦として新年新春を祝ふ。そして、今でも、地方では、立春を元旦とし、その前日の節分を大晦日とする風習が殘つてをり、それは、正月(睦月)を春の初めとする日本書紀の記述に由來してゐると思はれる。
「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。」。これは、神武天皇が橿原の宮で踐祚された神武肇國に關する日本書紀の記述部分である。「辛酉年春正月庚辰朔」といふ表記のうち、この「辛酉年」の「庚辰」の日が太陰太陽暦の「元旦」に該當することから、その日を太陽暦に換算して「二月十一日」とすることに説得力はある。しかし、これは支那暦(陰暦)の影響を強く受けた記述であつて、「春正月」(はるむつき)といふ表記からすると、これが立春を元旦(朔)としてゐる意味と解釋しても不自然ではない。立春は、太陽の運行に基づき地球の北半球で觀測した春の始まりであり、これが我が國の季節の始まり、年の始まり、暮らしと營みの始まりとして、二十四節氣の内で最も重要なものである。この立春を暦の元基となる節日(基日、元日、元旦)するものが眞の太陽暦なのである。戰前においてもこの神武肇國の記述から紀元節を何時と定めるかについて諸説があり、戰前から二月十一日となつてゐるが、立春とするのが自然な解釋のはずである。太陽の運行や節氣とは無關係で何ら意味のない日に即位されたとする解釋の方が不自然であらう。
正月の挨拶には、新年を「初春」、「迎春」、「新春」などの言葉で表現し、これが季語にもなつてゐる。しかし、今の新暦では立春が二月四日(ころ)であり、元旦は眞冬であり、「春」ではない。一年は、「春夏秋冬」ではなく、「冬春夏秋冬」であり、冬が始めと終はりに跨つた變則的なものとなつてゐる。そして、冬なのに「初春」といふ季節はずれの挨拶や白々しい季語がまかり通るため、「言靈」と「數靈」が阻害され、この季節と暦の「ずれ」により人々は健全な季節感を失つてしまつてゐるのである。
一年の始まりが正月(睦月)であり、それが春夏秋冬の季節の始まりの春であることからすれば、立春より約三十四日前の何ら意味のない日を元旦としてゐる新暦よりも、農事暦でもある舊暦の方が季節感と合致する。八十八夜とか、二百十日、二百二十日などといふ生活に密着したものも、立春から日數を數へるので、例へ現在の太陽暦をそのまま繼續採用するとしても、元旦を約三十四日ずらして立春を元旦とする暦へと變更すれば、これらの矛盾やズレはなくなり、季節の始まりは春であり、一年の始まりは春正月として、人々の暮らしと營みに傳統の智惠が蘇ることになるはずである。これは日本暦(眞正太陽暦)の創設である。これは、戰前の國際連盟において、伊勢の皇太神宮を基點として、その眞上の天空を通る子午線を基準とした眞正太陽暦を採用したうへで立春を元旦とすることが檢討されてゐたが、殘念なことに、我が國が昭和八年三月に國際連盟を脱退したことによつてその採用が見送りとなつたといふ經緯があつた。
ともあれ、明治政府は、明治五年十一月十五日、神武天皇の即位をもつて「紀元」(明治五年太政官布告第三百四十二號)と定め、同日には「第一月廿九日」(一月二十九日)を神武天皇踐祚(即位)相當日として祝日にすることを定めた(明治五年太政官布告第三百四十三號)。この一月二十九日とは、明治六年の太陰太陽暦の元旦をそのままグレゴリオ暦(太陽暦)に置き換へた日付である。ところが、明治五年の太陽暦改暦以後も太陰太陽暦の元旦を祝ふ風習(舊正月)が根強く、紀元節を祝賀する意義が希薄になるとの政府の懸念から、明治六年十月十四日、新たに神武天皇即位日(紀元節)を二月十一日とした(明治六年太政官布告第三百四十四號)。これは、確かに、前述の日本書紀における「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。」に基づき、立春に最も近い「庚辰」の日を「朔」とする暦法計算と一致する。しかし、神武天皇踐祚が「立春」ではなく「朔」(月立ちの日、ついたち)であつたとしても、むしろ尚更のこと、太陰太陽暦の元旦を紀元節と定めて奉祝すべきである。舊正月の元旦が紀元節であることは、むしろ舊正月を祝ふ風習を復活させる契機となり、その前提として、太陰太陽暦の併用的復活の根據となるはずである。
そして、この眞正太陽暦の採用、太陰太陽暦の併用と同時に、皇紀紀元の復活がなされなければならない。皇紀紀元は日本暦(眞正太陽暦)の創設と一體とならなければ歴史的意義が損なはれるからである。
ところで、現在一般に廣く用ゐられてゐる西暦紀元は、ラテン語でアンノ・ド・ミニ(AD)、つまり、イエス・キリストが支配君臨してゐる年數といふ意味のキリスト教紀元(基紀)である。我が國には、「元號法」はあつても、西暦法(キリスト教暦法)はない。しかし、マスメディアなどの喧傳と洗腦により、キリスト教國でない我が國がこの宗教暦を無批判に受け入れ、臣民にその使用を實質的に強制してゐることは、イスラム暦、ユダヤ暦、チベット暦など固有の紀元を採用してゐる世界の國々などから顰蹙をかつてゐる。キリスト教暦を受け入れてゐることは、キリスト教を國教として受容したものとみなされてしまふのである。たとへば、刑務所において、邦人受刑者に對しては勿論のこと、キリスト教徒でないイスラム教徒の受刑者に對し、キリスト教暦しか表示せず、イスラム暦を併記しないカレンダーを掲示して見せることは、信教の自由の侵害となるとされても反論の仕樣がないので、官廳公署が使用するカレンダーには、元號表記のみに留めるべきである。
正統假名遣ひについて
「正統假名遣ひ(眞正假名遣ひ)」による國語表記を行ふことは、文化傳統の教育的復活である。
GHQの占領政策は、國語の破壞にまで及んだ。正統な假名遣ひ表記を禁じて、「現代假名遣ひ」と稱する「占領假名遣ひ」を強制したのである。そして、正統假名遣ひを「歴史的假名遣ひ」として、現在は使用しないものであるかのやうな蔑稱して歴史的遺物へと追ひやつた。つまり、正統假名遣ひは、昭和二十一年十一月十六日内閣告示第三十三號「現代かなづかい」の「まえがき」、同日内閣訓令第八號「『現代かなづかい』の実施に關する件」によつて口語文に使用することは禁止に近い制限を受け、その後、昭和六十一年七月一日内閣告示第一號「現代仮名遣い」、各都道府縣教育委員會教育長・各指定都市教育委員會教育長あて文化廳次長通知(同日庁文國第八十八號)「『現代仮名遣い』に関する内閣告示及び内閣訓令について」によつて昭和二十一年の「現代かなづかい」が廢止されて新たに「現代假名遣い」が制定されるに伴ひ、「歴史的假名遣が我が國の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして、尊重されるべきことは言うまでもない」とその前文にだけ明記して、四十年ぶりに歴史的假名遣ひの復活を認めるに至つたものの、未だに正統假名遣ひによる言語教育は復活してゐない。
民族にはその文化を繼承する權利と義務があり、これを傳承する民族固有の文化教育については國家と雖も干渉してはならない。ところが、文部省は、占領政策の走狗となり、假名遣ひの變更や當用漢字の制定など文化破壞政策を採り續けてきた。
占領憲法で用ゐられてゐる國語表記は、占領假名遣ひではなく、まさしく正統假名遣ひである。もし、占領憲法が憲法としての規範性を有してゐるとするのであれば、占領憲法の表記は、正統假名遣ひであることからして、この正統假名遣ひに憲法的規範性を認めなければ論理矛盾となるはずである。それゆゑ、正統假名遣ひは、占領憲法の效力論においていづれの立場を採つたとしても、戰後における國語表記の規範として認められるべきものである。從つて、義務教育として占領假名遣ひが今もなほ強制される根據は全くなく、直ちに正統假名遣ひに改め、正統假名遣ひによる言語教育を義務教育として復活せねばならない。
環境問題について
環境問題は占領憲法では解決ができない。
特に、環境破壞に對する規制について、占領憲法では論理的根據を持たないのである。占領憲法の論理よれば、以下のとほりとなる。
人の營みは、多かれ少なかれ自然環境を破壞して行はれる。それは、生産者であらうが消費者であらうが同じことである。その營みは、それこそ人權の行使であり自由の謳歌といふことになる。それゆゑ、人には、自然環境を破壞することがある程度認められる權利があると認識できることになる。
たとへて云ふならば、ここに十人の人がゐて、それぞれコップの水の中に微量な毒物を投與できる權利があるとする。一人の投與する毒物の量は致死量ではないが、十人分だと致死量になるとする。そして、この水をある人が飮み干すことになつてゐると假定する。十人がそれぞれ毒物を投與したことは許される行爲であるが、飮み干した人は確實に死ぬ。この場合、飮み干して死んだ人は、實は「地球」であり、そして、毒を投與した人は地球人であるとの喩へである。こんな矛盾が占領憲法から導かれる合理主義の現代人權論に濳んでゐる。これもまた、人權を超える崇高な價値を認めようとしない結果である。
よく、環境保護團體などが「環境權」といふことを主張する。しかし、この環境權を人權の態樣として主張し、その運動理念が現代人權論に根差してゐる限り、必ず矛盾に突き當たる。環境保護理念を構築するためには、現代人權論と對決し、新たな人權制約原理を提示せねばならなくなるのである。
これを「公共の福祉」論で説明しようとしても無理がある。假に、これで説明したとしても、それは人權制約論であつて、人權論ではない。つまり、人には「環境權」といふ權利はなく、「環境保全義務」があることになつて、現代人權論は破綻するのである。つまり、現代人權論や個人主義は、前にもその矛盾を説明したが、ここでの意味においても、根本問題において破綻してゐるのである。
それゆゑ、これを統一的に矛盾なく説明できるのは、本能論に根ざした國體理念しかないといふことである。
教育問題について
復元措置の最大かつ最終の到達點は教育にある。
教育全般ついて、數へ切れないくらい樣々な問題がある。知育、體育、德育の三育の分類で云へば、知育における最大の問題は歴史教育であり、これは、民族の傳統と精神を傳承する民族教育の根幹に關はることである。
GHQは、日本弱體化政策の一環として、學校教育や社會教育その他マスメディアを通じて行はれるあらゆる歴史教育、特に、大東亞戰爭に至る近現代史においては東京裁判史觀やコミンテルン史觀による日本惡玉論で徹底的に洗腦し、民族の傳統と精神は完全に否定され、「その國の青少年に祖國呪詛の精神を植ゑつけ、國家への忠誠心と希望の燈を消すことが革命への近道である」(レーニン)とする謀略により、我が國は着實に亡國の道を歩んだ。勿論、いはゆる天皇の人間宣言、東京裁判(極東國際軍事裁判)の斷行、占領憲法の制定、教育敕語の排除等はGHQ占領下の指導のもとに、占領政策の一環として行はれた。
そして、東京裁判の結果を容認することを盛り込んだ桑港條約と、冷戰構造下では反米路線を選擇し得ない政治状況が繼續したため、獨立後もその間隙を縫つて東京裁判史觀などの反日史觀が温存され、これらと訣別する機會が見出せないまま今日に至り、現在の教科書問題へと連なつていく。
昭和五十七年六月、新聞の一齊報道で、高校の日本史檢定教科書に、支那華北への「侵略」と書かれてゐた記述が「進出」といふ表現に書き直されたといふ報道がなされたが、これは全くの誤報であつた(いはゆる教科書誤報事件)。にもかかはらず、これに端を發して、翌月、中韓の新聞による追随報道と中韓からの抗議に屈して、鈴木善幸内閣は、政府の責任において教科書の記述を是正するとの宮澤喜一官房長官談話を發表したことが、「歴史觀の無條件降伏」へと轉落していく始まりであつた。その後は、檢定基準にいはゆる「近隣諸國條項」を追加して、宮澤談話を法制化し、中韓の外壓による教科書檢定を行ふこととなつたのである。それまでは、家永裁判とか高嶋裁判などのやうに、檢定制度は、少なからずも反日的教科書の登場を阻止する機能を果たしてきたが、この時點から檢定制度は變容し始め、文部省自體が反日體質へと變化した。さらに、昭和六十一年の中曽根康弘内閣における後藤田正晴官房長官が東京裁判史觀受容發言を行ひ、いはゆる『新編日本史』外壓檢定事件が起こつてからは、檢定制度は、外壓による「檢閲」へと變質してしまつた。そして、平成五年八月、細川首相の侵略戰爭發言、同七年六月の衆議院での戰爭謝罪決議、同年八月の村山首相談話などを經て、その後の内閣もこれらを踏襲して今日に至つたが、我が國はGHQの占領から獨立回復後も繼續して反日勢力と闘い續けてきた「思想戰爭」における各地各所の戰闘に悉く敗退し續けてきた。
教科書を執筆した著者や政府の檢定意見などによつて特定思想が介在する現行の檢定制度が容認しえないことは明らかであるが、では、どのやうな教科書制度に變更する必要があるのか。それは、結論を言へば、「檢定教科書制度」から「國定教科書制度」に轉換することである。「國定教科書制度」といふのは、概ね以下のやうな制度のことである。まづ、一定の資格要件を具備した樣々な見解をもつ多數の學術者などが、教科書作成編集を行ふ政府所管の專門委員會の委員に選任される。そして、同委員會で各委員による審議檢討を經て共同著作にかかる「國定教科書」を完成させる。その記述内容については、教科書としての客觀かつ公正な基準に基づいていることは勿論であり、爭ひのある歴史事象などについては、詳細に兩論併記をしたものであることが要求され、これを國民に縦覽させ、記載等の過誤や不公正な記述箇所等の指摘を受けて再度審査して確定させる。國家は、特定の思想や歴史觀を正しいものとして教育してはならず、爭ひのある事項については、兩論併記により詳しく記述されたものにしなければならない。それによつて學習する兒童生徒が、自己の成長過程で正誤の判斷をすればよいのであつて、大人が特定の思想や歴史觀を強制するものであつてはならない。このやうな教科書で正しく學習すれば、兩論併記された各歴史觀の正邪を判斷し奴隷史觀を陶太して、自づと祖國愛が生まれてくるのである。
次に、體育と德育を一體として考察したとき、問題として見えてくるのは、學校教育における體罰禁止條項についてである。
『學校教育法』第十一條は、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」(昭和二十二年法律第二十六號)と定められ、教師の懲戒權から「體罰」を除外した。このやうな體罰禁止規範は戰前にもあつたが實效性のないものであつた。ところが、占領下においては、GHQの指示によりこれが徹底される。これは、體罰も辭さない「教練」といふ我が國の戰前における履修教科が、強い體力と信念、それに團結の力を育んできたとの認識などから、GHQは、この精神力と組織力の源泉である教練を廢止しすることが我が國の弱體化につながると判斷して實行した。
しかし、『民法』第八百二十二條第一項は、「親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。」と規定し、親の懲戒權には體罰を除外しなかつた。つまり、親の懲戒權には體罰を認め、教師の懲戒權には體罰を認めないといふ歪んだ制度となつたものの、家庭教育よりも學校教育が中心となる義務教育體制のもとでは、體罰禁止がいはば理念的な教育理念であるかの如く喧傳された。
つまり、この體罰禁止條項は、喩へて云ふならば、「教育における武裝解除條項」なのである。武裝禁止と體罰禁止の重層的な雛形構造によつて弱體化は進められた。「武」の原義は、「戈を止めるを武と爲す(止戈爲武)」(左傳)であることから、これは、軍備を常に怠らずしてそれを行使しないことによる戰争抑止力が重要であることを示唆する。無防備であれば、外交力を弱め戰争を誘發することがある。そのため、我が國は諸外國からも舐められ、教師は兒童・生徒から舐められ、逆に暴力を振るはれても教師は手も足も出せず、手を出せば教師の監視を行ふためにGHQが作つたPTAの讒言と教育委員會の處分によつて教師が失職するといふ教師の強迫觀念が教育への情熱を失はせて精神を萎縮させ、これが惡循環となつて今日の學校荒廢、秩序崩壞が進んできてゐるのである。附言すれば、GHQは、教育の民主化と稱して學生自治會(大學自治會)を組織させ、これに莫大な自治會費を與へて、大學紛爭のための資金源にさせ、それが、昭和四十年代の全日本學生自治會總連合(全學連)の運動と、それをさらに脱却する方向へと向かつた全學共闘會議(全共闘)の運動によつて大學との對決姿勢を深めたことから、大學の荒廢と俗化を生んだ。つまり、GHQは、兒童、生徒、學生に「造反有理」による教師への反抗を促進させる制度として、PTA、教育委員會、學生自治會などを作つたのである。
ともあれ、體罰も武力も、何でもかんでもむやみやたらに行使すればよいといふものではないことは勿論である。そんな國家は、まともな國家でないし、そんな親は、まともな親ではない。それは單なる暴力癖の國家であり、虐待癖の親である。あくまでも、その備へと能力と威壓があつてこそ、抑止力が働き、國家は守られ、子供は育つのである。自衞と侵略、體罰と虐待といふ對比が誤解されてゐる。侵略戰爭も自衞戰爭と僞つて行ふので自衞戰爭も許さないとする論調が、虐待も體罰と僞つて行ふので許さないとする主張に相似してゐる。
その結果、體罰禁止條項による弊害に拍車をかけるやうに、平成十二年に『児童虐待の防止等に関する法律』(兒童虐待防止法)が制定され、その第二條第二號によると、保護者が「児童の身体に外傷が生じ、または生じるおそれのある暴行を加えること。」を身體的虐待などと定義したことにより、親の懲戒權における「體罰」と「虐待」の概念區別ができなくなり問題となつた。
兒童相談所等の行政機關及び裁判所の傾向は、體罰即虐待とすることにより、親の體罰の一切を禁止するといふ誤つた運用による魔女狩りが始まつてゐる。兒童相談所による「一時保護」(兒童福祉法第三十三条)といふ無令状の兒童拉致事件が頻發するやうになつた。それは、「一時保護」と稱して恣意的に判斷して突然に子供を拉致し、その後一切親子の面談すら許さないといふ事例が多く、子供を隔離することによつて親子関係の断絶を促進させる運用がされてゐる。これは「保護」とは縁遠いものである。むしろ、「一時保護」が「虐待」そのものであるといふ事例が多くなつてゐる。
しかし、あくまでも體罰と虐待とは明確に區別できるのである。體罰は、監護教育の目的、すなはち子の成長を願ふ親の愛情の發露としてなされる合法行爲であるのに對し、虐待は、兒童虐待防止法第二條のとほり、違法性阻却事由のない「暴行」である。虐待は、監護教育の目的もなく親の愛情の發露とは言ひ難い行爲類型であり、この目的の有無と愛情の有無といふ主觀的要素が體罰と虐待とを峻別することになる。ここで留意しなければならないのは、監護教育の目的と愛情に基づいてなされた「體罰」について、その有形力の程度と結果が相當性を缺いた場合を「虐待」と云ふのではないといふことである。虐待は、もとよりその目的と愛情がない場合であり、それが存在するもその程度と結果が不相當となる場合ではないのである。體罰と虐待とは、その外觀上の客觀的要素において、有形力の行使を伴ひ、兒童の身體的完全性を損なふことがありうる點において類似する場合があるとしても、その主觀的要素としての目的と愛情の有無によつて峻別されるため、單なる傷害罪の場合と、過剰防衞といふ結果によつて傷害罪に問擬される場合との明確な相違があるのと同樣である。あるいは、外科醫が患者に對して正當かつ相當な手術行爲をなしたところ、その施術の判斷を誤つて死に至らしめた場合は業務上過失致死罪が適用されるのであるが、これとは異なり、初めから外科醫が患者を殺害する目的で手術行爲を裝つて殺害した場合には殺人罪が適用される場合との違ひと相似してゐるのである。
體罰の程度と態樣が誤つて過剰となり、假に相當性を缺く場合であつても、それは虐待ではない。それは、犯罪行爲に例へれば、故意の傷害罪ではなく、親の懲戒權行使における注意義務に違反した業務上過失傷害に過ぎないのである。それを虐待であるとすることは、業務上過失傷害罪であるものに傷害罪を適用することと同じやうに明らかに誤つてゐる。これでは、外科手術に失敗した醫師を業務上過失傷害とせずに傷害罪とすることと同じことになつてしまふ。
體罰と虐待との區別は、これまで述べたとほりであるが、それ以上に、體罰と教育的措置(躾け、指導など)との區別が必要である。體罰は、あくまでも惡事をなしたことに對する應報としての身體罰(有形力の行使)であり、その目的は教育的進歩を實現することにあるから、その惡事の程度と體罰の程度との均衡、體罰を受ける者がなぜ體罰を受けるのかといふことについて理解させることが必要である。これは、あくまでも惡事がなされた後の處分である。ところが、この體罰と教育的措置とが混同されることがある。たとへば、武道において、被指導者の構へ(姿勢)を矯正するために、その矯正が必要な部分に手足や竹刀などで叩く行爲やこれに加へて叱咤することなどは、矯正部分を身體感覺で記憶させ、士氣を鼓舞し、行動を制御して上達を圖らせるために必要な教育的措置である。また、躾けの場面でも、「いただきます」との感謝の言葉も口にせずに子供が食べ物に箸を伸ばしたとき、その箸を持つた手を叩いて拂ひのける行爲なども同樣で、これらも有形力の行使ではあるが、ここには應報機能がなく、いづれも體罰とは異なる。ただし、その目的は、教育的進歩の實現であるから、體罰と共通した機能があることは頷ける。それゆゑ、この教育的措置も含めて廣義の體罰に含ませてもよいが、嚴密には區別されなければならない。
では、なぜ、廣義の體罰が許されるのかと云へば、それは、子供の本能を強化する親の本能的行動であるからである。これを禁止すれば子供は育たない。これを禁止するといふのは、まさに合理主義であり、これによつて學校の秩序が崩壞したことだけでも、合理主義による體罰禁止は教育を歪めたことが證明されてゐるのである。
さらに附言すれば、我が政府は、過去に、「人の命は地球よりも重い」(福田赳夫)といふ價値論理的にも物理學的にも馬鹿げた言葉を吐いて、テロに屈し超法規的措置として犯罪者を釋放したり、ペルーの人質事件でも「人命尊重」を唱へて無爲無策に狼狽して終始したことがあつた。このやうに何が何でも「命の大切さ」を教へることが人權教育、平和教育と呼ばれてゐるのである。これは、現代人權論と同じ系譜に屬する教育思想に基づいてゐる。ところが、前にも述べたが、この人權教育や平和教育がすでに教育の現場では破綻し、殘虐事件が多發して教室は荒廢し續けてゐる。
その原因は、「命の大切さ」のみを教へつづけることにある。個體の命より大切なものがあることを教へないからである。動物の世界でも、親は、子を救ふため自らの體を差し出すことがある。個體は、社會や國家、そして地球に連なるものであるから、理性論教育ではなく、本能論教育に徹して、個體の命よりも、それを捧げてでも守るべきものがあることを教へなければならない。
「命は義によりて輕し」とか、「命は鴻毛より輕し」とかの言葉は、大義のために捨てられる命の尊さ、偉大さを教へたものである。教育敕語には、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とあり、まさにこのことが説かれてゐるのである。
マスメディアについて
マスメディアに對する措置として、先づ爲さねばならないことは、『社團法人日本新聞協會』を解散させることである。自主的解散ができなければ解散命令を出さねばならない。『社團法人日本新聞協會』(以下「新聞協會」といふ。)とは、第二章で述べたとほり、占領下の昭和二十一年七月二十三日に、GHQの言論統制と檢閲を容認させることと引き換へに存續を許されたマスメディア各社で設立されたものをいふ。
新聞協會に屬する各メディアは、このやうな實態であるにもかかはらず「民主主義的新聞社」であると世論を欺罔し續け、プレスコードを忠實に遵守して占領憲法がGHQの強制によつて制定された事實を祕匿し、その他占領統治の實態について桑港條約に至るまでのその本質的な部分を一切報道せず、GHQに迎合した樣々な虚僞報道を繰り返してきた。さらにまた、講和獨立後においても眞實を報道せず、逆に、これまで通りの歪曲報道を繰り返して今日に至つてゐる。「客観報道」とか「民主主義的新聞」なるものは幻想である。GHQの忠實な走狗となつて國民を欺き、自己保身のため占領政策に迎合して虚僞報道を流し續け、しかも、現在に至るも眞相を告白して懺悔することも、國民に謝罪もしないのは、報道機關としての本來的使命を放棄したものである。それゆゑ、このやうなメディアは、敗戰利得者の典型であり、その存在自體が公益を害する反社會的なものであるから、設立許可の取消又は解散命令の對象となる(民法第七十一條、會社法第八百二十四條など)。早晩、個々のメディアに對して順次審査を經て解散命令がなされるとしても、まづは、その巣窟となつた新聞協會は直ちに解散命令(設立許可の取消)がなされる必要がある。
そして、日本新聞協會の解體の次は、記者クラブの解體である。これは、マスメディアによるアクセス權の獨占を否定することにある。「メディア」の語源は「靈媒」とされてゐるが、靈媒師のやうに神の意志を獨占的に傳達することができるとの傲慢さを意味する言葉に他ならない。
ところで、このメディアの解散に關して留意すべきは、解散命令の檢討對象となるメディアのうち、同じく新聞協會に屬してゐる日本放送協會(NHK)については、『放送法』(昭和二十五年法律第百三十二號)第五十條第一項に、NHKの解散について「別に法律で定める」としながら、この法律(NHK解散法)は、占領下で制定された放送法が施行されてから現在まで約六十年も經過しながらも、未だに制定されてゐない點である。これは違法な立法不作爲の典型であつて、直ちに解散に關する法律が制定され、解散に向けて檢討されるべきである。
また、この放送法に關して、その第三條の二第一項には、「放送事業者は、國内放送の放送番組の編集に當たつては、次の各號の定めるところによらなければならない。」とし、「公安及び善良な風俗を害しないこと。」(第一號)、「政治的に公平であること。」(第二號)、「報道は事實をまげないですること。」(第三號)、「意見が對立している問題については、できるだけ多くの角度から論點を明らかにすること。」(第四號)を定めるが、現在の報道は、悉くこれらが遵守されてゐない。ところが、これが是正されなくても、放送法もこれと同時に制定された『電波法』(昭和二十五年法律第百三十二號)にも、認定の取消や免許の取消の事由となつてゐない。このことが、マスメディアの傍若無人な虚僞報道を許す結果となつた元凶である。
このやうなことは、放送媒體のみならず新聞等の活字媒體についても同樣であり、放送法といふ個別法ではなく、「報道法」といふ一般法を制定する必要がある。放送媒體などの免許事業は當然にこれに服するが、活字媒體のうち、一般報道を行ふものとして屆出をしたメディアに對して適用があるものとし、放送法第三條の二第一項各號のやうな公平公正な編集基準を逸脱する報道内容については適正な法規制が必要となる。尤も、政黨や思想團體、宗教團體などの特定報道を行ふものについては、その屆出は不要であり規制は受けないが、報道品質表示義務(報道傾向、思想傾向に關する具體的な説明義務)を負擔させ、それを開示させる必要がある。受け手がそのメディアの報道内容が公平公正なものであると誤解を與へないための措置である。しかし、特定報道は、論評は自由ではあつても、事實に關して虚僞報道や捏造報道をすることが許されることはなく、これらが規制されることは當然である。
拉致問題について
拉致事件については、一歩の譲歩もすることはできない。絶對無條件で原状回復論による解決を求める姿勢を嚴格に貫かねばならないことは勿論である。
國際法の父とか、自然法の父と呼ばれてゐるフーゴー・グロティウスは、『戰爭と平和の法』の中で、正當な戰爭(正義の戰爭)といふ概念を提唱した。これが「正戰論」である。正戰には三つある。第一は自己防衞のための「自衞戰爭」、第二は不法に奪はれた財産の回復のための「回復戰爭」、そして、第三は財産の不法侵奪や邦人拉致などの不法行爲を回復し再發防止のために行ふ「處罰戰爭」である。しかし、その後、第一次世界大戰後に「國際連盟規約」や「不戰條約」を經て、自衞戰爭以外に、國際連盟規約違反の戰爭をなす國家に對する制裁としての戰爭のみを合法的な戰爭(正戰)とした。そして、國際連合憲章では、正戰を自衞戰爭のみとし、その自衞戰爭の中に、集團的自衞權に基づく戰爭を含むものとした(第五十一條)。しかし、この集團的自衞權といふものは、第三章で述べたとほり、本來の自衞權(個別的自衞權)とは全く異質のものである。この條項が生まれたのは、冷戰構造が構築されつつある状況の中で、アメリカが中南米を含む全米を影響下(支配下)に置くことを目的としたチャプルテペック決議(後の全米相互扶助條約)に基づく軍事行動については國連安保理の許可を不要とするために編み出したことにある。當初の國連憲章の原案では、集團的自衞權の行使は安保理の許可が必要となつてゐたことから、ソ連の拒否權發動を懸念して、憲章本文に集團的自衞權の條項を入れることになつたのである。そして、個別的及び集團的自衞權の行使については安保理に対する事後の報告事項とし、事前の承認事項ないしは許可事項としなかつたのである。それゆゑ、集團的自衞權は個別的自衞權と同質のものであるとし、いづれも國家の「固有の権利」であるかの如き國連憲章第五十一条の表記副つた主張は、自衞戰爭をこれまで正戰としたきた國際慣習からして到底認めることはできない。集團的自衞權は、あくまでも國連憲章によつて認められた權利であり、固有の權利(自然權)ではありえない。また、集團的自衞權とは異なり、個別的自衞權が固有の權利(自然權)であるとしても、占領憲法が憲法であるならば、これを行使すること(交戰權を行使すること)が否定されてゐるのであるから、個別的自衞權も占領憲法においては否定されてゐることになるのである。たとへていふならば、肉食妻帶することは人の自然權であるとしても、佛教の戒律によつて僧がこれをなすことを禁止することはできるのであつて、その戒律がある限りこれを犯す者はやはり「破戒坊主」であることに變はりはないことと同じである
ところで、我が國がサンフランシスコ講和條約(桑港條約)や日華平和條約、日ソ共同宣言等を締結して「戰爭状態」を終了させて國連に加入してゐるにもかかはらず、國連憲章には未だに敵國條項(第五十三條、第百七條)があることからすると、この條項が削除改正されない限り、これに對抗しうる我が國の自衞措置として、我が國には連合國を現在もなほ敵國と看做しうる權利があるはずである。つまり、我が國は、連合國に對し、正戰として「回復戰爭」と「處罰戰爭」を行へる權利が認められることになる。
それゆゑ、ロシア(舊ソ連の承繼國家)によつて現在もなほ不法に侵奪され續けてゐる北方領土の奪還、韓國によつて不法に侵奪され續けてゐる竹島の奪還については「回復戰爭」が可能であり、我が國にホロコーストの目的で原爆を投下しながらも、いまだに核軍縮をなさないアメリカに対しては核による報復の「處罰戰爭」が可能である。我が國には核による對米報復權が認められるといふことである。しかし、この權利があることと、その權利を直ちに行使しうるか否かとは全く別問題である。手續等の要件が滿たされない限り、直ちに行使しうるものでないことは勿論である。それは、國際法が定める手續を遵守する戰爭を以て合法な戰爭と定義されることから、最終的には、カロライン号事件(1837+660)以降に國際慣習として確立してきた自衞權行使の三要件である①急迫性(急迫不正な侵害があること)、②補充性(その侵害を排除する上で他に手段がないこと)、③相當性(排除するための實力行使は必要最小限度であること)が必要となつてくるであらう。
その意味では、北朝鮮による拉致事件の最終解決については、被害者全員の身柄引渡請求、拉致事件の関与者や指示者の特定と被害状況等についての調査報告要求、我が國による直接の調査を容認させる請求、犯人の引渡請求などをなし、それでもこれらに應じない場合は、武力による奪還と軍事制裁をなすことの警告等をなし、これらの適正な段階的手順を經て、回復戰爭ないしは處罰戰爭によることができるのであり、これ以外に解決の方法は殘されてはゐないのである。
それゆゑ、占領憲法を憲法として錯覺し續ける限り、拉致事件は永久に解決しないことが解るはずである。
