二つの喩へ話
では、「淨化再生裝置」の原理としては、何があるのか。それは、後で述べる「效用均衡理論」である。これは、單に精神論や建前論ではなく、確實かつ最終的に「公平」を實現しうる實用的な法則に從つたものである。その説明のためには、次の二つの喩へ話が必要になる。
まづは、一つ目の喩へ話である。それは、たとへば、羊羹を半分づつにして、羊羹好きの二人の子供が等分に「おやつ」を分ける場合を例にとる。ここで、羊羹を持ち出したのは、寛政の改革(1787+660~1793+660)や天保の改革(1841+660~1843+660)において、奢侈禁止の對象となつた禁制品の一つであつたから、ここでは高い效用がある例として選んだまでである。
ともあれ、この場合、子供たちのどちらかが半分に切るのではなく、その親か第三者に羊羹を半分に切らせて、親か第三者を執行者及び審判者として、その判斷により、それぞれの子供に對し、半分に切つて二つになつた羊羹を一つづつ任意に分け與へたとしても、羊羹の切り方で量の多い方と少ない方が生じることから、その多い少ないの喧嘩になる。そして、その執行者及び審判者が何時も同じ者であれば、いづれかの子供とは好き嫌ひの感情が生じ、各子供の序列が生じ、不公正の原因が生まれて、これが恆常化する。政治腐敗とは、このやうな原理で發生するのである。そこで、親が、二人の子供にじやんけんでもさせて、いづれか一方の子供に羊羹を半分に切る權利を與へ、他の子供には、その羊羹がどのやうな切られるのかを檢分させ、切られた羊羹のいづれか好きな方を優先的に選擇しうる權利を與へることにする。そして、それ以後に分けられるオヤツも同樣の方法をとる。さうすれば、その兄弟の長幼・性別を問はず、その役割と權限を随時に交替變更しうるやうにすれば、永久に羊羹の分配の公平公正が保たれるのである。羊羹を切る方は、一見して大小が解るやうに切れば、大きい方を他方が選擇してしまふから、できる限り眞半分に切らうとする。そこに、欲望の動機によつて結果的には公平が實現できる「欲望の均衡」といふ智惠なのである。政治腐敗の防止は、このやうな原理に基づかなければならない。これこそが法(正義)の支配の實效性を擔保しうるのである。ここで言ふ親、第三者及び羊羹を切る權限を與へられた兄弟のいづれか一方が「多數者」であり、他方の子供が「少數者」である。羊羹を切るといふ權限を與へられた子供が「多數者」であり、切られた羊羹のうち、いづれか好きな方を優先的に選擇しうる子供が「少數者」の例へとなる。
これは、經濟學における寡占の問題や政治學における核抑止力の問題など云はれてゐる「囚人のジレンマ」といふゲーム理論のやうに、負のスパイラルにはなり得ないものである。
次は二つ目の喩へ話である。時は江戸時代。ある商家で、番頭と手代とが二人で食事をすることとなり、おかずは大きな燒き魚一匹で、それを分けて食べることになつた。番頭は商家の雇人の頭であり、手代は、丁稚から勤め上げて元服した者で、いつの日が番頭になることを夢に見て番頭に從つてゐる。今日は御三どん(臺所女中)が居なかつたので、手代は、番頭の指示によりこの燒き魚を二つに切つて、一つづつを食べようといふことになり、手代はこれをお頭の部分と尻尾の部分とに眞半分に切つてきて、お頭の部分と尻尾の部分をそれぞれお皿に盛りつけて持つてきた。そして、お頭の部分を番頭に、尻尾の部分を手代にそれぞれ配膳して二人差し向かいで靜かに食事をし始めた。これは何の變哲もない話である。少なくともこのころは、お頭の部分は目上の人に差し出すのは、目上の人に對する禮儀の基本であり、番頭から尻尾の部分を所望したいといふことはあり得ない。手代としては、當たり前のことをしたまでであり、そのことについて番頭は當然受け入れたといふことである。しかし、燒き魚を橫に眞半分にすれば、魚肉の量は尻尾の方が多い。お頭の方は身が少なく、しかも身が取りにくい。手代は若いし食欲もあるので、それは好都合である。番頭としても、番頭に目上の禮儀を盡くしてお頭の部分を配膳してくれた手代を愛しく思ひ、面子が立つてゐる。しかも、高齡なのでさほど多く食べることもないので、身の少ないお頭の部分で充分である。これは、名を取るか實をとるかといふ相克を身分の上下で自然に分配して解消し、何の爭ひや不滿も生まれない傳統的な「智惠」である。
この燒き魚の分配についても、政治の世界において、實質的な公平を實現し、腐敗を防止しうる方法に應用できるのである。
つまり、この「羊羹方式」と「燒き魚方式」とは、共に利益と權限の公平な分配と腐敗防止を同時に實現しうるものであり、羊羹の場合は、主として均一なものの分配と對等關係における權限分配に適用され、燒き魚の場合は、主として均一でないものの分配と上下關係における權限分配に用ゐることができるのである。
そして、ここでいふ「效用均衡理論」とは、この「羊羹方式」と「燒き魚方式」とによつて構築された理論といふことになる。
羊羹方式
このうち、まづ、「羊羹方式」で構築される效用均衡理論を具體的に説明すれば次のとほりである。
國家その他の團體において、その團體構成員は、その團體の議決又は選擧の投票などの團體の運營又は意志形成への參加(政治參加)に關し、自己の意志と、團體の統一意志として形成された一般意志とが一致すればするほど、自己の意志が實現する程度(意志實現性)が大きくなつて、その意志實現による「效用」(欲望の滿足度)も大きくなる。これに對し、自己の意志と一般意志が相反すればするほど、意志實現による效用は小さくなる。そして、その小さくなつた分だけ、その一般意志による執行を監視・監督・監査する必要性の程度(監察必要性)が大きくなる。この「意志實現性」と「監察必要性」とは相反(trade-off)關係にあり、從來から、この「監察必要性」は、意志實現を滿たした多數者による樞軸權力から派生する下位權力機關である監察機關(例へば、監事、監査役、總務廳行政監察局、會計檢査院など)の手に委ねられた。この階層構造こそが少數支配による權力の獨占構造なのである。執行權者と監察權者とが上下一體となる「二足の草鞋」の構造こそ政治腐敗の源泉であり、淨化を困難ならしめている根源なのである。
そこで、少數者にも、何らかの政治參加に關する效用を付與して、效用の分配をすることが必要となつてくる。しかし、「多數者」に政治參加における意志實現の效用(實現效用)を與へることが多數決原理の眞髄であるから、これを少數者に分與することはできない相談である。つまり、多數者に代はつて、或いはこれと併存して少數者に同等の意志實現の效用を與へることは、多數決原理はおろか、民主制の根幹を否定する自己矛盾に陷るからである。
では、どうするのか。それは、多數者の實現效用として付與される「執行權」又は「執行參加權」に對して、少數者に、政治參加の意志實現が否定されたことの「代替效用」として、監察必要性を實現する「監察權」又は「監察參加權」を付與するのである。
この代替效用とは、經濟學において、消費者が本來的に購買を目的としてゐる財に代はりうべき代替財による效用を意味する。ここでは、政治參加における意志實現の效用(實現效用)の代替價値(代替財としての監察權取得)による政治參加の滿足のことの意味で用ゐるものである。
商法理論では、法人の不正腐敗淨化のための機關である監査人(監査役、會計監査人など)の權限が及ぶ監査對象について、法人の資本等の規模による分類における小會社(企業)では「會計監査」のみとし、大會社(企業)では「會計監査」及び「業務監査」の雙方としてゐる。これと同樣に、政治學の理論においても、國家の不正腐敗淨化のための監察對象は、「會計」のみであつて、それは歴史的には「會計檢査院」などの名稱の監察機關に委ねられてゐた。しかし、このやうな會計監察機構は、小國家(部族國家、地域國家及び少數人民國家など)において效率的に機能する淨化機關であつて、連邦國家、多民族國家及び大衆國家などの現代國家には效率的に機能しえないものである。會社などの企業體も國家と同樣に「社團法人」の範疇に含まれるのであるから、商法の監査理論が示唆するやうに、社團法人の規模が擴大すれば、その不正腐敗の淨化のためには「會計監査(會計檢査)」だけでは不充分であつて、これに加へて、業務執行(行政執行)の内容及びその方法が適法であるか否かを審査する「業務監査(國政監察)」や少數社員(株主)の「檢査權」が必要となるのである。
また、その業務監査(國政監察)の態樣においても、事後的かつ臨時的な監察權行使は言ふに及ばず、事前的かつ恆常的な監察權の行使が重要である。
ところで、この監察權及び監察參加權の權限態樣については、本來的な國政全般に對する監察のための調査權限の外に、國民、國會、内閣及び裁判所に對して不正事項を公表及び指摘する權限は言ふに及ばず、さらに、限定的には罷免請求權限をも含むものでなければならない。
なほ、「執行權」と「執行參加權」との區別は、前者が、多數者の政治參加における意志實現の效用(實現效用)を直接に享受される權利であるのに對し、後者は、その執行權を享受された者の委任や委託などによつて執行行爲に參画できる權利であつて、執行權それ自體を享受するのではなく、それから間接に享受される權利をいふ。前者の例としては、選擧に立候補した者が當選した場合の當選者(被選擧權の實現)の地位に基づく執行に關する權利や權限などである。また、後者の例としては、選擧で投票した候補者が當選した場合に、その候補者から、その地位による活動のため補助者や委託者として選任された者の地位に基づく權利や權限などである。これと同樣に、「監察權」と「監察參加權」との區別もこれに準ずる。前者は、少數者の政治參加の意志實現が否定されたことの「代替效用」としての監察必要性の實現が直接に享受される權利であり、後者は、これが間接に享受される權利である。
即ち、多數決原理による議決及び選擧の結果、實現效用を得た多數者に對し、少數者には、その實現效用を得られなかつたことの見返りとして、團體の執行權又は執行參加權を監察しうる少數者の權利(監察權)を取得させるのである。政治參加の效用を多數者のみに獨占させることなく、意志實現を果たせなかつた少數者にも、多數者の實現效用とは異質ではあるが、監察權の取得といふ代替效用を付與することによつて、多數者と少數者の各效用の均衡をはかることこそ公平の理念(正義)を實現することになる。ここにおいて、一般意志とは、執行意志、監察意志、及び執行と監察との機能分配を實現する意志によつて、總合的に構成されてゐると認識することができる。
これは、「羊羹方式」による異質な權限の配分を意味する。選擧の結果によつてどちらが多數者となり、その他方が少數者として判定される。多數者には、羊羹をどのやうに切るかを執行する權限が與へられ、少數者には、その代はりとして、羊羹が正しく切られてゐるかを監察する權限が與へられるのである。
これを取り入れたのが「效用均衡理論」であり、これによつて社會構造を再構築することが、眞の意味で一般意志(民意)の實相と公平の理念に限りなく接近することになる。從來の多數決原理及び少數支配の法則による統治においては、政治參加の效用を「持つ者」と「持たざる者」とを峻別し、多數者にすべての效用を獨占させることになる。效用の有無による二階層の社會が實在することになるが、多數者に屬するか少數者に屬するかは必ずしも固定されてをらず、流動性があり、その領界は不明確である。しかし、いつしか體系化・類型化した政治思想に影響され、多數者固有の政治思想や少數者固有の政治思想が形成されて、その流動化も喪失する。そして、多數者から抽出された少數支配者が、その他の多數者と少數者を被支配者として支配する硬質な支配構造へと變化させ、效用の獨占傾向が一段と強まる。さらに、ある者の政治參加による效用(政治效用)の保有量の增大は、政治、經濟、教育、情報、文化、宗教など凡そ社會に實在する樣々な活動によつて享受する實利及び名譽などの全效用(社會效用)の保有量の增大を必然的に伴ふことになるため、政治效用の保有量と、これを含む社會效用の保有量との間には、比例的な相關關係が生まれることになる。
そのため、少數者らは政治その他の社會關係から疎外され、不滿と不安は增幅されて、いづれは暴動、反亂、革命の原動力として蓄積される。しかし、このやうな反獨占のための革命が成功しても、革命を維持するための強大な權力を不可避的に必要とし、その權力によつて再び社會效用の獨占化が始まる。權力に對抗して反獨占を成功させるためには、權力が必要であり、それが再び獨占を生むといふパラドックスに至る。この反獨占革命は、結果的には單に獨占者が交代するに過ぎず、これに至る破壞と虐殺やその後の社會犧牲の凄まじさをも考慮すれば、フランス革命やロシア革命などの反獨占革命が、世界人民全體の福利にとつて有益であつたとは到底言へない。
安定社會とは、政治效用のみならず、全ての社會效用が社會全般に遍く分散して均衡し、效用の寡占ないしは獨占に至らない社會を意味するのであつて、これは、效用均衡理論によつてのみ實現する。「王覇の辨」などは、この效用均衡の實踐理念の一つである。また、下層に至れば至るほど順次緩やかな規範を適用した封建制社會は、いはば「差別公平型」の社會であり、差別社會ではあるが不充分ながらも效用均衡を實現しようとする知惠と工夫が存在した比較的安定した社會であつたのに對して、現代の大衆國家や中央集權國家は、奴隷制國家と同樣、いはば「平等不公平型」の不安定社會である。建て前の上では平等としてゐるが、硬直化した歴然たる差別が存在し、自分の家を持つてゐる者にも持つてゐない者にも、「橋の下や地下道で寢泊まりしてはならない」といふ「平等」な法律をもつて規制する「不公平」社會である。理想とすべきは、「平等公平型」の效用均衡社會でなければならないが、現代の宗教對立や民族對立による國家の分裂や紛爭等の原因が、いづれも、異なる宗教集團や民族間での社會效用の分配が不公正であることに由來してゐることを深く自覺せねばならないのである。
なほ、從來から、現代政黨政治の腐敗を防止するためには政權交替が随時可能な二大政黨政治の出現が理想であるとする見解がある。しかし、この見解には、次の三つの理由により、大いなる誤謬と矛盾があることを強調しておきたい。即ち、第一に、人民の多種多樣な政治意志が必ず二種類に分類されるとする假説には全く論理性がないことである。また、第二に、既成の二大政黨が掲げるそれぞれの政治理念のうち、いづれか一つを選擇することが全ての人民の必然的な行動であり、かつ、それが全體の福利を生み出すこととして二者擇一を強制することが當然であるとする傲慢さがある。ある政黨や候補者の掲げる全部の理念と政策を、寸分の相違なく全て贊同し支持する人は稀である。一つや二つは、反対する政黨や對立する候補者の理念や政策を贊同し支持することはよくある。それでもどちらかの政黨や候補者を選らぶことしか選擧民には選擇肢がないといふ實情を全く無視することになる。さらに、第三に、國民による政治選擇の結果として偶然に二大政黨制になつたとしても、その二大政黨の思想及び基本政策が全く異なる場合には、いはば國論が二分して不安定な政治状況となるのであつて、安定政治といふ理想とは程遠いものとなるからである。にもかかはらず、政權交替が随時可能な二大政黨政治を理想であるとする幻想が生まれたのは、イギリスやアメリカなどの二大政黨政治の現状を殊更に過大評價してきたことに由來するのであらう。實際に、數年間單位の周期で政權が交替し、また、「影の内閣」(shadow cabinet)を設置するなど、常に來たるべき政權交替に備えることによつて、各政黨の相互監視状態が生まれ、いはば監察權が相互交換的に機能してゐるのと同樣の機能を果たしてきたからである。しかし、これは、あくまで效用均衡が周期的に實現しうる可能性があるに過ぎないのであつて、本來的な效用均衡が保障されてゐるものではないのである。
いづれにせよ、效用均衡理論による代替效用の設定によつて、實現效用と代替效用との相關關係が生まれるため、經濟學その他の社會科學一般で使用されてゐる選擇理論の基本公理である「無差別曲線(indifference curve)の公理」などを政治學に活用すれば、大衆の政治動向の科學的機能分析が可能となる。
そして、效用均衡理論の導入により、これまでの「參政權」の概念も再構築されることになる。これまでの參政權の概念は、選擧や住民投票などによる實現效用の面だけで語られてきた。しかし、「政治に參加する權利」とは、このやうな政治の意志決定の場面に限られるのではない。政治世界において、どのやうに執行されたのかを監察することも重大な政治參加に他ならないのである。
このやうにして、全ての國民は、多數者も少數者も、それぞれが參政權行使による效用均衡を實現することになるのであるから、このやうな「政治制度の改革」が再優先されるべきものであつて、「選擧制度の改革」は二次的なものに過ぎず、むしろ、それほど重要ではない。「制度疲労」に陷つてゐるのは政治制度そのものであつて選擧制度ではないからである。
この效用均衡理論の具體的實踐については、技術的な見地の考察もふまへて、一定の擬制的取扱ひも必要となるであらうが、實現效用が「代表制」になじむものであれば、代替效用もまた「代表制」になじむものと考へられるので、技術的には、國政選擧、地方選擧及び地方自治における住民直接投票などで「死票」を投じた國民及び「落選議員」により、その監察權を行使しうることになるであらう。いはば、「多數決による執行權」に對する「少數決による監察權」であり、執行權と監察權との「權限別代表制」とも言ふべき制度なのである。
燒き魚方式
次に、「燒き魚方式」から構築される效用均衡理論といふのは、次のとほりである。これは、西郷隆盛の「德と官と相配し功と賞と相對す」(文獻77)と吉田松陰の「其の分かれる所は、僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積もり」(文獻9)といふ二つの至言の意味するところと共通したものがある。
まづ、「德」のある者(人德、忠義の厚い者)を「官」(官僚、政府要人)に任じ、「功」のある者(功績、功業を成した者)に對しては、「賞」(一時的な褒賞)を與へるだけでよく、官職を與へてはならないといふことである。これこそが效用均衡を實現し腐敗を防止するのである。
ところが、現代は、この逆の「功と官と相配し德と賞と相對す」であり、事業で成功した者やタレントなどを政府委員や議員などに登用し、德のある者を單に一時的な褒賞を與へるだけの構造になつてゐる。これこそが不公平を生み政治腐敗の進む元凶である。
「德」とは、「滅私奉公」である。人が嫌がつてやらないことを引き受けてでも守るべきものがあることを分別することである。私益からすれば「損」であり「不利」であることを引き受けて公益を守ることに生き甲斐を感じる心である。
それゆゑ、「官」に任ずる者は薄給でよい。薄給で生活する清貧によつてさらに德が高まる。從つて、官僚中の局長以上の者(番頭)は、それまで累進してきた俸給の半額とし、局長以上の者の德を高める制度的保障がなければならない。もし、それを拒むのであれば、これまで通りの役職(手代)を續ければよい。
アメリカでは、局長以上については、スポイルズ・システム(spoils system)を採用し、政權交代毎に各省廳の局長級は大統領が任命してゐる。これはまさに「獵官制」であり、大統領に媚びを賣ることに長けてゐる失職中の者が突然に局長に採用されることを可能にする制度であるから、まさに獵官、買官の制度である。これは「功と官と相配し」といふことであるからその弊害は顯著である。これに對し、我が國は、キャリア・システム(career system)を採用し、終身職制であるから、政權交代によつて局長級が更迭されることはない。しかし、官僚がその仕事をキャリア(生涯の仕事)と自覺したとしても、それだけでは高い「德」が生まれない。その昔、商家では店主(主人)が番頭に据ゑる者を選ぶについては、主人が多くの手代に長きにわたつて修行させ教育を施し、それぞれの手代の器量を判斷し、その中で人德が高く統率力があり才覺に秀でた手代を番頭株に選んで、さらに修養を積ませて番頭とし、このやうな方法で商家の身代を守つてきた。その德の高さは、ときには主人を上回ることもある。
しかし、キャリア・システムの官僚制にはこれに代はるものがない。局長以上の者の選任を任意に内閣に委ねるとすれば、それはアメリカの獵官制と同じとなつてしまふ。そこで、「德と官と相配し」を實現するだけの何らかの公平、公正な制度が必要となる。それが、「燒き魚方式」による適用例の一つとされる「俸給半減制度」である。これを具體的な制度として完成させるについて、さらに詳細な檢討を必要とするが、ここではその考へ方の骨子を示すこととする。
キャリア・システムであれば、一般には、局長級まで勤めた者には、年齡とともに生活は安定し蓄へもできるはずであるから、俸給が半額になつても大きな影響はない。もし、半額になることで影響があるとすれば、局長に就任することを辭退すればよい。そして、局長以上となる複數の資格者の中から局長以上の役職を志願する者を募り、その中から内閣が審査選定して任命するといふ「志願選定制度」を導入する。かうすれば、獵官制の弊害がなく、また、專門性の維持と機密の保持ができて、しかも、内閣の官僚に對する統制が蘇ることになる。
そもそも、官僚制については、その功罪が相半ばすることがこれまで論じられてきたし、特にその弊害について強調されてきた。そして、その弊害の最たるものは、官僚による政治支配であつた。これは、キャリア・システムにより、官僚は長期に亘つて不變であるが、議院内閣制を支へる政治家は選擧によつて淘汰されて短期に變移するものであることと、内閣には局長以上の人事權が實質的に存在しない(行使し得ない)ことにある。さうして、議院内閣制による行政ではなく、官僚制による行政となつた。行政情報を獨占した專門知識集團である官僚は、その情報と專門知識のない素人の内閣(政治家)を支配する。内閣は官僚の意のままに動く。これを打破するために、スポイルズ・システムも考へられたが、これまで行政經驗のない失職中の素人が局長に就任する自體がまさに買官であり、これでは省廳の事務を掌握できず行政が停滯するなど、その制度のさらなる弊害も懸念されて今日に至つてゐる。
つまり、官僚制と代議制の關係において、立法國家から行政國家へといふ現代政治の傾向は、國會から内閣へ支配權限が移行したといふことではなく、キャリア・システム下の議院内閣制支配は、官僚制支配を必然的に發生させたといふことである。
しかし、效用均衡理論によるこのやうな制度を導入すれば、その弊害は除去できる。そして、そのことを自覺して局長に就任した者(番頭)には、人事權、決裁權その他の權限が付與されることによる「效用の增加」と、俸給の減額による「效用の減少」によつて均衡が生まれ、局長の側近者(手代)には、局長の權限と指示に從ふこといこれまで通りの「低い效用」と局長よりも高い俸給を得てゐるといふ「高い效用」とが均衡する。人には、物欲、權勢欲、名譽欲などがあるが、年功を積むことによつて、これらのすべてを手に入れることができるのが現代である。これが腐敗を生む構造である。物欲を滿たすか、あるいは權勢欲又は名譽欲を滿たすか、といふ二者擇一にすれば、效用の均衡が實現するのである。いはば、「欲望と欲望の均衡」、「欲望と恐怖の均衡」である。そして、このやうにして局長以上になつた者には、「お頭の部分」を配膳された番頭といふ重責を擔ふことの自覺が生まれ、それが高い「德」への昇華を促すに至るのである。
本能論としての效用均衡理論
このやうに、「羊羹方式」と「燒き魚方式」を活用した權限分配原理は、具體的には樣々な分野で應用され、その汎用性は高いものがある。
人は、欲望を滿たせばそれに馴致し、さらなる欲望を求める。物欲、名譽欲、權勢欲、權力欲など、社會的地位を確立して行けば行くほど、その欲望は質も量も際限なく廣がる。しかし、「奢る者は心常に貧し」(譚子化書)といふ諺があるとほり、このやうな方向は、「恆心」を失ふ。そして、前にも述べたが「人ヲ玩ベバ德ヲ失ヒ、物ヲ玩ベバ志ヲ喪フ(玩人失德、玩物喪志)」(書經)といふ言葉もあり、これは「功」の欲望が「德」を失ふ原因となることを説いてゐるのである。つまり、これは、欲望を際限なく追求することが個體の破滅に至ることから、それを抑制するといふ本能の指令があることを意味する。そして、これを抑制し「德」を高めることが、それ以上の「欲望」(快樂)であることをも意味する。つまり、效用均衡理論といふのは、「本能の原理」なのである。「欲望や快樂を求めてはならない。」といふやうな禁欲主義を説いても、それが一部の者に受け入れられるだけで、社會全體としては實現不可能である。欲望や快樂は本能の機能から生まれるものであつて、これを無くすことは生命を絶つに等しい。かと云つて、それを野放しにすることが却つて身の破滅となることも本能に組み込まれた智惠である。本能を善として受け入れ、本能の智惠に學ばねばならない。
第一章で述べたが、集團の秩序を維持するための「權勢本能」と「從屬本能」とを内部分擔し、權勢を得た強者は、從屬した弱者に保護を與へ、弱者は強者に保護を求めるといふ本能の機能は、まさに效用均衡理論で説明ができる。
「欲望の均衡による德性の向上」によつて個體を維持し集團の秩序を維持する機能は個體に備はつた本能であり、このことは、家族、集落、部族、種族、そして、民族、國家及び世界に共通した秩序維持本能の働きである。しかし、本能の機能ではあつても、それを現實的に具體的に實現させるためには、規範を定立して計畫を實施する必要がある。規範を定立するのも秩序維持本能であることは既に述べたとほりである。
ところが、現在までの法制度は、このやうな理念で定立されたものではない。強者の論理でのみ定立され、「靜脈思考」がなかつたためである。それゆゑ、效用の均衡、欲望の均衡といふことが制度として確立されてゐなかつた。稀少な例としては、民法において、選擇債權における「選擇權の移轉」に關する規定(第四百八條)などが存在するだけである。
この效用均衡理論による秩序維持を國家において導入するには、國會議員、省廳官僚、裁判官などのすべての國家公務員のみならず、地方公共團體のすべて地方公務員にも適用されなければならない。そして、そのことは、國家のみならず、民間の會社や團體にもすべてについても同じであつて、そのことが全體としての國家と社會の安定を約束する。極小から極大に至るまでのフラクタル構造(雛形構造)こそが國家の安定した構造であり、それは世界についても同樣である。
