國政監察院の設置
以上の考察によれば、自づと效用均衡理論による「淨化再生のメカニズム」に從つた政治制度の改革を中心とした國家機構の改造が具體的な方策を定めて實施することが必要となつてくる。
以下では、これに關する主な綱要案のみを明らかにしたい。
先づ、何らかの新たな淨化再生機關を創設することは必要であるが、その淨化再生裝置の基本的性能は、政治腐敗事實の「早期發見」、「早期公表」及び「早期是正」でなければならず、前述のやうに、その機關が樞軸權力から派生するものであれば全く意味がない。それは、總務省行政評價局(平成十三年一月の中央省廳再編前は、總務廳行政監察局)の機能とこれまでの實績をみれば一目瞭然である。從つて、效用均衡理論により、全く別の原理と選定母體から抽出されたものでなければならないことになる。
效用均衡理論を應用した「淨化再生裝置」を考案すれば、憲法上の獨立機關として「國政監察院」を設置し、その機關の組織は少數者によつて構成させ、一切の國政作用の執行と財政を監察しうる權限を付與するのである。その人事選定の方法としては、國政選擧において落選した者の中から選出することとし、議院内閣制と對應した制度とすることが一つの考へである。つまり、落選者は、「監察議會」の「監察議員」となつて、複數の國政監察員を選出し、國政監察院を「組閣」するといふ方式が妥當ではないかと考へる。ここでは、やはり「少數者の中の多數者」の選出といふ多數決原理を導入せざるを得ず、多數決原理固有の弊害も生ずるので、それを緩和するために、「累積投票制度」を採用するのがよい。監察議員は、國政監察員の選任者數と同數の投票數を持ち、一人の者にすべての票を投じてもよいし、何人かの者に票を分けて投じてもよい。これは、會社法において、少數株主の代表を取締役として送り込むことができる方式であるが(第三百四十二條參照)、これと同趣旨の方法を採用することによつて、多數決原理の弊害は少なくなるからである。
行政の執行とその足跡である會計とは不可分な關係にあることから、國政監察院は、會計檢査院(帝國憲法第七十二條、占領憲法第九十條)の組織及び權限を兼ねた憲法上の獨立機關として、立法・行政・司法の各權力に對する獨立性を付與し、これらの國政作用の業務執行及び財政管理など國政全般を監察對象とすることが不可缺である。そして、このことは、地方公共團體についても同樣であり、同樣の機關を設置することになる。德川吉宗が導入した「目安箱」の制度も監察の補助として活用すべきである。これらにより、原則として政界及び官界にはびこる殆どの政治腐敗の淨化が實現するであらう。
公平とか公正といふものは、量的には實現しえず、このやうに質的にのみ實現可能である。「少數者」は常に被支配者であり、「多數者」もまた、一部の支配者以外の大部分は全て被支配者であるから、右の淨化再生裝置は、いはば、支配者に對する被支配者の構造的な監視體制であり、官僚による統制(官僚統制、警察統制、全體主義)を抑制し、ある意味では「欲望と恐怖の均衡」による「支配者に對する恐怖政治」を實現することでもある。
國家實力機關の監察
國家權力として正當性を付與された「實力機關」は、現在、警察、檢察、自衞隊などである。しかし、それらの機關の人事權は樞軸權力に歸屬してゐるため、それのみでは、その暴走と腐敗の抑制ができない。それは、監督対象の警察組織が事務局となつてゐるやうな國家公安委員會及び都道府縣公安委員會の實態をみれば明らかである。監督対象の組織から監視されるといふのは、主客轉倒であり、警察組織の「傀儡」以外の何者でもないからである。從つて、前述のとほり、「國政監察院」といふ獨立機關を設けると共に、その下位組織として、「警察委員會」、「檢察委員會」及び「自衞隊委員會」といふ專門機關を設けて監察する必要がある。
ところで、從來、警察を管理する行政委員會の名稱を、素直に「警察委員會」とせずに「公安委員會」と命名したことに、思想性すら讀み取れる。過去の思想警察機能(特高、公安又は保安の機能)を温存させようとする警察權力の意圖があるからである。
ただし、これらの委員會の權限は、現在性のある捜査事件(現在捜査中のもの)には及ばないが、事後的監察は必要である。
裁判所制度の改革
陪審制や裁判員制度など、裁判の世界に多數決原理を導入することは、裁判の堕落と腐敗を招來する。
裁判のみならず、教育、學問も然り。裁判も教育も學問も、眞理の探求にあり、眞理の發見は多數決で決まるものではない。多數決原理は、多數の者が正しいといふのであれば正しいのではないか、との推定を根據とする。つまり、量の多さは質の高さを推定するといふことである。しかし、專門的に探求すべき眞理の殆どは、大衆の喝采で決まるものではない。
殆どの人には蟲齒がある。ならば、蟲齒がある多數の人の状態が人として本來的に正しい姿なのか。これを肯定するのが多數決である。眞理は、先見の少數者に宿ることも多い。「眞實を語る者は常に少數である」といふ言葉もある。孔子、シッダールタ、イエス、ムハンマドなども、少數者として多數者からは受け入れられず、それでも眞理を説いた。ローマの法律に背いてまでイエスを磔にしたのも多數決によるものである。
このやうに、多數決原理は、決定手續の公平性は保障されても結果の正當性、妥當性は保障されない。「最大多數の最大幸福」といふスローガンで幸福(快樂)の計量可能性を説く功利主義(ベンサム)や、正しい選擇に到達すること(質の問題)が多數決(量の問題)で解決できるとする確率論(コンドルセ)では説明することが到底不可能である。古來から聖者による統治が理想とされ、この統治原理が裁判と學問の世界でこれまで生き延びてきた。裁判官(專門家)による裁判といふ司法制度は、民主主義に對する本質的な「懷疑」が根底にあるからである。專門家でない者が集まつて審議を盡くしても、專門家が到達する結論には到達できるはずがなく、專門家でなければ結果の正當性、妥當性を保障できないとの思想である。これは、學問と似てゐる。學問的な眞理は、學問的に素人の者の多數決では到達できないことを經驗的に認識して實踐してきたからこそ、今日の學問的な成果があるのである。
現在、世界各國で裁判のあり方が問はれ、問題點が指摘されてゐる根本の原因は、このやうな專門家による裁判といふ制度に問題があるのではなく、裁判官の資質の低下にある。專門家として成熟してゐない者が裁判官になることによつて、裁判官の資質が低下してゐることが問題なのに、その資質をさらに低下させる多數決原理を導入するのは本末轉倒である。これは裁判官の任用制度や養成制度の缺陷であつて、專門家の裁判官による裁判制度の缺陷ではない。
多數決原理による裁判といふのは、誤判の責任を免責させるためのものである。まさに「人民裁判」であり、その弊害は誤判の增大と不當判決の增産である。「赤信號、みんなで渡れば怖くない」といふ無責任の制度化である。裁判官全員の責任とか連帶責任といふのは、誰一人責任を問はれないシステムのことである。裁判官は、これによつて誤判の責任を問はれないことになり、さらに資質が低下する。陪審制又は參審制による素人の裁判官に資質の高さを求めることはできないため、素人のなす誤判と不當判決といふ批判を回避する必要から、匿名制と無問責制によることになる。そして、その制度保障に對する甘えもあつて、尚更のこと審判の精度は低くなり、誤判と不當判決が擴大再生産される。そして、これが裁判制度に對する拭ひ切れない不信を增幅させ、裁判制度の根幹を搖るがすことになるのである。
では、裁判官の資質の低下を止め、一層その資質を向上させるためには、どうすればよいのか。それは、やはり效用均衡理論による制度を導入することである。
占領憲法第六十四條は、「國會は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、兩議院の議員で組織する彈劾裁判所を設ける。彈劾に關する事項は、法律でこれを定める。」とし、同第七十八條には、「裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の彈劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒處分は、行政機關がこれを行ふことはできない。」と定め、これに基づいて、國會法及び裁判官彈劾法により、裁判官彈劾裁判所が設置されてゐるが、實質的には全く機能してゐない。
裁判官が、強引な訴訟指揮を行ひ、實質的な審理をせず、著しい誤判を行ひ、判決書に思想偏向した政治的餘事記載や傍論判斷を書き入れるなどしても、現行の制度では實際的には責任を問はれない。身分保障によつて權勢欲と物欲を滿たすだけで、「背德」を抑制して高い「德」へ昇華させるための制度力がない。個々の裁判官の努力と研鑽に期待するだけでは無理がある。欲望と恐怖の均衡による高い德への昇華を保障する制度がないのである。これが資質が低下する最大かつ根本的な原因となつてゐる。
司法制度は臣民の生活と直結してゐるにもかかはらず、その裁判官の彈劾制度は、臣民からはあまりにも遠くにある。いはば、司法裁判は直接制、彈劾裁判は間接制である。この不均衡が、制度的な意味で裁判官の「德」の向上を阻害してゐる。從つて、彈劾裁判を直接制にすること、つまり、彈劾裁判所を司法裁判所と同樣に臣民が直接に提訴できる制度とすべきである。これによつて、「欲望と恐怖の均衡」が保てる。裁判官に採用された者は、司法裁判所の裁判官か彈劾裁判所の裁判官か、いづれかの裁判官になることを選擇させる。そして、選擇後もその間の移動は完全に自由にさせる。これによつて裁判官の切磋琢磨による相互監視制度が確立することになる。
また、占領憲法第七十六條第二項前段には、「特別裁判所は、これを設置することができない。」とあるが、特別裁判所は、この彈劾裁判所を含めて必要である。軍の綱紀肅正と機密保持のためには、軍刑法といふ特別刑法を嚴格に執行するための軍法會議といふ特別裁判所が不可缺である。現行の司法裁判所は、具體的な法律紛爭がなければ司法權の範圍に屬しないとする「爭訟性」の要件(裁判所法第三條)や當事者適格の要件などによつて、司法自らがその權限を制限して自縛し續けるが、これを緩和ないしは廢止しなければ、「法の番人」にはほど遠い存在であり續けることになる。利害關係や法律紛爭の當事者ではない者であつても、法律の規定や行政の執行などが正統憲法に違反するか否かの判斷を誰でもが求めることのできる「憲法裁判所」など、「爭訟性」などを要件としない特別裁判所の設置は、權力分立制によつて權力間の抑制と均衡を實現しようとした制度目的からしても、どうしても必要となつてくるのである。
爭訟性などの要件によつて自ら權限を縮小させ、統治行爲論によつてさらに縮小させて國家統治の裁判機能を限定した司法の現状は、まるで「蛸壺」状態である。蛸壺の外で起こつてゐる國家活動の領域に對して一切關與しないし、また、できないのである。本來ならばすべての國家活動を裁判の守備範圍としなければならないにもかかはらず、蛸壺の外の領域の問題については見て見ぬふりをして自己の權益を守ることを「司法の獨立」だとか「司法消極主義」と云つて自己滿足してゐる。この「司法の獨立」は、まさに「統帥權の獨立」を彷彿とさせる。統帥權の獨立は、積極的な意味での權限の濫用(作爲の濫用)であつたのに對し、司法の獨立とは、消極的な意味での權限の濫用(不作爲の濫用)であり、どちらも權限の濫用をすることに變はりはない。權限を濫用する者は、「○○の獨立」といふ胡散臭い常套文句を使ふ。物議をかもすことを回避することが自己の權益を守ることなのである。
また、訴訟構造においては、「訴追機關」の訴訟提起によつて「裁判機關」による訴訟手續がなされる「彈劾主義」(訴追主義)が堅持されるべきである。ところが、實際は、裁判機關が訴追機關を兼ねて自ら訴訟手續を開始するといふ「糾問主義」に限りなく近づいた運用がなされてゐるといふ問題がある。この彈劾主義と糾問主義の相違といふのは、一言で言へば、裁判を受ける當事者と裁判を行ふ裁判官とが完全に獨立した存在であるか否かといふ點にある。ところが、裁判官(判事)と檢察官(檢事)が相互に配轉人事されることによる裁判所、檢察廳、法務省の人事交流(いはゆる判檢交流)の蔓延化や、刑事事件における裁判官と檢察官とのマン・ツー・マン制が採られてゐることによつて、行政事件と刑事事件などは、極めて糾問主義に實質的に近づいてゐると言へる。つまり、行政事件において、國(被告)の訴訟代理人となる訟務檢事の地位と行政事件の裁判官の地位とが人事交流によつて相互に入れ替はつてゐることや、全國の裁判所と檢察廳の運營實態において、裁判所刑事部の特定の裁判官が行ふ裁判には通常はいつも特定の檢察官が配屬され、同じ裁判官と檢察官とのコンビで刑事事件が審理されてゐるといふ事態は、行政事件の原告敗訴率の高さと刑事事件の有罪率の高さと無關係ではないのである。
つまり、裁判所と檢察廳は、司法官僚としての一體性を強化し、その弊害が擴大して裁判を歪め續けてゐるのであつて、この伏魔殿の構造を解體して裁判制度を再生させるためには、效用均衡理論に基づく制度改革しかあり得ないのである。
このことは、裁判制度に限らず、臣民の重大な權利の喪失や義務の負荷に關する行政處分についても彈劾主義が徹底されるべきである。迅速性が求められる事象においては、この例外もありうるが、その場合でも、前述した國政監察院の審査の対象となることは當然のことである。
一般的罷免制度の確立
このやうな、效用均衡理論による國家組織についての制度改革が必要であることは云ふまでもないが、これに加へて、個々の公務員についての選定罷免權(帝國憲法第十條、占領憲法第十五條)の行使態樣についても根本的に改革しなければならない。ただし、選定罷免權(任免權)は、大權事項(帝國憲法第十條)であるが、委任に馴染むものであることから、すべてが親裁によらなければならないものではない。それゆゑ、以下においては、任免の委任が可能で不親裁が許される一般の公務員について述べてみたい。
先づ、選定權については、議會の議員など選擧によつて選定(任命)されるべき場合は、任免大權が選擧制度に基づく選擧民に委任されてゐるのであるから、それによつて行使されることになる。しかし、選擧制度の持つ固有の性質と制約があるため、その權限の行使(投票)における任免の意志決定は相對的にならざるをえない。たとへば、現行の制度においては、国會議員の選擧區選擧では、選ぶ者も選ばれる者も同一の選擧區の者であつて、選擧民は同じ選擧區の立候補者群の中からしか選定しえないのであり、「越境投票」ができないことになつてゐる。しかし、國民代表制の趣旨からすると、どの選擧區から選定されても國民全體の代表となるといふ國民代表制を採つてゐることからすると、これを全面的に禁止しなければならない理由はなく、選擧制度工學的にこれを可能にする方向で檢討されるべきである。なぜならば、參政權の閉塞的情況について前述したとほり、投票における選擇肢の擴大は參政權の保障をより充實させることになるからである。
また、選擧制度によらない選定の場合は、その選定權を特定の公務員だけに委ねてはならない。選定の權限を有する合議體(選定委員會)を組織し、その構成員(委員)は獨自の選擧によつて選出するか、民間人や公務員の中から内閣(又は首長)が複數の者を推薦し、その推薦者の中から、議會が累積投票によつて一定の員數の委員を選定する方法がよい。勿論、この選定委員會の事後監察も國政観察院が行ふことになる。これもまた、效用均衡理論の應用と云へる。
これに對し、罷免權の行使(リコール)における意志決定は絶對的なものである。つまり、罷免とは、具體的な何らかの不正理由により特定の者に向けられるものであつて、數人の中から比較對照的に選出するといふ性質のものではないからである。從つて、少なくとも權力を分掌する全ての主要な公務員(國會議員、官僚、裁判官など)の「罷免」については直接制(リコール制)を導入する必要がある。古代ギリシアのオストラシズム(陶片追放)も參考になる。これについても、「支配者に對する恐怖政治」を實現させることが、有效な「淨化再生裝置」として機能しうるからである。
占領憲法第十五條第一項には、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、國民固有の權利である。」とし、同第二項には、「すべて公務員は、全體の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」と規定するものの、この規定については、國民主權の理念を表現したものであつて、「一部の奉仕者」となつて行動した公務員などを罷免することができる法律を制定する立法義務までを負ふものではないと解釋するのが一般である。しかし、これでは、欲望と恐怖の均衡は實現できない。それゆゑ、裁判官の彈劾裁判所と同樣に、公務員のすべてについて、公務員懲罰制度、公務員解雇請求、有責公務員に對する賠償請求の代表訴訟制度、臣民からの議會などに對する罷免請求、臣民から彈劾裁判所へ裁判官罷免請求訴訟などが提起できる制度を導入することが必要となる。
法律の留保
法の支配の理念と法治主義との相違については前述したが、效用均衡理論に基づく制度の導入に關して、法治主義との關連で、「法律の留保」について是非とも述べておきたい。
この「法律の留保」には二義あり、①法律に基づく行政といふ意味と、②人權制約の法律主義といふ意味とがある。「法律があれば權利を制限できる」といふことは「法律がなければ權利は制限できない」といふことである。
①は、本來の法治主義の意味であるから、さほど議論はないのに對し、②については議論が盛んである。なぜならば、帝國憲法の人權條項がこの法律の留保を定めてゐる場合が多いからである。
具體的に指摘すれば、「法律ノ定ムル所ニ依ル」(第十八條、第二十七條)、「法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ應シ均ク」(第十九條)、「法律ノ定ムル所ニ從ヒ」(第二十條、第二十一條)、「法律ノ範圍内ニ於テ」(第二十二條)、「法律ニ依ルニ非スシテ」(第二十三條)、「法律ニ定メタル(場合)」(第二十四條、第二十五條、第二十六條)、「法律ノ範圍内ニ於テ」(第二十九條)、「別ニ定ムル所ノ規程ニ從ヒ」(第三十條)、「法令又ハ紀律ニ牴觸セサルモノニ限リ」(第三十二條)といふ表現である。
このやうな「法律の留保」による規制方式に対する批判としては、法律によつていくらでも制約できるから人權保障が弱いとする見解がある。しかし、この見解は、多くは國民主權論者から主張されてゐるが、國民主權からすると議會で制定される「法律」もまた國民主權主義に悖ることはないはずであつて、法律に對する懷疑は、國民主權への懷疑と直結することになつて、大きな矛盾が出てくるのである。前に述べた立憲主義と國民主權主義の矛盾と同じ隘路に迷ふことになる。むしろ、人權事項の詳細について法律が定められないとすれば、當然に行政裁量等が擴大し、いきなり行政處分による人權侵害が生まれることに對して無力となる。
つまり、「法律の留保」を懷疑する見解は、占領憲法では、この「法律の留保」を認めずに、これに代へて「公共の福祉」による制限を設けたことについて肯定的に評價するのであるが、「公共の福祉」といふやうな抽象的で不明確な「一般原理」による規制方式にこそ重大な缺陷があることに氣づいてゐないのである。
占領憲法第十三條後段には、「生命、自由及び幸福追求に對する國民の權利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の國政の上で、最大の尊重を必要とする。」として、人權全般の制約原理として「公共の福祉」を掲げてゐるが、占領憲法は、この「公共の福祉」とは何かといふことについて、何ら規定せずに沈黙してゐる。これは、「地方自治の本旨」(第九十二條)と同樣に、抽象的な用語であり、一義的にその内容が確定してゐるものでないことから、このやうな「一般原理(一般條項)」の解釋については、他の國家機關に委ねざるを得なくなる。その國家機關が國の立法機關であるときは、「法律」によつて具體的な解釋がなされることになるから、「法律の留保」と同じであり、國の立法機關に「公共の福祉」の解釋權を委任することになる。しかし、これだけに留まらずに、行政機關、地方機關などにまでその解釋權を附與してしまふのが、この「公共の福祉」による規制方式なのである。法律によることなく、行政機關などが獨自に憲法解釋をして行政處分を行ひ、これによつて人權規制が可能となる制度が「公共の福祉」によ規制方式といふことである。最終的には司法機關がその適否を判斷するとしても、國の立法機關以外によつて規制することを積極的に認めようとするのがこの「公共の福祉」規制方式の正體に他ならない。
この「公共の福祉」といふ抽象的概念の解釋については、公共の福祉によつて人權が規制されないとする人權絶對説と、規制しうるとする人權制約説とがあり、また、規制される場合における規制原理にも樣々な見解がある。「公共の福祉」といふ規制原理が人權の性質としてこれに内在するためであるとしたり(内在的制約説)、さうではなく「公共の福祉」といふのは外在的な規制原理であるとして個々の場面において人權が規制されることがあるとしたり(外在的制約説)、さらには、人權を精神的自由と經濟的自由の領域に區分して規制態樣に二重基準を認めたり(二重基準説)、規制されるのは「人權と人權の衝突」の場面に限るとしたりするのである(私權調整説)。このやうに、「公共の福祉」の解釋について議論百出すること自體が、まさに、この概念の危ふさ、いかがはしさを示してゐることになる。
そして、最終的に事後的な判斷をなす司法としては、争訟解決の一般原理である「利益衡量論」といふ一般原理を持ち出さざるを得ない。つまり、「公共の福祉」といふ一般原理を個別的な事案に具體的に解釋することは不可能であることから、それを直接に解釋することを放棄して、「利益衡量論」といふ争訟解決のための一般原理に逃げ込まざるを得なくなるのである。
從つて、このことからすれば、占領憲法が憲法として有效であるとする立場であつても、占領憲法は、「公共の福祉」の概念を明確かつ具體的に定義せず、その解釋權を權力側に白紙委任したことにより、帝國憲法の人權保障を空洞化させてしまつたとの結論に至らざるを得ないことになる。ところが、占領憲法を憲法として有效であると熱烈に支持する有效論者は、この大いなる矛盾を國民に悟られまいとして、帝國憲法よりも占領憲法の方が格段に人權保障が充實してゐるなどと詭辯を弄して素人を騙し續ける。そして、「利益衡量論」で用ゐられる「漠然性の故に無效の理論」、「合憲性推定排除の理論」、「精神的自由権の優越的地位の理論(Thornhill Doctrine)」、「擧證責任轉換の理論」、「明白かつ現在の危険(clear and present danger)の理論」、「事前抑制排除の理論」、「表現と行動の分離の理論」、「より制限的でない他の選びうる手段(Less Restrictive Alternative)の基準(LRA基準)」などは、占領憲法ならではの基準であつて、帝國憲法とは無縁のものであるかが如く喧傳するが、實はさうではない。これらの基準は、個別的な人權侵害を事後的に救濟する司法の機能のみに委ねるだけではなく、一般人が何らかの行爲するに際して、何が許されるのかを明示し(ホワイト・リスト)、何が許されないのかを明示すること(ブラック・リスト)によつて、一般人をして不測の事態を回避させ、豫測性を高めるためのものである。この基準に從つて「法律」を制定するためのものであつて、これによつて法律が制定されることによつて、臣民は、何が許され、何が許されないかといふことの豫測ができることになり、法律にも依らずに行政機關などによる恣意的な規制を排除することができるのである。それゆゑ、帝國憲法の「法律の留保」による具體的な規制方式の方が占領憲法の「公共の福祉」による抽象的な規制方式よりも格段に人權保障が厚いことは明らかなのであつて、これらの基準は、帝國憲法においてこそ、その眞價が發揮されることになるのである。
ましてや、占領憲法の人權條項といふのは、あくまでも國家と國民との關係であつて、國民相互間(私人相互間)での弱者に對する權利侵害については直接に憲法の適用がなく、民法の權利濫用、信義誠實の原則(信義則)、公序良俗などの一般條項(第一條、第九十條)を經由して間接的にしか適用がないとする間接效力説が一般であることからして、實質的に人權が保障されうる範圍が極めて限定されてゐるので、この種の議論をすることの實益が乏しいのである。私人間の契約、團體の定款、就業規則などにおける權利侵害があるとしても、それを民法の一般條項等に委ねてゐるために、現代社會において主要な部分を占める私人相互間における人權侵害については、占領憲法は全く役に立たないといふことである。「人權と人權の衝突」の場面を調整して、いづれかの人權を規制するのが公共の福祉といふ規制原理であるとする見解があることは前に述べたが、これによると、私人間の権利侵害についても占領憲法が直接に適用されることになるはずであるが(直接效力説)、そのやうな見解といへども、この結論を認めずに間接效力説に甘んじてゐる。なぜならば、特定の私人間の権利侵害があり争訟が起こることを想定して裁判制度が設けてゐるのであるから、「人權と人權の衝突」を調整する規制原理としての「公共の福祉」とは裁判制度を意味することとなつてしまふからである。
これに対し、帝國憲法の「法律の留保」の場合は、その授權された法律の守備範圍を「私人間の法律關係」にまで擴張して憲法保障を充實させることは可能である。否、むしろ、これを擴張することが現代では求められてゐるのである。それゆゑ、占領憲法には到底不可能なことが、帝國憲法であればこそ現在の時代の要請に十二分に應へることができる。
ところで、帝國憲法の法律の留保については、次の二箇條についてさらに補足して説明することが必要である。それは、第二十九條と第三十一條である。
まづ、信教の自由について、第二十八條は、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めてゐる。これは、「法律の留保」に關する表現がないものの、帝國憲法に貫かれてゐる法治主義の原理からしても、法律の留保による規制方式であることに全く疑問はない。むしろ、この規定は、法律の留保について、注意的に規制原理を憲法上で明示したことに重大な意義がある。「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」とは、一言で云へば、規範國體に違背しない限りといふことであるから當然のことである。しかし、占領憲法に基づく現行の宗教法人法第八十一條第一項には、宗教法人が「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたとき」(同項第一號)などを解散命令の事由として定めてゐる。これは、占領憲法では、宗教法人ひいては宗教團體に對する規制を憲法事項とせず、単に法律事項としてゐるのに對し、帝國憲法では、この規制を嚴格に憲法事項とした點において、帝國憲法の方が格段に憲法保障が充實してゐるものと評價できるのである。
次に、帝國憲法三十一條には、「本章ニ掲ケタル條規ハ戰時又ハ國家事變ノ場合ニ於テ天皇大權ノ施行ヲ妨クルコトナシ」とあり、これは、前述したとほり、いはゆる非常大權に關するものとして議論されてきた條文である。前章でも述べたが、およそ憲法に定める權利條項といふのは、原則として「平時」のときに適用があるものであつて、明文規定がなくても、常に「ただし、戰時や災害などの國家緊急事態の場合はこの限りではない。」といふ限定があるものと解釋されてゐるのである。帝國憲法の場合は、これをこの條文によつて明記してゐるのであるが、軍事占領下の非獨立時に制定された占領憲法には、このやうな當然の規定を設けなかつた。否、設けられなかつたのである。これを明記すれば、その當時が「戰爭状態」であつたことから、全ての人權條項は原則として「停止」されてゐると占領憲法の「第十一章 補則」に明記しなければならなかつたからである。つまり、このことを國民を騙す必要があつたから、どうしても明記されなかつたといふことである。
以上のことからして、帝國憲法の復元後になされる人權規定の檢討においては、效用均衡理論に基づく制度の導入のために、法律の留保を全面的に肯定し、そのきめ細やかな規定を設けることが必要となるのである。
議會制度と内閣制度
占領憲法の議院内閣制を運用することは、帝國憲法に違反するものではない。帝國議會において内閣總理大臣に指名された者に大命降下されることは、立憲主義的運用として當然に認められるもので、戰前においても同樣であつた。
しかし、現行の選擧制度での議員は、議員になりたい人の中から抽出された立候補制であり、議員にならせたい人を抽出する制度ではない。制度の本質からして、德のある者を選別する制度ではないのである。知名度があることと德性が高いこととは別問題である。知名度とは、メディアに便乘した「功」があるに過ぎない。しかし、これまで述べてきた參政權の閉塞的情況が解消され、效用均衡理論による效用の均衡が實現していけば、自づと德のある人を選別できる機能が高まつてくる。
また、二院制を維持するとして、缺損機關である貴族院の代替機關として現在の參議院を認めるとしても、現在の參議院は衆議院と同樣の選擧による議員抽出制度であることからして、衆議院との獨自性を維持することは困難である。衆議院は人口比例代表とし、參議院は、地域代表制、産業代表制ないしは職能代表制などを採用して、廣範で多樣な國民の意志が反映される制度とすべきである。そして、試案としては、衆議院とは異なり、參議院においては、政黨政治を排除する必要がある。政黨所屬議員が進出できる領域は、衆議院だけに限定し、參議院、地方議會及び首長の選擧からは政黨を排除する。政黨が候補者に對し推薦や支持を表明することも禁止する。いはゆる支持政黨を持たない選擧民がどの既成政黨の支持率よりも多い現状からすれば、支持政黨のない者や支持政黨はあつても特定の事項についてその支持政黨とは意思を異にする者の政治意思を實現しうる選擧制度がなければならないのである。
これまで述べてきたとほり、政黨は、いまや國民が議會への意思を忠實に反映するについて、妨害となつてゐる面があることを否定できない。參議院が衆議院のカーボンコピーと化し、二院制の本來的機能を否定してしまつたのである。このやうな政黨政治の弊害を除去するためには、政黨自體を否定するのではなく、その機能領域を限定縮小することによつて矛盾の擴大を防ぐことになる。
また、これ以外に政黨のもたらした弊害としては「黨議拘束」がある。票決における黨議拘束は、國民代表制を否定するもので、議員は國民代表として國民全體の奉仕者となるのではなく政黨の奉仕者(從屬者)となるからである。そもそも、票決における黨議拘束とその違反者に對する制裁について、黨内民主主義によつて決定する手續がなされない政黨は、國民と議會との導管的機能のない政黨であるから、少なくとも公費助成は打ち切るべきである。
ところで、國政における現在の議院内閣制の運用を見ると、内閣に法案提出權(發議權)を認めてゐる。これは、内閣に法案提出權を認めることが議院内閣制の根幹であるとする見解によるものであつて、これによつて立法と行政との有機的關連と一貫性を實現することになると説かれてきた。しかし、現實は、内閣自體の法案策定能力がないことから、官僚がこれを行ふことになつて、實際は官僚に法案提出權を與へたに等しくなつたゐる。官僚に法案の策定を委ねることは、「全體の奉仕者」が「全體の支配者」となることを意味する。官僚は自己に都合の良い法案を策定し、これを内閣に實現させる。「國の將に亡びんとするや、必ず制多し。」(左傳)と云ふが、官僚は自己の權益を守るため、次々と法令を增産し國の活動を多く制限して行く。これが繰り返されることにより、官僚によつて内閣を支配する「官僚的内閣制度」が確立されるに至つた。これが官僚制による弊害の元凶となつてゐる。
それゆゑ、このやうな弊害を除去するためには、内閣の法案提出權を否定し、議員のみに法案提出權を認める制度(議員立法制度)に徹する必要がある。これによつて、權力の抑制と均衡が圖られ、議會が立法機關であるとする本來の姿を取り戻すことができる。
また、このやうな内閣の官僚依存體質は、豫算編成において特に顯著であつて、現状では、内閣には實質的な豫算編成能力がなく、これも全て官僚に委ねられてゐる。本來ならば、内閣が豫算大綱を決定し、その細目と積算等を官僚に指示するといふものでなければならない。イギリスなどでは、これらの官僚支配による弊害を除去するために、政治家と官僚との接觸を原則として禁止するが、本來の目的は、官僚依存體質の弊害を除去することであつて、接觸の禁止といふ形式にあるのではない。むしろ、これからの課題は、議員の法案策定能力をどのやうにして向上させるか、内閣の豫算編成能力をどのやうにして高めるのかといふことにある。
それゆゑ、これらについても、やはり公用均衡理論に基づき、議員以外の臣民にも一定の要件(相當數の提案贊同者、立法事實や提案趣旨の明確化、法文骨子の確定など)の下に、直接的に法案提出權を認める制度を導入する必要がある。臣民には、請願權(帝國憲法第三十條、占領憲法第十六條)があり、立法請願もできるが、これはあくまでも請願であつて法案提出ではない。政治參加の直接制か間接制かといふ議論は、住民投票とか國民投票など立法の最終段階における贊否の表明以前に、その立法過程に參加できるか否かに力點が置かれなければならないのである。
このやうに、選擧權を有する臣民が議員に賴ることなく直接に立法提案ができることになれば、議員になりたい者は、それ以上の自己研鑽を積まなければ、選擧民の支持を得た議員の地位を維持することができなくなる。そこに議員の德の向上が期待できるからである。
選擧制度
現行の選擧制度のうち、選擧權については、選擧權取得年齢を定めた一人一票制の普通選擧制度がとられてゐる。人は、ある年齢までは選擧權がなく、選擧權を取得すると一人一票は終身變はらない。制限選擧制の場合は、性別、財産、納税額、教育などの一定の資格で選擧權が與へられたが、普通選擧制になると、これらの資格が撤廢され、一律に「一人一票制」となつた。これが選擧における平等を實現するものであるとの思想によつて支持され、占領憲法でも、「成年者による普通選擧」(第十五條第三項)としてゐる。しかし、これが實質的公平と云へるのか。成年者となつたばかりの者と、それから多くの社會經驗を積み重ねてきた者との政治判斷の價値が同じであるのか。自己の政治判斷の價値と他人の政治判斷の價値とを單純に比較することはできないとしても、自己の過去における政治判斷と現在における政治判斷とは比較できる。自己研鑽を繼續してきた結果からして、現在の政治判斷が過去の政治判斷よりも勝つてゐるはずである。ところが、自己の一票は過去から現在まで同じで、票数が增えることがない。それどころか、過去から現在までに、自己と同じく成年者となつて選擧權を取得した者が增えてゐることからして、自己の有してゐた一票の價値は相對的に低下する。
つまり、ある人が成年者となつたときには、その人を含めて百人の選擧權者が居たとしよう。ところが、その三十年後には選擧權者が二百人となつたとすれば、その人の選擧權の價値は二分の一に減少するのである。しかも、その人からすれば、選擧權を取得したばかりの時期よりも、より高い見識で選擧權を行使するのであるから、その人の選擧權の價値は高まつてゐるはずなのに、逆に選擧權の價値が減少するのである。政治的見識に進歩があるのに、その進歩に對應する選擧權が認められないことは、人が年齢とともに政治的に成熟して行くことを完全に否定することになる。
ましてや、未成年者には選擧權がなく、成年者になれば突然に選擧權が附與され、それ以後は終身「一人一票制」といふ同じ選擧權しか認められないといふのも、極めて素朴な嫌惡感を抱く制度である。
それゆゑ、結論的には、「一人年齢票制」にして實質的公平を實現すべきである。年齢を重ねるごとにその人の票數が增え、年齢數と同じ票數を選擧ごとに一括投票する制度にするのである。そして、未成年者にもその年齢に應じた選擧權を附與し、それを親權者が代理投票することができるものとすべきである。政治は、未成年者にも影響を及ぼし、未成年者もその支配に服することになるものならず、未成年者は、次代を擔ふ者であつて、その未成年者を養育監護する親權者には、より多くの政治的發言權を認めるべきである。次代を擔ふ未成年者を生み育てる者と、未成年者を生み育ててゐない者とを政治的に同列に論じてはならないのである。
そして、この一人年齢票制の技術的な運用についても、滿年齢によると各人の生年月日ごとに票數が一票増えることになるので、運用上の支障と煩雜さが拭へない。そこで、前に述べたとほり、傳統に回歸して、數へ年を導入することになる。誰もが生まれたときに一歳であり、年が變はれば一歳年を取る。それで選擧民登録の煩雜さは解消できると同時に、生まれた者は、一歳であつて零歳ではないので、生まれたときから一票の選擧權を有し、それを親權者が代理行使することになる。ただし、現行制度のやうな共同親權を前提とすると、代理行使する者を定める制度が必要となつてくるが、家族制度が復活して行く過程において、戸主制度などの復活も視野に入れながら、代理行使の態樣も檢討されることになる。
この一人年齢投票制は、いはば年寄りの意見が尊重される制度であり、若年者の無知による横暴と暴走を防いで政治を安定させ、祭祀の復活などと連動して傳統的な保守政治が實現するのである。
その他の制度
その他の淨化裝置としては、平安初期の桓武天皇の時代に令外官として設置された「勘解由使」の制度も參考となる。勘解由使(かげゆし)とは、令外官(りゃうげのくわん)として設置された職制であり、國司の交替に立ち會つて、新任者が前任者の職務に不正がなかつたことを證明して發給する「解由状」(げゆじゃう)を調査したのである。これと同樣に、官僚が職務上の地位を後任者に引繼ぐ場合、その引繼がれた前任者の職務執行に不正がなかつたか否かを效用均衡理論に基づく監察者が業務監査をして確認する制度が必要となる。もし、これが有效に機能してゐれば、昨今の「消えた年金」などの社會保險廳の不正は相當程度防止できたはずである。
また、このやうな國家に仇をなす公務員の不正行爲やスパイ(間諜)行爲などについては嚴罰主義を以て處斷し、これらとの關連で、一般的な公務員賠償制度の導入が必要となる。公務員を法的責任の面で特別待遇することなく、民間人以上の刑事、民事上の責任を課し、違法や不正があつた場合には、國家機關が當該公務員に賠償請求をなし、又は國家機關がそれを怠るときは、臣民からの代表訴訟が提起でき、さらに、臣民が直接に被つた損害に對しても、國家機關に對する請求とともに、現行の制度を改正して、當該公務員にも賠償請求が行へることを認めなければならない。
そして、公務員の退職金の支給時期については、これらの違法や不正がなかつたことが業務監査の結果で證明された後でなければならない。
これらの制度改革の實效性を維持するために必要なことは、「官僚の天下り」を全面的に禁止することが前提となる。「官僚の天下り」の「天下り」といふ言葉は、そもそも官尊民卑の支配感覺によるものであつて、この天下りによつて、社會構造や經濟活動の硬直化と序列化を生み出し、企業經濟活動における政官財の癒着による不正の温床となることが實證されてゐるからである。
また、國家の單年度制の豫算制度を廢止し、複式簿記の採用による多年度制の繼續會計に移行しなければならない。單年度制の單式簿記による豫算制度では、年度内に豫算を全額消費することが「有能」であると官僚内部では評價されるといふ不條理な制度の温床となつてゐるからである。
單年度制が豫算制度として定着した理由については、いくつかの見解があるが、次年度への繰り越しを原則として認めないためである。議會の議員は、任期制であるから、單年度制であつても繰り越し處理が無制限に認められたり、複年度制になると、その後に選任された議員による議會の審議權を奪ふことになるからである。これは、ある意味で國民主權主義によるものではあるが、比較的正常な運用形態でもあつた。これによつて、子孫に借金を繰り越して負擔させるといふことをある程度防げる機能があつたからである。ところが、現在では、繰り越し處理を原則化し、子孫に借金を押し付ける國民主權主義の本領を發揮し續けてゐる。それゆゑ、單年度制の豫算制度を廢止するまでの經過措置として、債務の繰り越しと赤字國債等の發行を原則として禁止しなければならない。
かくして、國家統治の全領域について、信賞必罰制度の導入し、財政赤字の刑事上、民事上の責任を嚴格に追及して解決への道筋を示し、人事管理についても、「德と官と相配し功と賞と相對す」といふ西郷南洲遺訓の理念による效用均衡理論に基づく制度の導入を實施しなければならない。
そして、これら樣々な國家機構改造を行ひ、我が國と世界に平和で豊かな社會を實現するためには、次章で述べるとほり、效用均衡理論のみならず、第一章から本章までで説いた理論を統合した自立再生論に基づくことになる。この自立再生論は、社會科學における「大統一理論」(統一場理論)である。自然科學においても、量子色力學と電弱理論などを統一的に記述する理論の構築が試みられてゐるのと同じやうに、社會科學の分野においても、法學、憲法學、國法學、政治學、經濟學、社會學、社會心理學、教育學、歴史學、民族學、哲學、宗教學などを統一的に貫いて記述できる理論である。
つまり、直觀と論理、本能論と理性論、家族主義と個人主義、祭祀と宗教、國體論と主權論といふ對立した雛形構造の振動的平衡を見定めて、擴散から収束へと向かふ祭祀生活の社會を實現することが、我が國と世界全體の安定と平和をもたらすのである。

