地球の再生能力の限界
振り返つて我が國と世界の現状を考察するに、今や國の内外における政策の行き詰まりや矛盾が山積みされてゐる。一つの問題を解決するために小手先の付け燒き刃的政策を行ひ、そのために却つて多くの問題が發生するといふやうな、イタチごつこの有樣である。このやうな混迷の原因は、「政策」の誤りだけでなく、その根本となる「思想」の誤謬にある。「現代は政策の時代であつて思想の時代は終はつた」との巷の喧傳は流言蜚語の妄想にすぎない。現代は政策繁多な時代ではあるが、逆に、それらを制御統制する明確な思想が缺如してゐる時代なのである。そして、聞こえはよいが實現性のない空想論や建て前論、提唱者自身ですら自己規律しえないやうな精神論だけが賑やいでゐる。今こそ、日本を救ひ、世界を救ふための世界思想が確立し實踐されない限り、このままでは、日本はおろか世界や地球に未來はない。
これまでに起こつた大規模な異常氣象や天變地異は、生活環境の變化と食料の缺乏などから、國家の滅亡、民族大移動、内亂、革命、戰爭などの異變をもたらしてきた。平和時に構築された法體系は、そのときには役に立たず、喧しく主張されてきた自由と人權は空文化し、實定法の脆さを實感してきたのが人類の歴史である。これからも、想像を絶する「變局時」に遭遇する危險は益々高まつてきた。現在、國境や地勢地形區分を越え、人種・民族・宗教の區別なく、地球規模で生態系環境の汚染と破壞が進行し、それが近宇宙にまで擴散してゐる。成層圈の異變(フロン、ハロン、亞酸化窒素などによるオゾン・ホールの擴大など)、對流圈内の大氣の汚染、海洋・河川・湖沼・地下水などの水質汚濁と化學物質及び放射能による水質汚染、作物土壤などの化學物質汚染及び放射能による地質汚染など枚擧に暇がない。さらに、これらの汚染が氣象現象等によつて地球全域に擴散して生態系に複雜に組み込まれ、これに自然現象や人爲的な要因も加はる。そして、再生不能な伐採と酸性雨や旱魃等の災害による熱帶雨林などの森林の消失と砂漠の擴大、有害異物の大氣飛散と廣域雨散、飮料水・食物・資源の汚染、公害病、奇病、奇形の發生など人類その他の動植物の生體内汚染と異變、種の絶滅の危機、といふやうに生態系全體の汚染と破壞が進行してゐる。生態系環境の汚染と破壞の範圍は、いはゆる「天・地・人」の地球總ての事象に及んでゐる。
また、世界の平均氣温が年々上昇し、暖冬・冷夏・寒波・熱波・集中豪雨・集中豪雪などの異常氣象現象が連續發生してゐるため、各地に農作物などの壞滅的被害が多發してゐる。この原因の一つが、埋蔵燃料(石炭、石油、天然ガスなど)の燃燒使用の急激な增大と森林の急速な消失との相乘效果が原因と説明されてゐるが、これは必ずしも科學的には明確ではない。しかし、水蒸氣、二酸化炭素、亞酸化窒素、メタン、フロンなどの大氣中の濃度が著しく上昇することによる「温室效果」といふ積極的要因と、逆に、メキシコのエルチチョン火山やフィリピンのピナトゥボ火山の大噴火など、過去から將來に亘つて續く火山活動により大量の亞硫酸鹽微粒子などが成層圈にまで噴き上げられた結果として、地表面に達する日射量を減少させる「日傘效果」などの消極的要因とが複雜に絡み合つてゐることは推測できる。
また、氣象學的知見ではなく、地質學的立場や宇宙物理學竝びに全體的な地球科學の見地からすれば、現在の地球は間氷期後期であり、五度目の氷河期に向かつて寒冷化傾向となる時期でもある。その一方で、太陽の活動度が高まつてをり、太陽面爆發(フレア)現象による太陽系全體の温度上昇があり、CO2のない火星でも温度上昇が觀測されてゐる。これまでの歴史からすれば、太陽活動の減衰傾向があれば日光照射量が低下し、食料減産を來すことになる。温暖化傾向といふのは、これまで人類にとつては食料減産から增産へと轉換しうる結果を生んできたので、一般には望ましい傾向であつた。歴史的にみれば、寒冷化は食料問題を引き起こし、これまで食料を求めて民族の大移動が起こつてきた。たとへば、皇紀十世紀から十一世紀(ほぼ西紀四世紀から五世紀に對應)にかけてのゲルマン民族の南下大移動によるローマ帝國領への侵入は、小規模な寒冷化による食料問題によるものであつたが、それの引き金となつたのは、東ヨーロッパに居住してゐたゲルマン民族居住地に、これもまた食料問題が原因でフン族が侵入してきたことによる。騎馬による戰闘能力に長けたフン族は、支那北方の匈奴ではないかと推定されてゐるが、フン族の侵入によりゲルマン民族は西へ一齊に大移動した。そのころ、日本へも支那大陸から一萬人もの歸化人が南下してきた。これもまた主に食料問題によるものである。
さらに、皇紀十四世紀(西紀七世紀末)に、高句麗の復興を目指して建國された渤海が契丹族の建てた遼の侵入(926+660)で滅亡したが、二年後に遼は舊渤海の領地を放棄したことがあつた。この渤海の滅亡と遼の領地放棄の原因については、我が國の東北地方にまで火山灰が降り積もつた白頭山の大噴火による食料問題ではないかとの見解(金子史朗)もある。また、モンゴル帝國の擴大も人口問題、食料問題が原因してゐる。さらに、フランス革命の前年(1788+660)にフランスでは大凶作となり、そのことがフランス革命を誘發したが、その大凶作の遠因は、我が國で起こつた天明の淺間燒けと呼ばれた淺間山大噴火(天明三年、1793+660)の噴煙が上空に舞ひ上がつて地球を巡つたことによる日傘效果にあつたとされる。このやうに、文明の盛衰と氣候變動とは因果關係があると云へる。
ところで、宇宙物理學的知見からすると、地球磁場が弱化してゐることから、銀河宇宙線(雲の凝縮核)の飛來量が增加し、その結果、雲量が增加して氣温の低下が起こりうるとされる。磁場變動や地軸變動がこれに關連するか否かは不明であるが、昭和十五年から昭和五十五年までの四十年間における氣温の推移からすると、〇・一度の氣温低下が觀測されてゐるが、これに關するIPCC(氣候變動に關する政府間パネル)の説明によると、石油、石炭燃燒によるエアロゾル(浮遊粉塵)の大量飛散によつて地球の薄暮化による日傘效果に加へて、雲が增加したことによる氣温低下とされるが、支那やインドなど急激な産業化によつてエアロゾル(浮遊粉塵)の大量飛散してゐる地域に氣温低下が見られないので、この説明の科學的根據に疑問が投げかけられてゐる。
ともあれ、地球がこれから温暖化に向かふのか寒冷化に向かふのかは不明であるとしても、著しい異常氣象は確實に增大する傾向にある。その原因は、大氣循環速度の低下やその運動停止による攪拌状態だとの説明もある。いづれにせよ、どのやうな原因であらうと、各國の穀倉地帶に異常氣象が起これば、結果的には食料難が發生することだけは確かである。つまり、温暖化を減速させる對策が必要であるといふよりも、食料の安定確保の對策が喫緊の課題であつて、神學論爭や魔女裁判を彷彿させるやうな温暖化對策の大合唱に目を奪はれて、人類の死活問題といふべき食料問題と人口問題を疎かにしてゐることこそが世界最大の問題なのである。
そして、これらの問題の根底には、水の問題がある。そもそも、文明は「水」に始まるものである。インダス文明と呼ばれる「インダス」とは、サンスクリット語で「川」のことであり、考古學的に認識しうる初めての文明とされるメソポタミア文明の地域はシュメールと呼ばれた。このシュメールといふのは「葦の多い地方」といふ意味である。『古事記』上卷には、「次國稚如浮脂而、久羅下那州多陀用弊流之時、如葦牙因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神(つぎにくにわかくうきしあぶらのごとくして、くらげなすただよへるとき、あしかびのごとくもえあがるものによりてなれるかみのなは、うましあしかびひこぢのかみ)」とあり、天壤無窮の御神敕(日本書紀卷第二神代下第九段一書第一)にも「葦原千五百秋之瑞穗國」(あしはらのちいほあきのみづほのくに)とあるのは、このことを意味する。
人の生命を維持するのは、水と土と空氣と食物である。これらがいづれも複合的に汚染すれば、當然に體も命も汚染される。體は、殆ど水でできてゐるから、水が歪めば體も歪む。水と土が歪めば食物が歪み、そして體が歪む。たとへば、ファーストフードのハンバーガーには約七十種類の食品添加物が投入されてをり、市販の各種清涼飲料水や化學調味料などにも、多種多量の保存料、着色料、香料などの食品添加物や白砂糖などが投入されてゐることから、これを飮食し續けることによつて、生活習慣病、低血糖、骨粗鬆症、高血壓症、アレルギー症状、精神異常、妊娠異常、認知症、免疫力低下、味覺障害など、萬病を引き起こすことになるのである。
また、治水が文明の基礎であることと同樣に、人の體も水でできてゐるといふ現實に目を塞ぎ、現代醫療は、醫食同源といふ醫療の原點を見失ひ、限りなく生命體の攝理に背馳して歩んでゐる。そのためか、燒け石に水の如く、難病、奇病、慢性病が蔓延して不健康社會となり、醫療費負擔が急激に增大し、これに反比例して勞働能力と實質的な生活水準は低下し續ける。さらに、世界の異常氣象の多發と人口の爆發的增加を考慮すれば、食物の源泉である農林水産資源を遍く將來的に繼續確保しうるかについて著しい不安がある。穀物については後述するとして、世界の漁業資源の減少については深刻なものがある。國連食糧農業機關(FAO)によると、世界の漁業資源のうち、十七パーセントは亂獲の状態にあり、八パーセントは枯渇の状態にあるといふ。そして、資源の大半にあたる五十二パーセントは、資源の再生維持の限界點まで漁獲されてをり、漁獲總量を增加しうる資源は極めて少ない状態にあるとされてゐる。
また、水は、人の生命を維持する飮料水や生活用のものだけでなく、農業用、工業用などもあり、食料生産や産業生産を支へるものであるが、すべて淡水であり、この淡水量は地球上の水としては餘りにも少量なのである。
さらに言へば、人類にとつて食料や水の確保は必要不可缺ではあるが、とりわけ、生存のための生體的な安全が確保されなければならない。しかし、これを脅かすものとして、「核」の存在がある。
核保有國の原爆や水爆は、世界を何回となく滅亡させる數量であり、その管理についても政府の不安定化などによる核汚染の不安がある。その上、昭和四十年に、アメリカの軍艦が沖繩近海の海中に落としてしまつた水爆一基や、同六十一年に、バミューダ諸島東海域において舊ソ連の原子力濳水艦が三十二基の核彈頭、二基の核魚雷、二基の原子爐と共に沈んだことなど、現在、判明してゐるだけでも、世界の海に沈んでゐる五十基の核兵器と九基の原子爐があり、さらには、海洋投棄されてゐる無數の放射性廢棄物による放射能漏れの脅威がある。核保有國はこれらの回收責任を果たさず、核の廢絶について合意すら行つてゐない。地球上に紛爭が多發してゐることなどからして、核戰爭や原發事故などの最大の「人災」が今後とも發生する危險はある。
このやうに、シュメール文明やエジプト文明の崩壞は森林の過剰伐採といふ「人災」に原因があつたことの教訓を生かしきれずに、世界は混迷してゐる。文明の崩壞の原因は、人類の營みが、地球上の他の動植物との共生といふ自然な地球の營みから大いに逸脱して、地球の最外層(地殻)から成層圈に至るまでの物質循環に急激で大量の人爲的變更を加へたことによるものである。これを推進してきたのは、地球は人間だけのものであり、總ての動植物などは人間のために生け贄として生存を認められ、文明とは人間と自然との對決であつて、その目的は人間が自然を征服することであるとする「天に唾する」人間中心思想によるものである。そのため、文明の崩壞は、この思想がもたらす自業自得の「人災」なのである。
以上のことは、人類及びその他地球上の總ての生物は運命共同體であることのみならず、地球自體が一個の生命體であつて、進歩主義文明といふ人類の自然破壞活動によつて、傷ついた體を自然治癒できる地球の能力(再生能力)にも限界があることを物語つてゐる。
飽和絶滅
人類には、地球上に生を享けたことに對する感謝と愼みが必要である。「ケイザイバンザイ、ナンデモケイザイ」と經濟萬能の大合唱をして、經濟しか人生の關心がなく、生産と消費の量に比例して幸福が高まると信じ、利益の追求と欲望の滿足しか眼中にない。そして、經濟萬能を基礎づける通貨に最大の價値があるとする拜金主義を全世界の隅々にまで擴散して飽和状態に至つてゐる。
さらに、「少子化」は經濟を失速させるなどと喧傳し、「産めよ增やせよ」を肯定して人口問題を忘れ去つてゐる。しかし、人類による破壞の速度とその總量が、地球の再生能力による治癒の速度とその總量を超えたとき、地球は再生不能の状態に陷り、人類は「飽和絶滅」するのである。飽和絶滅とは、たとへば、ガン細胞は、生體に限りなく增殖し續けても、それが生體のすべての臓器と細胞にまで及んで飽和状態になれば、生體が死滅することになるが、それによつてガン細胞全體も死滅するといふやうに、寄生對象の生體全體に極限まで增殖して飽和状態になれば生體が死亡すると同時に、これに寄生したガン細胞も絶滅するに至るといふことである。これが、地球環境に負荷を與へる人類と地球との關係に似てゐる。
つまり、經濟的國際競爭力なるものは、決して世界平和に貢獻しないのに、これを持て囃し、ますます過激に拜金增殖させることによつて、大量生産と大量消費を可能にし人口爆發に至る。
しかし、盛者必衰、極盛必敗、生者必滅である。地球環境を再生不能なまで破壞しうるのは人類だけであり、そのことは、人類が飽和絶滅しうる可能性があるといふことでもある。そして、その最大の懸念要素は、人口增加問題、つまり、世界の人口が地球の負荷の限界點を越えつつあることにある。それゆゑ、人類がそのやうな事態に至らないために、保存本能を作用させるとすれば、自らの增殖能力を低下させ、少子化、劣子化、短命化による人口調整作用を働かすことになり、個體の免疫力の低下と生命力の減退などによる疫病等の大流行による人口の急激な減少もまた飽和絶滅を回避するための人類の保存本能の働きとして現れてくる。
『自殺論』を著したフランスの社會學者E・デュルケームは、戰爭時よりも平和時の方が自殺が多いことに着目し、もし、自殺の動機が生の過酷さにあるとすれば、戰爭のときに最も多くなるはずであるのに、平和時に多くなるのは、平和によつて社會が發展、混亂したときに、アノミー(anomie)の状態になるとした。「a」は否定、「nomie」は規則の意味であるから、「規範崩壞」といふことであり、いままで依據してきた社會的な基準、規則が役に立たないとき、人間は目標を失つて自殺しやすくなるといふのである。
しかし、どうして平和時にアノミー状態になるのかが全く解らない。社會學的な考察だけでは解明できないのである。ここでも、この解明はやはり本能論によることになる。まづ、神經系について考へてみると、これには中樞神經系(腦と延髄)と末梢神經系とがあり、末梢神經系は體性神經系と自律神經系に別れる。そして、體性神經系は感覺神經と運動神經とに、自律神經系(間腦)は交感神經と副交感神經に區別される。つまり、これは、擴大と縮小、擴張と收縮、促進と抑制の均衡のための重層構造であり、この神經系によつて築かれた本能についても、その行動意識にも促進と抑制の均衡によつて保たれてゐる。ある欲望を促進することに對して、それを抑制するのも他の欲望によるものである。欲望の均衡こそが本能原理である。
しかし、たとへば、イナゴが普通の状態で生存してゐる「孤獨相」の場合と、大群になつて一つの生き物となつたかのやうな「群生相」の場合とは、同じ種であるにもかかはらず、それぞれの本能行動を著しく異にするのはなぜなのか。決して種が變化したり本能が變化したのではなく、「孤獨相」も「群生相」もともに個體の本能として宿つてゐるものであり、それが情況の變化によつて本能の發現態樣が變化するのである。それは、人類についても同樣で、個人個人の場合の「孤獨相」での行動特徴と、群衆の場合の「群生相」での行動特徴とは異なるのであつて、いづれも人類に備はつた本能なのである。それゆゑ、孤獨相での自殺と群生相での自殺とは區別して考へる必要がある。
まづ、平和時における孤獨相の自殺は、腦の機能缺損や不全などの疾病や受傷による場合以外は、おそらくその殆どに共通した根底的な原因がある。それは、自殺するに至る表面上の辯明とは別に、その濳在的な根底に、人類の「飽和絶滅」の危機があり、それを通常人よりも強く感受した者の本能行動に他ならないと考へられる。「漠然とした不安」といふ言葉で自殺した芥川龍之介にもそれが見て取れる。「漠然とした不安」の源泉は、紛れもなく「飽和絶滅」の恐怖とそれを回避するための自發的解消としての「自裁」に他ならない。
そして、このやうなこれまでの孤獨相の自殺は、これから豫測されるであらう群生相の自殺を暗示するものであり、そして、現に一部では集團自殺といふ形態で起こり始めた群生相の集團自殺を警告し續けてきた現象であつたといふべきであらう。國連の推計によると、平成二十二年には、世界の人口は約六十九億人、そしてさらにその二十年後には約八十四億人とされてをり、人類の歴史は、かつてない人口增加とそれによる飽和絶滅への危機に直面してゐる。それゆゑ、これからは、人口急激な減少によつて一氣に危機を回避するため、それを實現しうる戰爭誘發と集團自殺の群生相が世界的に形成される危險度は益々高まつてゐるのである。
このやうな飽和絶滅の危機感に基づく自殺は、病氣や藥害による幻覺、極限的な苦惱、それに宗教的な洗腦による自殺との區別をすることが困難であり、それらが明確な自覺に基づくものか否かにかかはらず、すべては輪廻轉生(歸巣本能)を目的とするものや「捨身往生」によるものに收斂されることになる。たとへば、イジメによる子供の自殺報道に對して、メディアが自殺した子供に同情と理解を示し、その常套文句として、自殺した子供について「天國に行つた○○ちゃん」と表現することが多い。そして、この同情による美化が同じ境遇に置かれた子供への洗腦となつて自殺の連鎖を生む。まるで、コンピュータ・ゲームでゲーム・オーバーすればリセットできるといふやうな感覺である。このやうな自殺の連鎖を防ぐためには、「自殺すると地獄へ落ちる」と啓蒙すれば良いのに、自殺して天國へ行かうといふ自殺の美化と同情で報道し續けてゐる。世界宗教の多くは、自殺すれば地獄に落ちると説いてゐるのに、我が國の報道機關は、自殺禮贊宗教を信じてゐるかの如くである。しかし、どうしてこの程度の洗腦で子供は自殺をするのだらうかと翻つて考へてみると、メディアを含む社會全體の人々と子供自體の「本能の劣化」が進んでゐるためである。それもまた飽和絶滅の危機に向かつてゐることの證左と云へよう。
ただし、このやうな自殺とは全く無縁の自殺があることも事實である。それは、本能に基づいた覺悟の自殺である。たとへば、京都の「宇治」の語源となつた菟道稚郎子尊(うぢのわきいらつこのみこと)の自殺は、應神天皇の皇太子でありながら、後に仁德天皇となる兄の大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)の即位を促し、皇長子優先の皇位繼承秩序の確立を目的とした皇統護持の本能によるものであつた。このやうな自殺のことを「自決」と云ひ、自己の生命を投げ捨てて守るべきものがあるときに起こる。戰國時代における婦女子の集團自害や近代戰爭における非戰員の集團自決のやうに、單なる歸巣本能を超えた「留魂」の自殺もある。これは、自陣の戰闘員が十全に働くことができるやうに、足手纏ひとなる非戰闘員の行ふ「戰闘行爲」としての「自決」である。そして、現代においては、生命保險金によつてしか家族の生計維持が實現できないと思ひ詰める家長の自殺(自決)は、家族維持本能による行動と云へる。
さて、再び人口問題に話を戻すことにする。
マルサスは、『人口論』において、人口は幾何級數的(等比數列的)に增加するが、食料生産量は算術級數的(等差數列的)にしか增加しないといふ人口法則を明らかにした。人口と食料の不均衡は不可避的なものであり、このことは、現在では人口問題を考へるについて公理として認められてゐる。そして、マルサスは、飢饉、貧困、惡政(戰爭、内亂)などは人口調節のための人口抑制要因としての自然的に生起する現象であり、資本主義經濟など社會制度の缺陷が原因ではないとした。そして、人口增加抑制政策としては、道德的抑制(家族扶養能力がつくまで結婚年齡の延期、その間の性的自制など)に求めた。しかし、道德的抑制では實效性に乏しいことから、マルサスの考へを引き繼いだ者(新マルサス主義)は、受胎調節、産兒制限の必要を説き、勞働者階級は社會主義ではなく産兒制限によつて貧困から脱却できるとした。
これと對極にあるのが、ダーウィンの進化論から發展した「優生思想」である。優生思想は差別思想の源泉であり、その誤りは進化論の誤りにある。優生思想と進化論は、いづれも唯物論であり、人々を理性論に洗腦させ、人間の思考能力、運動能力などの數値的能力を測定して生産性の大小で差別する。決して、德性の高低で人の價値を判斷するのではない。進化論は、類人猿を人類の直近の祖先とすることであり、敬神崇祖によつて培はれてきた人類の德性を否定する思想である。人は、猿を祖先と崇めて德性を高めることができないのである。人は、猿から進化したのではなく、神から退化したものと信じなければ、德性の高い理想世界に到達できない。
ともあれ、人類の生存が地球環境を變化させ、地球の再生能力の限界點(飽和點)に至る許容總量は未知數ながらも限界定數的に決まつてゐる。許容總量を地球上の人口總數で除した數値が一人あたりの許容量となる。その一人當たりの許容量は、人口が增加すれば、それに反比例して減少する。そして、一人當たりの許容量は、消費生活における一人當たりの消費量に比例するから、消費生活の工夫によつて一人あたりの消費量とその增加速度を調整することには自づと限界がある。しかも、總人口が增えれば、その一人當たり消費量の限界量も減少する可變數値なので、個人の自助努力で解消できる問題ではない。それゆゑ、殘る方法としては、總人口の調整といふことに歸結することは確かである。地球規模の問題として提起される環境問題、公害問題などの究極の到達點は、すべてこの人口問題に收斂されるのである。
そして、この人口問題こそが、温室效果ガスの排出量を制限して地球の負荷を輕減しようとする取り組みについては、最優先の課題であることが殆ど忘れ去られてゐる。否、認識してはゐるが、これが思想的にも餘りに大きな問題でありすぎることから言ひ出せないのである。「持續可能な」經濟發展のために温暖化對策を行ふといふやうな聞こえの良い言葉は、人類は永遠に發展し續けるといふ進歩史觀と成長信仰に根ざしたものであつて、人口增加は基本的には「進歩」ないしは「國富」との認識から拔け出せないで居る。成長信仰に毒されて、少子高齡化を「危機」と捉へることなどは、その典型例である。まさに「マッチ・ポンプ」の樣相である。
萬物の中で、無限に成長するものなどあり得ない。人類が無限に增殖すれば、飽和絶滅が待つてゐる。にもかかはらず、永久に「成長」するとの邪教が蔓延してゐる。資本主義も共産主義もこれに毒されたものである。成長に陰りが出てくると、「新たな成長モデル」を模索し、成長信仰を捨てることがない。
技術の進歩により社會生活が便利になればなるほど、人々はそれを共通して活用し、それがあることを前提として競爭することになるから、他人との「相對速度」は變はらない。むしろ、進歩した技術を活用して競爭社會を泳ぎ切る者と、その技術を使はずに競爭社會から取り殘される者との間の相對速度が大きくなるだけである。それが格差を生む。そして、社會全體の絶對速度が大きくなることは、それだけ生活が慌ただしく煩瑣になるだけである。人にとつて最適な、ゆつたりとした生活の速度と佇まひが壞され、人の思考が瑣末なものとなり、生命力を低下させ人類の退化と老化が促進される。まさに繁榮と頽廢との間には相關關係があるのである。
文明とは野蠻なものである(南洲遺訓、文獻77)。文明進歩史觀は必ず差別と殺戮を生む。進歩しない劣等人種(民族)と進歩する優等人種(民族)との區別からくる差別と殺戮がある。文明(civilization)の語源は、市民(civil)であり、都市化することが文明である。生産と消費の一體的生活であつた農業、畜産業、林業、漁業から消費生活だけを分離し、生産と消費の分離、さらに細分化した分業、工業化の促進などによつて農地と森林が破壞され、これによつて水源が枯渇し、ついに文明は飽和絶滅によつて崩壞する。
このことについて、アメリカの文化人類學者エドワード・T・ホールは、人類の都市と文化の問題を動物の集團との比較において次のやうに述べた(文獻61)。「動物の集團の場合は、解決はきわめて簡單であり、われわれの都市改造計畫や郊外の無秩序な擴大において見うけられるものに驚くほど似ている。ネズミの集團の密度を高めて、しかも健全な標本を維持するためには、ネズミを箱に入れて互ひに見えないようにし、かごを清潔にし、十分な食事を與えればよい。箱は望みのまま積み重ねることができる。殘念なことに、かごに入れた動物は愚鈍になりやすい。これは積み重ね方式の拂わなければならない高價な代償である。」と。
つまり、シカやネズミなどの場合は、過密によつて各個體の生活圈が確保できないことのストレスが起こり、これが原因となつて自殺的行爲や共食ひなどの異常な行動が見られるといふのである。これは、文明の過剰發展が飽和絶滅に至ることを防ぐ種族保存本能が事前に作動して、文明の發展を阻止して縮小させるための「自淨作用」の本能によるものであることを示してゐる。
本能と理性
この本能に關して、これと對比される理性との關係については第一章で述べたが、その重要な部分について、ここで再述してみたい。
ルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schoenheimer)は、昭和十二年(1937+660)に、ネズミを使つた實驗によつて、生命の個體を構成する腦その他一切の細胞とそのDNAから、これらをさらに構成する分子に至るまで、全て間斷なく連續して物質代謝がなされてゐることを發見した。生命は、「身體構成成分の動的な状態」にあるとし、それでも平衡を保つてゐる。まさに「動的平衡(dynamic equilibrium)」(文獻329)である。唯物論からすれば、人の身體が短期間のうちに食物攝取と呼吸などにより全身の物質代謝が完了して全身の細胞を構成する分子が全て入れ替はれば、物質的には前の個體とは全く別の個體となり、もはや別人格となるはずである。しかし、それでも「人格の同一性」が保たれてゐる。このことを唯物論では説明不可能である。人體細胞も一年半程度で全て新しい細胞に再生し、しかも、その細胞の成分も新しい成分で構成されるといふことになると、このシェーンハイマーの發見は、唯物論では生命科學を到底解明できないことが決定した瞬間でもあつた。
そして、この發見によつて、理性を善とし本能を惡とする單純な二元論である合理主義(理性論、理性主義 rationalism)をも崩壞させた。合理主義を貫くと、人は時間的經過によつて個體を構成する物質が完全に入れ替はるので、人格の連續性があるとすることは錯覺といふことになる。同じ個體であつても別の物質なのに、ましてや親、兄弟、親族などは、自己からはさらに遠い別の物質である。そのため、身分關係を契機とした相續などの世襲制度や扶養などの家族制度は、理性的には否定される。これを否定したのが共産主義であり、これは合理主義を突き詰めた結果である。合理性があつて獲得したものではない「婚姻關係」や「血縁關係」に拘束されることは、「非合理」なものとして完全に否定されなければならなくなる。親から受け繼いだものは、個體の誕生初期の生體構成物質だけで、それ以後に獲得した物質は自己が親とは別個の生命活動によつて獲得したものであり、「親」と「非親」との區別はない。親族も非親族も「他人性」の程度は同一である。それゆゑ、婚姻や血縁による親族關係を「特殊な關係」として認識することは、合理主義からすれば「非合理」であり完全否定されなければならなくなる。しかし、それでも人々は婚姻と血縁を基礎として生活を繼續する。これによつて、人間は、理性的動物ではなく、本能的存在であることが歸納的に證明されたことになり、合理主義は生命科學ではなく、科學的證明が不可能な單なる假説であり、これに固執することは「理性」を神とする新興宗教であることが明確になつたのである。
つまり、プラトン哲學からの歴史を刻んできたこの合理主義といふ假説は、そもそも實驗事實そのものが存在せず、しかも、この假説に矛盾を含むか否かの檢證が一度もなされたことがない。現代の動物行動學(エソロジー、ethology)、心理學、腦科學などからすると、本能を惡、理性を善とした合理主義の假説が破綻してゐることが解る。理性とは、人以外の動物にはなく、人のみに備はつた觀念的思考である。これを絶對視して、これに「適合」することが眞理であり、「本能」とか「傳統」といふものを猜疑的に捉へて、これらには價値を見出さないのが合理主義である。しかし、「本能」が惡であり、それが生存にとつて妨げとなる缺陷機能であれば、人類のみならず生物の全ては早々と自滅的に滅亡してゐたはずである。本能とその作用による學習によつて生命が維持されてゐる。理性によつて生命が維持されてゐるのではない。我々は、理性を失つた者も生き続けてゐる事實を知つてゐる。また、理性的に人格を完成させた聖人であつても、本能機能を失へば身罷ることも知つてゐる。
このやうな本能と學習の研究は動物行動學(エソロジー、ethology)と云ひ、ノーベル賞受賞學者のコンラート・ローレンツが比較行動學の立場から、それを科學的理論として確立させた。つまり、「種の内部のものどうしの攻撃」は、理性論からすれば絶對的「惡」であるが、比較行動學からすると「種内攻撃は惡ではなく善である。」ことを科學的に證明した。つまり、「種の内部のものどうしの攻撃は、・・・明らかに、あらゆる生物の体系と生命を保つ営みの一部」(文獻104)であり、「本能は善」であつて、これを惡とする理性論は誤りであることを科學的に證明したのである。
また、合理主義の崩壊は、クルト・ゲーデルの「不完全性定理」からも證明された(文獻250、327、328)。「自然數論を含む歸納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を證明できない。」ことを數學基礎論から證明したものであるが、形式論理學でいふ排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)などが適用される無矛盾の領域は、全事象を網羅することにおいて完全ではない(不完全である)ことを證明したことになる。
マーシャル・マクルーハンが好きな言葉に、「誰が水を發見したのかは分からないが、それは魚ではないだらう。」といふのがあるが、人の本能や理性の實相(水)は、その水が出來てから生まれた合理主義(魚)では解明しえないことの喩へである。また、産業革命からアメリカの獨立、そしてフランス革命へ導いた合理主義こそが「理性的欲望主義」であり、その象徴として描かれたのがシェリー作の「フランケンシュタイン」の物語なのである。この物語は、完璧な「理想の人間」(理性的人間)には、醜さといふ最大の缺陷があり、爭ひを繰り返して人類を幸福にせず、その究極には破綻と滅亡が待つてゐることを寓意するものであつた。
本能を司る中樞は、腦幹と脊髄、小腦などの部分である。本能の基礎となる自律神經は生來的に備はつてゐるが、五感の作用に基づいてなされる行動の樣式と能力である本能は、成長に伴ひ、學習と經驗を積み重ねることによつて強化されて「修理固成」に至るのである。群れをなし社會を形成して生きる人類には、自己保存本能、種族保存本能、集團秩序維持本能などがあり、それは、個體と種族集團を守るためのプログラムとして組み込まれてゐる。たとへば、身の危險を避けようとするのは自己保存本能であり、子孫を殘し、身を捨てでも家族や社會、國家を守らうとするのは種族保存本能によるものである。
草食動物の親子が肉食猛獣に襲はれたとき、親が子を守らうとして、自らが猛獣の囮となる行動は、理性論では到底説明がつかない。人の親子についても、同じやうな危機的状況に置かれた場合、これと同樣の行動をとる。このことは、合理主義(理性論)から生まれる個人主義と人權論からすると、「命の大切さ」を教へ、自己の命は何にも代へ難いから、親が子のために自己の生命と身體を犧牲にすることなどは絶對にあり得ないことになる。しかし、この行動は、種族保存本能に根ざしたものであり、理性によるものではない。これは、種族保存本能(種族防衞本能)が自己保存本能(自己防衞本能)を凌駕する指令體系であることを意味する。
自己の利益を追求する活動よりも、世のため人のために見返りを求めずに奉仕する活動をするときに、人は精神の高揚を感じる。自利よりも利他に快感を得ることは理性では説明がつかない。これも本能のなせる業である。
もとより、群れを爲して家族を形成し共同生活によつて生存しうる人類は、個人だけでは生存できない。それゆゑ、個人の意義と價値を重視してその權利と自由に至上價値を見いだす個人主義は、理性論の産物である。個體(人體)と家族、部族、種族、民族、國家へと段階的に連なる雛形構造が動的平衡を保つために「本能」といふ指令が存在するのであるから、その指令に適合する方向こそが、あたかも胎兒が母の胎盤の中の羊水に浮かぶが如く、安全、安定、安心を與へる。それゆゑ、秩序を維持し、集團を防衞するなどの本能に適合すること(本能適合性)を滿たさなければ、國家、社會、家族など全ての領域において規範とはなりえない。
從つて、個人主義は、個人を優先させ集團を劣後させる點において、この「本能適合性」を缺く。人は個人として自立しうる時期は極めて短い。幼いときは家族に養育され、老いても家族に扶養される。成人に達しても、疾病と障害があれば、やはり家族の保護と介護を受ける。これほどまでに個人の自立可能な時期が短いのに、この短期の状態を永遠であるかの如く普遍化して個人主義を打ち立てることに本質的な無理がある。本能適合性があるのは、刹那的な個人を重視した「個人主義」ではなく、連綿と繼続する家族を重視した「家族主義」であり、ここに普遍性が見いだされる。
ところで、本能と理性との相關關係において、この本能の部品の一つである「欲望」の中の「性欲」の本質に關連して試金石として擧げられるものは、人間社會において、近親相姦や近親婚を禁忌してきたのは何故なのかといふことがある。剥き出しの「性欲」が「本能」そのものであるといふのであれば、最も身近に居る親子と兄弟姉妹に向けて「性欲」を追求することが自然なはずであるが、現實はさうでない。そのことについて、これまで樣々な理由と根據が考へられてきた。
古代エジプトでは、王家や上流階級では近親婚が一般であつたとされるが、これは特權維持のため他家の干渉を防ぐ自衞手段としてのものであり、一般化されたものではなく、現在では、これを認めてゐる民族は極めて少ない。尤も、「近親」の範圍が「リニージ」や「氏族」にまで及ぼすものもあるが、すべてに共通するのは、「親族相姦」と「親族間の婚姻」を禁止する點である。
初期においては、近親婚では劣惡な遺傳子が結びつゐた個體が出てくることを經驗的に知つたことから禁止されたとする生物學的見解があつた。しかし、劣惡な遺傳子とは、必ずしも遺傳學的にいふ劣性遺傳子、すなはち、遺傳子が二個結合しなければ出現しない性質のものではない。むしろ、能力的又は形質的に優れた遺傳子が、劣性遺傳子であることが多いことが知られるやうななつたことから、この見解は科學的に否定された。
次に登場したのが、人類學に構造主義を取り入れたフランスの人類學者C・レヴィ・ストロースの見解である。人間の心や行動は、意識だけでは捉へきれない社會構造があるとし、近親相姦や近親婚の禁忌(インセストタブー)は、家族の中の女性を家族内だけで獨占すればその家族が他の家族との關係で孤立し、社會のつながりを形成できなくなるので、「女性の交換」をする社會規範を作つたといふのである。しかし、規範は、本能に基づいて、その規範内容を周知させることに實效性の基礎を置くものであるから、本能とは無縁に、人間の意識外で形成される規範といふものはあり得ない。社會契約説の陷つた矛盾のやうに、「女性の交換」規則を誰も意識せずに全員がそのことを相互に合意してきたといふのであらうか。
さうなると、やはり、ここは本能の出番である。
人間は社會的動物と云はれる。どうして社會的動物であるのかと云へば、人間には對人關係に強く反應する本能があることに由來してゐる。とりわけ、對人關係を築く出發點は、人との出會ひである。そのときにはお互ひに顏を見る。そして、お互ひに顏を認識してその表情を讀み取り、その表情から好意と敵意などを識別するのである。つまり、人間の腦は「顏」の形に強く反應する本能を備へてゐるのである。それがシミュラクラ(simulacra)現象(類像現象)である。目と鼻と口などの人の顏の部分と全體の特徴と表情が詳細に識別できる極度の敏感さがあるために、人の顏に類似したあらゆる形像に對しても、それを人の顏であると錯覺する。壁の染みや岩肌などの自然物の造形が目鼻のある人の顏の形に見えてきたり、人面魚とか人面犬などと騒ぎ出したりする、あの現象のことである。これは幻影の一種であるが、このやうなものまで人の顏と錯覺しうるほど人の顏に對しては敏感なのである。人には、他人の顏の特徴と微妙な顏の表情を讀み取つて對人關係を構築して行く能力が備はつてゐることの證でもある。
この本能によつて、家族と他人とを識別して精緻な人間關係を築いてゐるのであつて、ひとたび家族として識別したときは、さらに次の段階の本能として、家族であることの認識に基づき、他人に對するものとは異なつた行動が規律されて行くことになる。
つまり、このことからして、家族内の女性に對する性的衝動を抑制し近親相姦と近親結婚を避けるのは、自己の家族集團以外の他の家族集團との紐帶を築いて、さらに大きな種族の群れを形成し、それによつて種族全體の維持を實現しようとする種族維持本能によることになる。そのためには、家族内の秩序を維持してストロースの云ふ「女性の交換」が行へるやうにしなければならないので、家族内の女性に對する性的衝動を抑制する秩序維持本能が働く。本能中樞神經として意志とは無關係に機能する自律神經にも、交感神經系と副交感神經系があつて、相互が拮抗的に作用するのと同樣に、この場合には、集團秩序維持本能が性的衝動を司る種族保存本能を抑制する。欲望があるのは、自己と種族を保存するために必要な本能であるが、その逆に、その欲望を秩序維持のために鎭めるのも、やはり本能の働きである。このやうなことは誰に教はることなく、理性的に學習することもなく、そもそも種族内の秩序を維持し發展させるために人類全般に備はつた本能なのである。
この禁忌(タブー)を犯すのは、その者の本能が未完成であるか劣化してゐるためであり、その結果、理性に缺陷を生じたためである。
つまり、禁忌(タブー)とは、人類の本能に組み込まれた生物學上の基本的な道德規範であつて、これは、個體と集團を守るために組み込まれた本能に由來する。これは、本能に基づいて個體内部に形成された自律規範である。これが「禮」の根源である。そして、これが累積されて個體の外部(社會)に他律規範も生まれる。それがさらに民族的特性も加味されて、道德などの、より高度で複雜な社會規範へと形成發展してきた。それゆゑ、個體から家族や社會へ、そして國家といふ集團を防衞するための規範が生まれ、これに違反した者に對して應報的處罰を課すことを當然と認識し、それを實行するのも、階層構造の社會秩序を維持するための本能に由來するのである。國家の形成も、この集團の確定のために必要な本能の發現である。
このやうに、個體、家族、社會、國家、世界の構造は、合理主義に基づく設計主義では構築できない。政治學はもとより、經濟學は、個人主義などの合理主義で組み立て、それを實踐すれば社會や国家、世界が混亂し、終には崩壞する。個體、家族、部族、民族、國家へと連なる雛形構造(フラクタル構造)が本能構造であることを見据へて、これに基づいて再構築されなければならないのである。個體、家族、社會、國家、そして世界は、雛形構造の本能プログラムによつて統一されてゐるのであつて、その一部の歪みが全體の歪みとなる。特に、人の生命維持生活のための經濟の構造は、演繹的な合理主義に基づく數學的、統計學的手法を驅使してシステムを構築してはならず、これまでの人類の歩みから歸納的に紡ぎ出される本能プログラムに基づくシステムを發見することであり、その構造を發見する學問が眞の經濟學でなければならないのである。
經濟學の迷走
そもそも、「經濟」の語源は、「經國濟民」、「經世濟民」であり、國を治め民の苦しみを救ふといふ意味であつて、本來は「政治」の意味であつた。つまり、「政治」の概念の中から、現在使用されてゐる「經濟」の概念が分離してきたものであつて、本來は「政治」の概念に統一して一體のものと捉へても不自然ではないはずである。
しかし、「經濟」といふ概念が、明治後期から、財貨(サービスを含む)の生産、流通、消費とその構造を意味する言葉に變化して今日に至つたことから、「經濟の目的」とは、生活に必要な財貨の生産・配分と捉へ、經濟學は「財貨の配分」に關する學問となり、その資源配分の最適な状態を實現するためのものとなつた。
資源や財貨の有限性を認識すれば、消費者が消費する財貨から受ける滿足(效用 utility)を全てについて完全に滿たすことはできない。また、ある財貨による效用を高めるために、その生産量を增大させるとすれば、他の財貨の生産量を減少させなければならないといふ状態、つまり「パレート最適(Pareto Optimum)」又は「パレート效率性(Pareto efficient)」の社會状態にあることから、經濟學は、まさにこの財貨の配分のための技術的な學問となつたのである。しかし、配分の公平性が實現しなければ、政治とは無縁の學問となる。そこで、「最適配分」を實現するための「經濟思想」が生まれた。それは、「見えざる手」(アダム・スミス)によつて自然的に秩序が形成され調和するとする「放任主義」と、共産主義などのやうな「統制主義」である。これまでは、非共産主義の各國は、自國の經濟政策といふ「統制」と、國民の自由競爭といふ「放任」との折衷的な運用がなされてきた。それは、放任によつて生ずる矛盾を放置すれば、統制への反動を生むことになり、それが政治思想の共産主義へと大きく傾斜することを恐れたためである。ところが、ソ連や東歐の統制主義が濃厚な國家群が崩壞し、東歐における冷戰構造が終焉を迎へると、放任の矛盾から生じる統制への反動を支へる共産主義への脅威がなくなり、世界は露骨に放任主義の方向へ振れた。そして、その結果、いまや經濟全體が「新自由主義(市場原理主義、市場萬能主義)」といふ「欲望の怪物」(欲望經濟學)に支配されて食ひ荒らされてゐるのである。經濟學は、各部門毎に瑣末に細分化されて極度に技術的・專門的になるだけで、配分の公平性を實現しうる全體像の理論や政策を編み出せず、本來の經濟學は死滅した。といふよりも、「經濟學には正義がない」とされて久しい。「お金がお金を生んでいく經濟」といふ不道德を助長し、額に汗をして働くことを「經濟的でない」とまで言ひ切つて蔑むやうな堕落をしてしまつたからである。つまり、經濟學者(エコノミスト)とか分析家(アナリスト)と稱する者などは、市場原理主義による「賭博經濟」によつて生ずる經濟動向の亂高下の豫測を生業とする「豫想屋」と成り果て、證券取引所や商品取引所などの「博打場」に出入りする相場師などの博打打ちに情報を提供するだけとなつたのである。
いまや、「經濟的」といふ言葉は、「政治的」とか「文化的」とかの言葉と比較して、その意味の貧困さが顯著となつてゐる。單に、採算效率性があるといふ程度であつて、それ以上の深みがない輕薄なものであることが、經濟學の迷走を表してゐる。
平成十年にノーベル經濟學賞を受賞したインドのアマーティア・セン(米ハーバード大學教授)は、「弱い立場の人々の悲しみ、怒り、喜びに触れることができなければ、それは経済学ではない。」(平成二十一年二月二十四日、朝日新聞朝刊「市場依存 危機生んだ」インタビュー記事)と語り、經濟學の迷走には氣づいてはゐるものの、現在の經濟學は、その悲しみと怒りを解決し喜びを創造しうる具體的な經濟構造を世界に向かつて提示できないでゐる。
水が出なければ、それは井戸ではなく單なる竪穴である。安定した人類の福利が實現できなければ經濟學ではなく單なる豫想屋學である。經濟といふ生身の生活のことが、無機質な學問で解明できるはずがなく、今や經濟學は有害無益な學問となつた。しかし、經濟學者(エコノミスト)とか分析家(アナリスト)たちは、そのことが發覚して自己の虚名なる地位と權威を失ふことを恐れ、もつと深く複雜に穴を掘れば水が出てくるとばかりに、賢しらく統計學、數學などを驅使して、素人には絶對に解らないやうな金融工學などの手法によつて人々を騙し續けるだけである。そして、學問的權威に弱い素人は、それが正しいと盲信的に追随する。彼らの思ふ壺である。
現在、内閣府が經濟規模と經濟成長などを數値化して發表してゐる世界的基準に則つた國民經濟計算(SNA)のうち、たとへば、國内で生産された財貨、サービスの付加價値の合計額とされる國内總生産(GDP)において、これに數値的に反映されるのは「市場取引」によるものに限定され、家事勞働や奉仕活動などはこれに含まれてゐない。技術的な問題があるとしても、これも根源的な意味において市場原理主義に支配されてゐることが解る。すなはち、市場取引においては、財貨の破壞や燒失など社會的價値の絶對的消滅についても、それを負(財貨の減少)として認識するのではなく、結果的には、正(財貨の增大)と認識してしまふ點に重大な缺陷があるからである。具體的に言へば、ある人の所有する自宅が火事や震災によつて燒失全壞し、自宅に居た家族も燒死し、價値ある多くの家財道具も燒失した例を考へると、これは、まさしく人材の喪失、資源と財貨の減少と滅失であり、社會的にも經濟的にも「絶對的な損失」であることを誰も疑はないであらう。ところが、市場取引からするとさうではない。自宅や家財道具には火災保險、地震保險などが掛けられてをり、家族にも生命保險などが掛けられてゐると、當然に被害者や遺族に保險金が支拂はれる。また、それが何者かの仕業であれば、その者に對し、損害賠償を請求して賠償金を支拂はせる。すると、これらは市場におけるサービスの提供の增大となつて、これらの保險金などは國内總生産の數値に組み入れられる。こんな事故が起こらないときは、國内總生産に數値化されないのに、事故が起きると、多額の保險金や損害賠償金等に相當する數値が國内總生産に數値化される。これは日常頻繁に起こつてゐる交通事故の場合も同樣である。いはば、自宅が燒失し家族が死ぬなどといふ極めて不幸な事故が起これば起こるほど國内總生産が增大し、これが「經濟成長」の指標とされるのである。不幸の增大は、經濟の發展として認識されるのである。
さらに、過剰生産と過剰消費がなされ、大量投棄がなされればなされるほど國内總生産が增大し、健全な社會道德と離反した情況になればなるほど「經濟成長」したとして歡迎する背德の學問體系が現在の經濟學なのである。
人間は、個體においても一定年齡に達したときに成長が止まる。いつまでも成長し續けて山よりも高い巨人になり續けるのではない。山(地球)より大きい猪(人類)は居ないのである。人間は、個體の成長が止まつてから、より一層德性を高めることに專念するものである。成長期には、榮養を多く攝取しても、成長が止まれば、榮養過多は健康を害する。ところが、いつまでも唯物論的に經濟が成長し續けると未だに爲政者や經濟人は信じてゐるのである。飽和絶滅する危機が迫つてゐるほど圖體が大きくなつた現在でも、まだ成長が足りないとの強迫觀念に苛まれてゐる。成長が止まることが危機と捉へ、經濟成長率が高いことが幸福であると單純に盲信する。成長が止まることが、德性を高める轉機であるとは考へない。しかし、多くの人々は、これが誤りであることを健全な本能の作用によつて解つてゐるはずである。
この點に氣付いたマルサスとその繼承者は、飽和絶滅の危機を認識し、それを回避するためには、飢餓、貧困、戰爭などによる人口抑制原理を受け入れた。そして、その上で、このやうな悲劇の繰り返しを回避するために、道德的抑制や政策的な産兒制限などを主張した。實は、このことは大きな問題提起を投げかけてゐる。それは、飢餓、貧困、戰爭を人類の生存にとつて「善」と認識しうるか否かといふことである。これを既存の倫理道德や合理主義に基づく人權思想で否定することはたやすい。ところが、これを否定しつつも、合理主義と進化論に基づく優生思想によれば、医學的な人口抑制を肯定しうるのである。これは、明らかな矛盾である。軍事的に殺戮することを否定しながら、醫學的に殺戮することを肯定するからである。そして、いま、温室效果ガスの排出制限だけを熱心に議論する者は、飢餓、貧困、戰爭を「惡」とし、さらに優生思想も「惡」とする「人道思想」に基づいてゐる點において共通するが、そんな僞善者たちの小田原評定の果てには飽和絶滅しかない。しかも、それは、人口問題の對策を疎かにしたことにより、飽和絶滅を察知した人類の自己保存本能の行動によつて訪れる飢餓と戰爭で世界が崩壞するのである。まさに「愚によつて滅ぶ」人類の姿である。
人類は、決して自然災害や異常氣象だけでは滅亡しない。むしろ、それを契機とした政治的要因によつて滅亡するのである。前出のアマーティア・センの『飢餓と公共の役割』に關する研究によれば、「貧困とは自由の缺如である」とし、全ての飢餓や貧困は、たとへ自然災害を契機とする場合であつても、終局的には不平等と自由の缺如といふ政治的要因に全て起因するとした。さらに敷衍して説明すれば、人類は、天變地異が多發すると、食料などの確保に不安を抱き生存の危機を感じることによつて保存本能が作動し、異變に適應しうる少數の強者が自己生存をはかるために食料等を獨占することにより、飢餓と貧困が加速して人口抑制がなされ、これに對抗して適者生存競爭に參加する者との爭奪によつて戰爭が誘發されるといふことである。
では、マルサスのやうに、飢餓、貧困、戰爭を「善」として諦觀するだけでよいのか。確かに、本能は、生存を維持するための指令であり、この「性善説」からしても飽和絶滅を回避するための本能行動によつて起こりうることは、究極の生存を維持するためのものとして受け入れざるを得ない。
しかし、人類は、そのやうな極限状況における生存の維持だけを本能の指令としてきたのではない。それを回避し、そして、その危機感から誘發される飢餓、貧困、戰爭もまた事前に回避して繁榮を保つことも本能の指令なのである。
それゆゑ、マルサス派が主張する、道德と政策による人口抑制といふ方向性は正しいとしても、現状のままでは實效性に乏しい。それは、人の營みと社會構造を變革せずして、現状のままを維持する限り實現は不可能であることを意味する。そのために、唯物論と進化論、そして、これと不可分一體となつた優生思想と合理主義が忍び込んでくる隙を與へてしまつてゐるのである。
經濟學は、このやうな經濟における本質的な問題に全く沈黙し、むしろこれらの問題を解決しうる新たな經濟思想を提示しないことを本分と錯覺して死學に成り果てた。いまや、經濟思想を主張する熱き經濟學者は一人も存在せず、現在の經濟動向を解説する經濟評論家(豫想屋)しか存在しないのである。
貨幣制度の本質
レーニンは、大正七年(1918+660)のロシア共産黨(ボリシェヴィキ)第二綱領で貨幣制度を戰略目標として廢止した。貨幣制度は、資本主義の要諦であり、これによつて私有財産制による富の蓄積を生み、富の遍在と生産財の獨占、階級形成の原因であるとするのがマルクス・レーニン主義の根幹理論であつたからである。ところが、レーニンは、翌年(1919+660)にこれを放棄してしまつた。これによつて、經濟理論としての共産主義は放棄されたことになつた。
嚴密にいふと、私有財産制と資本主義とは同じではない。ところが、資本主義の否定のためには、私有財産制と貨幣制度を否定することにあるとした短絡的な認識にマルクス主義の根本的な誤りがある。私有財産制とは、そもそも財産を家族が家産として使用收益することを保護する制度であり、いはば「使用價値の保護制度」である。家族主義、同族主義を基底として、その生活を維持する「恆産」としての家産を所有することである。「恆産なければ恆心なし」として、これが確保されるがゆゑに民度を維持しうるのである。幕末のころ、歐米では、賣却が禁止され、これに對する強制執行も禁止される土地等の特別財産として出現したが、我が國では、古來より、「身代」とか「身上」と呼ばれてきたものである。幕藩制では幕府から領主は「所領安堵」され、家來の家産の承繼が「本領安堵」されてきた。これは、個人所有が原型ではない家産制度である。土地を主とした家族共同體の共同生活基盤となる特別財産であつた。貨幣によつて蓄財するといふことは家産制度にとつて本質的なものではなかつた。
これを法制度の觀點から考察すると、家族や同族(大家族)を「法人」と捉へて、その法人(家族法人、同族法人)の所有する財産が「家産」といふことになる。家族を法人とし、家族の構成員である個人に變動があつても、家族は「動的平衡」を保つて不易であり、家産は恆産となるのである。個人が土地建物などの恆産を所有することをせず、全て家族法人が所有することになる。家産は、個人の所有ではなく、祖先から受け繼いだ家族法人の生活基盤となる財産であり、それを子孫に承繼させることからして、恆産の個人所有を否定することは當然のことである。
これに對し、資本主義は、家族所有ではなく個人所有を原型とする。私有財産制と契約自由の原則を前提とするものではあるが、財貨を使用收益することに目的があるのではなく、それを生産要素として商品を生産し、賣却による利潤の獲得に目的がある。いはば「交換價値の保護制度」である。土地も資本も勞働も全て生産の要素として、すべては利潤の獲得のためにある。勞働力も商品と看做す。そこには家産といふ認識は全くない。貨幣によつて蓄財することは、利益の蓄積として資本を形成し、新たな利潤追求のための投資準備となるもので、資本主義の本質的なものである。經濟價値を抽象的に集約した貨幣によつて蓄積した資本は、それ自体が生き物のやうに自己增殖を圖るのであり、これが、資本主義の本質であり原動力となるのである。そして、資本主義は、商業資本主義、産業資本主義、金融資本主義へと變容を遂げ、家産保護のための私有財産制の守備範圍から遥かに遠いところに行つてしまつたのである。資本主義といふよりも「利潤主義」と言つた方が適切である。
物(商品)には、物の有用性と效用に着目した使用價値と他の財貨との交換によつて認識しうる交換價値の雙方があるとされるが、金融資本主義の主役となる貨幣や證券化商品などには、そもそも使用價値はなく、交換價値しかない。これを商品と呼ぶことに概念の混亂を生んでゐる。このことからしても、金融資本主義は、本來の資本主義(商業資本主義、産業資本主義)から遊離した存在であることが解る。
このやうに、私有財産制と資本主義、貨幣制度の關係を認識すべきなのであるが、マルクスがこれらを一體のものと認識し、貨幣制度の廢止によつて資本主義が否定できるとしたにもかかはらず、どうしてソ連では貨幣制度の廢止ができなかつたのかについては、まづは貨幣制度の本質についてさらに考へる必要がある。
一般に貨幣の機能には、①決濟手段、②價値尺度、③價値貯蔵手段の三つがあるとされる。富の蓄積が諸惡の根源であるとしたマルクスは、このうちの③に着目したためである。しかし、現實の交換經濟社會は、①と②によつて支へられてゐるために、貨幣制度の廢止は物々交換を餘儀なくされ、經濟の停滯を生んだからである。ここに共産主義の未熟さがあつた。
その點に關しては、ロバート・オーエン(Robert Owen)の方が論理的であつた。勞働の對價として有價證券としての勞働券(勞働證券)を取得する。それを貨幣として流通させようとするのである。ウィリアム・ペティが提唱した、勞働のみが經濟價値を生み出す源泉であるとする勞働價値説を前提とすれば、それなりの論理性はあるが、具體的に、その勞働價値の單位は、提供された勞働時間なのか、勞働の結果(成果)なのかといふ點が解明されてゐない。勞働時間は客觀的に數値化が容易であるが、勞働成果の數値化は困難である。勞働時間が長くても未熟練であつたり勞働内容に瑕疵があれば勞働の成果は少ない。これに對し、短い勞働時間でも絶大な成果を上げることもある。これは、勞働のみが價値の源泉とする假説の危うさと、勞働の時間(量)と效率(質)、完成品の精度(品質)の差異を價値的に區別しえない致命的な缺陥があるといふことであつた。
これらの點をそれなりに深く考察を試みたのがマルクスであつた。しかし、資本主義の問題點の指摘と問題意識についてのマルクスの方向性は正しかつたが、労働力が「價値」を生む源泉であつたとしても、そのことだけが「價格」の決定要因ではないこと、労働力といふ供給側(生産側)の側面だけで價格を考察し、需要側(消費側)の事情を無視するために、絶對的剰餘價値、相對的剰餘價値、特別剰餘價値などの難解で不明確な概念を定立しなければならなかつたこと、償却資産である機械や建物を不變資本としたこと、同じく不變資本とする原料の減耗損を考慮してゐないこと、これらの價値減少分を労働力(可變資本)の剰餘價値から控除してゐないことなど、精緻な會計學などによる論理的な分析からすれば餘りにも稚拙な理論であつた。
そもそも、勞働が經濟價値の源泉であり、それを有價證券化したのが通貨であるとすれば、富を生み出す者が通貨の「發行權」を有するものでなければならない。國家が發行權を持つことの根據が見いだせない。貨幣價値の基準が勞働總量とは無縁の金(gold)の量と結びつけた金本位制度ではなく、國民の勞働總量と結びつけた勞働本位制度でなければならないはずである。ところが、勞働價値説に立ちながら、個々の勞働者に通貨發行權を認めず、國家にそれを獨占させ、しかも、勞働總量とは無關係に貨幣價値を金本位制に結びつけたのは決定的な矛盾であつた。
勞働總量に貨幣價値の基準を求めるとすれば、勞働總量に對應する貨幣總量が一定であるはずがない。勞働總量は日々增減する。そして、勞働總量は、勞働の集約である財貨(商品)の總量に對應するが、財貨は生活や産業活動によつて費消されるので、費消分の貨幣總量は減少させなければならない。たとへば、農業勞働によつて食料が生産されたとする。すると、食料生産總量に對應する勞働總量によつて貨幣總量は決定する。ところが、食料が費消されると、その分だけ貨幣總量を減少させなければ、勞働總量と貨幣總量との均衡が壞れるが、それでも貨幣總量は當然には減少されない。そこに、經濟の基礎的條件(fundamentals)からかけ離れた水增しの貨幣經濟が一人歩きする原因が生まれる。
この點に關して、シルビオ・ゲゼル(Silvio Gesell)は、『自然的經濟秩序』(1914+660)といふ著作の中で、あらゆる財貨が費消されたり減耗して減價するのに、その價値尺度である通貨だけが減價しない矛盾を指摘して、金利の徴收を否定し、貨幣の退蔵化を防止する提案をした。しかし、この著作はマルクスの『資本論 第一卷』發刊から約半世紀後であつたことから、マルクスは、勞働價値説と貨幣制度との關係について、ゲゼルの見解を受け止めて考察することができてゐなかつたのである。
人の營みに必要な財貨は、主として勞働によつて增加するものの、それが消費され、あるいは事件、事故、災害などによつても減少する。異種の財貨を物々交換することが交換經濟の原型であるから、貨幣が財貨の代用であれば、江戸時代において基幹物資であつた米(コメ)に通貨代用機能を持たせた米本位制度の方が、經濟の基礎的條件(fundamentals)を滿たしてゐたはずである。
ところが、財貨總量とは無縁に機能してゐる現在の世界における貨幣制度は、その後に、金本位制度からも離脱し、金融政策を擔當する通貨管理當局の自由裁量によつて通貨總量を增減する管理通貨制度に移行することによつて、益々虚構の經濟を生み出す元凶となつてゐるのである。いまや、貨幣(通貨)には、その裏付けとなる價値の源泉は存在しない。通貨とは、通貨發行權を有する國家や團體が氣儘に印刷すればいくらでも流通する時代となつたのである。通貨に對する人々の「信頼」といふのは、通貨には安定した價値の保証がなければならないとして金本位制度が實施されてゐた時代の「殘像(幻想)」である。いはば、「パブロフの條件反射」のやうに、現代人の通貨に對する「信頼」といふのは、通貨には安定した價値はないのに(餌は出てこないのに)、通貨を見れば(ベルが鳴れば)、それに價値があるものと錯覺する(ヨダレが出る)といふ信仰的な幻想なのである。この信仰心は、無神論者と雖も例外なく持つてゐる極めて鞏固なものであつて、この「通貨教」は最大・最強の世界宗教であると云つても過言ではない。
そもそも、金本位制度といふのは、金(gold)が世界的な稀少物であり、その生産量が急激には增加せず、また、費消による減少もあつて、その總量が安定してゐる上に、それ自體が高い使用價値を備へ、しかも、永久に變質しない耐久財であることによるものである。世界的な稀少物としての耐久財を貨幣にした試行錯誤の結果である。アステカではメキシコ一帶で自生するカカオの實から採取されて作られるチョコレートは王侯貴族だけにしか口にできない稀少物として珍重され、これが貨幣としても用ゐられたことがあつたのも、その一例である。ともあれ、金本位制度が長く維持されたのは、やはり金(gold)の生産量が世界的に急激には伸びず、しかも、それ自體の使用価値があることによる費消量との關係で、その總量に大きな變動がなかつたことにある。つまり、これに對應する貨幣總量も大きく變動させないことが通貨制度についての國際的な基本的認識であつたからである。
そして、そのことを前提として、國際通貨が流通した。當初は、世界を席卷した大英帝國のポンドであり、その國家的衰退とともに、次に登場したのがドルである。しかし、現在、國際通貨とされてゐるドルは、米國が國家として發行してゐる通貨ではない。平易に言へば、民主的に選任されない者が支配する連邦準備制度理事會 (Federal Reserve Board FRB)といふ私的機關である民間銀行が發行する債權證券であり、これを米國政府が發行した米國債と引き替へに買取つて流通させてゐるものである(文獻197)。米國政府は、FRBの株式を一株も保有してをらず、FRBは米國政府の會計監査も受けない完全な民間企業である。そして、米國政府は、FRBに對し、ドル紙幣の購入費と米國債の金利を米國民から徴收した連邦所得税から支払ふ。しかし、アメリカ合衆國連邦憲法の第一章第八条第五項には、「合衆國議會は貨幣發行權、貨幣價値決定權ならびに外國貨幣の價値決定權を有する。」としてゐるので、この制度は完全な憲法違反状態である。そのため、これを違憲であるとして訴訟を起こして勝訴した相當數の米國民は、その連邦所得税の支払を免除されてゐる始末である。
このやうな事態となつてゐるのは、米國が獨立戰爭に勝利して獨立したものの、國家經綸の財源が脆弱であつたことから、米國政府は、歐洲の民間銀行から借財し、實質的に通貨發行管理權を賣り渡し、經濟的獨立(經濟主權)を喪失したことによるものである。
そして、米國のこの屈辱的な金融制度を全世界に廣めさせ、米國の金融制度こそが世界基準であるかのごとく喧傳し、世界に向かつて「金融と財政の分離(金財分離)原則」を唱へた。つまり、米國政府は、經濟政策の二つの柱である財政政策と金融政策のうち、金融政策をFRBに奪はれたことを正當化し、他國も同樣にさせることにより、他國の經濟主權を減殺させて世界を均一化させることによつて相對的に米國の國力を浮上させようとする畫策である。本來、金融と財政の一體性(金財一體)を維持することが經濟的獨立(經濟主權)を確立させることであるにもかかはらず、米國政府(その背後者であるFRB)の口車に乘つて我が國も日本銀行法を制定した。そして、その第一条で、日本銀行を中央銀行として通貨發行權を與へ、同第八條で、日本銀行の出資金は政府と民間とが出資して金一億圓とし、その内の政府の出資金は、金五千五百万圓を下回つてはならないとして、これに基づき、現在、政府(財務省)は金五千五百四万五千圓を出資してゐることになつてゐる。しかし、民間の出資者は公表されてゐない。いづれにせよ、これは、金財分離による經濟政策の不統一が生まれる第一歩であつた。そして、さらに、米國政府とFRBに隷從する者の畫策によつて、金財分離を完璧にさせるため、日銀の出資と人事及びその金融政策を政府から完全に分離獨立させる「日本銀行民營化」の方向に進む懸念がある。
加へて、國際收支の赤字を補填するための外貨流動資産である我が國の外貨準備高の九割以上が外國爲替であり、その殆どが米國債であるが、それを賣却することを決して許さないFRBとその傀儡である米國政府の壓力によつて、金(gold)は一パーセントに過ぎないため、經濟的獨立(經濟主權)に乏しい米國にさらに追随する我が國には經濟的獨立(經濟主權)はおろか國家の獨立(國家主權)なるものが無きに等しい現状にある。
さらに、前述のとほり、現今の通貨制度に依據した國民經濟計算(SNA)において、經濟の規模を測定するについても、財貨の減少といふ、本來であれば負(マイナス)の値として認識しなければならないものも、正(プラス)の値として「絶對値」で認識して計算をする。消費、減耗、減價などは財貨の減少、つまり、有り高計算(ストック)では減少してゐるのに、延べ計算(フロー)では二倍に增加したものと認識するのである。プラス・マイナスでゼロのものを二倍(twice)と計算するのである。そこに財貨の有り高と貨幣の有り高、さらに經濟規模の認識とがさらに乖離し續ける原因がある。そして、過剰な生産、流通、消費、そして大量廢棄といふ無駄の增大を「經濟成長」と錯覺し、このやうな貨幣制度による徒花にも似た經濟構造において、アメリカを主賓にして花見酒で遊興するといふ極めて不健全な世界に陷つてしまつてゐるのである。
現代産業社會の限界
現代社會は、工業生産中心の産業經濟社會である。これは、全産業に技術革新をもたらした産業革命から今日に至るまで全世界を支配してゐる「生産至上主義」で統制されてゐる。この生産至上主義とは、産業生産が大きくなればなるほど人類は、生産によつて得られた豐富な財貨を所有し、使用し、消費することによつて福利も大きくなるとしたうへで、産業革命による技術革新の恩惠は、全産業部門に飛躍的發展をもたらすことにより、限りなく歴史は進歩發展するとの單線的な進歩發展史觀のことである。
一般に、全産業構造を理解する説明として、全産業部門を第一次産業(農業、畜産業、酪農業、林業、漁業など)、第二次産業(鑛業、加工業、製造業、建設業、電氣・ガス事業など)及び第三次産業(商業、運輸業、通信業、金融・保險業、サービス業など)に分類し、第一次産業と第二次産業による「生産」部門は、第三次産業の「流通」部門を經て「消費」部門へと向ふとの基本認識である。しかし、ここには、「消費」によつて發生する廢棄物の無害處理及び資源再生利用處理などの「再生」の觀點が完全に缺落してゐた。といふよりも、再生過程は、當初は原則的に産業ではなく、從つて、資本が投下される對象とはならなかつたのである。生産過程で重視されるのは、資本と勞働の「生産性」や「利益性」などの經濟效率の向上であり、再生を踏まへた生産は、これらを低下させることになるから埒外の事柄であるとされた。その觀點の缺落が「公害問題」や「産業廢棄物處理問題」などを發生させ、その處理需要が社會的に認識されることにより、再生過程は新たに産業として新規參入してきたのである。しかし、處理需要が存在しないものは産業化されずに全く放置される。今、地球で起きてゐる諸問題の多くは、再生過程に關する問題であり、處理需要がなくて産業化されてゐない部門や、技術的に産業化が立ち遲れてゐる部門などに問題が集中してゐる。
從つて、この生産至上主義は、「生産」部門の觀點からみれば「生産の擴大」であるが、「再生」部門の觀點からは「廢棄物の增大」であつたのである。
ところで、この生産至上主義を「資本」原理から全面的に肯定した資本主義は勿論のこと、資本主義を「勞働」原理から修正したマルクス主義もまた、生産至上主義の本流である。マルクスにも、「再生」の觀點がなく、「公害問題」の認識はなかつた。本來、公害問題の個別事例や派生形態として認識すべき職業病などについても、專ら勞働原理からの觀點により、これを勞働力の再生産段階の「賃金問題」のみに置き換へたのである。
このやうな生産至上主義によれば、生産に必要かつ經濟效率の高い資源を用ゐることになる。それは、調達コストで決するのであり、生産に不可缺な大量消費物資である動力源(エネルギー)を埋蔵燃料(石炭、石油、天然ガス等)とすることは必然的であつた。石炭から石油などへの轉換は、この調達コストと産業的汎用性の問題に盡きるのである。しかし、石油等の埋蔵燃料の産出といふのは、鑛業の一種で第二次産業に屬するものであつて、その埋蔵燃料は地球の構成物であり埋蔵量が有限であるとともに、その大量消費は、産業革命の發祥地であるイギリスのロンドンで發生したスモッグなどの公害を引き起こし、地球の大氣構成に影響を及ぼすことは當初から豫測しえたのであつて、その利用によつて地球生態系の破壞と資源の枯渇が起こり、産業自體が限界に到達することは容易に推測できた。
また、自動車や家電製品の生産のやうに、性能には殆ど差異はないのに年々デザインを刷新した耐久消費財を過剰生産し、消費者の過剰消費と購入を促進させるための宣傳廣告などの販賣促進を行つて消費者を洗腦し、新製品を買ひ替へて舊製品を廢棄する奢侈こそが「豐かさ」であるとの歪んだ社會風潮を生み出した。耐久消費財の概念は既に過去のものとなり、舊型製品には見向きもしない有樣であつて、今や、自動車や家電製品などは「生鮮食料品」にも等しい扱ひである。自動車の大衆化(モータリゼーション)は、過剰消費を世界的に蔓延させてゐる。質素儉約の精神は美德として評價されなくなつたのである。
生産至上主義を支へるのは、徹底した分業體制であり、それは國際分業體制に通ずるのである。分業といふのは、會計學と經濟學の見地からすると、これまでは一つの企業内で内部取引として處理され、獨自にはGDPの對象と認識されなかつたものが、分業をすることにより社外調達(アウト・ソーシング)することによつて、対外的な取引へと轉換して需要と供給とに分離し、それぞれGDPの認識の對象となる現象のことである。つまり、分業が細分化すればするほど、效率は高まつても仕事の總量に變化はないのに、經濟規模だけは擴大するといふカラクリになつてゐるのである。
マルクスも、生産至上主義の立場を堅持して、世界市場の建設は、資本主義體制の國際的性格を發展させるものであり、これは、機械制大工業による大量生産の社會的性格の發展と竝んで「歴史の進歩」を意味するものであるとして、共産主義社會の前提として自由貿易主義を主張してゐた。自由貿易主義は生産至上主義の必然的な歸結なのである。しかし、その結果は、「南北問題」が一段と深刻化し、國家間の貧富の差(南北格差)は更に擴大するのみならず、窮乏化する國家の内政を不安定にし、支配者及び富裕層と被支配者及び貧困層との乖離は絶望的な對立状況を生むに至つてゐる。
しかも、資本主義世界において、共産主義が脅威であつたころは、貧富の差が擴大することに懸念を抱いたが、共産主義が壞死状態となつた今日では、貧富の差が擴大することを「進歩」のあかしとして歡迎する傾向にある。
このやうな貧富の差や南北格差が發生する根本矛盾を隱蔽し、生産至上主義を維持するための免罪符として、政府開發援助(ODA)などの經濟援助を行ふが、その實態には、自國の企業に對する援助や窮乏國家の支配者に對する援助の側面と、その國民に生活物資を供給するための援助の側面がある。前者の欺瞞は言ふに及ばないが、後者もまた結果的には國民の自立再生を阻み、窮乏國家を「人間保護區」とするに等しく、「人間サファリパーク化」であり、「奴隷牧場化」させることになる。物を與へるだけで、仕事を與へない。産業や技術を誘致して地元に根を下ろす雇用創出産業を育成させないのである。これらの施策が原因となつて、世界各地では、人口爆發が起こり、生活水準は向上しない。そのため、これらの不滿が、宗教紛爭、民族紛爭などを引き起こし、國内紛爭や國家間紛爭が激化して、難民や移住者などの大量發生や大量の人口移動が慢性的に繰り返され、今や一國では對應しきれない國際問題となつてゐる。
世界全般では、核兵器、原發、軍縮、異常氣象對策、地球環境、人口調整、食料確保、エネルギー確保、貿易摩擦、宗教紛爭、民族紛爭、地域紛爭などの國際問題が山積し、各國でも、交通澁滯、都市集中、水質汚染、廢棄物處理、教育、醫療、福祉、介護など數へれば切りがないほどの樣々な問題を抱へ、さらに、一方では人工爆發の問題があり、他方では高齡化、少子化の問題があるといふやうに、問題が個別化する樣相を示すなど、これらの問題が一國では解消しえない程度に至つてゐる。
さらに、我が國では、これらの問題に加へて、政官財(業)の癒着腐敗による混迷、官僚制の弊害、官僚の組織的不正、政治家の能力低下、瑣末な論議に終始する政治の空白、出生率の低下と就業可能人口の減少による國勢全般の下降傾向、醫療・厚生・福祉・介護、年金などの關連豫算の增加傾向、高齡化社會對策の不備、過疎化、農村崩壞、さらに、水・食料・資源・エネルギーなどの「基幹物資」の自給率の低下、コメの自由化などによる農業の疲弊、經濟貿易摩擦、ODAの擴大、占領憲法の呪縛と自衞隊のあり方、PKO活動、周邊事態、對米從屬の弊害などの多くの問題に直面してゐる。
政官財(業)は三位一體となつて國際貿易を推進してきたが、これらの體制を支へる多數決原理の民主主義が形骸化し、官僚統制國家(全體主義國家)に陷つたために、思考が硬直化してゐる。そのため、これらの諸問題を效率良く解消しうる理念や、その解消のための總合的政策が立案されず、刹那的政策又は無策による混迷と無明が續いてゐる。これは、日本だけに限らず世界共通の事態であり、このままの状態が續けば、問題はさらに深刻となり世界各國は悉く破局を迎へる危險が迫つてゐる。
さらに、産業構造を支へる基盤においても變化が生じてゐる。マルクスが指摘したやうな、資本家が勞働者(プロレタリアート)を搾取し、勞働者が窮乏化するといふ一方方向のみの問題はなくなり、その後の資本主義社會は、勞働者が「消費者」となることによつて、勞働者は單なる搾取の對象ではなくなつてきた。資本家に支配され搾取される勞働者が、その得た賃金を以て商品購買力を持つ消費者として資本家の前に登場し、商品のより高い付加價値を求めることによつて、逆に資本家の活動を推進させ支配するといふ循環的な協力關係が構築された。この循環の中において勞働運動は終息し始める。しかし、このことは、資本家と協力關係を濃密に構築する富裕層の勞働者を生み出したものの、新自由主義(市場原理主義)が席卷することによつて、絶對貧困層を增大させ、この絶對貧困層は次世代勞働者を供給することが不能となつてゐる。新自由主義經濟下で不安定な雇用關係や勞働状況にある非正規雇用者や失業者を、precario(不安定な) Proletariato(無産階級)といふ意味のプレカリアート(伊precariato)といふ造語で總稱することがあるが、これは、まさしく新たに爆發的に增大しつつある絶對貧困層のことである。結婚、出産、育兒といふ過程を經て、次世代勞働者を社會に送り出す母體となる家族生活をすることが經濟的貧困のためにできない。結婚ができない。出産ができない。育兒ができないのである。これは將來における勞働の供給不能といふ側面もさることながら、「倉廩實ちて禮節を知り、衣食足りて榮辱を知る」(管子)ことができず、延いては家族の崩壞といふ由々しい事態を招く。そして、その貧困層の老齡化による社會福祉費の增大によつて、資本家と富裕勞働者層との協力循環の規模は縮小し、勞働運動は絶對貧困層についてのみ生き續け、より過激な方向になるであらう。「格差社會」といふのは、勞働者層の二極化のことであり、マルクスが豫測しえなかつた新たな「窮乏化理論」が登場しうる社會となりつつあるのである。
ところが、前述したとほり、現在の經濟學は、これを是正するための經濟思想や經濟理論の構築を放棄してゐる。そのため、新自由主義(市場原理主義)に對する齒止めがないまま、生産至上主義がさらに增殖し續けるのである。
生産至上主義の修正と破綻
これらの生産至上主義の矛盾を克服しようとして、過去に幾つかの修正が試みられた。
その第一の修正主義は、「福祉主義」である。これは、生産至上主義の歪みである貧富の差の擴大を政府が是正しようとして、補助金支出や福祉豫算支出などを試みて、富の再配分を圖らうとすることである。しかし、生産至上主義の最大の恩惠を受けてゐる事業者がその財源を負擔するのではない。支出財源は税收入であつて、あくまでも間接的な再配分である。しかし、税制の歪みから事業者には負擔が薄く、消費税などのやうに國民からの均等調達によつてゐる。これは、税制と税率の樣相によつては、事業者と勞働者との間での再配分ではなく、勞働者間だけの再配分となることが多い。それは、勞働者層のうち富裕層から貧困層への間接的配分となる場合もあるが、富裕層の負擔が少なく、主として中間層から貧困層への再配分になつたり、極端な場合は、貧困層間の再配分となつてしまふこともある。
また、福祉主義では、産業活動に伴ふ事故や災害などの被害についても、各産業部門の受益者負擔の原則は貫かれてゐない。これは、政官財(業)の構造的癒着によるものであつて、福祉主義とは、生産至上主義を修正するのではなく、その矛盾を隱蔽して、生産至上主義による政策をさらに推進しようとする理念にすぎない。生産至上主義の延命を目的とする理念である。また、福祉豫算の增大が行はれても、その增大部分の大半は、福祉の分業化による經費の增大に吸收されて、直ちに福祉の充實には結びつかない。即ち、社會的弱者を援助・介護する人員や施設が專門化して複雜となり、それらを維持管理する固定經費が增大するに過ぎず、要保護、要介護の人々のための實質的な福祉の增進とはならないことが多い。さらに、補助金行政の弊害も深刻である。これも社會的弱者救濟の名目でなされてゐるのであるが、補助金に依存した弱者體質をさらに促進するに過ぎず、結果的には、補助金支給がなければ生存すら危ぶまれる社會的弱者の擴大再生産をしてゐるに過ぎない。これは、ホルモン注射をし續ければ、生體内のホルモン生成臓器を退化させ再生不能に至らしめる恐ろしさと同じである。
これが、國内に留まらず、國際化した現象がODAであつて、社會的弱者の自立更生の道を閉ざし、支配者に生殺與奪の權利を完全に付與する構造體質を完成させる。これは、現代的奴隷制社會の到來である。
このやうな福祉主義政策の矛盾は、先づ、初期の局地的な産業公害問題や環境汚染問題の發生となつて現れた。産業公害問題や環境汚染問題は、生産至上主義の矛盾であり、その根本解決は、少なくとも生産至上主義を換骨奪胎しなければならなかつた。ところが、その公害を直接に發生させてゐる企業と、その企業の監督を怠つた政府の責任であるとの「企業責任論」や「政府責任論」で片付けられた。さらに、この企業責任論は、訴訟的結果責任論であり、將來發生しうる企業責任を自覺させる意味を含んでゐないため、この將來の責任の引き受けを求める「企業の社會的責任論」へと展開していつた。ここでは、企業と政府が惡、國民が善といふ善玉惡玉二分論による認識であり、生産至上主義の終局的恩惠を享受してゐる社會そのものの責任といふ觀點が缺落してゐた。
このやうな情況の下で、産業公害はさらに進んで、現在の地球規模に至る環境問題が發生したため、今度は、善玉惡玉二分論では説明がつかなくなつてしまつた。そこで、企業の社會的責任論をさらに敷衍し、經濟成長と環境保護とを調和させるために、生産至上主義による經濟發展を抑制しようとする「減速經濟主義」が登場した。そのスローガンは、「地球にやさしい」である。しかし、今、地球が病んでゐるのに、「地球にやさしい」といふのは矛盾である。病人を優しく手心を加へて慢性的に痛め續けるといふ、殘酷で陰濕な「イジメ」に似たものであつて、決して病氣を治療するためではない。これは問題を解消しつつ産業を發展させるのではなく、問題の發生速度を緩めつつ發展を考へるにすぎない。地球環境の改善は、一個人や一企業の自覺と努力も必要ではあるが、そんなものだけでは根本的な解決はされない。これまでの管理會計的な側面に、環境會計的な手法として、マテリアルフローコスト會計(MFCA)などの小手先だけの技法が編み出されてゐるが、社會構造自體を變革することの自覺と努力がなければ環境問題の解決は不可能である。社會構造に手を付けずに、大量生産、大量消費の社會構造に身を置いたまま、趣味的な自覺と努力で一人一人が節約を續けるといふ考へ方は、新たな福祉主義として位置づけられるが、いづれも理念と現實において破綻してゐるのである。
ところで、共産主義は破綻したが、先に述べたとほり、企業と政府が惡、國民が善といふ善玉惡玉二分論は、共産主義者が抱く企業に對する單細胞的な憎惡を共有してをり、その背後にある生産至上主義の矛盾に氣づかない愚かさゆゑに、共産主義者の殘黨にとつては「渡るに船」の思想となつたのである。
次に、生産至上主義の修正主義の第二として擧げられるのは、金日成の「自力更生論」と、これを人間中心主義の哲學的原理までに發展させたとする「主體思想(チュチェササン)」である。
ところが、現在、朝鮮民主主義人民共和國(北朝鮮)が、人間中心主義ではなく、個人崇拜と絶對者中心主義によつて、人民に暴力と飢餓を與へる彈壓が繰り返され、日本人を含む多数の他國人を拉致するなど、邪悪な獨裁体制による犯罪國家であることからすると、この理論には致命的な缺陷があつたことを推認して餘りあることになる。
しかし、北朝鮮の政治形態の評價と主體思想自體の評價とは、一應これらを切り離して檢討するとすれば、北朝鮮の政治形態と主體思想との歪みは、ヤルタ・ポツダム體制に對抗する第三世界の實情と分斷國家の國民の悲劇を象徴してゐるものと思はれる。
この「自力更生論」とは、當時、中ソ論爭の狹間に立つた第三世界建設の獨自の理念として、社會主義國際分業内にあつて、可能な限り自力で重工業などの基幹産業について民族的な自立經濟を創造するとの思想であり、また、「主體思想」とは、「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する。」との基本認識に立ち、マルクス・レーニン主義の物質偏重思考に對して、人間の主體性を絶對的決定要因とする思想であるとされた。つまり、理念としての「自力更生論」と「主體思想」は、物質偏重思考から脱皮し、民族自決と自給自足經濟の確立に向けた過渡的な試みである點において評價しうるのである。
ところが、自力更生論といふのも掛け聲だけの無内容なものであり、共産圈内での分業體制を自國に有利に構築したいとする願望に過ぎず、自給自足經濟への道にはほど遠いものがあつた。また、主體思想といふ人間中心主義は、進歩・發展とは人間と自然との對決において人間が勝利を收めることであつて、これは、單線的進歩發展史觀に毒された生産至上主義の眞髄に他ならないのである。
しかも、生産、流通、消費といふ一方通行だけで、再生の觀點が缺落してゐるのは、やはり、人間中心主義であるためであつて、必然的に地球的限界に直面することになる。
それゆゑ、これらの思想は、共産圈に屬しながら第三世界の建設といふ政治的空想を抱き、しかも、自給自足經濟の確立のための手段と方法が何一つ提示できない空理空論であつたため、生産至上主義の矛盾を克服するどころか、それに浸りきつたものであつて、大言壮語の掛け聲だけに終はつた。そして、そのことは、北朝鮮の現在の政治状況が如實に示してをり、中共を含めその他の第三世界においても、「開發獨裁」といふ全體主義的な生産至上主義を指向してゐることと無縁ではないのである。
基幹物資の缺乏
以上の檢討によれば、生産至上主義は、人類が地球上に生存するにおいて、自らの首を絞める思想であつて、いづれの修正主義もこの本質的矛盾を克服することはできない。ベルリンの壁の崩壞に象徴される世界の變化は、資本主義が共産主義に勝利したのではなく、生産至上主義計畫經濟を全體主義的に展開する歴史的實驗が失敗したに過ぎない。資本主義といふ生産至上主義の將來に展望が開けたのでは決してない。あたかも、同じ親から生まれた兄弟において、弟を亡くして狼狽へる兄の姿にも似てゐる。
そこで、新たな人類と地球の安定と共生のための理念を創造するについて、先づ、國家、世界、地球を政治的、經濟的に不安定化する要因が何であるのか、その本質についての分析と認識から始めなければならない。
思ふに、まづ、世界の「不安定化要因」の第一に擧げられるのは、食料不足に代表される「必需物資の缺乏」である。生活必需品及びそれを生産、保存、流通させるため必要な水・食料・資源・エネルギーなどの「基幹物資」が確保できないといふ危機が最大のものである。このやうな危機は、戰爭や内亂などの人爲的なものや、異常氣象や災害などの自然的な原因による凶作などもあるが、それは一次的な原因であつて、凶作などによる飢餓と貧困は、究極的には政治的要因と云へる。
前述したとほり、アマーティア・センによれば、「貧困とは自由の缺如である」とされ、全ての飢餓や貧困は、たとへ自然災害を契機とする場合であつても、終局的には不平等と自由の缺如といふ政治的要因に全て起因するとされた。それゆゑ、たとへば、北朝鮮における人民の飢餓と貧困は、「暴政」といふ典型的な政治的要因によるものであつて、それを解決するには政權打倒しか解決策はなく、經濟援助で解決のできる問題ではないのである。
ともあれ、このやうな飢餓と貧困をもたらす政治的要因の根底には、水・食料・資源・エネルギーなどの「基幹物資」を他國に依存するといふ基本的な自由貿易の國策が存在してゐる。基幹物資の安定供給は、國家の獨立を經濟的側面から支へる重要な要素である。國家の獨立とは、基本的には政治的獨立であるが、經濟的に他國に從屬することは、結果的に政治的獨立を失ふ。それゆゑ、基幹物資を完全に自給してゐる國家こそが、眞の獨立國家であり、他國にそれを依存しない點において「安定國家」と云へる。なぜならば、逆に、國家が、すべての基幹物資を他國に依存してゐる場合(自給率が零)、他國の政治状況、經濟状況、食料生産状況などが變化すれば、それによつて輸入ができなくなり、國民生活や國民經濟などに重大な影響を及ぼして、國家の存立が危うくなり不安定化する。ましてや、その基幹物資を輸入する相手國と紛爭状態になることは、國家の滅亡を招くことになる。大東亞戰爭は、さういふ意味でエネルギー戰爭であつた。それゆゑ、基幹物資の依存率が高ければ高いほど(自給率が低ければ低いほど)その國家は不安定であり、逆に、その依存率が低ければ低いほど(自給率が高ければ高いほど)その國家の安定度は增すといふことになる。つまり、基幹物資の自給率は、そのまま國家の安定度指數といふことになるのである。
さうすると、世界は、そのやうな安定度指數(自給率)の高い國家が多ければ多いほど世界全體の安定度指數は增すといふことになるのは當然のことである。いはば、世界に占める安定國家の「占有率」が世界全體の安定度指數といふことになる。
この世界に占める安定國家の占有率は、國家數、人口、領土面積などの個々の要素も考慮して考へなくてはならないが、いづれにせよ、これからの國際關係は、全世界が協力して各國の自給率を高め、安定國家の占有率を大きくする方向こそが世界の平和と安定をもたらすことを自覺し、その方向へ向かふことを國際社會が規範化していくことが必要となる。
この方向は、これまで世界が歩み續けてきた自由貿易による基幹物資の國際共存關係を構築してきたことと對極の方向となる。マルクスに決定的な影響を與へたデービッド・リカード(David Ricardo)は、この自由貿易政策を理論的に基礎付けたとされるが、それは「利益」、つまり經濟的利潤の獲得は自由貿易がそれを實現するといふものであつて、それ以上の理論でもそれ以下の理論でもない。アダム・スミスと同じく、これまでの重商主義的な保護貿易政策を批判して、自由貿易政策を唱へた。つまり、自由貿易によつて、各國が輸出對象となる商品の生産費が他國のそれと比較して有利(優位)となる商品をそれぞれ集中的に生産して相互に輸出して貿易することにより國際分業を促進させ、これによつて相互に利益をもたらすとする比較生産費説(比較優位説)を主張したのである。
しかし、この理論は誤つてゐた。それは、我が國が幕末に開國して、明治期に臺頭した國内産業資本の要請によつて、この比較優位説により自由貿易を展開した結果、國際競爭が激化して、リカードの云ふやうな國際分業による相互利益の確保は實現できなかつた。歐米は自由貿易では「利益」をもたらさないと認識し、再び保護貿易主義に戻つた。アメリカでは昭和五年の『ホーリー・スムート法』による保護貿易化であり、イギリス連邦諸國では昭和七年の『オタワ會議』による經濟ブロック化である。これが世界恐慌などの引き金となり、歐米依存經濟であつた我が國は、大きな經濟的打撃を受け、これらの「地域主義(Regionalism)」による經濟ブロック化による經濟破綻を回避するために、獨自の地域主義である大東亞共榮圈の建設を推進しようとして大東亞戰爭に突入した。つまり、我が國は、歐米によつて二階に上げられたのに(開國を求められて自由貿易を強いられたのに)、後になつてその梯子を外された(自由貿易を認めずに保護貿易の壁に阻まれた)といふことである。
そもそも、重商主義といふのは、皇紀二十三世紀から二十四世紀(西紀十六世紀末から十八世紀)にかけて西ヨーロッパ諸國において支配的であつた經濟思想とそれに基づく政策のことであり、自國の輸出産業を保護育成し、貿易差額によつて資本を蓄積して國富を增大させようとするものであつた。
これに對するものとしての重農主義といふのは、ローマ帝國の衰亡が農業生産力の低下にあるとの教訓から、皇紀二十五世紀(西紀十八世紀後半)に、フランスのフランソワ・ケネーなどによつて主張された經濟思想とそれに基づく政策のことである。富の唯一の源泉は農業であるとの立場から農業生産を重視する。そして、重商主義を批判し、レッセフェール(自由放任)を主張したのである。この考へ方はアダム・スミスの思想に大きな影響を與へた。
また、これに類似するものとして、農本主義がある。これは、西洋の重農主義とは全く無關係に、古代支那では、生活必需品である食料を生み出す農業を「本」として、その生産手段としての土地を重視し、それから派生して奢侈品を製造販賣する商工業を「末」とするものである。つまり、古代支那における「社稷」の言葉は、建國に際して土地の神(社)と五穀の神(稷)の二神を祭ることに由來するものであり、これを特に積極的に受け入れたのが儒家(儒教)であつた。そして、これが政治經濟思想の中核となつて、江戸時代の我が國でも受け入れられた。しかし、これは、國學においては、古くは『古事記』にある天照大神の「齋庭稻穗の御神敕」(資料二3)に基づくものと理解されるものであつて、儒教を新たに受容したものではなく、古代理念に回歸したものとして當然のことであつた。
ところが、地球の安定のために「齋庭稻穗の御神敕」を奉じて國家と社稷との雛形構造を維持することをせず、歐米は、リカードの口車に乘せられて國富の追求のため自由貿易主義へと歩み出した。しかし、我が國がこれによつて富國を實現すると、再び保護貿易主義へと旋回した。そして、歐米は、大東亞戰爭後において、過去になした保護貿易主義から再び自由貿易主義による世界を構築し始めた。初めに重商主義的な保護貿易時代から自由貿易時代、そして、この自由貿易の誤りを認識して保護貿易時代へと戻つたが、そのことが大東亞戰爭の原因となつたことから、再び戰爭にならないために自由貿易時代へと再び戻つたといふことに過ぎない。この自由貿易時代へと戻つたのは、自由貿易主義がリカードの云ふやうなものであると再び信じたのではなく、國際政治において、戰爭の危險を回避し、連合國の支配體制を確立するためのご都合主義的な便法である。國際政治的な支配の枠組みを構築するための手段としての制度にすぎず、その自由貿易といふのも、現實は、各國の事情により關税障壁や特定品目の指定などをせざるをえず、完全な自由貿易といふものはありえない。そもそも、完全な自由貿易を目指すといふならば、貿易には競爭力の弱い國の産業停滯や失業の增加などの問題が發生しうることは不可避であつて、これを貿易摩擦と稱して國際政治紛爭の種にすること自體が矛盾してゐるのである。
ともあれ、現在は、再び世界は別の意味で危險な状態となつてゐる。我が國は、徹底した國際分業と相互依存を求められ、自給率を極度に低下させ、「戰爭ができない國」になつた。否、「戰爭ができない國」といふよりは、「各國で戰爭が起これば國家として存續することができない國」になつたのである。このことは、GHQがその目的を達成したことではあつたが、この相互依存が逆に戰勝國の足を引つ張る事態となつた。それは、世界の南北問題など世界的な階層化と窮乏化による政治不安や經濟不安が世界を覆ひ盡くしたためである。
自由貿易は、必然的に國際的分業化を促進させることになるから、基幹物資の生産分業化を推進することになり、生産國と消費國との兩極分化が進行する。消費國化する國家は、當然に自給率を低下させて不安定化する。一方、生産國は、自給のための生産物を超える餘剰生産物を輸出することから、その意味では不安定要因はないが、相互依存は促進されるため、その餘剰生産物を消費國に輸出することによつて外貨を獲得し、自國に不足するその他の基幹物資については消費國化する。餘剰生産物が減少し、あるいは餘剰生産物の需要が低下することでも、生産國は不安定化する。その意味では、リカードの比較生産費説(比較優位説)は、相互依存を促進させて不安定化するための理論であつたといへる。
そして、その相互依存がさらに進向すると、假に、基幹物資を全て自國で生産しうる完全自給國家であつても、繼續的に餘剰の基幹物資を他國に輸出産品として貿易を營む場合は、これを貿易收支上の財源として交換的に輸入した財貨も二次的な必需品として國内經濟に組み込まれることになる。
なぜならば、人は、初めから耐乏生活をし續けてゐればそれに慣れることができるが、その耐乏生活を續けてきた人が一旦贅澤な生活をし始めると、その生活を快適と感じるのは束の間のことで、直ぐにその奢侈な生活に慣れてしまふ。ところが、再びその奢侈生活から急に耐乏生活を強いられると、さう簡單に直ぐに慣れるものではない。つまり、奢侈生活を續けると、それに馴致し、それが當たり前の生活になる。過剰消費が過剰消費でなくなる。繼續的に過剰消費生活が續けば、奢侈品が必需品となる。そして、それが相對的に基幹物資化していくといふことである。これを家計支出の觀點から云へば、食料や光熱水費などの「必需的支出」と、教養娯樂、外食などの選擇的サービスと家電製品、乘用車、衣料品などの選擇的商品などの「選擇的支出」との區別とが、生活の多樣化、高級化、奢侈化の流れによつて、その區別が消失していくことでもある。生産と消費が擴大するといふことは、「奢侈の必需化」を生むことである。
このやうな状況下で、消費國、生産國のいづれかが内亂・戰爭に卷き込まれた場合、貿易當事國雙方の經濟に影響を及ぼすのであり、これらの相互依存の經濟體質が國家と世界の不安定要因となるのである。この内亂・戰爭の原因は、經濟的要因のみならず、宗教的要因や民族的要因も加味されるので、さらに、發生確率も高まり、その不安定さは大きくなる。從つて、タンカーの仕切り構造や二重船殻體構造のやうに、世界と地球全體の危險回避のための危險分散方法として、自給率の高い國家を數多く世界に出現させなければならないのである。しかし、連合國は、ヤルタ・ポツダム體制とその經濟面であるGATT(WTO)・IMF體制により自由貿易の擴大による世界主義(グローバリズム)といふワン・ワールド化して經濟覇權の實現を目ざしてゐるため、各國の經濟は他國と一蓮托生の状況となつた。
そしてまた、自由貿易は必然的に貿易收支の不均衡を招來する。各國の國際貿易競爭力に差異があることの歸結でもある。それがリカードの致命的な理論的缺陷であつた。貿易不均衡を是正しようとする見解は、不可避的に自由貿易を制限し又は否定する保護貿易主義や制限貿易主義ないしは管理貿易主義に依據するはずであるが、アメリカの對日要求に見られるやうに、自由貿易の徹底が貿易不均衡を是正するとの幻想と自己矛盾の滿ちた連合國の主張が世界を席捲してゐるのである。連合國のいふ自由貿易とは、「連合國の、連合國による、連合國のための自由貿易」に過ぎないのである。
また、現在の自由貿易體制は、貿易爲替の自由化を基軸として始まつた。ところが、現状はどうであらうか。貿易決濟は、外國爲替相場市場において外國爲替取引によつて行はれるが、ここで取引されてゐる取引額のうち、「實業」の貿易決濟の取引額が占める割合は極僅かである。その殆どすべては、「虚業」の賭博取引である。關係者は、これを「投機」と稱して正當化するが、明らかに「國際賭博」であり、外國爲替相場市場といふのは、「常設の博打場」のことである。つまり、爲替取引は、貿易決濟といふ産業資本主義のためにあるのではなく、いまや專ら博打で利鞘を稼ぐ賭博經濟とそれを支へる金融資本主義に乘つ取られてゐるのである。
爲替相場の推移をメディアで日常的に報道することは、賭博經濟を推奬し、世界全體を賭博社會化することになる。賭博場である爲替相場の存在自體が元凶なのであつて、完全フロート(變動相場制)、ペッグ制(固定相場制)、あるいは通貨バスケット制(複數通貨を基準)など、そのいづれが妥當なのかといふ腦天氣な次元の問題ではない。
尤も、昭和四十六年に、ドルの金交換停止などによつてブレトン・ウッズ體制が崩壞し(ニクソン・ショック)、固定相場制から變動相場制へ、金融自由化、爲替取引完全自由化(為替取引の實需原則を廃止)、金融商品、金融派生商品の多様化と擴大化といふ一連の流れは、通貨それ自體を投機対象化して賭博經濟を一層加速させることになつたのであつて、その博打場では、樣々な金融商品が取り扱はれ、それ以外にも先物市場といふ博打場まであり、基幹物資までもが大量に先物取引される事態になつた。このやうな賭博經濟に世界全體が支配されてゐることから、基幹物資の亂高下を生じさせ、世界經濟に甚大な影響を與へて不安に陷れてゐる。
從つて、これらを容認して包括するGATT(WTO)・IMF體制の存在は、世界的な經濟格差を助長して固定化し、世界全體を不安定化させる最大の要因であることが明らかである。
放射能汚染
次に、世界の「不安定化要因」の第二に擧げられるのは、核兵器の使用及び原子力發電所の事故などによる「放射能の汚染」の可能性である。
核兵器は、地球と世界を破壞する能力がある殲滅兵器であり、局地的な核戰爭であつても、對流圈内の大氣、海洋、河川、湖沼、土壤、地下水、動植物のみならず、成層圈にも核汚染が擴大するので、地球全體への影響は計り知れない。通常兵器であつても、原發(原子力發電所)に對する狙ひ撃ちの攻撃や原發に對する着彈によつても同じ事態が起こる。人體はおろか、家畜、食料、水、土壤など生態系全體に壞滅的な影響をもたらすのである。また、埋蔵燃料に代はる代替エネルギーとして開發された原發は、その事故に對する危險管理における技術的・制度的な限界がある。原發の安全性の基準は、基本的には物理化學法則に基づく部品性能と安全裝置の確率計算といふ工學理論的なもので設定されてゐるに過ぎず、豫測を超える大地震、火山活動、飛行機の墜落事故、隕石の墜落、内亂や戰爭でのミサイル着彈や爆撃などによる破壞・損傷、内戰やゲリラ活動による破壞、原發管理者の故意又は過失の行爲などの自然的要因や人爲的要因などは全く豫測の範圍外に置かれてゐる。現に、經濟産業省は、國内においても、イギリスのウィンズケール原發事故(昭和三十二年)、アメリカのスリー・マイル島原發事故(昭和五十四年)、舊ソ連のチェルノブイリ原發事故(昭和六十一年)などの程度の事故が起こりうる危險性があることを認めてをり、危險を承知の上で原發を開發してゐることになる。また、我が國においても、美濱原發二號機の蒸氣發生器傳熱管損傷事故(平成三年)、高速增殖爐もんじゅ二次系ナトリウム漏洩事故(平成七年)などや、原發事故ではないがJCO臨界事故(平成十一年)などが起こつてゐる。
原發事故による連鎖的被害は、チェルノブイリ原發事故の事例でも明らかであり、長期に亘つて二次被害、三次被害へと次々に被害が擴大し、原爆・水爆などの核兵器による被害と勝るとも劣らないものであるから、少なくとも全世界の核兵器や大量破壞兵器の生産と保有が根絶されない限り、全世界の原發は一基たりとも認めるべきではない。また、核の平和利用と軍事利用とはプルトニウム・リサイクルといふ、いはば車の兩輪の關係であつて、研究者や支配者に對して、核の平和利用のみに限定させる有效な方法がない。地球の生存を、何時破棄されるか判らない法律や政治哲學、さらには權力と組織に無抵抗で從順な學者や識者の脆弱な良心なるものに地球の生命を委ねるわけにはいかない。いかなる理由があつても、地球や廣汎な地域の生態系への危險があるものの所持は、人類と地球の將來のために絶對に禁止するといふ原則を確立すべきである。非核三原則は、我が國だけでなく、世界の原則とすべきである。
核兵器を廢絶し、その他の武器輸出と輸入を禁止して、火器、艦船、地雷、戰車その他一切武器についても各國の完全自給體制を世界的に確立し、兵器の世界的企業(死の商人)の活動を終息させなければ、世界の未來はない。武器の完全自給體制を確立することは、經濟的に非效率であることから、各國は、ゆるやかに軍縮へと向かふことになる。
ところが、連合國は、ヤルタ・ポツダム體制とその軍事面であるNPT體制により、核と原子力管理の獨占的地位を確立し、今なほ、核兵器の廢絶を約束しないまま軍事覇權の實現を目ざしてゐるため、世界は一層不安定な状況となつてゐる。從つて、NPT體制の存在は、地球の存續と世界平和における最大の不安定化要因である。
以上からすれば、地球と世界にとつて、基幹物資の缺乏と放射能汚染といふ二つの不安定化要因の源泉は、ヤルタ・ポツダム體制とその具體的制度である國連體制、GATT(WTO)・IMF體制及びNPT體制の存續そのものに集約されるのである。
賭博經濟
株價が亂高下し、金融界、證券界などに異變が生じたことで、原油や穀物の價格が高騰し、生活物資の物價が高騰する。これらの原因について、多くの人々は全く無關係であり何らの落ち度もない。どうして眞面目に平穩に暮らしてゐる人々がこのやうな影響を受けるのかについて、爲政者や經濟人たちは、これが理不盡なことであるとは感じない。感じたとしても、誰一人この事態を根本的に改善しようと行動する者は居ない。むしろ、人々はこれに堪え忍ぶことが當然であり、その影響を緩和する對策を政府は講じなければならないと漫然と考へてゐるだけである。無責任な賭博師(賭博經濟のダフ屋と豫想屋)たちは、儲け損なつたことの腹いせもあつて、賭博師に寄生する者や賭博場の出入業者たちと示し合はせて、厚顏にも正義感ぶつて爲政者らの怠慢を非難する。市場原理主義であれば、證券市場などの亂高下も「見えざる手」によるものであつて、政府が市場動向に關與すべきことではない。ところが、それが經濟全體の混亂を引き起こすので政府がその影響を緩和させる經濟政策を講ずるべきであるとの最もらしい詭辯を多くの人々は正論であると信じ込む。賭博經濟によつて經濟全體に影響が出るといふのは、經濟全体が賭博經濟の構造に組み込まれてゐることを實證してゐるのであるから、社會經濟構造自體に致命的な缺陷があることを踏まへて対策を講ずる必要があるとは誰も感じてゐない。怠慢を非難されて狼狽しながら云はれるままの經濟政策を實施する爲政者らも、經濟數値や指標だけで經濟を見つめるだけで、何も解つてゐない。
記憶力偏重の考査における偏差値だけで學力評價を行ひ、さらにその偏差値だけで人の總合的能力を評價する偏差値教育制度によつて培養された偏差値秀才が國家の樞軸を埋め盡くした結果、獨創性も創造力もない活力に乏しい偏差値秀才の官僚と政治家たちが、顏の見えない數値と指標だけで經濟全體を評價し、全く血の通はない等閑な經濟対策を立案するのである。
そして、このやうな局面にあつても、爲政者や事業家たちは、それでも賭博經濟を維持する方向へと進み、賭博をし續けるギャンブラー(賭博師)の味方となつて賭博場を守り續ける。汗を流して生活の糧を得る健全な人々の美風を崩壞させ、濡れ手に粟の賭博に多くの人々を引き込み、「國民總博打ち」への道へと誘ふのである。これが世界的な傾向となつてさらに世界を混亂させてゐる。
昔、マルクスは、産業革命の進展に伴ふ勞働者の窮乏に胸を痛めて、共産主義を提唱した。その良心的な動機に誤りはない。ただ、その構築した理論に致命的な缺陷があつただけである。ところが、その理論が世界を席卷し、いまもなほそれによる後遺症が餘りにも甚大であつたことから、人々は世界思想自體の出現を敬遠してゐる。まさに「羮に懲りて膾を吹く」が如くである。
しかし、今こそ、マルクスの時代以上に世界思想が必要な時代ではないのか。一握りの金融・證券の關係者でなされる「賭博經濟」によつて、實體經濟に影響を及ぼしてゐる。これは、環境問題以上の問題であるのに、毎日毎日、株價や爲替相場の推移などがリアルタイムで報道されて、賭博經濟が正しいものであるとの「刷り込み」がなされてゐるために、誰もこの矛盾を意識できないでゐるが、人々が覺醒して、後に述べる方向貿易理論による政策を實踐して行けば、豫定調和として、この賭博經濟は徐々に終息していくことになるのである。
そもそも、株式制度を理論的に考察すると、證券取引所で賣買の對象としてゐる株式(株券)とは、會社が既に調達し終はつた資金を株式として表象する有價證券にすぎず、その株式の價格が調達後に變動したとしても、そのことは、會社としては本來なにも關係がない事情なのである。不穩當な喩へかも知れないが、離婚した元妻(會社)が慰謝料を支拂つて別れた元夫(株式)の評判を聞くやうな話である。元妻としては痛くも痒くもないはずなのに、その元夫の評判で元妻の評判が決まるやうなものである。全く迷惑な話である。株式といふのは、會社にしてみれば、既に資金調達が濟んてしまつたことを示す切れ端で、それを所持してゐる者を會社としては株主として取り扱つたら良いだけである。株主として株主總會に出てきてとやかく言はれたりすることはあつても、それに誠實に對應すればよいだけである。「金を出したから口を出す」といふことなのである。株主がその地位を證明する株券を賣つたりするのは自由であり、その賣買價額をどうするかについても自由ではあるが、そのことは會社側には無關係なことである。會社としては、財務諸表に基づいて算定された株式評價額のみがその株式の評價額である。ところが、財務諸表の内容や利益配當の金額などを基礎として、純資産價額方式や配當還元方式などで客觀的に算定される株式評價額とは全く無關係に決まつた證券市場での「株價」によつて右往左往させられる。それは、その會社が證券取引所といふ賭場に「上場」することによつて、その賭場に出入りしてしまつたことの自業自得ではあるが、會社の財務内容とは無關係に、博打相場で決定した株價によつて會社の評判や値打ちが決まるといふのは極めて理不盡なことである。ましてや、會社が自社株を保有してゐたとすれば、會社の財政状態には何の變化もないのに、それによつて會社の資産總額が亂高下するといふのも不可解な話となる。會社の保有する自社株が、會社とは關係のない事情からくる評判の影響で大きく値を下げて會社資産の價額が低下したとしたら、それはまさに「風評被害」の類である。
そして、さらに云へば、この株式取引の前提となつてゐる現在の株式會社制度自體も既に歴史的役割は終はつてゐると云へる。株式會社制度とは、事業實績がないために銀行などの金融機關から大きな資金を借り入れるだけの信用がない起業家が、大衆から廣く薄く資金を集めて、それが大きな資本(自己資本)となつて起業資金を調達し、大きな事業を立ち上げるための制度として發足したものである。ところが、我が國の株式上場に至る現状は、殆どが個人の零細企業から立ち上げ、銀行はすぐには貸してくれないので、株式は身内や友人知人に引き受けてもらつて、資金調達は事業が軌道に乗つてから銀行に依賴する。それも、會社には信用がないとして、個人で借り入れしたり、連帶保證人にさせられる。そのやうに苦勞した後に事業が大成功すれば、株式上場して、創業者利益として莫大なキャピタルゲインを得るといふサクセス・ストーリーの事例が殆どであつて、本來の制度目的とは餘りにも大きなズレがある。銀行(金融業者)は、起業資金の必要な創業時には融資せず、事業が成功を收めてから融資する。雨の日には傘を貸さず、晴れの日に傘を貸す。銀行が雨の日に傘を貸さないので株式會社制度ができたのに、それも充分な役を果たさないのなら、この制度の必要性はないのである。
苦勞して成功させた事業を、創業者の名譽と體面、それに上場によるキャピタルゲインのために上場すると、今度はハゲタカに狙はれる。本來であれば、ハゲタカが企業買收をしてくる危險から上場會社を防衞するための最強かつ最良の方法は、會社側が株式を買ひ集めて上場基準を滿たさなくさせて上場廢止にすることである。世界において眞に優良な企業で「非上場」の會社も多く、その理由は、その方が企業買收される危險がないので、その安心と安定が經營者の活力と勞働者の意欲の源泉となつてゐるからである。そのことからして、我が國のみならず世界において、起業方法としての株式會社制度は、外にも樣々な理由も勘案すれば、もはや有害無益となり歴史的役割を終へたと判斷できる。
いづれにせよ、このやうな理不盡な博打經濟は、方向貿易理論による自給率向上政策の實施によつて段階的に終息することになるが、賭博經濟がなくなつても、博打打ち以外の株主には全く何の不都合もない。現在のやうな情報化社會にあつては、「投資株」として、あるいは會社經營のための「支配株」の取引は、規制緩和がなされば不都合を生じさせることなく行ふことができるからである。
ただし、「投資」と「投機」の區別については、前者を是とし、後者を非とするやうな單純なものではない。ともに、利益を求めて購買し、その後に利益を得るために賣却することについては共通するからである。當初は長期保有による配當利益を目的としてゐたか(投資)、初めから保有する目的ではなく早期に賣却して利益を獲得する目的があつたか(投機)といふ主觀的事實で區別することは、その認定が困難である。事後に事情が變更することもありうるからである。それゆゑ、この區別は、ワン・イヤー・ルール(一年基準)か、あるいはそれ以上長期の年數基準といふ客觀的基準によらざるをえない。一年ないしは數年の期間内になされる購買と賣却の事實があれば「投機」として累進課税(懲罰的課税)を行ふことになる。評價規範において、その投機によつて得る利益を認めないといふことであり、實質的な權利否定である。濡れ手に粟の投機利益に對しては、累進課税を適用すればよい。
また、これまで證券取引所での取引が會員制といふギルド制であつたことにも問題があり、規制緩和と新規參入を實現するためにも證券取引所などは早晩解體させなければならない。そもそも、證券取引所といふのは「博打場」である。博打打ちは堅氣に迷惑をかけてはいけないといふ規範を再度確立させ、博打打ち(投資家)とダフ屋(證券會社、證券マン)と豫想屋(證券アナリスト)に振り回されてゐる「虚業」の經濟を續けて行けば、全うな社會全體が崩壞してしまふとの素朴な危機感を人々が持たなければ、人類の將來は危ふいのである。
しかも、この博打場では、株式以外にも、樣々な金融商品を編み出し、先物取引が頻繁になされる。また、穀物、原油などの商品取引所もこれと同樣の「博打場」と化してをり、博打場に出入りして取引をすることを「投機」といふが、この「投機」を容認する經濟とは、まさに「賭博經濟」なのである。
ましてや、その賭博も、いかさま賭博である。マスコミの取材とインサイダー取引の不可分性、官僚による祕密漏洩、企業スパイや企業經營者による情報漏洩によるインサイダー取引やノミ行爲(呑み行爲)などは、不可避的に常に病理的なものとして付きまとふ。絶對になくならない。こんな生き馬の目を拔くやうな賭博に、企業自體が振り回される。いつまで經つても、經濟も精神も健全にはならないのである。
その上、利益追求のために、商品の僞裝は宿命的になる。食品僞裝、耐震構造僞裝のみならず、すべての商品の僞裝の原因は、過當競爭とマネーゲームに由來するものであつて、このままでは今後も絶對になくならない。
商品取引所に關して言へば、世界の穀物輸出國(米國、カナダ、オーストラリア、ブラジル、アルゼンチンなど)の穀物の輸出を取り仕切るのは、大手穀物取引商社(穀物メジャー)であり、生産者から海外消費者までの集荷、規格品設定、貯蔵、加工、輸送などの穀物パイプライン全體を支配してゐる。これは、オイル・メジャー(石油メジャー)と類似したものである。ただし、石油メジャーが生産者もこれに加はるのに對し、穀物メジャーはこれに參入してゐない。價格變動や天候異變などによるリスク回避するためとされてゐる。
前章でも述べたが、昭和四十七年にソ連が凶作となり、それが今後慢性化すると豫測したアメリカは、急遽、餘剰穀物を戰略兵器とする構想に基づき、ソ連へ緊急輸出し始めたが、翌四十八年四月、今度はアメリカが異常氣象による凶作となり、トウモロコシ、大豆がアメリカでは絶對量が不足した。その結果、食肉物價の高騰を招き、同年六月二十七日、アメリカは、大豆の我が國向けの輸出を停止したのである。この事件は丁度、第一次オイルショックの時期と重なり、この輸出禁止が長期化すれば、我が國から豆腐や醤油や納豆などは高騰し、最後には消えてなくなる運命であつた。しかし、同年九月には、幸ひにも輸出停止が解除となり難を逃れたのである。この時、アメリカがソ連に大量の穀物を緊急輸出したときに關與したのが穀物メジャーであり、その後、その地位を確立して行つたのである。
世界にある食用植物は約三千種類とされてゐるが、そのうち、穀物メジャーが商業主義によるスケールメリットがあるものとして取引對象とするものは、いはゆる「六億トン作物」とされる米(コメ)、小麥、トウモロコシ、ジャガイモ(根菜類)、大豆の五種類だけである。これが世界の食料生産總量(總供給量)の約四十億トンの約半分を占めてゐる。これまでの農業の歴史は、「植物の單純な相を作ることを目指してきた歴史」(柴田明夫)であり、植物遷移の若い相の特性を利用することで生産性を高めてきた。そのため、自然環境の變化に對しては脆弱となり、雜草と一緒に生産した場合とハイブリッド(高收量品種)の大規模生産の場合とでは氣候變動の影響を受ける程度が異なるのである。
しかも、農畜産物の生産に必要な地球上の淡水量の少なさを考慮すると、ロンドン大學のトニー・アラン教授が提唱した「バーチャルウォーター」(假想水、間接水)といふ認識が必要となり、これは、水と食料の世界的な爭奪の危險を孕んでゐることを自覺せねばならない。そして、この食料のうち、世界の穀物の約半分を穀物メジャーに依存してゐることから、商品取引も賭博經濟で支配され、石油と同樣に、買い占め、賣り惜しみによる價格の高騰に見舞はれることになるのである。
さらにまた、人口問題の一つである環境問題を過剰に強調して不安を煽り、そこには新たに規制利權を生じさせる。しかし、規制するだけでは根本的な解決案にはならない。温室效果ガスの規制についても、排出權といふ金融商品を生み出してマーケットで取引する。しかも、先物取引などで完全にこれも賭博の對象とするといふ自滅的な強かさである。
また、環境が大變だ大變だと騷ぐ者は多いが、それではどうすればよいのかについて、誰も具體的かつ實現可能な方向性を提示しえない。それ以外の時事問題についても、次から次とモグラたたきのやうに、その都度大騷ぎして追ひかけるだけで、しばらくすれば忘れ去つてしまふ。さうかうしてゐるうちに、事態は一層惡化するのであるが、それを「持續可能な」といふ呪文にも似た掛け聲だけで誤魔化して終はらせてしまふだけである。
この賭博經濟を支へてゐるのは、確かに貨幣制度ではあるが、貨幣制度が賭博經濟を生み出した原因ではない。では、その原因は何か。この根本的な原因は、「信用取引」である。物々交換の時代は、交換する物自體が相互の手元に「現存」することが雙方が同時に交換し合ふことの動機付けとなつてゐた。現物取引の時代である。ところが、繼續的にその取引をすることになると、あるとき、一方の手元に交換物がなくても、これまでの取引實績を信じて、直ぐに調達することの確約があれば、他方が交換物を先に渡して、事後に引き渡しを受けることが生じる。それが「信用取引」の原型である。これまでは、交換物の「現存性」を踏まへて取引してきたものが、交換物の「未來性」を踏まへて取引するのである。いはば、「現存交換物」の取引から「未來交換物」の取引をするのである。「現在」を賣るのではなく、「未來」を賣る。そして、その「未來」は「豫測」することによつて、いくらでも無限に擴大して生まれてくる。現在は物がなくても、將來これが調達できるとの豫測だけで、「未來」を取引できるのである。その豫測が確實であらうといふのが「信用」である。そして、その信用は、個々の取引の都度に生まれるのではなく、經濟社會において制度化する。たとへば、繼續的取引における掛賣り、掛買ひ、請負代金の後拂ひ、賃金の日給制度から月給後拂制度など、その對價として貨幣での支拂ひは、對價としての財貨を將來に調達することの見込み(調達可能性)といふ未來豫測に基づくものであつて、すべて「未來」を取引対象としてゐるのである。特に、食料生産物などの基幹物資に關しては、實體經濟の基礎は、現在交換物に置かなければならないのに、その未來豫測が樂觀的になればなるほど、「現存交換物」の數倍、數十倍、さらに數百倍の「未來交換物」を生み出すことができる。見込み違ひによる調達不能や空約束による破綻の類は、信用取引制度の不可避的な現象であつて、これがバブル經濟を生み出す祖型となつてゐる。
そして、この信用制度がさらに一層擴大してくると、對面的な取引のやうに、相手方の顏が見え、相手方の素性が見える場合の具體的な信用だけでなく、抽象的な信用も取引対象となる。つまり、個別取引による具體的な信用を法的に構成した「指名債權」を、第三者へ讓渡しうる流動化を圖り、相手方の顏の見えない抽象的な「證券的債權」へと轉化させ、手形、小切手、抵當證券、金融派生商品(デリバティブ)その他金融樣々な「證券」を出現させて、それが「貨幣代用物」となつて信用取引の主流となる。この貨幣代用物としての機能によつて、通貨總量を超えた假裝の通貨量となつて過剰流動性を引き起こし、そして、その金融證券は、さらに樣々で複雑な組み合はせによる金融商品へと變容し擴大して經濟社會を支配席卷する。貨幣への信用が極大化して證券化され、先物取引などの時間を超えた未來の取引へと擴大する。ここまで來ると、信用の擴大といふよりは、未來豫測(期待と悲觀)の擴大であり賭博である。「先物」の取引は「未來」の取引であり、それを使つて賭博をしてゐるのである。
さらに、消費生活においても、この信用制度が浸透し、信用販賣とローンなどが一般化するクレジット文化を生む。「buy now,pay later(直ぐ買ひなさい。支払ひは後で)」といふアメリカ文化は、フォーディズム(Fordism)による自動車の大衆化(モータリゼーション)と呼應して、大量生産、大量消費による資源浪費、環境破壞を生み、それを世界に擴散させるとともに、虚業經濟、さらに、飽くなき欲望の追求による賭博經濟を蔓延させる原動力となつて、大きな弊害を生み出すことになる。
このやうに、賭博經濟は、不確實、不安定に膨大に擴大した「未來」を取引対象として擴散させ、それが際限なく發展上昇するものと欺罔する。欺罔しなければ「未來」取引は成立しないからである。そして、この「未來」を高度の分業體制下でさらに分業化、細分化させ、その膨大に膨れ上がつた取引總量を賄ふだけの通貨を湯水の如く追加供給して過剰流動性を高めて增殖させることでしか賭博經濟體制を維持することができないのである。自轉車操業が賭博經濟の宿命である。
現存する物(現存物)と未來に得られるであらう物(未來物)との實際的な價値を比較するとすれば、未來物は無價値であることが緊急時に判明することになる。たとへば、脱水症の患者や飢餓症状の者の現状を救ふためには、株券や現金では何の役にも立たない。一滴の水でも一口の食物でもよいが、現存物としての水と食料が必要である。株券や手形、小切手や現金などの未來物は、それが交換價値としては如何に高額なものであつても、使用價値はない。證券などは紙切れに過ぎず、これ自體を食することはできない。水や食料との引換券があるとしても、それは現物ではなく、未來物であるから今の餓ゑを凌げない。物の價値とは、使用價値(消費價値)であつて、交換價値は、未來があることを前提としなければ無價値なのである。「資産家の餓死」といふパラドックスは、未來を過信することの危険性を證明するものである。餓死した資産家としては、悪夢(未來を過信する妄想)を喰ふ「獏(ばく)」を飼つて置きたかつたであらう。
多くの人が、未來は際限なく豫測可能であり實現可能であると過信すればするほど、その連鎖によつて社會全體がバブル經濟(賭博經濟)の集團催眠に陥るのである。そして、バブルが膨らみ、賭博師のしくじりによつてバブルが彈けて集團催眠が解ける。ところが、その學習效果のある免疫世代から次世代に移ると、再び同じやうなことを繰り返す。
これまで、世界的なバブル經濟は、オランダのチューリップ・バブル(1637+660)といふ世界初のバブルから、幾度となく繰り返された。ドル安政策に轉ずる昭和六十年のプラザ合意による我が國の内需擴大政策によつて昭和六十年代から平成初頭における我が國のバブル景気とその崩壞、平成十年前後に起きた米ITバブル、そして、その崩壞に對應するために平成十三年ころから始まつた政策金利の引き下げなどによる金融緩和によつてサブプライムローンなどの證券化商品への投機流入がなされ、これによる平成十五年から十九年までの米不動産バブル、これと同時進行的に起こつた平成十八年から二十年までの原油などの資源バブル、さらに、これに對應するためになされた金融引き締めと金利上昇による景氣減速によつて一氣にバブルが彈け、證券化商品の信用崩壞と投資銀行の破綻を招き、次いで、平成二十年三月のベアスターンズの破綻、同年九月のリーマンブラザーズの破綻に至つて、世界は金融危機に陥り、カンフル劑的な財政出動を各國が協調するも、これらのバブルの發生とその崩壞の周期が短期化し頻繁化してゐる。そして、最終章としての世界的金融クラッシュが早晩起こることにならう。
