第二節:自立再生論

反グローバル化運動

このやうに、生産至上主義による國際自由貿易、國際分業體制が地球と世界及び各國の不安定化要因の元凶であることが明白となつたが、それでも現在は、「國際化」とか「世界化」とか「國際貢獻」とかの呪文にも似た空虚で欺瞞に滿ちた掛け聲が、あたかもそれが國際正義の實現を保障するかのやうに唱へられ、また、「釜中之魚」の如く、世界と地球に危機が迫り來るのも知らずにそれに浮かれて踊らされた多くの人々が自滅の方向へと向かつてゐる。これは、賭博經濟によつて不正に巨利をむさぼり、世界を階層化、窮乏化させて世界支配を目論む覇權主義、全體主義の謀略であり、地球と世界の壞滅へと導く惡魔の囁きである。

誰のための「國際化」なのか。何のための「世界化」なのか。そして、「國際貢獻」の中身は何なのか。これらの掛け聲が意味するところは、自由貿易、即ち、經濟交流に力點があり、本音は巨利の追求にあつて、文化と技術の交流ではない。特に、相手國の基幹物資の自給率を高めるための各種の交流ではなく、交換經濟の果ての國際分業による自給率の低下のための交流である。このやうな交流は、「紛爭の國際化」であり「世界の不安定化」であり、そして、「國際紛爭貢獻」に過ぎない。決して、各獨立國家の安定と世界人類の福祉のための貢獻ではないのである。

これと同じ問題意識を持つた國際的な運動の一つが反グローバル化運動である。人と物と金(産業資本、銀行資本、投機資金など)が國境を越えて行き交ふ米國主導のグローバル化(globalization)が、貧富の格差を擴大させ、環境と文化の多樣性を破壞するとして、これに反對する組織連帶的な運動である。平成十三年七月のイタリアで開催された主要國首腦會議(ジェノバ・サミット)に、世界各地から集まつた數十萬人の反グローバル化を唱へるデモ隊が終結し、そのうちの先鋭的な團體が警官隊と衝突して、サミット反對運動では初めて死者まで出る事態となり、その後のサミット開催においては、恆常的に異例の警備措置がとられるほどの影響を及ぼしてゐる。反グローバル化運動の矛先は、サミット以外にも、世界貿易機關(WTO)、世界復興開發銀行(IBRD)、國際通貨基金(IMF)などの國際經濟機關に對しても向けられてをり、個別的、具體的な規制の要求や提案を行ふ團體も登場してゐる。

今もなほ繼續してゐるこのやうな運動がもたらしたものは、持續可能な成長と貧富の格差の是正といふことを世界的な問題として提起した意義はあるものの、平成十三年九月の「九・一一」事件以降は、この運動がテロ活動の温床となるとのすり替へがなされたりして、今後の運動の推進について困難な状況も生まれてゐる。

しかし、サミットにおいて、環境保護やフェアトレード(公正貿易)などを謳ひ上げたとしても、グローバル化を是とした上で、その表裏の關係にある光と陰とに分けて、陰だけを克服できるといふサミット思想の愚かさに加へ、金融資本主義といふ博打打ちだけに光の當たる制度には未來がないことから、この反グローバリズム運動が終息することはないだらう。

新保護主義

このやうな反グローバル化運動の理念的背景の一つに、新保護主義がある。この新保護主義とは、元グリンピース・インターナショナルの經濟擔當者コリン・ハインズ、ロンドンのテムズ・バレー大學教授ティム・ラングなどが「地域や經濟、生活の保護に對する關心を再び呼び起こすことを狙ひ」として提唱したものである。これは、地元密着型の自給自足經濟を確立し、不必要な貿易や不健全な活動を制限するといふもので、世界經濟のグローバル化は急速に多國籍企業に權力が集中を招いてゐるとしてグローバル化に反對するものである。

そして、具體的には、次の七つの手段を主張してゐる(文獻190)。

すなはち、

①「國家及び地域レベルでの輸出入の制限」
 地元で必要な製品やサービスを可能な限り地元で生産し、どうしても地元では手に入らないものは他の地域から調達し、海外貿易は最後の手段とするもの。

②「資本の統制」
 資金が地元の投資に使はれるやう、銀行、年金、ミューチュアル・ファンドなどに規制を敷き、「地元を繁榮させるために地元に投資を」といふ政策を打ち立てるといふもの。」

③「多國籍企業の統制」
 GATT(WTO)を廢止してでも、多國籍企業の活動を統制する必要があり、「賣りたい場所に據點を置く」企業だけに、經濟アクセスを與へるといふもの。

④「新競爭政策」
 大企業の解體によつて、競爭的状況を作り、製品の改善、資源の效率的利用、選擇肢の提供などを行はせるといふもの。

⑤「自立に向けた貿易と援助」
 GATT(關税および貿易に關する一般協定)をGeneral Agreement for Sustainable Trade(持續可能な貿易に關する一般協定)と變へ、地域の自立達成による最大雇用を目標に、地元經濟の開拓に焦點を當てるといふもの。

⑥「資源税の導入」
 環境問題に對應するために、資源税を導入するといふもの。

⑦「政府の再強化」
 これらのことを行ふためには、政府の力を強化しなければならず、國家、地方、地域レベルの政府が市場アクセスに關する統制力を持つやうにするべきであるといふもの。

の七つの手段を主張する。

そして、この新保護主義によれば、イギリスのやうな貿易立國は滅亡するとの反論に對しては、貿易が雇用や賃金の低下を招いてゐる現在ではグローバル化こそ滅亡の道だとの再反論を行ふのであるが、金融危機や景氣大變動が起こると、保護主義的主張は、心情的に大衆の贊同を集め、これに對して、現在の經濟構造を維持する勢力からは、保護主義的傾向への強い警戒心が叫ばれることになるといふのは、ある意味で象徴的な傾向と云へる。

經濟的自立

このやうな反グローバル化運動とその背景理念となる新保護主義が示唆した方向は正しい。このグローバル化に抵抗する國家や人々がそれぞれの自己保存本能と自己防衞本能などの「本能」に基づくものであることが認められるからである。

これほどまでに世の中が複雜になり、學問や技術はさらに微細になるだけで、しかも、それは分業體制を推進する方向であるために、人々は心と生活の安寧を得られず、決して幸福感を與へてくれるものではない。世の中を根本的に見直す術を誰も提示することがないことに對する焦燥感に充ち滿ちてゐる。しかし、人々は、共産主義思想のやうに暴力的で流血を生む過激で憎惡に滿ちた世界思想には辟易してゐる。反グローバル運動を直觀的に肯定的に受け入れてはゐるものの、それが過激化し憎惡を剥き出しにした最近の運動態樣に對して、冷ややかな拒否反應と警戒心を芽生えさせてゐる。そして、そのやうな憎惡を含んだ過激なものではなく、未知の「何か」が人類の本能の中に濳んでゐて、それが具體的な叡智として出現し、平和で安心を與へる安定した社會を再生しうる鍵であると直觀してゐるのである。

我々の認識世界には、直觀世界と論理世界とがある。つまり、論理を積み上げて眞理を認識する世界と、論理を飛び越え、あるいは論理の盡きたところで、經驗と閃きによつて眞理を認識する世界との二つの世界がある。直觀は本能に、論理は理性に、それぞれ根ざしてゐる。また、眞理發見のための推理方法として用ゐられる歸納法は直觀世界に親和性があり、演繹法は論理世界に依存性がある。

哲學や數學において、直觀か論理か、そのいづれを認識の基礎とするかによつて直觀主義と論理主義とが對立してをり、特に數學基礎論にあつては、數學を論理學の一部と見るか、あるいは論理が數學的直觀によつて歸納されるのか、といふことである。これは、數學の體系を構築するにおいて、いづれかの選擇が必要とされるためである。しかし、この對立自體が論理世界の土俵における論爭に過ぎない。つまり、論理世界においては、排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)などで貫かれてゐるとするのであるから、この對立は、やはり論理世界の住人同士の對立と云へる。

しかし、現實の世界は、直觀か論理かといふ二者擇一の世界ではない。直觀世界を解明しようとして、これまで多くの人々が試みてきたが達成できなかつた。法律學、憲法學、政治學、經濟學などの社會科學もまた論理學を基礎とするものであり、論理世界から直觀世界を解明し、眞理に到達することには構造的な限界があつたのである。論理世界によつて直觀世界が解明できるとすれば、直觀世界は論理世界の一部として包含されてゐなければならないが、そのことは證明されてゐないからである。むしろ、直觀世界からすれば、論理世界は直觀世界の一部を構成して包含してゐると「直觀」される。それが、「論理が數學的直觀によつて歸納される」とする數學基礎論における直觀主義の根據ともなつてゐる。

歴史的に見ても、人々は、その人生を演繹的な論理のみを驅使して生きてはこなかつた。むしろ、特に、人が人生の岐路に立つたとき、あるいは緊急時においては、演繹的な論理を捨てて、瞬發的に歸納的思考の本能的な直觀によつて岐路を選擇し歸趨を決してきたのである。そのことに必ず眞理があるはずである。

オントロジズム(0ntologism)といふ哲學上の立場がある。存在論主義(本體論主義)と譯されてゐるが、これもプラトン以後の哲學でみられる直觀論である。これは、時空間において「有限世界」の現世に生きてゐる人間が、論理的かつ客観的には認識不可能な「無限世界」の存在(神)を論理で捉へることはできず、それは純粹直觀でのみ捉へることができるといふものである。人間が論理的に認識しうる最大の數値があるとしても、それはあくまでも有限の數値であつて、決して無限の數値といふものは存在しえない。無限を認識しうるのは論理ではなく直觀である。このやうにして、人間は直觀世界に居ることを認識し、論理の危ふさを歸納的に實感するのである。

このことは歴史的にみても、その歸納的な正しさは證明されてゐる。たとへば、イギリスでの話を擧げてみよう。イギリスでは、穀物の輸入に高い關税を課す穀物條例が一部の者だけを利するだけで國家全體の利益にならないとのリカードの意見に支配されて、穀物條例を廢止して穀物の輸入自由化に踏み切つた(1846+660)。その結果、それまで百パーセント近い小麥の自給率が十パーセント程度に落ち込み、二度の大戰中に食料難となり食料調達に苦しんだのである。そこで、昭和二十二年(1947+660)に『農地法』を成立させて食料自給率の向上を推し進めたのである。このやうに、大きく政策轉換をした結果、イギリスだけでなく、西ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、カナダは、昭和五十七年(1982+660)ころまでに食料自給率を百パーセントを超えるまでに回復し、完全にリカードの論理から脱却した。リカードの論理は、歸納的に否定されたのである。ところが、我が國は、前章の「自給率」の項目で述べたとほり、未だにリカードの論理の呪縛から逃れられず、食料自給率は低迷し續けてゐる。

しかし、リカードの自由貿易主義が世界の不安定化要因であり、世界はこれからの脱却が必要であるとしても、そのことから直ちに、この反グローバル化運動の理念となつてゐる新保護主義の理論が完全に正しいとは云へない。この理論を適用した生活が正しいか否か、實現可能か否か、そして、持續可能か否かを判斷するについては、これまで述べたとほり、個體と家族、地域と國家、それに世界、地球といふ自己相似の連續が動的平衡を保つて存在するといふ雛形構造(フラクタル構造)に適合する無理のない重層構造の世界を構築できるものであるのか、それが「本能」といふ指令に背かないのか、といふ點を檢討することに盡きる。

そこで、そのことを考へるに先だつて、もう一度、國家の本能がなにゆゑにこのグローバル化に抵抗してゐるのか、その本能の樣相について檢討したい。

思ふに、世界には、大小樣々な獨立國家が存在してゐるが、それらが獨立國家と呼ばれるのは、その國家が獨立を宣言し、それが國際的に承認され、獨自の統治權の行使と貿易における經濟的獨立(經濟主體の確立、經濟主權)として認められるといふことである。ところが、賭博經濟が國境を越えて席卷するやうになり、金融資本もまた國境を越えて流入してくると、經濟主體であるべき獨立國家の性質に變化を生じさせる。

經濟主體としての國家を考へるとき、完全自給のアウタルキー(自給自足經濟)の國家の場合は、貿易による物流や情報の流入がないので、物理學でいふ「孤立系」に似てゐる。そして、その對極にあるのが、自給率ゼロの國家であり、これは「開放系」といふことになる。つまり、完全にグローバル化した状態である。これは、國家滅亡の一つの形態であり、グローバル化とは、世界均一化といふよりも、世界單一國家化といふことである。

そして、現代の多くの國家は、その中間的な「閉鎖系」に似たものといふことができる。つまり、國民も領土も、國際規範も情報も、そして物資もエネルギーも、他國と相互に交換しうるが、國民と領土については、國際規範や情報、物質とエネルギーほどには流動的ではないからである。

前に述べたとほり、「經濟」の語源は、「經國濟民」、「經世濟民」であり、國を治め民の苦しみを救ふといふ意味であつて、本來は「政治」の意味であつたことからすれば、政治と經濟とは不可分一體のものと捉へても不自然ではない。さういふ觀點からすると、獨立國とは、政治的自立と經濟的自立の雙方が備はつてゐる状態のことであると認識することもできる。

國際社會の中で、政治と經濟とは不可分の關係であり、「獨立」について、これまで政治的自立を中心に一般的なことを述べてきたが、眞の獨立を考へるについては、むしろ、この經濟的自立こそが國家の命運を左右することになる。

なぜなら、家族の場合を例にとれば、家族が獨立してゐるといふのは、眞つ先に經濟的自立、つまり家計が他の家族と獨自に成り立つてゐることを意味し、ある家族が所有する大きな家の離れに、別の家族が一家ごと居候をして生活費のすべてをその家族に面倒を見てもらつてゐる「保護家族」は、家族であつても自立した存在とは誰も思はない。これと同じやうに「保護國」についても獨立してゐるとは云はない。政治的な保護國もあれば、經濟的な保護國もある。

その保護が片面的、一方的な場合であればこのことは當然と思ふであらうが、多くの人は、貿易によつて自給率を下げた程度では、經濟的自立を失つたとは思つてゐない。現に、家族の場合でも、どこからか給料を得て、生活必需品などを購入して生活し、誰にも金錢的援助を受けてゐなければ、その家族は自立してゐると思つてゐる。確かに、平常なときはさうであるが、勤め先の會社が倒産して給料が入らなくなつたとき、一次的には借金をして凌ぐことはできても、再就職して元の給料以上のものが入つてこなかつたら、政府や誰かの援助を受けることになる。そのときは、やはり家族の自立は奪はれる。

このことは、國家も同じであり、平常時は、政治的自立を謳歌してゐたとしても、なんらかの異變によつて基幹物資が調達できなければ、たちどころに國家存亡の危機に直面する。しかし、眞の獨立といふのは、そのやうな局面においても、對處できるものでなければならない。「備へあれば憂ひなし」といふが、假に、基幹物資の大量の備蓄があつたとしても憂ひはある。いづれ費消して枯渇するからである。眞の備へとは、基幹物資の自給自足體制の確立しかない。このことこそが國防の根幹であり、獨立の眞姿である。

食料危機に備へた食料備蓄(食糧備蓄を含む)についても、我が國において完全自給ができる米(稻)について、政府の行ふ減反政策は、まさに亡國の政策である。しかも、米(稻)を備蓄する政策を全く實施してゐないのである。米の備蓄は、劣化が早い「精米」や「玄米」の状態では不可能であり、種米の確保と食糧米の長期保存備蓄を兩立しうる「籾米」の状態での備蓄でなければならないが、政府にはその認識に基づく政策立案能力がないのである(佐藤剛男)。籾米の備蓄といふ考へは古くからあつた。その昔、加藤清正は、熊本城築城において、籠城に備へて、充分な籾米を備蓄した上に、さらに壁を籾米を混ぜた土で塗り固めたのである。

稻作農業は、日々の食糧の供給のみならず、このやうな籾米備蓄による國家緊急時に對應しうる基幹産業であつて、林業と一體となつて水源を涵養し治水に貢獻するものであるから、減反政策による休耕田の增加は、食料安保の觀點からも、將來において最惡の結果を招くのである。

第一章で述べたとほり、戰前、我が國は、食料安全保障の見地から、主として米(稻)の確保のために韓半島に近代的農業政策を推進したが、關東大震災、金融恐慌及び世界恐慌で疲弊した農民に追ひ討ちをかけるやうに、内地への米(稻)の過剰流入などによる米價の下落を招くこととなり、その結果、内地と韓半島の共倒れ的な農民の疲弊と農村の崩壞を生んだ。そして、これが、二・二六事件から敗戰に至る遠因でもあつたのである。このことの教訓からしても、休耕田の耕作再開によつて增産される米(稻)が、そのまま流通米(消費米)となれば米價の下落を生むことになるが、備蓄米として出荷調整するのであればその影響はなく、むしろ農業の維持振興となり、農業人口の減少を阻止し、農業關連の雇用創出に結びつく。むしろ、生産される米(稻)は、原則的に籾米として各地の消費地近郊で備蓄し、消費に向ける段階で精米化することにすれば、危險分散と出荷調整による米價の安定が實現できるのである。そして、これと連動して、その他の農業、畜産業、林業及び漁業の振興策により自給自足體制へ歩み出すことになる。

しかし、このやうな政策轉換により、假に、自給自足體制を確立したとしても、國家の緊急時(戰爭、内亂など)には、物流の混亂などの影響で安定供給の維持ができなくなるといふ憂ひはある。しかし、その憂ひは、基幹物資の自給率が小さい國家が緊急事態となつた場合と比較して雲泥の差がある。そして、完全自給が確立してゐる場合や自給率が相當に高い場合は、その緊急事態に至る可能性も少なくなる。なぜならば、内亂はともかく、戰爭の場合、自國と比較して相手國の自給率が小さければ小さいほど、自給率の高い國は、自給率の低い相手國よりも戰爭遂行能力において優位に立てる。勿論、大量破壞兵器の保有の有無によつて、その樣相に變化を生じさせることになる。それゆゑに、これも世界の不安定化要因の一つとして掲げてゐるのである。しかし、現代の戰爭は、基本的には國家の總力戰であり、國家の「地力」(高い自給率)が開戰の抑止力と早期停戰講和の推進力となり、戰爭遂行能力を決定付けることに變はりはないのである。

「不虞に備へざれば、以て師すべからず(不備不虞、不可以師)」(左傳)とか、「國に九年の蓄へなきを不足と曰ふ。六年の蓄へなきを急と曰ふ。三年の蓄へなきを國其の國に非ずと曰ふ。」(禮記)との名言は、このことを教へてくれるものである。

方向貿易理論

このやうに、國家の「經濟的自立」とは、國家が生存する上で必要最小限度の基幹物資の自給自足が實現されることを言ふのであり、そのことが政治的自立と相俟つて眞の獨立を意味することになる。しかし、政治的自立をしてゐる國家がそのことを自覺し、經濟的自立のために自立再生志向を國是として眞の獨立を目指そうとしても、現在の國際分業と相互依存のグローバル主義國際體制から容易に脱却することはできない。それは、「一國獨立主義」であり、自由貿易體制への挑戰である。それでも、この世界の趨勢に抗して、自國の自給自足體制を確立する努力を續けて行かうとすると、その課程において、この動きを阻止しようとするグローバル主義に毒された國家群の反發その他の事情によつて、自國において現時點で必要な基幹物資の供給を確保しえない不測の事態に遭遇することはありうる。つまり、段階的に基幹物資の輸入を減少させて行く自立再生志向の國家の基本方針を妨害しその方針を破綻させようとして、グローバル主義國家群が自立再生志向の國家に對する基幹物資の輸出を突然に全面禁止する措置をとりうる危険性がある。

假に、そのやうな事態に至つた場合、自立再生志向の國家としては、眞の獨立と生存を維持しようとして、他國から基幹物資を軍事的に收奪することも、國家本能である自衞權の發動たる「自衞戰爭」として認められることになる。大東亞戰爭は、まさにこのやうな自存自衞のための戰爭であつた。これは大東亞共榮圈の經濟的自立(ブロック經濟)であつたが、その究極の理念として一國獨立主義を見極めてゐたことは確かである。

それゆゑ、現在の國際體制は、今もなほ、大東亞戰爭と同じやうな自給自足體制の確立を目的とした自衞戰爭の再發を防止するためのものであり、そのやうな自衞戰爭の再發を恐れるあまり、自由貿易と賭博經濟によるグローバル化を促進しようとするが、それが却つて世界と地球を危機に陷れることになるのである。

そもそも、江戸期までの我が國は、鎖國政策により自給自足經濟を確立させ、産業技術、文學、藝術など多方面に創意工夫が施された獨自文化を開花させてきた經緯がある。そもそも、「鎖國」といふネガティブな言葉は江戸時代には用ゐられてゐない。これは開國を正当化するためのデマゴギーとして用ゐられたものである。江戸期の我が國は、その民度において明治以降よりも高い側面があり、しかも、自給自足が実現できてゐた國家であつて、それによつて平和を維持してきたのである。これは、「鎖國」といふよりも、自給自足體制を崩壞させない限度において特定國との貿易を許容するといふ制限貿易制度であつた。むしろ、長崎出島にあるオランダ商館付の醫師として来日したケンペルやツンベルグは、このいはゆる「鎖國」を高く評價してゐたのである。

しかし、歐米列強が東亞各國に開國を強く迫つた結果、その後は世界の貿易經濟に飮みこまれ、次第に獨自の文化を崩壞させて行つた。このことは、南北問題における窮乏國家の傳統が破壞されて行くことと軌を一にするものである。開國して貿易することは活氣のある進歩であるからこれを是とする觀點からは、鎖國は沈滯と怠惰なものであるとの否定的な評價でしかない。しかし、「開國」か「鎖國」かといふ對外經濟交流の現象面の選擇に意義があるのではなく、「依存經濟」か「自立經濟」かといふ經濟體制の本質面の選擇が最も重要な國家方針の試金石であつたのである。しかし、そのころの我が國を取り卷く情勢は、生やさしいものではなく、與へられた選擇肢は、壓倒的な歐米列強の軍事力を前にして、「獨立」か「從屬」かの二者擇一状況の中での「開國」と「鎖國」といふ相剋であつた。

このやうな歴史から學べば、自給自足體制を確立することが國家と世界の安定と安全を實現することであり、それは、全世界の各地域の多樣な傳統と文化の再生と復權を目的とする世界思想であつて、懷古趣味や復古主義としての單なる「新鎖國主義」ではないことが解る。

これは、極度の民族主義や國家主義の實現のための「手段や目的としての鎖國」ではなく、「結果としての鎖國」を意味してゐる。「貿易」と「鎖國」とは對立した概念ではなく、手段と目的の關係として調整統合しうる概念なのである。つまり、これからは、「將來において貿易をなくす目的のために、その手段として貿易を繼續する。」といふ方向について世界的な合意がされるべきである。本を正せば、グローバル主義も、グローバル化が目的ではなく、手段であつたはずである。それは、世界の平和と繁榮を實現することを目的とし、その手段としての自由貿易によるグローバル化であつたはずである。それゆゑ、自由貿易によるグローバル化の手段に勝るとも劣らない他の手段があれば、それぞれの功罪と長短を吟味して、より良いものを選擇することに異議があるはずはない。

この思想には、これまでの思想とは少し異なる性質がある。前に述べた「世界思想」の構造を見ても解るとほり、一般に、何らかの政治、經濟的な變革を求める思想には、その確立された一定の具體的な内容があつた。それは目的と手段を示し、それに至る課程を説明するものである。第一章で示した、V字型世界思想構造のとほりである。ところが、「將來において貿易をなくす目的のために、その手段として貿易を繼續する。」といふ理論は、いはば「方向」のみを提示し、それによつて到達しうる具體的な目的や理想世界を示さない。強いて目的があるとすれば、それは完全自給による自立再生社會の實現といふ方向性の目的だけであつて、到達すべき具體的な社會構造を目的とするものではない。いはば、これまでの世界思想(理論)が「スカラー(状態量)」の思想(理論)であるのに對し、この理論は「ベクトル(方向量)」の思想(理論)である。そして、この理論を「方向貿易理論」と名付けるとすれば、この理論の利點は二つある。

一つは、具體的な社會構造の到達點を示すことはその價値觀を示すことになり、それが今までの思想對立の主な原因であつたが、この理論ではその問題が少ないといふ點である。

確かに、リカードらの自由貿易思想も、ある意味では逆方向を目指した一種の方向貿易理論であつたが、歴史的に見て、これが誤りであつたことが歸納的に證明されたことは前に述べた。しかし、現在の國際社會は再びリカードの亡靈思想が支配してゐる。ところが、この國際社會の目指す方向は一定してゐない。完全な自由貿易を追求するといふやうな徹底したものではないのである。自由貿易といふアクセルと保護貿易といふブレーキとを巧みに使ひ分けてゐるだけで、完全な自由貿易を達成することは世界により大きな混亂と不安を與へることを認識してゐるのである。それゆゑ、特定の「方向」がなく、既に自由貿易化した現状を修正しながらも維持しようとするものにすぎないのである。ところが、ここで云ふ「方向貿易理論」の「方向」には、全くぶれがない。どのやうな手段・方法であつても、各國、各地域の自給率を高めることが世界の安定化をもたらすことに疑ひはないのである。

二つめは、この理論は、反グローバル化運動や新保護主義、そして、後で述べる「自立再生論」とに共通した手段としての理論であり、これと矛盾しない樣々な思想や理論と連携しうるといふ點である。

世界には、多くの民族、宗教があり、各地の気候風土も樣々で基幹物資も偏在してゐる状況では、政治經濟社會構造を一律に提示する思想には本質的に無理なところがある。これまでの世界思想は、一律の政治經濟社會構造を全ての國家や地域に均一に押し付けるものであり、各國・各地の風土や文化などと適合せずに軋轢と對立を生じさせて行き詰まつた。しかし、自立再生論は、その理念を總論とし、各國・各地域の國情等によつてそれを各論的に無理なく實施しようとするものである。その意味では、この自立再生論は、グローバル化することの危険を本能的に感知する人々に共通した認識となるはずである。

そして、なによりもこの「方向貿易理論」の背景には、自己保存本能、自己防衞本能による世界の國家のすべてが有する「自衞權」が存在し、それは、國家の自己保存本能と自己防衞本能、そして世界秩序維持本能、世界秩序防衞本能に基礎付けられてゐるといふことの認識が重要なのである。それは、「宗教」といふスカラー的なものであれば對立を深めるが、「祭祀」といふベクトル的なものであれば融合して行くのと同じであり、ここにも雛形構造が認識できる。

では、これから、方向貿易理論を取り入れた私見である「自立再生論」について説明する前に、初めに、結論を云へば、方向貿易理論は、本能の指令によるものであるから、その方向を進めば、その必然的歸結として自然に自立再生論の社會と到達することになるといふことである。つまり、これは、我が國の規範國體であり、それが、すべての國家に共通する本能の指令による歸結としての世界の規範國體であるために、反グローバル化運動も新保護主義なども、すべてこれに收斂されることになる。

現代の大衆社會において、今まで自由貿易による飽くなき豐かさの追求をしてきた大多數の無自覺な人々であつても、このままでは國家と世界は危ふいといふ本能的豫感を感じてゐるはずである。しかし、突如として直ちに自由貿易を廢止して自給自足生活をすることに決定し、個々人も長期に亘つて耐乏生活を強いられるとしたら、當然に大きな抵抗が生まれる。それは、反グローバル化運動に携はつてゐる人々も例外ではない。その抵抗もまた本能である。本能には、物理學でいふ「慣性の法則」、つまり、物體は外力の作用を受けなければ、現状の状態を維持し續ける法則がある。靜止してゐる物は靜止したまま、あるいは等速度運動を續けたままといふことである。生體もこれと同樣の原理で支配され、それは物理系に限らず、精神系も相似的な原理で支配されてゐる。望むと望まざるとにかかはらず、奢侈に馴致して行くのもこの作用によるものである。それゆゑ、自由貿易の方向へと活動を續けるグローバル主義の人々に、それを中止させて方向轉換させることを急激に強いてはならない。徐々に摩擦抵抗により自動車が減速して行くやうに、長い距離と時間を必要とする。しかし、自由貿易の方向へは加速してはならないことだけは必要である。「ゆるやかな鎖國主義」(大塚勝夫)といふ考へ方とも共通するが、フルセット型産業構造(食料、原材料以外の自給自足體制)といふ考へ方は、我が國においては、『日本國とアメリカ合衆國との間の相互防衞援助協定』によるMSA(Mutual Security Act)體制から脱却するための過渡的なものと限定すれば暫定的には認めてもよいだらう。

そして、方向貿易理論に基づいて、各國は、自給率向上のための年次數値目標を立てて具體的に貿易量を減少させるための樣々な政策を打ち出して實施することになる。さうすると、貿易依存の産業は徐々に衰退する反面、自給自足へ向かふ方向の産業が活發となり、産業構造が自給自足體制へと次第に轉換して行く方向性が決定する。決して、これは耐乏生活を強いる方向ではない。むしろ、産業構造の轉換による新たな社會資本の增加や雇用が創出されるなど經濟は發展し成熟して安定する。

そして、自由貿易が徐々に減速して行くと、次第に自給率が向上して行く。この進行速度は、基幹物資ごとの性質と事情もあつて一律ではないとしても、自給自足が實現できる地域的、構造的範圍が次第に擴大して行く。なぜならば、これまで世界の各地域において、自給自足の生活をしてきた人類の過去の記憶が本能的に甦るからである。それは、あたかも既視感(デジャビュ)の如く、本能に導かれて樣々な方策を編み出しながら歩み始める。そして、次第に各國や各地域の一部に、獨立した閉鎖系が生まれ、それが他の國と地域に傳搬していくのである。これは、一個の母細胞が徐々にいくつかの細胞に分裂して增殖して行く姿にも似てゐる。

ライプニッツは、宇宙の組成單位を物質的ではない靈的な不滅の實體(モナド)とし、全世界のすべてのモナドの相互關係や統一的な秩序が神(宇宙意志)によつて支配されてゐるとし、それを「豫定調和」としたが、もし、人類が特定の方向にその意志を定めれば、その豫定調和に向かふといふことになる。このことからすれば、この方向貿易理論に基づき、世界がその意志を共有し、各國が自給率向上政策をそれぞれの事情を踏まへ創意工夫して推進し續ければ、豫定調和として自立再生社會が實現するといふことになるのである。

交換經濟と自給自足經濟

リカードなどに始まる自由貿易と分業によるグローバル體制は、もし、世界と地球が無限大の存在であれば行き詰まることがないかも知れない。世界各國が宇宙開發への關心を高めるのも、無限大の方向に發展し續けることを夢想してゐることによるものである。しかし、人類は、地球を離れることはできない。地球もこれ以上大きくなることもない。さうすると、無限大方向への發展は限界があるので、必ず限界に達するのである。にもかかはらず、無限大方向への發展を追ひ續けることは大きな矛盾があり、いつしか限界點に達して破綻に至ることは必至である。それは矛盾を增幅させる惡循環であり、飽和絶滅の方向へと、より加速して行く。現在の社會と經濟などの世界の大きな仕組みに缺陥があり、そのために次々と問題が發生し、それを解決できる自淨作用が働かずに破滅へと向かふのである。では、この仕組みの缺陥とは一體何であらうか。

それは、繰り返し強調するとほり、賭博經濟を生んだ土壤である商品經濟と貨幣經濟である。賭博經濟は、この商品經濟と貨幣經濟に寄生して咲き誇つてゐる徒花であり、これだけを驅除できない事態になつてゐるのである。

これまでの「商品經濟」とは、自給自足といふ財の生産と消費の一體性が崩壞して、生産と消費とが分離され、他者との分業と交換によつて成立した經濟であつて、自給自足經濟と對極にあるものである。當初の商品經濟は、「餘剰」の生産物が商品となつたが、資本制經濟による利益追求原理から、商品は「餘剰生産物」ではなく、明確に「販賣目的」の大量商品となつた。

交換の媒介として貨幣を用ゐなくとも商品經濟は成立するが、交換流通の効率を追求することによつて例外なく貨幣を用ゐた「交換經濟」となつたことから、貨幣を交換媒介とする「貨幣經濟」は、さらに「商品經濟」の發達を加速した。それは貨幣が交換價値の尺度となり、交換價値比較を簡素化し、國内だけに止まらず、貿易決濟にも用ゐられて世界的に擴大した。そして、貿易と金融といふ實體經濟の後を追ひかけて、虚業の賭博經濟を蔓延させる結果となつたのである。

しかし、前にも述べたとほり、共産主義のやうに、いきなり商品經濟や貨幣經濟などを廢止することで問題が解決するものではない。商品經濟と貨幣經濟などを自給自足經濟と對立させるのではなく、「將來において貿易をなくす目的のために、その手段として貿易を繼續する。」のと同樣、「將來において商品經濟や貨幣經濟、そして信用取引をなくす目的のために、その手段として商品經濟や貨幣經濟、信用取引を繼續する。」といふことである。

基幹物資の自給率を向上させる方向を目指すのと同樣に、自給自足經濟社會の「普及率」を向上させる方向を目指すのである。さうすれば、貿易依存率も徐々に低下し、海外の金融資本に依存する比率も低下し、その徒花のやうに世界を蠶食し續けてきた賭博資本も消滅して行く。

マルクスは、この交換經濟を是正する方法を用意せずして、一擧に貨幣制度を廢止しようとした點において、理論的にも根本的、致命的な誤りがあつたのである。しかも、貨幣制度を來たるべき社會の實現にとつて、不倶戴天の敵として憎惡の対象としてしまつたことに破綻の原因があつた。しかし、方向貿易理論により自給率を向上させる過程において、商品經濟と貨幣經濟は、自給自足經濟を補完し、これと兩立共存しうる點において決定的な相違がある。

そして、世界がさういふ方向に動き出せば、金融資本は、國内單位のみで循環することになり、國際金融は消滅の方向へと向かふ。賭博經濟は次第に失速して、早晩、國際的な博打場である外國爲替相場市場は縮小され、「實業」の貿易決濟だけを行ひ、それも徐々に終息する。勿論、賭博資本は撤退を餘儀なくされ、マネーゲームは終息するのである。そして、賭博經濟は終焉を迎へ、金融商品の先物取引は勿論、投機的な商品の先物取引などの「虚業」は結果的に禁止されるに至るのである。つまり、證券取引所も閉鎖され、株式、社債その他の多くの金融商品の賣買は賭博經濟の終焉と運命を共にする。

そもそも、株價や爲替の變動は、國家や會社の財政状態や經營成績の變動の投影ではなく、これとは無縁の政治的經濟的意圖による實態のないアナウンス效果によつて右往左往してゐるものであることは周知の事實なのである。一般に人々の生活が賭博によつて影響されるやうな國家や社會を擁護する者は、人類の敵であると云つて過言ではない。

雇用を生み出す會社組織は、投機株主や投資株主のものではない。働く者のものである。株式制度や會社制度を廢止して、經營者と勞働者の共有といふ企業組織制度を確立すべきである。そして、雛形理論に基づいて、さらにその企業組織制度を家族制度に相似したものとして改革されなければならない。

ともあれ、このやうな樣々な制度改革を實行して自給率を漸次向上させたとしても、國家によつては、一國だけで自給自足が直ちに實現しえない事情もある。そのやうな場合は、經濟ブロックを形成し、經濟的國家連合を結成することになる。そして、その經濟ブロック内の國家間の貿易と、そのブロック外の國家との貿易とを區別して、後者から前者へと轉換させる。そして、最終的には、經濟ブロックを解消して、各國の自給自足體制を確立させるといふ多段階方式でこれを實現する。

なほ、基幹物資の中には、石油などのやうに特定地域に偏在してゐるものがあることから、基幹物資ごとに自給自足の經濟ブロック單位を設定し、その極小化を圖る。勿論、その場合は、新たな代替エネルギーの確保と開發がなされれば、徐々にその經濟ブロックは縮小し、さらには消滅する。

ただし、現在のところ、石油に代はる基幹物質は存在しない。石油は、エネルギーとして基幹物質であると同時に、種々の製品や商品の原材料としての基幹物質でもあり、しかも、食料の原價としても組み入れられてゐる。石油は、原價的にも技術的にも、産業的汎用性が著しく高い資源である。それは、石油製品が生活の中に廣く入り込んでゐることからも理解できる。多くの製品、商品及び作物などの價格は、それを製造し栽培するための石油の原價で決定されてゐる。大量消費に向けられた農産物は、生産過程において石油や電力を費消し、その電力供給もまた石油の依存率が高いことからすると、原價的にみれば、農業生産物も石油製品であり工業生産物と同じである。それゆゑ、食料自給率とエネルギー自給率とは不可分の關係であることから、その觀點で自給率を見直すことが必要となる。我が國の食料自給率がカロリーベースで約四十パーセントであるとしても、石油の自給率が零に等しい現状では、實質的な食料自給率は絶望的な數値となるはずである。

ともあれ、石油は、「實業」の觀點からして、原料、製造、物流、生活資材など支配する「國際通貨」と同等の意味がある。消費財ではあるが、生産調整などによつてコントロールされた石油は、經濟の基軸となつてをり、世界の實體經濟(實業)においては「石油本位制」の樣相を呈してゐる。

それゆゑ、世界の自給自足體制の確立については、この石油に關して特別の配慮がなくてはならない。結論を言へば、究極的には、石油を「世界の公共財」として、生産國らの所有とさせないことが必要である。勿論、生産國の既得權益は認められるべきではあるが、メジャー(major)といふ國際石油カルテルや石油輸出機構(OPEC)などによる寡占状態は、戰後の國際體制に勝るとも劣らない邪惡で利己的なものであつて、世界を石油基軸のまま自給自足體制へと向かはせるのであれば、國連などによる國際體制と共に解體させなければならない存在である。

それゆゑ、自給自足體制へと向かふ國家が連合し、國連から脱退して新たな國際組織を結成し、石油利權の寡占組織との交渉窓口となつて、このやうな寡占状態から世界を解放させ、石油を「國際的公共財」とする努力を續けなければならない。

自給自足體制の確立のためには、このやうな問題があるとしても、方向貿易理論を各國が現實的に政策として數値目標を立てて實施して行けば、世界に大きな轉機が生まれ、これに異議を唱へる者に對しては、人類の本能を自覺させるやうな學習と教育の機會が與へられ、これによつて、世界の人類は共通した福利の認識に到達する必要がある。

動的平衡と雛形理論

方向貿易理論によつて自給自足體制を確立させて行くことが、國家と世界の恆久の安定と平和、そして社會の發展を實現することになるのは、その方向が人類全體に備はつてゐる「本能」に適合してゐるからである。人類が共通して感じてゐる安定社會の既視感(デジャビュ)を具體的に表現したものが自立再生論といふことになる。

そして、この本能の實相を説明するための前提として必要なものが、第一章でも述べた動的平衡と雛形理論であり、このことについて以下に概要を再述することにする。

まづ、動的平衡についてであるが、これは既述のとほり、生き物の實相に關して大きな示唆を與へたルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schoenheimer)の功績による。彼は、昭和十二年に、生命科學の世界において偉大な功績を殘してゐる。ネズミを使つた實驗によつて、生命の個體を構成する腦その他一切の細胞とそのDNAから、これらをさらに構成する分子に至るまで、全て間斷なく連續して物質代謝がなされてゐることを發見したのである。生命は、「身體構成成分の動的な状態」にあるとし、それでも平衡を保つてゐるとするのである。まさに「動的平衡(dynamic equilibrium)」(文獻329)である。唯物論からすれば、人の身體が短期間のうちに食物攝取と呼吸などにより全身の物質代謝が完了して全身の細胞を構成する分子が全て入れ替はれば、物質的には前の個體とは全く別の個體となり、もはや別人格となるはずである。しかし、それでも「人格の同一性」が保たれてゐる。このことを唯物論では説明不可能である。人體細胞も一年半程度で全て新しい細胞に再生し、しかも、その細胞の成分も新しい成分で構成されるといふことになると、このシェーンハイマーの發見は、唯物論では生命科學を到底解明できないことが決定した瞬間でもあつた。

そして、このことと竝んで重要なことは、この極小事象である生命科學における個體の「いのち」から、極大事象である宇宙構造まで、自然界に存在するあらゆる事象には自己相似關係を持つてゐるとするフラクタル構造理論の發見である。フラクタルとは、フランスの數學者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何學の概念であるが、いまやコンピュータ・グラフィックスの分野で應用されてゐる理論でもある。このフラクタル構造理論(雛形理論)とは、全體の構造がそれと相似した小さな構造の繰り返しでできてゐる自己相似構造であること、たとへば、海岸線や天空の雲、樹木、生體など自然界に存在する一見不規則で複雜な構造は、どんなに微少な部分であつても全體に相似するとするものである。そして、マクロ的な宇宙構造についても、いまやフラクタル構造であることが觀察されてをり、また、恆星である太陽を中心に地球などの惑星が公轉し、その惑星の周圍を月などの衞星が回轉する構造と、原子核の周圍を電子が回轉するミクロ的な原子構造とは、極大から極小に至る宇宙組成物質全體が自己相似することが解つてゐる。

このことについては、我が國でも、古來から「雛形」といふものがあり、形代、入れ子の重箱、盆栽、造園などに人や自然の極小化による相似性のある多重構造、入れ子構造を認識してきたのである。そして、『古事記』や『日本書紀』には、この唯心と唯物の世界、形而上學と形而下學とを統合した大宇宙の壮大な雛形構造の原型が示され、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の二柱の神が天津神の宣らせ給ひた「修理固成」の御神敕を受け、天の浮橋に立つて天の沼矛を指し下ろし、掻き均して引き上げて出來た「オノコロシマ」(淤能碁呂島、オノゴロジマ)とは、「地球」のことであつた。「オノ」といふのは、ひとりでに、自づと、といふ意味の大和言葉であり、「コロ(ゴロ)」といふのは、物が轉がる樣から生まれた擬音語である。「シマ」といふのは、島宇宙、星のことあり、いづれも大和言葉であつて、これをつなげた「オノコロシマ」とは、「自ら回轉してゐる宇宙」、「自轉島」、つまり「地球」なのである。そして、このオノコロシマから始まるその後の記紀による國産みの話は、我が國が世界の雛形であることを意味してゐる。また、地球といふ生命體の創造において、天の御柱を二柱の神が廻る姿は、個體細胞の染色體が二重螺旋構造をしてゐることを暗示し、まさに極大から極小に至るまでの相似形象を示す我が國の傳統である「雛形理論」を示してゐる。このことからすると、記紀には、宇宙創世から地球の誕生、そして、その創世原理としての雛形理論といふ比類なき壮大な宇宙性、世界性、普遍性が示されてゐるとともに、我が國が世界の雛形であるとの特殊性が描かれてゐることになる。

『大學』でいふ「修身齊家治國平天下」といふのも同じである。これらは、森羅萬象や社會構造の全てについて、この雛形理論で説明できることを示したものであつて、人の個體、家族、社會、國家、世界のそれぞれの人類社會構造の解明についても、この理論が當然に當てはまる。

また、同じく社會科學としてその科學的考察を必要とする法律學、憲法學、國法學の分野においても、同じく「科學」である限りは、この雛形理論が適用されることになる。つまり、國家と社會、民族、部族、家族、個々の國民とは、同質性が維持される自己相似の關係にあり、個體の細胞や分子が全く入れ替はつても人格が連續する姿は、皇位が歴代繼承され、國民が代々繼襲しても、それでも連綿として皇統と國體は同一性、同質性を保つて存續する國家の姿と相似するのである。「國」は「家」の雛形的相似象であることから「國家」といふのであつて、天皇機關説や國家法人説も、人體と國家の相似性に着目した學説であつた。

そして、「生體」がその構造と代謝の基本單位である「細胞」で成り立つてゐるのと同樣、「國家」もまたその構造と代謝の基本單位である「家族」から成り立つてゐる。家族(細胞)が崩壞して、ばらばらの個人(分子)では國家(生體)は死滅するのであり、「個人主義」から脱却して「家族主義」に回歸しなければ、國家も社會も維持できないのである。

この動的平衡と雛形理論からすると、政治、法律、經濟などあらゆる分野の構造においてこれが適用されることにより安定化が圖れることになる。それは、生體において、構造と代謝の基本單位が細胞であるのと同樣に、經濟單位が家族單位の規模まで極小化することが最も安定することを意味してゐる。家族單位まで極小化したものが、さらに個人單位まで極小化できるか否かはその後の課題であるが、現在の個人主義的な經濟單位とするグローバルな經濟構造では、あたかも單細胞動物の危ふさがある。これまでの經濟構造の歴史的推移は、さながら多細胞動物が徐々に細胞數を減少させ、單細胞動物へ退化して行く過程にも似てゐる。これでは、國家や世界の生存が危ふくなる道理である。

それゆゑ、極小化の限界は、家族といふことになる。しかも、安定性からすれば、大家族といふことになるであらう。

以上により、方向貿易理論によつて自給自足體制を確立させて行くことは、世界全體を、家族、部族、民族、國家、世界へと、それぞれが動的平衡のある重畳的な雛形構造に整序されて、國家と世界の恆久の安定と平和、そして社會の發展を實現させることになるのである。

自立再生社會の概要

人に志がなければならないのと同じやうに、國家にも志がなければならない。國家にとつて、國家の私利私欲に基づく國益よりも、國家の命運を賭した國家としての志がなければならない。人にとつて志といふのは、生きる目的と希望であり、人に備はつた本性である。他の動物と異なり、これがなければ、人は精神の安定が得られず、生活が安定しない。人は、即物的な生活だけで滿足する生き物ではない。祖先祭祀と自然祭祀などの祭祀生活ないしはその擬似生活としての宗教生活を營むことでなければ、魂の安靜は得られないのである。

第一章で觸れたが、祖先祭祀の根源とは、親が子を慈しみ、子が親を慕ふ心にある。我々の素朴で根源的な心には、たとへ死んで「から」(體、幹、柄、殻)を失つても、その「たま」(靈、魂)は生前と同樣に子孫を慈しんで守り續けたいとするものである。たとへ自分自身が地獄に落ちようとも、あるいはそれと引き替へてでも、家族が全ふな生活をすることを見守り子孫の健やかなることを願ふ。そして、子孫もこのやうな祖先(おや)の獻身的で見返りを望まない心を慕ふのである。死んでも家族と共にある。それが搖るぎない祭祀の原點である。子孫が憂き目に逢ふのも顧みずに、家族や子孫とは隔絶して、自分だけが天國に召され、極樂・淨土で暮らすことを願ふのは「自利」である。「おや」は、自分さへ救はれればよいとする自利を願はない。これは「七生報國」の雛形である。一神教的宗教の説く救濟思想への違和感はまさにここにある。「利他」の「他」は、まづは家族である。あへて家族から離れさせ、その絆を希薄にさせる「汎愛」では雛形構造が崩壞する。家族主義といふ「利他」を全ての人がそれぞれの立場で實現すれば、世界に平和が訪れることになるのである。

つまり、祭祀の機能は「人類の融和」である。これに對し、世界宗教といふのは、特定の宗教勢力が「絶對神」を定め、それを「唯一神」とすることによつて、これと異なる「唯一神」を主張する宗教勢力とは、不倶戴天の敵となる。つまり、このやうな宗教の機能は「人類の對立」である。現に、これまで「祭祀戰爭」は一度もなく「宗教戰爭」は數限りなく存在したことは嚴肅な歴史的事實である。人々の救濟のためにあるとする宗教が、まつろはぬ人々を脅し傷付け殺戮する。それゆゑ、世界平和を眞に實現するためには、人類は宗教進化論の誤謬に一刻も早く気づいた上で、祭祀から退化・劣化した「宗教」を捨てて始源的で清明なる「祭祀」に回歸することしかない。つまり、自立再生社會といふ人類の理想に到達するためには、祭祀による祖先と萬物に對する感謝をしながら自己の德目を磨き上げることを各人が人生の目標として實踐することであり、そのことが人類共通の志となる必要がある。

そして、これが、家族、社會、國家、そして世界の志となれば、自づと動的平衡を保つた堅固な雛形の經濟社會構造が出現する。それが後に述べる自立再生社會である。

眞理と理想に近づく經濟社會構造は、決して複雜なものであつてはならない。單純明快であることが必要である。煩を去つて朴に復る。これは、「良い考へは常にシンプル」(クリフォード・ハーパー)とか、「小さいことは美しい(スモール イズ ビューティフル)」(E.F.シューマッハー)、あるいは「單純なことは美しい(シンプル イズ ビューティフル)」といふ言葉で表現してもよい。

複雜で大規模な統制を必要とする經濟社會構造では、假にそれが適正と思はれるものであつたとしても、その理論を理解して管理統制しうる能力を有する者の中から選ばれた特定の者だけが社會と經濟を寡頭支配することになる。そして、その大規模な統制構造を管理するについては、必然的にこれに對應する大規模な政治制度を必要とする。さうすると、大きな政府の權限が增大し、生殺與奪の權限を掌握した者の寡頭政治となり、必ず腐敗が生まれる。絶對的權力は絶對的に腐敗するのである。これは、少数支配の原則から生まれる腐敗である。そして、その少数支配者が故意又は過誤によつて本來の構造と制度の運用を誤れば、全體としての社會と經濟の構造が脆くも崩壞する。それゆゑ、大規模な統制構造の社會と經濟は、これを支へるための複雜で強力な政治によらなければ維持できないこととなり、その社會構造は脆弱で不安定なものとなる。そのことからすると、複雜な計畫經濟と硬直化した獨裁政治を行つた共産主義國家が崩壞するに至つたのは必然的な現象と云へる。そして、これに勝るとも劣らない複雜で硬直化した現在の國際金融資本主義社會の混迷と、この制度を維持しようと藻掻き苦しむ國際政治がダッチ・ロール的迷走に突入したことからすると、これは構造的崩壞に至る前相であると評價されることになる。

そのために、社會の理想を實現する志は、一部の特定の者に獨占されるものではなく、萬民が素朴に繼續して抱くものでなければならず、それが收束して家族、各地域、國家、さらには世界の志として共通するものとなり、それが自立再生を實現する志に收斂される。國家單位で捉へると、方向貿易理論が必然的な歸結となり、これによつて「自立再生論」を實現するといふ國家の志が形成されることになる。

では、以上の前置きを踏まへて、以下において「自立再生論」の解説をする。まづ、結論を言へば、ここで、方向貿易理論の必然的な歸結となる自立再生論といふのは、「再生經濟理論」に基づくものである。この再生經濟理論とは、財貨・情報・サービスなどを提供する生活産業構造を、「生産」、「流通」、「消費」、「再生」の四部門に分類し、生産・流通・消費の各部門は、再生部門に奉仕するものと位置づけることから始まる。再生のための生産であり、流通であり、そして消費である。

これまでも、循環型社會の構築を主張する見解は多いが、これは「動脈思考」によるものが殆どである。「生産」を原點として、過剰生産をやめませう、といふ道義的願望はあつたが、過剰生産が過剰消費を引き起こしてゐることや、消費は美德であるとする極めて不條理な考へに毒されてきたことの反省が足りなかつた。生産し、その後に消費された後の廢棄物を再生して再び生産の資材として用ゐるといふ發想に過ぎず、廢棄物が資源として再生されずに廢棄物となるのが「勿體ない」とするだけである。

ところが、再生經濟理論とは、廢棄物となつて廢棄されてしまふ大量生産の製品を作ること自體が「勿體ない」とするのである。需要と供給の均衡において、「需要(消費)があるので供給(生産)が發生する」といふ原理は、生産の動機を受動的に見てゐる點において、資本主義の大量生産を説明するには正確なものではない。そもそも、自由市場では需要と供給の均衡によつて商品價格が決定されるといふ「需要供給の法則」は、證券、為替取引の賭博經濟のみに適用される法則であつて、實體經濟における「商品」には適用がない。なぜなら、實體經濟には、「自由市場」自體がないからである。自由市場として成り立つには、全需要者(全消費者)と全供給者(全生産者、全販賣者)とが一齊かつ全域において、第三者の作爲を介在させることなく取引しうる關係が確保されてゐることが必要である。そこには新規參入することの障碍や商品の流通と商品への接近(アクセス)における地域格差や障碍が全くないことが條件となる。しかし、そのやうな環境はいままで存在したことがないし、これからもそれが實現することはありえない。特定の地域や特定の參入者だけの取引を以て自由市場といふ「幻想」を抱いてゐるだけである。そもそも、商品價格は、原則として生産原價及び流通原價などに適正利益を付加したものを基礎に、供給者側が消費者に對する情報操作を驅使して、さらに付加價値分を上乘せするなどして決定するのであつて、需給均衡で決定するのではない。特定商品の需要超過によつて生産者の設定した販賣価格よりも高騰して取引がなされるときや、その逆に、供給過剰によつて製造原價割れで取引がなされるときのやうな需給ギャップが生じるのは、供給者がその商品についての需要情報や流通情報などを事前に把握してゐなかつたか、あるいは、販賣促進のための情報操作の失敗や、その後の事情の變化によるもので、おしなべて經營の問題に還元されるだけである。需要情報が乏しく需給バランスが全く手探りの状態で、供給者が製造・販賣したりすることは本來ありえないが、そこに賭博的手法を取り入れ、テレビその他の媒體を驅使するなどして過剰消費を創出させようとする商業主義(commercialism)が出現する。これは、本來の實質的需要を發掘するといふのではない。消費者の奢侈傾向、衝動と虚榮による購入性向などを掻き立てて過剰消費を創出する。

このやうにして實體經濟における商品の價格は決定されるのであつて、購買意欲を過度な情報操作によつて掻き立て、商品原價に適正利益を付加したものを遙かに超えた商品價格を決定することによつて暴利行爲となるやうな價格設定も可能となる。暴利行爲とは、法外な利益を獲得するための違法な個別的商業活動であり、一般には詐欺的手法を用ゐた公序良俗違反の形態であるとして禁止されるものであるが、これは何も個別的にだけに起こるものではない。このやうに、構造的に一般的にも起こりうるのである。つまり、自然的又は人爲的な理由によつて大量の需要が生まれた場合、しかも、商品の生産者及び流通者が獨占状態や寡占状態となつてゐる場合には、生産停止、出荷制限、売り惜しみ、買ひ占めなどの生産調整や流通調整によつてもその現象は起こる。このやうな暴利行爲を法規制によつて禁止しなければならないのは、そもそも市場による均衡が實現しえないことの証左でもある。

さらに、その商品價格についても現實には一律でないのが一般である。市場で價格が決定するのであれば、「一物一價の法則」が適用されるはずであるが、それが成り立たないのも、自由市場が存在しないからである。前にも觸れたが、そもそも、「需要供給の法則」が成り立つためには、全地域の全人民の需要と供給とが「一斉かつ同時」に發生しなければならないが、そのやうなことは絶對に起こりえない。需要と供給との間には必ず時差があり、地域、季節、生産状況、供給状況その他の諸條件の相違によつてそれぞれが變動して相關關係的に價格が決定するのである。また、需要と供給との間に流通者やブローカーなどの中間者が存在する經濟構造であることから、中間者の動向によつても價格が變動するのである。

それゆゑ、不特定多数の供給者と不特定多数の需要者との均衡による「見えざる手」によつて均衡点に到達するといふ價格決定原理は單なる幻想であつて、そのことは「流通・小賣りの寡占化」によつてさらに一層明確になる。大手スーパー、大手コンビニ、大手チェーンストア、大手ディスカウントストアなどの大手の流通・小賣業者が流通・小賣りを寡占して價格決定權を獲得するに至り、生産者(メーカー)の價格決定權はさらに縮小される。流通・小賣りができなければ生産できないからである。この生産者と中間者との緊張的共同關係の中に、消費者(需要者)が割り込む隙はない。消費者(需要者)は價格決定に參加することは全くないのである。消費者(需要者)は、供給者側(生産者、中間者、広告媒體など)から示された商品價格でその商品を購入するか否かを選擇することしかできない。僅かな樂しみとしては、いろいろなチラシを比較して購入する店舗と商品を選別し、その店舗でさらに價格を値切つて、ささやかな達成感を味はふことしか殘されてゐないのである。

ここに至つて、商品經濟は、生産者、中間者の利益追求の欲望と消費者の消費の欲望とを同時に満たす「欲望經濟」となつて供給が需要を主導する供給主導型が完成するのである。この欲望經濟は、際限なく擴大し、投機対象を漁り續け、欲望の坩堝である證券為替取引市場や商品取引市場といふ賭博場にも押し寄せる。「貯蓄から投資へ」といふ甘言に踊らされて、食べる物を切り詰めてでも投機に走る「一般投資家」といふ名の欲望の奴隷も誕生してくるのである。そして、米國が「年次改革要望書」を以て我が國に要求した、規制緩和と銀行と證券の業際規制の廃止(金融緩和)などを忠實に履行した「構造改革路線」によつて過剰流動性を增した通貨がさらに賭博經濟へと注入され、實體經濟を逼塞させる。これらの虚業經濟は實體經濟と混在化して峻別できない状況にあることから、バブル崩壞によつて景氣が低迷すると、政府による經濟政策は、ケインズ主義的に公共投資等による需要面から牽引する方法か、あるいは、新自由主義的な構造改革等による供給面から牽引する方法か、そのいづれを採用するのかといふ、これまで言ひ古されてきた議論を繰り返すだけである。これらの政策選擇だけでは全く根本解決にはならない。ただ、少なくとも、構造改革路線は、賭博經濟をより推進させる方向であり、對米從属がさらに深まることだけは確かである。

いづれにせよ、實體經濟を健全化させることが當面の課題ではあるが、これからの經濟政策は、消費を煽ることによつて景氣浮上させるといふ幻想から脱却しなければならない。前に述べたとほり、このやうな政策は、質素儉約を否定する不道德の奬勵であるとともに、人も國家も、成長が際限なく續くことはありえないことを忘れたものである。經濟成長も然りである。いつまでも唯物論的に經濟が成長し續けると未だに爲政者や賭博師などの經濟人が信じてゐるために、このやうな幻想を抱くのである。經濟といふのは、所詮は物質的活動である。未使用のまま廢棄するほどまでに物が豐富なのに、これ以上一體何が物質的に不足なのか。豐かになつたと云はれてゐるのに、それでも更にあくせくして疲れ切り、將來が不安なのはなぜか。それは、この際限のない成長幻想を抱いてゐるからである。世界には、飢餓に喘ぐ状態が未だに殘つてゐるが、世界の經濟活動は、その救濟には向かはない。むしろ、その乖離を深めるだけである。さうであれば、現在の經濟における需要は、原則として消費財の補充と生産財の維持の限度でしかありえず、これ以上の需要の擴大はありえない。これ以上のものを求めるとすれば、虚業經濟によるか、あるいは、實體經濟に拘るのであれば、それは戰爭とそれによる破壞からの復興といふことを繰り返す戰爭特需以外にはありえないのである。

「倉廩實ちて禮節を知り、衣食足りて榮辱を知る」(管子)の如く、見せ掛けの成長が止まつてから、人が人格の完成に磨きをかけるのと同樣に、國家もまた文化と民度の向上に努めなければならないのである。

閑話休題、再び再生經濟理論に話を戻す。まづ、資本主義の特性は、たとへ、消費(需要)がなくても、利益の獲得のために生産(供給)するところにあり、大量生産が大量消費を牽引するとして、それによつて擴大再生産が始まることになる。つまりは、過剰消費を誘導すれば消費性向には限界がないことから、物があればあるだけを消費するに至るからである。

ところが、「再生」には技術的、經濟的に限界がある。從つて、自然に再生される物や義務的に再生される物以外の「餘剰」の廢棄物が環境等を破壞することから、この消費を「再生」の觀點から限界付ける必要があつた。つまり、再生經濟理論とは、「再生できずに廢棄してしまふ製品を消費してはならない。」といふ消費の抑制原理である。そして、このことから、「消費してはならない製品を生産してはならない。」といふことに到達する。勿論、消費量とその速度については、地球の再生能力の限界點を超えられないことは前に述べたが、その限界點である消費總量を總人口で除した値が一人あたりの消費限界量であるから、消費生活の態樣は、その數値を超えてはならないといふ他律的なものとなる。總人口の問題、すなはち人口問題については個人で解決できる問題ではなく、一人あたりの消費限界量といふ限界點も、このやうに他律的に決定されるとなると、個人が自覺的に取り組めるものにも限界がある。それゆゑ、國家としては、これらを具體的に數値化して、一人あたりの消費限界量といふ限界點を示し、消費量を抑制させること、いはば「消費量の配給制」といふ總量規制を導入する必要がある。人々は、その總量規制の限界の中で、個々の事情により優先順位を定めて消費の種類を選擇し、消費の量を調整する。

そして、消費については、このやうに消費總量の限界點を算出し、また、再生についても、再生しうる再生總量の限界點を算出し、これらを比較して、いづれか少ない數値を以て「消費の配給量」として決定することになる。

このやうに、消費と再生の限界を認識した上で、これに基づき生産と流通を限界付ける理論が、「靜脈思考」ともいふべきこの再生經濟理論である。いはば、これは靜脈産業である再生産業を産業構造上の中心産業と位置づけるもので、單なる循環經濟理論のやうに、再生産のための生産部門のために廢棄物を資源として考へると云つたやうな、生産といふ動脈産業を中心に産業構造を捉へるものとは全く異なる。廢棄物をそのまま燃燒させて熱源とするやうな單純な循環ではなく、通常は「メビウスの輪」のやうに、廢棄物の再生處理によつて得られる資源を産業の起點に置く「循環無端」の再生循環經濟なのである。これは、生體における自己完結型の「代謝」が雛形となつてゐる。

ところで、「再生産業」とは、基幹物資その他全ての生活關連物資として生産されたものが流通を經て消費された結果の「産業廢棄物」を再び生産のための資源として最大效率で活用し、完全に無害處理させることを指導理念とした産業部門である。しかも、「再生」を産業全體の基軸と捉へるといふのは、物に對する感謝を以て再生することを制度化することでもある。さうすれば、「産業廢棄物」といふ用語は、「産業拜歸物」と捉へることになる。物への感謝(拜)を以て再生(歸)するといふことである。

「再生」には、産業廢棄物(拜歸物)を直接的に人爲的な再生をする場合と、生態的物質循環を經て間接的に自然的な再生をする場合とがあるが、完璧な再生は、恰も永久運動のやうな産業循環を實現することである。地球の資源は有限であるから、埋蔵燃料やウランなど、一度燃燒消費すれば二度と再生しえないやうな枯渇性資源(再生不能資源)の使用は、その再生が不能であるか、極めて困難であつたり危險であつたりする點と、廢棄物(拜歸物)の無害處理が困難な點において、再生經濟原理には本質的に馴染まない。その他の埋蔵鑛物などのうち再生可能資源は、自立再生經濟における産業循環に組み入れられることになる。また、再生可能資源(エネルギーを含む)において、最も理想的なものは、「太陽の惠み」と「宇宙の惠み」である。太陽熱、太陽光、水力、風力、波力、潮力(潮汐)、海洋温度差、バイオマス、地熱、超傳導などを利用した發電及びエネルギーの抽出であり、無限に近い再生利用と完全無害處理が可能となる。現在、世界各國は、連合國主導で埋蔵燃料やウランなどの枯渇性資源(再生不能資源)の利用に關する研究を主力として進めてゐるが、このやうな傾向から脱却して、安全無害の再生可能資源の實用開發に全力を傾け、自立再生理論を實現するための第二次産業革命ともいふべき技術革新を行ふことが、これからの世界の課題と責務である。

世界各國が、自立再生經濟の確立に向かつて自助努力をなし、そのための技術と情報を必要とする國に對しては、新たな國際機關を設けて、その技術と情報を提供し合ふといふ共助努力を行ふ。そして、大氣や海洋などの地球的規模の問題については各國が協力して取り組み、また、緊急事態に備へた協力體制を確立し、南北格差など、國家間の格差のない世界を實現していくことになる。

そして、「貿易をなくすための貿易」といふ方向貿易理論を實施し、再生經濟理論によつて消費を限界付け、基幹物資が再生循環によつて閉鎖系かつ循環系としての自給自足體制が完成するといふことになる。そして、技術革新を遂げることにより、その閉鎖循環系の自給自足社會が、より小さないくつもの閉鎖循環系へと細分化され、その閉鎖循環系社會が極小化していくことになるのである。

繰り返し述べてきたが、これも動的平衡による雛形構造(フラクタル構造)の實現を目指すものである。分業化體制を際限なく推進することは、社會を不安定化させる。禮と樂の區別、陰と陽の區別からすれば、「分業」とは、「樂」と「陽」への不可逆的な方向であり、擴散・溶解・緩和を意味する。これに對し、「分業」から「合業(統業)」へと向かふのは、收束・凝縮・緊張を意味する「禮」と「陰」の方向で、社會をより安定化させる。そもそも、萬物は、禮と樂、陰と陽の動的平衡、振動的平衡によつて安定するものであるが、現代は、餘りにも「樂」と「陽」の方向へ振れ過ぎたことによる不安定化であるため、これを振幅の中心軸である「太極點」を起點とする小さな振幅にまでに縮小しなければ、世界全體の安定が實現しない。

すなはち、自立再生論とは、無計畫に放置すれば安易な省力化による分業が生まれ、社會經濟單位の極大化の方向へと流れる擴散傾向があることから、これと對向的な調和を實現しうる收束傾向を目指す方向貿易理論と再生經濟理論によつて、閉鎖循環系の自給自足社會を極小化させていくといふ理論であり、これに從つてこそ世界全體の動的平衡を實現し、雛形理論による世界平和と地球の安定を約束してくれるのである。

自立再生論と新保護主義の相違點

では、この自立再生論と前に紹介した新保護主義とは、どこが同じでどこが違ふのか、といふことについて説明したい。

まづ、方向貿易理論を採用してゐる點は完全に一致してゐる。そして、グローバル化こそ世界滅亡の道であるとの認識や、輸出入を制限していくなど、その前提となつてゐる自由貿易と國際金融資本の認識などについてもほぼ一致してゐる。また、GATT(WTO)の解體など既存の國際組織を解體させる方向は熱烈に支持できるし、その他指摘された七つの具體的政策提案についても、以下に述べる點を除き、さほど大きな異論はない。

しかし、まづ、大企業の解體については、これを強制的に行ふことには絶對に反對である。方向貿易理論に適合しない企業は、その大小を問はず自然淘汰されていくとするのが自立再生論であつて、新保護主義のやうな政策は、方向貿易理論の實踐にとつては完全にマイナスになる。企業の産業的牽引力に信賴を寄せるべきであり、ましてや、大企業には一般的にはスケールメリットによる技術とノウハウの集積があり、何よりも雇用の確保と擴大がなければ、産業構造の變革は實現できない。大企業の解體政策は、これらを否定して、失業を增やし、技術とノウハウを散逸させて國内經濟全體を沈滯化させ、自給自足體制へ移行するために大きな桎梏となつてしまふからである。

このやうな「大企業の解體」の主張は、マルクス主義の亡靈である。企業は惡、大企業は巨惡とする考へに根據がないことは明らかである。企業(會社)が惡であれば、その相似形である家庭も國家も惡であり、人間自身も惡となる。それは本能を否定する性惡説である。道(規範)を踏み外すことがあつても、必ずまた道に戻ることも本能による規範意識による。江戸中期に、石門心學といふ獨自の學派を拓いた石田梅岩は、武士に武士道があるのなら、商人にも商人道(商道)があると説いた。まさに雛形理論である。そして、利を求める商人にも人としての義(士道)を守ることを求め、利と義とは兩立するとし、その序列を「先義後利」とした。これが我が國の「あきんど」の魂として定着し、今日に至つてゐる。道を外すことを「外道」といふ。秩序と規範の投影である禮がないことを、無禮、非禮、失禮といふ。禮に始まつて禮に終はる。それが道である。その意味では、「柔道」や「空手道」などがスポーツとなつたときに、その武道は死んだ。試合終了の禮を濟まさないうちから、勝つて小躍りしてガッツポーズをする姿は見苦しく、外道の野蠻人と成り下がる。これと同じで、儲かつたことを世間に誇示するだけで社會奉仕をしないのは商道から外れる。

このやうな「商道」の思想は、共産主義者からすれば「理外の理」なのであらうが、いづれにせよグリンピース・インターナショナルの經濟擔當者コリン・ハインズがこの新保護主義の主唱者の一人であつたことからすれば、冷戰構造崩壞後、マルクス主義者ないしは共産主義者の多くが環境保護思想へと轉向して行つたことと無縁ではないと想像できる。そして、そのためか、この新保護主義には決定的に缺けてゐる「視座」があることに氣付くのである。

それは、第一に、新保護主義が打倒しようとする現在の國際體制が大東亞戰爭の戰後體制であるとする認識が完全に缺落してゐる點である。

新保護主義を育んだ土壤は、まさに大東亞戰爭を「惡」として斷罪した歐米思想であり、大東亞戰爭による大東亞共榮圈といふ經濟ブロックを壞滅させるために歐米が構築した經濟ブロックによる「保護主義」をそのまま承繼したのが「新保護主義」であるといふ思想的系譜がある。もし、新保護主義が自己の正當性を主張するのであれば、我が國に對し、安政の假條約によつて、保護主義の極地であつた鎖國主義を放棄させた歐米の誤りに對する歴史的な懺悔から出發しなければならないはずであるが、やはりこの新保守主義なるものは、白人至上主義を一歩も出られない普遍性のない思想といふことである。

第二に、新保護主義には、自立再生論のやうな「閉鎖循環系」の思想がない。自給自足はしても、循環型の社會構築の提案が全くない點である。

これでは、前に述べた「修正主義(福祉主義)」の單なる亞流であつて、淘汰される運命しかない。それは、「資源税」といふ考へ方に集約されてゐるのかも知れない。この資源税については具體的な説明がないが、おそらく資源の費消に賦課される税制であらう。そして、課税者は、「大企業」を惡とする思想からして、生産活動に課せられることにならう。しかし、これでは産業構造の劇的な轉換を生まない税制になる。これは、生産者に對する課税であり、消費者に對する課税ではない。さうすると、生産者は、何とかして消費者に消費性向を掻き立てさせるために、技術と廣告宣傳を驅使し、資源税を上乘せしても利潤を確保できる商品(殆どが奢侈な高級品)を制作して消費者に提供することになる。消費者もこれに迎合して買ひあさる。そして、小規模ではあつても、奢侈商品の擴大再生産が循環されるのである。これでは本來の目標には到達できない。さうではなくて、自立再生論に基づき、奢侈品には累進的に大きな税率の資源税を課すとの流通税(消費税)方式とすれば、家計との關係で買ひ控へが起こり、過剰消費が抑制される。

新保護主義の資源税の構想は、過剰生産を惡と見るが、過剰消費を惡と見ない考へに支配されてゐる。資源を使用して利益を得る資本家による生産は能動的な惡であり、それを購入する労働者の消費は受動的な善であるとして、資源税の擔税主體を生産者とする。これは共産主義の亞流である。しかし、現在の高度分業體制の社會では、生産者は一部であり、消費者は、この生産者を含めた全ての人々となる。さうであれば、過剰生産のみを惡とする教育は、一部の生産者を惡として指彈するだけで、消費者に自らの生活を自戒させる契機を失ふ。これに對して、過剰消費をも惡とする教育は、それ自體が眞理であることもあるが、誰もが例外なく消費者であることから、一部の誰かを惡者として指彈することによつて自己滿足して傲慢になることはなく、全員が自らの生活を自戒する機會に直面することになるから、教育的効果においても絶大なものがある。

第三に、新保護主義は、規制の具體的な七つの方策を示すものの、その規制によつて達成する理想社會の具體的なありさまが全く論じられてゐない點である。

單に、「秩序ある資本主義」として規制するとしても、その内容と方向に具體性がない。これだけの規制を一度にすれば、資本主義は完全に失速し、經濟破綻を招來する懸念がある。この七つの方策は、政策論として體系化、序列化されてをらず、到達すべき理想社會の方向も提示されてゐない。手段だけは掲げられるが目的と方向は掲げられてゐないのである。そのために、世界的な金融危機や恐慌が起こると、從來までの金融と財政の缺陥システムをそのまま維持しようとする者たちから、「このままであれば保護主義が台頭し、世界は戰爭の道へと轉落する。」といふ常套文句が語られる。保護主義は戰爭の代名詞として利用し、この缺陥システムを守らうとするのである。確かに、世界が保護主義へ向かつて戰爭に至つたといふ歴史的な事實が過去にはあつた。それは、保護主義へと向かふ目的が「戰爭」の準備にあつたためである。しかし、自立再生論の目的は、「平和」の創造と繼續にある點で全く異なるのである。自立再生論とは、その究極が方向貿易理論による政策を推進して「閉鎖循環系の自立再生社會の極小化」を實現するといふ明確かつ具體的な理念とその實踐であるが、新保護主義にはこれに相當する理念と實踐がないのである。自立再生論からすると、新保護主義のいふ「秩序ある資本主義」の「秩序」を具體的に説明することができる。それは、まさに自立再生論によつて規律された秩序といふ具體的秩序である。

第四に、これは經濟効果において最も重要なことであるが、自立再生論による自給自足領域の極小化は、内需擴大を推進することになるとの點である。ところが、新保護主義には全くこのやうな經濟學的視點が缺落してゐる。

生産至上主義は、徹底した分業體制によつて經濟規模を極大化し、ワン・ワールド化することにあつた。分業を限りなく細分化することによつて、雇用、消費、内需、外需をいづれも擴大させて「無限大方向への發展」を目指すことである。しかし、經濟世界は地球規模を超えることはできないし、分業にも費用對效果(コスト・パフォーマンス)といふ限界がある。そして、擴散すればするほど生活は確實に不安定になるのである。これに對し、自立再生論は、後述するとほり、單位共同社會の極小化を目指すものであるから、自給率向上のための技術革新とその新製品の製造販賣などによつて、外需の縮小と内需の擴大が相關關係となつて、單位共同社會の極小化、つまり「無限小方向への發展」が可能となる。これは、各國が自立する方向であり、しかも、各國が内需を擴大し續けて經濟規模を擴大させる方式である。雇用は、單位共同社會に吸收され、奢侈な過剰消費はなくなり、適正な消費によつて經濟を安定させる。方向貿易によつて縮小して行く外需依存の體質を内需依存へと改善させることができる。基幹物資の自給率向上のための極小化の方向は、技術革新による新商品の開發とその販賣、それを購入して活用することによる自給率の向上による利益獲得といふ好轉的循環を生むのである。いはば、極小化政策とは、内需擴大モデルの永久運動となる。しかし、新保護主義によると、外需規制だけで、内需擴大の施策がないので、資本主義は失速して經濟は停滞する。これに對し、自立再生論によれば、方向貿易理論によつて外需規制を内需擴大へと轉換させ、自給自足體制による自立再生社會の實現へと向かふ牽引力として資本主義活動を效率よく誘導することができるのである。

第五に、自立再生論と異なる點は、「政府の再強化」といふ點にある。

この「政府の再強化」といふのは、中央集權の強力な政府を出現させることを意味する。確かに、中央と地方と多層構造による「大きな政府」とか、發展途上にある國々において、富國強兵政策を推進するために「開發獨裁」といふ政治形態がある。それゆゑ、この「政府の再強化」とは、これらと類似して、經濟生活環境を保護する政策を推進するために「環境獨裁」とでもいふべき政治形態を目指してゐることにならう。しかし、これは、權力を不用意に肥大化させ、生活のあらる面において取り締まりを強化させることになる。しかも、この再強化は、理想社會を實現するための過渡的な手段として、一時期的なものではなく、恆常的な再強化によつてしか理想社會が維持できないことを意味してゐる。永久に強權獨裁状態を維持しなければならない構造となる。これは、まるで「プロレタリアート獨裁」の理論と似てゐる。

マルクスは、「プロレタリアート獨裁」とその頂點に存在する「共産黨獨裁」といふ政治形態は、革命の完成によつて消滅し、政府自體も消滅するとした。ところが、これまでの共産主義國家においては、政治學的には、共産黨幹部といふ特權階級の「專制政治形態」であることが例外なく證明されてゐる。「獨裁權力はその目的が達成した暁には消滅する。」といふロジックは全くのマヤカシであり、眞の目的とは、獨裁權力を維持すること、つまり、獨裁權力の自己保存であり、たとへ表向きの目的が達成したとしても、今度は、それを維持するために獨裁權力の存續が必要であるとの口實を與へることになる。絶對的權力は絶對的に腐敗するのであつて、その盛衰の歴史の中で、人々に再び共産主義の惡夢に勝るとも劣らない大きな犠牲を強いることになる。したがつて、新保護主義の「環境獨裁」は、「開發獨裁」や「共産黨獨裁」と同樣、「大きな政府」の出現により人類のさらなる悲劇を生む危險思想となりうる。

第六に、この思想について憂慮すべきは、現在、地球環境が危機的状態にあることから、地球滅亡か環境獨裁かの二者擇一しかなく、その選擇を迫られるとする虚僞の論法を用ゐてゐる點である。

本當にさうであれば、環境獨裁しかないが、果たしてさうか。否。斷じて否である。自立再生論は、第一章において、法の支配としての「國體の支配」を説いて主權論を排し、規範國體の法體系を明らかにしたうへ、統治原理においても、第五章で述べたとほり、政治的効用の均衡を實現するために、利益と權限の公平な分配と腐敗防止を同時に實現しうる「羊羹方式」と「燒き魚方式」とによつて構築された效用均衡理論を採用し、經濟においても、基幹物資の自給率を高めるために「貿易をなくするための貿易」といふ方向貿易理論と、再生産業を産業構造の基軸に置いた再生經濟理論による政策の實踐に集約される體系的理論である。その實現のための手段としても、そして、その目的としても「小さな政府」しか必要ではない。「小さな政府」になること自體が目的であるといふよりも、自立再生社會が實現すれば、自づと政府は小さくなるといふことである。ただし、この「小さな政府」といふのは、財政規模と財政作用においてその範圍が小さいといふ意味であつて、地域的な範圍についてではない。このやうな全國的規模や世界的規模の方向性を打ち出すためには、各地方で格差や政策の相違があつてはならず必ず中央集權的でなければならない。

このやうな政治經濟社會構造を構築する方向に、金融、投資、生産、消費などの經濟活動を國内閉鎖系に限つて開放し、自由活發化させればよいのである。各國が、それぞれ自給率を高めるために國際的な技術協力を行ひ、貿易、資源活用、生産、消費、公害發生などの經濟活動に關して、それが自立再生社會を實現する妨げとなる方向での活動に對しては懲罰的課税を導入し、さらに關税障壁を設けて保護主義的傾向が增せば、その國がたとへ自由貿易を採用してゐたとしても、そのうち「見えざる手」の作用により自づと自立再生論を無理なく選擇することになるものと考へられる。自給率の向上を政治目標とするならば、關税などの貿易税は、當然に引き上げ方向になることは自明のことである。

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