※目次 7.經濟學の課題 以降は平成24年の増補版となります。
産業廢棄物の概要
このやうな自立再生論の構想が、現在の世界の技術水準等から推定して實現可能な射程範圍に入つてきたことを、いくつかの事項毎に例證する。
例へば、現在、自然分解しえず、また、自然分解に長時間を要する生産物資のうち、主に流通過程でしか使用されない包裝・梱包などの流通用製品(プラスチック容器、梱包資材、包裝紙など)については、生産段階において再生の前提となる回收を豫定してをらず、その回收も消費者意識に賴らざるを得ないほど制度的に困難であり、その「廢棄物(拜歸物)」が生態系に及ぼす惡影響は甚大なものがある。いくつかの課題を殘しつつも自然分解して無害化する代替品の開發がなされてゐるのであるから、不分解物の流通用製品の生産を段階的に中止して分解物製品に代替させるべきであるが、これについても再生循環の技術が日進月歩で開發されてゐる。
一般的に、過去において、再資源化や無害處理が困難な廢棄物豫定製品は、「適正處理困難物」といふ意味で通稱「テッコンブツ」とも呼ばれ、現在これに屬すると指摘されてゐるのは、①電氣冷蔵庫、②電氣洗濯機、③テレビ・パソコン、④タイヤ、⑤發泡スチロール、⑥乾電池、⑦強化プラスチック(FRP)、⑧ベッド、⑨自轉車、⑩オートバイ、⑪マットレス、⑫スプレー缶、⑬螢光管、⑭注射器・輸血バッグ、⑮使ひ捨てガスボンベ、⑯浴槽、⑰紙おむつ、⑱消火器、⑲天ぷら油、⑳ステレオなど、衣食住の生活全領域に廣がつた大量消費目的の工業製品である。廢棄物總量の增大が産業社會の進歩發展のバロメーターとする生産至上主義は、さらに「高速化」し、必然的に、過剰かつ大量の「生産」を促進させる。この「過剰生産」とその擴大再生産を支へて促進させるのが「過剰消費」である。ところが、「實效消費」ないしは「實質消費」の增大には限界がある。そこで考案されたのがマスメディアを介した廣告宣傳業による「過剰消費は美德であり、社會の進歩發展の象徴である。」とか、「廢棄物の量は文化生活のバロメーターである。」との理念に基づく洗腦教育である。これは、コピーライターなどと呼ばれる生産至上主義の走狗をして、手を變へ品を變へてマスメディアを通じて、あたかも生鮮食料品を扱ふかのやうな過剰な工業製品等の日常的なモデルチェンジと慢性的な誇大廣告により、過剰な奢侈消費を「美德」であると錯覺させるやうに繰り返し國民に學習させて洗腦し、情緒的かつ煽動的な過剰消費性向を定着させる。
これによつて、廢棄物總量の增大こそが「進歩」のバロメーターであるとの生産至上主義による過剰消費のための再生産を行なはせ、「自轉車操業社會」に脱落させてしまつたのである。このやうな惡循環を斷ち切るためには、煽動消費を許容し增大させてきたマスメディアと大手廣告宣傳企業の解體と共に、「テッコンブツ」の生産中止と代替製品の開發への努力が必要となる。
古來より、孔雀明王の信仰があつたが、これは、孔雀が毒草や毒蟲、毒蛇を食しながら美しい姿を保つてゐることから、人の三惡(殺、盜、淫)をも呑食して諸惡諸病痛を除くことを願ふものである。現在では、重金屬やヒ素などの有害廢棄物を食べて體内で處理し無害化して排泄するミミズなどの蟲も發見されてゐる。これと同じやうに、毒性のある鹽素系化合物などの毒物を無害有益の再生處理ができる畫期的な技術革新は、近い將來において必ずや實現しうるはずである。
汚水處理
また、このやうな廢棄物(拜歸物)一般について考察するに、廢棄物處理の全般について、以下に述べるとほり、現在では有效な改善策と技術が存在してゐるのである。廢棄物は、その發生の種類によつて一般廢棄物、屎尿、産業廢棄物、放射性廢棄物などといふ法律行政的分類があるが、ここでは、廢棄物が水を媒體とするか否か、即ち、汚水處理とそれ以外の廢棄物處理とに區分して考へる必要がある。
地球上の水質汚染は、淡水・海水の區別なく極めて深刻な事態となつてをり、地球上の總水量の數パーセントにすぎない淡水においても、その惡化は、とりわけ地上生物の生命の維持に直接影響を與へるために一層深刻である。水は、生物全部の共有財産(公共財)であつて、産業全般と生活を支へる基幹物資であるから、汚水處理といふ「再生」に要する費用負擔については、汚水量と汚水濃度に比例した「汚染者負擔原則」が妥當するはずである。
しかし、生産至上主義に基づく我が國の法制度は、この原則には程遠いものである。『水質汚濁防止法』第一條によれば、その立法目的は、「公共用水域及び地下水の水質の汚濁(水質以外の水の状態が惡化することを含む。)の防止を圖」ることにある。從つて、排水基準の設定は、生態學的見地から、さらに水質が汚濁されず、かつ、水質以外の水の状態が惡化しない基準でなければならない。假に、同法が施行された後にも、さらに水質汚濁が進み、水の状態が惡化するのであれば、同法第三條第一項に基づく『排水基準を定める總理府令』(昭和四十六年六月二十一日總理府令第三十五號)の排水基準が誤つてゐた(甘すぎた)ことになることは當然である。現に、同法及び總理府令が制定施行されて久しく、その排水基準が現行の排水基準に改正施行された後も水質汚濁惡化が進行してゐることは公知の事實である。ところが、政府は、このやうな事態に全く對應してをらず、總理府令の現行の甘い排水基準をそのままにして放置し、全國的な水質汚濁の進行を認識してゐながら、排水基準の強化をはかるなどの水質汚濁を防止する施策を講じようとせず、このやうな違法の措置をとり續けてゐるのである。これでは、まるで「水質汚濁放置法」又は「水質汚濁推進法」である。
その上、さらに決定的なことは、總理府令排水基準においては、業種別の區分を設けてゐることである。業種別に、排水基準(處理水基準)を異にすることは特定業種を特別に保護することであり、その緩和措置に對して、汚水處理の目的税をも賦課しないことは、占領憲法第十四條の法の下の平等に違反するのみならず、この考へ自體が生産至上主義政策を顯現してゐるのである。共有財産である水を借りて自己の生産・消費など經濟活動を行ひ、これによつて汚染したのであれば、それが誰であつても、元の綺麗な水にして返すことは、幼兒期のしつけの部類に屬する普遍の道理である。家庭排水、都市産業排水、農業排水などの汚水處理において、今や下水處理場や屎尿處理場での活性汚泥法による一括處理が限界に達してをり、その處理によつて生まれる餘剰汚泥といふ第二次的産業廢棄物の處理の費用が汚水量の增大に伴つて增加し、國家財政と地方財政とを壓迫する。これらの「産業固定費」を輕減する各種技術が開發されてゐるにもかかはらず、行政官僚に群がる利權集團の妨害と省益を堅持する政策によつて「汚染者負擔原則」による水の地域的再生循環が實現されるに至つてゐないのである。
そもそも、汚水處理について、汚水を「排水」として、排除の對象と認識する點において思想の缺陷が露呈してゐる。淨水を汚して汚水としてしまつたものを再び再生させる使命があることを忘れてゐる。水は、禊ぎ、灌頂、洗禮などに用ゐられることはもとより、生命と共にあり生命を支へ續ける普遍的なものであるがゆゑに「聖」なるものである。それゆゑ、生命維持のために汚してしまつた水の役割と貢獻に拜謝する意味で、これを「排水」ではなく「拜水」と認識し、それを淨化再生をする使命感を鞏固にしならなければ自立再生社會が完成しないのである。
このやうに、政治的・法律的・行政的障害は大きいが、技術的な障害は比較的小さい。汚水處理については、汚染者單位又は地域・集落單位で技術的に處理が可能であり、その處理費用も節約しうるまでの技術開發がなされてゐる。このやうな根本的改革を行ふについては、汚染者負擔原則による税制の拔本的改革が前提になることは當然である。
この汚水處理と關連するものとして、述べておかねばならないのは糞尿處理のことである。まづ、人糞尿について、『古事記』では、「屎に成れる神の名は、波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)」として神格を備へてゐた。また、天照大御神が速須佐之男命のなされた行爲を「惡しき態」とされたとほり、田畑に排泄物を撒き散らすのは律令制度においては重罪とされた。そして、武士の世(中世)からは自家肥料として、戰國時代以降の近世では、火藥原料(鐵砲火藥の硝石の生産)となり、江戸期では人糞が肥料用商品として賣買されるに至つた。近代(明治以降)でも肥料として商品とされたが、現代では殆ど廢棄物とされてゐる。しかし、將來においては、糞尿に神格があることを踏まへて、この有效活用が重大な課題として託されてゐるのである。
GHQの占領下では、これまで農業で用ゐてゐた人糞肥料は禁止の方向へと向かひ、これに代へて化學肥料に依存することとなつた。しかし、これまで人糞尿(下肥)は、肥溜で嫌氣腐敗させて基肥や追肥として用ゐられてきたし、人糞は、汚泥を混ぜて発酵させると「堆肥」に近い有機質肥料になる。また、家畜糞尿に稻藁や乾燥させた草を混ぜて發酵させると堆肥になるのである。確かに、生の糞尿を撒いても作物は育つが、無発酵人糞では土壤に細菌や害蟲(線蟲など)が繁殖して土壤に棲む土着菌などの土壤菌を死滅させたりする。そのため殺菌と殺虫のために農薬類を使ふことによつてさらに土壤汚染と土壤菌に影響を與へ、農薬類の周囲への飛散や地下水への浸透などの二次被害を生むことになる。つまり、農薬類のため土壤菌などが死滅するので地力が低下し、その分だけ化學肥料を大量投與することになり、そのことからさらに地力が低下するといふ惡循環を生んでゐるのである。
受益者負擔原則
一方、汚水處理以外の廢棄物(拜歸物)の處理については「受益者負擔原則」が妥當する。これは、汚水處理における「汚染者負擔原則」といふ、いはば「出口基準」(結果基準)とは異なり、「入口基準」(原因基準)である。生産至上主義の産業構造によれば、廢棄物の發生原因は、消費部門固有の要因によるものは少ない。もつとも、廢棄物を所定の場所や方法とは異なる投棄をする者にその行爲責任を問ふのは當然であつて、ここでいふ消費者とは、産業構造で通常の行動性向が豫定されてゐる消費者をいふ。その消費者を前提とすれば、第一次産業による生産物固有の廢棄物(生ゴミなど)は、本來は土に歸りうるものであるから、これを廢棄物處理の過程に乘せることは消費者の責任であるが、都市の消費生活においては、歸すべき土が存在しないことが多く、その限度では消費者負擔を勞務負擔としては求められず、金錢負擔によることになる。
むしろ、廢棄物の發生原因は、主に生産過程と流通過程にある。即ち、資源的再生を豫定してゐない製法による工業製品(例へば、使ひ捨て商品、粗大廢棄物)など、生産過程で既に將來の廢棄物として豫定されてゐる物、生産から消費に至る流通過程においてのみ必要な物(例へば、容器、包裝紙、包裝材料)、さらに、完全な消費に至らなかつた物(例へば、殘飯、賣れ殘り生鮮食料品)などである。しかし、これらはいづれも流通效率や消費效率を高めるための原價として認識されてをり、これらの便益と低價格化による利益は反射的に消費者も享有してゐるのである。そこで、廢棄物處理に關する費用は、生産者や流通者及び消費者が應分に負擔し、その處理勞務は消費者が負擔すべきことになる。この廢棄物處理についても、汚水處理の場合と同樣、政治的・法律的・行政的障害が多いが、技術的な障害は比較的少ない。受益者單位又は地域・集落單位で技術的に處理が可能であり、その處理費用も節約しうるのである。このやうな、根本的改革を行ふについては、受益者負擔原則による税制の拔本的改革が前提になることは、汚水處理の場合と同樣である。
ところで、汚水處理や廢棄物處理などの「再生」において、「小規模分散型」の處理を實現することは、自立再生經濟單位を極小化する效果があり、危險分散と安定化はさらに促進されるのである。勿論、經濟性や技術性の限界から、ある程度の「大規模集中型」の處理が必要な場合もあらうが、經濟效率や技術革新を不斷に促進向上させて「小規模分散型」の處理へと向かふことが必要である。
そして、受益者負擔といふことに關して、さらに言及しなければならないものがある。現在、地球温暖化が石油の燃燒などによる温室效果ガスの大量發生によるとの假説により、平成九年の『京都議定書』を採擇したりして國際問題になつてゐるが、その考へが科學的に正しいのか否かは一まづ置くとしても、もし、さうであれば、この受益者負擔の原則からして、需要者側、つまり消費國側だけにその對策費等の負擔を求めるのは不合理である。メジャーやオペックなどを含め、石油の生産、販賣、流通などに關與して利益を得てゐる供給者側にも應分の負擔を求めるべきは當然である。
温室效果ガスの原因とされる石油についての受益者負擔原則を確立することは、生産者にも責任があることを世界的な認識とすることである。親が市場から買つてきた食べ物を子供に與へて子供が食中毒になつたとき、誰が責任を負ふのか、といふことを自問自答すべきなのである。
いづれにせよ、この受益者負擔の原則を廢棄物處理を含めた産業構造全體における世界基準にすることが喫緊の課題と云へよう。
基幹物資の供給
次に、基幹物資の供給について檢討する。基幹物資のうち、動力源(エネルギー)については、前述のとほり、危險・有害・有限の枯渇性資源(再生不能資源)の使用は再生經濟原理と相容れず、安全・無害・無限の再生可能資源である「太陽の惠み」・「宇宙の惠み」としての太陽熱、太陽光、水力、風力、波力、潮力(潮汐)、海洋温度差、バイオマス、地熱などに依存すべきである。生命は太陽と水と大氣によつて育まれることから、地球の壞滅的危機から全生命を救ふ鍵は、人類の叡知と努力により、太陽と宇宙の惠みに從ひ、水と大氣の淨化と畫期的な動力源の技術開發とその完全自由活用にある。そして、『電氣事業法』を根本的に改正し、數社の電力會社によつて寡占されてゐる「大規模集中型」の電力供給體制を廢止し、自立再生經濟に基づく「小規模分散型」の電力供給體制へと轉換すべきである。「小規模分散型」へと轉換するためには、再生可能資源による發電(ソーラー發電など)や廢棄物再生處理過程での發電(ゴミ發電など)に關する新技術や石油に代はるフリーエネルギーなどの代替エネルギーの開發研究と實用化を促進させ、自由な發電と賣電を許容し、政府が本腰を入れて積極的に援助すれば、現在の技術水準においても、電力供給量の約二十六パーセントを占める原子力發電の供給量はおろか、埋蔵燃料による發電の供給量の大半を自給しうることになる。そして、さらに、技術開發を推進すれば、電力の完全自給やその他のエネルギー一切の完全自給も夢ではない。運輸、交通、通信などの分野においても、再生可能資源によるエネルギー供給體制を確立し、效率のよい新技術の導入を行ふべきである。これらの方向によつて、原子力に依存する理由は全くなくなる。これを世界に普及すれば、動力源の各國自給率は飛躍的に向上し、世界の安定要因が增大する。
第一次産業
さらに、食料の自給に關連して、米(コメ)について考へる。當初、米(コメ)の自由化要求に對して、「一粒たりとも入れてはならない。」との主張があつたが、これは過去の「攘夷論」のやうに、その後の政策展望を持たない情緒的なものであることは否めない。しかし、この主張は、連合國の走狗となつて食料自給率をさらに低下させることに「寛容」な貿易立國論者よりも、「危險」に對する本能的感性は優れてゐる。この議論は、實は、前述のとほり、自立再生論へ轉換するか貿易依存を維持するかの選擇を迫られてゐる根本問題なのであるが、「食料安保」の中身が全く認識されてゐない不毛の議論でもある。しかし、この足下の問題は、自立再生經濟の理解を深める絶好の機會であつて、その轉換をはかりうる好機なのである。
ところで、米(コメ)だけに限らず、第一次産業の農業、畜産業、林業、漁業などの在り方については、現在のところ基本的には「大規模集中型」の供給體制によることになる。それは、供給效率や産業の性質による制約に由來するからである。
特に、日本の稻作農業は林業と一體となつて水源を涵養し治水に貢獻してきたものであり、現在の地勢や土地利用を大きく變更することは國土自體の生態系を攪亂させることになる。我々の祖先は、「森の惠み」による「木の文化」と「稻の惠み」による「米の文化」とを融合させ、自然を破壞することなく「修理固成」を實踐された。崇神天皇の詔に、「農天下之大本也。民所恃以生也(なりはひはあめのしたのおおきなるもとなり。おほみたからのたのみていくるところなり。)」(日本書紀卷第五、崇神天皇六十二年秋七月の條)とあり、垂仁天皇の詔にも、「以農爲事。因是、百姓富寬、天下太平矣(なりはひをもてわざとす。これによりて、おほみたからとみてたゆたひて、あめのしたたひらかなり。)」(日本書紀卷六、垂仁天皇三十五年の條)とあるやうに、稻作農業は、水と土の賜物である「命の根」の稻を生み育て、しかも、森によつてその水が涵養されるといふ奇跡の農業である。保存のきかない馬鈴薯(ジャガイモ)よりも、蛋白質が少なく加工しなければ食することのできない小麥よりも、味が濃厚で主食には向かない甘藷(サツマイモ)や玉蜀黍(トウモロコシ)よりも、格段に栄養價が高く栄養バランスがあつて美味かつ淡泊であり、しかも、生産性が高く、そして、長期の保存備蓄が可能な主食は、世界を見渡しても稻米以外には存在しない。それゆゑ、この稻作を守つて完全食料自給を達成し、米の增産により籾米備蓄をして國富を實現し、さらに、この稻作文化を世界に廣めて世界の食料不足を補ふことこそが眞の國際貢獻なのである。
我が國の稻作は水田耕作であるが、世界的な水資源の偏在状況からすると、水稻のみではなく、陸稻の品種改良が望まれる。現に、三千三百年から三千二百年前のものとされる佐賀縣唐津市菜畑遺跡の遺構から、雨期は水田、乾期は畑として、水稻と陸稻の兩用の稻が他の五穀とともに栽培されてゐたことが判明したことからすると、陸稻種の改良によつて稻作を世界の乾燥地にも普及することも不可能ではないことを示唆してゐる。
齋庭稻穗の御神敕(資料二3)の「齋庭之穗」は、「ゆにはのいなのほ」と訓じられてゐるが、「稻穗」との表記ではない。ましてや、「齋庭」を水田に限定する解釋にも明確な根據はない。それゆゑ、米(稻)以外の五穀、雜穀の「穗」と理解してもよいはずである。また、延喜式祝詞にも「八束穗之伊加志穗(茂穗又は嚴穗)」(やつかほのいかしほ)とあり、これも稻穗に限定されたものではない。さうすると、稻作を中心とするも、決して稻作の單一耕作(モノカルチャー)ではなく、五穀、雜穀との混作が必要となる。課題としては、耕地も限界があり、しかも、労働力にも限界があるので、單位耕作面積当たりの收穫量とそれに要する労働量との相關關係と国土利用の效率を重視して第一次産業のあり方を策定することになる。
そこで、農業、畜産業、林業、漁業などについては、技術面、經營面などの直接的な側面の外に、農村・漁村などの過疎對策・後繼者問題などの間接的・多角的な側面からも、農用地、森林及び漁場等の適正保護や流通部門の整備を含め、自給率向上のための總合的な改善計畫の實施が必要となつてくる。しかし、これと併用して、都市近郊地域や都市部の農用地を整備し、「小規模分散型」の食料供給體制をも檢討すべきであらう。觸媒技術、發酵技術、溶液栽培技術、養殖技術などの小規模分散型農業・畜産業・林業、漁業に適した技術開發がなされれば、食料の生産者と消費者の一體化が實現する。これは、これまで「都市機能の集中化」、「農村の都市化」が進歩であるとした野蠻なる西洋文明論を捨てて、逆に、「都市の農村化」へと劇的な政策轉換を實現することなのである。まさに、自立再生論は、この「都市の農村化」をスローガンに掲げる運動でもある。
「都市の農村化」といふのは、地域的なものであり、人的には「市民の農民化」といふことである。これは鎌倉時代における「一所懸命」にも似た「土への愛着」を復活させる國民運動である。それゆゑ、當然に「農民の市民化」と「農村の都市化」を阻止することになる。ただし、ここで農村とか農民といふ言葉は、象徴的に用ゐてゐるもので、農村、山村、漁村などの第一次産業の集落全體を意味し、あるいは農民、杣人、漁民などの第一次産業に從事する者全體を云ふ。
ともあれ、この「都市の農村化」、「市民の農民化」のためには、農民の市民化を防ぐための農地再生、農村復興の政策が必要となつてくる。現行『農地法』では、農民が市民化することは認められても、市民が農民化することには大きな障碍がある。『農地法』は、農民ギルド制を採り、實質的には農民間でなければ農地の賣買はできない上に、農民が農地を非農地に轉用することを安易に認めてゐるからである。GHQの占領政策である自作農創設特別措置法により農地を取得した農民が農地を非農地に轉用し農地を潰して亂開發することは、この法律の制度趣旨に反するものであり、この法律によつて得た戰後利得の著しい惡用・濫用であると云へる。それゆゑ、非農地に轉用して賣却し亂開發することを原則的に全面禁止し、市民の農民化を促進させて、市民を農業に新規參入させ就農を促進するために農地賣買の自由化を圖ることが喫緊の課題となる。農地は國家の財産であり、皇土保全のために、農民には離作の自由はあつても轉用の自由は認められない。
前に述べたとほり、田畑に排泄物を撒き散らす行爲が律令制度において重罪とされたのは勿論のこと、それ以上に、田の畔を破壞する畔放(あはなち)、田に水を引く溝を埋める溝埋(みぞうめ)、田に水を引く樋を破壞する樋放(ひはなち)などの農耕灌漑妨害行爲は古來より天津罪として重罪とされてゐた。作物を育て命を育む田畑は聖なる土地であり、これを汚すことや破壞することは許されないためである。そのことからすると、農地を潰して非農地へと復元不可能な轉用をすることは、いはば、國家財産の農地を「殺す」ことであり、一時的な汚損や破壞をすること以上の重罪であつて、何人もこれを爲してはならない。また、自作農創設特別措置法によつて得た農地を小作に出すことは許されず、速やかに小作人に拂ひ下げさせるなどして「新たな農地解放」を實現させる必要がある。
また、食料については、安全、安心、安定したものでなければならない。そのためには、「近くて遠いもの」といふ原則を確立する必要がある。まづ、「近くて」とは、生産地と消費地とが近いといふことで、「地産地消(地域生産地域消費)」のことである。食料の重量と輸送距離の積(フードマイレージ)を減少させることは、自立再生經濟への道を進むについて必要不可缺な課題である。また、地球規模での水資源の危機が叫ばれる中で、農畜産物の生産や製品を製造し、輸出入をすることは、その生産・流通の過程で使用された水の總量を購入者が間接的に消費したことになるに等しいとの認識から、前述の「假想水」(バーチャルウォーター)といふ視點で考察しても、水資源の節約は水資源を含む資源の自給率の向上以外にありえないのである。農畜産物も水産物も、自給率を向上させ、自給自足の閉鎖循環系を極小化しうる方向へと進めば、食の安全において絶大な效用をもたらすことになる。
つまり、地産地消の方向へ進むと、生産物について、その生産者の實像が消費者に知られることになるから、生産者としては消費者に安全と安心の供給を續けることでなければ地域で生産活動と生活ができなくなるので、食の安全は一層保証されたものになるからである。そして、「地産地消」の究極は、生産者と消費者の分離が解消され、「自作消費」の生活へと進展する。これこそ效用均衡理論に基づくものである。
ところが、現在、樣々な問題があるやうに、生産者や生産物が外國とかの遠方であれば、食の生産段階での毒物混入などを監視することはできないし、輸送において、輸送距離が長いために燃料等の基幹物資の消費が增え、しかも、輸送時間の長さからポスト・ハーベストなどの問題が生じる。原價計算をして安ければよいといふものではない。
また、「近い」といふのは、生産地と消費地との地理的な距離(産地との距離)だけではなく、食事で攝取する物に至るまでにその素材が加工される工程の距離(素材との距離)についても同樣である。これは、「土産土法」に通ずるものがある。土産土法とは、その土地でとれた旬のものをその土地の伝統的な調理法で食べることである。
現代社會では、産業が分業體制によつて細分化、多段階化されることに連動して、食物もまた加工、精製の細分化、多段階化が進行してゐる。多種多樣な食物素材が調理されて實際に人の口に入るまでに、收穫、生産、流通、加工、精製、販賣などの過程を經ることになるが、加工食品やファースト・フードなどの樣に、複雜に細分化、多段階化した「食料品」は、工業製品と同樣の分業化に支へられてゐる。また、加工食品の運搬、流通に不可避的な梱包、開梱、分類、陳列、包装などの過程もまた多くの梱包用資源の消費と分業の細分化、多段階化をもたらすことになる。このやうな分業度と加工度、精製度、そして流通度の高さは、食品添加物の種類と量を增え、異物や毒物が混入する危險度が增し、同時に奢侈化と飽食化を促進させ、殘飯などの食物殘渣が大量發生するといふ惡循環を繰り返すのである。そして、そのうちに、おふくろの味を樂しむ家庭料理は消え失せて「全國總給食化」の時代に突入し、家族が揃つて家族団欒の機會がなくなり、「孤食」(獨りの食事、時間的に別々の食事)が增える。假に、家族団欒の機會が殘るとしても、家族で同じものを食べるのではなく、「偏食」が恆常化した「個食」(同時に一緒の機會に食事をするものの攝取する物がそれぞれ別々の食事、バイキング)となる。しかも、その行く手には、いつ襲つてくるか解らない極端な食糧難による「飢餓」が待ち受けてゐるのである。これを回避するためには、一刻も早く自立再生論により、食物の分業度、加工度、精製度、流通度を徐々に低下させて自給率を高めることしかない。
次に、「遠いもの」といふのは、食肉、乳製品に偏つた食習慣から離れて行くことである。特に、乳製品からの完全離脱が必須となり、酪農は將來には廢止される必要がある。乳兒のときから殆ど母乳で育てずに乳製品に頼り、母乳攝取が著しく減少して行く姿は、長い目で見れば、人類が哺乳類から離反して人類自體が退化して行く現象を示してゐる。母性の目覺めと強化は授乳にあることからすると、この現象は母性の低下を引き起こすことでもある。いつまでも乳離れせず、いつまでも大人になれない姿が、哺乳類から離反して人類自體が退化して行くことを暗示してゐるのかも知れない。 また、北歐民族の例外はあるが、人類の多くは、カルシウムの吸收に必要なラクターゼ酵素が離乳(斷乳)時以後に激減し、ラクトース(乳糖)を加水分解できなくなる。日本人もその例外ではない。つまり、離乳後に行ふ乳製品の攝取は、榮養攝取面での貢獻は少なく、逆に、相對的にはカルシウムの攝取不足や動物性脂質の過剰攝取によるアテローム硬化などを引き起こし、情緒不安定症や骨粗鬆症、生活習慣病などの增加と低年齡化の原因となる。
さらに、肉食について言及すると、まづ、牛肉一キログラムに必要な穀物は十五から十六キログラムが必要とされることから、肉食は食料効率が極めて低い方法なのである。食物連鎖として穀物と人間との間に牛を入れると穀物の浪費となるので、人間が肉食から離れて直接に穀物を食べれば、世界の食料事情は著しく改善されるのである。また、腐敗の「腐」の字に「肉」があるやうに、肉は人の腸内において腐敗する。腸内の惡玉菌が食物のタンパク質やアミノ酸を分解するとき、インドール、スカトール、アンモニア、アミンなどの惡臭の物質を作る。これが發癌性物質に變はりやすいのである。小腸の長さの平均は、食肉習慣の食性がある歐米人の場合は約五メートル、穀物攝取の食性がある日本人の場合は約七・五メートルである。これは、肉の消化は早く、米(コメ)などの穀物の消化は遅いので、穀物の消化に必要な分だけ小腸が長くなつたためである。ところが、日本人の食性が肉食を主體とするやうに變化することになると、肉食としては小腸が長すぎることになり、その長い分の小腸では、消化した肉の殘渣の腐敗とその腐敗物の吸收が始まり、それが萬病の原因となる。そのことは、パン食についても同樣で、パンの消化は早いので、やはり小腸は長すぎることになる。ましてや、パン食の場合は、乳製品と肉との併用がなされるから、その弊害は倍加することになる。餘談ではあるが、張り込み刑事が食する定番は、「あんパンと牛乳」とされてゐたが、これは占領期の食料事情を反映するものであり、さらに、それが多くの弊害を生みだした象徴(小腸)となつてゐるものと云へる。
そもそも、人の齒竝みからして、人間は穀物を中心とした雜食性であり、系統發生的には人類から遠い生物をなるべく攝取する食生活習慣にすることが身體と精神の健康によいことは云ふまでもないことだからである。
このやうにして、「近くて遠いもの」の原則によつて、食の安全、安心、安定を實現して行くのである。佛典に「身土不二」といふ言葉があるが、これとは全く異なる意味で、明治後期に食養會(大日本食養會)が、地元の食品を食べると身體に良く、他の地域の食品を食べると身體に惡いといふ意味で普及させ、それが現在では韓國などでも使はれて定着してゐる。土壤で育つた作物を攝取して、それによつて身體を維持するものであるから、身體と土壤とは不可分一體であるとの意味に理解すれば、アメリカにも、「You are what you eat」(貴方とは、貴方の食べたもののことである)といふ言葉があり、これも同じ方向を示す考へである。
單位共同社會
民度の向上が國家の健全さの指標である。これは、經濟統計上の數値と指標では到底認識しえないものである。ブータン王國の前國王が提唱した國民總生産(GNP)に代はる國民總幸福量(GNH)といふ概念も、同じ思ひから生じたものである。
我が國において、神道的な部民制の時代においては、祭祀の「齋(いつき)」を鎭守し、文化、教育、醫療、治水、農業、畜産業、林業、漁業、鑛業、工業その他の産業に關する技能や技術の習得については、職能別の專門集團が徒弟制度などによるその技術の承繼と教育を施した。これは、大政翼贊會運動における「職域奉公」に通底するものがある。それが「部民」であり、「部(べ、たむろ)」は、場所と集團とが一體となつた概念であつて、それが古代における自給自足の單位となつて民度を高めてきた。
このやうな原始風景に導かれて、世界各國が自立再生經濟に向かへば、將來は次のやうな理想社會が出現する。この理想社會の實現は、祖先への報恩であり、可愛い子孫への贈り物である。その豫測を示すと、かうである。
家族全員は大家族で生活し、その家で電力その他のエネルギーや食料を自給し、水も汚水處理して循環再生し、屎尿も肥料や硝石として再生處理して使用する方向へと向かふ。人類は、地球表層にある薄い地殻の上で生活をしてゐる。そして、その地殻のさらに薄い「土壤」と「水」が生活の場である。土壤と水から生まれ、土壤と水から食物を得て生活し、再び土壤と水に歸る輪廻の中に居る。土壤と水が命を育むのである。土壤と水が汚染されれば命(靈と體)も汚染される。そのためは、化學肥料や農薬、化學薬品や抗生物質などによつて、土壤成分や土壤に生息する有用微生物(土壤菌、土壤微生物、土着菌、土着微生物など)を減少・死滅させることなく、水を必要以上に汚染することなく、共生と循環を心がけなければならない。土壤と水とそこに棲む菌類などの微生物の世界は、大宇宙との雛形構造を持つ小宇宙である。土着菌(在來菌)と外來菌、さながら化學工場のやうな發酵と腐敗を行ふ微生物の働き、空中窒素固定する根粒菌(根粒バクテリア)と作物との關係などは微妙な均衡によつて營まれてゐるのである。
そして、土と水と作物などの關係と人の營みに缺かせないエネルギーについては、石油、メタンハイドレードなどの天然ガス、ウランなどに依存するのではなく、別の一般的な供給源によつて自給しなければならない。石油などに依存すると、その産出地が偏在してをり、しかもそれが原因で國際利權の対象となり國際紛爭の原因となる上に、これらを大量に消費すると、地殻表層の著しい變化を生じて、人類の生存環境に惡影響をもたらすことになるからである。望ましいエネルギーの供給源は、必ずや人々が誰でも容易に手が屆く土壤と水の中にあるはずである。大掛かりな裝置が必要であつたり、レアメタル(稀少金属)などの調達困難な稀少物を用ゐる技術であれば、これもまたその爭奪が原因で國際紛爭を引き起こすことになる。力學的及び熱學的エネルギー保存の法則、質量保存の法則、ファラデーの電氣分解の法則、熱力學第零法則、熱力學第一法則、熱力學第二法則、熱力學第三法則などからすると、他からエネルギーを得ず、または得たエネルギーより多くのエネルギーを生みながら永久に動く第一種永久機關や、唯一の熱源からの熱を完全に他のエネルギーに轉換する第二種永久機關もまた不可能とされてゐる。しかし、關與する対象や状態に關係なく一定の數値を保つとされる物理學の「普遍定數」が超傳導状態では適用されないことなどからすると、特別の諸條件が滿たされれば、ファラデー定數が適用されない電氣分解なども不可能ではない。特定の裝置によつて自然界から電氣エネルギーを得て永久に稼働させる一種の「永久機關」が開發されることが不可能であるとは斷定しえない。特に、核分裂や核融合の場合は、これらの保存則が質量・エネルギー保存の法則まで擴大されることになるので、その可能性はある。
核分裂や核融合のことについて云へば、放射性物質が、外的條件とは無関係に一定割合で崩壞し續け、さらに、少ない確率ではあるが自發核分裂を起こす不安定な性質を利用して、人爲的に高速裝置で加速した陽子、中性子などを照射衝突させて核分裂をさせ、その連鎖反應が臨界状態を超えれば爆發(原爆)が起こるのである。この臨界状態を維持しつつ、核分裂エネルギーから熱エネルギーに轉換して、さらにそれを從來の發電技術によつて發電するのが原子力發電であるから、この技術は、超臨界となる致命的な危險を常に抱へてゐる。また、核融合の場合も、超高温の熱運動を附與すれば、同樣の爆發(水爆)が起こる。しかし、核分裂に自發核分裂があるのと同樣、核融合にも自發核融合、つまり、常温核融合があると推定するのが自然である。世界には、水程度の攝取だけで長期の絶飲食を續ける「無食(不食)生活者」(Bretharian、ブリザリアン)が数萬人存在することからすれば、常温核融合や常温原子轉換は、人間も含め全ての生體内でも起こつてゐると推定される。長期の無食(不食)生活は、水と太陽光による光合成が營まれてゐるとの推定もはたらくが、この現象は、生命維持物質への原子轉換や常温核融合によるエネルギーの獲得をしてゐるとしか説明がつくものではない。原子轉換や常温核融合といふのは、國歌「君が代」の「細石の巖と成りて(さざれいしのいはほとなりて)」が暗示する世界である。それゆゑ、自發核融合を土壤と水から得られる触媒物質と簡易な原理によつて、世界のどこでも誰でもが常温核融合による電氣エネルギーを供給しうる單純明快な技術と方法が發見されるはずである。もちろん、その方法と技術は必ずや土壤と水から生まれてくるので、特定の者や特定の國家がそれを獨占することがなくなる。獨占しようとしても、獨占できなくなる。このことによつて、世界は、食料とエネルギーなどの基幹物資の爭奪状態から完全に解放されて眞の平和が達成できる。
そして、農業、畜産業、林業、漁業においても、土壤と水との關係が重視される。特に、内水面漁業、汽水域漁業及び近海漁業と農業、林業との關係は密接不可分なものがある。山の雜木林にある落葉樹が散らす落ち葉が枯葉となつて山間に堆積し、微生物の作用によつて腐葉土となり、それが雨水とともに河川に流入して河川内で食物連鎖がなされ、それが上流から下流、河口、さらに汽水域から近海まで續いてゐる。その養分を含んだ河川水が農業用水として利用されることによつて田畑も潤ふ。それゆゑ、山には落葉のない常緑樹だけしかない植林政策は、内水面漁業や近海漁業を衰退させるのである。そのため、農業、畜産業、林業などは、分業化、細分化をやめて合業化(統業化)すること、つまり、農業、畜産業、林業などを循環的に連結させた複合農業へと移行することになる。そこでは、微生物から水鳥(アヒル、マガモ、アイガモなど)までの食物連鎖を活用して、不耕起、不除草、不施肥ないしは有機肥料、無農藥の自然農法を實現して、これまでの慣行農法から脱却し、水と土壤の均衡によつて「地力」を高め、收穫量と收穫効率の向上を目指すことになる。
また、漁業においても、食物連鎖による生態系を安定させ、あるいは緩やかな變化を維持させることが必要となる。そのためには、生態系の激變を生じさせる特定種の驅除も必要とされる。また、それ以上に必要なことは、商業主義の要請に翻弄された亂獲を禁止しなければならないのである。均一した畫一的で小綺麗な粒揃の水産商品とするために、大きさの異なる稚魚や成魚を消費に向けることなくそのまま廢棄してしまふ。これによつて、漁獲高と流通量(消費量)との著しい乖離を生じさせてゐる現實が横たはつてゐるからである。
これらのことを踏まへた上で、水稻、陸稻、その他の種苗の保存、備蓄、土壤栽培、水耕栽培、植林、伐採などの技術、その中でも、穀類と蔬菜類(根菜類、莖菜類、葉菜類、花菜類、果菜類)のきめ細かい栽培技術、加へて、魚介類の捕獲、養殖、加工、保存などの技術、さらには、農地耕作における裏作、二期作、二毛作の技術、連作障害を回避する技術、好氣性菌、嫌氣性菌、発酵菌などの微生物の性質による選別とその活用の技術、触媒・負触媒の活用の技術、土壤・水質の維持と改良の技術、肥料、飼料、保存食の製造と備蓄の技術などを集積させ、それを平場、中間、山村、漁村などの區域區分、氣候、風土の異なる地域區分毎に分類整理されて、全國、全世界の人々が互ひに協力して自立再生社會を目指す。そこには、生産者であるとか、消費者であるとかの區分や特權意識はない。全ての人々が生産者であり消費者であり、全人的な生活者となる。人々は、心身を鍛へ德器を磨き、娯樂や遊興に節度を保ち、公共・公益のための學問と技術の研鑚、人格の形成に熱心であり、世界の隅々まで情報通信網は網羅され、いづれの人々も閉鎖循環系の自給自足社會が極小化した最小單位としての共同社會(以下「單位共同社會」といふ。)に屬してゐる。この單位共同社會は、水脈や地勢を基準として地理的、地政學的かつ生態學的に決定される。水は、生活と産業において最も不可缺なものであり、山から泉が湧き、それが川となつて農村と都市を潤して海へと注がれ、その海から雲が起こり、やがて山河に雨を降らせ、山河はこれを水源として涵養し、一部は地上水、他は地下水として再び循環するといふ「水の輪廻」を基準として、各閉鎖循環系の極小化された自給自足社會の最小單位となる「單位共同社會」は構成される。
自立再生論によつて實現する社會(自立再生社會)の單位社會である「單位共同社會」を「やまとことのは」で表現するとすれば、「まほらまと」が相應しいと思はれる。「まほら」とは、秀でた場所(土地)、つまり理想郷のことであり、「まと」とは、循環無端の「圓」であり「玉」であつて、それが「的」(目標)でもある。これは、方向貿易理論と効用均衡理論を驅使して閉鎖循環系の再生循環經濟構造によつて實現する自立再生社會の單位共同社會を意味する言葉なのである。
人々は、原則として、その單位共同社會(まほらまと)内で、その他の生活必需品の調達をし、醫療、教育及び勞働の機會を持つてゐる。その形成過程にある單位共同社會(まほらまと)は徐々に自給率を高めて行き、そして完全自給を達成して、さらにそれが極小化して行くのである。極小化するのは、物的交流の範圍と生活據點であり、人的交流、情報交換の範囲は、これとは逆に極大化する。
そして、海も空も川も湖も澄んでをり、生きとし生けるものは山河と共生してゐる。この單位共同社會(まほらまと)の地理的範圍は、我が國を例にとれば、單位共同社會(まほらまと)とは無縁の線引きで區別された都道府縣市區町村や、その單なる組合せである道洲制の構想などとは根本的に異なる。豫算爭奪のための地方分權などは些末で危險に滿ちた議論である。重要なことは、自立再生經濟への取り組みなのである。
それが方向付けられれば、すべての問題がこの方向で收斂していく。たとへば、雇用問題も然りである。究極の雇用對策とは、雇用生活者をなくすことである。つまり、自立再生社會となることは、分業體制から合業的統合へと向かひ、人々を企業の被用者から自營者家族の一員へと轉換させることであり、雇用關係に伴ふ紛爭や諸問題を質量共に縮小することを意味する。雇用の創出といふ雇用政策は、雇用が單位共同社會(まほらまと)の中に吸收されて行くことにより、相關的に不要となる。
經濟は、自立再生社會の建設を目的とした無限小への方向で内需を擴大して成長し續け、單位共同社會(まほらまと)の基盤となるべき「家産制度」が復活する。土地の利用と譲渡は、自立再生社會を實現するための家産形成の目的のために制約を受ける。そして、人々の「富の認識」は、家産の取得と基幹物資の備蓄へと變化し、これまでの富の認識を基礎付けた貨幣制度は、徐々に補助的なものとなる。
拜金主義は霧散し、家族團欒が復活して、「もののあはれ」を受け止める精神的に餘裕のある社會の實現し、せき立てられるやうな世知辛い暮らしを續けることはなくなる。
單位共同社會(まほらまと)の究極的な理想は、その單位が「家族」となることである。しかも、それは、夫婦と子供だけの核家族ではなく、歴史、文化、傳統などを傳承して搖籃しうる祖父母と兩親、兄弟姉妹などを包攝した「大家族」である。大家族單位で自給自足の自立再生が實現すれば、治安、秩序などにおいても諸問題は殆ど解決することになる。
また、單位共同社會(まほらまと)の出現は、國家の枠組みにも變化を生じさせる。それぞれの單位共同社會(まほらまと)は、食料調達における主要産業の種類(農業、畜産業、林業、漁業など)やその稻作漁撈文化及び畑作牧畜文化による生活の態樣(稻作、畑作、栽培、植林、伐採、採取、狩獵、畜産、漁撈など)に關して、地理的・地勢學的かつ生態學的に共通した他の單位共同社會(まほらまと)における自然現象の變化やその對應についての情報を共有し、協同統一的に處理・分析する必要がある。そして、類似する多數の單位共同社會(まほらまと)の各情報を統括して分析處理し、各單位共同社會(まほらまと)に必要な情報を傳達する統合機關として、これらの共同社會群で構成する連合體が國家である。そして、これらの國家の連合體として、國際的な情報統合機關としての世界連邦が存在することになる。
單位共同社會(まほらまと)や國家の運營における基本原則は、生産・流通・消費・再生の各産業部門が固有の産業原價の負擔に加へて、再生循環に必要な「再生原價」を應分負擔することにある。しかも、その分業は次第に解消し、これらが統合された人の合業(統業)の營みへと向かふ。即ち、事業者と消費者とが一體する方向の中で、自己の活動に伴つて生ずる「廢棄物(拜歸物)」が再び自らの生活を支へる資源になることを感謝しながら再生處理し、その費用を負擔することである。しかし、單位共同社會(まほらまと)の内部だけでは技術的などの理由で再生處理が不可能なものについては、その單位共同社會(まほらまと)に隣接する他の單位共同社會(まほらまと)などと連合協同して共同負擔によつて再生處理をなし、それでも不可能な場合は、さらに、その輪を同心圓的に擴大した連合體の中で協同處理することになる。そして、その同心圓の最大のものが國家といふことになる。これも入れ子構造(雛形構造)をなしてゐる。
そして、その費用負擔の割合は、受益者負擔又は汚染者負擔の原則に基づいて目的税方式にて決定する。これは「流通税」の性質を持つ「再生税」といふことになる。
「小さな政府」の税制の基本は、現代のやうに「普通税」を基本とする税制ではなく、逆に、このやうに「目的税」を原則としなければならない。また、もう一つ別の大きな「目的税」として單位共同社會(まほらまと)やその連合體、さらに國家に必要なものは、老幼病障などの弱者保護の共助原則に基づいて、「資産税」の性質を持つ「福祉税」を導入することである。弱者を切り捨てる社會は、如何なる意味においても肯定しえない。また、國民の大半を占める非事業者(雇用者)の「所得」に課税することは、自立再生社會へと移行するために各家庭が創意工夫して自助努力することに必要な財源を奪ふことになるので、原則として非課税とする。特に、農地などの自立再生用の「家産」を形成するものは不讓渡(不轉賣)を條件として、課税對象から除外する。これらを非課税としなければ、自立再生社會の構築を促進しえないからである。それ以外の金融資産や自立再生用の家産を形成しない土地その他の資産に課税することになる。
治安は、單位共同社會(まほらまと)を實現するための教育とその實踐によつて一層安定する。單位共同社會(まほらまと)が建設される過程において、その連合體で自治組織を結成し、一般的な治安維持活動を擔ふ。これによつて、廣域的、全國的な治安維持のコストを大幅に輕減できる。これと同樣に、キューバの医療體制のやうに、この自治組織において、一般医療を擔ひ、專門医療については廣域的、全國的な医療機關が擔ふことによつて医療費を節減する。これは、自警團と簡易医療機關とが統合された身近な司政機關であり、いはば、江戸期の自身番と木戸番の現代改良版である。
福祉政策の根幹は、自助、共助、公助の順位の確立にあり、年金、医療、國營保險制度(年金、雇用保險、医療保險、介護保險など)は、自立再生社會が建設されることによつて發展的解消へと向かふ。補完的な私營保險についても同樣である。
その他、資本制社會から自立再生社會へと移行させるためには、商人(反復繼續して営利を目的とする事業活動をなす者。法人を含む。)の所得については課税することになる。非事業者(非商人)であつても、利潤を發生させる取引についても同樣とする。
また、資本主義的な企業活動が收縮することによる失業者の增大に對して、新たな雇用を創出する政策が必要となる。このやうな企業活動の收縮に反比例して、自給自足制への移行と單位共同社會(まほらまと)の創設とその極小化のための技術開發、さらに、これらを實施する企業活動など新たな事業が增大することによつて雇用が創出されることの外に、労働集約産業を保護して雇用の安定確保を圖るため、雇用者數の增加に伴つて減税率を累進させる、いはば「累進税率」と反対の「累退税率」による課税を適用する。
そして、これらの「再生税」と「福祉税」の使途分配の決定を行ふ「小さな政府」を維持するため、さらに「人頭税」を徴收する。「小さな政府」の機構を維持する費用は、全構成員の負擔すべき共益費用であるから、各人の平等負擔にかかる「人頭税」によることになる。貧富や所得格差による人頭税の一律負擔による不公平問題は、別途の福祉政策で解消すべきものである。貧困などを理由に人頭税を免除することは、その納税者を自立再生社會の構成員として認めないことに通ずるので、人頭税は人格尊重のためにも均一に負擔させ、それ以外の方法で救濟すべきものである。そもそも、自立再生論は、公的扶助や公的年金を原則として必要としない社會を實現することにあり、それまでの過渡的な政策として福祉政策があることを認識する必要がある。
そして、その政府の豫算規模の範圍は、再生税と福祉税と人頭税の總額を限度とし、また、それで充分である。再生税と福祉税は目的税であるから、人頭税は、政府機關の維持と政策の實施運營に必要な限度で徴收される。その意味ではこの人頭税も目的税である。
各家族が家産を形成して行くことになることからすると、現行の野放圖な破産における「免責制度」は廢止し、家族の連帶責任制度の導入を檢討する必要がある。個人主義とか自己責任を唱へながら個人破産において免責を容認する免責主義の制度は矛盾するのである。現行の免責主義による破産制度の運用實態は、事業者破産も非事業者(消費者)破産も、無責任な「信用制度」が破綻してゐることの現象に他ならない。無謀な賭博的事業の清算といふ事業者破産や返濟計畫のない詐欺的借入による消費者破産を許容する社會であつてはならない。これこそが自立再生社會の實現の妨げとなるからである。
このやうな諸政策を重畳的に實施にして、全世界が自立再生論に基づく社會體制となれば、世界は安定した公平社會として蘇生する。人々は、自立再生社會の構成員となり、勞働を提供して生産し、かつ、物資を消費する地位にあることを自覺するために、家族單位で人口調整を行ふ。國家においても、自給自足經濟の社會を實現するために、人口調整の政策を實施せざるを得なくなる。それゆゑ、人口問題は、自立再生社會へと移行する過程の中で解消する方向へ向かふ。
そして、政治全般については、第五章で述べた効用均衡理論によつて、根本的な政治制度改革がなされて安定し、前記のやうな自立再生社會を實現するための立法と政策を擔ふことになる。人々は、それぞれが公務を含む全人生活を例外なく營むことになるから、特殊專門分野の公務以外には、原則として公務專從者(公務員)は不要となる。
このやうに、自立再生の理念は、我が國の國體の精華であるにとどまらず、全世界を遍照する金剛智であつて、單に、經濟的側面のみならず、政治・文化・教育・生活その他の全ての社會事象を調和させる。そして、經濟以外の不安定要因である宗教と民族の問題についても、祭祀が復活することに加へて、宗教集團や民族集團は、自づとそれぞれ同一の構成員による獨立した單位共同社會(まほらまと)に分離されて生活することになるから、生活と文化の對立相克から解放されてこれらの問題も殆ど解消するに至る。つまり、宗教紛爭や民族紛爭といふものは、分業化體制の現實からして、どうしても異宗教徒同士や異民族同士が、それぞれの生活を維持するために混在混住し、雇用關係や事業關係などの經濟的な相互關係を持たざるをえないことが最大の原因となつてゐるからである。そこで、單位共同社會(まほらまと)が形成され、それが大家族まで極小化して行く過程の中で、異宗教徒や異民族との經濟的な相互依存關係が棲み分けによつて解消する方向へ向かひ、ひいては祭祀の復活によつて紛争の根本原因が消滅することになるのである。
そして、このやうな紛爭原因が縮小し解消することによつて官僚統制國家(全體主義)の役割も終了し、世界維新が實現し、世界と地球には再び安寧が蘇る。
この世界維新とは、神敕の成就であり、その神敕とは、「修理固成」の御神敕のことである。つまり、天つ神が伊邪那岐命(イザナキノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の二柱の神に賜はれた「於是天神諸命以、詔伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱神、修理固成是多陀用弊流之國、賜天沼矛而、言依賜也。(ここにあまつかみもろもろののみこともちて、いざなきのみこと、いざなみのみこと、ふたはしらのかみに、このただよへるくにををさめつくりかためなせ、とのりて、あめのぬぼこをたまひて、ことよさしたまひき。)」(古事記上卷)の御神敕である。さらに、この御神敕は、天照大神(アマテラスオホミカミ)が皇孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に賜はれた天孫降臨時の「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。(あしはらのちいほあきのみづほのくには、これ、わがうみのこのきみたるべきくになり。いましすめみま、いでましてしらせ。さまくませ。あまのひつぎのさかえまさむこと、まさにあまつちときはまりなけむ。)」(日本書紀卷第二神代下第九段一書第一)といふ「天壤無窮」の御神敕と、神武天皇の「上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。(かみはあまつかみのくにをさづけたまひしみうつくしびにこたへ、しもはすめみまのただしきみちをやしなひたまひしみこころをひろめむ。しかうしてのちに、くにのうちをかねてみやこをひらき、あめのしたをおほひていへにせむこと、またよからずや。)」(日本書紀卷第三神武天皇即位前己未年三月)といふ「八紘爲宇」の御詔敕へと連なる。そして、これらの御神敕の根源は、天地開闢(剖判)の時、天地の中に葦牙の如く成りませる地球始原神である國常立尊(くにのとこたちのみこと、日本書紀卷第一神代上。古事記では國之常立神)の御神意であり、これを現代において誓(うけひ)により具體化したものが、この自立再生論なのである。
ところで、「無爲自然」などが老荘思想における中心的な概念とされるが、『老子』(文獻15)の第三十八章には「無爲而無不爲(無爲にして爲さざるは無し)」とあり、第二十五章には「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。」とあることから、「無爲」は、「不爲」(何もしない)といふ意味ではない。いはば、無理をして爲すことはせず、自然に營むことである。これは、『古事記』の「修理固成」に通ずるものであり、雛形理論や本能論、さらに、自立再生論とも融合するものである。
このやうに、自立再生論の目指す單位共同社會(まほらまと)は、大家族を理想型とし、それが部族、地域、國家へと相似的に擴大して行く雛形理論に適ふものであるが、その祖型は、天照大神の「御統の珠」(みすまるのたま)にある。『古事記』(上卷)には、天照大神の左右の御美豆羅(みみづら)にも、御蔓(みかづら)にも、そして左右の御手にも、「各纏持八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而(おのおのやさかのまがたまのいほつのみすまるのたまをまきもちて)」とあり、この「八尺勾璁之五百津之美須麻流珠」は繰り返し登場する。この「御統の珠」の神示は、數多くの國々を靈(たま)を壞さずに一つの連珠に繋ぎ合はせて、一つの統一された靈(たま)とすることにある。これは、数珠やロザリオと同樣の構造であつて、國境をなくして一つの國に纏めるのではなく、個々の自立した社會や國家を連結させることであり、まさに單位共同社會(まほらまと)は、「御統の珠」の一つ一つの珠(靈)を意味してゐる。たわわに實つた稻穗を連想させる。これは、國歌「君が代」の「細石の巖と成りて(さざれいしのいはほとなりて)」に通ずるものである。これこそが眞の意味での「八紘爲宇」の姿である。
自立再生論は、これら御神敕を體現したものであり、その目指すものは、世界が自立再生論を選擇し、これに基づく經濟政策を實現して絶對平和を實現することである。トマス・モアの『ユートピア』、つまり「どこにもない場所」を探し求めるのではなく、單位共同社會(まほらまと)が「どこにでもある場所」とすることである。そして、その指標は、自立再生論に基づく自給自足の閉鎖循環系である「單位共同社會(まほらまと)の極小化」にある。世界主義や經濟圈擴大主義(例へば、EC統合、道州制)などの「擴散指向」は、「單位共同社會(まほらまと)の極大化」をめざすものであり、それを地球規模にまで擴張することに飽き足らず、宇宙まで取り込むに至る。「擴散指向」によれば、地球の内部矛盾を隱蔽して一層深刻化させることは必至である。この「擴散指向」を捨てて、「單位共同社會(まほらまと)の極小化」による「收束指向」によらなければ、地球と人類は救はれない。これまでの歴史は、「擴散指向」でこれまでずつと擴散・擴大してきた。人類は、そのまま放置すれば、擴散指向を際限なく續けて飽和絶滅する以外にない。そのために、自立再生論による「收束指向」の方向へ政策轉換をなすことによつて、均衡と安定を實現させることができるのである。
その意味では、自立再生論は明らかに世界思想である。これをこれまでの世界思想と比較することは餘り有意ではないが、食料、資源、エネルギーなどの基幹物資の自給率の變遷の見地から捉へて第一章の別紙一を借用すると、章末の別紙六『V字型自給率回復構造圖』のとほりとなる。世界は、完全自給がなされてゐた原始自給社會から、物資交易と技術交易を擴大させて自給率を低下させてきたが、自立再生論の登場により、方向貿易理論などを實踐する政策轉換がなされることによつて、自立再生社會の實現に向かつて物資交易を縮小させ、技術交易を選別させて、再び自給率を向上させ完全自給の自立再生社會に至るといふ經緯を示してゐる。なほ、我が國では、遣隋使、遣唐使、對宋貿易、勘合貿易(對明貿易)、南蠻貿易、朱印船貿易などによつて、徐々に自給率を低下させてきたが、江戸時代の鎖國政策によつて再び自給率を高めたものの、明治維新以後は國際的分業體制に組み込まれて極端に自給率を下げた。そして、大東亞戰爭時には戰爭状態であることから反射的に自給率が一擧に高まつたが、敗戰後は有史以來急激に自給率を低下させて今日に至つてゐる。しかし、それを自立再生理論によつて再び完全自給の自立再生社會を實現させるための政策轉換がこれからなされるであらう。
このやうにして、世界の人々が雛形理論に基づいた自立再生論によつて國際社會が收束(みすまる)したとき、そのとき同時に世界の人々の祭祀も復興し、世界はすめらみことの御代となるのである。
經濟學の課題
現代社會は、自立再生社會とあまりにも程遠いところにある。一パーセントに滿たない最大の富裕層が世界の富を獨占し、賭博經濟を行つて世界を混亂に陷れてゐる。人々の生活格差を廣げて、さらに分業體制を隅々にまで推し進めることによつて、世界の人々を巨大で複雜な機械のやうな經濟組織の部品(parts)に仕立て上げた。そして、部品化して生活の自立性を失つた人々から、安心、安全、安定までも奪ひ續けてゐる。その人々もまた、合理主義(理性論、rationalism)と個人主義(individualism)に浸り續け、家族(family)の絆と家産を失ひかけてゐる。經濟問題以外にも樣々な問題がある。政治問題、社會問題、雇用問題、福祉問題、環境問題、人口問題などが次々と人々に襲つてきて、出口の見えない袋小路へと追ひ込まれてゐる。
このやうな現状から抜け出して自立再生社會へと向かふためには掛け声だけではだめである。具體的にどうしたらよいのか。そのために、最優先課題として解決が求められてゐるのが經濟問題であるが、その解決のために必要な新しい經濟の仕組みはどのやうなものか。
以下においては、これらのことについて具體的に提示することになるが、まづ、その前にもう一度これまでの經濟學について根本的な檢討をすることから始める必要がある。
經濟学は、經濟循環、つまり、人間の生活の基礎となる財の生産、分配、流通、消費などの過程における分析と法則性を探求する學問とされ、現代では、いくつかの假定のもとに成り立つてゐる。それは、經濟循環の活動を行ふ基本的な單位となる經濟主體を企業と家計と政府の三者とし、それぞれが合理性による最適な行動をとると假定する。また、その活動は、等質的で參入障碍のない公開された市場のもとで自由な競爭がなされ、資源配分の合理性が保たれると假定する。さらに、市場に參加する經濟主體には、取引を行ふための完全なる情報が共有されてゐるとするのである。
しかし、これらの假説は、さうあるべきであるとする願望と、いづれはそのやうな状態に近づくだらうとする期待だけで打ち立てられたものであり、現實とは完全に乖離し、未だにそのやうな状態にはなつてゐない。貧困者や被災者などに對して集まる多額の寄附は社會に大きな經濟的影響をもたらすが、このやうな行動は經濟合理性に基づかない經濟主體の行動に他ならないはずである。「長者の萬燈より貧者の一燈」と言ふが、大災害や大事故などに多くの寄附をするのは貧者であつて富裕層は少ない。このやうな現象は、經濟的合理性では絶對に説明できない。
また、開かれた完全なる市場は存在しないし、これからも存在しえない。地域差、時差、アクセスの障碍や不均衡があり、唯一の完全なる市場は到底作れない。複數の市場を想定しても同じことである。生鮮食料品と金融商品とを同じ一つの市場で取引對象とすることは技術的にも不可能である。消費者の選好(preference)の意志には制約がなく、限られた種類の商品を對象とする市場ではその意志が完全には實現しない。
自由な市場とは、參加する自由、參加しない自由、參加しても何時でも退場する自由が確保されなければならないが、實際は事實上も法律上も新規參入できない市場が多すぎる。市場で價格が需給バランスで決定する現象は極一部でしか起こらず、市場以外で價格が決定して取引されることの方が多い。その決定に至る經緯は、自由競爭によるものではなく、生産者と流通者(流通過程擔當者)によつて決定した價格を消費者が無條件にて受け入れるだけである。消費者は、決定された價格で購買するかしないかを選擇する自由があるだけである。また、市場參加者の持つ情報は偏頗性があり、均質で同量の情報が取引當事者相互で共有されることはありえない。
このやうな市場の閉鎖性と不完全性、市場外での一方的な價格決定、市場外での取引の存在、情報の不完全性と非對稱性などの現實は、これらの假定と明らかに矛盾背反する。
ところが、經濟學者らは、これらの矛盾を知りながら、假説を變更しようとはしない。經濟學固有の領域では解決できないことを自覺として、政治學、心理學、人類學、地理學などの手法を取り入れるが、決して當初の假定を放棄したり修正することはない。
これまでの經濟學は、價格決定の要因となる商品價値の源泉を労働であると認識してゐる(労働價値説)。また、賃金、利潤、地代の三つが商品價値を構成するものとし(價値構成説)、このやうな自然價格(アダム・スミスの呼稱)とは別に、需要と供給の關係で決まる市場價格があること認めてゐる。つまり、労働價値などに基づく價格を精密に檢討したところで、これとは無關係に市場價格で價値が決定するといふのである。そして、この市場價格が實効價格として經濟的意義があるのであれば、これまで、何のために理論的な價値論爭をしてきたのか。その成果が全く得られないまま、徒に議論のための議論をしてきたことが不思議でならない。
市場價格の決定について、供給側が希望價格を求めたとしても、それに需要側が拘束されることはないとする。そのことが需給關係とのバランスによつて價格が決定されるとする立論の根據である。しかし、ここが經濟學者の感覺と現實生活に直面してゐる庶民感覺とが異なるところである。價格の決定は、生産者と流通者(流通過程擔當者)などの供給者側が設定した定價とか小賣希望價格による。資本系列、下請系列、流通系列などの系列化が極度に進む中で、抽象的意味においても市場の自由性を見出すことはできない。百貨店や大型小賣店(スーパーマーケット)のやうな大規模小賣店、專門店なども系列小賣店化が進んでゐる。そのため、これらの店舗での販賣では、原則として價格交渉すらできず減額を求められないのである。これは「賣り場」であつて「市場」ではない。需要者側は、その「場」で既に決定された價格で購買するか否かの選擇權しかない。つまり、價格は需給バランスで「決定する」のではなく、生産段階と流通段階で豫め「決定されてゐる」のである。賣手市場とか買手市場といふ言葉があるが、そんな現象は現實には起こらない。賣手側が生産動向と消費性向に關する詳細な情報を把握して價格を決定し、それを情報量が壓倒的に少ない買手が、僅かな廣告媒體の美辞麗句を手がかりに參考にしながら、買ふか否かを判断するだけである。
また、價格に關する情報は、賣手側と買手側がそれぞれ把握してゐる場合もあるが、その情報量に占める多くの部分はマスメディアなどが提供してゐる。特に、買手側に提供される情報は、特定の方向を向いた情報操作がなされてゐる。その方向とは、大量消費の煽動である。そして、このやうにして煽動された情報に躍らされた大衆が付和雷同的に迎合した行動をして消費選好が決定されてゐる。
したがつて、このやうな情報操作によつて形成された經濟活動の結果を分析調査したとしても、そこから一定の經濟法則らしきものを見出すことすら無意味になつてくる。
「經濟學を學ぶ目的は、經濟の問題に對して一連の出来合ひの答へを得るためではなく、どうしたら經濟學者に騙されないかを學ぶことである。」と、ジョーン・ロビンソン(Joan Robinson)は言つた。ジョーン・ロビンソンは、ケインズ革命と稱された、あのジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)の弟子でノーベル經濟學賞候補にまでなつたケンイズ學派の人物である。この言葉は、經濟學が科學ではなく、宗教にも似た擬似科學の偏向思想であることを端的に自白してゐるのである。
アダム・スミス(Adam Smith)に始まる現代經濟學の歴史を辿れば、そこには共通した思想がある。それは、徹底した合理主義(rationalism)、個人主義(individualism)であり、社會は個人といふ原子の集まりであるとする原子論的社會觀(atomistic conception of society)に立つ方法論的個人主義(methodological individualism)なのである。これに對する有機體説(organic theory of society)は、社會や國家を生物的な一體のものと捉へ、各部分が相互關連して依存してゐるとし、それを生物モデルとして認識するだけで、それ以上のものではなく、ダーウィニズム(Darwinism)の影響を強く受けてゐる。
古代ギリシャのペリクレスは、豐かで平和な國家を築くためには家計を營むやうに國家を統治せよと戒めたが、この箴言には、家計が國家の雛形であるこのと意味が含まれてゐた。つまり、原子論や進化論で語られる平面的で單線的な單層世界ではなく、家族(家計)が地域社會から國家社會に至る立體的でフラクタルな重層世界であるといふ認識なのである。
原子論的社會觀は、そのまま國家觀に直結し、現代人權論や國民主權論、人民主權論に受け継がれ、現代經濟學と一體のものとなつた。そして、有機體説もまた、國家と家族との關係を探求することなく、國家法人説(我が國では 天皇機関説 )が生まれたが、何ら學問的な深化がなく、原子論や進化論に對抗する理論には成り得なかつた。
このやうに、現代經濟學は、合理主義と個人主義を容認し、現在に至る經濟制度と經濟状況に對して、これを否定したり修正したりする力はなかつた。むしろ、現實の經濟状況を解説するだけの講釋師(經濟學者、經濟評論家、經濟アナリストなど)の權威付けの道具にしかならなかつた。つまり、現在の經濟制度をこのまま傍觀して維持するか、あるいし少し彌縫策を講じて維持するかの議論しかできない。決して、根本的な視點に戻つて、經濟の仕組みを考察することをしない。「しない」といふよりも「できない」のである。現在の經濟の仕組みを根本的に批判したり否定したりすることは、マルクスで終はつてゐる。マルクスの失敗を目の當たりにして、大思想を創造する意欲がなくなつた。それどころか、最大の富裕層に迎合する意見を吐くか、あるいは、少しばかりの修正意見を進言するだけにして、自己の地位の安泰を得て保身に走るだけである。そして、絶對に現在の經濟體制を根本的に批判し否定する意見を述べない。述べる努力もしないし智惠も能力もない。この富裕層を批判しないのは、もし批判すれば、彼らが支配するマスメディアから排除されて講釋師としての仕事がなくなるからである。彼らは、現在の歪んだ經濟の「徒花」である。これらのことは、占領憲法の護憲論と改憲論の議論でお茶を濁して、無効論を排除する構造と瓜二つである。
ところで、現代經濟學では樣々な論爭があるが、その中でも各國の財政政策と金融政策に最も影響を與へ続けてきた重要な對立軸には、次の二つがあつた。
一つは、需要面(demand-side)と供給面(supply-side)のどちらを重視して經濟を捉へるべきかといふ視點である。この對立は、「供給はそれ自身が需要を創造する」といふ言葉で語られるセイの法則(say’s law)に對し、ケインズが、これとは逆に、需要が供給を作り出すと主張したことから始まる。
そして、もう一つは、國家が經濟に積極的に關與すべきか否かについてである。ケインズはこれを肯定し、ハイエク(Friedrich August von Hayek)は、自由放任主義の立場から、國家の關與それ自體を批判したのである。
これら二つの對立軸における見解を理念的に分類すれば、四通りの見解がありうるが、實際はさうではなく、ケインズ派と反ケインズ派といふ對立軸が加はつて複雜なものになつてゐる。
ケインズは、需要面(demand-side)を重視し、政府支出によつて有效需要を增やす政策を提唱したのに對し、反ケインズ主義の急先鋒であるフリードマン(Milton Friedman)は、供給面(supply-side)を重視し、減税や政府支出の削減と規制緩和をすれば供給量が增えると提唱する新自由主義(neo-liberalism)に立つてゐる。ハイエクが初代会長を務めた新自由主義者團體であるモンペルラン・ソサエティーにフリードマンも參加したが、ハイエクとは反ケインズだけで一致してゐたと言つても過言ではない。
そして、さらに、アメリカではレーガン大統領(Ronald Reagan)が行つたレーガノミックス(Reaganomics)も、サプライサイド・エコノミクス(supply-side economics)の立場であり、供給サイドの增加を重視して減税を斷行し、通貨供給量を重視する金融政策を唱へたフリードマンのマネタリズム(monetarism)に基づくものである。
我が國においても、あたかもこれらの代理戰爭であるかのやうに、需要面(demand-side)を重視するか供給面(supply-side)を重視するかで政策が對立した。公共事業を推進させ、有效需要を財政政策と金融政策を用いて調整する有效需要政策(effective demand policy)を進める「需要派」と、減税と規制緩和、構造改革、民営化を推進する「供給派」の鬩ぎ合ひがなされてきた。これによつて、景氣が亂高下することによる政策の混亂と失敗に便乘して、マッチポンプの果てしないシーソーゲームを繰り返してきたのである。
いまや、アダム・スミスが「見えざる手」(invisible hand)と喩へた、市場が持つ自動調整機能なるものを信じてゐる者は誰も居なくなつた。
にもかかはらず、市場に對する絶對信仰を捨てず、産業構造を第一次産業から第三次産業までに分類するものの、生産概念を一括りにして、生活必需品を生産する産業(第一次産業)の特異性、重要性を意識しない。現代經濟學は、第一次産業を他の産業と平面的に捉へ、「生産」としてしか認識しないのである。
これは、合理主義、個人主義に毒されて、人間の持つ生命維持本能などが劣化してゐる現れである。江戸の三大飢饉の一つである享保の飢饉(1732+660)の際、百兩の大金を首からぶら下げたまま餓死した商人がゐたといふ記録が殘つてゐる。この商人は、百兩の大金を人から取られないやうに死ぬまで首にぶら下げてゐたものの、人を信用しない無慈悲で冷淡な性格であつたためか、いざとなれば誰も相手にしてくれず米一粒すら賣つてくれなかつたために飢ゑ死にしたのである。貨幣制度と拜金思想に溺れ、危機が迫つてくることを豫知して對應する本能が劣化して、カネさへ有れば何でも手に入るとする傲慢なる合理主義、個人主義の奴隷が餓死したのである。
現代經濟學は、この合理主義、個人主義の延長線上にあり、しかも、奢侈なる消費を煽ることが經濟成長をもたらすとする不道德な考へ方に支配されてゐる。その先兵となつてゐるのがマスメディアである。その走狗である電通PRセンターの「わが社の戦略十訓」などによれば、「①もっと使用させろ、②捨てさせ忘れさせろ、③むだ使いさせろ」などといふ不道德な言葉が並ぶ(『PR戦略』1963年、パッカード『消費をつくり出す人々』1961年)。このやうな商業主義思想(commercialism)がマスメディアを通じて大々的に展開され、大量生産、大量消費を煽るのである。
このやうにして、遂に、現代經濟學は科學の座から退き、宗教へと變質したが、それが人を道德的に善導しようとするのであればまだしも、このやうな不道德を奬勵する邪教であれば到底これを容認することはできない。
これから迫り來ることが確實視される世界的な食糧難に備へて、本能的に危機を感じて歸農し、食料を備蓄することが富であるとして實行する人々の健全さは、本能が劣化してゐる經濟學者や經濟評論家、經濟アナリストたちには到底理解できないであらう。
毎日のニュース番組に天気豫報があるのは頷けるとしても、これと同じやうに、株價や外國爲替相場がリアルタイムで一般に毎日決まつて報道されることに違和感をなくしてしまつた人が多くなつた。異常なことが繰り返されると、そのことが異常なこととは感じなくなり、むしろ正常であると錯覺する心理現象である。
額に汗して働く多くの人にとつて、證券取引や外國爲替取引は無縁である。ところが、その無縁であるはずの取引が多くの人の生活とは無關係に亂高下することによつて、全體の經濟に影響を及ぼし、一般の人も影響を受ける。一般の人からすれば、政府や經濟界の要人の発言などは豫測不能であり、不可抗力の事實である。それが生活に影響するといふことは、聲を大にして叫ばなければならないほど明らかに理不盡なことなのである。
經濟とは、本來は實體經濟、實物經濟のことであるが、それが現在では、金融經濟、賭博經濟、カジノ經濟が主流となつて變質した。金融經濟の取引規模が、實體經濟の取引規模を遙かに上回つたためである。ドルの金兌換の停止を宣言したニクソン・ショック(Nixon shock)によつて、ドルを唯一の金兌換通貨としたブレトン・ウッズ體制(Bretton Woods system)は崩壞した。そして、情報技術(information technology IT)によつて飛躍的に發達したコンピュータ通信網の擴大と、規制緩和の流れ、金融市場のグローバル化により、世界のありとあらゆるところでカジノ經濟取引が同時多發的に可能となつた。その取引量は實體經濟のそれを遙かに凌ぐことになつたのである。これまで、お金がお金を生む金融資本增殖のからくりは、商品取引所で扱ふ、比較的に品質が均等で大量取引に適する商品(綿糸、綿花、綿布、繭糸、毛糸、ゴム、砂糖、穀物、金など)や、證券取引所で扱ふ、株式、債券などを對象とする投機取引によるものであつた。ところが、これに加へて、種々雜多な金融派生商品(デリバティブ、derivative financial instruments)を生み出して投機取引(賭博取引)を擴大させた。
實體經濟である世界貿易で決濟される金額は十四兆ドル(約一千兆圓)程度であるのに對し、従來の金融商品の決濟に用ゐられる短期金融資本は、その四十倍の約五百六十兆ドル(四京二千兆圓)とされてきた。ところが、金融派生商品取引は、レバレッジ(leverage)の元本ベースで、これに匹敵する以上の巨大な金額になつてゐると試算されてゐる。さうすると、金融經濟の規模は實體經濟の規模の百倍以上になつてゐることになる。そして、これをFRB(Federal Reserve Board)といふ歐米銀行家連合體を頂點とした世界金融が支配を繼續してゐる。このやうな巨大な金融資本に世界が支配される金融資本主義の跋扈を、ケインズもフリードマンも想定してゐなかつたはずである。
そのため、百分の一以下の實體經濟を對象としてきたこれまでの金融政策や財政政策では全く效き目がないことが明らかである。しかも、金融政策と財政政策を分離してゐるから、さらに效果がない。現代の經濟は、家計、政府、企業といふこれまでの經濟主體ではない、「投資家」といふ名の博奕打ちの「心理」がどのやうに動くかによつて左右される。
例へて言へば、ごく限られた一部の海域における水温、成分濃度、海流の方向と強さ、生物の生息状況などを研究對象としても、その海域は閉鎖系ではなく、開放系であるために、これに接續するもつと廣い海域から受ける影響を無視した研究成果や推論には全く意味がないことと同じである。しかも、その海流の變化には全く法則性がなく、心理の動きで自在に變化するのであるから豫測不能である。豫測不能なので放置して靜觀するしかないのに、何もしないのは怠慢であると批判を受けるので、政府は保身のために無駄なカネを使つて對策を講じた素振りをする。それが投資家の心理にまた影響して少し變化を起こすが、政府の對策に效果があつたからではない。
このやうな賭博經濟を縮小させることも修正させることもできない現代經濟學では、将來の世界と自國の經濟を語る資格はない。これからの經濟學の課題は、この混迷状態から抜け出すための具體的な方策を示すことであり、そのやうな新しい經濟學が必要となつてくるのである。
通貨發行權を巡る攻防の歴史
新たな經濟學の構築するについて、次に檢討しなければならないのは通貨制度に關してである。通貨制度については、そもそも通貨發行權は誰に歸屬するものなのか、そして、通貨の本質とは何なのかについて檢討しなければならないのである。そのためには、通貨と通貨發行權にする歴史を振り返る必要がある。
現在、ヨーロッパ連合(European Unin EU)では、統一通貨ユーロ(Euro)の通貨發行權をヨーロッパ中央銀行(European Central Babk ECB)に委ねたことによるソブリン・リスク(sovereign risk)が囁かれてゐるが、そもそも歴史的に見れば、國王の持つ統治權(sovereign)の中で最も重要なものの一つに通貨發行權があつた。これは、財政の錬金術である通貨發行益(シニョレッジ、seigniorage)を打ち出の小槌(通貨發行權)から繰り出せるからである。そして、發行した貨幣によつて租税を徴収し納税させることによつて社會に循環流通させて行けば、發行した貨幣の信用を高めることになり、「貨幣」は信用力を得て「通貨」(currency)となり、さらに、法律により強制通用力を得て「法貨」(legal tender)となる(本稿では、特段の場合以外は通貨と法貨とを同視して通貨と呼稱し、これと貨幣とを對比して論述することとする。)。
貨幣の信用力が弱いときには、納税は物納によることになる。そして、物納された商品を市井に流通させるときに、對價として貨幣を徴求すれば、徐々に通貨となる。つまり、通貨發行權は、租税徴収權と不可分な關係にあり、これを車の兩輪として金融政策と財政政策を統一的に行つてきたのである。これらは、世界の各國において概ね共通したものであつた。
ところが、租税徴収權は、國家の存立とその財政のためにはどうしても切り離せないものであるが、通貨發行權の場合は必ずしもさうではなかつた。通貨は僞造されてはならないし、僞造されれば、通貨制度の根幹が揺らぐ。しかし、僞造しにくい金屬貨幣を作らうとしても、高度な鑄造技術を國家が保有してゐるとは限らない。たとへば、室町時代に明錢を大量に移入して流通させたこともあつた。
そして、歴史が金屬貨幣から金本位制による兌換紙幣への時代へと移行すると、國家以上に保有する金の量が多い大富豪が、その財力に物を言はせて、打ち出の小槌である通貨發行權を國家から奪つて利益を得ようとすることになる。まさに、イギリスとアメリカには、通貨發行權の爭奪を巡るこのやうな攻防が繰り廣げられた歴史があつたのである。
まづ、貨幣經濟が發達してゐなかつたイギリスでは、ロンドンで兩替商などを營む金細工師(金匠、ゴールド・スミス、goldsmith)の銀行家たちが事實上の通貨發行權を持つてゐた。それを、十二世紀の初めにヘンリー一世(Henry Ⅰ)が取り上げて、初めての英國通貨を發行した。ところが、ゴールド・スミス(銀行家連合)は、再び通貨發行權の奪還に成功する。その事件が、クロムウェルによるイギリスの清教徒革命(Puritan Revolution)であり、その結果、イギリスの中央銀行となるイングランド銀行(The Bank of England)が設立され、以後、イギリスの通貨發行權は奪はれたままになつてゐる。中央銀行といふのは、國家から通貨發行權を付與された民間銀行複合體で、他の私的銀行を統括して金融政策を行ふものであり、政府とは別の組織である。
そして、これと同じやうな攻防がアメリカ合衆國でも起こつた。一九一〇年、J・P・モルガン、ジョン・ロックフェラー、ポール・ウォーバーグなど十一人により、合衆國から通貨發行權を奪ひ取つて中央銀行を設立するための秘密會議がなされ、それをウィルソン大統領(Woodrow Wilson)が、一九一三年に、クリスマス休暇で議員が居ないのに議會を開いて、電撃的に秘密會議の決定に基づく法案を成立させ、中央銀行への返濟財源に充てるための所得税徴収法まで成立させたのである。そして、翌一九一四年にFRBが設立され、合衆國の通貨發行權は奪はれた。これは、「合衆國議會は貨幣發行權、貨幣價値決定權ならびに外國貨幣の價値決定權を有する。」とするアメリカ合衆國連邦憲法第一章第八条第五項に明らかに違反してゐた。
なぜこのやうになつたかについては、獨立戰爭以來の伏線があつた。合衆國は、十八世紀に、財政が脆弱なまま長期に亘る獨立戰爭を行ひ、その戰費などを歐州の民間銀行から調達し、實質的には通貨發行權を奪はれてゐた。獨立戰爭終結後の一七八二年には、最初の中央銀行であるバンク・オブ・ノースアメリカ(The Bank of North America)が設立されるが、恒久法にすると憲法違反となるので、その後も、時限立法による中央銀行として、一七九一年にファーストバンク・オブ・ユナイテッドステイツ(The First Bank of United States)、一八一七年にセカンドバンク・オブ・ユナイテットステイツ(The Second Bank of United States)が設立された。
ところが、ジャクソン大統領(Andrew Jackson)は、一八三一年、歐州の銀行による支配に異議を唱へた。すると、暗殺未遂の災難に遭つた。その難から辛うじて逃れたジャンソン大統領は、暫定的に中央銀行として認める時限法を更新する改正をしなかつたため、セカンドバンクは一八三六年に消滅した。
そして、そのことが引き金となつて起こつたのが南北戰爭である。南軍も北軍もイギリスの銀行から戰費の調達を行つた。イギリスの銀行は究極のリスクヘッジ(risk hedge)を行つて、南北戰爭終了後における恒久的な中央銀行の地位を狙つたのである。ところが、南北戰爭後の一八六二年に、リンカーン(Abraham Lincoln)は、アメリカ政府(財務省)の政府紙幣であるグリーンバックスドル(Greenbacks dollar)を發行し、歐州銀行複合體の支配からの脱却を図らうとした。これは、中央銀行が發行するドルではなく、アメリカにおける初めての憲法通貨(法貨、Constitutioal Money)である。そして、これにより一八六五年にリンカーンは暗殺されるのである。
暗殺と言へば、ケネディ大統領(John Fitzgerald Kennedy)の暗殺も同じである。ケネディは、アメリカに大量に眠る銀の埋蔵量に着目し、FRBの金本位制から合衆國獨自の銀本位制へと移行することが可能であるとして、一九六三年に、銀本位制により合衆國發行の法貨を發行する大統領行政命令(executive order 11110)を發令した。ケネディこそ、FRBに奪はれた合衆國の通貨發行權を取り戻すことに最も熱心で勇氣のある大統領であつた。そして、ケネディもまた、大統領行政命令を發令した同じ年の十一月二十二日にダラスで暗殺されるのである。
また、こんなことがある。大東亞戰爭末期の昭和十九年、ケインズは、アメリカのブレトン・ウッズの國際會議にイギリス代表團を引き連れて參加し、ブレトン・ウッズ體制の基軸となる國際通貨基金(International Monetary Fund IMF)と國際復興開發銀行(世界銀行、International Bank for Reconstruction and Development IBRD)の設立に盡力したが、この會議でバンコールシステム(bancor-system)の導入を提唱した。これは、イギリスなどが提唱したもので、金(gold)など三十種類の基本財を本位財とした「バンコール」(bancor)といふ人工貨幣單位(世界通貨)を導入する案であり、アメリカ一極支配に反對したケインズの提案である。
しかし、ドルを世界通貨として通用させたいFRBの金融傀儡國家アメリカの強い反對を受け、しかも、この提案を阻止するため、アメリカはイギリスに實質的に無擔保で大量の貸付を行ふ米英金融協定の破棄することになると申し入れたことから、イギリスはこの提案を斷念し、金本位制を維持することを条件としてドルの一極體制を支持することになつた。ケインズは、第一次世界大戰後においては、金本位制への復歸に反對して管理通貨制度を提唱したが、第二次世界大戰後は金本位制を支持したのである。まさにご都合主義の通貨制度理論であつた。ともあれ、ケインズは、アメリカから歸國の直後に急死する。死因は、滯在中に起こした重度の心臟發作が小康状態を保つたものの、後に容體が惡化したためとされてゐる。
それがどのやうな意味を持つとしても、ケインズの生涯は、ドルを世界通貨にすることによつて、FRBが實質的な世界の通貨發行權を獨占しようとする企てに反對することが如何に困難であるかを物語るものであつた。
ところで、我が國について言へば、中央銀行としての日本銀行は、明治十五年に日本銀行條例に基づき唯一の發券銀行(日本銀行券)として株式會社類似の特殊法人として設立された。そして、大東亞戰爭中の昭和十七年に戰時體制強化のために日本銀行法が制定されて特殊法人(資本金一億圓、政府出資五十五パーセント)となつたが、戰後は、再び中央銀行としての獨立性を回復させ、歐米の例を無批判に模倣して金融と財政とをさらに分離させる傾向にある。
現在、我が國政府は、日本銀行に通貨發行權を獨占させてゐる(日本銀行法第四十六條)。そして、その發行限度はその發行額と同額以上の保證物件(地金銀、商業手形、國債、政府證券、外貨、外國為替など)の保有を必要とする保證準備制度がとられてゐる。これは、兌換の引換準備として金銀塊の保有を求める正貨準備制度とは異なり、一切の中央銀行の資産も同列に保證物件とし、その限度をもつて發行限度とする制度のことである(最高發行額制限制度)。つまり、二國間でキャッチボールをすれば、いくらでも通貨發行ができる仕組みになつてゐるのである。
しかも、これは、最高發行限度を越える銀行券の發行を認めないとする最高發行額直接制限制度ではなく、一定の條件のもとでは制限額を越える銀行券の發行を認めるとする最高發行額屈伸制限制度といふ管理通貨制度を採つてゐる。要するに、限度がないのと同じである。
これは、世界が金本位制からその廢止へ、兌換券から不換券へ、そして、固定相場制から變動相場制へといふ動向と連動してゐるもので、これまでの財(商品など)とそれを媒介する通貨(媒介通貨)との實物的對應關係は完全に喪失するに至つてゐると言へる。
また、通貨發行權に關して言へば、帝國憲法では明記されてゐないが、通貨發行權は、性質上當然に國家に歸屬する。ちなみに、帝國憲法制定前の明治十五年の日本銀行條例は、帝國憲法第七十六條第一項により、帝國憲法に矛盾しない法令として遵由の效力があることからして、國家の通貨發行權を日本銀行に付與することは、これによつて國家固有の通貨發行權(政府券發行)が否定されない限り合憲であるといふことになる。そして、通貨發行權にする事項は、前に述べたとほり、帝國憲法第六十二條の租税法定主義による租税徴収權の規定と一體となるものであるから、明文規定はないとしても當然に憲法事項である。さうすると、日本銀行條例といふ法令は、帝國憲法施行後は、實質的な憲法となつたのである。そして、それが昭和十七年の法律によつて變更されたとしても、同じく帝國憲法第七十六條第一項に基づいて同法律は有效となるのである。
ところで、大東亞戰爭の敗戰によるGHQの軍事占領下で日本國憲法と稱する占領憲法が制定されたが、その實質的な草案となつたマッカーサー草案の第七十六條には、「租税ヲ徴シ金錢ヲ借入レ資金ヲ使用シ竝ニ硬貨及通貨ヲ發行シ及其ノ價格ヲ規整スル權限ハ國會ヲ通シテ行使セラルヘシ」として、租税徴収權と通貨發行權を一體として規定してゐた。しかし、最終的に占領憲法では通貨發行權の條項は削除された。マッカーサー草案における通貨發行權の規定は、前に述べたアメリカ合衆國連邦憲法の第一章第八條第五項の「合衆國議會は貨幣發行權、貨幣價値決定權ならびに外國貨幣の價値決定權を有する。」に由來するものである。それが削除されるに至る詳細な經緯は明らかではないが、GHQ内部に居たFRBの手先が削除させたとすることは容易に推測しうることなのである。
交換經濟と通貨制度
このやうに、通貨發行權の爭奪を巡る攻防の歴史は熾烈なものであつて、これは決して過去の問題ではない。現在もなほ續いてゐる問題である。そして、將來に向けてこの問題に真摯に取り組むためには、通貨發行權は一體どのやうな經緯で登場してきたのかについて、通貨の歴史をさらに鳥瞰しておく必要がある。
そもそも、財の直接交換としての物々交換經濟から貨幣を媒介とする間接交換の貨幣經濟へと進展したことに關して、これまでイギリスでの通貨論爭や貨幣數量説、通貨供給量など通貨にするいくつかの考察がなされ、ほとんどの經濟學者によつて、通貨が存在することを當然の前提とする理論が構築されてきたものの、これらはいづれも通貨發行權の歸屬とその根據、通貨發行總量の決定要因などに關する問題を論じたものではなかつた。
そこで考察するに、物々交換經濟とは、二者間で相互に所有する財(物質的な財(goods)のうち、債權、證券などの物質的な財への權利を除いた實物としての經濟財であり、負の財(bads)を含まないもの)を等價で直接交換する取引經濟のことである。そして、ここで言ふ財とは、物質的、精神的欲望を滿たす事物のことを言ふ。
また、貨幣經濟(商品經濟)とは、貨幣を媒介として市場などで財(商品など)と貨幣を等價で交換する取引經濟のことであり、そこで交換取得した貨幣により、さらに他の財(商品など)を取得する形態であることから、直接交換の物々交換と比べて、財(商品など)の間接交換の形態と認識されてゐる。
ところが、物々交換は、歴史的に廣く實在した形態といふより、貨幣經濟による商品交換の特徴を理解するための理論的モデルであるとし、直接交換の物々交換と貨幣を媒介とする間接交換である商品交換とは根本的に異なるとする見解がある。はたしてさうなのか。
このことを考へるについては、次の事實に着目する必要がある。それは、商品自體が貨幣として用ゐられた「商品貨幣」(物品貨幣、貨物貨幣、實物貨幣、commodity money)が流通した時代が物々交換經濟と貨幣經濟との間に歴史的に存在したといふ事實である。これは、貨幣經濟が未發達な時代にみられたもので、それ自身が商品であり、その素材價値と同時に、貨幣としての價値を持つてゐるものが用ゐられた。使用價値と交換價値の双方を備へてゐたのである。これには、社會の歴史的、社會的事情によつてその商品貨幣とされた商品も様々なものがある。石塊、貝殻、布、皮革、家畜、穀物などであり、最近では、冷戰構造崩壞直後のモスクワで、ルーブルよりもアメリカ製の紙卷きタバコ「マールボロ」(Marlboro)が通貨の代用(商品貨幣)とされたことがあつた。
そして、この商品貨幣が金(gold)や銀の貴金屬に變はり、重商主義(mercantilism)がこれを支へた。金銀の保有を增やすことが國家の利益(富)であり、それが貿易の目標であるとするのが重商主義である。これに對して、アダム・スミスは、「富」とは、金銀の蓄へではなく、人々が消費する食料や生活必需品が多く生産されることであるとして重商主義政策を批判した。しかし、この重商主義競爭によつて各國に蓄へられた金銀が初めての世界通貨となつたのである。そして、ここから、銀本位制、金本位制が生まれ、金銀を素材とする金貨、銀貨の本位通貨が流通することになつた。十九世紀以降では金(gold)が世界的に本位財としての地位を獲得し、この金屬通貨(金貨)が金本位制による兌換紙幣に代置された。商品通貨と異なるのは、兌換紙幣には、それ自體に使用價値がないことである。
その後は、兌換紙幣のうち、國際間決濟に廣く用ゐられる基軸通貨(國際通貨)として、ポンド(pound)がその地位に就いたが、二十世紀になるとその地位をドル(dollar)に奪はれた。
ところが、ドルを唯一の金兌換通貨としたブレトン・ウッズ體制が崩壞し、管理通貨制度へと移行し、外國為替についても固定相場制から變動相場制へと變遷した。それでもドルが基軸通貨であり續けるのは、アメリカの強大な軍事力とFRBの財力、そして、その結果、ドル以上に實質的な國際通貨である「原油」といふ商品通貨の決濟通貨がドルであることによるものである。
しかし、金本位制を捨てたことは、金(gold)がこれまでと同じやうに商品通貨の地位に轉落したことだけではなく、「本位制」そのものを捨てたことに重大な意味があることに注視しなければならない。つまり、管理通貨制度といふのは、「無本位制」のことなのである。ところが、世界は、金兌換が不能となつても、これまで通りの習性により、無本位制通貨の價値を信じる「パブロフの犬」となつて、ドルを見ればよだれを流し續けてゐる。
このやうに、物々交換から商品貨幣へ、そして金屬通貨から兌換紙幣へ、さらに、本位制から無本位制(管理通貨制度)へ、固定相場制から變動相場制へと目まぐるしく通貨制度は變遷したものの、商品價値を實體的(實物的)に表象したモノが貨幣經濟における貨幣(通貨)として連續的に認識されてきたものであつて、そこには何らの斷絶もない。從つて、直接交換と間接交換とは根本的に異質であるとする見解には與し得えないことになる。
通貨發行權の本質
このやうなことを前提とした上で、では、どのやうな根據によつて通貨發行權は、國家ないしは國家の指定する中央銀行が獨占することになつたのか、といふことについて考へてみたい。
そもそも、通貨發行權を國家が獨占するまでは、誰が理論的意味において通貨發行權を持つてゐたことになるのか。そして、それがどのやうな理由によつて國家又は第三者が取得することになつたのか。あるいは、國家が獨自の理由と根據によつて通貨發行權を始原的に取得したといふのか。
ところが、これらの疑問についても、經濟學のみならず全ての學問分野において理論的に議論されたことはなかつた。
思ふに、このやうな財(商品など)と媒介貨幣との關係は、形影相伴ふかの如く、物(財)に陽が當たれば(流通すれば)陰(貨幣)ができる様子と同じである。これが商品貨幣の場合は全く問題なかつた。商品貨幣は、價値實體のある商品自體の價値があつたことから物々交換の延長線上で説明ができたからである。
しかし、價値實體のない媒介貨幣を商品交換の媒介とする場合には、その關係の認識が外觀上は希薄になつてくるが、この關係が維持されない限り、商品經濟の根底が揺らいでしまふのである。
つまり、厳密に言へば、貨幣は、財(商品など)との關係で、財(商品など)の存在を原因として認められる有因の有價證券(有因證券)であり、無因證券である約束手形などとは異なる。いはば、貨物引換證や船荷證券と同様の有因的性質のものと言へる。つまり、個別の財の價値に個別的に對應する有因的爲替手形の性質に類似したものとして、貨幣を個別的に觀察すれば觀念的に認識しうる譯である。
では、その個別觀察による貨幣(個別的貨幣)の振出人(發行者)は誰か。それは、取引當事者だけの關係で言へば、個別的貨幣の發行者はその商品の所有權を取得する買主である。そして、賣主である元所有者は、その受取人として、買主が個別的貨幣に表象されてゐる價値相當の別の商品を將來おいて取得することを保證した個別的貨幣の交付を受ける。ところが、見も知らない買主が發行した個別的貨幣には信用がない。また、取引ごとに個別的貨幣が發行されることの煩雑さと取引障害もある。そこで、それを回避して貨幣經濟を推進させるために、國家は國民に向けて、統一的な均質の貨幣を發行して、その貨幣に表象された價値があることを保證することになる。
しかし、個別的な財に對應する個別的貨幣を取引毎に發行するのは現實的には不可能であるから、個別的對應から總額的對應をした貨幣(全體的貨幣)を發行することになる。それは、國内に存在する流通財の價値總額に對應する貨幣總量を一齊に發行することになる。その全體的貨幣の貨幣總量は個別的貨幣の總和に等しいのである。
このやうにして、國民は、商品と交換する際に必要な通貨を發行する權限を國家に委譲することになるのである。
國家に通貨發行權が委譲されることにより、貨幣は、法的な強制通用力を有する「通貨」(法貨)となる。通貨が商品價値を表象し化體するものであれば、それは單に法的な強制があればよいのではなく、財の實物價値と等價的な對應關係が維持されてゐるとする國民の信賴を得なければならない。
そして、その信賴の根底には、取引ごとの個別的貨幣が通貨として認識できる根據としての論理が存在しなければならない。それは、個別的貨幣が個別的通貨への轉化する消息を手形に擬へて説明できるといふことである。手形には、爲替手形や約束手形の二種があるが、それが登場してきた順序は、貨幣(法貨でないもの)と通貨の始まりから相當に遲い。登場した順序を時系列で並べれば、貨幣、通貨、爲替手形、約束手形の順である。ところが、この時系列とは異なり、貨幣のしくみに相當するのが約束手形のしくみであり、通貨のしくみに相當するのが爲替手形のしくみであることが解る。
爲替手形とは、發行者(振出人)が第三者(支払人)宛に一定の金額を受取人又はその指図人(被裏書人)に支払ふことを委託した有價證券である。これに對し、約束手形は、爲替手形の支払人が存在せず、振出人自らが支払することを約束をしたものである點に相違がある。
さうすると、前にも觸れたが、取引當事者間だけに限定した考察では、個別的貨幣は、約束手形と同樣に、買主が振出人(貨幣發行權者)であり賣主が受取人となる。ところが、ここに國家が介入してくるとなると、國家は爲替手形の引受人の地位に置かれて個別的通貨となる。約束手形から国家が引受人となる爲替手へと轉換するのである。そして、通貨であることから、振出人も受取人も無記名となり、國家(引受人)と受取人及びその承繼人である所持人だけの關係となる。このやうにして、個別的貨幣が個別的通貨になる。個別的通貨では、個別的な價値しか表象しないが、國家が個別的通貨を超えて、その總和である通貨總量を全體的に引受することによつて、個別的貨幣に對應する個別的通貨から全體に對應する全體的通貨となる。つまり、これによつて、通貨發行權を委譲された國家が發行する貨幣總量は、引受總量すなわち實物財(商品など)の價値總量と等價的に對應しなければならない制約が生まれることになるのである。
財の種類と分類
通貨が財(goods)の交換手段であれば、財の價値と通貨とは個別的に對應するものである。それがそれぞれの總量として對應するとなると、財が生産された後に使用されて消費され、その價値が減少・消滅するといふ運命も共にすることになる。全ての財の價値に永續性があるのであれば、通貨もまた永續性がある。しかし、財には永續性がない。個別的には存續性に時間的な差異はあつても、永續性がないことは確かである。財の總量において、消費による消滅、使用による減耗(減價償却)、汚損などの減價事由と、新たに財が生産されることなどによる增價事由を考慮して、通貨の總量も增減して決定されることになる。
ここで言ふ財(goods)とは、人間の物質的又は精神的な欲求を滿たす事物のことを指すが、このうち、通貨の使用が必要となる流通豫定の財のことを「流通財」と呼ぶことにする。ただし、流通財は、實體を備へる物質的な實物財と知的財産權及び労務(商品原價としての労働とそれ自體が商品となるサービス)に限られ、一般債權、證券などの金融商品及び金融派生商品などは含まない。
なぜならば、流通財は、後に述べるとほり、通貨發行權に基づいて發行される通貨總量に對應するもので、その範囲が極めて重要になるからである。それゆゑ、流通財から除外される財について、以下にもう少し具體的に檢討してみる必要がある。
財には多くの種類があり、その分類も多樣である。會計學における資産の概念とは類似するも一致はしない。二分法による分類によつても、流通財と非流通財の區別の他に、價値が減耗して減價償却される性質があるか否かによる償却財と非償却財の區別、消費に向けられた性質を有するか否かによる消費財と非消費財の區別もある。また、本稿で述べてゐる「家産」(自給用財産、住宅、生活必需品など)と「非家産」の區別もある。
ここで、重要な點は、家族の財産(家族財産)には、家産とそれ以外の財産(一般家族財産)とがある。そして、家族財産のうちから家産に組み入れて家産としての目的と機能を備へれば家産になり、それ以外の流通財は非家産であることである。つまり、家産となつたものは流通財から非流通財に轉化する。たとへば、食料は、商品として流通するときは非家産(流通財)であるが、家族が取得して消費する段階や、これを將來や危機に備へて備蓄した物は家産(非流通財)と認識されるのである。この區別は、後に述べるとほり、國富本位制の基礎となる國富總量の計算に際して、また、家産の課税免除や優遇税制などの適用に際して必要な區分である。
この家産は、家族の財産であるのが原則であるが、企業にも家産がある。企業とは、經濟活動を行ふ經濟主體(economic unit)のことであり、自家消費を越える商品の生産活動を行ふ組織のことである。組織形態や規模は問はない。事業活動に必要な企業の流通財は、すべて家産となる。
消費活動を主とする經濟主體を家計と呼稱するとすると、家産で生活を營む家族は、自家消費の限度で生産活動を行ひ、不足する商品を取得して消費する經濟主體であるから、家計とは少し異なる。家族は、家計だけでなく生産者としての側面を持つてゐる。生産能力が備はれば、企業としても活動しうる。生産農家などがその例であつて、自家消費を越える農業生産活動を行つてゐるからである。家産を活用して自家消費に必要なものを自家生産して、完全自給ができることになれば、その家族は、流通財の貨幣經濟から完全に卒業できることになる。
財の中には、公共財産や家産などのやうに、流通を豫定してゐないものや流通させることが不可能な非流通財も存在する。このやうなものは、使用價値はあつても交換價値を認識できず、流通に必要な通貨の使用を豫定しない。それゆゑ、理念的には國富に含まれるとしても、通貨取引の對象とならないために、後に述べるとほり、國富本位制の基礎となる國富の總量には含めないことになる。
また、流通財は、現實において常に對價を以て交換されるとは限らない。實際に對価を以て交換されたか否かは問題ではない。ある理由によつて無償贈與された流通財であつても、そもそも交換される可能性があつたものであり、また、それを無償で取得した者がさらに對價を以て交換する可能性もあるからである。つまり、流通する可能性があるものは、流通財なのである。
そして、この流通財にもいろいろな種類があるが、土地や建設假勘定のやうな非償却資産(非償却財)を除けば、すべて償却財である。償却財とは、使用價値があり耐用年數のある流通財が經年變化や、使用による減耗や汚損などによつて減價したり、消費によつて價値が減少又は滅失するものである。これは、會計學及び税法上の減價償却資産(depreciable assets)に類似する概念であるが、全く同じではない。つまり、償却財とは、土地などの非償却財を除いたすべての流通財のことである。
次に、一般債權や金融商品などの廣義の債權についてであるが、これらはそもそも實物財と對應してゐない。債權は、一定の給付を求める權利であるから、實物財の他に、この種の金融商品(financial instrument)や金融派生商品(デリバティブ、derivative financial instruments)までも通貨發行權の基礎となる流通財として認めると、さらにその金融商品を取得する權利、さらにまたその權利を取得する權利といふやうに、際限なく財が生まれることになる。さうすると、一個の實物に對して、二重三重と次々に無限級數的に擴大して多重的に名目上の價値が重複加算されることになる。
また、債權は、常に債務と對向するものであつて、國家を全體として觀察する會計學的な認識では内部取引(internal transaction)に過ぎず、假に、流通財と認識しても、債務といふ負の財と正の財である流通財が相殺されてしまふものであつて、流通財として認識できない。
また、労務についてであるが、これには、商品などの製造原價となる労働と、商品それ自體であるサービスとがある。労務は、原則として提供と同時に消滅する性質のものである。しかし、個別的に見れば、會計學上の繰延資産(deferred assets)や前拂費用(prepaid expenses)と認識できるものもある。
さらに、人の労働やサービスは、將來に亘つて繼續して供給されるために國家が永續するものであることからして、永續的な労務の總體を基本權として、資産として計上することも可能である。しかし、それは永續性を前提とすれば無限大の價値があることになり、その通貨總量もまた無限大となつてしまふので、計上するには不適格である。そこで、年度末において、次期に提供されうる労務一年分の總量を棚卸資産(inventories)として計上することになる。これは、永續する無限大の労務の總量(基本權)の一部である支分權として認識することができるからである。それゆゑ、労務價値の年度毎の總額は、通貨發行權の基礎となる流通財として認識することになるのである。
國富本位制の提唱
このやうに考へてくると、貨幣總量は、國民經濟において流通しうる財の價値總量に對應することになる。この流通財の價値總量は、一定時期(決算期末)における流通財の殘高といふことになる。これは、フロー(flow)とストック(stock)の區別としてはストックであり、損益計算書(profit and loss statement P/L)と貸借對照表(balance sheet B/S)の會計學的區分からすると、B/S勘定(accounts)なのである。フロー(P/L勘定)は一定期間の變動を測定する動的觀察であるのに對し、ストック(B/S勘定)は一定時點の存在(殘高)を測定する静的觀察である。
社會全體の總需要價格と總供給價格とが恒常的に一致するとのワルラスの法則(Walras’ Law)や、年間に生み出された付加價値の總量を示す國民總生産(Gross National Product GNP)や國内總生産(Gross Domestic Product GDP)について、生産と分配と支出の各視點からそれぞれ測定しても一致するとする三面等價の原則(principle of equivalent of three aspects)などは、すべてがフロー(P/L勘定)の視點であるから、理論を構築する手法に矛盾はない。
しかし、これまでの經濟學が貨幣數量について論ずるとき、ストック(B/S勘定)の領域として認識すべきものをフロー(P/L勘定)の領域で論じたり、これらを混在させて論じてきたといふ、初歩的で致命的な誤りを犯してきた。
たとへば、物價水準は、流通貨幣量によつて決定するといふ貨幣數量説(quantity theory of money)や、ハイパワードマネー(high-powered money)の增加が何倍のマネーサプライ(通貨供給量、money supply)の增加となつてゐるか、その倍数である貨幣乘数(money multiplier)の理論によると、T(財の取引總量)、P(物價水準)、M(流通貨幣量、貨幣需要、通貨供給量)、V(流通速度)、Y(實質所得)、k(比例定數)、H(ハイパワードマネー)、C(現金)、D(預金)、R(準備預金)との關係を
① PT=MV
② M=kPY
③ H=C+R
④ M=C+D
と假定するが、このやうな假定が現實に成立してゐるかには大きな疑問がある。k(Marshallian k)が定數であるとの證明はされてゐない。つまり、MがPとYの關數であるとしても、それ以外にMに影響を與へる變數がないことが證明されてゐないからである。その證明がない限り、これを定数とする根據はない。現實においてもkが定數でないことは明らかになつてゐる。
さらに、H、C、D、Rはストックであるが、それ以外はすべてフローであるし、Mはフロー(②)とストック(④)の双方の意味で用ゐてゐる。
速さの數値(フロー)と重さの數値(ストック)とは關連しないし、その數値比較に全く意味がないのと同じやうに、フロー(P/L勘定)とストック(B/S勘定)の數値の間に直接的な關連性はない。ストックの財を表象する通貨をフローで認識することの前提が誤つてゐる。通貨をフローの視點で認識するとしても、まづは通貨をストックで認識した上で、それがフローの視點からの觀測結果とどのやうな關連性があるかといふことを考察するのが順序である。
それゆゑ、このやうな誤つた前提と手法で觀測することは、「當たるも八卦、當たらぬも八卦」の世界なのである。經濟學者や經濟評論家などの經濟動向豫測がいつも外れるのは、彼らがその世界の住人だからである。
そのために、合成の誤謬(fallacy of composition)とか、流動性の罠(liquidity trap)、「貨幣錯覺」(money illusion)などいふ、「理論通りにはならない理論」を編み出し、擬似科學へと堕落したのである。
ストック(B/S勘定)の領域である通貨總量の認識に關して、金本位制、銀本位制の時代までは、ストックの視點に立つてゐた。金銀の保有量といふストックの視點だつたのである。ところが、管理通貨制(無本位制)に移行すると、いきなりフロー(P/L勘定)の視點に變更してしまつた。管理通貨制でも、原則として發行限度を決めたのであれば、ストックの視點は維持しなければならない。ところが、前述のとほり、實質的には發行限度を設けなくなり、青天井になつた途端に、通貨に關して專らフローで測定することにした。どのやうな理由によるものか、何の説明もないが、この程度でも素人を騙せるといふことである。
しかし、これは、學問の自殺行爲であつて、そのやうにしてまで誤魔化さないとドル體制を維持できないといふことである。
やはり、經濟を健全にするためには、通貨についてはストックの視點を物差しに使ふ「本位制」によるべきである。ところが、金本位制などはストック視點ではあつたが、金(gold)の價値總量と國富(national wealth)の價値總量とは一致しない。ここで言ふ國富とは、國家の保有する流通財の價値總量であるから、國家の金(gold)保有量は國富の一部を構成するに過ぎないので、常に、
國富>金(gold)
の不等式となる。金本位制が崩壞した原因は、結局のところ、絶對に克服できないこの不等式のためであつた。
ところで、通貨を保持してゐることは、自己が欲するものが見當たるかは解らないが、どこかにこの通貨と交換できる何かしらの流通財が存在してゐるといふ信賴がなければならない。これが通貨制度を維持するについて必要なことである。その信賴を維持するためには、もう一度アダム・スミスの「國富」の意味を思ひ出せばよい。金銀を保有することが國益ではなく、人々の生活に必要となる豐かな流通財が存在することなのである。つまり、國家の保有する流通財の價値總量である「國富」が、貨幣總量を決定づける本位でなければならないのである。
この國富本位制(national wealth standard system)を實現するためには、政府の外に存在する中央銀行に委ねられてきた通貨發行權を國家が取り戻すことから始めなければならない。シンガポールや香港のやうに、通貨發行權が政府にあつて中央銀行にはない國家や地域もあるが、殆どの國家はFRBや日本銀行などのやうに政府の外にある中央銀行が通貨發行權を持つてゐる。そこで、中央銀行から國家へと通貨發行權を返還させ、中央銀行の一般銀行化、公的清算、政府への吸収合併などの措置を講ずることが必要となつてくる。過渡的には、子會社化による連結決算處理が必要となる。
そして、最終的には、銀行券(日銀券)と政府紙幣(国内通貨)とを一對一の交換比率で等價交換する措置がとられることになる。等價交換される理由は、經濟的混亂を回避するためでもあるが、これにはもつと深い意味がある。
國富本位制といふのは、國富の價値總量を發行する通貨總量と同等にすることが基本であることは、これまで述べてきた。
ところが、財の價値を評價するとしても、それには絶對的基準がなく、他の財との交換比率を相對的に決定して決めることになる。個々の財には、絶對的な不動の價値といふものはない。常に、他の財との交換比率によつて相對的に價値が決まるのである。そして、その交換比率によつてそれぞれの價値が相對的に決定したときに用ゐられる価値單位が通貨であつて、通貨それ自體に獨自の價値が設定されて一人歩きするものではない。
試合競技(match)における審判員(referee)は、試合競技の判定をする立場であつて、試合競技自體には決して參加しないし、參加しては試合競技は成り立たない。通貨が流通財の交換經濟といふ試合競技に加はつたことは、審判員が試合競技に參加することと同じことであり、これによつて貨幣經濟の自己矛盾が起こつたのである。
從つて、流通財の價値總額を評價するときは、形式的な價値尺度(通貨單位)を設定し、その單位を物差しとして、膨大な種類の流通財の相對比較を網状的(network)に均衡させて名目的な價値が決定されるのである。
流通財を鏡に映した姿が通貨であるから、流通財が全體として大きくなれば通貨の單位も大きく映る。小さくなれば小さく映るのである。同じ速度で併走してゐる二台の車に乘つてゐる観測者(國民)からすれば、二台の車(流通財と通貨)の相對速度は零(zero)となり、止まつて見えるのである。
それゆゑ、通貨量をその都度數量調整などする必要がないといふ亂暴な議論も出てくる。それは、現在發行されてゐる通貨總量はそのままにして、その單位を流通財の價値總量と同じになるやうに、年度ごとの變動比率で通貨單位を切り上げ、切り下げすることで足りる。つまり、流通してゐる通貨の單位を比率換算で讀替へて修正して使用すればよいことになる。發行通貨の單位で測定すれば、流通財の名目的な價値總額が九十(90)であり、その時點での發行通貨の總合計が百(100)であるとすれば、發行通貨の單位を一割(10%)切り下げればよい。たとへば、一萬圓札を九千圓に換算して流通させればよいといふことである。
しかし、このやうなことは、國民にとつて大きな負擔を強いることになり、周知されないところで經濟的混亂が生じるし、そして何よりも繁雜である。そこで、銀行券から政府紙幣へ切り替へする初年度において、價値水準(物價水準)を基準として價値尺度を固定し、今後の變動率修正で通貨制度を運用して行くことなるのである。
さうすると、發行切替の初年度における等價交換による通貨切替措置よつて、銀行券と政府紙幣との發行數量に差異が生ずることが想定されるので、その交換よる差益又は差損は、國家の貸借對照表上に反映されることになる。中央銀行の清算時の非常貸借對照表と国家の貸借對照表その他の財務諸表及び財務諸表付属明細書(schedule)などにより、財務内容の開示(disclosure)された段階で判斷されるが、最終的には、合併ないしは清算よる差益又は差損と連結させて處理がなされることなる。もし、大きな差損が生じたときは、後に述べるとほり、支分徴税權を相手勘定として處理されることなる。
このやうに、國富本位制は、單に通貨制度の改革だけにとどまらず、後に述べるとほり、これまでの政治制度、經濟制度、法制度などの大轉換を迫るものである。この大轉換を行ふことの困難と苦労は確かにある。しかし、それは、現在の經濟制度機構の矛盾を小手先の彌縫策を講じて修正し續けても、將來の展望が開けずに、賽の河原での石積みのやうな苦勞をし續けなければならないことと比較すると、取るに足らないものである。
現在の經濟制度機構は、原子力發電所のやうな、巨大で複雜な機械装置に似てゐる。周期的又は突發的に常に必ずどこかで綻びが生じ、それが慢性化しながら惡化させて、經濟制度機構の根幹を揺るがす大事故を起こし、世界の人々を混亂させ、平和と秩序を破壞する原因ともなりうるからである。
このやうな現在の經濟制度機構は、到底長続きしない。一刻早く解體して退場させなければならないが、これに代はる制度は單純かつ簡素で、誰もが理解できる堅實なものでなければならない。現在のやうに、專門家と稱する一握りの者が、自分でも説明できないやうな專門的で譯の解らない言葉(ジャーゴン、jargon)を使つて經濟を語り、一般の人が付いて行けないものであつてはならない。
普遍性のある制度理論は、常に單純なものでなければならず、それに基づく具體的な制度は簡素なものでなければならない。財(流通財)と貨(通貨)を均衡させる「財貨均衡原則」に基づいて、國富を本位とする「國富本位制」を實現こそが我が國だけに留まらず世界各國で採用されるべき唯一の通貨制度であるとする理由はここにある。
國富本位制の國内系と國際系
この國富本位制は、世界各國家が國内系における通貨制度として採用されるべきものであるが、國際系の貿易取引と外國爲替取引において、これをそのまま採用することはできない。
それは、「法の論理」が適用される國内系と「力の論理」が適用される國際系との相違に根差すものであるが、そもそも、世界政府が成立してゐない状況では、各國と世界とが完全なフラクタル構造になつてゐないためでもある。世界政府が成立して初めて、世界國家の國富本位制が完成することになるだらう。
しかし、それは實現する可能性が極めて低い。そのためも、この現状を踏まへて、國際系における通貨制度と外國爲替制度について最適な制度を考案しなければならないのである。
ドルが基軸通貨として流通してゐるものの、國際流動性のジレンマ(international liquidity dilemma)により、ドルの流通が促進されることによる信賴の向上と、それによつて價値の低下を招くことによる不安定化が逆に信賴を低下させるといふジレンマを將來において解消できる目途がない。
平成二十一年三月二十三日に發表された「國際通貨體制改革に關する考察」といふ論文の中で、中國中央銀行總裁・周小川は、特定の國の通貨であるドルが「準備通貨」(基軸通貨)の役割を兼ねる國際通貨體制には限界があるので、ドルに代へてIMF(國際通貨基金)の特別引出權(Special Drawing Rights SDR)を準備通貨にすべきだと主張した。つまり、ケインズ案(バンコール案)に返るべしと發言したのである。ケインズがアメリカ一極支配に挑んだ新制度案を引き合ひに出したのは、ケインズと同じ思ひを共有してゐるためであらう。そして、世界における安定した統一通貨制度が必要であると感じるくらいに、現行の國際通貨制度に強い危機感と問題意識が世界の隅々で湧き上がつてゐることだけは確かである。
これらを解決するための方法として、まづ結論を言へば、各國が貿易取引及び外國爲替取引においてのみ金本位制(金塊本位制)を採用し、各國が國際取引に限定した金兌換通貨(貿易通貨)を發行することである。
バンコールのやうな人工貨幣單位(世界通貨)を創設するとなると、世界の中央銀行を設けて、それに通貨發行權を委ねることとなるので、現状ではそれは不可能である。世界政府がないままにそれを實施するとなると、國際的な力関係によつて、FRBなどの歐米銀行家連合體が再統合した組織が編成され、それに牛耳られることなつて、結局は元の黙阿彌になつてしまふことが必至である。
これを回避するためにも、統一した國際通貨でなく、國際基準による各國の金兌換通貨(貿易通貨)で足りる。各國がそれぞれ自國の通貨發行權に基づいて國際基準を滿たした金兌換通貨を發行すれば、他國のそれと均一同價値のものとなるから、各國の貿易通貨が均一同價値で流通することになるので、すべてが國際通貨になるのである。
また、金塊(金地金)の現物取引でも取引は可能ではあるが、取引に用ゐられる現物の金塊について、その重量、體積、比重、純度などの檢査や金塊製造者の信用性の調査などを取引毎に逐次實施する作業が必要となる。迅速性に缺き、運搬、保管などのリスク負擔も大きい。そのために、どうしても金兌換券によることなるのである。
この金本位制は、リカードが提唱した金核本位制の一種である金塊本位制(金地金本位制、gold bullion standard system)であり、金爲替本位制(gold exchange standard system)ではない。この金塊本位制は、イギリスにおいて一九二五年から一九三一年まで採用されてゐたことがあるものである。
ただし、その金兌換通貨である國外通貨(貿易通貨)の發行總量は、各國(政府と民間)がそれぞれ保有する金塊(金地金)量と同じでなければならない。また、これは金額が表示されるのではなく、金の重量が表示された金券(金塊引換券)である。そして、各國の貿易通貨も、金の重量表示であるから、各國の貿易通貨は均質かつ同價値である。この金本位制は、まさに金塊本位制であり、國内における國富本位制の通貨(國内通貨)と同じ趣旨による通貨發行額の制限を受けるのである。これは、國富本位制の一種である。しかし、國富の總量が國内通貨の總量を決定するのではなく、國富の一部である金塊(金地金)の保有總量が貿易通貨の總量を決めるといふ金塊本位制である。
そのために、國内通貨發行の基準となる國富からは、金塊の總量(政府と民間の保有總量)を除外し、金塊とそれ以外の國富とを通貨制度の上で棲み分けさせることになる。
金塊は商品(商品通貨)であるから、國富本位制による國内通貨と金塊本位制による國外通貨(貿易通貨)又は金塊自體との交換取引、あるいは、外國の貿易通貨と國内の貿易通貨又は國内通貨との交換取引が想定されるから、政府としてはその取引市場(金塊市場)を開設し、あるいは私的に取引される場合には取引當事者に届出義務を課して取引量の詳細を報告させ、金塊總量の變化を把握しなければならない。この金塊市場に參加できるのは、金塊保有者及び貿易通貨保有者であり、主として貿易業者になるから、輸出入の貿易収支はここでなされることになる。
輸出の場合は、流通財が國外に移轉するので、國内的に見れば消費されたことになり、國内通貨總量を減少させる原因になるが、その對價として、自國又は他國の貿易通貨を取得し、これが金兌換通貨であることから金塊(流通財)の取得と同視できる。これに對し、輸入の場合は、その逆の關係になる。
それぞれの增減の變化は、最終的には金塊市場での貿易収支によつて確定するが、その結果において、輸出超過の場合は、金塊以外の流通財が減少し、金塊が增加するので、それに對應する國内通貨量が貿易通貨量へと振り替へられる。また、輸入超過の場合はその逆の處理がなされる。
しかし、各國政府としては、財政的措置などにより、貿易収支によつて變動する貿易通貨量を安定的に管理することが政策的に要請される。それは、貿易通貨量を急激かつ大幅に增減させることは、それが心理的に影響して著しい信用収縮や信用過熱を來すことになる恐れがあるからである。
そして、このやうな通貨制度を導入する前提として絶對に必要なことは、金塊市場における爲替取引、交換取引では貿易決濟に限定し、金融資本は絶對に參加させてはならないことである。後で詳しく述べるが、「お金がお金を生む」といふ制度は、國富本位制に反するので、全世界から駆逐せねばならないからである。
また、前に述べたが、基幹物資の自給率を高めるために「貿易をなくするための貿易」といふ方向貿易理論によつて貿易自體が縮小に向かふので、各國が保有しなければならない金塊總量を大きく增やさなければならない必要はなくなるのである。
ところで、各國が、國外においても本位制を採用する必要があるとしても、その本位財を金塊にする必要があるのか、金塊以外に本位財とするものがありうるのではないか、との疑問がある。
しかし、いまのところ金塊を本位財とするには理由がある。まづ、金本位制よりも長い歴史を持つ銀本位制について言へば、銀は金に比べると、これまでからして供給量や價格の變動が激しいことがあつたことから、今後も同樣の事態が起こると豫測されるので本位財としての安定性はなく不適格と思はれる。
また、原油は、現實には世界の商品通貨として、實質的に原油本位制(crude oil standard system)として流通してゐるが、この原油を本位財として正式に價値尺度にすることにも問題がある。國際石油資本と、これに對抗して結成されたOPEC(Organization of Petroleum Exporting Countries)との均衡繼續に不安があり、産油國と非産油國とが偏在してゐる現状では公正公平な價値基準としては不適切だからである。また、原油は採掘生産開始までのイニシャルコスト(初期經費、初期投資、initial cost)は膨大であるが、この事業は送電事業と同樣に費用逓減産業であることから、その後における生産調整による價格操作や金融資本の介入が必然的に起こりうる可能性が高いからである。
なほ、我が國からすれば、籾米は、生活必需品である食糧として備蓄に最も適したもので、流通財の中でも富の蓄積を實現できる最高のものである。我が國は、これまで米(コメ)本位制(rice standard system)の時代があつた實績があり、これが國の内外において新たな商品通貨となる大きな可能性がある。籾米の保管方法は比較的簡單で、玄米、精米と比較しても、長期に亘つて劣化せずに保管ができるものだからである。今からでも、籾米本位制(米本位制)が世界的に併用的でも採用されれば、我が國を初めとする米生産國の地位が向上し、原油本位制との均衡が保たれることになる。
このやうな世界經濟に移行するためにも、外國爲替制度は、これまでの變動爲替相場制(floating exchange rate system)から固定爲替相場制(fixed exchange rate system)に復歸しなければならない。しかも、その固定爲替相場制は、過去のものと同一ではなく、年度毎に更新して變更されるものでなければならない。更新基準は、前年度比を基準として、各國の基幹物資の自給率、國富總量、國富成長率、購買力平價などの加重平均による比率の增減で修正されるものである。自給率が高くなり國内供給力が增加して内需(domestic demands)が擴大すれば、國富が增加して國力が強まるので、國力の指標である自國通貨の價値を高めることになる。そうなれば、方向貿易の實踐により、自給率を高めるために必要な外國からの生産財や知的サービスなどの提供を安く受けることができ、さらに自給率の向上につながる。また、その逆に、自給率が低くなり、國内供給力が低下すれば、輸入依存性が高くなり、國富が減少して國力が弱まるので自國通貨の價値を低くすることになる。
輸出に有利であるとして自國通貨の價値を下げることに腐心して貿易収支の黒字擴大に奔走する海外市場依存型の經濟政策は、重商主義の亡霊(新重商主義、new mercantilism)に取り憑かれてゐるためである。我が國は、貿易立國によつて富を獲得したが、今や貿易立國ではなく、技術立國、投資立國となつてゐる。そして、今度は自給力を強くして自給率を高め、完全自給國へと向かふことを國家目標とせねばならない。
ニクソン・ショックにより、固定相場制では一ドル三六〇圓であつたのが、變動相場制になつた途端に一ドル三〇八圓へと、今とは比較にならないほどの急激な圓高になつたとき、これでは輸出産業が大打撃を受けると動揺した當時の水田三喜男大藏大臣が、大變な事態になつたとして昭和天皇に奏上されたことがある。そのとき、陛下からは、圓高になるといふことは圓の價値が上がるといふことで、國民の財産や勞働の價値が高くなることではないか、とのお言葉を賜つたと仄聞する。まさに、このお言葉のとほりなのである。
利子の禁止
國富本位制から當然に導かれる論理としては、これから説明する利子(利息)の禁止である。利子(interest)とは、一定期間の貸付に對する對價のことを意味する經濟學用語であり、法律一般では利息と呼稱されるが、利子と同じ意味である。また、金利(money rate of interest)といふのは、金融市場での利子又はその利率を指すことがあるので、ここでは統一的に利子の用語を用ゐることとする。
國富本位制における貨幣總量を決定するのは、國家の保有する流通財の價値總額である。
この流通財の價値總量に對應する通貨總量は、流通財の價値總量の增減に伴つて附從的に變動しなければならない。それは、通貨が流通財の影絵のやうな媒介物であることの宿命であつて、これが國富本位制の根幹である。
ある年度末の時點における流通財の價値總量の殘高を算定する場合、この減價分が控除されたものが、將來需要に備へられた遊休資源である「在庫分」となる。そして、これが次年度に繰り越され、次年度での經濟活動によつて流通財が加算され增減する結果として、再び年度末の在庫分が決定する。その殘高の延びが國富の延びである。
さうすると、厳密に言へば、年度末における流通財の殘高評價は、當年度内に生産された流通財の付加價値の總量から減價した價値相當分を控除する棚卸計算と、それ以外の流通財について行ふ減價償却計算によつてなされることになる。
このことは、個別的通貨による認識と全體的通貨による認識の双方において、同じ結論に至る。流通財の多くは、時間的經過によつて價値の減少を生む性質の財なのである。それゆゑに、通貨だけがこれと異なる原理で運用されてならない。もし、さうなれば、通貨が流通財の交換媒介であるとする性質から大きくはみ出すことになる。通貨は、財の性質を越えることはできないし、これを越えれば通貨制度の崩壞を招く。これが「通貨の附從性」である。
また、次年度において流通財の價値總額が增加することがあるのは、新たな流通財が次年度で生産されたことによつて增加するためであつて、既存の在庫分の價値自體が增加するものではない。むしろ、減耗、劣化、消費、償却などによつて減價することはあつても增價することはない。通貨もこれと運命を共にすることになる。
さうであれば、通貨それ自體を流通財とは無關係に貸借したときの利子は禁止されなければならない。流通財を貸借したとき、經年變化による劣化は誰が使用しても發生する固定費であるが、使用による減耗や汚損は使用によつて生ずる變動費であるので、それを補填するために賃料を求めるのは當然である。賃料が歴史的に「損料」されてきた所以である。このことは建物の賃貸についても同樣である。建物は償却資産であるから、減耗や汚損に對する補填を求めることを認めうるからである。
では、不動産はどうか。不動産は非償却資産とされてゐる。不動産借地料は、農地の小作料から發展したもので、その起源は年貢(貢租)である。つまり、小作料は租税から變形したものである。農地は、そもそも収穫物を生む財であるので、農地を小作に出すことは、期待される収穫量を分與することであり、その分與請求が小作料である。明治の地租改正では、國家、地主、小作人の三者の取分比率を定め、地主が國家に納入する地租は金納、小作人が地主に支払ふ小作料は物納となつてゐた。そして、戰後になつて全て代金納制となつたやうに、地租と小作料とは一體的に取り扱はれてきた。そして、これが不動産賃貸一般における賃料として普及したものである。
ところが、財の貸借ではなく通貨の貸借の場合は、これと大きく樣相を異にする。通貨は、損料の性質でもなければ収穫量の分與の意味もない。通貨の貸主は、通貨を貸與することによりその價値が劣化することはなく、通貨を所持してゐるだけで収穫が図れる譯でもない。
個別觀察貨幣の見地においても、通貨が不動産のみに特化して對應してゐるものでもない。また、貨幣總額の見地からしても、全體的には價値減少する特徴のある流通財の性質からして、流通財と運命を共にする通貨だけを特別扱ひすることはできない。
では、利子を禁止する理由についてであるが、大きく分けて三つある。一つは歴史的理由、二つ目は理論的理由、三つ目は政策的理由である。
まづ、歴史的理由としては、キリスト教(カソリック)やイスラム教における利子の禁止の思想である。これは、お金がお金を生むことを生業にすることが社會規範を亂すとする教へである。今日的にも、金融資本主義が暴走して拜金思想を蔓延させてゐる元凶であると看破したことは先見の明と言へる。しかし、單に、道德や心構へを説いてこれを防止できるものではない。すべては利子を禁止する社會の規範認識を形成することであり、それには、以下の理論的理由と政策的理由に基づく必要がある。
では、理論的理由とは何か。それは、これまで述べてきたとほり、國富本位制から當然に導かれる論理であるといふことにある。利子を認めることは、流通財自體は全體として永續性がなく自己增殖しないのに、それを表象する通貨が自己增殖することになれば、流通財の價値總量と通貨總量の對應關係が破壞されるためである。
次は、政策的理由であるが、これは多岐に亘る。まづ、利子の禁止により、貯蓄の認識に變化を生じさせることができる。通貨を保有して貯蓄し續けるよりも、生活必需品などの流通財を備蓄する方向へと向かふことになるからである。特に、籾米の備蓄へと貯蓄性向を刺激することになる。富の認識が、通貨の貯蓄量の大きさではなく、流通財、特に生活必需品の備蓄量の大きさで實感することになる。間もなく到來する世界的に食料難に向けて、健全な危機意識を持てば、自づとその方向へ向かふ。前に述べたが、誰も享保の飢饉で百兩の大金を首からぶら下げたまま餓死した商人にはなりたくないからである。
付言するに、籾米の備蓄は、備蓄されずに流通して消費される流通米を一定に保つ調整機能を果たすことになる。豐作と凶作の變動があつても、備蓄米の量を調整することで米價を一定に保たせ、米價を物價基準にすることができるといふ利點がある。
また、利子の禁止によつて、貯蓄通貨の流動性が高まることである。通貨の流動性が高まることは、流通財の側面から言つても流動性が高まることになり、内需を擴大させることになる。内需の擴大によつて、新たな雇用を創出し、國内供給力を高めるのである。
さらに、流通財の使用價値とその效用、效率を見直することになり、大量消費、大量廢棄の生活を改善させることができる。奢侈で過剰な消費と無駄で過剰な生産を抑制することができる。これによる消費の冷え込みを批判する者が居ると思はれるが、このやうな冷え込みは、むしろ望ましいことである。つまり、過剰生産と過剰消費に支へられた經濟と、その擴大が經濟成長であるとするGDP至上主義は、資源の無駄遣ひを推し進めるものであるから、一日も早く退場させなければならないのである。
そして、利子の禁止によつて、豫定調和か「見えざる手」のやうに、自づと自給自足體制へと志向して行くことになる。そして、家産の形成を促進するとともに、人々に人生の價値觀を確立し、家族生活の將來設計を可能ならしめ、生きる希望と目標を與へることになる。
通貨保有税の創設
國富本位制を導入することと利子を禁止することとが制度的には不可分一體のものであることはこれまで述べたとほりであるが、これだけで充分であるかと言へば、決してさうではない。それは、これから述べる「通貨保有税」の創設が必要であるといふことである。この創設は、利子の禁止と一體となつて國富本位制の制度を補強することになるからである。
この通貨保有税の導入によつて政府に貫流した通貨は、通貨總量を減少的に調整する場合における「通貨消却」の對象とすることができることから、通貨總量の調整機能を發揮する點においても有用である。
ここで、通貨保有税といふのは、通貨保有者に對して、通貨を保有してゐることに對して通貨保有量に應じて課税される財産税のことである。
現金には個性がないので、これを所持することによつてその所有權が認められることが原則であるが、封金(封をして分離された特定の現金)の場合の所有權はこれを保有(保持)してゐる者ではなく、封金を寄託した者とされる。このやうな性質であることから、この租税は、實質的な所有權を論ずることなく、外形標準により保有したとする事實が認定されることによつて課税するものであることから、通貨保有税と名付けた。
そして、この課税對象者は、現金の保有者のみならず、現金と同視しうるものの保有者も含まれる。換金、拂戻、回収が容易とされてゐる流動資産の保有者であり、具體的には、預貯金等の名義人、貸金や寄託金などの債權者名義人である。
この通貨保有税の性質は、通貨發行管理事務の取扱手數料として受益者負擔の原則による租税である。經濟的機能としては、これまでの利子を債務者が債權者に支拂ふのではなく、債權者と債務者がそれぞれ政府に支拂ふことになる。債權者は貸金の債權者として、「負の利子」を政府に支拂ひ、債務者は貸金の保有者として、これまで債權者に支拂つてゐた利子を債權者に代つて政府に支拂ふといふ機能になる。それぞれが課税對象者として支拂ふことになるのである。その兩者が負擔する税額は、その通貨保有に課せられた税額を折半したものとなる。
しかし、通貨保有税は、共同事業のための出資金や通貨以外の流通財の賃貸における賃料を對象としない。共同事業による配當金等の事業所得や賃料所得に對して課税をどの程度行ふかについては、税制全體との關係で檢討すべきものであつて、ここでは檢討の對象としない。
ところで、共同事業のための出資とは、事業による利益と損失の損益割合が定められたものを言ひ、特に、損失の共同負擔がないものは、實質的には貸金と看做される。貸金か共同事業出資かは、損失が發生したとき、その共同負擔が履行されるか否かによつて判斷される。政策的には、實質的に貸金であるにもかかはらず共同事業出資であるとの假装がなされたときは、債權者と債務者に對し、貸付時から通貨保有税相當の税額と課徴金を徴収することにすれば、法令遵守を擔保させることができる。
また、通貨保有税は、外形標準課税の一種であるから、貸金を原資とする經濟活動の最終的利益の多寡とは無關係である。さらに、通貨保有の多寡は所得の多寡と正の相關關係があるため、累進税(progressive tax)の性質を持ち、消費税(consumption tax)などのやうな逆進税(regressive tax)でないため、所得の再配分機能を充分に發揮することになる。
ところで、國富本位制、利子の禁止及び通貨保有税の創設とが一體性を持つことに合理的な根據があるとしても、これまで社會に定着し人々が慣れ親しんできた、金錢を借りることの利益とその對價を求めることの意識を簡單に捨てろとするのは傲慢ではないか、との批判がありうる。
しかし、その批判は全く當たらない。人の意識は簡單には變へられないし、無理に變へさせるやうことは避けなければならないのは當然であつて、これらの制度の導入は、これに反するものではない。つまり、通貨保有税が導入されても、その意識に本質的な變化は生まれないし、むしろ、その意識が維持されることになるのである。
それは、まづ、貸主としては、そのまま保有すれば通貨保有税を負擔することになるが、貸すことによつて、その税額が半額になる利益(税負擔半減の利益)があり、その利益意識が貸主側の動機付けになる。また、借主としては、借りることにより、これまでの「正の利息」に代はつて、半額の通貨保有税を負擔することで事業資金等に活用できる利點があり、この利益意識が借主側の動機付けになる。これまで貸主に抱いてゐた負ひ目は、貸主に利子を支拂ふことによるものであつたが、それを政府に支拂ふことによつて、納税者としての自負を生み、貸主との對等關係を維持することができる利點もある。それゆゑ、當事者の利益意識の態樣が變化するだけで、利益意識を否定することにならなず、貸金取引を躊躇させたり否定することには至らないのである。
特に、金融機關としては、市井から預金を集め、半額の通貨保有税の負擔を原價として、共同事業出資をすれば、それによる利益から税額負擔分を控除した差額が粗利となる。また、共同出資できない資金については、さらに他者に貸し付けることにより、その半額の税額を軽減できる。
これまで、金融機關は、國の内外における樣々な事業を牽引させてきたが、これからは、金融だけに特化した金融活動の役割を果たす必要はない。しかも、世界の富を遍在させて所得格差を增大させてきたことの歴史に學べば、金融機關その他の金融資本が實體經濟を混亂させる金融資本として暴走してきた時代を終はらせる必要があり、そのためにも、通貨保有税の導入によつて金融專門の活動を終息させ、金融資本(貸付資本)から投資資本へと經濟活動を轉換させる必要がある。
そして、なによりも通貨保有税を導入する效用としては、これまでの通貨に對する信仰による通貨保有から、食料備蓄を中心にした流通財保有へと人々の意識を自然と根付かせることができることである。通貨保有量の大きさを豐かさとしてきた意識から、流通財保有量の大きさを豐かさであると實感する時代へと移行するのである。この意識の變革によつて、國民のすべてが、備蓄に堪える流通財を優先的に選好(preference)してその購入のために保有通貨を放出すれば、その乘數效果(multiplier effect)は甚大なものとなる。企業は、その需要に應へるために、優良な耐久財や長期の備蓄が可能な消費財などを生産する方向へと向かふ。使ひ捨て商品のやうな耐久性のないものは、消費選好から外れる。さうして、生産と消費の經濟循環が、これまでのやうな奢侈で過剰な生産と消費の循環から樣變はりし、資源の無駄使ひを止めることができるのである。
自立再生社會の諸制度
世界各國が國富本位制を採用して利子の禁止と通貨保有税を實施し、國際社會が金塊本位制と固定相場制による經濟秩序を再構築すれば、世界は、自給率を向上させる國際協調による公正な競爭社會となつて平和を實現する。
FRBを頂點とする一握りの者による國際金融支配から脱却しなければ、世界の人々の平和で豐かな生活を實現することはできない。そのためには、各國の壓倒的多數の人々の政治參加によつて、中央銀行に奪取されてきた通貨發行權を國家に取り戻させ、中央銀行と金融爲替市場を廢止させるなどの法制度を、政治の世界において實現させることが必要になる。この政治的變革によつて、必ず賭博經濟を終焉させることができるのである。
これにより、各國は、自給力を強め自給率を高めて自國の國富を大きくするために、樣々な政策を打ち出し、諸制度を整備することになる。
合理主義、個人主義から脱却して、本能主義、家族主義へと轉換し、個人が財産權の主體となる私的所有制(私産制)から、家族がその主體となる家族所有制(家産制)へと移行する。
家族は、生活必需品を自給するための自給地、自給設備などの家産を取得し、食料などの自給自足生活を目指して協同する。
掛け聲や精神論だけの家族主義ではなく、家産の協同管理によつて自づと家族の絆が深まるのである。家産制度は、家族制度の再構築と、祭祀の道の實踐にとつて不可欠な制度なのである。
家産制度については、その基底となる親族法、相續法の家族法制や相續税制の改正が必要となるが、その概要について素描してみたい。
まづ、個人所有が否定されるので、遺産相續はなくなる。相續放棄も遺産分割もなくなる。そして、家産の代表管理者(家長)制度を設けて、家長の資格要件、喪失要件、家族全員(家人全員)を管理者とする家族會議(管理會議、family council)などの詳細な規定と、分家制度と復家制度を定めることになる。
分家制度とは、家族構成の變更や家産の状況などから、大家族の一部が本家と別れて家産を營む場合の制度であり、復家制度とは、その逆に、分家した家族などが本家に復歸又は歸屬する場合の制度である。前者は會社分割、後者は合併に類似した現象である。
個人所有がなくなるので、遺産分割で紛爭が起こることはない。遺産分割により家産が自立再生機能を失つて切り賣りされることもない。戲け者(田分け者)を見ることもなくなる。
そもそも、家産であることを理解すれば個人所有に拘る必要はない。すべては「家族の自治」で解決できる。身の回りのものや個人とつて精神的な價値があるものなどについては、家族會議で協議し、終身その貸與を受け(終身貸與)、あるいは一定限度と範囲の家族所有の流通財についてその處分權を授與(限定的處分權の授與)してもらふ内容などの「家法」を定めればよい。國家と家族とはフラクタルな關係であり、國家の自治は家族の自治の雛形だからである。
物を大切にする心は、個人所有からは生まれない。すべては「授かり物」であり、自分が手にしてゐるものが御先祖のお陰によるものであつて、それが家族の財産であり、國家の財産でもあるとする意識から始まるのである。
ところで、これまでの個人所有を否定して、家族といふ法人所有に移行させる方法については、まづ、これまでの個人單位の戸籍制度を家族法人單位の戸籍制度に改編する必要がある。そもそも、戸籍といふ言葉からして、戸(家)に屬する家人(家族構成員)の名籍(名前、生年月日、續柄などの台帳)なのであるから、戸籍の元に意味に戻るだけである。ここで家人の範囲が決まる。戸籍が家族法人登記を意味し、戸籍の登載によつて家族法人は成立する。そこで、家人が所有していた積極財産、消極財産のすべてが家族法人に當然に歸屬するものとし、登記、登録の制度がある財産については、その旨の登記がなされて完了する。分家や復家も戸籍の變更によつて行はれ、家人が移動することなる。
家産は家族といふ法人の所有であり、家長の單獨所有ではないので、家長の死亡による家族の代表者の變更(家長の變更)に過ぎないので相續税が賦課されないのは當然であるが、家産を形成しない財産については相續税(家長承繼税)は賦課される。このことは企業の場合も同樣(代表者承繼税)である。ただし、家長や代表者の死亡以外の理由による變更(交替)の場合は課税されない。
企業の場合は、代表者の變更については會社法等の守備範囲であるが、企業の財産は、企業そのものの所有であるから、株主といふ不勞所得者の判斷に左右されない。企業の經營は、その就勞者が貢献度に從つて協議決定すればよく、株式制度は早晩廢止される。資本金を構成する株式は、その保有者が企業の損失補填をしない性質のものであることから、通貨保有税の對象となる貸金として評價される。株式も社債も借入金も、すべて通貨保有税の對象となる。
ところで、家族でも企業でも、家産に課税して家産を縮小させるのは、家産制度の根本を危うくするが、その他の財産(流通財)に對して、死亡による家長や代表者の承繼に際して相續税類似の家長承繼税や代表者承繼税を課税をするのは、所得の再配分の見地からである。課税される家族や企業が保有する家産以外の流通財は、家産になりうるものとさうでないものとがあり、將來において家産とする準備中のものもあるに違ひない。しかし、もし、家族財産のうち、家産以外の一般家族財産が膨大であるときは、そのやうな富が獨占されてゐることによつて他の家族の家産形成が妨げられてゐることになる。そして、これの徴税方法を物納にすれば、他の多くの家族に再分配(有償譲渡)して家産を形成する機會を與へることができる。過度な累進課税にする必要はないが、少しでも多くの家族がそれぞれの身の丈に合つた自給自足生活を實現させることが國家の理想である。すべての家族の家産形成の機會は保障され、形成された家産は保護されるべきである。
「起きて半畳、寝て一畳、天下取つても二合半」と言ふが、身の丈を越えた過大な財産を獨占することは、必ずしも家族の幸せには結びつかない。祖法に照らしても、「長者の脛(ハギ)に味噌を付ける」必要はない。「長者、富に飽かず」と言ふが、「大欲は無欲に似たり」の喩への如く、欲で身を滅ぼす家族を出すやうな社會であつてはならないのである。
財政と税務の改革も必要となる。国家の財政把握について、複式簿記が採用されてゐないのは、驚くべき怠慢である。それゆゑ、まづ、國家と中央銀行の財務處理に關して、複式簿記を早期に導入し、國家と中央銀行との正確な連結財務諸表を作成公開させて精密に檢證することが急務である。これは、政府と中央銀行の合併、中央銀行の廢止その他の方針を決定するために必要な作業となる。
そして、複式簿記が導入されるといふことは、これまでの單年度主義會計を廢止し、一般會計と特別會計を合體して、すべてを審査對象とする繼續度主義會計にすることである。これには、帝國憲法の改正が必要となる。
これにより、これまでの官僚利權の温床である特別會計にメスを入れれば、官僚利權は消滅する。そして、故意又は重大な過失で國家に損害を與へた公務員に對して、民間の場合と同じやうにその公務員に國家に對する損害賠償義務を課す特別法を制定して實施すれば、假に、それ以外の種々の改革が遲延しても、公務員制度改革は大きく前進する。さうすれば、官僚が國家を食ひ物にしてきた不正支配を一擧に壞滅させることができるのであり、財政の健全化が図られ、基礎的財政収支(primary balance)は改善し正常化に至るのである。
また、通貨制度と租税制度の一體化を圖るための豫定申告と確定申告による申告制度を創設する必要がある。これは、通貨總量を算出するための基礎資料となるのと同時に、納税手續を兼ねるからである。これまでは個人單位であつた複雜で膨大な申告制度を統一し、その申告件數は家産單位になることから、申告件數は激減し、處理の事務量も大幅に軽減される。そして、政府紙幣に通し番号を付せば、電磁的技術によつて通貨流通の追跡調査と統計資料の取得を可能とする。
次に、家族の構成員の行つた行爲は、原則として、すべて家族の行爲と看做され、すべての法律関係は、その家族(法人)に歸屬する。ただし、刑事責任などにおいて、財産的制裁(罰金、科料など)以外はその行爲者個人が負ふ。財産的制裁は、家族の代位責任となる。
そして、これまで認められてきた個人の破産と免責は存在しなくなる。また、家族(家産)の破産と免責の制度は認められない。家族は、代々に亘つて無限責任を負擔する。企業についても同樣である。それが家産制度であり、この代位責任の導入こそが、社會秩序の維持と家族の絆を強化することになる。
民度を高め、治安を維持して犯罪を防止するためには、まづは教育の改革が必要となる。家産による食料その他生活必需品を生産するための技術を習得されることが基本となる。そこから、自然の惠みと祖先の知惠と勞苦に感謝する心が養はれる。自然に接し、作物を育て、物を生み出し、知惠と努力によつて食料を得ることを經驗すれば、人間の持つ生命力と本能を鍛へることができる。さうすれば、社會の秩序を維持して自らを研鑽することの大切さが理解でき、人に必要な德目を理解して實踐することができる。
從つて、犯罪受刑者に對しても、家産形成と家産による自給の技術を訓練させて、社會復歸、家族復歸を果たさせることが重要で、これが再犯をなくし再犯率を激減させることに繋がる。刑務所は、統制のとれた優良な職業訓練所であると同時に家産形成を指導する教育機關となり、受刑者の勞働による獨立採算制を導入して運營される。單に罰則強化をしたところで、社會教育や家庭教育が荒廢してゐれば犯罪抑止にも再犯防止にもつながらないからである。
このやうにして、法制と税制の改正がなされれば、通貨の貯蓄から食料の備蓄への經濟動向が生まれ、利子の禁止と通貨保有税の導入によつて、通貨の流動性が高まつて内需が擴大する。これにより、僅かな政府支出による以上の大きな乘數效果が生まれる。政府は、家産形成の優遇措置と、家産制度による自給自足促進の法制と税制を整備するだけで、後は、家産形成と生産活動に勵む家族の活動を見守ればよいのである。
經濟成長をGDPの伸び率で測定する時代は終はつた。これまで、企業の自家消費分を機會費用(opportunity cost)としてGDPの計算に入れてゐたとしても、消費主體の家計(家族)が自家生産して自家消費することまでは參入されない。たとへば、第一次産業に分類される活動をする家族が、自らが生産し、あるいは漁獲した物などを常に自家消費するだけで、外に出荷しないときは、企業として認定されないから、その自家生産分(自家消費分)はGDPには參入されない。さうすると、このやうな自作家族が增加すればするほど、同じ經濟規模であつたとしても、GDPは低くなる。しかし、これは健全な方向なのである。これこそが經濟成長として認識されるべきなのである。
GDPの數値は、分業體制が深化すればするほど大きくなる。たとへば、自分で歩いて買ひ物をすれば濟むものを、わざわざ委託業者に依賴してタクシーを使はせて買ひ物をさせたとする。同じ物しか得られないが、業者に支拂ふ手數料とタクシー代金を拂ふことだけで時間と手間が省けるなどと怠け者の論理で分業を進めて行けば行くほどGDPは增える。つまり、委託業者に支払ふ手數料とタクシー運轉手に支払ふタクシー代金の費用が加算されてGDPが增えるのである。
また、無駄をすればするほどGDPは大きくなる。たとへば、更地に建物を建築し、それを直ぐに解體し、さらにまた新しいも建物を建築したものをまた解體して更地に戻したとする。結局は更地のままになるので、何もしなければよい。何もしなければGDPは增えない。しかし、こんな無駄をすると、二回分の建築費用と二回分の解體費用がかかり、その支出がすべてGDPに加算されて、GDPは膨れ上がる。
何もしなければ流通財の價値に增減はないが、こんな無駄をすれば、多くの流通財が滅失、消費されて經濟的損失を被つてゐる。ストックの視點で見れば、無駄をすれば大きな損失を出し、評價としてはマイナスである。ところが、GDPといふフローの視點で見れば、損失のすべてをブラスに捉へるのである。このからくりは、マイナス(-)を絶對値(absolute value)で認識してプラス(+)にするからである。これは、「得は得、損も得」とするペテン師の論理である。そんなものが經濟規模や經濟成長の基準であると僞つて、その規模と延びに顯を抜かすこと自體が噴飯ものである。
このやうに、GDP至上主義者は、企業は生産者、家計は消費者といふ二分法で分業體制が深化すればするほどGDPが延びることから、それに拍車を掛けるために、過剰消費と無駄遣ひを煽る。不道德極まりないことである。經濟學者らの中で、質素檢約を奬勵して人の道を説く人を見たことがない。居たとすればそれは僞善者である。經濟學者は、すべて背德の人達であると言つて過言ではない。人々が今後の經濟の不安を抱いてゐることを逆手に取つて、現在的な經濟問題の解決策やそのための新しい理論や政策を教へてあげるなどして講演や出版などで講釋するものの、これまでの埃にまみれた陳腐な知識在庫の中から不良品の理論を取り出して來て、それを角度を變へて見せびらかしたり、ジャーゴン(jargon)の呪文を唱へて誤魔化すだけで、何らの解決策も示せない。羊頭狗肉どころか、羊頭を掲げて何も賣らない(賣れない)のである。人の不安に託けて人心を惑はして商賣を續ける。經濟學は、まさに「不安産業」の業者が人を騙すための道具(tool)と化してしまつたのである。
このやうな人達の言葉に騙されてはならない。一刻も早く分業體制に歯止めを掛け、「社會分業」から「家族分擔」へと向かへば、親孝行までも他人任せにして分業することから生ずる医療、介護、福祉などの樣々な問題は一擧に解消へと向かふ。また、家産制度を確立させ、それぞれの家族が自給力を付け、自給率を高めて行けば、それが積算されて國家の自給力と自給率を高めることなる。さうすれば、家産を利用した家族勞働よつて生産が向上し、雇用問題や失業問題を徐々に解決する糸口が見いだせることになるのである。
自立再生社會の課題
このやうに、國富本位制と金塊本位制の導入、利子の禁止と通貨保有税の創設、家産制度の推進、法制税制の抜本改革、方向貿易理論と效用均衡理論などによる政治經濟改革、複式簿記の採用、一般會計と特別會計の合體などを實行すれば、必ず自立再生社會は實現する。
しかし、中央銀行の消滅、金融專門業の終息、證券取引所等の閉鎖、金融資本の貿易市場參入禁止などを含めて、これらの政策の實施については、決して急激であつてはならない。自然的な推移を見届けて、充分な經過措置を講ずる必要があるが、これら一つ一つの論理や政策には、すべて根據があつて充分に納得しうるはずである。
しかし、直接の利害關係者は別として、一般の人々がこれらを全體的に見て過激な主張と感じて拒否反應が出るとしたら、それは合成の誤謬(fallacy of composition)を口實とした錯覺である。これらの政策について優先順位をつけて漸進的に混亂を回避した政策の措置を採ることになるにもかかはらず、これをしないと決めつけた偏見と誤解に過ぎないのである。
ただし、これらの目標に到達するまでの政策的な課題は多いと思はれる。建設的な疑問には真摯に答へる必要があることは言ふまでもないし、現に、今も尚、檢討課題がいくつか存在する。以下は、その檢討課題について觸れてみたい。
まづ、國家の財務諸表において租税徴収權をどのやうに取り扱ふかといふ問題がある。
國家の貸借對照表に、簿外資産(asset out of book)である租税徴収權を固定資産として計上すべきか否かの檢討である。
これについては、自家創設營業權(self good will)についての考へ方が參考になる。自家創設營業權とは、自己が營業を繼續して開拓してきた「のれん」のことであり、平均的な利益水準を越えるものと評價されてゐるものである。しかし、これには、貸借對照表能力(B/Sに計上しうる資格)がない。ただし、これを有償で譲渡すれば、その譲受人には、自己の貸借對照表に營業權として計上ができるのである。このことから判斷すると、自國の租税徴収權には貸借對照表能力がないと考へられる。また、租税徴収權は、評價算定不能の資産であり、國家の永續性を踏まへれば、その價値評價は無限大となつて、數値計上は不可能となる。
しかし、これは、租税徴収權それ自體、つまり基本權としての租税徴収權のことであつて、年度ごとに發生する支分權としての租税徴収權のことではない。
ところで、國家の貸借對照表の資産合計が負債合計を越えると債務超過(負債超過)となることは政策的にも避けるべきである。これを回避する方法として理論的に可能なことが二つある。
一つは、肇國以來の資本金(元入金)を計上する方法である。ところが、現在ですら未だに單式簿記の豫算制度を採用してゐるのに、過去に遡つて元入金を累計査定することなどは不可能なので、せめて、明治以降の豫算制度によつて國土に投入した資金を資本金として計上してはどうかといふことである。
もう一つは、先ほどのやうに、租税徴収權の基本權を計上するのではなく、その一部と認識できる支分權を計上する方法である。これまでの租税徴収實績を踏まへて、數年度の租税徴収額の平均を算定し、現在の債務超過額がその何年分に對應するかを計算する。そして、債務超過の總額に對應する額を「支分徴税權」として資産計上することである。いはば、基本權としての租税徴収權では計上できないので、債務超過分に相當する支分權の租税徴収權を基本権から切り取つて一部計上する方法である。
このうち、前者の方法は、現實的でなく、その價額評價も恣意的になるので採用できない。そこで、後者によることになるが、これによると、何年分の租税徴税分が前倒しされてゐるのかを明確にすることができる。
ところで、大災害や大事故などあつて、流通財が大きく減少して國富が収縮することになつた場合、理論上は發行通貨量を大きく減量させることになる。災害や事故が小さな規模のものであれば、国富の彈力性よつて吸収できるが、大規模な場合はさうは行かない。長期償還の國債か、償還期限を定めない永久國債(permanent debt)を發行して政府が通貨を調達し、それを復舊復興財源として投入することができる。永久國債(公債)といふのはイギリスで實例がある。しかし、政府支出が突出すると、通貨不足によつて民間よる復舊復興支援の足を引つ張ることにもなりかねない。これが大災害、大事故などの際に、通貨量が減量することの抱へる問題である。
通貨量調整は年度末になされるので、その處理までの時間のずれ(tme-lag)があれば、その間にある程度様々な調整をすることができるが、もし調整できないときは、制度上は發行通貨量を減量させることになる。それでは流通する通貨量が不足して復舊復興に必要な資材の調達に支障を來す可能性があるので、そのやうな場合には、特別措置を講ずる必要が出てくる。
それは、前にも述べたとほり、基本權である租税徴収權から派生する「支分徴税權」を相手勘定(資産勘定)とし、「發行政府券」を負債計上して、特別に通貨發行をすることである。ここで「發行政府券」といふのは、國内通貨としては同一のものであるが、これと異なるのは、通貨發行益(シニョレッジ、seigniorage)といふ打ち出の小槌(通貨發行權)を發生させるものである。これはあくまでも例外のことであり、國家緊急權の發動としてなされるものである。
これが例外である所以は、國富本位制による流通財の價値總額に對應する通貨發行には、この通貨發行益はなく、逆に、通貨發行費用が發生するだけのものである點にある。これは、たとへて言ふならば、銀行が顧客に統一手形用紙を交付するやうなもので、それを交付したことによつて、銀行が手形上の利益を得るものではないのと似てゐる。
このやうに、いくつかの課題はあるとしても、大きな問題や支障はない。しかし、一足飛びでは實現しないものである。長期の國家目標を立て、法制、税制の改正によつて漸進的に移行して行く。さうすれば、經濟が經世濟民といふ本來の意味を取り戻せる日が必ず來るのである。
財貨の均衡が實現すれば、インフレもデフレもなくなる。天気豫報と一緒に株價速報や國際爲替相場の金額がリアルタイムで報道されるといふおぞましいこともなくなり、額に汗して働く人の平穩な生活が回復するのである。
合理主義と個人主義を捨てて、本能主義と家族主義に戻る。本能主義とは欲望主義ではない。欲望主義こそ合理主義なのである。
「本能」に導かれた直觀の道が「道義」であり、「理性」で判斷して正しいとしたものが「正義」である。道義に反する正義があること、不正義なものでも道義に反しないものがあること、道義は正義に優先することなどは、我々の御祖先の教へである。
これまで御先祖は、この本能原理に基づき、祭祀の道と家産制度による自給自足生活を営んできたが、合理主義と個人主義といふ理性の産物によつて、宗教を作つてだんだんと祭祀の道から遠退いた。また、家族が財産を所有する家産制度を壞して、個人が財産を所有する私有制度となり、分業體制によつて自給生活を捨てることになつた。
しかし、人類は、再び本能原理を回復させ、祭祀を復活させ、これまで理性によつて低下させてきた生命力を取り戻さなければならない。祭祀とは、祖先祭祀(氏神)、自然祭祀(産土神)、英靈祭祀(守り神)である。そのためには、ばらばらになつた家族、分業體制で工程が細分化された物作り、生産と消費の二極分化によつて低下した各家庭の食料自給力などを少しずつ元に回復させ、この擴散する世界に歯止めをかける必要がある。
その目指す方向は、家族の統合と生産工程の収束にある。
假想水(バーチャルウォーター、virtual water)、食料の重量と輸送距離の積(フードマイレージ、food-mileage)、地産地消といふ言葉は、生産、分配、流通、消費、再生といふ水と物資の循環の輪を極小化して効率化を圖り、自立再生社會の實現に向かふための指標である。 その實現までに時間がかかつても、大きな國家目標を立てて前進せねばならない。この方向は、全世界が競つて同時に行つても争ひの原因にはならない。擴散から収束への方向は、それぞれの民族がその本能原理に基づいて、個性的に歩む必要があるが、その手法の違ひは、全體としての方向を妨げることにはならない。山の頂上に至る道はいくらでもある。しかし、目指す方向は一つである。
本能原理は、フラクタル構造になつてゐるので、「合成の誤謬」(fallacy f composition)は起こらない。だからこそ本能原理による「道理」なのである。決して一人勝ちする「正義」ではなく、すべての人々が共生、共存、協調できるのが「道義」である。
これによつて、全世界に平和と安定が實現するもので、全ての民族のそれぞれの本能原理に最も適した「道」、それが自立再生論といふ人類の「道義」なのである。
花札遊びやトランプ遊びに「婆抜き」といふゲームがある。婆とは花札では白札、トランプではジョーカーのことである。
品のない名前ではあるが、ルールは至つて簡單である。數人に同じ枚數の手札を配り、一人づつ一定方向に順次循環して相手の手札から一枚づつ引き抜き、同位の札二枚の組み合はせができれば、その場に捨てて行き、最後までジョーカー(白札)を持つてゐた者が負けとなる、あのゲームである。
ジョーカーとは、全能、最高の札であるが、これを長く所持することは身の爲にならないことを意味してゐるゲームである。
そして、この何気ない遊びが、實は家産制や通貨制度などによつて自立再生社會が實現できることを寓意してゐるのである。
つまり、同じ數字の二枚の札が揃ふと(家産が形成されると)、その二枚の札は場(流通經濟)からリタイアする(非流通財となる)。そして、一番先にすべての札をリタイアさせると(家産形成によつて完全自給できると)、その者が勝者、リタイアできずに(家産形成もできず完全自給できずに)最後までジョーカー(通貨)を持つたままの者が敗者といふことになる。
ジョーカーは、「剩貨」(余剩通貨、過剩通貨)と聞こえるではないか。
やはり、真理を示し、幸せを運ぶものは、「青い鳥」のやうに、身近なところにあつたのである。
