第四節:占領と統治

占領政策の要諦

ともあれ、桑港條約の發效に至るまでの非獨立の占領時代において、連合軍の軍事支配により、我が國の政治、法制、經濟、教育及び文化などすべての事象において變革を強要された。

そして、GHQの軍事占領その強制的變革の最たるものは、帝國憲法を全面改正したものとされる『日本國憲法』(昭和二十一年十一月三日公布、同二十二年五月三日施行。資料三十二)といふ名の「占領憲法」の制定である。

占領統治下においては、占領政策に迎合する「御用民主勢力」以外の意見は全て黙殺された。即ち、出版物、手紙その他の文章を檢閲し、占領政策の妨げとなる一切の言論を禁止し、これに違反する新聞等については、その批判記事の削除又は發行禁止處分の制裁を科すなど、およそ臣民の政治的意志形成に必要な情報を一切提供させないとする『日本プレスコード指令』による檢閲等による強力な言論・報道・出版の統制が斷行された。

この『日本プレスコード指令』といふのは、連合國軍最高司令官總司令部の最高司令官(GHQ/SCAP)であるマッカーサーが發令した、昭和二十年九月十日『言論及新聞の自由に關する覺書』(SCAPIN16)、同月十九日『日本に與ふる新聞遵則』(SCAPIN33)及び同月二十二日『日本に與ふる放送遵則』(SCAPIN43)などによる一連の言論、新聞、報道の規制と檢閲制度の全體を指稱するものであつて、その具體的な内容については、江藤淳『落葉の掃き寄せ 一九四六年憲法-その拘束』(文藝春秋)に詳しい。これによると、削除又は發行禁止處分の對象となる項目は、「①SCAP批判(SCAPに對するいかなる一般的批判、及び以下に特記されてゐないSCAP指揮下のいかなる部署に對する批判もこの範疇に屬する。)、②極東軍事裁判批判(極東軍事裁判に對する一切の一般的批判、または軍事裁判に關係のある人物もしくは事柄に關する特定の批判がこれに相當する。)、③SCAPが憲法を起草したことに對する批判(日本の新憲法起草に當つてSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に當つてSCAPが果した役割に對する一切の批判。)、④檢閲制度への言及(出版、映畫、新聞、雜誌の檢閲が行はれてゐることに關する直接間接の言及がこれに相當する。)、⑤合衆國、ロシア(ソ連邦)、英國、朝鮮人、中國、他の連合國に對する批判(これらに對する直接間接の一切の批判がこれに相當する。)」など三十項目に及んでゐたとされてゐる。

さらに、戰爭犯罪人であるとか、軍國主義者であるとの一方的理由で多くの官僚、代議士などの政治家が公職から追放された。具體的には、昭和二十一年一月四日に發令されたGHQによる公職追放令によつて、衆議院議員四百六十六名のうち、八割以上に該當する三百八十一名が追放されたとされる(增田弘『公職追放論』岩波書店)。

しかも、その對日檢閲計畫は、昭和十六年十二月八日の大東亞戰爭開戰の翌日に、J・エドガー・フーヴァーFBI長官が檢閲局長官臨時代理に任命されたときから用意周到に行はれてきたものであり、占領直後から、連合國軍最高司令官總司令部(GHQ/SCAP)の民間諜報局(CIS)に屬する民間檢閲支隊(CCD。Civil Censorship Detachment)などによつて徹底した檢閲がなされてきた。その檢閲の態樣と規模の程度は、第二次近衞内閣において「擧國的世論の形成」を圖る目的で昭和十五年十二月六日に設置された情報局などのやうな戰時體制下における情報統制とは全く比べものにならないほど峻烈で完璧なものであつた。

そのため、憲法改正案を審議した第九十回帝國議會(昭和二十一年六月二十日開會)を構成する議員を選出した同年四月十日の總選擧においても、その前月の三月六日に發表されたのは『帝國憲法改正草案要綱』に過ぎず、改正案の全文は選擧前には公表されなかつた。改正案全文の『内閣憲法改正草案』が發表されたのは、選擧から十日後の四月十七日である。憲法改正政府案その他憲法改正に關する問題については、公職追放の危險による萎縮效果もあつて、選擧での爭點には全くならなかつたのである(『日本國憲法制定の由來 憲法調査會小委員會報告書』時事通信社)。

これらの措置は、その後に占領下で制定された占領憲法第十四條の「法の下の平等」、同第十九條の「思想及び良心の自由」及び同第二十一條の「表現の自由」や「檢閲の禁止」などに明らかに牴觸するものであり、勿論、帝國憲法第二十九條(言論・著作・印行・集會・結社の自由)に違反する違憲措置であつて、現行の公職選擧法の規定によれば、選擧の無效事由となることは明白である。これに關するものとして、議員定數配分の不平等を理由とする選擧の違法を認定した昭和六十年七月十七日最高裁判所大法廷判決の基準からすれば、一票の格差といふ形式的理由でも選擧の違法が認定されるのであるから、選擧權行使の實質的障碍である「知る權利」の侵害の場合は、當然に違憲無效となるはずである。同判決は、公職選擧法第二百十九條第一項が事情判決の制度(行政事件訴訟法第三十一條)を排除してゐるにもかかはらず、「事情判決の制度の基礎に存する一般的な法の基本原則に從い」として、實質的には事情判決の法理を用ゐた「救濟判決」であつた。つまり、選擧の違法を宣言するだけで、選擧自體は無效とはしなかつたのであるが、代議制民主主義の根幹を否定する「知る權利」の侵害の事案であれば、この論理による事情判決の法理が適用されないのは當然であるが、これを曲げて救濟したといふことである。

いづれにせよ、このやうなGHQによる公職追放などに加へて、キリスト教の異端審問による「魔女狩り」にも似た「公開リンチ」の極め付きは、極東國際軍事裁判(東京裁判)である。

これは、昭和二十年九月四日戰犯容疑者逮捕命令の發令、同二十一年四月起訴、同年五月三日開廷、同二十三年十一月四日から二十三日までの間の判決言渡といふ經過を辿つた。東條英機元首相ら二十八名が共同謀議によつて侵略戰爭を指導したとして起訴され、二十五名全員(途中死亡者二名、發狂による免訴一名を除く全員)が有罪判決(東條元首相ら七名が絞首刑、十六名が終身禁固刑、一名が二十年の禁固刑、一名が七年の禁固刑)となつたが、前にも述べたとほり、この判決において、日本無罪論を主張して全被告人を無罪とするインドのラダ・ビノード・パール判事の反對意見があつたのは前にも述べたとほりである。

この他にも、マニラその他の東亞・太平洋地域において、適正な手續や法的根據に基づかずに「裁判」といふ名のリンチによつて處刑等が數多くなされた。ちなみに、戰犯として死刑となつた者は、總計九百九十四人に及んだのである。

この東京裁判が裁判としては當時の國際法に照らして違法であり、そこで裁かれた南京虐殺などの事實が全くの虚構であることは既に述べた。

ところが、日本のマスメディアは、このやうな矛盾を批判するどころか、發賣禁止處分を怖れて言論統制や檢閲に何ら抵抗することなく、ジャーナリストの良心と魂を賣り飛ばして御用新聞・御用放送に成り果て、軍事占領化の憲法改正作業や極東國際軍事裁判の實施など、連合軍の行ふ一連の措置が正當であるかのような大衆世論操作に加擔協力した。

その言論統制と檢閲を擔つたのが、GHQの軍事占領下であつた昭和二十一年七月二十三日、GHQの言論統制と檢閲を容認することと引き換へに存續を許されたマスメディア各社で設立された「社團法人日本新聞協會」である。これは、現在も存續してをり、表向きは「民主主義的新聞社」の團體であると標榜するものの、その實質は、GHQの檢閲とプレスコードを受容して命を存へたマスメディアの集團である。新聞各社のみらなず、NHKや民放などのテレビ各社も加入し、「新聞倫理綱領」なるものを定めて、恰かも「民主主義」の旗手のやうに僞裝するが、同社團に所屬しない中小メディアを閉め出した「記者クラブ」といふギルド制によつて特權を固守し、GHQなき後も、忠實にその指導方針(東京裁判史觀)を堅持してゐるのである。

このやうに、社團法人日本新聞協會に所屬するマスメディアは、占領當初から與へられた敗戰利得者としての利權を固守し、連合軍の占領政策を支持することによつて眞の自由と民主主義が生まれるとの「世論」を形成させ、衆愚政治における「大衆の喝采」を得ることに成功した。換言すれば、當時の日本共産黨ですら、マッカーサーを「解放軍」の總帥であると絶贊評價したやうに、極めて效率的な軍事占領統治が社會全體に集團催眠效果を與へ、民主主義の基本であるべき正しい政治的情報を知る權利が全く與へられない愚民政治が出現したのである。これらの思想・言論統制の方法は、ナチストの採用した大衆世論操作の手法を全面的に取り入れて、さらに一段と巧妙に組み立てられたものである

本來ならば、ナチス・ドイツによるユダヤ人やジプシー等の大量殺戮に勝るとも劣らない廣島及び長崎の原爆投下による無差別大量殺戮(ホロコースト)が非難されるべきであり、今日に至るもその意義は風化してゐない。ところが、當時、原爆投下の理由について、「日本がいつまでも降伏せずに戰爭を續けたために落とされたのであり、早く降伏して戰爭をやめていれば落されずに濟んだのであるから、原爆投下の責任は日本にある。」との占領軍が流したデマのやうな奇妙な説明にすつかり納得してしまふ日本人が出てくる始末であり、今もその洗腦から解かれてゐない有樣である。そして、そのやうな風潮が、廣島の『原爆碑文』にまで受け繼がれ、「過ちは繰り返しませぬから」と、主體(主語)が日本人を含んだ表現になつてしまつたのである。これは、世界平和を願ふ崇高な理念としての美辭麗句であるとして理解しえても、決して無差別殺戮によつて命を奪はれた多くの英靈や被爆者の情念の叫びではない。

これまでのことからして、GHQの占領政策の要諦は、東京裁判の斷行と占領憲法の制定といふ二大政策を中核として實施することにあつた。戰勝國である連合國は、報復のため、聖戰の「思想」と、それを育んだ「國體」を熾烈に斷罪し、その兩足に大きな足かせをはめたのである。思想への足かせは、「東京裁判の斷行」と「東京裁判史觀の定着」であり、國體への足かせは、「帝國憲法の否定」と「占領憲法の制定・施行」であつた。

占領政策の目的と手法

占領政策の要諦は、東京裁判の斷行と占領憲法の制定といふ二大方針であつて、その目的は、「日本弱體化」であり、軍事、經濟などの國力において再び歐米と肩を竝べることができなくすることである。アメリカは、ホロコーストの目的で我が國に原爆攻撃を行つたのであるから、我が國が國力を回復して再軍備した場合、アメリカに對して核爆彈による「核の報復權」を當然に主張して行使してくるであろうと恐れた。我が國は唯一の被爆國であるから、核攻撃による報復權は我が國だけが今もなほ保有し行使しうる權利がある。それゆゑ、アメリカを含む連合國は、連合國體制を維持し、我が國が核による攻撃を含む報復權を行使できないやうに、軍事産業は勿論のこと、その基礎となる産業すらも認めなかつた(ポツダム宣言第十一項)。

さらに、「その國の青少年に祖國呪詛の精神を植ゑつけ、國家への忠誠心と希望の燈を消すことが革命への近道である」(レーニン)とするやうに、祖國を呪詛させて精神的にも弱體化させるために、過去の歴史を捏造して罪惡感を植ゑ付ける方策を實施した。それは、檢閲、報道などによる徹底した情報操作で洗腦することであり、江藤淳によれば、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program 略稱「WGIP」)と呼ばれるものであつた。これについては、その存在を疑問視する見解もあるが、假に、それが具體的な計畫として存在を證明できなかつたとしても、以下の事實經過からして、その意圖が繼續して實施されてきたことは明らかである。

情報操作による洗腦については、戰前に普及したラジオ(日本放送協會)、朝日新聞、毎日新聞などのメディアをGHQは最大限に利用した。玉音放送によつてほぼ完全な停戰となつたラジオ放送の持つ威力をまざまざと悟つたGHQは、この威力を最大限に利用して、情報操作による洗腦を行つた。まづ、昭和二十年十二月八日から、GHQは、僞史である『太平洋戰爭史』を全國の新聞に掲載させ、その掲載終了後に中屋健弌譯で昭和二十一年に高山書院から刊行させた。そして、翌九日からは、『眞相はかうだ』といふラジオ番組を放送させ、それが『眞相箱』、『質問箱』と番組名を變更しながらも、昭和二十三年八月まで續けられた。虚僞と誇張により皇軍の殘虐さを植ゑ付けるといふプロパガンダ放送であつた。

また、昭和二十年十二月十五日、GHQは『國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保證、支援、保全、監督竝ニ弘布ニ關スル件』(資料二十九)といふ覺書による指令(いはゆる「神道指令」)を發令し、「大東亞戰爭」などの用語の使用を禁止した。なほ、GHQのいふ「國家神道」とは、一般的に指摘されてゐる戦前の國家神道とは異なるものである。つまり、神道指令の二(ハ)によると、「本指令ノ中ニテ意味スル國家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト區別セラレタル神道ノ一派即チ國家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル國家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(國家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル」と定義してゐるのである。即ち、「非宗教的ナル國家的祭祀」を「國家神道」とし、宗教色が希薄とされる祭禮、儀禮的參拜などが含まれることになる。

そして、さらに、同月三十一日には『修身、日本歴史及ビ地理停止ニ關スル件』(資料三十)といふ覺書(いはゆる「教育指令」)を發令し、修身、日本歴史、地理の授業を停止して教科書を回收し、教科書の改訂を指令したのである。

これを受けて文部省は、翌二十一年一月十一日には『修身、日本歴史、地理停止に關する通達』、同年二月十二日には『修身、國史、地理教科書の回收について通達』、同年四月九日には國史教科書の代用教材として『太平洋戰爭史』を購入して利用させる旨の通達を發令して、GHQの洗腦教育に加擔した。

加へて、GHQは、「3R5D3S政策」を實施し、我が國の家族制度や教育制度などの社會基盤を解體させ、日本の國體を潰滅させることを目論んだ。この「3R5D3S政策」といふのは、 Revenge(復讐)、Reform(改革)、Revival(復興)の「3R」、Disarmament(武裝解除)、Demilitarization(非軍事化)、Disindustrialization(非工業化)、Decentralization(權力分散)、Democratization(民主化)の「5D」、Sex(性解放)、Screen(映畫、テレビ)、Sport(スポーツ、娯樂)の「3S」のことであり、特に、3S政策は、國防意識の低下、愛國心・祖國愛や國家國民の一體感を喪失させるために、欲望と頽廢の娯樂に大衆を動員して感化させ、政治的無關心を增幅させる愚民政策であつた。獨立後の今もなほ、慣性の法則によつてその動きは止まらない。むしろ、欲望と頽廢の傾向は一段と加速されてゐる状況にある。

パンとサーカス(panem et circenses)といふ言葉は、詩人ユウェナリスが古代ローマ社會の世相を揶揄した表現であり、權力者から無償で與へられるパン(食料)とサーカス(娯樂、見世物)によつて、ローマ市民が政治的盲目に置かれてゐることを指摘したものである。この手法は愚民化を促進させるもので、これをさらに徹底させたのがGHQによる占領政策であつた。アメリカは餘剰食料を提供し續けて我が國の食料自給率を低下させ、低俗な娯樂番組や思考停止を來すスポーツ番組などのテレビ放送や、扇情的で獵奇的な多くの低俗娯樂に馴致した大衆を生み出した。まさに釜中の魚の如く、「外面似菩薩、内心如夜叉」ともいふべきGHQの占領政策によつて、祖國の民度は著しく低下して衆愚政治に陥つたのである。

また、一方では、臣民に向けて、プレスコードと日本新聞協會などによる情報操作を行ひ、神道指令や教育指令などによる思想言論統制によつて衆愚政策を推進させ、「民主化」を渇望してゐた臣民に解放軍であるとの幻想を抱かせた。そして他方では、特定の思想と職業などによる差別と排除を公然と行ふ公職追放を斷行し、それによつて實現した實質的な制限選擧制度によつてGHQに迎合する議員と官僚のみを當選させ、あるいは登用し、さらに、同時進行的に、東京裁判による戰犯の處斷を斷行した。さうすれば、占領政策に反對し異議を唱へることよつて不利益な處分や待遇を餘儀なくされるとの恐怖感を植ゑ付けて、臣民全體に萎縮效果を與へる。特に、占領憲法の制定手續と東京裁判の訴訟手續とが同時進行することによつて、その效果は倍加した。そして、マッカーサーが、解任されて歸國した後の昭和二十六年五月五日の米上院聽聞會で「日本人の成熟度は十二歳、勝者にへつらふ傾向」があると評價したとほり、マッカーサーの離日するときの羽田空港では涙を流して萬歳三唱をして別れを惜しむ多くの盲しひたる民が世に踊り、衆參兩議院が擧つてマッカーサーへの感謝決議をしたやうに、「愚蒙の民」と「阿諛の輩」で國内を埋め盡くすことに成功した。これが成功したのは、占領初期に直ちに敢行された強權政治によるものであり、占領統治や占領憲法に携はる政府關係者には徹底した強要によつて占領政策を敢行したことによる。

それは、後にふれるとほり、立法に對しては、昭和二十一年五月四日に鳩山一郎(日本自由黨總裁、衆議院議員)、同二十一年五月十七日に石橋湛山(日本自由黨、衆議院議員)及び同二十三年一月十三日に平野力三(日本社會黨、衆議院議員)をそれぞれ公職追放した「三大政治パージ」をはじめ何百人もの政治家、國會議員を排除したことである。また、行政(内閣)に對しては、萩原徹外務省條約局長の更迭(昭和二十年九月十五日)、内務大臣山崎巖の罷免要求(昭和二十年十月四日)、それによる東久邇宮稔彦内閣が總辭職(同月五日)、農林大臣平野力三の罷免要求(昭和二十二年一月四日)、閣僚中五名の公職追放該當者がゐたことによる幣原喜重郎内閣の改造人事と松本烝治國務大臣の暫定的特免の申請(昭和二十一年一月十三日)、大蔵大臣石橋湛山の公職追放(昭和二十二年五月十七日)などによつて重壓をかけた。さらに、司法に對しても、東京地方裁判所が昭和二十三年二月二日になした平野力三に對する公職追放指定の效力發生停止の假處分決定に干渉して取消させるなど、立法、行政、司法などあらゆる政治事象において、占領憲法の實效性は否定され續けた。それゆゑ、占領憲法の效力を論ずるときは、このやうな、その制定に至る具體的かつ個別的な事實のほか、占領憲法の制定過程の基礎となる占領統治全般がもたらした政治環境や社會状況などの一般的事實、つまり「占領憲法の立法事實」を考察することが不可缺なものとなるのである。

占領統治の根據と構造

このやうな占領政策は、GHQによる「占領統治」によつて實施されたものである。そして、この「占領統治」は、『降伏文書』に云ふ「subject to」(隷屬)に基づくものであるから、これに「占領管理」といふ譯語を用ゐることは、「占領軍」を「進駐軍」と表現するのと同じ誤用であり、實態を僞ることに他ならないので、以下は「占領統治」と表現する。

では、この占領統治の根據とその機構はどのやうなものであつたか。まづ、占領統治の根據についてであるが、それは、占領統治を行ふ權力の源泉が連合國と我が國との間で締結された「講和條約」にある。その講和條約といふのは、連合國が我が國にその受諾を申し入れた『ポツダム宣言』に對し、『ポツダム宣言受諾に關する八月十日附日本國政府申入』と『バーンズ回答』などの遣り取りを經て、最終的には、帝國憲法第十三條前段の講和大權に基づいて締結されたポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印といふ經緯によつて、獨立を喪失し占領統治の受容を内容とする講和條約(以下「獨立喪失條約」といふ。)のことである。

講和條約も法的には「契約」の一種であり、申込と承諾といふ對向する國家意志の合致によつて成立する。對等な當事國間の一般條約であれば、その合意内容は外交交渉によつて成立することになるが、戰勝國である連合國が敗戰國である我が國に對して、「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみとす。」(ポツダム宣言)として原爆を全土に投下して完全壞滅させるといふホロコーストの脅迫による場合は、「subject to」(隷屬)しかあり得ず、ポツダム宣言の「無條件承諾」しかなかつた。

この「無條件受諾」が「無條件降伏」とすり替はつたにせよ、そもそも「無條件降伏」といふ言葉の定義も明確ではない。昭和十六年八月十四日の『英米共同宣言』(大西洋憲章)といふ政治文書において、敗戰國の完全武裝解除を求めたことに引き續いて、ルーズベルトが昭和十八年十一月二十七日の『カイロ宣言』おいて、「日本國の無條件降伏をもたらすのに必要な重大で長期間の行動を續行する。」といふやうに、極めて曖昧な表現を以て初めて用ゐた「政治的用語」に他ならない。それゆゑ、この意味が、法的には、合意成立に至る過程において一切の交渉が許されず、一方からの有條件降伏を求める申入を無條件に承諾するといふ「無條件承諾による降伏」といふ意味での「無條件降伏」を意味するのか(政府見解)、あるいは、勝者の一切の行動を法的に制約することができない白紙委任であることを意味するのかについて明確ではない。そして、そのいづれであつたとしても、近代國際法上の規則及び慣例を無視したものであつて、古くはローマ時代における對カルタゴ戰爭や對コリント戰爭における「デベラチオ(デヴェラティオ)」、つまり「敵の完全な破壞及び打倒」ないしは「完全なる征服的併合」ではありえない。しかし、これに似たものであるとする見解(神川彦松)もあるが、さうであれば、これまでの近代國際法上の規則や慣例を一切無視した太古の「野蠻な時代」への逆行がなされたことになる。その野蠻さの根源には、怨念にも似た思想的報復の意圖があるためであつて、まさに大東亞戰爭が世界史上最大の思想戰爭であることによる最大級の報復であつたことを物語る。ところが、戰爭當事國としての中央政府が崩壞したドイツの場合では、デベラチオと同視しうるとしても、我が國の場合は、ポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印した戰爭當事國の中央政府は歴然と存續してゐたので、完全征服のデベラチオではない。中央政府が存在してゐたからこそ、これを受諾し調印できたのである。つまり、政府が崩壞した結果としての事實上における「戰爭の消滅」ではなく、政府が存在するが故に、法律上における「戰爭の停止」としての講和であり、その講和の履行としての「獨立の喪失」であつた。

このやうに、この獨立喪失條約については、これまでの國際法における講和條約の方法によらない異例のものであつたことから、我が政府の國内手續においてはこれを「條約」としては扱つてゐなかつた。つまり、當時の樞密院官制によると、「國際條約ノ締結」は諮詢事項となつてゐたにもかかはらず、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印については、この諮詢手續がなされてゐなかつたし、官報の搭載にも、これを「條約」欄ではなく、「布告」欄に公示されたのである。これは、これまでの國際法による慣例を著しく踏み外した異例の事態に當惑した結果であつたが、このやうな國内手續を履踐しなかつたといふ手續規定違反があるからと云つて、これは講和條約ではないとすることはできない。この手續規定は講和條約の有效要件ではないので、獨立喪失條約が無效であるとか不存在であるとすることは到底できない。關東大震災のとき、樞密院の諮詢を經ずに緊急敕令(帝國憲法第八條)が發令されたことがあつたやうに、國家緊急時においては、手續が履踐されずに法規が成立することは當然にありうることなのである。

ところで、ポツダム宣言では、占領統治の具體的な態樣と内容について明記されてゐない。しかし、降伏文書には、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官」の「subject to」(隷屬)に置かれるとされ、その實施細則を定立する占領統治の機構が「聯合國最高司令官」であることを明確に示してゐた。つまり、連合國側は、占領統治の全權を有する唯一の執行權者を連合國軍最高司令官總司令部(GHQ/SCAP)としたのであつた。ただし、その前に、昭和二十年八月十四日に最初の最高司令官(SCAP)としてアメリカ太平洋陸軍部隊總司令官(GHQ/USAFPAC)であり元帥の地位にあるマッカーサーを任命して發表し、同月十六日、その占領統治の態樣については、アメリカが單獨で占領統治を行ふことになつた。マッカーサーは、同月三十日に厚木飛行場に到着して、初めはGHQを橫濱に置いたが、同年九月十七日に東京のアメリカ大使館に移し、さらに、同年十月二日には日比谷の第一相互ビルに移轉するとともに、ここで初めてマッカーサーは連合國軍最高司令官總司令部(GHQ/SCAP)となる。つまり、正確に言へば、マッカーサーの地位は、昭和二十年八月三十日から同年十月一日までがGHQ/USAFPACであり、翌十月二日からがGHQ/SCAPである。

また、占領態樣については、占領軍を全國の主要地點に配備するだけの「部分占領」ではなく、「全面占領」とすることとなつた。

そして、日本占領統治については、連合國の共同機構として、「極東諮問委員會」(Far Eastern Advisory Commission)が設置され、その後、イギリスとソ連の強い不滿があつたことから、同年十二月の米英ソ三國外相のモスクワ會議の結果、これに代へて「極東委員會」(Far Eastern Commission)と「連合國對日理事會」(Allied Council for Japan)が設置されることになつた。これにより、連合國の政策決定機關としての極東委員會があり、その政策決定に基づく指令の作成傳達をアメリカ政府が擔ひ、その指令の執行機關として連合國軍最高司令官があり、その諮問機關として連合國對日理事會があるといふ占領統治機構を備へることになる。しかし、建前上は連合國の共同占領統治方式であつたとしても、實質的にはアメリカは單獨による占領統治方式を確立させ、その政策決定機關の中樞は、昭和十九年十二月に、國務、陸軍、海軍三省の次官補で構成される「國務・陸・海調整委員會」(State-War-Navy Coordinating Committee 略稱「SWNCC」)が擔ふことになる。このSWNCCは、『日本の敗北後における本土占領軍の國家的構成』、『降伏文書』などを策定し、占領統治後においては、連合國軍最高司令官に對する指令や『降伏後におけるアメリカ初期の對日方針』、『日本の統治體制の改革』などを作成するのである。

このやうな占領統治機構に基づく連合國軍最高司令官による占領統治の權限は、獨立喪失條約を具體的に實施するために定められたアメリカ政府の連合國軍最高司令官に對する指令によつて定まつた。具體的には、連合國軍最高司令官の權限は、昭和二十年八月二十九日の『降伏後におけるアメリカの初期對日方針』、同年九月六日の『連合國最高司令官の權限に關するマックアーサー元帥への通達』、同年十一月一日の『日本占領および管理のための連合國最高司令官に對する降伏後における初期の基本的指令』などに基づくことになる。そして、この『初期對日方針』と『初期基本的指令』に基づき、マッカーサーが管下部隊に訓令したことを同年十二月十九日にGHQが新聞發表した『連合國の日本占領の基本的目的と連合國によるその達成の方法に關するマックアーサー元帥の管下部隊に對する訓令』が出される。

このうち、『初期基本的指令』は、占領統治の基本的性質を端的に指摘してゐる。つまり、この第一部2によると、

「日本に對する貴官の權力および權限の基礎は、貴官を連合國最高司令官に任命する米國大統領の署名した指令および日本國天皇の命令によつて實施された降伏文書である。これらの文書は、更に、千九百四十五年七月二十六日のポツダム宣言、千九百四十五年八月十日の日本側通告に對する千九百四十五年八月十一日の國務長官の回答および千九百四十五年八月十四日最終の日本側通告に基礎を置いてゐる。これらの文書に從つて、連合國最高司令官としての貴官の日本に對する權限は、降伏實施といふ目的のために最高のものである。敵國領土の軍事占領者としての通例の權力以外に、貴官は、貴官が降伏およびポツダム宣言の規定の實施に得策かつ適當と考へるいかなる措置をも執る權力を有する。しかしながら、貴官は、貴官が必要と認めるか、または反對の訓令を受けない限り、直接軍政を樹立することなく、貴官の使命達成と兩立する限り、日本國天皇または日本政府を通じて貴官の權力を行使する。」

としてゐたのである。そして、ここにもあるとほり、占領統治は間接統治を原則とするものの、必要な場合は「直接軍政(直接統治)」を執ることができるとしてゐるのである。

また、この基本的指令によつて明らかになつたものは、他の部分に、「貴官の占領終了後日本の再軍備を防止する統制を立案し、かつ、統合參謀本部に勸告すること」といふ條項があるやうに、占領統治の方針は、單に占領統治期間だけではなく、その終了後における我が國の政治の在り方までも豫防的に統制支配しようとするものであつた。その意味において、占領統治とそれを支へた講和條約體系と國内法體系は、決して占領統治期間だけに效力を限定された單なる「限時法」はなく、「恆久法」に近い性質を有してゐたことになる。

占領統治における占領態様

ところで、この占領統治の基本的な性質については、「占領態樣」と「法的性格」の二つの側面を考察する必要がある。

まづ、「占領態樣」についてである。これは連合國軍(米軍)の「直接占領」、「全面占領」であり、統治態樣については「間接統治」を原則とするものの、極東國際軍事裁判(東京裁判)、昭和二十年九月十日の『言論および新聞の自由に關する覺書』による同盟通信、朝日新聞及びニッポン・タイムズに對する發行禁止、同年十月一日の『郵便の檢閲に關する覺書』による郵便の檢閲、昭和二十二年のいはゆる「二・一ゼネスト」の中止命令などについては「直接統治」であつたことになる。つまり、GHQの「命令と承認」に基づき我が政府が傀儡政府となつて「統治」するといふ形態である。このGHQと我が政府との關係は、占領憲法における内閣と天皇との關係と相似してゐる。つまり、GHQの「命令と承認」によつて我が政府が統治行爲を行ふといふ「間接統治制」は、内閣の「助言と承認」によつて天皇が國事行爲を行ふといふ「傀儡天皇制」と相似した關係にある。ただし、原則としての「間接統治」、例外としての「直接統治」といふのは、我が國の本土に限つてのことであり、沖繩縣や小笠原諸島などについては、例外なしの「直接統治」であつた。

そして、占領統治に必要な經費は、戰後賠償の一部として、「終戰處理費」といふ豫算名目で我が國が負担することとなつた。

占領統治の法的性格

次に、占領統治の「法的性格」を考へるについては、オランダのス・フラーフェンハーヘ(ハーグ、英語名・ヘーグ)で我が國及び連合國が締結してゐた『陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約』(ヘーグ條約1907+660)の條約附屬書である『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』との關係が重要である。これまでの占領に關する國際法規は、交戰國の一方が戰闘繼續中に他方の領土の一部を占領した場合のことを豫定してゐるのであつて、これまでは前例がなかつたGHQの占領統治の態樣のやうに、降伏停戰後の占領までもその守備範圍となるか否かといふ問題である。

しかし、これまで前例がなかつたと云つても、これらの陸戰法規の諸規定の中には、必ずしも戰闘繼續中の状態のみを前提としてゐないことは明らかであつて、降伏停戰後の占領を含んだ規定はあつても、現實にはこれまで單に前例がなかつたといふに過ぎないのである。現に、前掲の『マックアーサー元帥の管下部隊に對する訓令』では、「國民の自由に表明した意思によつて支持されないいかなる政治形態をも日本に強制することはポツダム條項に反する」とし、「占領軍は、國際法および陸戰法規によつて課せられた義務を遵守するものとする。」としてゐることからしても、GHQの占領統治が陸戰法規の適用を受ける占領であることは疑ひの餘地がない。しかも、「占領軍は、國際法および陸戰法規によつて課せられた義務を遵守するものとする。」との意味は、國際法及び陸戰法規はポツダム條項(降伏文書を含む獨立喪失條約)よりも上位規範であることを認めてゐたことになる。つまり、獨立喪失條約は、國際法及び陸戰法規に從ふといふことである。これは、法律(國際法及び陸戰法規)があり、これに基づいて契約(獨立喪失條約)があるといふ關係なのである。それゆゑ、この點に關して、GHQ占領統治は陸戰法規の適用がないとか、陸戰法規は一般法でありポツダム條項は特別法であるから、特別法優先の原則からしてGHQの占領統治は陸戰法規の適用がないとする見解などは、GHQでさへ認めなかつたことを敢へて主張してでもGHQに阿らうとする屬國病患者の戲言であつて、何らの説得力もない。獨立喪失條約は、あくまでも條約(契約)であつて特別法ではなく、一般法である國際法及び陸戰法規を改廢する效力はない。むしろ、國際法及び陸戰法規に違反する條約は、これに抵觸する限度において無效となるのである。

それゆゑ、「占領軍は、國際法および陸戰法規によつて課せられた義務を遵守するものとする。」ことから、占領統治においては、『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』第四十三條(占領地の法律の尊重)の「國ノ權力カ事實上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶對的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル爲施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘシ。」との規定が適用されることになる。このことが、占領憲法の制定を含む法制度の變更をしなければならないやうな「絶對的ノ支障」があつたといへるのか否かといふ後述の議論の出發點になるのである。

ところで、GHQによる占領及び統治は、樣々な種類と名稱による「命令」によつてなされ、その命令の名稱としては、指令、訓令、覺書、聲明その他の指示、示唆など樣々なものがあり、いづれも全て實質的な命令として發令されることになる。また、その形式は、文書以外にも口頭によるものも多く、しかも、その範圍は、占領統治に直接關係するもののみならず、政府幹部職員の任免、配置轉換などの同意の取り付けその他の人事要求にまで廣範に及び、しかも文書による命令事項が擴大解釋されて要求されることなども多く、それが全面かつ繼續してなされた。このことからすれば、「間接統治」が原則で、「直接統治」が例外であるとする占領統治の基本原則は否定され、原則と例外との逆轉運用がなされたのであつて、實質的には「直接統治」と殆ど大差はなかつたことになる。

また、この指令等の命令の法的性質は、帝國憲法第十三條前段の講和大權に基づいて締結されたポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印といふ、獨立の喪失、占領統治の受容を内容とする講和條約である「獨立喪失條約」の各條項を具體的に實施する細則として、獨立喪失條約に基づく下位規範(施行細則)として位置付けられる。つまり、これは、バーンズ回答の第二段落にも見られ、降伏文書の第八段落で明記されたとほり、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」るとの「subject to(隷屬)條項」に基づく「措置」として、獨立喪失條約と一體となつて效力を有するものといふことになる。しかも、この講和條約の當事國は對等の地位にはなく、敗者(日本)は勝者(連合國)に「隷屬」するのである。「隷屬」とは、無條件にて服從することであり、その名稱の如何を問はず、その一切の「措置」は、「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみとす」(ポツダム宣言第十三項)といふ絶對強制として機能することになるのである。

そして、GHQからの命令や連絡を受ける政府側の窓口は、「終戰連絡事務局」であつた。これは、ポツダム宣言受諾直後の昭和二十年八月十九日、マニラに派遣された河邊虎四郎全權がGHQとの「マニラ會談」において手交され、その後に持ち歸つた『千九百四十五年八月二十日「フィリピン」諸島「マニラ」ニ於テ日本國代表ニ手交セラレタル連合國最高司令官要求事項』の中に、「日本政府ハ占領期間中連合國軍ニ依リ要求セラルベキ地域及諸便宜ヲ供與スベキ權能ヲ有スル『中央機關』ヲ設置スベシ連合軍最高司令部トノ交渉ヲ容易ナラシム爲此ノ機關ハ東京ニ設ケラレルベシ是ニ續キ此ノ機關ノ三ツノ支部ガ他ノ地域ヲ占領スル連合國主要司令官本部ノ近傍ニ設置セラルベシ東京ニ置カルベキ中央機關ハ一九四五年八月三十一日一八〇〇時迄ニ機能ヲ發揮シ得ルモノタルベシ」とあり、これに基づき設置されたものである。その官制は、同月二十六日に敕令第四百九十六號として公布され即日施行された。この第一條には、設置された機關は外務大臣の所管とし、「大東亞戰爭終結ニ關シ帝國ト戰爭状態ニ在リタル諸外國ノ官憲トノ連絡ニ關スル事項ヲ掌ル」とし、第二條には「終戰連絡事務局ハ終戰連絡中央事務局及終戰連絡地方事務局トス」と規定され、その後の機構と名稱が變更されたものの、ポツダム宣言受諾の直後から桑港條約發效までの非獨立時代において繼續一貫して存續した。それは、占領憲法の施行の前後においても變はることはなかつた。このことからしても、獨立喪失條約を「入口條約」とし、占領憲法を「中間條約」とし、そして、獨立回復條約である桑港條約を「出口條約」とする一連の非獨立時代の長い「非獨立トンネル」での「講和條約群」は、帝國憲法第十三條前段の下で、この「終戰連絡事務所」を政府の窓口とし、一貫して繼續的な機能を果たしてきたのである。つまり、この「中間條約」である占領憲法もまた、この「終戰連絡事務所」を窓口として、GHQに對する政府の窓口として調整を果たしてきたのであつて、このことからしても占領憲法もまた一連の講和條約群の一つであることの證左なのである。

このやうに、對外的には、「終戰連絡事務所」を通じて、我が國は、講和大權に基づいて締結された「入口條約」である獨立喪失條約に基づき、國内的な法制度との整合性を圖らうとする。それは、帝國憲法第八條の「緊急敕令」を基本として法制度の運用がなされるのである。講和條約は、國際法の領域のものであるが、國内法にも影響を及ぼす規範として、國際法と國内法の雙方に跨る法規範であり、國内法のみに適用される法律よりも上位規範であるから、講和條約の履行については、その下位規範である「法律」によることになる。しかし、「法律」は帝國議會によつて定立される規範であるために即應性、緊急性に缺けることから、帝國憲法第八條に基づき、法律に代はる「緊急敕令」に基づくことになつたのである。

帝國憲法第八條第一項には、「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル爲緊急ノ必要ニ由リ帝國議會閉會ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ敕令ヲ發ス」とあり、また、同條第二項には「此ノ敕令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出スヘシ若議會ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ將來ニ向テ其ノ效力ヲ失フコトヲ公布スヘシ」とあることから、緊急敕令であれば、GHQから入口條約に基づき矢繼ぎ早に出される命令に對して相應的かつ緊急的に對應が可能であつた。そこで、入口條約の履行のための國内法的對應としては、この「緊急敕令」に基づくことになる。そこで、この趣旨により發令された緊急敕令が、昭和二十年九月二十日に公布(即日施行)された『「ポツダム」宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件』(昭和二十年敕令第五百四十二號)といふ、いはゆる「ポツダム緊急敕令」であつた。

それは、「政府ハ『ポツダム』宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合國最高司令官ノ爲ス要求ニ係ル事項ヲ實施スル爲特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ爲シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」いふものである。

そもそも、『降伏文書』には、「subject to(隷屬)條項」(八項)はもとより、「何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ、一切ノ日本國軍隊及日本國臣民ニ對シ敵對行爲ヲ直ニ終止スルコト、一切ノ船舶、航空機竝ニ軍用及非軍用財産ヲ保存シ、之ガ毀損ヲ防止スルコト、及聯合國最高司令官又ハ其ノ指示ニ基キ、日本國政府ノ諸機關ノ課スベキ一切ノ要求ニ應ズルコトヲ命ズ」(三項)とし、「一切ノ官廳、陸軍及海軍ノ職員ニ對シ、聯合國最高司令官ガ、本降伏實施ノ爲適當ナリト認メテ自ラ發シ又ハ其ノ委任ニ基キ發セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スベキコトヲ命ジ、竝ニ右職員ガ聯合國最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任ニ基キ特ニ任務ヲ解カレザル限リ各自ノ地位ニ留リ且引續キ各自ノ非戰闘的任務ヲ行フコトヲ命ズ」(五項)とされた上、「ポツダム宣言ノ條項ヲ誠實ニ履行スルコト、竝ニ右宣言ヲ實施スル爲聯合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聯合國代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ發シ、且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及其ノ後繼者ノ爲ニ約ス」(六項)とあつて、天皇、政府、官廳職員に對して「直接」に命令できるとする「直接統治」を規定してゐたのである。そして、降伏文書に調印した同日の昭和二十年九月二日にGHQが發令した『指令第一號』の附屬『一般命令第一號』(資料二十六)十二項により、「日本國ノ支配下ニ在ル軍及行政官憲竝ニ私人」に對しては、連合國最高司令官又は他の連合國官憲の發する一切の指示を誠實且つ迅速に遵守すべきことを命じ、若しこれらの指示を遵守するに遲滯があり、又はこれを遵守しないときは、連合國軍官憲及び日本國政府は、嚴重且つ迅速な制裁を加へるものとされてゐた。

しかし、ここでいふ「私人」といふのは、「日本國ノ支配下ニ在ル軍及行政官憲」の「從者」の意味であつて、そのやうな關係のない一般の「臣民」を指すものではない。大東亞戰爭は、我が國と連合國との戰爭であり、我が國が國家として敗れたのであつて、臣民が負けたのではなく、臣民に對する直接強制や直接統治される謂れはないのである。ポツダム宣言第十項に、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は國民として滅亡せしめんとするの意圖を有するものに非ざる」とあり、降伏文書には、「何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ、一切ノ日本國軍隊及日本國臣民ニ對シ敵對行爲ヲ直ニ終止スルコト・・・ヲ命ズ」とあり、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ、本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス。」とあつて、國家機關は隷屬下(subject to)に置かれても、臣民全體までもがGHQの隷屬下に置かれたものではなく、臣民全體に對して直接統治ができることを規定してゐない。ただし、唯一の例外としては、前に述べた降伏文書の三項に、「何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ、一切ノ日本國軍隊及日本國臣民ニ對シ敵對行爲ヲ直ニ終止スルコト・・・ヲ命ズ。」とあり、臣民に對して「直接」に「敵對行爲ヲ直ニ終止スルコト・・・ヲ命」じてゐる點があるが、これは、あくまでも軍事的行爲の終止に限られたものであつて、以後の占領統治において臣民に對する直接統治を正當ならしめる根據とはなりえないのである。

にもかかはらず、臣民に對する直接統治もなし崩し的に實施されるに至つたのである。

このポツダム緊急敕令は、降伏文書に基づくGHQの直接強制と直接制裁(處罰)による「直接統治」方式を極力回避するため、同年九月九日に、マッカーサーが、日本の占領統治(占領管理)についての方針を「間接統治方針」であることを發表したことを根據として、「間接統治」方式に適合する法制度として發令された。ところが、GHQの命令を無條件で傳達し、その命令に違反した場合の罰則について定めた「基本法規(基本敕令)」として制定し、しかも、さらに下位法令(命令)に白地委任することにしたのである。

そして、ポツダム緊急敕令が發令された昭和二十年九月二十日と同日に公布され即日施行された『「ポツダム」宣言受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件施行ニ關スル件』といふ「敕令」(昭和二十年敕令第五百四十三號)の第一項には、「昭和二十年敕令第五百四十二號ニ於テ命令トハ敕令、閣令又ハ省令トス」とあり、同第二項には「前項ノ閣令及省令ニ規定スルコトヲ得ル罰ハ三年以下ノ懲役又ハ禁錮、五千圓以下ノ罰金、科料及拘留トス」とされたのである。

つまり、「ポツダム緊急敕令」は、「政府ハ『ポツダム』宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合國最高司令官ノ爲ス要求ニ係ル事項ヲ實施スル爲特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ爲シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」といふ規定により、政府機關に屬する者のみならず臣民に對してもGHQの命令に違反する行爲を罰則を以て禁止する間接統治方式を採用したのであるが、なし崩し的に、政府を飛び越えてGHQが政府の頭越しに臣民に對しても直接に強制する直接統治方式へと變質させて行つたのである。

このやうな『ポツダム命令』が占領統治中に約五百二十件も發令されたことからしても、『ポツダム緊急敕令』の公布及びこれに基づく『ポツダム命令』は、占領政策の要諦であつたことが頷けるのである。

また、このポツダム緊急敕令は、前に述べたとほり、帝國憲法第八條第二項により「此ノ敕令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出」しなければならないものであつたため、發令から約二か月後の昭和二十年十一月二十七日の第八十九回帝國議會で提出され、承諾議決がなされてゐるものの、これは、降伏文書の「subject to(隷屬)條項」の義務の履行であるから、形式的審議によつて義務的かつ形式的に承諾されたのである。

このやうにして、「形式的」な間接統治の體裁が整へられたものの、降伏文書を擴大解釋して、「實質的」には政府機關及び臣民全體に對する全面的な直接統治の實態を備へて行つたのである。

バーンズ回答

降伏文書の「subject to(隷屬)條項」の源流とされたバーンズ回答の問題點については、ここでまとめて詳細に述べておく必要がある。

まづ、このバーンズ回答といふのは、次のとほり第一段落から第六段落までで構成されてゐる(便宜的に、その冒頭に括弧書きで段落番號を付した。)。

(一) ポツダム宣言ノ條項ハ之ヲ受諾スルモ右宣言ハ天皇ノ國家統治ノ大權ヲ變更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ヲ併セ述ベタル日本國政府ノ通報ニ關シ吾等ノ立場ハ左記ノ通リナリ
(二) 降伏ノ時ヨリ天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ降伏條項ノ實施ノ爲其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル連合軍最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス
(三) 天皇ハ日本國政府及日本帝國大本營ニ對シポツダム宣言ノ諸條項ヲ實施スル爲必要ナル降伏條項署名ノ權限ヲ與ヘ且之ヲ保障スルコトヲ要請セラレ又天皇ハ一切ノ日本國陸・海・空軍官憲及何レノ地域ニ在ルヲ問ハズ右官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ對シ戰闘行爲ヲ終止シ武器ヲ引渡シ及降伏條項實施ノ爲最高司令官ノ要求スルコトアルベキ命令ヲ發スルコトヲ命ズベキモノトス
(四) 日本國政府ハ降伏直後ニ俘虜及被抑留者ヲ連合國船舶ニ速ヤカニ乘船セシメ得ベキ安全ナル地域ニ移送スベキモノトス
(五) 最終的ノ日本國政府ノ形態ハポツダム宣言ニ遵ヒ日本國國民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス
(六) 連合國軍隊ハポツダム宣言ニ掲ゲラレタル諸目的ガ完遂セラルル迄日本國内ニ留マルベシ

この回答の第一段落では、「天皇ノ國家統治ノ大權ヲ變更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」といふ「ポツダム宣言受諾に關する八月十日附日本國政府申入」があつたことを前提としながら、第二段落から第六段落には、これに對する明確な回答がなされてゐないのであつた。明確な回答が回避されたことについて、それが申入の承諾なのか拒否なのかについて政府内で議論が分かれ混亂した。

そして、この議論が、後になつて、占領憲法の效力に關連して、國體護持の申入に對する回答の回避がその「承諾」であると理解して國體の變更を求めたものではないとする見解と、逆に、回答の回避は申し入れの無視であり申入の「拒否」であるとして國體の變更を求めたものであるとする見解とが對立する原型となつた。しかし、バーンズ回答は、國際法體系に屬する規範であるポツダム宣言の解釋資料に過ぎず、この解釋如何によつて國内法體系に屬する規範である國體(規範國體)の變更があつたか否かといふ議論に決着を付けられるはずもなく、このやうな議論の立て方自體が學問的にも極めて輕薄である。國體の變更がなされたか否かを理解するには、帝國憲法の性質と、特に、ポツダム宣言を受諾した權限的根據である帝國憲法第十三條前段の講和大權の性質から考察しなければならないのである。

ところで、バーンズ回答の第五段落を「最終的ノ日本國政府ノ形態ハポツダム宣言ニ遵ヒ日本國國民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス」と翻譯されてゐるが、この「最終的ノ日本國政府ノ形態」といふ部分は、

The ultimate form of goverment of Japan

の譯語である。そして、この「ultimate」を「究極的」と解するか、「最終的」と解するかで見解の相違があるが、この點は、そもそもバーンズ回答を外務省が翻譯して政府内で決定し發表した上でポツダム宣言を受諾してゐることからして、國内的には「最終的」であることが確定してゐる。

しかも、これは、獨立を失ふ寸前のものではあるが、いやしくも獨立を保つてゐたときの政府見解であるから自己解釋權によつて確定した解釋であり、國内法體系の解釋においてこれに異議を唱へることはできないのである。

なほ、この「最終的ノ日本國政府ノ形態」といふ譯文に關して、外務省特別資料部編『日本占領及び管理重要文書集 一卷』(昭和二十四年)十六頁によれば、これが「日本國ノ最終的ノ政治形態」となつてゐるが、昭和二十年九月四日に第八十八回帝國議會で配布された『帝國議會に對する終戰經緯報告書』によれば、この部分は、「最終的の日本國政府の形態」(平假名書き)となつてをり、また、外務省の『終戰史録』によれば、昭和二十年八月二十七日作成の『ポツダム宣言受諾に關する往復文書の説明』には、「最終的ノ日本國政府ノ形態」としてゐる。「政治形態」と「政府形態」とは、その意味が明らかに異なるのである。このやうに政府文書の譯文に齟齬があるが、帝國議會で配布された譯文表現は少なくとも正式なものであつて、これは外務省が當初に翻譯した譯文のはずである。前掲外務省資料が占領憲法制定後の昭和二十四年の編纂であることからして、占領憲法制定の根據を補強するために、外務省が事後的に、「政府形態」とあるのを「政治形態」へと意圖的に改竄した可能性が大きい。それは、後述するとほり、「subject to」を「隷屬」と約さずに「制限の下におかれる」と意圖的に誤譯した外務省の前科からして、そのやうに斷言できる。

また、獨立を奪はれ、GHQの占領下であつた昭和二十一年三月五日の『憲法改正案を指示された敕語』によれば、「朕曩ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本國政治ノ最終ノ形態ハ日本國民ノ自由ニ表明シタル意思ニ依リ決定セラルベキナルニ顧ミ・・・憲法ニ根本的ノ改正ヲ加へ以テ國家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ・・・」とし、獨立時に確定した「最終的ノ日本國『政府』ノ形態」を「日本國『政治』ノ最終ノ形態」と曲筆し、さらに「根本的ノ改正」との表現が附加されてゐる。

つまり、この點に關する譯文は、「最終的ノ日本國政府ノ形態」(昭和二十年八月十二日)、「最終的ノ日本國政府ノ形態」(同月二十七日)、「最終的の日本國政府の形態」(同年九月四日)とされてゐたものが、「日本國政治ノ最終ノ形態」(昭和二十一年三月五日)、「日本國ノ最終的ノ政治形態」(昭和二十四年)と變遷したことになるが、これらの表現の各時期と變遷の經緯を比較檢討すれば、當初の「最終的ノ日本國政府ノ形態」がポツダム宣言受諾時に我が政府が確定させた譯文であることになる。

また、『英米共同宣言』(大西洋憲章)では、國民に「政體」を選擇する權利を認めるのであつて、國民には「國體」を選擇する權利がないことを踏まへて、東郷外相は、昭和二十年八月十五日の樞密院御前會議において、ポツダム宣言は我が國體を人民投票によつて決すべきことを求めてはゐないことを報告し、確認されてゐることからしても、政府は、バーンズ回答の「The ultimate form of goverment of japan」を、國體の變更を受容するかの如き「日本國ノ最終的ノ政治形態」と解釋したのではなく、あくまでも「政體」の變更ないしは「内閣」の變更を受容した意味において「最終的ノ日本國政府ノ形態」として認識したことは確かである。

そもそも、この點に關するバーンズ回答は、ポツダム宣言第十二項の「日本國國民の自由に表明せる意思に從ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立」の意味を解釋補充する趣旨であり、ここにも「政府」とあることから、「政治」ではないことは明らかである。

ところで、前出の非獨立時の占領下における昭和二十一年三月五日の敕語には、これまでの主權國家であつた時點での解釋を變更しうるだけの法的效力はない。この曲筆に關しては、自由黨憲法調査會の特別資料に掲載されてゐる當時の入江敏郎内閣法制局長官の告白により、GHQの壓力とそれに迎合した政府の迎合的な對應による結果であることが明らかとなつてゐる。

また、帝國憲法の規定からしても、この敕語の法令解釋部分には有權解釋としての效力はない。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定する帝國憲法第三條は、二種の意味を宣明したものであり、一は國體的觀念にして一は法理的觀念である。このうち、法理的觀念においては、天皇に對しては何人も總ての法規の適用を迫ることができないといふ法律的無答責かつ政治的無答責を意味するのである(清水澄)。從つて、この敕語において特定の法令解釋がなされたと見られる部分があるからといつて、これを以て、天皇が法規の適用に關する有權的な特定の法的解釋を爲したとして、その效力の有無と優劣を論ずることは、綸言の法的效力の有無を論ふこととなり、帝國憲法第三條に違反することになる。敕語によつて示される御叡意は、その趣旨こそがいのちであり、爭ひのある事項について、特定の者が政治利用のために曲筆することがあつても、その政爭と論爭から聖上をお守りするのが「無答責」の法理的意味なのである。また、假に、占領憲法が憲法として有效であるとすれば、「國政に關する權能を有しない」(占領憲法第四條第一項後段)ことからして、敕語は法令解釋といふ國政に關する有權解釋としての適格がないといふことになる。それゆゑ、占領憲法有效論が占領憲法に關する昭和二十一年三月五日の敕語や占領憲法發布の敕語の内容と表現を以て占領憲法が有效であることの根據とすることは甚だしい自家撞着に陷ることになるのである。

ところで、バーンズ回答において、最大の問題點は、第二段落にあつた。

ポツダム宣言第七項には、「右の如き新秩序が建設せられ、且日本國の戰爭遂行能力が破碎せられたることの確證あるに至る迄は、聯合國の指定すべき日本國領域内の諸地點は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する爲占領せらるべし。」とあり、同第十三項には、「全日本國軍隊の無條件降伏」(unconditional surrender of all the Japanese armed forces)とあつたことから、その占領態樣を政府が照會したところ、その回答(バーンズ回答)の第二段落には、

From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.

とあつた。

ところが、これを外務省は、

「降伏ノ時ヨリ天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ降伏條項ノ實施ノ爲其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル連合軍最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」

と意圖的に誤譯した。

つまり、「subject to」は、「從屬」、「隷屬」、「服從」の意味であつて、「制限の下におかれる」ことではなかつたのである。

そして、それが昭和二十年九月二日の降伏文書に受け繼がれ、

(英文)
The authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander for the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate these terms of surrender.

(邦文)
天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」

となつただけであつて、意圖的な誤譯による我が國政府の致命的なオウン・ゴールにも似た事態へと追ひ込んだ。

「subject to」を外務省ではポツダム宣言の受諾を推し進めて軍部の抵抗を和らげるために殊更に「制限の下」と誤譯し、軍部はこれを「隷屬する」と正確に理解したことから、政府内部の混亂を招いたのである。

しかし、結果的には、占領態樣は、まさに一貫して文字通り「subject to(隷屬)」であり、我が國の自由意志なるものは全くなかつたのである。

しかして、ポツダム宣言の本文では、「有條件降伏」であり、「軍隊の無條件降伏」であつたが、ポツダム宣言の第八項で引用する『カイロ宣言』には「日本國の無條件降伏」となつてゐた。このやうに、不明確なものであつたことから、有條件降伏を求めたポツダム宣言の「無條件承諾」と「subject to(隷屬)」の受容により、「日本國の無條件降伏」へとすり替はつたことになるのである。

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