第一節:不完全獨立

獨立の概念

 とつくにの ちぎりをのりと みまがひて まつりごつやみ はらひしたまへ

 外國の 契り(條約)を法(憲法)と 見紛ひて 政治する闇 祓ひし給へ

我が國は、斯くして桑港條約によつて本土に限つて占領統治から脱却した。それに至るまでの非獨立時代(占領時代)に實施された占領政策は、國體、憲法、政治、言論、文化、傳統、民生、經濟など我が國の全事象において、有無を云はせないGHQによる暴力的な他律的變更と破壞であり、これによつて我が國の戰後體制が構築された。そして、この變更と破壞後の状態(戰後體制)が今もなほ維持繼續してゐることについて、これを結果的にも肯定的に受け入れることは、論理的に云へば、少なからず「暴力容認」の立場に他ならない。政治的な彈壓をなし、政治的自由を否定し檢閲を強行して非民主的、暴力的に構築された占領憲法を頂點とする戰後體制の諸制度は、それまで何もなかつたかの如く臆面もなく自由主義と民主主義を標榜するといふ自己矛盾を犯してゐる。戰後體制は、「目的のためには手段を選ばない。」といふ暴力肯定の論理と、「暴力で構築した占領憲法體制を暴力で轉覆させることは許さない。」といふ手前味噌の二重基準をともに肯定できなければ維持しえないのである。そして、このことを國法學的に考察すると、後に述べるとほり、占領憲法の效力論に歸着することになるが、その前に整理しておかねばならない前提問題がある。それは、我が國は、占領統治から脱却したものの、果たして、これによつて自立・自律の立場の回復、すなはち「獨立」したと云へるのか否か、そもそも「獨立」といふのはどういふものなのか、といふことについて、考察しておく必要がある。

「國家」の概念についても同樣であつたが、國家の本質を明示して定義するといふ演繹法による説明は極めて困難であり、やはり、ここでも「獨立」の本質を明示することは困難である。そこで、「國家」の場合と同じく、「獨立」の屬性を列擧して記述する歸納法による説明によることになる。

そこで、少し觀點を變へて、前にも述べたが、國家といふものが、ミクロからマクロの宇宙との相似性をもつことからして、前に述べたやうな物理學でいふところの、「孤立系」、「閉鎖系」、「開放系」の三つの物理系の分類と比較して、獨立國家とは、このいづれに近いのかといふことを考へてみたい。

鎖國をしてアウタルキー(自給自足經濟)を實現してゐる國家の場合は、貿易による物流や情報の流入がないので孤立系であると思はれるが、貿易などによる國際交流がなされるやうになると、國家は、閉鎖系へ、そして開放系へ變化していくのであらう。特に、現代の國家は、國民も領土も、國際規範も情報も、そして物質もエネルギーも、他國と相互に交換しうる體系であるから「開放系」であると思はれるが、生體が安定した定常状態の「動的平衡」の存在であることからして、國家もまたこれに相似してゐる。國民と領土は、國際規範や情報、物質とエネルギーほどには流動的ではないことから、完全な一律の開放系ではなく、閉鎖系に似てゐる。それゆゑ、獨立國といふのは、國家の同一性を動的平衡を維持して存續する状態であつて、完全な開放系への方向は、動的平衡を失つて獨立をうしなうふ方向となる。國民と領土、規範と情報、それに物流が他國に完全に依存することが獨立の喪失といふ現象であり、その逆が獨立の回復である。

その意味では、自由貿易の名の下に、食料、物資、エネルギーの自給率を低下させることは獨立の喪失方向であり、そのことは、國際規範と情報を他國に依存し從屬することもまた獨立を喪失する方向である。ここでいふ「國際規範」とは、條約によつてもたらされる。つまり、「國内系」と「國際系」とを連結共有する規範は、條約(講和條約を含む)によつて形成され、強國は弱國の法體系に對して、いはば脇腹から條約といふ「合法的な内政干渉」を行ふことになる。

つまり、國際社會において、國家の獨立について考へるとき、それは「國内系」と「國際系」の相關關係を無視しては不可能である。そして、この「國内系」と「國際系」とは、全く別個の理念で支配された別の體系である。前者においては、「法(正義)の支配」が一般であるのに對し、後者は、「暴力(實力)の支配」であり、その相克の歴史が近現代史なのである。

思ふに、我が國は、明治期において幕藩體制を統合した統一國家と變化したが、政治學的には、その後、千島全島、琉球、臺灣、南樺太、韓半島などを併合して、大和民族を中核民族とした廣域多民族國家へとさらに變化し、徐々に民族同化政策を推進させる大融合國家への道を歩み出し、さらに、滿洲帝國との「國家連合關係」を持つに至つた。

ところが、大東亞戰爭の敗北によつて、國家連合が消滅するとともに、廣域多民族國家は「分裂」し、さらに、當初の統一國家も「分斷」したのである。

桑港條約の發效によりわが國は本土だけの獨立を果たしたが、沖繩縣と小笠原諸島、北方領土、竹島の我が領土の一部については一體となつた獨立回復が果たされてゐなかつたので、本土は、分斷國家として獨立したのであつた。そして、沖繩縣や小笠原諸島が返還されても、現在もなほ北方領土と竹島は、實質的には占領統治の繼續として他國の實效支配下に置かれて、わが國は、領土的にも國際法的にも、現在なほ分斷國家のままである。つまり、停戰前の領域を回復した「統一國家」には至つてゐないのである。

本土のみで獨立し、その後に沖繩縣と小笠原諸島が返還復歸したことだけで、獨立の實質的な内容を考察せずに、たゞ抽象的に獨立を論じても全く意味がない。國家といふのは、前にも述べた①恆久的住民、②支配領域、③統治權力(政府)、④對外的獨立といふ屬性を滿たすものでなければならず、このうち、すべては④の對外的獨立(對外主權の不可侵性)に集約される。これが侵害されれば、廣義の外交權によつて原状回復がなされなければ、獨立を保持したことにならず、ひいては獨立國家とは認められない。勿論、廣義の外交權といふのは、平和的外交の外に、交戰權(宣戰權、統帥權、講和權)を含むのであつて、交戰權が認められない占領憲法が憲法として有效であれば、領域侵犯に對する先制的な實力措置を講ずることができないことになり、我が國は獨立した國家であるとは云へないことになる。

そして、我が國が獨立してゐない證左として擧げられるのは、邦人拉致問題と領域(領土、領海、領空)問題の實相からである。分斷國家である我が國が眞の獨立を果たすためには、邦人拉致問題と領域問題に共通する解決の原則がある。それは、「原状回復論」である。①に關して邦人が拉致され、②に關して邦土を侵略されたときは、その侵害を排除して、それ以前の状態(原状)に無條件で回復されなければ對外主權の不可侵性は維持されず、その後の賠償清算をも含む「解決」のための端緒とはなりえないといふ原則のことである。

邦人拉致問題については無條件の原状回復しか對外主權(獨立)の侵害排除はありえないことは當然のことであるが、ここでは、領域問題について觸れることにする。

領域とは、領土、領海、領空のことであるが、このうち、基點となるのは領土問題である。領土が確定すれば領海と領空が確定するからである。しかし、多くの人は、領土にしか關心がない。我が國は舊安保條約と新安保條約によつて、領土内には數多くの米軍の海軍、空軍の基地を提供したが、その基地の領土的面積が全國土面積との比較において比率が少ないと認識した上で獨立したと錯覺するのであらう。しかし、これは、それ以外の國土の間接占領統治が終はつたといふだけで、特定地域を接收して直接占領統治をしてゐたGHQの占領期の態樣と全く變化はない。舊安保條約第三條に基づいて昭和二十七年二月二十八日に調印した『日米行政協定(日本國とアメリカ合衆國との間の安全保障條約第三條に基く行政協定)』や新安保條約第六條に基づいて昭和三十年一月十九日に調印した『日米地位協定(日本國とアメリカ合衆國との間の相互協力及び安全保障條約第六條に基づく施設及び區域竝びに日本國における合衆國軍隊の地位に關する協定)』には、安政五年(1858+660)に締結した安政の五カ國條約を彷彿させるやうな治外法權を含む不平等事項があり、その意味からすれば、我が國は、未だに「半獨立状態」であつて、いまもなほ完全に獨立したとは云へない状態である。つまり、本土ですら、未だに完全に獨立してゐないといふことである。

そして、何よりも多くの人々の錯覺は、領海と領空についてである。米軍基地は、その基地から海と空に無限に廣がつてゐる。領海においても基地提供のために我が國の領有權は制約され、米軍に對しては無害通航權のみならず一切の通航權を許諾してゐる。さらに、領空に至つては、完全に米軍に制空權を制壓されてゐる。つまり、桑港條約と沖繩返還協定によつて回復した領域といふのは、領土と領海の大半部分にとどまり、制空權は未だに回復してゐないのである。雨露を凌げる家を獨立國に喩へれば、我が家は、他人が大手を振つて間借りし、庭の一部と離れも他人が占據し、壁には穴が空き、家人が連れ去られたりすることがあるほど戸締まり不充分で、しかも、屋根が吹き飛ばされた状態のボロ家である。

しかも、これまでの獨立の概念は、專ら政治的獨立であり、本來なら國家經綸の根幹である軍事、財政、經濟における對外主權は、ヤルタ・ポツダム體制を承繼した國連體制、GATT・IMF體制(WTO體制)及びNPT體制などによる連合國の「世界主義」に組み込まれて制約され、眞の獨立にはほど遠い状況にあると云へる。

ともあれ、これらの現實を直視した上で、まづは領域問題の基點となる領土問題に照準を合はせ、桑港條約發效後に顯在化した、千島全島、南樺太、尖閣諸島、竹島などに關して以下に考察してみたい。それによつて、占領統治と領土問題との關連を鳥瞰し、占領憲法と桑港條約の法的性質を考へる上で示唆を與へてくれるはずである。

領土問題の一般基準

まづ、これらを考察するについて前提となることを整理する。まづ、領土の取得については、前に述べたが、「先占」といふ「無主地先占の法理」があり、これは、傳統的な國際法において、領域支配の權原の原始的取得の一つの方法として、ローマ法の無主地先占の法理を類推し、「いかなる國の領域にも屬さない地域は、それを先占する意志を示し實效的に支配すればその國の領域となる。」といふものである。

しかし、我が國は、神話に煙る傳統國家であり、大東亞戰爭までは現在のやうな複雑な領土問題は起こらなかつた。現在の我が國の領土問題といふのは、すべて大東亞戰爭後のことであり、それまでの我が國の領域については、「時效」の法理と「割讓」によつて全て説明がついたのである。

從つて、現在の領土問題の全般については、大東亞戰爭の停戰前後の事情から判斷する必要があり、かつ、主としてそれで充分である。先占といふ歴史的な事情に拘つて、これに左右されることはない。現に、「西サハラはスペインによる植民地化の時點において誰にも屬さない地域(無主地)であつたか」といふ國連總會の質問に對してなされた昭和五十年の「西サハラ事件」における國際司法裁判所の勸告的意見でも、無主地先占が成立する餘地は少ないと判斷されてゐるので、それ以外の取得原因ないしは喪失原因について充分に檢討する必要がある。

これについて參考になるのは、「パルマス島事件」において昭和三年に常設仲裁裁判所のなした判決である。この判決の要旨において、以下の個別的領土問題に關係のある重要な點を列擧すれば以下のとほりである(文獻316)。

①「國家間の關係においては、主權とは獨立を意味する。地域の一部分に關する獨立とは、他のいかなる國家をも排除して、そこにおいて國家の機能を行使する權利である。」

②領域主權は、その結果として、自國領域内において他國とその國民の權利を保護する義務を伴ふ。なぜなら、領域主權を基礎とする空間の配分は「國際法がその擁護者である最低限の保護をすべての場所で諸國民に保證する」といふことを目的とするからである。

③領域主權は、事情に應じた方法でその權限を表示することなしには國家は右の義務を履行することはできないから、「領域主權の繼續的かつ平和的な行使は、權原としては十分に有效である」

④司法制度が完備した國内法では抽象的な所有權を認めることが可能であるが、超國家的な組織に基礎を置かない國際法では領域主權を具體的な表示を伴はない抽象的な權利とみなすことはできない。

⑤地圖が法律上の證據となるために必要な第一の條件は地理學上の正確性であるが、いづれにしても地圖は間接的な指示を與へるだけで、法律文書に付屬する場合を除いて權利の承認または放棄を意味するやうな價値をもつものではない。

⑥隣接性があることを權原とする主張は、實定法上の規則としての存在を證明することはできない。

⑦領域權の行使に對する抗議が行なはれた記録がなければ、主權の表示の平和的な性格は認めなければならない。

千島全島と南樺太

このやうに、領土問題といふのは、總論的に、これまで述べた基準に基づいて檢討しなければならないのであつて、そのことは、各論的な個別の領土問題に共通して當てはまることである。いはゆる北方領土問題についても例外ではなく、これまで述べてきた時系列に從つて、問題の所在を確認してみることにする。

初めに、領有については、國家の成立がどのやうなものであつても國家承繼されることについては先に述べた。それゆゑ、帝政ロシア(露)、ソ連(ソ)、共和制ロシア(ロ)へと變化しても、我が國の領有問題は、歴史的、法律的に連續した一連の問題として認識することになる。

その上で、領域の取得について考察すると、まづ、「先占」の點であるが、これについてはアイヌ民族などによる先住性が認められるために、いづれの國においても先占は成り立たない。それは、西サハラ事件やパルマス島事件の裁判所の意見や判決の基準に照らしても當然である。ところが、この原住民の先住性と、さらに原住民への歴史的な差別問題を以て、我が國の領有を否定することの根據とする言説があるが、これは國内問題と對外主權の問題とを混同するものであつて、明らかに誤つてゐる。先住性と差別性が問題とされるのは、あくまでも「國内問題」なのであつて、それ自體は國内において解決しなければならないことは勿論のことであるが、領域の歸屬の問題は、純粹の「國際問題」、つまり國外主權の問題である。我が國が領有を主張する領域内でのアイヌ問題について、ロシアが領有主張の反論や抗辯とすることは、内政不干渉の原則に違反するし、その逆も同樣である。それゆゑ、領土問題の出發點は、やはり安政の『日露和親條約』であり、それ以前にも以後にもない。この條約は、我が國にとつて不利益な不平等條約であつたが、それでも、千島列島における日露國境を擇捉島と得撫島との間と確定した。その後、明治八年の『樺太・千島交換條約』を締結し、境界不確定であつた樺太における我が國の領有權と得撫島以北の千島列島における帝政ロシアの領有權とを交換した。いはば相互が「割讓」して交換したことにより領土と國境を確定したのである。そして、明治三十八年の『日露講和條約』(ポーツマス條約)により、我が國は、帝政ロシアから南樺太(北緯五十度以南)の領土を永久に割讓を受けることになり、大正十四年の『日ソ基本條約』で、再度『日露講和條約』(ポーツマス條約)の效力を再確認したのである。

ところが、ソ連は、日ソ中立條約に違反し、それをアメリカと共謀してヤルタ密約などの數限りない謀略により北方領土を侵略したが、我が國が受諾したポツダム宣言に引用されたカイロ宣言は成立してをらず無效であり、得撫島以北の千島列島と南樺太の領有を明確に放棄したものでもない。假に、これによつて放棄したと解釋されるとしても、それはあくまでも最終講和までの暫定的なものであり、それは桑港條約によつて最終的に確定するものである。確かに、桑港條約第二條には、「日本國は、千島列島竝びに日本國が千九百五年九月五日のポーツマス條約の結果として主權を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に對するすべての權利、權原及び請求權を放棄する。」とあり、千島列島及び南樺太を放棄するとしたが、その相手國であるソ連は桑港條約に調印しなかつたので、桑港條約第二十五條により、我が國が千島列島(得撫島以北)と南樺太の領有權放棄の效力は發生しない。つまり、同條には、「この條約の適用上、連合國とは、日本國と戰爭していた國又は以前に第二十三條に列記する國の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に當該國がこの條約に署名し且つ之を批准したことを條件とする。・・・」とあるからである。放棄といふのは、單獨行爲、すなはち、相手の承諾を得ずしてできると解されてゐるが、これまで、「放棄」といふ單獨行爲によつて領域の取得原因とする國際法はなかつた。この場合の「放棄」といふのは、實質的には「割讓」といふ領域の取得原因を意味するのであつて、相手國が、桑港條約の當事國とならなかつたことは、假に、我が國が放棄(割讓の申入)をしたとしても、それを豫め拒絶することであるから、我が國の放棄(割讓の申入)は合意に至らずして失效し、撤回されたことになる。といふよりも、ソ連が相手國として調印することを「條件」として放棄するといふ「條件付放棄」であるといふべきであつて、相手國不存在のため、條件不成就により失效してゐるとも解される。それゆゑ、未だに、得撫島以北の千島列島と南樺太は、我が國が領有してゐることになる。

ところが、政府は、これまで、國後、擇捉を除外するなどの紆餘曲折はあつたものの、現在のところは、擇捉島、國後島、色丹島、齒舞諸島の、いはゆる「北方四島」の固有の領土の領有權問題であるとしてゐる。しかし、これは、「固有」といふ「時效」の法理だけに限定して領土問題を矮小化するのは利敵行爲の見解であると云はざるを得ない。「固有」といふのは、安政の『日露和親條約』を基點とする主張であるかのやうであるが、實はさうではない。安政の條約において、擇捉と得撫との間を國境として確定したのであつて、それ以前においても、それが「固有」の領土として確定してゐたか否かは必ずしも明らかではない。それゆゑに國境の確定を條約によつて定めたのである。

そもそも、「固有の領土論」を持ち出すことは、領土問題における敗北を意味する。「固有」といふのは、どこまで遡るのか、有利に援用できる面もあるが、結局のところ、遡れば遡るほど帰属未定地となつて固有の領土を失ふ論理に陥る。領土問題については、時效の論理だけでは不十分であり、國際條約を根據に領土論を展開すべきなのである。

なぜならば、もし、我が國が、領土取得の基點を「固有」といふ歴史、沿革に依據する根據を持ち出すのであれば、ロシアもまた、その歴史的沿革を持ち出してくる。歴史的には、確かにアイヌ民族の先住性は認められても、約三百年前からロシア人がカムチャツカ半島から南下し、毛皮目的のラッコの捕獲などを開始し、安永元年(1772+660)には、千島アイヌとロシア人が衝突してロシア人が島から退去するも、再びロシア人の南下による活動は續いてゐたことからして、得撫島を含め千島列島全域には先住民としてアイヌ人と後住民のロシア人とが混住してゐた事實がある。そして、ロシアとしては、アイヌ人を「自國」の先住民とみなしてこれを國内問題であると主張し、ロシア側もまた「固有」性も持ち出して來ることも可能となるのである。つまり、ロシア人とアイヌ人との混住事實論とアイヌ人自國民論の兩者で、「固有性」を主張することもできる。そうすると、我が政府のいふ「時效の論理」(固有の領土論)の主張も盤石ではなく、早晩崩れてくることになる。そもそも、遠い過去において、どの民族がどの地域において原始的な先住民族であつたかといふことは、科學的に證明されてはゐない。たとへば、北海道アイヌについても、その祖先は、日高海岸に漂流した女神と同所に住んでゐた狼(ホロケウ)との間にできた子供の末裔とするアイヌ傳説があることからしても(更科源蔵)、これは渡來系の混血型民族であり原始的先住性があるとは云へないからである。

また、パルマス島事件の判決要旨にもある「領域主權の繼續的かつ平和的な行使は、權原としては十分に有效である」とする論理からすれば、遲くとも安政の條約以後は、擇捉以南の千島について、「領域主權の繼續的かつ平和的な行使」をしてきたのであつて、その經過事實を以て領域主權の權原とすべきであつて、これは、「時效」に類似した權原の主張として有力なものである。そして、この論理は、千島全島及び南樺太がソ連によつて侵略されて占領されてゐることから、ソ連とその承繼國のロシアの占領は、「平和的な行使」ではないことから、たとへこれからも如何に長期に亘つてロシアが千島全島と南樺太について領域主權を主張し実效支配を繼續してきたとしても、それは、領域の取得の權原とはならないのである。

ところが、政府にはこの論理が理解できず、依然として、「固有の領土」といふ「時效」の主張しかしてゐないのである。そして、我が國は放棄したがソ連が桑港條約に調印してゐないので、ソ連が領有したことにならないから、千島列島(得撫島以北)と南樺太は「歸屬未定地」であるとするのである。敗北したことからくる卑屈さもさることながら、武裝解除を容認し續け、武力による奪還ができない状況で、歸屬が未定となるやうな領土の放棄は、その住民(臣民)の遺棄(棄民)を伴ふものであり、これほど無責任な行爲はないのである。

從つて、我が國は、ロシアとの講和條約を締結する以前に、直ちに、桑港條約第二條の撤回と失效をロシアに對し主張し、千島全島と南樺太の領有權を堂々と主張すべきである。

尖閣諸島

尖閣諸島は、魚釣島、久場島(黄尾嶼)、大正島(久米赤島、赤尾嶼)、北小島、南小島、飛瀬、沖の北岩、沖の南岩でなる島嶼群であるが、この尖閣諸島の領有權問題とは、我が國が「繼續的かつ平和的」に實效支配してゐる尖閣諸島について、昭和四十六年に天然資源が發見されるや、中華民國(臺灣)と中共が突如、自國に領有權があると主張してきた問題のことである。これに對して、政府は、「領有權問題は存在しない」との態度を示してゐることは當然のことではあるが、それは建前だけで、臺灣及び中共に對する毅然とした外交姿勢がとられずに、尖閣諸島に不法上陸する外國人犯罪などに對しても尻込みと腰碎けの對應がなされてゐることから、この問題をより複雜にしてゐる。

しかし、尖閣諸島の領有權が我が國に歸屬してゐることは、前掲パルマス島事件の判決要旨の基準からして明らかであり、それは次の根據に基づく。

それは、まづ、「發見」とそれに引き續く平穩なる「先占」があり、その後も、「領域主權の繼續的かつ平和的な行使」がなされてゐることから、明確な領有權原があることに盡きるのである。

明治政府は、明治五年に琉球王國を廢止して琉球藩を設置し、明治七年の臺灣出兵を經て、明治十二年に、軍隊と警官を派遣して琉球藩の廢止を宣言し、鹿兒島縣に編入して實效支配を確立した。これを「琉球處分」といふが、我が政府は、このころから尖閣諸島に對する領有の意志を持ちはじめた。そして、明治十八年から尖閣諸島の支配状況を再三に亘つて調査し、この島嶼がいづれの國の支配にも屬していないこと、特に清國の支配する痕跡がないことを確認した上で、明治二十八年一月十四日、國標杭を建設して明認することを閣議決定し、それを實施して沖繩縣に編入した。そして、入植が始まり、明治二十九年九月に、島嶼を民間へ三十年間無料貸與をなし、その後は一年契約の有料貸與とし、昭和七年には民間に拂下げをなした。島嶼では、アホウドリの羽毛やグァノ(海鳥糞)を採取したり、海鳥の剥製を製作し、さらに、鰹節の製造などの産業活動が行はれた。特に鰹節の製造は基幹産業となつた。ところが、その後鰹節製造は海外との價格競爭のために經營が惡化し、鰹節工場は閉鎖されて昭和十五年に無人化したが、その後も實效支配は繼續した。

そして、明治二十八年四月十七日、日清戰爭の講和條約である『日清兩國講和條約(下關條約)』(明治二十八年五月十三日敕令)により、「臺灣全島及其ノ附屬島嶼」を「永遠日本國ニ割與ス」として、臺灣と澎湖諸島の割讓を受けたが、この割讓を受けた「附屬島嶼」の中には、我が國が既に領有してゐた尖閣諸島を含まないことは日清雙方の當然の認識であつた。

現在、石垣市役所に保管されてゐる資料には、大正八年の冬、魚釣島に遭難漂着した中華民國の福建省惠安縣の漁民三十一人を石垣村の職員が救出して本國に歸還させたことに對して中華民國駐長崎領事馮冕(ひょう・めん)が贈つた大正九年(中華民國九年)五月二十日付の『感謝状』がある。これによれば、魚釣島のことを「日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島内和洋島」と表記して、中華民國政府としても尖閣諸島が我が國の領有であることを認めてゐた。

その後、大東亞戰爭後において、一時的に、沖繩縣が、本土とは異なつて連合國(アメリカ)の直接的占領統治(直接管理)下に置かれたが、アメリカは、その當初から一貫して尖閣諸島は沖繩縣の一部として直接占領をなした。カイロ宣言(米英中共同聲明)には、「同盟國の目的は、千九百十四年の第一次世界戰爭の開始以後に日本國が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本國から剥奪すること、竝びに滿洲、臺灣及び澎湖島のような日本國が清國人から盜取したすべての地域を中華民國に返還することにある。」とあつたが、これはカイロ宣言自體が不成立のため無效であり、これを引用したポツダム宣言においてもその效力は認められない。しかも、これを前提としても尖閣諸島は返還される領域に含まれてゐない。また、最終講和である桑港條約第二條には、臺灣と澎湖諸島を放棄することとなつてをり、これにも尖閣諸島は含まれてゐない。

大東亞戰爭の末期である昭和二十年三月末から、アメリカ軍は沖繩諸島の各地に上陸を開始し、同年四月一日には沖繩本島に上陸して、皇軍部隊との地上戰を繰り廣げた(沖繩戰)。そして、アメリカ軍は上陸時において、沖繩の占領地軍政機關として琉球列島米國軍政府を設立した。これは、本土に對する原則的な間接占領統治に先立つたもので、アメリカによる沖繩縣に對する直接占領統治の始まりである。これは、まさに「征服」である。アメリカの建國は、インディアンの現住性を否定して「征服」することにあつた。つまり、アメリカは、「征服」を領有權原として建國された國家であり、「征服」の領有權原を否定すると建國自體が否定されることになる。しかし、アメリカは沖繩について、「征服」を領有權原として主張することもできたが、その主張をしなかつた。

そして、我が國が降伏停戰後の昭和二十一年六月二十九日に、GHQは、尖閣諸島を含む沖繩縣その他の領域について、我が國がこれらを領有してゐることを前提として、間接占領統治とは分離される直接占領統治の領域を明確に區分して分離するために『若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに關する覺書』(SCAPIN677)により指令したことに對し、我が政府は、「南西諸島觀」を提出し、その南西諸島一覽表には、赤尾嶼、黄尾嶼、北島、南島、魚釣島の島名を表示して尖閣諸島を沖繩縣に含めて回答し、GHQはこれを承認した。このことにより、GHQは、我が國の實效支配を承繼したことになる。そして、『群島政府組織法』(米國軍政府布令第二十二條)と、琉球政府樹立の根據法である『琉球政府章典』(米國民政府布令第六十八號)、それに、奄美諸島の返還に伴ひ米國の直接占領統治下の琉球列島の地理的境界を再指定する『琉球列島の地理的境界』(米國民政府布告第二十七號)のいづれにおいても、一貫して尖閣諸島を含む沖繩縣を統治區域内に含めて實效支配を繼續してきた。

尖閣諸島の具體的な直接占領統治の態樣としては、昭和二十六年に、久場島と大正島に米海軍の爆撃演習海域が設定され、同時に久場島は特別演習地域に指定された。また、大正島も昭和三十一年四月に演習地域に指定された。久場島は、私人の所有地であつたことから、米國民政府は、昭和三十三年七月、琉球政府を代理人として、該所有者との間で賃貸借契約を結び、賃借料を支拂つた。また、それ以前から、魚釣島他四島についても同私人の所有地であつたことから、賃貸借契約を締結した。

そして、昭和四十七年の『琉球諸島及び大東諸島に關する日本國とアメリカ合衆國との間の協定(沖繩返還協定)』(昭和四十七年條約第二號)でも、返還領域に尖閣諸島は當然に含まれてをり、同協定が合意された際の議事録は、「同協定によつて日本に返還される領域とは、對日平和條約第三條に基づき米國施政下にある領土であつて、米國民政府布告第二十七號に指定される地域である」とされてゐた。これによつて、我が國は、尖閣諸島を含む沖繩縣の實效支配をアメリカから再承繼したのである。

前にも述べたとほり、尖閣諸島を含む沖繩縣は、本土よりも早く連合國(アメリカ)の直接占領統治下に置かれ、最終的には沖繩返還協定によつて返還を受けたのであるから、これは一種の「割讓」であり、これもまた我が國が援用しうる領有權原となる。百歩讓歩したとしても、尖閣諸島は「歸屬係爭地(領有競合地)」といふことになる。これは、明治八年の『樺太・千島交換條約』締結前の樺太が我が國と帝政ロシアとの境界不確定といふ「歸屬係爭地(領有競合地)」であつたのを帝政ロシアの單獨領有として確定させたことと同趣旨の事例である。しかも、尖閣諸島の場合は、樺太の場合のやうに當事國の「合意(條約)による割讓」ではなく、第三國(戰勝國たる連合國)が講和に際して敗戰國の領有地の範圍を「裁定」したことに基づいて確定させたのであるから、當事國間の條約と同等以上の效力を認めなければならない。いはば、「合意による割讓」と連合國の「裁定による割讓」とは、國際法上同等の效力が認められることになる。それゆゑ、この「裁定」に對し、連合國の一員である中華民國(臺灣)とその國家承繼として國連安保理常任理事國の地位を承繼して連合國の一員となつたとする中共は、連合國のなした處分に異議を唱へることはできない。從つて、これによつて連合國による「尖閣諸島處分」は確定したのである。

また、桑港條約の發效日と同日である昭和二十七年四月二十八日の『日華平和條約』を調印した際も、中華民國(臺灣)は、尖閣諸島の領有權に關する異議を出さなかつたし、中共もまた、翌二十八年一月八日の『人民日報』において、尖閣諸島が琉球群島を構成する一部であるとして我が國の領有を認め、その後の中華民國(臺灣)及び中共が發行する地圖にも尖閣諸島は日本領であると明記してゐた。

ところが、尖閣諸島の領域に海底の莫大な埋蔵資源があることが判明するや、昭和四十六年六月十七日の沖繩返還協定の署名を間近に控へた同月十一日に、中華民國(臺灣)は、外交部聲明といふ形式で初めて尖閣諸島の領有權を主張し始め、同年十二月三十日には、中共も同樣に外交部聲明といふ形式で尖閣諸島の領有權を主張し始めた。しかし、このことは、我が國の領有權原に些かの影響ももたらさない。それは、歴史と沿革を根據とするものであるが、我が國としては、これらは時效の抗辯で對抗しうる性質のものであり、前掲パルマス島事件の判決要旨の③④⑤⑥に照らしても何らの根據もないのである。

なほ、このことは、沖繩(琉球)の領有についても同じことが云へる。假に、「琉球處分」は一方的な領有の宣言であり、それ以前の琉球は、我が國と清國との「領有競合地」であるとしても、『下關條約』では、沖繩が我が國の領有であることを前提としてなされたものであり、無效なカイロ宣言においても、「同盟國の目的は、千九百十四年の第一次世界戰爭の開始以後に日本國が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本國から剥奪すること、竝びに滿洲、臺灣及び澎湖島のような日本國が清國人から盜取したすべての地域を中華民國に返還することにある。」とするだけで、琉球處分はその對象とはならず、桑港條約でも問題にはならなかつた。ましてや、沖繩返還協定の前後において、中華民國(臺灣)と中共が尖閣諸島のみの領有問題を提起したことは、「琉球處分」の效力を認めることを前提としてゐるからである。

昭和四十七年五月に外務省情報文化局が作成した『尖閣諸島について』の中に、「中國側が尖閣諸島を自國の領土と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和條約第三條に基づいて米國の施政の下に置かれた地域に同諸島が含まれている事實(昭和二十八年十二月二十五日の米國民政府布告第二十七號により緯度、經度で示されています)に對して、從來なんらの異議をとなえなかったことからも明らかです。のみならず、先に述べましたように、中國側は、東シナ海大陸棚の石油資源の存在が注目されるようになった昭和四十五年(一九七〇年)以後はじめて、同諸島の領有權を問題にし始めたにすぎないのです。現に、臺灣の國防研究院と中國地學研究所が出版した『世界地圖集第一冊東亞諸國』(一九六五年十月初版)、および中華民國の國定教科書『國民中學地理科教科書第四冊』(一九七〇年一月初版)(別添1)においては、尖閣諸島は明らかにわが國の領土として扱われています(これらの地圖集および教科書は、昨年に入ってから中華民國政府により回收され、尖閣諸島を中華民國の領土とした改正版が出版されています)(別添2)。また、北京の地圖出版社が出版した『世界地圖集』(一九五八年十一月出版)(別添3)においても、尖閣諸島は日本の領土としてとり扱われています。」と明記してゐる。

從つて、「琉球處分」は勿論のこと、「尖閣諸島處分」もまた有效であり、領土權問題は存在しないとする我が政府の見解は正當である。

竹島

「竹島(舊名・松島)」とは、東島(女島)と西島(男島)の二つの小島とその周邊に存在する總計三十七の岩礁からなるもので、周圍は斷崖絶壁をなし、東島の南端と頂上に僅かな平坦所がある程度で、湧き水はあるが飮料水や生活用水は雨水に賴らざるを得ず全島に一本の立木もないといふ状況で住環境を滿たさないが、周邊海域は漁場としての價値が高い。そして、その領有權は我が國にもかかはらず、現在、韓國が武裝部隊を常駐させて不法に侵略支配されてゐる島嶼である。現在、韓國と北朝鮮では竹島のことを「獨島」と呼ぶ。

また、現在、韓國が實效支配してゐる「鬱陵島」は、我が國では古では「竹島」、「磯竹島」と呼び、その名稱が錯綜してゐるので、現在の名稱である「竹島」(舊名・松島)と「鬱陵島」(舊名・竹島、磯竹島)として統一して表記することにする。

我が國は、竹島を韓國が不法占據してゐることに對して、この領有權問題の解決のために外交努力を盡くしてきた。特に、昭和二十九年九月二十五日、この問題を國際司法裁判所に付託することを韓國側に提案したが、韓國政府がこれに應じなかつたのである。このことは、韓國がその領有權原の薄弱さを自覺してゐることを示す事情ではあるが、この問題は、歴史的に見ても鬱陵島の領有權と關連するものであことから、鬱陵島と竹島の兩島の領有權原について一括して考察する必要がある。そこで、まづは、その前提として、兩島の歴史的な名稱の變遷との關係で、領有の對象となる島の特定から始めることにする。

韓國側が根據とする史料から檢討すると、まづ、韓半島の最古の史料である高麗時代の久安元年(1145+660)に書かれた『三國史記』の「卷四 智證麻于十三年夏六月條」に、「于山國征服、歳以土宜爲貢、于國國、在溟州東海島、或名鬱陵島」といふ記載がある。智證麻于十三年といふのは、皇紀千百七十二年(512+660)のことであつて、それによると、服從して朝貢してきた「于山國」といふ國が東海にあり、別名を鬱陵島といふのである。韓國側は、于山國が服從して朝貢してきたことを以て、于山國の支配する竹島(獨島)が韓國領になつたと主張するが、それは荒唐無稽に他ならない。六百三十三年も前のことを記述したものであり、そのどこにも現在の竹島の領有に關する記述がない。むしろ、それは鬱陵島の別名であることからして、人の住めない竹島(獨島)から朝貢に來るはずもないからである。

これと同樣に、『三國史記』から約百年後に書かれた『三國遺事』には「于陵島」、應永二十四年(1417++660)の『太宗實録』には「于山島」、享德元年(1452+660)の『高麗史地理志』(卷五十八)には「于山國」、「武陵」、「于陵」、享德三年の『世宗實録(地理志 江原道襄陽縣)』には「于山、武陵二島」といふ人の住む島の樣子が書かれてゐるのであり、それ以後に書かれた史料にも同樣に「于山島」、「鬱島」など樣々な島名が登場するが、いづれもこれらは竹島(獨島)には該當しない。特に、韓國側が引用する享祿三年(1530+660)に發行された『八道總圖』によれば、「鬱陵島」の西に「于山島」といふ鬱陵島と同じ程度の大きさの島の表示があり、これが竹島(獨島)であると韓國側は主張するが、竹島(獨島)は鬱陵島の南東にあり、しかも、鬱陵島の千分の三しかないので、これが竹島でないことは明らかである。最近では、この東西の位置關係を逆にした捏造地圖まで作成してプロパガンダを續けてゐるが、まさに噴飯ものである。

また、さらに、文政五年(1822+660)の『海左全圖』や明治三十三年(1900+660)の『大韓帝國敕令第四十一號』に「竹島」と表記されてゐるものがあるが、これは、鬱陵島の數キロ東方にある屬島であり、これが竹島(獨島)でないことは明らかである。

このやうに、竹島の領有問題については、鬱陵島の歴史と密接なものがある。特に、支那との從屬關係を持たない韓民族の獨立國家である高麗を宗主國としてその屬國(附庸國)となつた于山國(鬱陵島)は、その高麗の臣下であつた李成桂が主殺しの下克上により高麗を滅ぼして明の屬國と成り下がつた「李氏朝鮮」に對する抵抗があつたため、李氏朝鮮は、鬱陵島が高麗再興派や倭寇の根據地となる事を恐れてこの島への渡航を禁止し無人島化する政策(空島政策)を永享十年(1438+660)から明治十四年(1881+660)まで實施した。この渡航禁止と無人島政策は、それまで李氏朝鮮の有してゐた鬱陵島に對する領有權の放棄と認定しうる餘地があつた。

そして、我が國の鬱陵島との關はりは、大谷家文書や村川家文書などによると、江戸時代の初期、伯耆國(現・鳥取縣)米子の海運業者大谷甚吉が、航海中に暴風に遭つて鬱陵島に漂着したことから始まる。大谷甚吉と村川市兵衞は、新しい無人島の發見をしたとして、歸國後の元和四年(1618+660)に德川幕府に報告して鬱陵島(當時は、これを竹島、磯竹島と呼んだ)への渡航許可を受け、アシカ獵やアワビの採取、木材の伐採などのために、大谷家と村川家とが交替にて毎年渡島した。その渡島の航路は、隱岐島から竹島(舊名・松島)を經由して鬱陵島へ至るものであり、それが七十八年間も續いたとされ、竹島の渡航許可についても明暦二年(1656+660)に出された記録もあることから、遲くともその頃には鬱陵島と竹島の兩島に大谷家と村川家の經營基盤が建設され實效支配が確立してゐたことが明らかである。

そして、その間の元祿六年(1693+660)四月十七日、大谷家の獵師達が鬱陵島で漁をしてゐると、安龍福と朴於屯らが遭遇したことから、日本領である鬱陵島の領海侵犯者として二人を捕縛し、隱岐を經由して同月二十七日に米子(鳥取藩)に連行し、取調後に對馬を經由して二人を朝鮮に送還した。

この一連の經緯が原因となり、翌年から日朝間において對馬藩を通じた外交交渉として鬱陵島の領有紛爭が起こつた(竹島一件)。これを「竹島一件」といふのは、あくまでも、その當時「竹島」と呼稱してゐた「鬱陵島」の領有紛爭事件といふ意味で、現在であれば「鬱陵島一件」と呼稱することになる。

德川幕府は、元祿九年(1696+660)一月二十八日、その解決のための方策として、鳥取藩主に對し鬱陵島への渡海を禁止した。ところが、對馬藩が德川幕府の鬱陵島渡海制禁を李氏朝側に傳達する翌年一月までの間である、元祿九年五月末に、先の領海侵犯者の安龍福が隱岐島及び米子に密航してきた。そして、安龍福の密航の顛末が三十二年後の享保十三年(1728+660)に編纂された『肅宗實録』(卷三十、二十二年九月戊寅)には、安龍福が鳥取藩に竹島が朝鮮の領有であることを認めさせたとする記述があり、これに基づいて竹島が韓國の領有であつたとする主張がある。しかし、そもそも鳥取藩が德川幕府を差し置いてそのやうなことができるはずがないし、鳥取藩は對馬藩を經由して行ふところ、鳥取藩主と對馬藩主は參勤交代で江戸に在住してゐるのに城代家老でそのやうな處分ができるはずもなく、安龍福の證言が荒唐無稽の虚言であることは自明のことである。そもそも、鎖國政策の李氏朝鮮においては、國禁を破つた者は死罪であることから、安龍福としては、死罪を免れるために鬱龍島の朝鮮領有を認めさせたと嘘の證言をして自己の功勞を認めさせて助命してもらふ必要があつたし、現に、これによつて安龍福は流罪となるのである。

ところで、『肅宗實録』の記載を檢討すると、これまで指摘したものの外にも不自然で矛盾した記述が枚擧に暇がなく、安龍福が命乞ひのため必死に虚言を弄して事實を捏造したことが窺へるが、さらに、これに韓國側の捏造解釋が加はる。その一例を擧げるとかうである。「松島即子(于)山島」とあり、これが于山島=松島(竹島)韓國領有説の根據とするのであるが、その前にある「倭言吾等本住松島」について、韓國では、これを「倭人はかう言つた。吾らは、本より松島に往く」と解釋するのである。しかし、これは明らかに「住」と「往」とを意圖的にすり替へてゐる。人偏と行人偏とでは文字も意味も異なる。この原文ではあくまでも「住松島」であつて「往松島」ではない。「松島に住んでゐる。」と倭人は言つたと證言してゐることになる。竹島(松島)は人が住めるところではない。それゆゑ、ここでいふ「松島」とは「竹島(獨島)」ではありえない。そもそも、鬱陵島の歸屬を巡つて紛爭があるときに、人の住めない竹島の歸屬について議論することはありえないのである。

このやうに見てくると、鬱陵島の領有問題と竹島の領有問題とは、同時進行的に關連はあるものの、人の住める環境の鬱陵島と、さうでない竹島とでは、その當時では關心が大きく異なつたはずである。

まづ、鬱陵島に關しては、日韓兩國が鎖國政策であるものの、我が國では鬱陵島と竹島に對して渡航許可を出して領有してきたのに對し、李氏朝鮮は、そのやうな許可はしてゐない。李氏朝鮮の渡航禁止と無人島(空島)政策は、領有權放棄と解釋される餘地があり、そのことは、德川幕府が元祿九年(1696+660)に鳥取藩主に對して出した鬱陵島への渡海禁止についても同樣である。そして、幕末になると、吉田松陰、桂小五郎、村田蔵六、久坂玄瑞、高杉晋作と坂本龍馬が鬱陵島(当時・竹島)の開拓計画を練つたことがあつた。特に、坂本龍馬は、大洲藩から借用した蒸気船「いろは丸」で、大坂へ航行した後、下関經由で鬱陵島に回航する豫定であつたが、慶應三年四月二十三日、瀬戸内海の讃岐の箱の岬沖で、紀州藩の明光丸と衝突する海難事故のために沈没したことから実現しなかつた経緯があつた。

從つて、これらを客觀かつ公平に見て、この時點で、鬱陵島は日朝の「歸屬係爭地(領有競合地)」であり、そのままの状態で、日韓併合から桑港條約へと進むのである。

日韓併合によつて我が國の領有となつた韓半島の領域(濟州島、巨文島、韓半島)は、大韓帝國の單獨領有から我が國へと割讓され、鬱陵島については、「歸屬係爭地(領有競合地)」のまま我が國に割讓されたので、それを原状回復するために、連合國の「裁定による割讓」として、桑港條約第二條により「濟州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮」を韓半島の獨立國家に歸屬させることとなつたのである。つまり、鬱陵島については、そのまま原状回復すれば再び「歸屬係爭地(領有競合地)」となることから、これに代へて、韓半島の獨立國家に確定的に歸屬させたといふことである。

さて、竹島については、これまで述べてきた經緯を前提とするものの、その領有問題の法的樣相は異なる。つまり、竹島の領有權原に關しては、およそ次の三つの爭點に要約できる。第一に、いづれが「先占」したか、第二に、我が國が明治三十八年になした竹島編入の有效性について、そして、第三に、連合國の「竹島處分」の解釋について、の三つである。

まづ、第一の「先占」であるが、これについては、「發見」も含めて、これまで詳細に述べてきたとほり、我が國に排他的な單獨の領有權原の根據が存在することは明らかである。

次に、第二の「竹島編入」であるが、これは、明治三十八年一月二十八日、政府が閣議決定で竹島の島根縣への編入を行ひ、同年二月二十二日に島根縣が『島根縣告示第四十號』により、竹島の島根縣編入を公示したことがどのやうな意味を持つかといふことである。

これを國際法的に無效であるとする韓國側の論據は、①明治十年三月二十日の内務省通達に「竹嶋外一嶋」、すなはち「鬱陵島外一島」を朝鮮の領土とするとして「外一島」が「竹島」に該當すること、②明治三十三年十月二十五日の大韓帝國敕令第四十一號により「鬱陵全島と竹島、石島」を大韓帝國の領土とするとしたこと、③「竹島編入」は、日韓併合に至る經緯の中で祕密裏に強制的になされたものであること、などである。

しかし、①の「外一島」も②の「竹島、石島」も、いづれも他の文獻との比較檢討からして、これらは鬱陵島の沖數キロ以内の屬島であり、「竹島」ではない。殘るは、③であるが、これはまづ、祕密裏になされたものではない。告示がなされ新聞報道などで告知されてゐる。また、確かに、竹島編入は、明治三十七年の第一次日韓協約後になされてはゐるが、この協約といふのは、政府が大韓帝國政府に顧問を派遣し大韓帝國の財政と外交の監督をするといふ内容であつて、この時點では大韓帝國は明らかに獨立國であつた。この協約も任意に締結された條約であり、大韓帝國は竹島編入に異議を唱へることのできる立場にあつたが、それを一度も唱へたこともなく、それについて何らの強制も存在しない。現に、大韓帝國の朴齊純外相は、竹島編入後の明治三十八年十月に、同年八月十二日に我が國が大韓帝國を保護下に置く權利を承認して成立した第二次日英同盟第三條を非難して、駐韓イギリス公使と日本公使に抗議してゐることからしても、竹島編入に對して異議を唱へることは當然に可能であつたが、その措置をなさなかつた。

そもそも、竹島編入は、これまで我が國が實效支配してきたことを承認するものであつて、それまで日本人以外の者が一度たりとも竹島を支配した事實はないのである。それゆゑ、江戸時代から竹島編入まで、そしてその後に至るまで、我が國は竹島を實效支配し、その支配態樣においても「領域主權の繼續的かつ平和的な行使」をなしてきたのであるから、これが竹島の領有權原となつてゐることは明らかである。

最後に、第三の、連合國の「竹島處分」の解釋についてであるが、これに關連する紛爭の發端は、GHQの『若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに關する覺書』(SCAPIN677)による領土の範圍及び『日本の漁業及び捕鯨業に認可された區域に關する覺書』(SCAPIN1033)による日本漁船の活動可能領域(マッカーサー・ライン)から竹島が除外されてゐることを根據として、我が國が非獨立の占領下で武裝解除がされ武力による排除ができない状態であることを奇貨として、昭和二十七年一月十八日に韓國大統領李承晩が海洋主權宣言を行ひ、漁船立入禁止線(いはゆる李承晩ライン)を設定して竹島が韓國の支配下にあると一方的に宣言したことで始まつた。

韓國側は、これらを根據とし、桑港條約には竹島を我が國が領有するとは明記してゐないことにより、竹島の領有權原が韓國にあるとする。

しかし、前掲GHQ『覺書(SCAPIN677)』には、「この指令中のいかなる規定もポツダム宣言の第八條に述べられている諸諸島の最終的決定に關する連合國の政策を示すものと解釋されてはならない」とあり、同覺書(SCAPIN1033)には「この認可は、關係地域またはその他どの地域に關しても、日本の管轄權、國際境界線または漁業權についての最終決定に關する連合國側の政策の表明ではない」とあつて、これらの處分が最終的なものではないことが明記されてゐる。現に、小笠原諸島や奄美諸島、琉球諸島もマッカーサー・ラインの外に置かれてゐたが、すべて我が國に返還されてゐるのである。

また、昭和二十四年十一月十四日にアメリカ駐日政治顧問ウイリアム・シーボルトがバターワース國務次官補に充てた電報において、「リアンクール岩(竹島)の再考を勸告する。これらの島への日本の主張は古く、正當なものと思はれる。安全保障の考慮がこの地に氣象及びレーダー局を想定するかもしれない。・・・朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の處分に關し、リアンクール岩(竹島)が我々の提案にかかる第三條において日本に屬するものとして明記されることを提案する。この島に對する日本の領土主張は古く、正當と思はれ、かつ、それを朝鮮沖合の島といふのは困難である。また、アメリカの利害に關係のある問題として、安全保障の考慮からこの島に氣象及びレーダー局を設置することが考へられるかもしれない。」との指摘してゐる。

そして、その趣旨に基づき、桑港條約第三條には、「日本國は、朝鮮の獨立を承認して、濟州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に對するすべての權利、權原及び請求權を放棄する」と規定してゐるのみで、竹島は含まれていないとして、韓國政府はアメリカに對し、昭和二十六年七月十九日、ヤン・ユンチャ駐米大使を以て、日韓併合前から朝鮮の一部であつた竹島に關するすべての權利を昭和二十年八月九日に放棄したことを確認すると書き換へるやうに要望する意見書を提出したが、アメリカは、最終的には、「ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に關しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱はれたことが決してなく、千九百五年ごろから日本の島根縣隱岐支廳の管轄下にあります。かつて朝鮮によつて領土主張がなされたとは思はれません。・・・」と回答してその要求を拒絶し、桑港條約の最終案が確定した。

つまり、桑港條約第三條において、我が國が放棄した領域に竹島が含まれてゐないのは、以上の判斷による連合國の「裁定」によるものであり、その後に韓國が「非平和的」手段を用ゐて不法に實效支配を開始し、現在までそれを繼續してゐるとしても、我が政府が韓國政府に對し、竹島の領域主權を主張し續け、さらに、韓國による實效支配の態樣がさらに強化されることに對しても抗議し續けてゐる限り、竹島に對する韓國の領有權原が永久に形成されることはあり得ない。それは、千島全島と南樺太に對するソ連(共和制ロシア)の不法支配の繼續と同じことである。

このやうにして、竹島が我が國の領土であることは明らかであるが、前述したとほり、これについても「固有の領土論」を持ち出すことは、領土問題における敗北を意味する。つまり、「固有」といふのは、どこまで遡るのか、有利に援用できる面もあるが、結局のところ、遡れば遡るほど帰属未定地となつて固有の領土を失ふ論理に陥る。領土問題については、時效の論理だけでは不十分であり、國際條約を根據に領土論を展開すべきなのである。

もし、固有の領土論を展開するとすれば、鬱陵島や濟州島も韓國の領土ではないことや、對馬が我が國の領土でないまでも結論付けることもできるのである。つまり、鬱陵島は、前述のとほり、高麗國とは別の于山國といふ國であり、濟州島も耽羅國といふ國であつたし、對馬も對馬國といふ國であつたからである。濟州島について附言すれば、濟州島の耽羅國の創世神話を記した『高麗史』によると、こんな話がある。濟州島の中央に聳える漢拏山(ハルラサン)の北麓から創世の三神が三姓穴(サムソンピョル)といふ穴から湧出し、專ら狩獵生活をしてゐたところ、東海の濱に大きな箱が漂流し、その中から、青衣を纏つた三人の處女、それに牛馬と五穀の種が出てきた。その箱の從者は、日本國王の使者として、濟州島の三神に妻が居ないのを憂ひて三處女を遣はしたと告げるなり、雲に乘つて立ち去つた。その後、三神は三處女をそれぞれ妻とし、祭祀を守り、五穀の種を播き、牛馬を放牧して農耕牧畜による國家の基礎を築いたといふのである。これは、我が國の人々が濟州島に移住し、狩獵生活から農耕生活へと導いたことを示してをり、耽羅國(濟州島)は我が國の屬國であるとの解釋も可能となる。このやうに、自國に有利にも不利にもなる不確かな歴史解釋だけを根據に、固有の領土論を展開して領土問題を語ることは避けなければならないといふことである。

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